27日目午前「心豊かに生きる」〜 1ヶ月間の真学校・最後の講座

毎日毎日新たな一日を迎え、日々変化し続けて、気が付けばあっという間の1ヶ月間。最後の講座で、いさどんは以下のように語りました。

 

心豊かに生きる
〜 すべてはあなたの手の中にある 〜

いさどん:
おはようございます。

今日は最後の講座です。真学校が終わったからといって、地球の回転が止まるわけではありません。なぜこの世界で、人は場所を特定して、そこにがんじがらめになっているのでしょう。僕にはそういう不自由感がいつもあります。

不自由というのは、人それぞれ持っています。なぜ毎日眠らなければいけないのか。昔、忙しく働いていた頃には、寝溜めができればいいなと思っていました。寝ている暇がない時には、例えば3日間起き続けて、その後3日間眠ればいいということができたら、その方が効率がいいでしょう?でも、そんなことはできません。

我々は生命として、お母さんの胎内で細胞分裂を始めます。最初に心臓ができて、その心臓が動き出して、最後には心停止になります。これが死です。その間、心臓が休むことはありますか?ないですね。休むということは、命が終わるということです。
私たちの命は、心臓と連動しています。「心臓」というように、「心」という字が使われているのがおもしろいですね。英語でも心臓は「Heart(心)」と言いますね。オランダ語はどうですか?

ニナ:
オランダ語でも、心臓という言葉には「心」という意味があります。

いさどん:
同じですね。共通しているということは、言葉が違っても人間の体の仕組みが同じだということを表しています。
私たちは心臓と共にあります。その心臓は、休むことがありません。私たちは例えば、疲れたら寝て休むこともありますし、例えば仕事でストレスが溜まったら美味しいものを食べるとか、好きなことをやるなど、目の前にあることから自分を遠ざけるという休み方もあります。ストレスが溜まるということは負荷がかかっているということですから、それを解消しなさいという指令が出ているのです。
呼吸はどうでしょう。僕が昔お風呂でいったいどのくらい呼吸を止められるだろうかと試していた時には、3分くらいでした。世界記録は6分ほどでしょうか。普通の人がいきなり始めたら、30秒で苦しくなるでしょう。いずれにしても、空気との循環は拒否することはできません。

僕は変な人ですから、それを不自由だと思っていました。呼吸を止められないなんて、まるで強制されているみたいで不自由じゃないかと思い、それじゃあ止めてみようと試していました。でもどんなに努力しても、たったの3分なのです。
生きているということは、不自由です。心臓がかわいそうだから休ませてあげたい、呼吸を好きなようにさせてあげたい、と思っても、特定のリズムから外れることはできません。眠ることをコントロールすることもできません。ではこの不自由感から解放されたいと思ったら、どうしたら達成できると思いますか?

ニナ:
死ぬこと。

いさどん:
そう。死ぬことです。僕はこう考えました。今自分が不自由なのは、この肉体の中に入っているからだ。そう感じた時点で、自分とこの体は別物なんです。もっと自由であっていい。でも現実には、この体と心の状態で自分は成立しています。

僕は30歳の12月26日から、天から思考が降りてくるようになりました。
19歳の時に、亡くなったおばあさんが僕の頭上に表れて、僕を守護するようになりました。そのおばあさんが、僕が30歳の時に、男の人に代わったのです。それがお釈迦様でした。(お釈迦様といさどんの物語については、いさどんブログ「木の花記~金神様の巻」をご覧ください。)お釈迦様が現れて1年ほど経った時に、「1000日の行をいたせ」という命が降りてきました。それが何なのかわからないので、毎日瞑想をすることにしました。1日も欠かしたことはありませんでした。どんなに忙しい時でも、当時は建築業をやっていて現場から帰れないような時もありましたが、そんな時でも埃だらけの現場の片隅で瞑想をしました。
そうしたら、瞑想を始めて1年ほど経った頃から、幽体離脱をするようになりました。部屋の角に自分が浮かんでいて、瞑想している自分を見ている。そんなことが起きるようになったのです。ある時、僕はお釈迦様に「私とあなたの関係はいったいどのようなものなのでしょうか」と聞きました。お釈迦様から道をいただくようになったばかりのころ、僕は本当に普通の人で、お釈迦様は「始めはそなたは私の赤子のようであった」と言いました。そして続けてこう言いました。「やがてそなたは、私の子どもとなった。そして弟子となった。そして今、そなたは自らを離れて自らを観るようになった。その目線は私と同じである。だからそなたは私の兄弟である。」
その状態になってから、僕は物事を観る時にお釈迦様に頼るのではなく、自ら判断をするようになりました。客観視点を持ったということです。

なぜこんな話をしたのかというと、「不自由だ」という想いが湧いたことにつながります。この枠はいったい何なんだろうと。その後、瞑想中に自分の体を抜け出して、地球からも飛び出して、宇宙から地球を観るという体験をしました。そして人間の行いによって蝕まれた部分がケロイドのように広がっている地球の姿を観て、このために生きなければいけない、と思いました。
肉体を持ったこの状態で生きるということは、様々な不自由があります。肉体の中に自らが封印されているということでもあり、縁があってこの形をとっていかなければいけないということです。
ここで皆さんに質問ですが、日ごろどんなことを「不自由」と感じますか?

めぐちゃん:
やりたいことがあるのに、おなかがすいてしまうとか。

いさどん:
それはありますね。やりたいことがあるのに、おなかがすいてご飯を食べなくちゃいけない。

めぐちゃん:
夜中に寒くてずっとお布団に入っていたいのに、なぜかトイレに行かなくちゃいけないとか。

いさどん:
それは不自由だよね。その場でできたらどんなにいいだろうね(笑)。

オレンジ:
動物は人間より自由。人間は植物より自由。植物は微生物より自由。

いさどん:
じゃあ植物は「僕はもう10年もここに立っていて不自由だな~」と思ってると思う?それは人間が「ずっとあそこに立っていてかわいそうだな」と思うからじゃない?僕は植物を観ていて、その場で自由に育っていると感じるよ。観ていて「嫌だ嫌だ」と植物が思っているような感じがしない。寝る時に布団を敷く必要もないし、冬になったからといって服を着る必要もない。あなた自身が不自由だと感じることはないの?

けいご:
朝起きなきゃいけないこと。

いさどん:
それは共通してるね。

けいご:
後は、恐れを感じる時。

いさどん:
それは恐れから解放されたいということ?それはいつでもできるよ。あなたが勝手に恐れを感じているだけだよ。
不自由というのは、自分の想いに対して、そうじゃない方へ何かが強制していると感じた時に不自由と感じるんだよ。けいごくんの「恐れ」というのは自分自身が創っているものだから、いつでも手放せるんだよ。それは不自由とは言わず、自業自得と言います。

みかこ:
でも私も、けいごと同じように思うことがあるよ。さっきいさどんがお釈迦様に、そなたが大人になったのは自らを離れて自らを観るようになったからだと言われたと言っていたけれど、それができない人にとっては自分の中に湧いてくる想いの出所がわからないから、自動的に湧いてくるものに翻弄されているようで不自由に感じるんだよ。

いさどん:
でも、自らに起因していることは自らの自由の範疇にあるわけだから、それはコントロールできるんだよ。今僕が話している不自由とは、外から来るもののことです。
僕は「肉体」というスーツを着て、その中から外を見ている感があります。そして肌に気圧を感じて、それがとても不自由です。幽体離脱をした時には、このスーツの外から自分を観ていました。宇宙空間に出て、月を背にして地球を観た時には、地球の現状に驚くと同時に、外圧も内圧もない状態を体験し、これが自由なのだと感じました。宇宙飛行士の体験する無重力状態は偽物ですね。本当の無重力とは、肉体から解放された時にあるのです。つまり、本当の自由とは、肉体を返上して初めて感じられるということです。

