25日目午前「死生観」~ 死と一体となって、生きる

1ヶ月間の真学校、全講座の集大成とも言える死生観の講座をお届けします。


いさどん:
皆さんは「1ヶ月間の真学校」でたくさんのプレゼンテーションに出会いましたが、最後のプレゼンテーションがこの「死生観」です。これで情報の洪水からやっと解放されるかと思うと、おめでとうございます(笑)。
ただ、私たちが日々を生きるということは、実は情報の洪水です。私たちが1日を生きる時、「どちらへ行くか」という選択を常にしています。人間は常に選択をする生き物です。一日におよそ3000回の選択の機会があると言われています。それが自らの意思であり、自動的にスムーズにいくタイプの人もいれば、どれも迷い、抱え込んで、悩みながらいく人もいます。ただ、どんなに迷っても、明日は来ます。タイムリミットが来れば、それは積み残していくことになるのです。たくさん積み残していく人もいれば、自動焦点のようにスムーズにものごとを選択していく人もいます。そしてどのような選択をしていったのかによって、人生の結果が訪れてくるのです。

積み残しをたくさん持っている人は、きっと重い人生を生きていることでしょう。逆に、自動焦点のようにスムーズに選択できる人は、よく味わっていない分、充実していないかもしれませんね。自らの人生をどのように表現していくかは、それぞれの持っている精神性によって変わってきます。そしてすべての人は、その人にふさわしい人生を送っていきます。その最終章が、「死ぬ」ということです。

生死ではなく、「死生観」ですから、死んで生きると書きます。宇宙の原理は、相似形であり、対向発生であり、すべてのものが陰陽で成り立っています。陰という奥にある見えないものから、陽である現象が現れてきます。私たちが生きている世界から生死を捉えると、生きていることが前提となり、その向こうに死があると捉えられますが、それを客観的に捉えたら、私たちの解釈で言う死の世界の方が、現象世界の元にあるのです。その世界に存在することを、死と言っていいのかどうか。それを、私たちが現象界の側から捉える先にある不毛なところと解釈してしまえば、死の世界とも捉えられるのでしょう。

死という字を分析すると、どのように捉えられるでしょう。
「タ」と「ヒ」。「タ」は分離独立、そして「ヒ」は秘かな始まり ──── つまり、秘かに分離独立して立つ=すべての始まりという意味でもあります。一人の人間が生きて、その終わりを死というとしたら、その生をリセットした次に来るすべての始まりということになります。どちらにしても、「死は始まり」というのが結論ですね。

さて、私たちはどこへ向かって進んでいるのか。カタカムナ的世界観、そして、木の花ファミリーはなぜこの生き方をしているのかについてお話ししたいと思います。

スライド1

いさどん:
「21世紀の死生観」とありますが、21世紀でなくとも、人は生き死にを繰り返しています。生きて死んで終わりではなく、また生まれて生きて死ぬ、そしてまた生まれて生きて死ぬを繰り返していくのです。私たちは、生を単純に捉えると、生きている時には「死にたくない」と思うものです。そこでは、死が恐怖になっているのです。しかし死が恐怖だとしても、私たちは常に死に向かって確実に近付いています。なぜだかわかりますか? ──── そう、明日が来るからです。
もしも僕が10日ほど時を止めたい、と思っても、世界はその思いをまったく聞いてくれません。それは、時が生き物だからです。そして私たちは、その生き物の一部として存在しているからです。時が生き物という解釈は、時が常に循環し、変化変容変態を繰り返す宇宙の基盤となるものであるからです。これは、私たち生命の共通した乗り物とも捉えられます。
この時という乗り物に乗らないものに、私たちはこの世界で出会うことはできません。この世界の中で、すべての存在は固有のサイクルを持ち、時と共にそれぞれのサイクルを刻み、連動し、ひとつの時の上に存在しています。そのサイクルとは、らせん運動です。

皆さんはこの1ヶ月間を通し、農、食、医、経済、環境、防災、そして性など、様々な切り口を通して世界観を学んできましたが、そのすべてが行きつくところが死生観です。

この講座のテーマは、広い世界観で生死を捉えることです。狭い世界観で生死を捉えると、死のイメージは常にブルーなもので、「死にたくない」という発想につながります。しかし、明日は必ずやって来ます。私たちが生を通して時を刻み、1日生きるごとに、確実に死は近付いてくるのです。ところが人は、「死にたくない」という想いに追われ、毎日を生きています。死を意識しないで生きていても、どんどん死は近付いてくる。
では、死が近付かないためにはどうしたらいいのでしょう。生きていると死が近付いてくるのですから ──── そう、生きなければいいのです。生きなければ、死は近付いてきません。しかし今現在生きているものが生きなくなるためには、やはり死が必要です。いずれにしても、私たちは死を避けることはできないのです。
そうであるならば、その絶対避けることのできない死を、私たちが生きていることの証として身近に捉え、仲良くしろとは言いませんが、死というものをよく理解することです。理解して生きるのです。理解して生きるということは、いつでも死を快く迎えられるということ ──── 私たちが生きるということは、死が対向発生の先にあり、常に死と隣り合わせであるのです。ですから、私たちは常に死と一体であるということを理解して生きることが肝要です。

死生観とは、死と生を共に捉えることです。生きることが大切で、希望であり、尊いものであるならば、死ぬこともまた大切なものであり、希望であって、尊いのです。現代の人々は、死と生を区別して捉えています。その捉え方は主観的な人間思考であり、客観性がありません。客観性の奥にはさらに、「客観背後」という視点があります。そこに行きつくには、世界観を広げることです。私たちは、生死というものの奥に、物理性と霊性の意味を絡めながら、さらにその奥(客観背後)にある世界の働きによって生かされていることを知るべきなのです。
「生死」という順で捉えると、まず先に、生まれてくることには、生きることの目的が託されていることになります。なぜ生まれてくるのか。生まれてきて、生きることにも目的があり、そしてその先の、死ぬことにも目的があることになります。死とは、この世界に生まれ出る前の、魂の本住の地へ還っていくことです。
毎日眠ることは、面倒ではありませんか?眠ることも、起きることも、まるで強制されているように感じませんか。僕は、現象世界のプールの中でその不自由さを嘆いています。生きるとは、そういった不自由さの中で生きる心の鍛錬の場です。そこからすると、魂の本住の地というのは安定した場です。そこへ行くと、現象世界に生きていた時の自分をじっくりと振り返って観ることができます。ああだったな、こうだったな、次はこうしよう、と、来世のプランを練っているかもしれないですね。そして「よーし、今度こそは!」と生まれてくるのです(笑)。

ようこ:
おもしろいのが、日本語だと「死生観」というように「死」が先に来るけれど、英語では「the view of life and death」というように「生」が先に来ます。

いさどん:
日本語でも「生死」という言葉がありますから、どこで区切って捉えるかということでしょうが、やはり東洋的捉え方だと「死生観」になるのでしょうし、西洋的捉え方だと「生死観」となるのかもしれないですね。

みかこ:
日本語でも、「生死の境をさまよっている」という時は、生きている側から死の方に向かうという捉え方だから「生死」になるね。でも「死生観」は死をどう捉えるかということ。

いさどん:
「死生観」は、死をどう捉えるかというよりも、生死を超えたところで、生きるとはどういうことか、死ぬとはどういうことかを、冷静に捉えるということでしょう。

めぐちゃん:
東洋は「陰陽」と言うように、まず陰が先にある。

みかこ:
連綿と続く命としての死生観が、自然と身に付いている。

いさどん:
生態系と同じで、私たちが命の循環をどこで区切るかによって、ある時はシマウマだったり、ある時はライオンだったり、ある時は草だったり、微生物だったりする。

エリちゃん:
アメリカのあるコミュニティで暮らしていた時に、初めて日本人の友人ができました。その人はカップルで暮らしていて、いつもケンカをしていたので、ケンカをやめるように伝えると、「私たちはもうずっとこれをやってきているんですよ」と言うのですが、彼らが言っているのは今世だけではなく過去世でもずっとそうやってきたという意味なんです。そういう捉え方があるのかとびっくりしました。

昨年の受講生であるエリちゃんも、1年ぶりにやってきて講座に参加
昨年の受講生であるエリちゃんも、1年ぶりにやってきて講座に参加

いさどん:
魂からケンカしているのでしょうね。出来事の詳細はどうでもよく、日々対立する相手がそこにいるということが生きがいになっている(笑)。けいごくんが理由もないのに不安を感じるというのも、魂から来るもののひとつですね。

スライド2

いさどん:
『「死生観」は多岐にわたる真学校のテーマの中でも、集大成となる根源的なテーマです。私たちが抱える問題の全てが生きていることから発生します。にもかかわらず 「人はなぜ生まれ、なぜ生きるのか、そしてなぜ死ぬのか」といった根本的なことに疑問を持たずに、あるいは曖昧にしたまま、私たちは生きています。』
曖昧にしたまま、問題ごとを抱えている。その問題ごとの原因が何であるかということを追求しない限り、問題ごとが発生し続ける人生になります。

『生命あるものは皆必ず死を迎えます。死について深めることは、生きることの意味を考えることであり、生も死も合わせた連綿と続くこの世界の仕組みを知ることなのです。
世界観を広げ、自らを壮大な宇宙の中の「ひとかけら」としてみていくならば、今まで見えなかった真実が浮かび上がってくるでしょう。』

すべての学びの集大成であり、根源的なテーマであるのが死生観です。我々はなぜ生まれ、なぜ生き、なぜ死ぬのか。一人ひとりにサイクルがあり、一人ひとりに存在する理由があります。誰か聖人が出てきて、生きるとはこうである、と、ざっくり決めることはできないのです。
僕は、ひとつの答えを皆さんに提示しようとしているのではありません。誰もが一人ひとりオリジナルな生き方をし、その中でお互いを活性化しあっていくのが、地球生態系そのものの姿です。人間は、その地球生態系の姿に倣っていくのが大切なのです。僕から観たら不十分と思える人も、一人ひとりの歩みのサイクルがあるのですから、そこを理解し、寄り添うようにしています。その先にある答えが何であるのかがわかっていて皆さんを誘導しているのでもなく、それは未来が教えてくれることです。答えを持って誘導するなどという傲慢なことはしません。
主役は、一人ひとりです。一人ひとりが個性的に、生き生きしながら、大切な死をどのように迎えるかということだと思います。

生きているものは、必ず死を迎えます。生の最終段階である死を深めることは、生きていることの意味を考えることです。例えば学校で勉強をするにしても、何のためにこの学校に入ったのかということが明確でなければ、勉強自体を楽しむことができないでしょう。つまり、生きていることの意味がわからなければ、生きることを楽しむことができないのです。そんな状態では、生きることにより、翻弄される人生になってしまいます。
生きていることの意味がわかるとは、答えがわかっているということとは違います。答えは、先に進んでみていただくものです。人生とは、何かの試験のように答えが決まっているのではなく、その時々で現れる答えをいただきながら、どのように生きていくかなのです。
この連綿と続く生命の仕組みを知ることは、生きながら死ぬことを学ぶこととも言えます。最終的には、この壮大な宇宙のひとかけらとして組み込まれ、私たちは宇宙を存続させている立場に立つのです。それを宇宙の側から観れば、宇宙を運営する立場に立つということになるのです。世界観が広がれば、神と共に、宇宙を運営する側にも立てるのです。

スライド3

いさどん:
私たちは、死を「出発(たびだち)」と呼んでいます。去年、木の花ファミリーの死生観を刺激してくれた出来事がありました。メンバーのきょうこちゃんの子宮頸がんが進行して、何度も危篤状態になりました

私たちはとても複雑な人生を生きていますから、死ぬためには心の掃除というか、整理整頓をする必要があります。次のスライドは、昨年木の花ファミリーで行ったアンケートの冒頭の文章です。皆さんも、アンケートに答えるつもりで聞いてください。

スライド4

スライド5

スライド6

いさどん:
有史以来約3000年間、「王の時代」という、権力が支配する時代がありました。その時代、人々の命は、社会の行く末を握っている権力者のもとにありました。社会を束ねる一部の人たちによって、主役の座が担われていたのです。
その後、宗教の時代が始まり、聖人が現れて、優れた考え方や生き方をモデルとして示すようになりました。それが尊い見本のように捉えられ、人々が生きることは既製品化されていきました。
今僕は、この出発アンケートの文章を読みながら、生きることには様々なかたちがあるということを思っていました。ここに『今の社会において、死生観という概念は一人ひとり違うものです』とありますが、人それぞれが持っている価値観によって、生きることも死ぬことも、受け取り方が違ってきます。それは人の数だけあり、それでいいのです。
ただし、たくさんありますが、それらはすべて、共通する器の中に存在しています。共通する器の中に存在しているのですから、それは個性的ではあっても、バラバラで無秩序なものではいけないのです。そこでは、何かモデルを示してもらわなくても、この世界を正しく認識できていれば、それぞれの個性が尊重され、皆が同じ目的を持って生きることは当然なことになるのです。つまり、そこでは何かに強制されたり、見本に倣うのではなく、そこにいる一つひとつの生命が、自らの気付きによって同じ目的へ協同していくという時代の流れのもとにあるのです。それが21世紀に人々が取るべき生き方につながるのです。

めぐちゃん:
人それぞれ価値観は違うけれど、根底には共通したものがあるということ。以前、よしこちゃんが、ユングの言葉に「元型」 ──── アーキタイプというものがあると教えてくれた。表面的には見えないけれど、根底には人類共通の秘められたパターンを有していると。

いさどん:
それは人類共通とも言えるけれど、さらに生命共通、宇宙共通とも言える。それは、末端の一つひとつによって成り立っている。

みかこ:
前から気になっていたのだけど、「精神」という文字には「神」が入っている。この「神」とは何を表しているのか。

よしこちゃん:
「精神」とは、神のエッセンスという意味なのではないかと思う。人間のような精神活動は、動物にはない。それ自体が神の働きを表している。

みかこ:
精神性の高い犬とか、精神病の猿とか、いないものね(笑)。ということは、「精神病」というのはやはり精神を病んでいるということだね。天と通じる心が分断されている。

いさどん:
それはとてもデリケートで精妙な部分にアクセスしている。そこへアクセスできないがためにそうなっているということは、逆に言うと、そこに戻るためのきっかけとも言える。

エリちゃん:
去年の6月に父が亡くなったのですが、この死生観のプレゼンテーションはとても興味深いです。私にとって、葬儀は喪に服すというよりも、祝福のイメージです。私はアフリカ系アメリカ人ですが、父の葬儀の時には、黒い服を着たい人はもちろん着てもいいのですが、私たちは伝統的なカラフルな衣装を着て歌ったり踊ったりして、誰かが「これはお父さんの卒業式だね」と言っていました。まさにこのプレゼンテーションと同じ感覚です。

いさどん:
木の花でも、出発(たびだち)は「マツリ」です。だから、きょうこちゃんが逝ってくれたらみんなで楽しめたのにね(笑)。

めぐちゃん:
「死」という文字の中には、すべての始まりを表す「ヒ」が入っている。始まりの「ヒ」と分離独立を表す「タ」が、横棒の下にあるということは、まだ表には現れない潜象界にあるということを表している。