あっこちゃん:
自分の中にイメージがあるんだけど、その通りに絵が描けないと不自由を感じたりする。でも習熟していくと、自由になっていくのかな。

いさどん:
上手か下手かというのは天性のものもあるよね。だけど描きたいと思ったらいつでも描くことはできるよ。天性のものはどうしようもないかもしれないけど、「こういう風に描きたい」という自分の願望が叶わないことに対して不自由を感じているということならば、その願望を手放せば不自由は消えるよ。
例えば心臓を休ませたいと思っても休ませられないとか、眠りたくないと思っても眠らなければならないという種類の不自由と、やろうとすればできるのにやらずにいて不自由だと感じるのは、種類が違うよね。そこをきちんと仕分けていかないと、できることなのに不自由を感じていることになる。

あっこちゃん:
確かに、身体的な不自由と思うように絵が描けない不自由は全然別のものだと今思いました。

いさどん:
それは大発見だね。不自由にはランクがある。もしくは、2種類だけかもしれない。自分の心のクセによって不自由を感じるものと、この世界の奥にある法則に対して自分がどうすることもできずに不自由を感じるのとでは、まったく種類が違うのです。

ニナ:
みんなの話をとても興味深く聞いていました。私は不自由の中にもいかに自由を見つけてその折り合いをつけていくかということをしています。

いさどん:
ではあまり日常の中で不自由を感じていないということ?

ニナ:
そうですね。

いさどん:
そういう答えが返ってくるだろうと思いました。というのは、あなたからは不自由の波動を感じないからです。けいごくんの場合は、自業自得型の不自由の波動です。オレンジくんなら勝手気ままで奇想天外。あっこちゃんのは自滅型の不自由の波動だね。
自分がどんなことに不自由を感じているかが、自分自身を表しています。多くの人はそんな見方はしません。僕の場合は、生きていることそのものに不自由を感じています。だから早く死にたいです。でも、普通の人の死にたいとはちょっと違いますよ。僕には肉体を持たない存在としてのビジョンがあり、意識がそちらへ向いているのです。だから肉体を持つと不自由を感じるのです。

めぐちゃん:
いさどんのような思考ができるのは、いさどんの中のスピリットと肉体が完全に分離されて認識されているからだけど、一般の人はその見分けがついていないから死を恐れるんですよね。

いさどん:
僕は時々柔軟体操をしますけど、その時の感覚は「この部品が錆び付いてきてしょうがないから整備しよう」という感覚です。機械の錆をとって油をさして使い勝手をよくするようなものですね。

お釈迦様に私とあなたの関係はどのようなものですかと問うた時に、始めはそなたは赤子のようであったと言われましたね。その時に、お釈迦様はこんなことも言っていました。天に向かってはいくら泣きわめいて赤子のようであっても良い。しかし横に向かって、つまり人間に向かって赤子のようでは駄目だぞ、と。そうすれば、人は育つ。そして己を離れて己を観るようになった時に、そなたは私の兄弟である、と言われた。

みかこ:
面白い話だね。己を離れて己を観るということは、天の視点を持ったということでしょう?1ヶ月間の真学校でやっていることは、誰もが幽体離脱をしなくても天の視点を持つことができるというトレーニングなんだよ。

いさどん:
なぜだかわからないけれど、我々は枠の中に入っています。生命であるということも枠の中にいることですし、人間であるということも枠の中のことです。僕の言う不自由感とは、形の世界にいる生命の不自由感です。それから解放されたいということは、形のない世界、例えば神々の世界のようであれば自由ですよね。そのさらに奥の潜象界まで行ってしまうと、何もなくなって自我も何もないわけですから、それでは元も子もないので、とりえずは自我があって肉体から解放されている状態のことをここでは言っています。

自我や自由とは、その人の目線によって変わります。いさどんの不自由感はユニークですね。皆さん一人ひとりの捉えている自由も、それぞれに個性的です。一人ひとりの心の性質によって、あんなのは嫌だという人もいれば、それがいいという人もいる。自分自身の心の性質に気付けば、それをエンジョイすることができます。エンジョイできるくらいに理解できれば、変えることもできる。もしかすると、変える必要はないのかもしれない。ただ、「使い方を間違えるな」ということです。不自由を感じて不平不満を言うのではなく、使い方を正しくすればどんなこともエンジョイできるということかもしれません。

僕は世の中をずっと眺めていて、いつも人間の在り様を観察しています。これまで1万人以上の人々の面談をしてきました。そこから観えてくるのは、現代の人間模様です。ご機嫌に生きている人たちとも出会いますが、そういう人と面談をすることはありません。面談をするのは、自分を不幸だと思っているような、行き詰っている人たちです。
そんな中で今の時代の心模様を観てきた時に、一人ひとりに心の性質があり、その性質がその人の不自由感を創っているということが観えてきました。真学校では、自分自身が何者であり、どういったプロセスの延長線上に今の形状をしていて、どのように不満を抱えているのか、ということを客観的に捉えていきます。それが嫌だと言っても、寿命がある限りその形状でいくのです。実は、今回の寿命が尽きたとしてもさらにその先があるのですよ。死んでも自分は成立しているということです。そうしたら、どのように自分を誘導していったら、心豊かに生きられるのでしょうか。それは、「はい、あなたはこうしてください」というマニュアルがあるのではなく、自分で人生の操縦かんをつかんで、旅するのです。その人生の操縦かんをつかんで自由に操るためのツールを、1ヶ月間の間解説してきました。

この世界に生きるとは、この世界の奥にある意志との対話です。そこから遠くなると、我々は迷子になります。迷子だからこそ怯え、それによって不平不満を言う。それが人生です。
よく様々な宗教で、「祈ることです」と言いますね。それでは怪しいな、と僕は思います。なぜなら、どういう精神で祈るかによってものごとはまったく変わってくるからです。ああなってほしいこうなってほしいという自らの欲望であったり、あいつは絶対に許さないという呪いの心で祈ることもあるでしょう。祈りにも質があるのですよ。
我々は、この世界との契約の元に生きています。そして宇宙人であり、宇宙の旅人です。我々の旅路は、現象世界の奥にある客観背後の意志と契約をしているのです。その契約から逸脱すると、我々は迷うことになります。どこに向かうのかという約束の元に進めば、出会うことのすべてを「こういうことだな」「こういうことだな」と受け止めながら進んでいくことができるのです。

「祈り」について考えた時に、これが出てきました。
(ここで「祈りの言葉」がシェアされました。)

 


祈りの言葉 

あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

あなたはわたしなのですから
わたしはあなたなのですから

あなたの御心に全ての人々が目覚め
平和で安穏なる幸せな世が訪れんことを願って
努めて参ります

無限なるあなたに無限なる感謝を
永遠なるあなたに永遠なる感謝を

アーメン、合掌

 

*「祈りの言葉」の詳しい解説については、こちらの記事をご覧ください。

 


 

いさどん:
今日は「心豊かに生きる」というテーマで、1ヶ月間の真学校の最後の講座です。この1ヶ月間話されてきたことは、見方によっては極めてマニアックな世界にも見えるかもしれません。でも、それに触れながら、皆さんの中に
この世界は過去からずっと続いて来て、今現在も宇宙全体が同じ仕組みの元に運営されています。そこに矛盾が発生すればそれにふさわしい現象が起きて、私たちに教えてくれるのです。目を開けてよーく観れば、それが観えます。目というのはこの肉体の目ではなく、霊的な目です。その目をつぶっていたら、愚痴になったり怒りになったり、それが束になると争いになります。一人ひとりがオリジナルなセンサー、オリジナルな目を持っています。その持ち方を間違えると、恐怖になったり怒りになったりうつ病になったりするのです。

「祈りの言葉」に「あなたの御心のままに」とあるように、私たちはそれに沿い、宇宙創造の側に立ち、今現在も生きているということは、神様と共に宇宙創造を果たしているのです。お釈迦様の言われたように、この無限なる世界と自分自身が一体であると思った時、自らの魂は宇宙最極小微粒子の「カ」となって、宇宙へ広がっていくのですよ。それがニルヴァーナであり、最終到達地点です。つまり、神様は人間を自分から遠いところへ置いて、人間がいろいろなことを経験しながら光へ向かっていくと、とうとう最後には一緒になるのです。ああ、ここがふるさとだった、と。でもそうなると、神様はまた宇宙を創るために人間を遠いところへ置くでしょう。我々は何度も何度もそれをくり返しながらどこかにその記憶を持っていますが、その途中の段階では愚かしいこともくり返して進んでいくのであり、それは諸行無常です。
諸行とは世の中のことです。無常とは、捉え方によってものごとはいかようにも変化するということです。自分がどの意識レベルで反応しているのか。それによってこの世界に種を播きながら、自業自得の現象に出会っているのです。あなたが出会っているものはあなたの目が見ているのですから、目が変われば違うものが観えるよ、ということです。

「心豊かに生きる」とは、すべてが自らの手の中にあるということです。もしも今まで不満を抱えて生きてきたとしたら、これからもそれを抱えて生きていきますか?

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いさどん:
これは極めて画期的な話です。過去には人々の幸福というのは、民衆を統治する王の力の元にありました。またある時には、聖者の教えの元にありました。それは、人々の手の中になかったのです。それは経典や聖者や権力者の手の内にありました。
しかし今、時代は、私たち誰もがその目を持って目覚め、誰もが高次の存在として生きられる時代になりました。だからこそ、今この話が語られているのです。
僕は教祖ではありません。王でもありません。その情報を提供する人です。その元は、この「祈りの言葉」の中の「あなた」という無限なる存在です。その存在がこの世界を創り、散りばめて、我々を配置しました。その配置されたものはすべて私であるぞ、ということです。

皆さんは1ヶ月間の真学校を受講するにあたり、一人ひとりの心の状態に応じてそれぞれの目的を持って参加しました。ここで皆さんが得たものは、自分の欲でそれを活かしたいといったものではなく、この世界とは何であるのかということを、これまで持ったことのなかった視点から分析するということです。自らの欲望を超えたところからそれを分析するということは、自我を超えた目線に出会ったということです。明らかに、真学校に参加する前と後では、視点が変わっているでしょう。

めぐちゃん:
ここに来る前は、真学校終了後の進路は何も決めずに、終了時の自分の心情に従って次の一歩を歩み出そうという想いで参加しました。やってみた結果、すごく毎日が楽しくてたまらなくて、自分の中で封印して用無しになっていたいろいろなものが湧き出してきて、今は「ここからだな」と感じています。家に戻って、ここで得た視点をこれからどう活かしていくのか、それを冷静に観ていくことが当面の課題だと思っています。今の正直な気持ちは、もう家は引き払って早く戻って来たいです(笑)。
木の花ファミリーというコミュニティは、人類をひとつの生命体としたら、そのひとつの成長点の先端にある部分で、現象化のスピードがものすごく速い。植物でも何でも、芽が出て成長していく時にその成長点というのは一番細胞の入れ替わりが激しい。その先端部分がまさに木の花ファミリーというコミュニティなんだと思います。
私もある意味欲のある人間で、昔から「ものごとの最先端にいたい」という欲がありました。大企業に勤めて最先端の研究に携わって、でも自分の中にそこに完全に合致できるものがなくて挫折して離れたんですけど、その後も最先端の技術を扱う仕事をして、だけど結局は従来型の価値観で損得や利害に縛られて、重くなって辞めました。でも本当の先端はここ。そこに出会えた喜びが、私の中にはすごくあります。

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いさどん:
いずれはこれが先端ではなく当たり前になる時代が来るでしょう。今は質的転換の時だからこそ芽になっていますが、それが当たり前の世界を目指しています。そのさらに先は考えなくていいですね(笑)。

よしこちゃん:
私は去年の3月21日に始めて木の花ファミリーに来て、それからここに通うようになる中で真学校の存在を知り、真学校を受講することがある意味この1年間の終着点となり、そこから次に向かうための何かが観えるかもしれないと思って受講を決めました。仕事も辞めて宙ぶらりんなわりには毎日心穏やかで、「ここに何かがあるだろう」と思いながら過ごし、次はどんな展開になるのかな~と思っていたら、途中で「自己実現」というのが自分にとってのパラダイムだったんだという気付きがありました。そうしたら、それまで自分を縛っていたくびきがなくなった。そして、これからの人生のために何かを探そうというよりは、今ここに在るものがそれなんだと思うようになったんです。

いさどん:
それこそ「あなたの御心のままに」ということだね。

よしこちゃん:
その通りです。だけど今までは、その「あなたの御心」とは何なのかを探そうとしていたんですよ。あなたの御心に沿うとはどういう生き方なんだろう?とかね。

いさどん:
おもしろいね。そこに目覚めると、心が自由を得られます。そうすると、自然とある特定のところに向かうようになります。つまり、自由に目覚めれば目覚めるほど、人は狭い道に行くのですよ。他に道はないことが観えてくるから。そこが面白いところですね。

よしこちゃん:
自分で選ぼうとしていた時にはそれは見つからなかったけれど、そういう自分の想いを手放したら、「ここ以外にない」という道が観えてきた。それはもう自分が探さなくても「ここにありますね」という感じです。

いさどん:
そういう時に何と言うのかといったら、「おめでとうございます」と言うんですよ。

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あっこちゃん:
私は真学校に参加する前は、すごく行きたいなという気持ちと、何に迷っているのかわからないけれど迷う気持ちがあって、ぎりぎりまで決断できずにいました。だけど参加したら、何で迷ってたんだろうというぐらいに、自分が求めていたものがバーンとそこにあった。
いさどんが、山の頂上に立つと目の下に雲海が見えると語った話が印象に残っています。外から聞いた話や人との出会いの中でそうだなと思うことがあっても、いったん雲の下のもやの中に沈んでいくような感じがするんです。そのもやがどこから来るのかはいろんな理由があると思うんですけど、それをこれから探っていきます。

いさどん:
富士山は雲海の上に頭を出していて、その下は曇って見えませんね。それはそれで、上から見るときれいなんですよ。でもその下はどしゃ降りだったり、霧だったりします。

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あっこちゃんはその雲海の上の目を持っているのに、どしゃ降りや曇りも上から観れば美しく観えるのに、なぜかその雲の中にいようとする。ただ上へ登っておいでよ、という話ですが、そこに介入はしません。それはあなたを尊重しているから。そこがよければそこにいればいいんです。ただ、あっこちゃんはその上があることを知ってしまったからね。そこでどう生きるのかは、あなたの意志です。

ニナ:
私はもっと学びたいと思い、とてもオープンな気持ちで真学校に参加しました。そして本当にたくさんのことを学びました。

いさどん:
あなたにとって一番大きかったのは、自分というものを確認できたことではないですか?

ニナ:
その通りです。オランダに帰ってからが興味深いですね。未来が楽しみです。ただ、カタカムナ研究会に参加できないことが残念ですね(笑)。

いさどん:
こちらから情報を送りましょう。あなたは研究目的で真学校に参加しましたが、言葉や文化の違いを超えてこんなにも自然に溶け込み、こんなにも安定したスタンスを保ち続ける人も珍しいですね。それが質的転換が常に起こり続ける宇宙の実相そのものの「ニナ」という魂なのでしょう。僕から伝えたいことは、ぜひそのまま客観的な情報を世の中に発信していってほしいということです。

ニナ:
これから先の数ヶ月間で、それを実践します。

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いさどん:
1ヶ月間は長いと思っていましたが、とうとう終わりを迎えました。終わりというのは、始まりということです。毎日が終わりであり、毎日が始まりであるということをくり返しながら、こういった節目を迎えて人生を刻んでいくのです。節がないものは、弱いですよ。節があるということは、竹のように柔軟だということでもあります。
皆さんの人生に介入はしません。この1ヶ月間を経て、それぞれの人生を、それぞれの個性のように歩んでいってください。その時に、できれば、安穏で幸せな人生を送ってもらいたい。そう願っています。