いさどん:
めぐちゃんにはぜひ、論文を書いてもらいたいですね。
さて、次のスライドは、出発アンケートの内容です。

スライド7

いさどん:
これは遺書を書くのと同じようなものですね。若い人の場合、変わっていくこともあるでしょうから、折に触れてこのアンケートをとり、一番新しいものを採用するようにします。メンバー一人ひとりがどのような回答をしているのかを見ていくのも面白いですよ。木の花ファミリーとは、こんなことをやっている面白い場所です。

スライド8

いさどん:
死というものは、できればソフトランディングするように穏やかに迎えたいものですが、危惧する心や恐れなど、体中に囚われの鎖をつけてがんじがらめになっている人がたくさんいます。がんじがらめになりながら、それでも「死にたくない」と言うのですから、現代人の心は複雑になったものです。

よしこちゃん:
看護師として働く中で、本人は死にたくても家族がNOという場合があり、その方が不幸だと思っていました。本人は苦しくて「死なせてくれ」と言うのですが、家族は「何とかしてください」と頼み、その人の生死が自分を離れて家族のものになってしまうというパターンがとても多いのです。

いさどん:
僕の母が死ぬ時には、家族は「もう何もしなくていい」という意思だったのですが、その意思を受け取らない医師がいて、意思が合わなかったですね(チーン♪)。こちらがもういいですからと言っても、医師は「我々には立場がありますから」と言うんですよ。

みかこ:
医者の役割が、生かすことだけになってしまっているね。

いさどん:
病院の方針でもあるのでしょう。やればやるほど、病院の経営にとってはプラスになりますから。本人にはそのつもりはなく、医師の使命だというのですが、どことなくベースに、ここまでの治療をしてここまでの成果を上げて、という、患者一人当たりに対する売り上げの基準のようなものが感じられるのです。

みかこ:
きょうこちゃんの場合は、逆に医者の方が諦めていたね。

スライド9

いさどん:
受講申し込みのあった人たちの国の死因を表にしてみました。どこからデータを取るかによって順位は変わってきますので、あくまでも情報の一つです。

スライド10

いさどん:
死ぬ時にはあまり病院などでガタガタせずにサッと逝きたい、という人が多いようです。しかし実はこちらの方が往生際が悪いとも言えます。サッと逝きたいというのは、いろいろ考えてしまってそれが辛いからサッと逝きたいということでしょう。寝込んでもいいという人は、それを味わってもいいということですから、むしろ覚悟があるとも言えるのです。
【選んだ理由】として、1の人たちは「家族に迷惑をかけたくない」と答えていますが、そこが大きな勘違いで、そういう死に方をする人は、実は生きている間に既にたくさん迷惑をかけているのです。

みかこ:
一見、1の方が良さそうに見えるけれど、その回答の奥にある心を観ると、実は家族や自分自身と向き合いたくないからということが観えてくるね。

いさどん:
その下のアンケートからは、死後の世界について若い人の方が信じていることが伺えます。愛知県の学生だけがそうなのかはわかりませんが(笑)。戦後生まれの世代は物理的なことばかりを追いかけてきましたが、若い人たちは死に対してロマンを感じているのかもしれないですね。

『死に関して語り合うことは何となくタブー視されている。親やおばあちゃんがこういっていたからそう思っていたなど、確信の持てるものは何もない。死後の世界を信じていない人でも、形式的なお墓参りや、葬儀はするという結果が出ている。』
日本は仏教の国ですから、葬式やお墓参りをしますが、死後の世界がなければそんなことをする必要もなく、ただ送って終わりでいいはずです。東日本大震災から6年が経って、死んだ孫にランドセルを買っている人がいますが、死後の世界を信じていなければそんなこともしないはずです。現代の人々にとって、そこは極めて曖昧なままの状態になっているのです。それがこの世の中の曖昧さを創り出しているとも言えます。

めぐちゃん:
現代人が死を忌み嫌うのは、戦争で大量殺戮が生まれて、そこで大きく死に対する捉え方を変えられたということもあったのではないでしょうか。

いさどん:
戦争では銃を使いますが、確かに引き金ではありますね。では人間はなぜ戦争をするのかと捉えていくと、そこに人間の性質が観えてきます。なぜ戦争をするのかと言えば、自分の家族を守るためであったり、自分を守るためであったり、生きることが目的なのですが、それが自分に特化した都合の良い考えの下にあるものですから、結果的にそこに死が発生するわけです。

みかこ:
かつて「王の時代」には、王の一存で国が動き、民衆は言われた通りにするしかなかった。王の意識がそのまま世に反映するから、王が守りの姿勢なのか、民を大切にするのかによって、世の中も変わっていった。

いさどん:
「宗教の時代」も、例えばキリスト教の名のもとに十字軍が遠征したり、アフリカではキリスト教の名のもとに植民地化や奴隷制度が浸透していきましたね。現代でも、ジハードの名のもとに自爆テロが行われています。現代文明につながる発想が、6500年前に始まった「王の時代」から続いているのです。

みかこ:
太陽の一螺旋の光のピークの時と、現在の闇のピークでは死生観がガラリと変わっているけれど、その起点が6500年前の王の時代から始まっている。ネイティブアメリカンの死生観は「今日は死ぬのにいい日だ」と言って、自ら旅立つ日を感じ取ったりする。王の時代の前まではそういう死生観が息づいていた。王が恐怖に駆られたり自分の命を長らえたいと思えば、自分を守るために民を戦争に使うという世の中になるけれど、それ以前の時代は、みんなで生きていたんだよ。
アマゾンのある先住民族の、興味深い話がある。その民族は、女の子が平均14歳で妊娠して森の中で出産し、産んだ子を育てるか育てないかを精霊と対話して決め、育てない場合はバナナの葉に包んでシロアリの巣に入れて食べてもらう。生まれたばかりの子を人間ではなく、精霊と捉えている。

いさどん:

それは現代人からしたら残酷なように聞こえるかもしれないけど、聖なる生き方をしているということでもあるね。

めぐちゃん:
それはヤノマミ族ですね。自分たちのコミュニティを神に委ねているということでしょう。人が増えすぎてもコミュニティとしてのバランスが崩れるし、子どもを育てるかどうかの決定権が天にあって、全体を運営してもらっている。

いさどん:
生きることは自分達で所有せず、決定権が自然との対話のもとにある。逆に、人工の世界が進むと、生きることの決定権はすべて人間が握るようになりますね。

スライド11

いさどん:
『曖昧な死生観のままに生きています』
とありますが、私たち人類は、これまでに数え切れないほどの死に出会ってきています。にも拘らず、その死を定義することができず、その都度その都度、それぞれの人生観や人間性や社会的背景などの環境によって様々なことが語られながら、ずっと曖昧なままなのです。曖昧であるということは、多様性の世界で様々な死の捉え方があるということであり、それはそれでいいのですが、その奥に、私たちは生まれてきたら必ず死ぬものであり、その死への旅の途中で出会うものの積み重ねが、最終的に死へと旅立つ時の自らの精神状態を構成するものになっていくという基本だけは押さえておく必要があります。それがないまま、ただ迷い、グルグルと考えた末に生まれてきた意味も分からないまま旅立っていく人がいるから、次に生まれてくる人たちもまた曖昧な状態で生まれてくるのです。しかしよく考えてみると、時代がそういうことを要請していたとも言えますね。

よしこちゃん:
私もそう思います。以前、なぜ死がタブーになっているのかを集中的に考えていた時期がありました。現代は死というものが家から切り離され、病院や施設など人の目から離れた場所に委ねられるようになり、死というものを目にする機会がなくなってしまった。死とは何なのかをリアルに体験せずに、ただ病院から連絡を受けて駆け付けたらもう死んでいる状態で、間が見えないからこそ、死が恐怖になっていったのではないでしょうか。
自分も看護師として働く前は、それこそ死んだ後のおじいさん、おばあさんくらいしか見たことがなかったけれど、勤務した先が、お年寄りが多く、比較的自然に死を迎えるような対応をしている場所で、余計なことをしなければ、人間はとてもスムーズに旅立っていくのだということを目の当たりにしました。だんだん眠る時間が多くなっていき、仏さまの顔になっていくのです。そうすると「ああ、そろそろだな」ということがわかり、ソフトランディングしていく。それを見ていたら、死は怖くもないし、人間の終末の過程というのは余計なことをしなければこういうものなんだ、ということがわかりました。

みかこ:
私の母は1年以上管をつながれて生きていたけれど、それがなければもっと短い期間でそのプロセスを経て、早く死んでいたかもしれないね。

よしこちゃん:
体は自然とそのようになっていきます。低体温になって、一種の冬眠状態のようになっていくんですよ。

いさどん:
きょうこちゃんの場合は、逆にみんなで押しかけていってダジャレを言って笑わせて、本人はソフトランディングしようとしていたのに甦らせちゃった(笑)。

めぐちゃん:
両方でしょうね。そういう関係性を持つことをきょうこちゃん自身が選んだわけでもあるから。

いさどん:
僕には思惑がありました。あなたはまだ使えるのにもったいないだろう、こちらはこちらで覚悟はしているが、逝くなら使い切ってから逝け、まだ死んでる場合じゃないぞ、と。

みかちゃん:
きょうこちゃんのことはいろんな角度から捉えることができる。私はきょうこちゃんはまだ寿命ではないと観ていたから、いさどんのように覚悟はしていなかった。だって精神の遍歴がまだ終わっていないから。

いさどん:
逝こうとするものを縛ってはいけない。その後の魂の旅路のことを考えたらね。

めぐちゃん:
その時点できょうこちゃんの人生はきょうこちゃんのものではなくなっていますね。

いさどん:
その人の人生が個人のものではないというのは、豊かなことですね。情にまみれていては醜いものになりますが。
僕はきょうこちゃんをもったいないから復活させるということと、逝った時にはどうするかということを同時に考えていました。だから棺桶も買ったし、骨壺もとしちゃんに焼いてもらいました(笑)。
この物語には続きがあって、きょうこちゃんは復活したら復活したで、もうあの時のことを忘れてしまって元のきょうこちゃんのクセが出てきています。だからもう、死相がまったくないんですよ。元のきょうこちゃんだから。昨日も「あなたはまた性格の悪いところが出てきたね」と伝えたところです。

スライド12

いさどん:
死とは、昨日から今日、今日から明日へと向かうのと同じことです。人生が充実していれば死も充実し、人生が曇り空かどしゃ降りのように生きていれば、死ぬこともそのようになります。すべて自分次第です。

スライド13

いさどん:
肉体と魂とは、見えるものと見えないものですね。魂は陰ですから、見えない世界につながり、さらにその奥の世界にもつながっています。肉体は生態系の構成要素として三次元宇宙にあり続けます。その両方をつなげているのが人間の体であると言えるでしょう。
人間は精神性を持っていますから、そちらの世界へつながっていますが、動物の場合はどうでしょうか。植物はまさに精霊と対話していますね。特徴は自我がないことです。
死を迎えると、魂はそれぞれに相応しい異次元宇宙へ還っていきますが、相応しい異次元宇宙というのは、地獄から、多次元構造の高次元宇宙まで幅広くあり、その幅広い中から様々な段階の魂が、ひとつの時間と空間の下にある現象界へ降りてきているのです。ですからこの世界で生きているということは、ものすごく多様なものを見ることができる、体験ツアーのようなものです。本当に狭い世界観で晩酌だけを楽しみに生きている人もいれば、宇宙を運営するくらいのスケールの意識で生きている人もいます。
死ぬと、肉体と魂は分離します。生きているということはそれが連動しているということであり、両方を感じて生きることができます。そこでどちらにより偏るかによって、バランスを欠くこともあります。

スライド14

いさどん:
この図の中心にある肉体は、現象界のものです。現象界のもとは、地水火風空です。それらは太陽がもとになって、循環しています。人は地とも、水とも、火とも、風とも、空とも循環して生きています。毎日酸素を取り込んでは、二酸化炭素や水蒸気を排出し、それらを取り込んで地に育まれた植物を食べ、水も飲んで排せつしたり蒸発したり、太陽からもエネルギーを取り入れて熱にして、その熱を排出しています。地球生態系を構成する五大要素「地水火風空」といういのちの循環の中で、肉体というのは3次元世界にあり、魂によって束ねられています。魂が抜けるとそれは一気に分解し、この世界へサーッと還っていくのです。その過程に腐敗があったり、発酵があるということですね。

スライド15

いさどん:
先ほどの地水火風空は、この図で言うと横糸です。これは少し意識したら感じられるものです。ところがこの縦糸が、今の人たちにはわかりません。これは霊的なものですから。現代の人たちはこの縦糸を見失っているものだから、よこしまに流れてしまうのです。
潜象界から常に湧き出してくる元の気=生命力が縦糸となり、横の循環が生まれます。横の循環とは、地水火風空とそこから発生する生命のネットワークです。食べることと排せつすることは、命を自らの中に取り込み、また次へと渡していくことであり、そこを小さく区切って捉えれば弱肉強食の世界にもなります。しかし全体をつなげて観れば、命のバトンタッチです。
このネットワークは、柱が立つことによって全体が正常な位置につきます。しかし柱がないと、バラバラにぐるぐると回って無秩序な状態になります。それぞれの生命に固有の寿命やサイクルがあるということは、それぞれに役割分担をするためにあるのですが、それがてんでバラバラでは連携しません。そして自然界が乱れていくのです。

依正不二(えしょうふに)という言葉があります。人間以外の存在を「依法(えほう)」といい、人間だけを「正法(しょうほう)」とするのは、人間だけがこの仕組みを体系化して理解し、その次元の意識を持ってこの世界に生きることができるからです。人間が高次の意識を持つことで、この世界の不具合を修理していくことができるのです。人間以外の存在は、ただ受け取ることしかできません。

みかこ:
動物は四足で、人間だけが二足歩行なのは、やはり人間は縦の軸を持っているから。動物は四つ足で自然の摂理のままに生きている。その横糸と、縦の糸を統合するのが人間の役割なのだけれど、今の人間にはそれができていない。

いさどん:
人間は縦と横の両方を併せ持っています。それが「ヒト」という存在です。

スライド16

いさどん:
先祖から受け継いできた縦の糸と、魂の輪廻である横の糸が紡がれて、今のあなたがいます。縦の糸を15代さかのぼると、すべての人の先祖はひとつになるそうです。それをさらにさかのぼっていくと生命の始まりになり、さらにさかのぼると宇宙の始まりになります。さらに子孫の方をずっと未来へとたどっていけば、生命の終わり、宇宙の終わりにまで行きつきます。つまり、今の自分というのは、過去の宇宙の始まりから、未来の宇宙の終わりまでを情報として持っているプロセスとしての存在だということです。
縦糸は物理的DNAの流れです。そして横糸は魂の変遷です。今の自分は、過去の自分の人生の結果として、相応しい惑星の配置のもとに降りてきています。そして今世の結果がまた、来世へと反映されていくのです。そしてそのすべての生に、先祖と子孫がいます。その先祖も子孫も最終的には宇宙の始まりと宇宙の終わりという共通に行きつきます。これらのすべてが、宇宙そのものなのです。
その中で私たちは、現在のポジションを、霊的にも、物理的にも共有しています。よく「先祖が大切だ」とか「我が子がかわいい」と言いますが、では前世での先祖はどうなるのか、来世での子はどうするのかと考えたら、身内は世界中どこにでもいるのです。そうすると、私たちはひとつの命であることがわかります。