良い出会いを、ありがとうございます。

 


 

その夜、受講生主催の修了パーティーがありました。

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昨年の受講生も飛び入り参加で、「贈る言葉」をプレゼント。
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1ヶ月間ありがとう。
新たな学びが始まります。

 

 


ニナからいさどんへのインタビュー ~ これからの人類の進化とは

受講生の一人であるニナは、アムステルダムの大学で文化人類学を専攻している大学院生です。「精神性と持続可能性がどのように関連し、日常の生活の中で実践されているのかを学び、その背後にある哲学への理解を深め、現代の消費社会に対する代替案を提示したい」との目的から3ヶ月間の予定で木の花ファミリーに滞在し、その一環として真学校を受講しています。「受講生の多くが自己改革を目的としている中、社会的な目的を持って参加している二ナの視点が加わることで全体に客観的な捉え方が生まれ、みんなにとってとてもいい刺激になっている」と同じく受講生のめぐちゃん。

ニナは真学校開講前から定期的にいさどんにインタビューをする時間を持っています。真学校も3分の1を過ぎた昨日は、ニナからのこんな質問で始まりました。


ニナ:
いさどんは60歳の時に生前葬をしたと聞きました。それがどのような意味を持つのかを聞きたいです。

いさどん:
それは、物理的にも霊的にもみかちゃんの方が詳しいですよ(笑)。
土星は太陽の周りを1周するのに30年をかけます。それは人の人生にとっても一つの節目となるサイクルを刻んでおり、自分が生まれてから土星が1周する30年の節目を「サターン・リターン」と言います。
僕は30歳の時にお釈迦様に出会い、この生き方に目覚めました。それを実践してきて、40歳からこの生活に入りました。50歳の時の記憶はあまりありませんが、ある程度木の花の基礎ができて、自然療法プログラムや様々な場所で講演などをするようになったのが50歳ごろのことだと思います。
僕の人生は、30歳までは自分のための野心で生きてきました。そして30歳からは、与えられた宿命を実現する人生に入りました。そして60歳になり、その与えられた役割を最も大切なものとして生きるということが、60歳からの使命だと思いました。
だからと言って60歳以降の生き方が変わったかと言うと、僕としては全然変わったとは感じていません。自らの人生の終わりに向かい、完結していこうという意志が働いているだけです。ただ、60歳から明らかに体質は変わり、僕の体は大きくなりました(笑)。そして安定して高止まりしています。霊的にも変化はあるのでしょうけどね。

葬儀をするということは、旅立つ人よりも、送る側の人たちにとって意味があります。ですから、葬儀委員長だったみかちゃんの方が詳しいと思いますよ。ですから、みかちゃんに聞いてみるといいですね。

ニナ:
そうします。送る側にとっての方が意味があるというのは、どうしてですか?

いさどん:
通常の葬儀では、亡くなった人というのは次のステージに向かうだけです。ですから亡くなった人にとっては、葬儀があろうとなかろうとどちらでもいいのですよ。もう新たな方へと向かっているのですから。もしも亡くなった人が自身の葬儀に対してクレームをつけるようなら、それは生きることに対して執着があり過ぎるということですから、霊的には問題な存在です。そう思いませんか?

ニナ:
そうかもしれませんね(笑)。

いさどん:
僕はいつの頃からか、何かの機会があるたびに、自分が死ぬ瞬間をシミュレーションするようになりました。例えば高速道路を走っている時に、交通事故に出会うことをシミュレーションします。大きな病気でもすればそれが原因で死ぬこともあるでしょうが、今のところ僕には病気がないので、現実的に死ぬ可能性のある瞬間を常にシミュレーションしているのです。
その時にいつも僕が大切にしているのは、いかに死を受け入れていくかということです。いかにその現実に抵抗せず、それを越えた先の世界へ積極的に進んでいくか。実際に死んでみなければわかりませんが、僕は、生きている人たちが死んだ僕に対して何をするのかということはほとんど気にすることなく、旅立っていくだろうと思うのです。
残された人たちに対する意識は、生きている間に伝えています。残された人たちともしも霊的に再会するとしたら、死んだ先の世界に、例えば熊が冬眠するような穴があって、そこで休憩しているから後から来る人はそこに集合しよう、と言うかもしれません。そこは銀河旅行の駅のようなものですが、そこで何人の人が一緒に乗れるのかはわかりません。
まあ、これも今そう言っているだけで、実際はどうでもいいことです(笑)。

ニナ:
では、今生きている中で大切なことは一体何ですか?

いさどん:
僕にとって大切なことは、何もありません。あえて言うならば、人類の目覚めです。今の愚かしい悪夢から人々が目覚めることです。ただ、これは神様があえて人間に悪夢を見るように仕組んでいるという可能性もあります。悪夢を見れば見るほど、目が覚めた時に感動があるでしょう?ですからこれは、神の人類に対するプレゼンとか、はたまたいたずらか、どちらかですね。

ニナ:
それはどちらでしょう?(笑)

いさどん:
う~ん、どっちかなあ(笑)。両方かもしれないですね。なぜなら、神さまは楽しむことが最優先だからです。僕はこの神の仕掛けたゲームに、対抗心を持って臨んでいます。「このゲームには負けないよ」と(笑)。ですからそれがプレゼントであろうといたずらであろうと、どちらでもいいのです。
ただし、そのゲームを真剣にやり過ぎると深刻になります。このカラクリがわからない人々は気の毒ですね。

ニナ:
木の花のメンバーたちはそのゲームに対して深刻になっていると思いますか?

いさどん:
深刻ですね(笑)。

ニナ:
確かに昨晩の大人ミーティングで、メンバーたちが深刻になっている感じを受けました。

いさどん:
深刻になるのはいいのですが、深刻になる目的は、それに踊らされるのではなく、そのカラクリを知って、余裕を持って豊かに生きるということです。みんなは固いですね。深刻になった時にこそパフォーマンスをやったり冗談を言って、場をやわらげることです。
ただしそれは、深刻の意味がわかった上でやらなければいけませんね。わからないのにやっては、ただの不真面目ですよ。まあもっとも、僕がいつもそうしているのと同じようにメンバー全員がやり始めたら、メンバーの数だけ僕がいるみたいですから、それはそれで問題ですね(笑)。

ニナ:
コミュニティ全員がいさどんになったところを想像しちゃいました(笑)。

いさどん:
ゾッとするね(笑)。

ニナ:
木の花のメンバーがゴールに向かっていくことについて、どのように考えていますか?

いさどん:
目的地に着くことが目的ではないと、僕は思っています。大切なのは、そのプロセスです。だから大変な道があってもいいのですよ。

今日、「人格を学ぶ講座」の中で、あなたの地球暦を読みましたね。それを読みながら僕は、新人類が現れたな、と思いました。もしくは、これからの人類の可能性に出会ったと思いました。僕が憧れているアメーバのようなね(笑)。

今日、日和(木の花で生まれ育った女の子)が日記を書いて持ってきました。以前彼女が落ち込んでいた時に、日記を書いては時々僕のところに持って来ていたのですが、いつの頃からかやらなくなり、2、3日前に部屋を片付けたら久しぶりにその日記が出てきたのだそうです。それで彼女は、久々に日記を書いてみようと思いました。そしてそれを僕のところに届けました。
それを読んで、僕はとても感動しました。彼女は勉強が苦手で、自分のことをバカだと言っていますが、あんなにもポジティブに人生をエンジョイできる人になったなんて、と。これなら勉強なんかしなくていいね、と思いました。素晴らしいです。(日和の日記については、木の花ファミリーブログをご覧ください。)
そう感じた時に、あなたのことを思い出しました。新人類が生まれてきたな、と。僕は日記の最後にこうコメントを書きました。「日和に出会えて幸せです。」あの日記は、ぜひあなたにも読んでもらいたい。素晴らしいよ。勉強はできなくてもいいんです。

ニナ:
その日記のどこを特に素晴らしいと感じましたか?