それでは、カタカムナからこの世界の生死の仕組みを観てみましょう。

スライド17

いさどん:
カタカムナは、人間の智恵の中のひとつの捉え方というよりも、現象界も潜象界も含めたこの宇宙の壮大なドラマを物理的に解析してくれているものですから、人類、特にこれからの人類に対する大きな贈り物であると言えます。ただし、それを学問のように捉えてしまっては、たくさんある切り口の中の一つにしかなりません。
この図はこれまでに何度も見てきましたが、もう一度おさらいをします。私たちが生きるこの現象界は、「見える世界」と「見えない世界」から成っています。目に見える肉体や現象、そして目には見えない思いや心が組み合わさった、陰陽から成る「カタ」の世界です。現代の科学は、この見える世界の中だけで回っています。とても優れたものでありながら、見える世界の中だけに留まっているので、考え方や文化が偏っていき、対立を生んでいます。
その「人工」の世界から「自然循環」になると、見えない世界も含めて循環するようになりますから、現象の世界の奥には、この世界をひとつに貫く法則があり、豊かで美しい多様性ある世界を表現しています。多様性とは拡大して広がるものですが、その無限に拡大して広がっていくダイナミックなこの世界は、実はすべて、一番大本の世界から生まれてきているということを理解したのが「天然循環法」です。見えない世界と見える世界(「ある世界」)という陰陽の背後に、「ない世界」という陰があり、その三層構造によってこの世界が成り立っているのです。これは、カタカムナの世界観があるからこそひも解けたことです。

20世紀までの自然循環の考え方では、人間の行いによってこの世界はいくらでも歪められていきます。今の放射能の問題をどうするのか、今の固定された宗教の概念でイスラム教とキリスト教はいつ調和するのか、いつになったら人々は、すべてはこの宇宙というひとつの枠の中に存在するということを理解するのか。自然循環までの捉え方では、それは永遠に解決されない、とても難しいことでした。
では、この世界のふるさとは一体どこにあるのか。そこで、もうひとつ大きなくくりの「ない世界」までを含めた世界観がなければ、人類は次の時代へ行けないのです。12900年前の光のピークの時代から、太陽の一螺旋の半周を経て、闇のピークを越え、質的転換を起こす時に我々は来ています。だからこそ、今この世界観が必要であり、それが地上に降ろされたのです。
長い間封印されてきたカタカムナを、戦後に出会って最初にひも解いたのは楢崎皐月という人でした。そこから様々な流れがあり、木の花ファミリーはそれを生活に落とすということをしていますが、カタカムナは誰のものでもありません。そしてその奥深さは、これから先へ行くほど深まっていくのだとしたら、誰もがその探求に参加し、深め、表現していくものなのです。それは世界共通のものであり、人類すべてがその世界観の世界を生きていると捉えれば、カタカムナはこれからの人類の進化に生かされることになるでしょう。

その中で、今日は死生観について語っています。このような真理に出会うのも、苦痛を感じるのも喜びを感じるのも、生きていればこそです。何のためにそれを感じているのかというと、その先にはちゃんと死があり、それが終わるとはどういうことなのかというと、質的転換を迎えて次のステージに進むということなのです。
死とは「ある世界」から「ない世界」へと質的転換することですが、現代人は「見える世界」から「見えない世界」へと行くことを死と捉えています。

みかこ:
そこでは質的転換は起きません。

いさどん:
見えると見えないを行ったり来たりしているだけなのです。

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いさどん:
これは、生死の仕組みをみかちゃんが図に表したものです。

みかこ:
この図ではトキ軸が横向きに進んでいます。そのトキ軸に沿い、生きている期間と死んでいる期間を表すトコロ軸がらせんを描きながら進んでいます。見える、見えない、見える、見えない、或いは陰、陽、陰、陽と捉えてもいいですね。

めぐちゃん:
光は電磁波ですが、電磁波が伝搬していく時にもこういう波があります。それぞれの波長の長さがあり、それぞれの振幅という、云わば人生の幅がある。

みかこ:
例えばネズミのサイクル、象のサイクル、微生物のサイクルなど、それぞれに違う。

めぐちゃん:
その波長の長さによって色も変わり、そういうものがその人その人の個性になる。

みかこ:
この図は、誕生、維持、破壊、空を繰り返す宇宙の連なりを表していて、その形が蓮根のように見えることから「蓮根宇宙」とも言います。

いさどん:
蓮根宇宙は、満つれば欠けるこの世の仕組みそのものを表しています。そして蓮根にたくさんの穴があるように、大宇宙の中に無数の中宇宙や小宇宙が存在しています。宇宙が誕生し、拡大していって、意識が統合されていくと再び収縮していって、一点に集約される(蓮根と蓮根のつなぎ目の部分)のですが、そこが「無」であり、潜象界 ──── 即ち「ない世界」です。ここには時がないので、無限とも言えます。そしてそこがまた次の始まりでもあるのです。

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いさどん:
肉体は、自分のものではありません。宇宙の、地球の、生態系の循環の中で、自分という自我を持つ魂が呼び寄せた「縁」なのです。人生でいろいろなものに出会うということは、自身のニーズに周りが応えてくれているということであり、その縁によってすべてが紡がれていきます。この顔立ち、この性質、どこに生まれるのか、どのような家族を持つかということも、すべて自らの魂が引き寄せ、その魂のニーズに応える縁によって紡がれているのです。それはものすごく精妙な世界です。ですから愚痴っていることも、喜んでいることも、すべて縁から成っていくのです。

めぐちゃん:
蓮根も、切ると糸を引きますね。

いさどん:
蓮根が食べたくなったね(笑)。

『生まれてくる目的の一つは魂(霊性)を向上させるためにあります。』
ではなぜ向上させるのかといったら、宇宙は変化変容変態を遂げた結果、進化するために存在しているのであり、退化するという目的はないからです。
遥か昔、神様は光そのものであり、自分を認識することができませんでした。そこで神様は、自分から遠いところに闇を置き、そこから光の方へと戻ってくる道を創りました。光に近付けば近付くほど、それは希望となり、喜びとなります。逆に、遠ざかれば遠ざかるほど、苦しみを体験することになっていくのです。
今、人類は、その闇から光へと帰る過程にいます。そして完全に光へと帰ったら、今度はまた闇へと向かう道を歩み出すのです。その時には、みんなで積極的に苦しみましょう(笑)。そういう時もあるかもしれないということです。

『現象界(自然界)は個に独立したものの生命ネットワークです。従って、個々の生命は自らに偏っています。』
ですから、自然界では偏っていることはOKなのです。その偏りが個性となり、それがネットワークしていけばいいのです。ネットワークせずに独りよがりになると、独りよがりのものたちが作る現象が展開するようになります。そこに不調和が発生して行き詰まるようになっているということは、ネットワークすることが目的であり、そのネットワークを断ち切ると問題が発生するようになっているということです。
ですから、目には見えませんが、私たちには確実にそこに行けるような一方通行の道が用意されているということです。ですから、それを無視してそこに行かなければ、痛みが発生するようになっているのです。何という心憎い配慮でしょうか。

みかこ:
偏っていてくれないと、困るね。偏っているからこそ、光は光、水は水、空気は空気の働きができ、この世界が循環していく。そこで個々が個性を持ち、一度は分断したからこそ、つながる喜びが発生する。つながるとこんなにうまくいくのか、ということが体験できるようになっている。

いさどん:
そういったものの象徴的なものが原爆です。核融合という光の発信元は、我々三次元生命の元となる仕組みです。それを武器として使えばあのような究極の破壊の世界ができるのです。あの仕組みはすべての三次元生命の源であり、聖なるものの根源であるはずなのに、使い方を誤れば破壊の権化と化すのです。

人間の意識が狭い時には、ある村の中で一生を終えることもあります。自分の所属はその生まれた土地にある。それが、世界観がどんどん広がると、日本国、アジアと広がって、それが世界になり、地球になり、21世紀は人類の意識が宇宙にまで広がり、宇宙人として生きる時代がやって来ます。これから、人間が宇宙の運営をどうするかという時代が確実に来るということです。

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いさどん:
死ぬということは、寿命が尽きることです。人間の手の内にあるのは、その与えられた寿命をどう生きるのかということです。人生の中身については、個人の意思が尊重されています。
すべてはその人の裁量の中にありますが、裁量の中にあるにしては、けっこう方向付けがされてもいます。それが何かと言ったら、独りよがりで独善的に生きれば衝突が起き、不調和に生きれば苦痛が発生します。バランスを欠いていれば、必ずそのバランスに相応しく、問題ごとが発生するようになっています。つまり、バランスを整えなければいけないようにものごとが起きてくるのです。私たちの人生に自由を与えているという割には、神様は結構介入していますね。
実は、神様は完璧に介入しています。自由を与えているというのは、神様は自分から遠く離れたところに闇を置き、そこから人間が光の方へと戻ってくる時にどのような過程を経るのか、その振幅の幅については自由が与えられていますが、闇の側から光の方へと戻ってくる道については、完全に一方通行なのです。神様は自由を与えていると言いながら、ものすごく束縛しているでしょう?なぜだかわかりますか。

としみちゃん:
すべて神が創ったものだから。

いさどん:
そうです。この世界はすべて、神様のマスターベーションです。私たちも神様の心の中にあり、神様そのものなのです。神様がぶわーーっと膨らませた心の一部なのですよ。ですから、この世界のあらゆるところに「カ」が遍満し、神の息吹が満つっているのです。それがぐーっと収縮して統合すると、また神様一人の世界です。それをぶわーーっと膨らませたものが多様性に見えるだけで、膨らんだり、収縮したり、これは宇宙の呼吸であり、すべてが神の実体です。
ですから人間の自由というのは、お釈迦様の手のひらの上にいる孫悟空のようなものですね。それが神様と私たちの実体であり、私たちが神様に向かって「あなた」と呼びかけること自体がおかしいのです。私たち自身も、「あなた」の内にある一人だからです。

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いさどん:
この図は、宇宙の誕生から消滅までの神の一呼吸を表したものですが、まさしく目のように見えますね。目は英語で「アイ(eye)」ですね。

みかこ:
目もアイであるし、図の中心にいる自分自身も「アイ(I)」だね。

めぐちゃん:

自分という存在も、相手があればこそですよね。相手、つまり「アイ」の「テ」ということ。

いさどん:
私たちはこの宇宙にあって、自分という狭い枠に囚われていれば、その意識は見える世界の中だけを生きることになりますが、囚われを外せば、物理的には見ることのできないミクロ宇宙もマクロ宇宙も、心で感じられるようになります。

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いさどん:
これは宇宙の中の私たちの立ち位置です。高次の意識になれば、宇宙全体を観測しなくても、居ながらにして宇宙の構造を理解できます。

まったく新しい情報を得る時には、古い情報は自動的に整理されて、捨てられることになります。そうでなければ、新しい情報は入って来ません。その時に、中が整理されないまま新しい情報が入ると、副作用が起きます。薬でも、拒否反応が出たりしますよね。しかし、まったく未知の情報ではなく、ただ忘れていることであれば、思い出して元の自分に戻るだけですから、それまでに持っていたものを捨てることで、むしろ楽になるのです。「忘れる」という漢字は心を亡くすと書きます。損得勘定に走っていると、忘れていくのです。しかし思い出せば、「ああそうだった」と本来の立ち位置に戻れるのです。

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いさどん:

『人間以外の生物は、このつながりから逸脱できない』とありますが、実は人間も逸脱はできないのですよ。では人間はどこで逸脱するのでしょう。人間は、自我を優先することにより、全体がひとつの集合体であることを忘れ、自らの立ち位置を踏み外してしまうのです。
一方自我は、すべてがひとつの集合体であるということを、客観的に観て学習するために、わざわざそこから離れるとも言えます。客観的に観て、さらに客観背後までを認識して、この世界を観ることもできるのです。しかしまた、そこから逸脱するということは、ひとつの集合体であることを忘れてしまい、この世界の調和を乱すようなものにもなります。人間とは諸刃の剣で、悪にも善にもなるのです。
神様がすごいのは、その両方を人間に与えたことです。つまり、「そなたは私である」と言いながら、「そなたは私から限りなく遠いところにいる」という道を与えました。その遠いところから元の光へと戻ってくる道のりが神様の意思で、遠ざかっては元に戻り、また遠ざかっては元に戻るということをくり返しているのです。
そう考えると、「神」という文字は、旧字体で「示」に「申」と書きますが、この世界は神と人間のキャッチボールと言えます。

もう一度、宇宙の構造に戻りましょう。
なぜ、地球があるのか。これから先、人類が宇宙を探査していく時代に、水を発見したり、微生物に出会うことはあるかもしれませんが、この奇妙な「ヒト」という、「ヒ」から「ト」までの要素を持っているような生き物に出会うことができるのかどうか。想像する限り、それは難しいですね。つまりそれは、地球という星が、いかに宇宙の総意で創られた奇跡の星であるかということです。そして「ヒト」というものがいかに宇宙の総意によってこの立ち位置を得ているのかを考えた時、私たちが地球に存在していること、生命であること、ヒトであること、そして自分自身であるということがいかに貴重で尊いことなのかということが観えてきます。
人間は自らの人生を自滅させるような人もいれば、マザー・テレサやガンジーのような聖人としての生き方をする人もいます。自分のことしか考えず、お酒やタバコなどの依存症になっていく人もいれば、自殺する様な人もいるわけです。多様性の世界を表現するための役割だから大丈夫だよ、うつになって生きていてもいいんだよ、と褒めてあげたいような大らかな気持ちにもなりますね。
これから私たちがさらに宇宙を探査し、ある星に辿り着いたら、それは「うつ星」だった。みんなうつで、うつであることがステイタスで、「高次のうつ」なんてものがあったりしてね。そういうの、どう?(笑)
うつだけではなく、そういった多様性の世界をピンからキリまで体験できるのが、地球という星です。そう考えると、地球に生きるとはすごいことだと思いませんか?何があっても、どんなことに出会っても、楽しいという感じがしませんか。そういった捉え方をすれば、生きることと死ぬことは、まるっきり正反対のようなものですが、この星に生きることは、それを両方体験できるのです。皆さんは、その体験ツアーに来ているのですよ。

みかこ:
発生学のことを思い出した。人間は最初に肛門ができて、そこから内臓が順々にできて、頭ができて、最後に脳ができる。だから脳は二次的なものだというのだけれど、脳には松果体という、宇宙を感知するとても大切な部分がある。とても高度なものであるからこそ、先にその他の部分を受け皿として創り、最後に脳を創ったのだと今理解しました。それは、動物の中で人間が最後に創られたことと同じ。高度だからこそ、その最終章に登場した。

脳は潜象界の感受体であり、体は現象界そのものを現している。特に手足は、さらなる現象を生み出していく現象化の働きをする。潜象界から現象界に現れる時には、自動的に質的転換が起こる。それは、脳の右脳は左半身に、左脳は右半身に作用する仕組みと同じで、まさに潜象界と現象界を質的転換しながらIMG_0361行ったり来たりするのと同じ仕組みになっている。同じように、目から入ってきたものは目の奥で焦点を結んで反転し、脳に認識される。つまり、目というのは、潜象界から現れた現象界を感知するための器官なんだよ。脳に直結し、現象界で捉えた像を脳へと送っている。その情報を持って、脳は現象の奥にあるものまで感受できる能力を持っているのだけれど、目が曇っているというのは、まさにそういった真理を探究する心の目が曇っていると言える。目(芽)は、表に現れている部分は少ないけれど、その奥に広がりを持っているものが控えている。まさに氷山の一角だね。

いさどん:
それは依正不二という言葉にも表れています。この世界で人間は、脳の役割を果たし、動物たちは現象化するための役割であるとも捉えられます。人間の目が曇っていると、結果、この世界のすべてが混乱していくのです。

めぐちゃん:
今聞いていて思ったのが、脳の松果体で受けたものが喉で交差して体へといくわけだけれど、まさにその喉で声 ──── 響きを発していますね。

みかこ:
そこに意志が現れる。いさどんがいつも言うのは、語ると現象化するということ。だから声に出すことはとても大事。

いさどん:
「イ」「シ」とは、「示し」の「位置」。体へ行くだけではなく、外にも発せられます。

みかこ:
その中で、松果体で受けたものには、天の意志が示されているんだね。

いさどん:

でも今は上(霊性=潜象界)よりも下(体=現象界)が優先してしまっている。

みかこ:
松果体は宇宙を感受する場所。カタカムナはここの感受性を磨くことを伝えている。

いさどん:

今は思考の主体が損得勘定になっており、そういった思考は下から湧いてきます。しかし本来、生きるとは、「今日は天気がいいから何をしたらよいでしょうか」と、上にお伺いをたてて生きるものなのです。そしてその結果も、先に行ってみていただいていく「いただきます」の姿勢であるべきなのです。

みかこ:
現代人は脳の10%しか使っていないというのは、現象界しか見ていなければ当然のこと。

いさどん:

6500年前から、そういった時代が始まりました。しかし13000年前には松果体優先で生きる人々がいたわけですから、地球46億年の歴史からしたらそんなに遠い話でもないですね。それもサイクルを刻みながら先へ進んでいるのですから、今私たちが物質文明をこれだけ発展させたのも、それを体験して次のサイクルへ行くためのものなのです。ですから、そんなに深く考える必要もないのかもしれないですね。これを経験しなければ、次がないのですから。

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いさどん:

人間が正しく生きるとこの世界が正しく運営されるということは、人間が「ヒ」から「ト」までを理解した「ヒト」になるということです。
人間は、この世界の法則から逸脱することができます。生命ですから、本来この世界の法則から逸脱することはできないはずなのに、できるとはどういうことかと言うと、意識の上で逸脱できるということです。そして、その逸脱の体験を学習することができるのです。
「依法」と「正法」は不二、つまり表裏一体です。依法と正法は、その双方が役割を果たすことによって、この世界を運営しているということです。それを忘れていてはいけません。

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いさどん:
この世界は「成住壊空」の仕組みで成り立っています。この拡大の始まる一点がビッグバンです。ここから世界が広がり、地球上では現象化が進んできました。生命も進化してきました。そしてピークを迎えると、「満つれば欠ける」というように、今度は崩壊に向かっていくのです。「成=誕生」「住=維持」「壊=破壊」と進んでひとつのサイクルが終わると、「空」即ち無になります。図で見ると、この「空」は一点で表されていますが、この点は天であり、無限なる宇宙でもあるのです。この点である瞬間が無限につながり、無限の世界を創っています。つまり、そこではトキも存在しないのです。それは限りなく長い世界であるとも言えるし、「ない世界」ですから一瞬で次の世界に切り替わるとも言えます。

『この世界は、「ある世界(現象界・陽)」と「ない世界(潜象会・陰)」を行ったり来たり(質的転換)しながら循環し、生死を繰り返している』
その天然循環の世界が神様の歩みであるとしたら、この図は神様の呼吸を表してもいます。私たち人類の文明も、同じように呼吸していますね。時代は、神様の呼吸で創られているのです。誕生し、死を迎え、誕生し、死を迎えるという陰陽のサイクルが無限に続いているのです。

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いさどん:
これは村山節さんという人が提唱した、文明周期説に基づいています。今私たちは西洋文明と東洋文明の盛衰が入れ替わる、転換期にいます。転換期だからこそ、こういったことに気付けるのです。そういった切り替え時だからこそ、今話しているようなことを理解し、語れるのであって、もっと前の時代にはそのような視点は持てませんでした。今、様々なターニングポイントが同時に地球上に訪れていますが、私たちがその大転換の時に生きているということはとても重要であり、めぐちゃんが言うように「過去にこんな時代があっただろうか」というくらい稀な時に私たちは集っているということです。
その中でも、こういった仕組みを理解できる場に集っているということはとても貴重なことです。世の中はまだ、銀河の冬至という闇のピークを越えたばかりで、季節で言えばこれから「小寒」「大寒」がやって来るのですから、もっと寒くなります。そういった事実を抜きにして、私たちは松果体を震わせて世界の全容を読み解ける立場にいるのですから、それは時代にとってとても重要な立場に立っているとも言えるのです。

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いさどん:
これからは、宗教のように何か他のものから価値を得ようとするのではなく、自分自身の中に眠っているものを目覚めさせる。そうすることによって、自らが尊きものとなり生きる時代がやってきたのです。

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いさどん:

どの宗教も同じですね。人々の「救われたい」という発想がベースになっているのです。

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いさどん:

この世界に生きるということは、自らが「無」となって宇宙の法の元にあるすべてのものごとをいただきながら、「有」である現象界を生きることです。私たちが生きるこの世界は、無と有が共存しているのです。

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いさどん:

お釈迦様が悟りを得た時、それはとても心地よい境地に至り、お釈迦様は一人でその境地にいつまでも浸っていたい気持ちになりました。しかし、尊き存在の立ち位置は、それではいけないのです。聖なる者として地上に降りたものは、迷える者たちを救わなければなりません。それが聖なる者の本分なのです。ですから神様は旅人に姿を変え、そのことを何度もお釈迦様に伝えました。

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いさどん:
その花とは、既製品ではなく、一人ひとりオリジナルな「個の花」です。

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いさどん:
なぜ「願ってやみません」と書かれているのかというと、そのことの大切さに気付いた者がどんなに高次の意識で投げかけたとしても、結局人間には自由が与えられており、自らがどのような意識で生きていくかは一人ひとりの選択なのです。
そのことの大切に気付き、ぜひその境地に行っていただきたい。この世界はあなたの目覚めにかかっているのですから。

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24日目午後「味噌作り」〜 宇宙の響きを醸す

4日前に仕込んだ糀を使って、今日はいよいよ味噌作り実習。
講師はおなじみ、やすえどん。フランスからやってきてただ今木の花ファミリーに滞在中のニコちゃんとアンケさん親子も参加して、にぎやかな講座となりました。

アンケさんとニコちゃん
アンケさんとニコちゃん

真学校では、座学と実習の両面から微生物について学びを深める機会が多くありますが、味噌作り講座はそのクライマックスとも言えます。

やすえどんによる味噌作り講座
やすえどんによる味噌作り講座

現代はお店に行けば様々な味噌が売られていますが、「本物の味噌」とは、元気で活発な微生物がたくさん住み着いている味噌、つまり「生きた味噌」のことです。
味噌の本当の値打ちは、大豆タンパクをアミノ酸化する過程で増殖する酵素、微生物の働きと機能、これを食することにより、体内に取り入れることにあります。たんぱく質は、体内でアミノ酸化されて初めて吸収されます。熟成された味噌の場合はすでに食べたときにアミノ酸化されていますから、非常に消化が良いのです。熟成中はもちろんのこと、完成した味噌の中でも微生物は生き続けていますので、味噌を食べるということは、大豆タンパクを取ると同時に、多量の微生物タンパク(アミノ酸)を食べることを意味します。味噌の微生物は、胃や腸の中に入ってからも活動を続け、新しい栄養成分の生産や、有害菌の増殖を抑えて免疫機能を高めます。また、腸壁の細胞機能に活力を与えるなど、腸の中をよりよい状態にするために役立っています。
このように味噌は、生きていてこそ価値のある食品なのです。

この中で無数の微生物達がはたらいています!
この中で無数の微生物達がはたらいています!

以下、講師のやすえどんより ───────


 

“宇宙の響きを醸す” 味噌作り講座

1ヶ月間の真学校も終盤を迎え、今回、味噌作り講座が最終実習となりました。
テーマは、「皆んなで作ると楽しい味噌作り♪」です。
そこで、「つくる」と言う言葉を「カタカムナ」の単音の思念で紐解いてみました。
ツ: 個々のものが集まった集合体
ク: 自由、自由にする
ル: 存在を保つ、行為を継続している
各々が、自由に行動する集合体

これは、まさに阿吽(あうん)のことを言っていますね。
阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であり、そこから、それぞれ宇宙の始まりと終わりを表します。多くは「阿吽の呼吸」と用いられ、二人以上が一つの事をする時の微妙なタイミングや気持ちの一致を表します。
「つくる」と言う言葉の中に、なんと奥の深い意味合いがあるのでしょうか。しかも、集合体と言う言葉も出てきています。
とどのつまり、おいしい味噌作りのコツは、皆んなで気持ち良く響き合うと言うことですね♪

味噌玉を一投入魂「エイッ!」

魂しい〜(楽しい〜)

by やすえどん

 

一晩水につけ、朝から釜戸で蒸してやわらかくなった大豆を桶に取り分けます
一晩水につけ、朝から釜戸で蒸してやわらかくなった大豆を桶に取り分けます
そのまま食べてもびっくりするほど甘くておいしい大豆。つまみ食いの手が止まらない。。
そのまま食べてもびっくりするほど甘い大豆 ─── つまみ食いの手が止まらない。。
4日前に受講生が仕込み、2日前にできあがった(出糀/でこうじ)糀
4日前に受講生が仕込んだ糀
4日前に仕込んだ糀を揉みほぐし、大豆とよく混ぜます
糀を揉みほぐし、大豆とよく混ぜます
よく混ざったら大豆を潰してミンチにしていきます
よく混ざったら大豆を潰してミンチにしていきます
ミンチになった大豆をおだんご状に丸め ───
ミンチになった大豆をおだんご状に丸め ───
「エイッ!」と容器に投げ込んでいきます。味噌の糀菌は空気が嫌いなので、こうして空気が入らないようにするのです。
「エイッ!」と容器に投げ込んでいきます。味噌の糀菌は空気が嫌いなので、こうして空気が入らないようにするのです。
味噌を詰め終わったら空気が入らないようラップでぴったりフタをし ──
味噌を詰め終わったら空気が入らないようラップでぴったりフタをし ──
塩を重石として上にのせます
塩を重石として上にのせます

 

味噌は生き物。同じ場所で同じように仕込まれても、その後の環境を微生物たちは敏感に感じ取りながら発酵を進めていきます。半年後〜1年後には、受講生一人ひとりオリジナルな味噌ができていることでしょう。

 

どんな味噌が出来上がるのかは、お楽しみ♪
どんな味噌が出来上がるのかは、お楽しみ♪

 


20日目午前「糀仕込み」〜 命の花を咲かせよう

今日の午前中は、やすえどんによる糀仕込み講座!

やすえどん
やすえどん

こうじ(糀・麹)とは、米、麦、大豆などのようにでんぷんやたんぱく質を含む材料を蒸煮して、これにこうじ菌を繁殖させ、色々な酵素を生成させたものです。このこうじを原料として、酒や味噌、しょう油、御神酒などの加工品ができるのです。今回は、4日後の「味噌作り講座」で使う、味噌用の「糀」を仕込みます。

こうじ菌は「国菌」とも称される日本特有の微生物であり、目に見えないところで日本人の暮らしをずっと支えてきてくれた存在です。

美しい糀の花
美しい糀の花

「神様は宇宙を創造し、そこに人間という種をまいて、一人ひとりの命を花開かせます。今日は私たちが創造主となって、糀の花を咲かせましょう」とやすえどん。以下、やすえどんからのレポートです。


宇宙の響きを醸す こうじ( 糀 )づくり

真学校の生徒さんがこうじづくりを体験しました♪
まず、釜戸小屋にて4拍手👏👏👏👏
心と場を整えます。
始まりは火「ヒ」入れから。薪火の炎の美しいこと!パチパチと響く音も心地良く。さながらここは、異次元空間カマドカフェ⁉︎(笑)

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「カタカムナ」思念
ヒ: 静から動への出発点、ものの始まり

「糀とは高次元のこうじですね。」とは、めぐちゃんの弁。
「まさに‼︎」
眼には見えない糀菌(カビの一種)が培養することによって、蒸したお米に繁殖し、白い菌糸を出して綿状に広がり、美しい花を咲かせるのですから。これは、単に味噌の材料と言えるものではありません。

「カタカムナ」思念
コ: 転がりでる
ウ: 渦、生まれる
シ: 示されるもの
キ: 現象化、発生する
ン: 強める

高次元世界、潜象界より螺旋を描いて現象界に発生するもの。
宇宙物理学「カタカムナ」での紐解きが、講座の会話に花を咲かせてくれました。

by やすえどん

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こうじ菌はかびの一種で、生育の適温は34~37℃、湿度は80~90%です。繁殖条件が満たされますと、菌は発芽して白色の菌糸を出して綿状に広がります。繁殖が進むと酵素が生成され、菌糸内に生成されたものがこうじ全体に広がって浸透していきます。

以下、材料です。

米
米(精米したもの)
大麦または小麦(精麦したもの)ー 今回は小麦を使用しました
大麦または小麦(精麦したもの)ー 今回は小麦を使用しました

小麦は糀菌がつきやすいように、表面を少し削っています。お米と小麦の割合は1:1で、その0.1~0.2%ほどの種こうじを用意します。種こうじは専門店で作られ市販されています。これは、こうじ菌を純粋培養したものに木灰を混ぜて作ったもので、黄緑色でよく乾燥したものがよいです。

種こうじ
種こうじ

一般的に、味噌用の糀はお米だけを使うことが多いのですが、木の花ではいさどんの閃きで麦を使うようになりました。お米だけではなく自分たちで麦も育てていたので、まず材料があったということと、混ぜ合わせることで多様性が生まれ、味に深みが増すのです。

一晩水に浸した米と小麦を、米は蒸す30分前、小麦は1時間前にザルに上げて水を切り、カマドの火にかけ蒸しあげます。

蒸しあがった小麦 ー なんともいい匂い
蒸しあがった小麦 ー なんともいい匂い
小麦を割ってみて、白い芯が残っていなければOK
小麦を割ってみて、白い芯が残っていなければOK

蒸した小麦と米をムシロの上に広げ、菌が死なないように50℃まで冷まします。

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小麦と米が冷めたら、いよいよ種まき開始!糀の花を咲かせましょう♪

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種糀を手に持っていたら「何だかすごくビリビリする」とめぐちゃんとよしこちゃん ー 糀菌のエネルギーが伝わったのでしょう
お米と小麦の畑に種まき
お米と小麦の畑に種まき