いさどん:
彼女は、子どものころからとても明るい子でした。明るいけれどちょっと暴走気味のところもあって、子どもたちの間ではうっとおしがられることもありました。それで他の男の子たちに何となくいじめられるので、僕はいつも日和の味方をしていたんですよ。だから彼女にとって、僕は大事な存在だったでしょうね。しかし彼女自身は、勉強も苦手だし、自分のことをあまり評価していなかったのです。
そして中学校を出て、高校には行かずに2年間を木の花で農作業やお菓子作りをしながら過ごしました。そして外にアルバイトに行くようになり、3ヶ月が経ちます。その中で、彼女がネガティブからポジティブに変化していくプロセスがとても面白いのです。これまでにあったいろいろなことが全部素晴らしいことだったというのですから。まだ若いからそんなにたくさんの物語があるわけではありませんが、何しろ素晴らしい。言葉ではどう表現してよいかわからないので、ぜひ日記を読んでください。
彼女の姿勢は、ここのもっと小さな子どもたちにとってもいい刺激になっています。そして彼女より年上の子たちにとっては、自分の姿勢を見直すいい機会になるだろうと思います。

ニナ:
木の花で育った他の子どもたちにも興味があります。他の子どもたちといさどんとの関係はどのようなものですか?

いさどん:
それは一人ひとり違います。それぞれが独特です。それは大人のメンバーと接するのも同じですよ。どういうことかというと、その人の人柄に応じて接しているということです。こちらの伝えることをサッと理解する人もいれば、時間のかかる人もいます。
僕は一人ひとりとの関係を、プロセスとして捉えています。ですから時に、相手が感じている印象とはギャップがあることがあります。どういうことかと言うと、僕は相手の今の状態を、その人が歩んでいく物語の一部として捉えており、今はこの人には厳しく接することが必要だな、とか、今は甘くしておこう、というようにつなげて観ているのですが、相手はただ厳しくされていると感じている人もいれば、好感を持っている人もいて、受け取り方は様々です。
ですから子どもとの関係がどうかということを、一律に語ることはできません。それは大人との関係も同じことです。いさどんは策略家なんですよ(笑)。

ニナ:
調整しているということですね。

いさどん:
そうですね。その人がいかに大切なものを築いていけるかということのために僕は生きていますから。その中で一人ひとりにはそれぞれのサイクルがありますから接し方もそれぞれに違いますが、相手を大切に思い、愛していることに違いはありません。

ニナ:
ここを離れたメンバーについても興味があります。ここを離れる人は、いい感情を持って離れるとは限らないですよね。

いさどん:
そこは難しいところですね。いい感情とは何なのか、ということです。
離れていく人も、ここのやっていることは大切だということは理解していたからこそ、メンバーになったのだと思います。ところがメンバーでなくなるということは、それを最優先にできなかったということです。
その中で、その人にとっての「旬」が来ていなかったから離れていく人と、旬でありながら離れていく人がいます。後者の方が業が深いです。そして業が深い人ほど自分を否定したくないので、感情としては悪いものを持って離れていきます。旬でなかった人は、感情がどうであるかは別として、また旬が来れば戻ってきます。
僕はどの人に対しても、この道に戻ることはいつでも容認しています。ただし、人によっては無条件に戻ることを許してはいけない場合もあります。その人の性質にふさわしい振り返りがなければなりません。どの人も、メンバーになってから離れるということは、この生き方の大切さをわかった上で離れるということですから、離れていく自分に対する評価は複雑でしょう。自分に対して否定的になることもあれば、木の花に対して否定の矛先を向け、自分自身を肯定しようとする人もいます。それはどちらも、相手の都合の問題です。

今、世の中には様々な人々の価値観があります。それは西暦1000年から2000年にかけた1000年間の拡大の時代の名残です。それが今、2000年を越えて3000年へと向かう1000年が始まり、これまでの拡大の時代から、余分なものをそぎ落として真実に目覚めていく時代に入りました。世界はそのようなサイクルに入ったのですから、この視点は重要です。
そろそろ、こういったメッセージを人類に向けて発信していく必要があります。今はまだ、人類に対する影響はそれほど大きくないかもしれませんが、時が経過していくにつれて、そのメッセージの重要性に人々は気付いていくはずです。そして新しい時代の真理を求める人々が目覚めていくきっかけとなることでしょう。
僕の中ではふっと、今朝そのスイッチが入りました。その証として、今日あなたの地球暦を読んだのだと思います。もともとあなたのような人々は世界にいたのかもしれませんが、僕は初めて出会いました。僕は瞬間的に、あなたのことを宇宙人だと思いました。そう思いながら、自分も宇宙人だった、と思いました(笑)。だから人のことを特別だと思ってはいけませんね。
日和のことは全然宇宙人だとは思っていませんでしたが、夕方に彼女の日記を見て、勉強ができなかったり飛び抜けて優れたところがなくても、人はこんなに美しくなれるということを感じて、感動しました。これからは、何でもないところからそういった美しい人がたくさん現れてくることでしょう。

ニナ:
今日はとても良い流れだったようですね。

いさどん:
こういった生き方を目指して集い、コミュニティを創った木の花の人たちも、一人ひとりはとても一生懸命ですが、もう少し羽目を外してもいいのかな、と思いますね。エンジョイしなくちゃ。彼らはエンジョイするのがヘタですね。僕はエンジョイしてるでしょ?

ニナ:
いさどんのやり方はいい方法ですね(笑)。
日和や私の世代についても考えていました。大きな都市に住む人々にとっては、まだ物質的なものが大切になっていますよね。物質至上主義的な価値観の人々に対して、どのように考えますか?

いさどん:
大都市か田舎かは関係なく、人々は欲望や自我にまみれています。そして欲望や自我にまみれている分だけ、人工的な生き方をしています。お金や物と関わっていても、欲望や自我に翻弄されずにある程度コントロールできている人というのは、自然に近いですね。こういった分類の方が、人々が今の時代の混乱を解決していく方向性をつかむのに適切だろうと思います。

ニナ:
若い世代の人たちにとっては、例えばiphoneは重要なものですよね。

いさどん:
彼らにとっては、iphoneを介したネットワークが脳に直結しているのでしょうね。そこに出てくるいろいろな情報と脳の中の情報が見えないもので連結していて、一種の人工頭脳のような状態になっています。それはある意味、人間の単独の思考回路を越えて、ローカリゼーションからグローバリゼーションになるように、思考がコンピュータの中に入ってたくさんの人々とつながるので、ある意味進化ですね。ところが彼らは、一種の中毒にもなっています。それは人間の人格否定とも言えて、自分らしいオリジナルな人格を否定することになるのではないかとも思います。
それはきっと何らかの形で害が出てくることでしょう。しかしあの中毒状態の人々にやめなさいと言ったところで、意味はありません。それはひとつの時代のプロセスとして、どうなっていくのか興味を持って観ていくことです。彼らは確実に未来の地球を担っていきますからね。

そしてひとつ、彼らの中に可能性を感じるのは、自我が重要だった20世紀までの人類の視点からすると、新しい精神世界を開く可能性があるということです。実際に、今回の真学校参加者の中で最年少であるオレンジくんは、聖者になって人類を導くのだと言っていますね。ただし、自分の価値観を優先して他者と通じ合わなければ聖者とは言えませんから、そこは意識する必要がありますが、いつかは変身するかもしれません。ニナも宇宙人ですが、オレンジくんも宇宙人です。

オレンジくん
オレンジくん

ニナ:
彼は素晴らしい聖者になる可能性がありますよね。ユニークな方が適しているでしょうから。

いさどん:
そうですね。今は変わり者でも、世の中がその方向に進めば「素晴らしい」に変わる可能性があります。

ニナ:
時代は変わるものですが、それはいつ、どのように変わっていくのでしょう?

いさどん:
「人格を学ぶ講座」で、地球暦の惑星配置の構造について学びましたよね。惑星同士が創る角度が個人の人生にどのように関わっているのかということをお話ししましたが、あれは我々の思考で解釈しやすいように、便宜上そうしているだけです。実際は、瞬間瞬間どの角度でも、星々は対話をしています。たくさんの楽器がそれぞれの音を出しながら、全体で交響曲を奏でているようなものです。その中でターニングポイントというものはありますが、時代がいつ、どう変わるのかというと、例えば1月1日になって新しい年を迎える時に、前の日から比べて元旦に何かが変わったかというと、何も変わりませんよね。つまり変化というのは、ゆっくりじわじわと進むものなのです。

ニナ:
講座の中で、時代は既に変わっているというお話が出てきますね。

いさどん:
そうですね。日本では、毎年だいたい12月21日に冬至を迎えます。冬至は1年で最も太陽のエネルギーの少ない時です。しかし気温が最も寒くなるのは、冬至からだいたい1ヶ月後の1月下旬から2月にかけてでしょう。太陽の光の量は増えていっても、空気や海などの都合で気温の変化は遅れて進むのです。夏も同じですね。太陽の光が最も多いのは6月21日の夏至ですが、暑くなるのは7月、8月ですね。
それと同じことが、宇宙の星々と地球上に起こる現象との関係にも言えます。星々はターニングポイントを過ぎたことを示していますが、それが地球上で実際に現象として現れるのはもう少し先なのです。例えば冥王星のサイクルから観ていくと、1913年は、冥王星が太陽を1周する248年のサイクルの中で闇のピークでした。しかし、その闇のピークに生まれた人々によって、実際に第二次世界大戦という闇が表現されたのは、その約30年後です。そのように、星の動きと実際の現象には時差があります。

スクリーンショット 2018-02-23 15.29.29

今、宇宙的にはターニングポイントを過ぎていますから、あとは我々は現象化される時を待つということです。

ニナ:
おもしろい!

いさどん:
こういった捉え方は、単なるスピリチュアル的思惑で編み出したものではなく、天文学的にも歴史的にも、それから先人たちが残したデータの中にも盛り込まれているものです。それを自分の都合のいいように受け取るのではなく、様々な角度から見てつなげて読み解いていくというという作業が重要です。
面白いのは、私たちは研究家ではありませんが、自然とこういったことが伝えられる生き方をしているということです。

ニナ:
先ほど、自我をコントロールできている人は自然と近いというお話がありましたね。そのことについてもう少し詳しく聞きたいです。

いさどん:
大都会というのは、人工の極みの世界です。それは自然の中に生まれた矛盾の世界と言えます。
しかし、大都会の中にも実は自然はあります。そこで生きている人々は当然空気を吸いますし、食べ物を食べるということは土を必要としているということです。気候が変わればその影響も受けるでしょう。ですから大都会の中にも自然はあるのですが、本来の循環からすると異常な自然をつくっているのです。そういった場を快適だと思う人は、大都会の波動に合っているということです。
一方、人間が創ったそのような疑似的自然に対して、違和感を感じる人たちがいます。そういった視点から区別した方が、人を分類する時に、単に大都会に住んでいるのか、田舎に住んでいるのかという分け方をするよりも、有効だということです。

ニナ:
人工的な自然をつくる人々に対して、どのように思いますか?

いさどん:
そういった人々は、その人個人にとってもそれが今重要なのだというプロセスを歩んでいるのでしょうし、同時に、そういったことが地球上で重要に思われているという時代的プロセスを歩んでいるとも言えます。その矛盾は様々な形で地球上に広がっています。元々私たちのベースである自然に対して、矛盾が増えているのです。そこで人間の叡智を使いながらどう自然と共生するのかというと、それにはまず、人間が自然を第一に考えることです。そして、その姿勢をベースとして人間の叡智を使っていくのが、これからの21世紀から30世紀までの人類の在り方だと思います。それは人類の地球上での進化の過程を考えた時に、もっとも無理のない在り方です。

ニナ:
その進化とはどういうものですか?

いさどん:
人間はこれからも進化していきますよ。世界観がもっと広くなっていきます。今、地球はグローバル化されて、人間の意識からしたら狭くなりました。これからもっと狭くなるでしょう。いずれは国境もなくなり、通貨も共通のものになる。物理的にどこまでということは語れませんが、思念はもっと宇宙的なものになります。
今のように科学やテクノロジーが発展しながら、人間の世界観が進化しなければ、確実により多くの矛盾が地球上にもたらされ、人類は他の生命と共存できなくなるどころか、地球と共存することができなくなるでしょう。そう言うと、人間と地球が対等のように聞こえるかもしれませんが、実際は地球から人類が排除されるということです。

ニナ:
私も同じように感じています。

いさどん:
地球としてはこの不良品のような人類をリセットして、新たな生命との共生を始めるだけです。地球の歴史を振り返ると、過去6億年の間に6回大量絶滅が起きています。人間は7回目の引き金を引くかどうか、というところです。
このサイクルを何億年という単位で俯瞰して観ると、人類が7回目の引き金を引いたとしても、地球にとっては新たなサイクルに入るだけのことであり、その後に現れる生命は人間よりもさらに進化しているのですから、地球からすれば歓迎すべきことでしょう。今の段階で人間が人間であることに囚われていると、それは自分たちの滅亡ということで大事のように思えるのでしょうが、地球の歴史から見れば何度も起きてきたことのひとつに過ぎないのです。
ですから、人類には二つのスタンスがありますね。ひとつは、世界観を大きく広げ、月が満つればかけていくように、人類の存在もいずれは終わりが来るのだという捉え方。それはネガティブなものではなく、さらに進化した次の生命へバトンタッチしていくといういうことです。
もう一つは、個人としてどう在るかということ。意識のスケールが大きくなり、人類のサイクルを超越した意識になれば、物語を観ているようなものでしょう。

ニナ:
木の花のメンバーにとって、自然や環境とは大切なものですか?

いさどん:
みんな環境意識は高いですよ。だからこの生活をしています。
僕は環境活動家とはちょっと違います。環境が悪くなるのも一種の学習であると捉えているからです。環境問題とは、自分たちの行いに対する明快な答えをもらって学習するチャンスなんですよ。人間はバカなことをやらないと、学習できないのです。
人間からヒトになると、愚かなことをやらなくても成長していくようになりますから、地球上に現れる現象は確実に穏やかになることでしょう。そうすると、僕の故郷である金星のような世界になりますね。人がみんな菩薩のようになってしまい、調和が当たり前になるのです。それはある意味、生命力がないとも言えるでしょう。地球は様々な問題が起きて実にダイナミックで、生命力にあふれています。ですから、何がいいのかはわからないですね。

ニナ:
地球と人間の関係というのが個人的な話にもつながって面白いです。

いさどん:
個人である自分を基準としたものの見方があると同時に、我々は人類であり、さらに視野を広げると、我々は神でもあるのです。だから面白いのですよ。人間が完璧に悟ってしまうと、神さまも、人間も退屈でしょう。何もない時が永遠に続くのですから。

ニナ:
それでは面白くないですね(笑)。

いさどん:
だから僕はある意味、金星では不良品でした。完璧な世界に退屈してしまったわけですから。それでも金星の味を覚えているので、地球に来ると「ひどい世界だ」と愚痴を言うことになりましたね(笑)。

ニナ:
金星の記憶というのはどのようなものですか?

いさどん:
太陽系は、太陽と九つの惑星が連携してできているでしょう。その中で極めて精密に太陽と連携しているのが金星です。金星の軌道はほぼ真円で、ブレがありません。太陽系は太陽を指揮者として素晴らしい生命の交響曲を奏でており、それを現象化する星が地球ですが、その中で金星の役割はメトロノームです。もっともオーケストラにはメトロノームはありませんから、何に例えたらいいのでしょうね。もっともベースとなるリズムを刻むものであり、すべての指針です。その星が女性性を表しているというのも、面白いですね。そして愛がベースになっている。そう観ていくと、宇宙を創造している神さまの心が感じられませんか?