種をまき終わったら、ひたすら混ぜ混ぜ。

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よく混ざったら、諸箱に移し糀室へ。保温庫にもろ箱を重ねて入れ、一番上に露防止のためのタオルを乗せて、庫内温度が28~32℃になるように保ちます。

いくつかの諸箱に分け入れ、それぞれを一塊にする
7つの諸箱に分け入れ、それぞれを一塊にする
お風呂場を改造した糀室 ー 壁が黒いのは「くら菌」です
お風呂場を改造した糀室 ー 壁が黒いのは「くら菌」です
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「くら菌」のようなやすえどんと一緒に♡

以後、約半日ごとに菌と対話しながらもみほぐす「手入れ」を行い、2日後に糀室から取り出す「出糀(でこうじ)」をして完成です。

材料が蒸しあがるまでの合間に、カマドカフェにて、1週間ほど前のフリープログラムで仕込んだ御神酒も試飲しました。

美しいピンク色の、黒米御神酒
美しいピンク色の、黒米御神酒
みんなでカンパーイ!!
みんなで「カンパーイ!」
用事があって一時帰宅中のオレンジくんの分も「カンパーイ♪」
用事があって一時帰宅中のオレンジくんの分も「カンパーイ♪」

御神酒は完成間近のいい感じで、「明日にはもう絞れるよ」とやすえどん。明日の午前中はフリープログラムなので、みちよちゃん講師による自力整体講座の後、またまたみんなで御神酒絞りをしにやってくることになりました。

この日の体験を、よしこちゃんは日記に以下のように綴っていました。いさどんのコメントともどもご紹介します。

 


よしこちゃんの日記

今日は糀づくりをしました。まるで神話の世界(=創世)を再現しているような気分になりました。
穀物(乾・種・男性原理)を水(湿・無形・女性性)に浸し、水を含んだ状態になった穀物に火(動・熱・男性原理)を入れ、変成させる(種をまくための土壌となる)。セイロから出した米&小麦はフカフカともり上がり、まるで雲(あるいは島)が湧き出すかのようでした。そこにうぐいす色の種菌を蒔き、上下をひっくり返しながらていねいに混ぜ込みます。
すると!なんてことでしょう!ご機嫌な微生物のマネをしたいさどんの姿がボン!と浮かび、本当に微生物がキャッキャッと言いながら笑っているかのように感じられ、つい私も一緒になって笑ってしまいました。

― いさどんのコメント ―
観えるべきものが観えてきましたね。

それを7つの島に分け 一昼夜と少し寝かすと 花が咲くのですね。
人間が花を咲かすにはずい分時間がかかりますが(笑)

― いさどんのコメント ―
固有のサイクルがあるのです。

微生物時間は限りなく「無い時間」に近いのでしょう。

日常の食を賄う過程に神事を見ることはこれまでありませんでした。日々の生活にそういうものをみいだせることはなんて豊かなことなのでしょう!

― いさどんのコメント ―
そうです。

でも本当は何をやっていても、瞬時瞬時にそれはそこにあり、それを感じるか/感じないか、みいだすか/みいださないか、だけなのかもしれません。
だとすれば、「豊かさ」は常にどこにでも、誰のもとにもあり、あとはその人が見いだすか/見いださないか、ということにすぎないのでしょうね。
潜象界がどこか別の世界にあるのではなく、遍満しているというのは、こういうことなのかもしれないな・・・と、ふと思いました。

― いさどんのコメント ―
かもしれないですか?それを真理というのですよ。

 

ニナが教えてくれたオランダ式バンザイ
ニナが教えてくれたオランダ式バンザイ
「フラーーー!!!」
「フラーーー!!!」

 

 


13日目午後「コンポストトイレの作り方」

13日目の午前中はフリープログラム、午後は「コンポストトイレの作り方」及び「微生物資材の培養」の講座がありました。
今回は、現在ミャンマーで行っているビジネスにコンポストトイレの導入を考えているてんちゃんと、持続可能な暮らしの研究のためにファミリーを来訪中のマレーシアの大学教授スバルナさん夫妻も講座に参加し、熱心に受講されていました。

研究のために来日中のスバルナさん夫妻
研究のために来日中のスバルナさん夫妻

以下、「コンポストトイレの作り方」の講座資料をご紹介します。

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11日目午前「天然循環法 – 農 実習2」〜 ジャガイモ定植

「ジャガイモていしょく」と聞いて思わず「味噌汁は付きますか?」と言ってしまう人もいるかもしれませんが、ジャガイモ定食ではなくジャガイモ定植です。「天然循環法 – 農」の実習第2回目は、春ジャガイモの種芋を畑に植えていく作業体験をしました。

みんなで列になってジャガイモ定植
みんなで列になってジャガイモ定植

以下、講座を担当した畑隊のカトケンより ────

カトケン
カトケン

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3月1日。受講生と畑隊、田んぼ隊のあわせて約20名でジャガイモ定植をしました。受講生たちが種芋を植えやすいように畑にヒモ線を引き、そこに種芋を配りながら、受講生の到着を待ちました。しばらくすると受講生たちが圃場に来てくれ、一緒にジャガイモを植え始めました。農業経験の少ない人が多かったこともあり、最初は慣れない様子もありましたが、時間が経つにつれて一人一人の動きが良くなっていきます。種イモの植える位置もちょうど良いところにおさまっていました。

ジャガイモの種芋
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どんどん動きがスムーズになっていく受講生たち
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合間にみんなでお茶休憩合間にみんなでお茶休憩

太陽の光、緩やかな春風を受け、ともに汗を流し、多くの命の声に耳をかたむけながら作業が進んでいきます。一人一人の意識が自然と高まることで作業の流れが良くなり、こちらが予想していたよりも早くジャガイモ定植が終わりました。
みんなで楽しく植えたジャガイモ。どのような成長を見せてくれるのか楽しみですね。

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3か月後にはきっとおいしいジャガイモが収穫できるね♪

 


ニナからいさどんへのインタビュー ~ これからの人類の進化とは

受講生の一人であるニナは、アムステルダムの大学で文化人類学を専攻している大学院生です。「精神性と持続可能性がどのように関連し、日常の生活の中で実践されているのかを学び、その背後にある哲学への理解を深め、現代の消費社会に対する代替案を提示したい」との目的から3ヶ月間の予定で木の花ファミリーに滞在し、その一環として真学校を受講しています。「受講生の多くが自己改革を目的としている中、社会的な目的を持って参加している二ナの視点が加わることで全体に客観的な捉え方が生まれ、みんなにとってとてもいい刺激になっている」と同じく受講生のめぐちゃん。

ニナは真学校開講前から定期的にいさどんにインタビューをする時間を持っています。真学校も3分の1を過ぎた昨日は、ニナからのこんな質問で始まりました。


ニナ:
いさどんは60歳の時に生前葬をしたと聞きました。それがどのような意味を持つのかを聞きたいです。

いさどん:
それは、物理的にも霊的にもみかちゃんの方が詳しいですよ(笑)。
土星は太陽の周りを1周するのに30年をかけます。それは人の人生にとっても一つの節目となるサイクルを刻んでおり、自分が生まれてから土星が1周する30年の節目を「サターン・リターン」と言います。
僕は30歳の時にお釈迦様に出会い、この生き方に目覚めました。それを実践してきて、40歳からこの生活に入りました。50歳の時の記憶はあまりありませんが、ある程度木の花の基礎ができて、自然療法プログラムや様々な場所で講演などをするようになったのが50歳ごろのことだと思います。
僕の人生は、30歳までは自分のための野心で生きてきました。そして30歳からは、与えられた宿命を実現する人生に入りました。そして60歳になり、その与えられた役割を最も大切なものとして生きるということが、60歳からの使命だと思いました。
だからと言って60歳以降の生き方が変わったかと言うと、僕としては全然変わったとは感じていません。自らの人生の終わりに向かい、完結していこうという意志が働いているだけです。ただ、60歳から明らかに体質は変わり、僕の体は大きくなりました(笑)。そして安定して高止まりしています。霊的にも変化はあるのでしょうけどね。

葬儀をするということは、旅立つ人よりも、送る側の人たちにとって意味があります。ですから、葬儀委員長だったみかちゃんの方が詳しいと思いますよ。ですから、みかちゃんに聞いてみるといいですね。

ニナ:
そうします。送る側にとっての方が意味があるというのは、どうしてですか?

いさどん:
通常の葬儀では、亡くなった人というのは次のステージに向かうだけです。ですから亡くなった人にとっては、葬儀があろうとなかろうとどちらでもいいのですよ。もう新たな方へと向かっているのですから。もしも亡くなった人が自身の葬儀に対してクレームをつけるようなら、それは生きることに対して執着があり過ぎるということですから、霊的には問題な存在です。そう思いませんか?

ニナ:
そうかもしれませんね(笑)。

いさどん:
僕はいつの頃からか、何かの機会があるたびに、自分が死ぬ瞬間をシミュレーションするようになりました。例えば高速道路を走っている時に、交通事故に出会うことをシミュレーションします。大きな病気でもすればそれが原因で死ぬこともあるでしょうが、今のところ僕には病気がないので、現実的に死ぬ可能性のある瞬間を常にシミュレーションしているのです。
その時にいつも僕が大切にしているのは、いかに死を受け入れていくかということです。いかにその現実に抵抗せず、それを越えた先の世界へ積極的に進んでいくか。実際に死んでみなければわかりませんが、僕は、生きている人たちが死んだ僕に対して何をするのかということはほとんど気にすることなく、旅立っていくだろうと思うのです。
残された人たちに対する意識は、生きている間に伝えています。残された人たちともしも霊的に再会するとしたら、死んだ先の世界に、例えば熊が冬眠するような穴があって、そこで休憩しているから後から来る人はそこに集合しよう、と言うかもしれません。そこは銀河旅行の駅のようなものですが、そこで何人の人が一緒に乗れるのかはわかりません。
まあ、これも今そう言っているだけで、実際はどうでもいいことです(笑)。

ニナ:
では、今生きている中で大切なことは一体何ですか?

いさどん:
僕にとって大切なことは、何もありません。あえて言うならば、人類の目覚めです。今の愚かしい悪夢から人々が目覚めることです。ただ、これは神様があえて人間に悪夢を見るように仕組んでいるという可能性もあります。悪夢を見れば見るほど、目が覚めた時に感動があるでしょう?ですからこれは、神の人類に対するプレゼンとか、はたまたいたずらか、どちらかですね。

ニナ:
それはどちらでしょう?(笑)

いさどん:
う~ん、どっちかなあ(笑)。両方かもしれないですね。なぜなら、神さまは楽しむことが最優先だからです。僕はこの神の仕掛けたゲームに、対抗心を持って臨んでいます。「このゲームには負けないよ」と(笑)。ですからそれがプレゼントであろうといたずらであろうと、どちらでもいいのです。
ただし、そのゲームを真剣にやり過ぎると深刻になります。このカラクリがわからない人々は気の毒ですね。

ニナ:
木の花のメンバーたちはそのゲームに対して深刻になっていると思いますか?

いさどん:
深刻ですね(笑)。

ニナ:
確かに昨晩の大人ミーティングで、メンバーたちが深刻になっている感じを受けました。

いさどん:
深刻になるのはいいのですが、深刻になる目的は、それに踊らされるのではなく、そのカラクリを知って、余裕を持って豊かに生きるということです。みんなは固いですね。深刻になった時にこそパフォーマンスをやったり冗談を言って、場をやわらげることです。
ただしそれは、深刻の意味がわかった上でやらなければいけませんね。わからないのにやっては、ただの不真面目ですよ。まあもっとも、僕がいつもそうしているのと同じようにメンバー全員がやり始めたら、メンバーの数だけ僕がいるみたいですから、それはそれで問題ですね(笑)。

ニナ:
コミュニティ全員がいさどんになったところを想像しちゃいました(笑)。

いさどん:
ゾッとするね(笑)。

ニナ:
木の花のメンバーがゴールに向かっていくことについて、どのように考えていますか?

いさどん:
目的地に着くことが目的ではないと、僕は思っています。大切なのは、そのプロセスです。だから大変な道があってもいいのですよ。

今日、「人格を学ぶ講座」の中で、あなたの地球暦を読みましたね。それを読みながら僕は、新人類が現れたな、と思いました。もしくは、これからの人類の可能性に出会ったと思いました。僕が憧れているアメーバのようなね(笑)。

今日、日和(木の花で生まれ育った女の子)が日記を書いて持ってきました。以前彼女が落ち込んでいた時に、日記を書いては時々僕のところに持って来ていたのですが、いつの頃からかやらなくなり、2、3日前に部屋を片付けたら久しぶりにその日記が出てきたのだそうです。それで彼女は、久々に日記を書いてみようと思いました。そしてそれを僕のところに届けました。
それを読んで、僕はとても感動しました。彼女は勉強が苦手で、自分のことをバカだと言っていますが、あんなにもポジティブに人生をエンジョイできる人になったなんて、と。これなら勉強なんかしなくていいね、と思いました。素晴らしいです。(日和の日記については、木の花ファミリーブログをご覧ください。)
そう感じた時に、あなたのことを思い出しました。新人類が生まれてきたな、と。僕は日記の最後にこうコメントを書きました。「日和に出会えて幸せです。」あの日記は、ぜひあなたにも読んでもらいたい。素晴らしいよ。勉強はできなくてもいいんです。

ニナ:
その日記のどこを特に素晴らしいと感じましたか?

いさどん:
彼女は、子どものころからとても明るい子でした。明るいけれどちょっと暴走気味のところもあって、子どもたちの間ではうっとおしがられることもありました。それで他の男の子たちに何となくいじめられるので、僕はいつも日和の味方をしていたんですよ。だから彼女にとって、僕は大事な存在だったでしょうね。しかし彼女自身は、勉強も苦手だし、自分のことをあまり評価していなかったのです。
そして中学校を出て、高校には行かずに2年間を木の花で農作業やお菓子作りをしながら過ごしました。そして外にアルバイトに行くようになり、3ヶ月が経ちます。その中で、彼女がネガティブからポジティブに変化していくプロセスがとても面白いのです。これまでにあったいろいろなことが全部素晴らしいことだったというのですから。まだ若いからそんなにたくさんの物語があるわけではありませんが、何しろ素晴らしい。言葉ではどう表現してよいかわからないので、ぜひ日記を読んでください。
彼女の姿勢は、ここのもっと小さな子どもたちにとってもいい刺激になっています。そして彼女より年上の子たちにとっては、自分の姿勢を見直すいい機会になるだろうと思います。

ニナ:
木の花で育った他の子どもたちにも興味があります。他の子どもたちといさどんとの関係はどのようなものですか?