僕が過去に金星にいた時の話は、以前にも少し話しましたね。地球の記憶ほどたくさんの物語を語ることはできませんが、印象は残っています。この富士山麓に移住してからのある夜、車でこの近くを走っていた時のことです。その時は、霧のような雨が降っていました。道路にはいろいろな高さの街灯が経っていて、そこにも霧がかかっていました。そうすると、霧の柱が立っているように見えるのです。のっぽもいれば太くて低いのもいて、それが虹のようにいろいろな色をしている。それを見た時に、僕は思い出しました。「この景色はどこかで見たことがあるぞ!」と。それが金星の風景です。
のっぽや低くて丸いのやいろいろな形があって、高いものだと地球の基準で言ったら3メートルから4メートルほどになるでしょうか。低いものでは1メートルくらいです。それは何かというと、魂なのです。今はそれを形で表しましたが、地球のような物理的三次元で表現されるものではありません。僕は人と話す時に、表に表れている形よりもその人の魂を見て話しますが、それと同じようなものです。形状の違いは、その人の心の性質を表しています。

地球上で人間を観ると、色がとても美しいものもいれば汚いものもあり、歪んでいたり濁っていたり、ずっと複雑です。しかし金星の風景はぼわーんとして、すべてが虹のように、いろんな色が入っています。全体はピンクがベースです。それに対して個々の魂は、虹の七色の中でもピンクが強いとかブルーが強いとかいうように個性があります。霧の中の風景を見ながら、それを思い出したのです。

金星人たちはどうやってコミュニケーションを取るのかというと、震えるのです。震えながら「ブウッ、ブウッ」と、背が高く細い魂なら高い音、低くて太い魂なら低い音というように、それぞれの音を出して会話しています。そしてすべては虹であり、光であり、何より友好的です。光は七色が調和して神様の光になっているのですから、どんな色をしていても調和的に決まっているのです。ですから会話の内容がどんなものであっても、すべてが愛であり、素晴らしい世界です。 ──── つまらないでしょう?(笑)

ニナ:
でもとても温かい雰囲気ですね。

いさどん:
そうですね。そこには苦痛がありません。だけど、苦痛のない不幸というのもあるんですよ(笑)。僕は霧の中の風景を見て、あれは自分の家族だと思いましたが、その家族のことがあまり好きになれなかったのでしょうね。だから地球に来たのです。
これはとても面白い話ですから、そのうちに木の花劇団の劇にするといいかもしれませんね。

ニナ:
その劇を見てみたいです(笑)。
先ほど金星は女性性を表すという話がありましたが、男性性と女性性ということについて興味深く感じています。一般社会の男性性と女性性とは違う意味で使われていますか?

いさどん:
そうですね。今の一般社会で言われている男性性と女性性というのは、物理的な面に偏っています。生殖のための男性性と女性性というのはありますが、それはさして重要ではないですね。それは機能的な役割分担のようなものです。
太陽系の惑星の軌道を見ると、金星は真円を描いて、安定した響きを発していますね。それは例えば家にお母さんがいて、いつでも帰って来られる癒しの場があるからこそ子どもたちは安心して外に冒険に出かけ、戻ってきてはお母さんのもとで癒される、というような感じです。男性は、女性が安定して住まいを守ってくれることによって、外で何かを勝ち取ってくることができます。男性性と女性性というのは、生きていくための役割分担であり、それぞれのポジションのようなものです。女性性とは、男性性がダイナミックに動けるためのベースとなるものとも言えます。揺らがない柱のようなものですね。

私たちのいる現象世界は、変化する世界です。それに対して絶対不動のものが神であり、それは目には見えない安定した柱です。そしてその絶対不動の柱があるからこそ、周囲はダイナミックに変化していくことができます。そうやって生命を躍動させていくのが男性性の役割です。それはパワーであり、変化です。元の部分が安定しているからこそ広がっていくことができるのですが、元がないまま広がっていってはバラバラになってしまいます。その元になるものとは、目には見えない、始まりの意志のようなものですね。カタカムナの講座でお伝えした通り、陰が主で陽が従とはそういうことです。

講座では、カタカムナの5首と6首には表の解説と裏の解説があるということをお話ししましたね。あなたはその解説が欲しいと言いました。日本人の受講生は誰も言いませんでしたから、それを欲しいと言うあなたはただ者ではないと思いました。重要なのは、裏の解説です。
裏の解説は、男女の性についてのものです。男女の役割分担にはどのような目的があるのか。その役割分担とは、男女の交わりのことです。カタカムナの裏は、ほとんどが性の解説になっています。この宇宙の法則はすべての生命のモデルであり、生命が現象化する時、それは雄と雌の交わりによって創られます。それは神が行うものですから、神聖なものです。その時に、正しい交わりの作法というものがあります。それが裏の解説です。

現代の人々はその神聖さを忘れてしまいましたが、男女の交わりとは「カムウツシ」であり「アマウツシ」です。「カムウツシ」とは、潜象界からの真理を降ろすことであり、男性の役割です。「アマウツシ」とは、現象化した宇宙の真理を人間界へと現すことであり、これは女性の役割です。ですから男性がカムウツシをし、それを女性がアマウツシします。物理的な構造で言うと、男性は男性器によって潜象界から現象界へ真理の柱を立て、女性はその種を子宮に受け、そこに回転が生まれます。するとそこにも陰陽が発生します。それが「カムミムスヒ」と「タカミムスヒ」です。そして現象化して生まれたのが、地球です。
銀河も太陽系も地球も、すべて同じ構造になっています。それを忠実に表現しているのが、男女の交わりなのです。それは「アマ」の精神と、さらにその奥にある「カム」の精神を再び人間に復活させるという目的があります。交わることは、それを人間に復活させるための儀式なのです。

ですから、単に子孫を残すための行為としてそれを行うことは、意識としては低いものですね。それはすべての動物や植物が行っているのと同じことでもあり、ある意味汚れのない美しいものですが、高いものではありません。
しかし交わることには、ヒトという高い存在のものが行う行為、もしくは人間がヒトになるための過程として宇宙の真理を降ろすための作法としての行いとしての意味があるのです。興味がありますか?

ニナ:
一般社会で言われていることとはまったく違うものですね。

いさどん:
そう、まったく異質なものです。例えばエクスタシーについても、一般社会では単に官能を楽しむものであり、欲求として求めるものになっていますが、それは日本で言う「マツリ」の精神と同じで、人間が自我を忘れ完全にトランス状態になると、そこに神が入るのです。それがカムウツシ、アマウツシのエクスタシーの状態であり、無我の境地です。
そうすると人は高い意識波動になり、さらに直観が働くようになります。そしてひとたびそこにアクセスできるようになると、毎回それを行わなくとも常にその精神状態を保てるようになります。ただし、通常の人間は低いところにいますから、その低い位置の欲求を振り払って振り払ってそこまで登ってきて、その意識に至ってアクセスすることがなかなか常人ではできないということです。そういったことが、カタカムナの解説には書かれています。
ではその解説を書いた人々が実際にその境地に至ったのかというと、挑戦したであろうことは確認されていますが、そこに至ったということはどこにも書かれていません。後にその解説書を研究して世に広めていった人たちの人間性を観ても、その境地には至っていないだろうと僕は思うのです。そこに至っていない人々が勉強会を開いてそれを世に広めたとしても、それは偽物の波動でしょう?ですから今現在カタカムナを広めている人たちも、裏の解説には触れていません。

僕は人に何かを語る時、相手の精神状態に合わせて語る内容が変わっていきます。人は自分のニーズに合わせて色を付けて物事を解釈するので、真実とまったく違った話になったりするのです。ですからこういった話をする場合でも、聞く側は無色でなければなりません。
ニナは5首と6首の解説の英訳が欲しいと言いましたね。それであなたの人柄を観ていて、僕は伝えてもいいと思いました。それは、一般の人々が思い描くのとはまったく別の世界です。あの裏解説は極めて説得力のあるものであり、今世の中でカタカムナを広めている人々に見せてあげたいと思っています。彼らは頭で学んでいるだけで、実際に経験していない世界を語っているのですから。それは、エコビレッジとはこういうものだと語りながら実際にはその生き方をしていない人々と同じです。すべては実体験のもとに立証されなければなりません。
あなたは裏解説の英訳を読んでどう思いましたか?