いさどん:
それは一人ひとり違います。それぞれが独特です。それは大人のメンバーと接するのも同じですよ。どういうことかというと、その人の人柄に応じて接しているということです。こちらの伝えることをサッと理解する人もいれば、時間のかかる人もいます。
僕は一人ひとりとの関係を、プロセスとして捉えています。ですから時に、相手が感じている印象とはギャップがあることがあります。どういうことかと言うと、僕は相手の今の状態を、その人が歩んでいく物語の一部として捉えており、今はこの人には厳しく接することが必要だな、とか、今は甘くしておこう、というようにつなげて観ているのですが、相手はただ厳しくされていると感じている人もいれば、好感を持っている人もいて、受け取り方は様々です。
ですから子どもとの関係がどうかということを、一律に語ることはできません。それは大人との関係も同じことです。いさどんは策略家なんですよ(笑)。

ニナ:
調整しているということですね。

いさどん:
そうですね。その人がいかに大切なものを築いていけるかということのために僕は生きていますから。その中で一人ひとりにはそれぞれのサイクルがありますから接し方もそれぞれに違いますが、相手を大切に思い、愛していることに違いはありません。

ニナ:
ここを離れたメンバーについても興味があります。ここを離れる人は、いい感情を持って離れるとは限らないですよね。

いさどん:
そこは難しいところですね。いい感情とは何なのか、ということです。
離れていく人も、ここのやっていることは大切だということは理解していたからこそ、メンバーになったのだと思います。ところがメンバーでなくなるということは、それを最優先にできなかったということです。
その中で、その人にとっての「旬」が来ていなかったから離れていく人と、旬でありながら離れていく人がいます。後者の方が業が深いです。そして業が深い人ほど自分を否定したくないので、感情としては悪いものを持って離れていきます。旬でなかった人は、感情がどうであるかは別として、また旬が来れば戻ってきます。
僕はどの人に対しても、この道に戻ることはいつでも容認しています。ただし、人によっては無条件に戻ることを許してはいけない場合もあります。その人の性質にふさわしい振り返りがなければなりません。どの人も、メンバーになってから離れるということは、この生き方の大切さをわかった上で離れるということですから、離れていく自分に対する評価は複雑でしょう。自分に対して否定的になることもあれば、木の花に対して否定の矛先を向け、自分自身を肯定しようとする人もいます。それはどちらも、相手の都合の問題です。

今、世の中には様々な人々の価値観があります。それは西暦1000年から2000年にかけた1000年間の拡大の時代の名残です。それが今、2000年を越えて3000年へと向かう1000年が始まり、これまでの拡大の時代から、余分なものをそぎ落として真実に目覚めていく時代に入りました。世界はそのようなサイクルに入ったのですから、この視点は重要です。
そろそろ、こういったメッセージを人類に向けて発信していく必要があります。今はまだ、人類に対する影響はそれほど大きくないかもしれませんが、時が経過していくにつれて、そのメッセージの重要性に人々は気付いていくはずです。そして新しい時代の真理を求める人々が目覚めていくきっかけとなることでしょう。
僕の中ではふっと、今朝そのスイッチが入りました。その証として、今日あなたの地球暦を読んだのだと思います。もともとあなたのような人々は世界にいたのかもしれませんが、僕は初めて出会いました。僕は瞬間的に、あなたのことを宇宙人だと思いました。そう思いながら、自分も宇宙人だった、と思いました(笑)。だから人のことを特別だと思ってはいけませんね。
日和のことは全然宇宙人だとは思っていませんでしたが、夕方に彼女の日記を見て、勉強ができなかったり飛び抜けて優れたところがなくても、人はこんなに美しくなれるということを感じて、感動しました。これからは、何でもないところからそういった美しい人がたくさん現れてくることでしょう。

ニナ:
今日はとても良い流れだったようですね。

いさどん:
こういった生き方を目指して集い、コミュニティを創った木の花の人たちも、一人ひとりはとても一生懸命ですが、もう少し羽目を外してもいいのかな、と思いますね。エンジョイしなくちゃ。彼らはエンジョイするのがヘタですね。僕はエンジョイしてるでしょ?

ニナ:
いさどんのやり方はいい方法ですね(笑)。
日和や私の世代についても考えていました。大きな都市に住む人々にとっては、まだ物質的なものが大切になっていますよね。物質至上主義的な価値観の人々に対して、どのように考えますか?

いさどん:
大都市か田舎かは関係なく、人々は欲望や自我にまみれています。そして欲望や自我にまみれている分だけ、人工的な生き方をしています。お金や物と関わっていても、欲望や自我に翻弄されずにある程度コントロールできている人というのは、自然に近いですね。こういった分類の方が、人々が今の時代の混乱を解決していく方向性をつかむのに適切だろうと思います。

ニナ:
若い世代の人たちにとっては、例えばiphoneは重要なものですよね。

いさどん:
彼らにとっては、iphoneを介したネットワークが脳に直結しているのでしょうね。そこに出てくるいろいろな情報と脳の中の情報が見えないもので連結していて、一種の人工頭脳のような状態になっています。それはある意味、人間の単独の思考回路を越えて、ローカリゼーションからグローバリゼーションになるように、思考がコンピュータの中に入ってたくさんの人々とつながるので、ある意味進化ですね。ところが彼らは、一種の中毒にもなっています。それは人間の人格否定とも言えて、自分らしいオリジナルな人格を否定することになるのではないかとも思います。
それはきっと何らかの形で害が出てくることでしょう。しかしあの中毒状態の人々にやめなさいと言ったところで、意味はありません。それはひとつの時代のプロセスとして、どうなっていくのか興味を持って観ていくことです。彼らは確実に未来の地球を担っていきますからね。

そしてひとつ、彼らの中に可能性を感じるのは、自我が重要だった20世紀までの人類の視点からすると、新しい精神世界を開く可能性があるということです。実際に、今回の真学校参加者の中で最年少であるオレンジくんは、聖者になって人類を導くのだと言っていますね。ただし、自分の価値観を優先して他者と通じ合わなければ聖者とは言えませんから、そこは意識する必要がありますが、いつかは変身するかもしれません。ニナも宇宙人ですが、オレンジくんも宇宙人です。

オレンジくん
オレンジくん

ニナ:
彼は素晴らしい聖者になる可能性がありますよね。ユニークな方が適しているでしょうから。

いさどん:
そうですね。今は変わり者でも、世の中がその方向に進めば「素晴らしい」に変わる可能性があります。

ニナ:
時代は変わるものですが、それはいつ、どのように変わっていくのでしょう?

いさどん:
「人格を学ぶ講座」で、地球暦の惑星配置の構造について学びましたよね。惑星同士が創る角度が個人の人生にどのように関わっているのかということをお話ししましたが、あれは我々の思考で解釈しやすいように、便宜上そうしているだけです。実際は、瞬間瞬間どの角度でも、星々は対話をしています。たくさんの楽器がそれぞれの音を出しながら、全体で交響曲を奏でているようなものです。その中でターニングポイントというものはありますが、時代がいつ、どう変わるのかというと、例えば1月1日になって新しい年を迎える時に、前の日から比べて元旦に何かが変わったかというと、何も変わりませんよね。つまり変化というのは、ゆっくりじわじわと進むものなのです。

ニナ:
講座の中で、時代は既に変わっているというお話が出てきますね。

いさどん:
そうですね。日本では、毎年だいたい12月21日に冬至を迎えます。冬至は1年で最も太陽のエネルギーの少ない時です。しかし気温が最も寒くなるのは、冬至からだいたい1ヶ月後の1月下旬から2月にかけてでしょう。太陽の光の量は増えていっても、空気や海などの都合で気温の変化は遅れて進むのです。夏も同じですね。太陽の光が最も多いのは6月21日の夏至ですが、暑くなるのは7月、8月ですね。
それと同じことが、宇宙の星々と地球上に起こる現象との関係にも言えます。星々はターニングポイントを過ぎたことを示していますが、それが地球上で実際に現象として現れるのはもう少し先なのです。例えば冥王星のサイクルから観ていくと、1913年は、冥王星が太陽を1周する248年のサイクルの中で闇のピークでした。しかし、その闇のピークに生まれた人々によって、実際に第二次世界大戦という闇が表現されたのは、その約30年後です。そのように、星の動きと実際の現象には時差があります。

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今、宇宙的にはターニングポイントを過ぎていますから、あとは我々は現象化される時を待つということです。

ニナ:
おもしろい!

いさどん:
こういった捉え方は、単なるスピリチュアル的思惑で編み出したものではなく、天文学的にも歴史的にも、それから先人たちが残したデータの中にも盛り込まれているものです。それを自分の都合のいいように受け取るのではなく、様々な角度から見てつなげて読み解いていくというという作業が重要です。
面白いのは、私たちは研究家ではありませんが、自然とこういったことが伝えられる生き方をしているということです。

ニナ:
先ほど、自我をコントロールできている人は自然と近いというお話がありましたね。そのことについてもう少し詳しく聞きたいです。

いさどん:
大都会というのは、人工の極みの世界です。それは自然の中に生まれた矛盾の世界と言えます。
しかし、大都会の中にも実は自然はあります。そこで生きている人々は当然空気を吸いますし、食べ物を食べるということは土を必要としているということです。気候が変わればその影響も受けるでしょう。ですから大都会の中にも自然はあるのですが、本来の循環からすると異常な自然をつくっているのです。そういった場を快適だと思う人は、大都会の波動に合っているということです。
一方、人間が創ったそのような疑似的自然に対して、違和感を感じる人たちがいます。そういった視点から区別した方が、人を分類する時に、単に大都会に住んでいるのか、田舎に住んでいるのかという分け方をするよりも、有効だということです。

ニナ:
人工的な自然をつくる人々に対して、どのように思いますか?

いさどん:
そういった人々は、その人個人にとってもそれが今重要なのだというプロセスを歩んでいるのでしょうし、同時に、そういったことが地球上で重要に思われているという時代的プロセスを歩んでいるとも言えます。その矛盾は様々な形で地球上に広がっています。元々私たちのベースである自然に対して、矛盾が増えているのです。そこで人間の叡智を使いながらどう自然と共生するのかというと、それにはまず、人間が自然を第一に考えることです。そして、その姿勢をベースとして人間の叡智を使っていくのが、これからの21世紀から30世紀までの人類の在り方だと思います。それは人類の地球上での進化の過程を考えた時に、もっとも無理のない在り方です。

ニナ:
その進化とはどういうものですか?

いさどん:
人間はこれからも進化していきますよ。世界観がもっと広くなっていきます。今、地球はグローバル化されて、人間の意識からしたら狭くなりました。これからもっと狭くなるでしょう。いずれは国境もなくなり、通貨も共通のものになる。物理的にどこまでということは語れませんが、思念はもっと宇宙的なものになります。
今のように科学やテクノロジーが発展しながら、人間の世界観が進化しなければ、確実により多くの矛盾が地球上にもたらされ、人類は他の生命と共存できなくなるどころか、地球と共存することができなくなるでしょう。そう言うと、人間と地球が対等のように聞こえるかもしれませんが、実際は地球から人類が排除されるということです。

ニナ:
私も同じように感じています。

いさどん:
地球としてはこの不良品のような人類をリセットして、新たな生命との共生を始めるだけです。地球の歴史を振り返ると、過去6億年の間に6回大量絶滅が起きています。人間は7回目の引き金を引くかどうか、というところです。
このサイクルを何億年という単位で俯瞰して観ると、人類が7回目の引き金を引いたとしても、地球にとっては新たなサイクルに入るだけのことであり、その後に現れる生命は人間よりもさらに進化しているのですから、地球からすれば歓迎すべきことでしょう。今の段階で人間が人間であることに囚われていると、それは自分たちの滅亡ということで大事のように思えるのでしょうが、地球の歴史から見れば何度も起きてきたことのひとつに過ぎないのです。
ですから、人類には二つのスタンスがありますね。ひとつは、世界観を大きく広げ、月が満つればかけていくように、人類の存在もいずれは終わりが来るのだという捉え方。それはネガティブなものではなく、さらに進化した次の生命へバトンタッチしていくといういうことです。
もう一つは、個人としてどう在るかということ。意識のスケールが大きくなり、人類のサイクルを超越した意識になれば、物語を観ているようなものでしょう。

ニナ:
木の花のメンバーにとって、自然や環境とは大切なものですか?

いさどん:
みんな環境意識は高いですよ。だからこの生活をしています。
僕は環境活動家とはちょっと違います。環境が悪くなるのも一種の学習であると捉えているからです。環境問題とは、自分たちの行いに対する明快な答えをもらって学習するチャンスなんですよ。人間はバカなことをやらないと、学習できないのです。
人間からヒトになると、愚かなことをやらなくても成長していくようになりますから、地球上に現れる現象は確実に穏やかになることでしょう。そうすると、僕の故郷である金星のような世界になりますね。人がみんな菩薩のようになってしまい、調和が当たり前になるのです。それはある意味、生命力がないとも言えるでしょう。地球は様々な問題が起きて実にダイナミックで、生命力にあふれています。ですから、何がいいのかはわからないですね。

ニナ:
地球と人間の関係というのが個人的な話にもつながって面白いです。

いさどん:
個人である自分を基準としたものの見方があると同時に、我々は人類であり、さらに視野を広げると、我々は神でもあるのです。だから面白いのですよ。人間が完璧に悟ってしまうと、神さまも、人間も退屈でしょう。何もない時が永遠に続くのですから。

ニナ:
それでは面白くないですね(笑)。

いさどん:
だから僕はある意味、金星では不良品でした。完璧な世界に退屈してしまったわけですから。それでも金星の味を覚えているので、地球に来ると「ひどい世界だ」と愚痴を言うことになりましたね(笑)。

ニナ:
金星の記憶というのはどのようなものですか?

いさどん:
太陽系は、太陽と九つの惑星が連携してできているでしょう。その中で極めて精密に太陽と連携しているのが金星です。金星の軌道はほぼ真円で、ブレがありません。太陽系は太陽を指揮者として素晴らしい生命の交響曲を奏でており、それを現象化する星が地球ですが、その中で金星の役割はメトロノームです。もっともオーケストラにはメトロノームはありませんから、何に例えたらいいのでしょうね。もっともベースとなるリズムを刻むものであり、すべての指針です。その星が女性性を表しているというのも、面白いですね。そして愛がベースになっている。そう観ていくと、宇宙を創造している神さまの心が感じられませんか?

僕が過去に金星にいた時の話は、以前にも少し話しましたね。地球の記憶ほどたくさんの物語を語ることはできませんが、印象は残っています。この富士山麓に移住してからのある夜、車でこの近くを走っていた時のことです。その時は、霧のような雨が降っていました。道路にはいろいろな高さの街灯が経っていて、そこにも霧がかかっていました。そうすると、霧の柱が立っているように見えるのです。のっぽもいれば太くて低いのもいて、それが虹のようにいろいろな色をしている。それを見た時に、僕は思い出しました。「この景色はどこかで見たことがあるぞ!」と。それが金星の風景です。
のっぽや低くて丸いのやいろいろな形があって、高いものだと地球の基準で言ったら3メートルから4メートルほどになるでしょうか。低いものでは1メートルくらいです。それは何かというと、魂なのです。今はそれを形で表しましたが、地球のような物理的三次元で表現されるものではありません。僕は人と話す時に、表に表れている形よりもその人の魂を見て話しますが、それと同じようなものです。形状の違いは、その人の心の性質を表しています。

地球上で人間を観ると、色がとても美しいものもいれば汚いものもあり、歪んでいたり濁っていたり、ずっと複雑です。しかし金星の風景はぼわーんとして、すべてが虹のように、いろんな色が入っています。全体はピンクがベースです。それに対して個々の魂は、虹の七色の中でもピンクが強いとかブルーが強いとかいうように個性があります。霧の中の風景を見ながら、それを思い出したのです。

金星人たちはどうやってコミュニケーションを取るのかというと、震えるのです。震えながら「ブウッ、ブウッ」と、背が高く細い魂なら高い音、低くて太い魂なら低い音というように、それぞれの音を出して会話しています。そしてすべては虹であり、光であり、何より友好的です。光は七色が調和して神様の光になっているのですから、どんな色をしていても調和的に決まっているのです。ですから会話の内容がどんなものであっても、すべてが愛であり、素晴らしい世界です。 ──── つまらないでしょう?(笑)

ニナ:
でもとても温かい雰囲気ですね。

いさどん:
そうですね。そこには苦痛がありません。だけど、苦痛のない不幸というのもあるんですよ(笑)。僕は霧の中の風景を見て、あれは自分の家族だと思いましたが、その家族のことがあまり好きになれなかったのでしょうね。だから地球に来たのです。
これはとても面白い話ですから、そのうちに木の花劇団の劇にするといいかもしれませんね。

ニナ:
その劇を見てみたいです(笑)。
先ほど金星は女性性を表すという話がありましたが、男性性と女性性ということについて興味深く感じています。一般社会の男性性と女性性とは違う意味で使われていますか?

いさどん:
そうですね。今の一般社会で言われている男性性と女性性というのは、物理的な面に偏っています。生殖のための男性性と女性性というのはありますが、それはさして重要ではないですね。それは機能的な役割分担のようなものです。
太陽系の惑星の軌道を見ると、金星は真円を描いて、安定した響きを発していますね。それは例えば家にお母さんがいて、いつでも帰って来られる癒しの場があるからこそ子どもたちは安心して外に冒険に出かけ、戻ってきてはお母さんのもとで癒される、というような感じです。男性は、女性が安定して住まいを守ってくれることによって、外で何かを勝ち取ってくることができます。男性性と女性性というのは、生きていくための役割分担であり、それぞれのポジションのようなものです。女性性とは、男性性がダイナミックに動けるためのベースとなるものとも言えます。揺らがない柱のようなものですね。

私たちのいる現象世界は、変化する世界です。それに対して絶対不動のものが神であり、それは目には見えない安定した柱です。そしてその絶対不動の柱があるからこそ、周囲はダイナミックに変化していくことができます。そうやって生命を躍動させていくのが男性性の役割です。それはパワーであり、変化です。元の部分が安定しているからこそ広がっていくことができるのですが、元がないまま広がっていってはバラバラになってしまいます。その元になるものとは、目には見えない、始まりの意志のようなものですね。カタカムナの講座でお伝えした通り、陰が主で陽が従とはそういうことです。

講座では、カタカムナの5首と6首には表の解説と裏の解説があるということをお話ししましたね。あなたはその解説が欲しいと言いました。日本人の受講生は誰も言いませんでしたから、それを欲しいと言うあなたはただ者ではないと思いました。重要なのは、裏の解説です。
裏の解説は、男女の性についてのものです。男女の役割分担にはどのような目的があるのか。その役割分担とは、男女の交わりのことです。カタカムナの裏は、ほとんどが性の解説になっています。この宇宙の法則はすべての生命のモデルであり、生命が現象化する時、それは雄と雌の交わりによって創られます。それは神が行うものですから、神聖なものです。その時に、正しい交わりの作法というものがあります。それが裏の解説です。

現代の人々はその神聖さを忘れてしまいましたが、男女の交わりとは「カムウツシ」であり「アマウツシ」です。「カムウツシ」とは、潜象界からの真理を降ろすことであり、男性の役割です。「アマウツシ」とは、現象化した宇宙の真理を人間界へと現すことであり、これは女性の役割です。ですから男性がカムウツシをし、それを女性がアマウツシします。物理的な構造で言うと、男性は男性器によって潜象界から現象界へ真理の柱を立て、女性はその種を子宮に受け、そこに回転が生まれます。するとそこにも陰陽が発生します。それが「カムミムスヒ」と「タカミムスヒ」です。そして現象化して生まれたのが、地球です。
銀河も太陽系も地球も、すべて同じ構造になっています。それを忠実に表現しているのが、男女の交わりなのです。それは「アマ」の精神と、さらにその奥にある「カム」の精神を再び人間に復活させるという目的があります。交わることは、それを人間に復活させるための儀式なのです。

ですから、単に子孫を残すための行為としてそれを行うことは、意識としては低いものですね。それはすべての動物や植物が行っているのと同じことでもあり、ある意味汚れのない美しいものですが、高いものではありません。
しかし交わることには、ヒトという高い存在のものが行う行為、もしくは人間がヒトになるための過程として宇宙の真理を降ろすための作法としての行いとしての意味があるのです。興味がありますか?

ニナ:
一般社会で言われていることとはまったく違うものですね。

いさどん:
そう、まったく異質なものです。例えばエクスタシーについても、一般社会では単に官能を楽しむものであり、欲求として求めるものになっていますが、それは日本で言う「マツリ」の精神と同じで、人間が自我を忘れ完全にトランス状態になると、そこに神が入るのです。それがカムウツシ、アマウツシのエクスタシーの状態であり、無我の境地です。
そうすると人は高い意識波動になり、さらに直観が働くようになります。そしてひとたびそこにアクセスできるようになると、毎回それを行わなくとも常にその精神状態を保てるようになります。ただし、通常の人間は低いところにいますから、その低い位置の欲求を振り払って振り払ってそこまで登ってきて、その意識に至ってアクセスすることがなかなか常人ではできないということです。そういったことが、カタカムナの解説には書かれています。
ではその解説を書いた人々が実際にその境地に至ったのかというと、挑戦したであろうことは確認されていますが、そこに至ったということはどこにも書かれていません。後にその解説書を研究して世に広めていった人たちの人間性を観ても、その境地には至っていないだろうと僕は思うのです。そこに至っていない人々が勉強会を開いてそれを世に広めたとしても、それは偽物の波動でしょう?ですから今現在カタカムナを広めている人たちも、裏の解説には触れていません。

僕は人に何かを語る時、相手の精神状態に合わせて語る内容が変わっていきます。人は自分のニーズに合わせて色を付けて物事を解釈するので、真実とまったく違った話になったりするのです。ですからこういった話をする場合でも、聞く側は無色でなければなりません。
ニナは5首と6首の解説の英訳が欲しいと言いましたね。それであなたの人柄を観ていて、僕は伝えてもいいと思いました。それは、一般の人々が思い描くのとはまったく別の世界です。あの裏解説は極めて説得力のあるものであり、今世の中でカタカムナを広めている人々に見せてあげたいと思っています。彼らは頭で学んでいるだけで、実際に経験していない世界を語っているのですから。それは、エコビレッジとはこういうものだと語りながら実際にはその生き方をしていない人々と同じです。すべては実体験のもとに立証されなければなりません。
あなたは裏解説の英訳を読んでどう思いましたか?

ニナ:
とても面白いものだと思いました。真学校では「性と宇宙」の講座もありますよね。

いさどん:
そうですね、そこでそのことについて語ります。実技指導はないですよ(笑)。
本当は、これはやたらと伝えてはいけないものです。なぜなら、未熟な人々はそれを自らの色を付けて解釈し、歪めて受け取るからです。そうすると、聖なる伝承が歪んでしまいます。ですから、こういったことは昔から、意識がその段階に至ったことを師匠が確認し、そして口伝で伝えてきたのです。
1ヶ月間の真学校では、そのことについて皆さんにお伝えしていきます。ですから皆さんにも、自らの色を付けることなく心をフリーにして学び、たとえ今はそこまでの段階に至らないとしても、実生活の中で高みを目指していってもらたらと思います。

 


9日目午後「天然循環法 – 農 実習1」〜 微生物を知ろう・ボカシと活性液作り

今日の午後は農の実習でした。講師はカトケン。畑隊の若手で、かつて農業高校の講師をしていました。

カトケン
カトケン

まず、最初の実習は「ボカシ作り」。ボカシという言葉、あまり聞いたことがないと思いますが、簡単にいうと、発酵させた有機肥料のことです。

受講生が仕込んだボカシ
受講生が仕込んだ発酵前のボカシ

今回は一番シンプルな素材で作りました。
米ぬか10kgに籾殻1kg。そこに、有用微生物が200種類以上含まれる木の花菌(EM菌)から作った活性液と水分を加え、ダマにならないように揉みほぐしながら、丁寧に手で混ぜていきます。米ぬかには油分が多く含まれ、混ぜている手もしっとり。みんな「気持ちいい~!」「おいしそう!」「お菓子を作っているみたい」と楽しそうに混ぜていました。

ボカシの語源は、話をぼかす、色をぼかす、と同じ様な意味合いがあり、有機肥料を微生物により発酵させて、原形からぼかすところからその名前がつけられたとも言います。発酵させることにより、そこにはたくさんの微生物が繁殖し、植物に吸収しやすいものになるのです。

この世界には、空気中にも、土にも、野菜や穀物にも、人間の体にも、目には見えないけれど、あらゆるところに微生物や菌が存在します。微生物や菌には大きく分けて「腐敗」と「発酵」という2つのサイクルがあり、どちらも必要なのですが、発酵の方が私たちのような生命にとって健全なサイクルと言えます。

IMG_3420悪玉菌が活躍すると「腐敗」の方へ傾き、善玉菌が活躍すると「発酵」の方へ方向づけられます。数多くある微生物や菌のうち、善玉菌といわれるものは約1割。悪玉菌といわれるものも約1割。残りの約8割のものが「日和見(ひよりみ)菌」だといわれています。つまり、どっちにも行く可能性のあるものが大多数なんですね。受講生から「菌の世界も、人間の世界も同じだね。面白い!」という感想もありました。

そこで、いかに善玉菌を優勢にしてやるか、発酵の方向へ持っていくかがポイントになってきます。善玉菌が優勢になるためには、適度な温度や水分、空気という環境を整えてあげる必要があります。米ぬか自体にも菌がいるので、環境を整えてあげれば発酵が始まりますが、より発酵の方へ方向づけるために、今回は木の花菌を使いました。

その混ぜたものを、ビニールの袋に詰め、しっかり空気を抜いて、発酵させます。こうして発酵させることにより、例えば豆腐のオカラのようなとても腐りやすいものも、米ぬかなどと一緒にボカシにすると、1年以上品質が変わることはありません。

ボカシを袋に詰めます
袋に詰めて、しっかり空気を抜きます
チームごとに名前を決めて貼りました
チームごとに名前を決めて貼りました
こちらは「チームひふみ」
こちらは「チームひふみ」
こちらは「ビューティフル・マインド」
こちらは「ビューティフル・マインド」

私たち人類は発酵という文化をいろいろと発展させてきました。農業分野に限らず、味噌、醤油、納豆、ヨーグルト、チーズ、パン・・・などなど身の回りにはたくさんの発酵を利用したものがあります。畑の土の中にも、たくさんの微生物たちがいます。
そして、その微生物や菌は、目に見えない非常に微細な存在で、だからこそ、それを扱う者の発するものが、ダイレクトに伝わってしまいます。
私たちが、畑に立つ時、作物と接するとき、ボカシを作るとき、木の花菌を仕込むとき、子供に接するとき・・・いつでも一番大切にしていることは、そこに向かう心です。
そう考えると、いつでもどこでも自分からいい空気を発することの大切さを改めて確認しました。

順調に発酵したボカシの香りも嗅いでみました。いい匂いです。
順調に発酵したボカシの香りも嗅いでみました。いい匂いです。

次は、「生ごみを利用した堆肥作り」です。
毎日家庭から出る生ごみ。普通は燃えるごみとして焼却されますが、その約4割が生ごみだと言われています。水分をたくさん含む生ごみは、燃やすのにも多くのエネルギーが必要です。
この実習では、通常ごみでしかないものを、資源として生かす。そして、さらに生ゴミを減らすことで環境負荷も減らせる、という生ごみの有効利用を学びます。

生ゴミを有効利用!
生ごみを有効活用!

用意するものは水切りが出来るスノコのついたバケツ。(ホームセンターなどでも入手できます。)そこに、よく水を切った生ごみを入れ、発酵させるためにボカシを振りかけて混ぜ、手で押して空気を抜きます。それを繰り返して、漬物を作っていくようなイメージで仕込んでいきます。

見た目も香りもお漬物のようです
見た目も香りもお漬物のようです

最後にビニールの蓋をして空気が入らないようにし、きっちりとバケツの蓋をします。

約1週間おいておくと、菌が全体に回るので、いわゆる生ごみ臭さもほとんど無く、それを畑に埋め込んで、畑の肥料として使うことが出来ます。畑のない場合は、それを2倍量の土と混ぜ、生ごみ堆肥にすると、腐敗することなく、いつでも使いたいときに使うことが出来ます。それをプランターの土に混ぜて使ったり、畑にまいたりするのです。

土に混ぜれば
土に混ぜれば生ごみ堆肥に♪

ボカシにしても、生ごみ堆肥にしても、産業廃棄物になってしまう豆腐のオカラや、ごみでしかなかった生ごみが、「発酵」を利用することにより、捨てられてしまう「ごみ」ではなく、「資源」として生かしていけるということなのです。

* * * * * * *

野外での実習を終え、室内に戻って、ちょっとティータイム。
受講生から、質問や感想なども出ました。
実家で母親が家庭菜園をしているというあっこちゃん。今まで畑に生ごみを入れると、くさいと周りから苦情があったそうですが、今日学んだことを、早速お母さんに教えてあげたいと言っていました。

さて、次は「活性液作り」と「米のとぎ汁活性液作り」。
調理実習の時のように、テーブルにはボウル、計量カップ、泡だて器などが並べてあります。

活性液は、木の花菌に糖蜜を加え、発酵させます。木の花菌は200種類以上の有用微生物が含まれる液体で、そこに餌となる糖蜜を加え、約40℃のお湯で溶かします。

木の花菌に糖蜜を加え、お湯でといていきます
木の花菌に糖蜜を加え、お湯でといていきます

微生物に餌を与えることで、微生物たちを活性化させるのです。2~3日するとペットボトルがパンパンに膨らみキャップを緩めるとプシュッとガスが抜けるくらい活性化してきます。

この活性液は、畑の作物に葉面散布(スプレー)したり、野菜の苗の水やりに毎日入れたりして、植物を元気にするために使う他、掃除の時に使うと汚れの落ちがよくなり、排水口が臭う時などに流し込むと、臭いが消えたりします。これらは微生物の働きによるものです。

米のとぎ汁活性液は、米のとぎ汁に木の花菌と餌となる糖蜜を加え、発酵させます。使い方は活性液と同じです。

米のとぎ汁と言えば、みなさん「水素水」というものをご存知ですか?
お米(玄米でも白米でもOK)を研ぐときに出る3回目のとぎ汁を密閉できる容器に入れて24時間(夏場は12時間)置くと「水素水」の出来上がり。
水素水は、体内の活性酸素を中和するので、飲むことにより老化防止、腸内環境改善、デトックス効果などの他、掃除の時に使っても汚れ落ちがよくなります。木の花ファミリーでは、キッチンさんが毎日作ってくれるんですよ。(詳しくは、白魔女の天然生活 at 木の花ファミリーをご覧ください。)

話を戻しますね。活性液と米のとぎ汁活性液を作ったら、ペットボトルに入れ、あとは人肌程度が適温なので、毎日一緒にお風呂に入ってもらって、発酵を進めます。ガスが発生し、糖蜜の匂いが消えて甘酸っぱい匂いに変わったら出来上がりです。微生物たちが活発に活動しているのがよく分かるはずです。

かつての真学校では、一緒に布団で寝て、布団の中で爆発してしまうという事件?やお風呂の中で爆発してしまったこともありました。今年は無事発酵させることができるでしょうか・・・?!(活性液爆発事件についてはこちらをご覧ください。)

全体を通して、受講生たちからいろいろと質問が出たりして、楽しい時間でした。オランダから参加している大学院生のニナは、国に帰ってからやってみたいと言っていました。

・・・という訳で、こんな風に、微生物や菌は、目には見えないけれど、とても身近なものなのです。

 

さて、どんな活性液ができあがるでしょうか
さて、どんな活性液ができあがるでしょうか

 


今夜はキッズディナー!

かつての受講生より、木の花ファミリーの問題点として挙げられた
「ごはんがおいしすぎる件」。

150217-123042

この問題、現在も健在です。

そして今日、このおいしいごはんをさらにおいしくするイベントがありました。その名もキッズディナー♡

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これは、木の花の小学5、6年生の女子5人 ── 通称「5人ムスメ」が中心となって企画&実行するディナーイベントです。

5人ムスメ
5人ムスメ

まずみんなに何が食べたいかのアンケートをとり、それを元にメニューを決め、材料の調達から調理、配膳までを自分たちで行います。今回は真学校期間中の開催ということで、受講生には秘密のサプライズプロジェクト(と言ってもけっこうバレてたけど)として密かに進行していました。これまでに様々なイベントを企画・実行してきたムスメたちの、手際のよいこと!数日前から仕込みを始め、朝から作業できるようにとラスト2日間は泊まり込みで、年下のちびっ子たちも手伝って、今夜に至ったのでした。

さあそれでは、ムズカシイ講座の合間にちょっとアイスブレイク。「キッズディナーができるまで」を、どうぞ写真にてお楽しみください♪

仕込みは数日前から始まっていました
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厳しくもやさしいやじー先生
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お手伝いするちびっ子たち
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夕食を食べながら、紙の模型を使って盛り付けの打ち合わせ
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いよいよ当日。

赤じゃがコロッケ係のゆいと揚げ物名人のはるちゃん
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ロールサンドイッチ係のゆうゆと愉快な仲間たち
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たまごサラダ係のきよとあやな
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焼きカレー係のみの
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いちごスムージー係のみこ
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後ろにあやしい人影
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小さい子たち用に、できあがった料理を盛り付けていきます
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みんな興味津々
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一人ひとりに名前入り♪
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そしていよいよディナータイム!まずは受講生からどうぞ
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チーズがとろ〜り、焼きカレー
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外はサクサク、中はホクホク、赤じゃがコロッケ
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こんにゃくの燻製入りポテトサラダと薄焼き卵と人参のマリネを巻いたロールサンド。どれもこれも絶品!
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ムスメたちが盛り付けて一人ひとりに手渡していきます
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真学校の刺激ゆえか一昨日知恵熱を出し復活したけーごくん
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子連れ参加中のともえちゃん。
一昨日自己紹介で見事な花笠音頭を披露し、ブレイクしました。

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台湾から農を学びに来たリョウちゃんも、この笑顔
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ホールの周りにぐるりとできた行列
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いつの間にか肩もみ大会が始まっていました
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・・・デザートのスムージーは、おいしすぎて食べるのに夢中になって写真を撮るのを忘れました。

 

食事後、感想を語るムスメたち。それを聞くみんなの顔も幸せそう。
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こんな日常の中で、1ヶ月間の真学校は開催されています。

 

明日は早朝から宮ノ下広場に行き、みんなで朝日を見る「創造性と芸術」の講座です。皆さま、今宵はゆっくりおやすみください。^^

 

 


21世紀は 時代に乗ってスイングバイ

真学校が始まってちょうど1週間が過ぎた2月26日、受講生のめぐちゃんはいさどんと面談の場を持ちました。「自分の活かし方をもっと主体的に考えたい」というめぐちゃんに様々なアドバイスが伝えられた後、最後にこんな話がありました。

「区切りをつけるために真学校に来ました」と語るめぐちゃん
区切りをつけるために真学校に来たというめぐちゃん ー 写真は講座「創造性と芸術」より

いさどん:
これから自らの未来に対して、どのようなビジョンを持っていますか?何かが観えるのか、観えないのか、観えているとしたらそれをどうするのか。

めぐちゃん:
観えていないと思います。

いさどん:
観えないとしたら、それはとても幸せなことだよ。観えないということは、未知だから怖いということでもあるよね。しかし逆に言うと、観えないからこそ何かに委ねることができる。今まで自分の考えで生きてきて、人生にあまりいい印象を持っていないとしたら、自分の考えを手放すことは新しい世界に出会うチャンスでもある。だけど怖がりな人は、見えないとどうなるかわからないから、未知なるものを恐怖に感じるんだよ。
人は生まれてきて、それぞれの人生を歩むけれど、最終的には必ず死を迎える。その人生の卒業の段階で自らを振り返った時に、その価値は物理的なもので決まるのではなく、どの意識レベルで生を全うしたかということが大切だよ。どのような意識レベルで自らの人生を誇り、有意義に感じて、未練なく旅立っていけるかということの方が、これからは特に重要になる。最終的には一人ひとりが自分で結論を出すことだけど、僕は誰しもそのように生きてほしいと思っているよ。
今回の真学校の受講は、あなたにとってとてもいい区切りになるね。

めぐちゃん:
区切りをつけるつもりで来ました。真学校が終わった時には、心境に何らかの変化があるだろうと思っています。その新しい心境で動き始めるしかないというところまで自分がきている、という意識でいます。

いさどん:
それならば、そのことも自らの中に入れながら真学校の受講を続けていくといいね。地球暦からあなたを読み解くと、緻密にものを観ることが欠けていたり、勉強はしても自らの意志で自分を切り替えていくことをしないということが読み取れる。それは、時期が来ないと動かないということでもあるね。もうひとつ、何が大切なのかと思考はするけれど、けじめをつけてピシッと行動しない。思いはあるけれど、けじめがつけられない。

めぐちゃん:
そうだと思ってました(笑)。

いさどん:
それはどうしたらいいのかというと、何かに乗ればいいんだよ。一番いいのは時代に乗ること。しかし誰もが時代を読めるわけではないから、たとえばこの真学校を受けるのはいいきっかけになるね。自らの意識を創っていくことになるから。今の時代を生きる人々は大きな時代の節目にいるのだから、それに乗っかって一緒に行けばいい。

たとえば、日本が小惑星の観測衛星を打ち上げたでしょう?アメリカが天体を探査する時にも、まずロケットを打ち上げて、地球の周回軌道に乗せるんだよ。そこから周回軌道を離れて目的の星に行く時に、ロケットの推進力だけではものすごく時間がかかる。では何を推進力にするのかというと、地球の重力を利用するんだよ。地球の重力を利用しながらその周りを回って推進力を上げ、あるタイミングで目的の方向に向かってピッと軌道修正してやると、地球の軌道を離れて目的地へ向かっていく。これをスイングバイと言うんだよ。ロケットだけではそこまでやれないから、地球の推進力を利用するんだ。

めぐちゃん:
『オデッセイ』という映画にその話が出てきました。

いさどん:
自分の能力で目的地に行けたら言うことはないけれど、プラスαという意味では、この真学校もスイングバイだね。そういうふうに使い方を考えればいい。なんでも自分でやらなければと思う必要はないんだよ。

もっと力強いスイングバイは、2012年12月21日の銀河の冬至から始まった、新しい時代の流れ。僕はこれだと思う。この時代の区切りのタイミングに乗って、今人類は、21世紀の新しい時代にスイングバイすればいいんだよ。
しかし多くの人は、それを利用したがらないね。新しいところへ行くことを怖がっていたり、未知なるものを理解できないから嫌だと言っているが、そんなことはどうでもいいんだよ。見えようが見えまいが、時代はそのように進んでいる。怖かろうがわからなかろうが、まずはドーンとそこへ乗っていくと、新しい景色が見えてきて「何だ、こういうことだったのか!」となるんだよ。そこに乗らなければ、賞味期限を迎えて終わっていく時代の流れに恐怖を感じることになる。

めぐちゃん:
今朝目が覚めた時にふっと湧いてきた言葉があって、それは「わからないものに寄り添っていく」ということでした。

いさどん:
それこそ天の声ですよ。あなたに向けた、神さまの声です。

めぐちゃん:
起きたばかりで忘れてしまうと思ったので、それだけすぐに日記に書き留めました。

いさどん:
そういった閃きから生まれた発想を僕はずっと語ってきました。講座でも子どもミーティングでも大人ミーティングでも語って来ましたが、僕はこのように人間の姿をしているものだから、人はそれを聞いてもなかなか天の声としては受け取らないね。しかしあなたが朝目覚めて、ふっとそれが湧いてきたのだとしたら、それこそが天の声です。それを活かしていくことです。自分で計算して幸せをつかもうとしているようでは、それこそ昨日観たNHKの『稼げる大人になる!?~加熱する受験競争』という番組に出てきた人々のように、亡者のように生きることになってしまう。もっとエンジョイしながら、時代の変遷を楽しんでいけるといいね。
人間は地球に対して責任があり、これからの時代の人々はその責任を果たした結果、未来の優れた時代を地球と共にエンジョイできるようになる。時代の要請を受け、本来求められるべき道を歩もうと思ったら、自分の意志を捨てること。自分の意志を捨て、天の意志に沿う。そうすると、最もあなたが活かされるようになるよ。
とにかく3月18日の真学校の修了までを過ごしてみましょう。その中でいろいろな心の変遷をたどりながら、観えてくるものがあるでしょう。そしてあなたが自分で自分に結論を出すことです。

めぐちゃん:
今まで仕事をしてきた中で、仕事自体は充実していたけれどだんだん孤独感が募っていました。

いさどん:
あなたがそう感じるのは、あなたに旬が来ている時に、周りの人々が相変わらず業績とかお金とかいうものに取り込まれて生きていたら浮くからでしょう。浮くと言うと悪いことのように聞こえるかもしれないが、それはもうそこには合わないのだから他のルートへ進みなさいというスイングバイでもあるんだよ。それは後押しであり、神さまのメッセージだね。たとえば、あるタイミングで病気になることも、それまでの生き方の結果として病気になったのだから、そこに気付いたらそろそろルートを変えなさいというメッセージでもあるんだよ。そうやって、活かしあっていけばいい。

ものすごく大きなエネルギーが使われて地球が動き、時代が動いている。それに比べたら我々一人ひとりのエネルギーなんてないにも等しいのだから、個人の願望がどれだけあろうと、時代の波に対してはどうしようもない。だから逆に、その大きなエネルギーを利用すればいいんだよ。人類はこれまで、個人的に生きることにエネルギーをかけ過ぎた。だからこそ、これからの人は群れて生きる必要がある。みんなのエネルギーを使いながら、みんながそれぞれを活かしあっていく。それもスイングバイだ。これが新しい時代の、極めて効率的な生き方だ。

 


 

<後日談>

それから2週間近くが過ぎた3月10日の夜、ファミリーメンバーと受講生が参加する「大人ミーティング」の場で、上記の文章がシェアされました。文章が読み上げられた後、いさどんはこう言いました。

「今改めてこの文章を聞いていたら、面談の時の感覚がリアルによみがえってきました。あの時のめぐちゃんからすると、今のめぐちゃんは別人だね。もうスイングバイした状態になってるよ。」

上記の面談以降、めぐちゃんはどんどん変化し、講義中もいさどんとの掛け合いの中で宇宙の本質をひも解く発想が次々と湧き出すようになり、今では独自の視点を積極的にシェアして全体の学びを深める役割を果たすようになりました。その言葉には力強さがあり、受講当初のめぐちゃんとは確かに違っています。

めぐちゃん
あふれだす発想をシェアして、場を活性化するめぐちゃん

「3月3日のお誕生日会の時に受講生で人形劇の出し物をしたけれど、あの日を境に自分の中で何かが切り替わった感覚がある」とめぐちゃん。(詳しくは、後日掲載予定のめぐちゃんの日記をご覧ください。)

一人の変化は、世界の変化の第一歩。
明らかに、未来へつながる新たな動きが始まっています。

 

餅つき大会で餅つきに挑戦するめぐちゃん。「とりゃ~~~!!」
餅つき大会で餅つきに挑戦。「とりゃ~~~!!」

 


おいしいチャイをありがとう

ただ今木の花ファミリーでは、真学校と並行して3月21日オープンのカフェ&ショップ「ロータスランド」の準備が進んでいます。料理はもちろん、ドリンクもチームを結成してメニュー開発からおいしいお茶やコーヒーの淹れ方まで日々研鑽を重ねている中、「毎日チャイを飲んでいる」というチャイ・ラバーの受講生、めぐちゃんが、自ら開発したおいしいチャイの淹れ方を直々に伝授してくれることになりました。

自宅からオリジナルブレンドのチャイを持ってきてくれためぐちゃん
オリジナルブレンドのチャイを持ってきてくれためぐちゃん

「真学校の1ヶ月間はチャイ断ちだな、と思っていたら、こんなことがあるなんて」と笑うめぐちゃん。なんと、先日用事があって一時帰宅した際に、オリジナルブレンドのチャイを持ってきてくれたのでした。というわけで、昼休みを使ってレクチャー開始!

めぐちゃんオリジナルブレンドのチャイ
めぐちゃんオリジナルブレンドのチャイ

本場インドでは沸騰させてぶわーっと沸き立たせるのだそうですが、そうすると鍋を洗うのも大変だし、沸き立たせなくてもやさしい味わいのおいしいチャイができるんですよ、と、ていねいに一つひとつのプロセスを説明してくれました。

メモを取るドリンクチームのやすこ&ラブ
メモを取るドリンクチームのやすこ&ラブ

その後ろで同じくロータスランドの緑茶シフォンの試食をするデザートチーム。

「チャイは温かさが大事だから、カップを温めましょう」とカップを温めようとしたら・・・・ない。急きょやすこがカップを取りに走り、としちゃんお手製のカップを持ってきました。

茶こしを使って注ぎ入れます。
茶こしを使って注ぎ入れます。

さて、お味のほどは?

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うまい!!!

ほんとにおいしかったです。さすがチャイ・ラバー。そのあと木の花の茶葉でも作ってみましたが、さらにおいしかったです。これできっと、みなさんにおいしいチャイをお出しできます。

実は、受講生は最初の1週間の間に大人ミーティングで自己紹介をするのですが、めぐちゃんが自分を表現するものとして紹介したオリジナルのはんこには、蓮の花(ロータス)が刻まれていました。これもご縁なのでしょうか。

めぐちゃんのオリジナルはんこ
めぐちゃんのオリジナルはんこ

ロータスランドは、オープン前の真学校期間中に営業のシミュレーションを行う予定です。もしかすると、受講生のみんながお客さま第1号になるかも?(^^)

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めぐちゃん、どうもありがとう♪