ニナ:
とても面白いものだと思いました。真学校では「性と宇宙」の講座もありますよね。

いさどん:
そうですね、そこでそのことについて語ります。実技指導はないですよ(笑)。
本当は、これはやたらと伝えてはいけないものです。なぜなら、未熟な人々はそれを自らの色を付けて解釈し、歪めて受け取るからです。そうすると、聖なる伝承が歪んでしまいます。ですから、こういったことは昔から、意識がその段階に至ったことを師匠が確認し、そして口伝で伝えてきたのです。
1ヶ月間の真学校では、そのことについて皆さんにお伝えしていきます。ですから皆さんにも、自らの色を付けることなく心をフリーにして学び、たとえ今はそこまでの段階に至らないとしても、実生活の中で高みを目指していってもらたらと思います。

 


21世紀は 時代に乗ってスイングバイ

真学校が始まってちょうど1週間が過ぎた2月26日、受講生のめぐちゃんはいさどんと面談の場を持ちました。「自分の活かし方をもっと主体的に考えたい」というめぐちゃんに様々なアドバイスが伝えられた後、最後にこんな話がありました。

「区切りをつけるために真学校に来ました」と語るめぐちゃん
区切りをつけるために真学校に来たというめぐちゃん ー 写真は講座「創造性と芸術」より

いさどん:
これから自らの未来に対して、どのようなビジョンを持っていますか?何かが観えるのか、観えないのか、観えているとしたらそれをどうするのか。

めぐちゃん:
観えていないと思います。

いさどん:
観えないとしたら、それはとても幸せなことだよ。観えないということは、未知だから怖いということでもあるよね。しかし逆に言うと、観えないからこそ何かに委ねることができる。今まで自分の考えで生きてきて、人生にあまりいい印象を持っていないとしたら、自分の考えを手放すことは新しい世界に出会うチャンスでもある。だけど怖がりな人は、見えないとどうなるかわからないから、未知なるものを恐怖に感じるんだよ。
人は生まれてきて、それぞれの人生を歩むけれど、最終的には必ず死を迎える。その人生の卒業の段階で自らを振り返った時に、その価値は物理的なもので決まるのではなく、どの意識レベルで生を全うしたかということが大切だよ。どのような意識レベルで自らの人生を誇り、有意義に感じて、未練なく旅立っていけるかということの方が、これからは特に重要になる。最終的には一人ひとりが自分で結論を出すことだけど、僕は誰しもそのように生きてほしいと思っているよ。
今回の真学校の受講は、あなたにとってとてもいい区切りになるね。

めぐちゃん:
区切りをつけるつもりで来ました。真学校が終わった時には、心境に何らかの変化があるだろうと思っています。その新しい心境で動き始めるしかないというところまで自分がきている、という意識でいます。

いさどん:
それならば、そのことも自らの中に入れながら真学校の受講を続けていくといいね。地球暦からあなたを読み解くと、緻密にものを観ることが欠けていたり、勉強はしても自らの意志で自分を切り替えていくことをしないということが読み取れる。それは、時期が来ないと動かないということでもあるね。もうひとつ、何が大切なのかと思考はするけれど、けじめをつけてピシッと行動しない。思いはあるけれど、けじめがつけられない。

めぐちゃん:
そうだと思ってました(笑)。

いさどん:
それはどうしたらいいのかというと、何かに乗ればいいんだよ。一番いいのは時代に乗ること。しかし誰もが時代を読めるわけではないから、たとえばこの真学校を受けるのはいいきっかけになるね。自らの意識を創っていくことになるから。今の時代を生きる人々は大きな時代の節目にいるのだから、それに乗っかって一緒に行けばいい。

たとえば、日本が小惑星の観測衛星を打ち上げたでしょう?アメリカが天体を探査する時にも、まずロケットを打ち上げて、地球の周回軌道に乗せるんだよ。そこから周回軌道を離れて目的の星に行く時に、ロケットの推進力だけではものすごく時間がかかる。では何を推進力にするのかというと、地球の重力を利用するんだよ。地球の重力を利用しながらその周りを回って推進力を上げ、あるタイミングで目的の方向に向かってピッと軌道修正してやると、地球の軌道を離れて目的地へ向かっていく。これをスイングバイと言うんだよ。ロケットだけではそこまでやれないから、地球の推進力を利用するんだ。

めぐちゃん:
『オデッセイ』という映画にその話が出てきました。

いさどん:
自分の能力で目的地に行けたら言うことはないけれど、プラスαという意味では、この真学校もスイングバイだね。そういうふうに使い方を考えればいい。なんでも自分でやらなければと思う必要はないんだよ。

もっと力強いスイングバイは、2012年12月21日の銀河の冬至から始まった、新しい時代の流れ。僕はこれだと思う。この時代の区切りのタイミングに乗って、今人類は、21世紀の新しい時代にスイングバイすればいいんだよ。
しかし多くの人は、それを利用したがらないね。新しいところへ行くことを怖がっていたり、未知なるものを理解できないから嫌だと言っているが、そんなことはどうでもいいんだよ。見えようが見えまいが、時代はそのように進んでいる。怖かろうがわからなかろうが、まずはドーンとそこへ乗っていくと、新しい景色が見えてきて「何だ、こういうことだったのか!」となるんだよ。そこに乗らなければ、賞味期限を迎えて終わっていく時代の流れに恐怖を感じることになる。

めぐちゃん:
今朝目が覚めた時にふっと湧いてきた言葉があって、それは「わからないものに寄り添っていく」ということでした。

いさどん:
それこそ天の声ですよ。あなたに向けた、神さまの声です。

めぐちゃん:
起きたばかりで忘れてしまうと思ったので、それだけすぐに日記に書き留めました。

いさどん:
そういった閃きから生まれた発想を僕はずっと語ってきました。講座でも子どもミーティングでも大人ミーティングでも語って来ましたが、僕はこのように人間の姿をしているものだから、人はそれを聞いてもなかなか天の声としては受け取らないね。しかしあなたが朝目覚めて、ふっとそれが湧いてきたのだとしたら、それこそが天の声です。それを活かしていくことです。自分で計算して幸せをつかもうとしているようでは、それこそ昨日観たNHKの『稼げる大人になる!?~加熱する受験競争』という番組に出てきた人々のように、亡者のように生きることになってしまう。もっとエンジョイしながら、時代の変遷を楽しんでいけるといいね。
人間は地球に対して責任があり、これからの時代の人々はその責任を果たした結果、未来の優れた時代を地球と共にエンジョイできるようになる。時代の要請を受け、本来求められるべき道を歩もうと思ったら、自分の意志を捨てること。自分の意志を捨て、天の意志に沿う。そうすると、最もあなたが活かされるようになるよ。
とにかく3月18日の真学校の修了までを過ごしてみましょう。その中でいろいろな心の変遷をたどりながら、観えてくるものがあるでしょう。そしてあなたが自分で自分に結論を出すことです。

めぐちゃん:
今まで仕事をしてきた中で、仕事自体は充実していたけれどだんだん孤独感が募っていました。

いさどん:
あなたがそう感じるのは、あなたに旬が来ている時に、周りの人々が相変わらず業績とかお金とかいうものに取り込まれて生きていたら浮くからでしょう。浮くと言うと悪いことのように聞こえるかもしれないが、それはもうそこには合わないのだから他のルートへ進みなさいというスイングバイでもあるんだよ。それは後押しであり、神さまのメッセージだね。たとえば、あるタイミングで病気になることも、それまでの生き方の結果として病気になったのだから、そこに気付いたらそろそろルートを変えなさいというメッセージでもあるんだよ。そうやって、活かしあっていけばいい。

ものすごく大きなエネルギーが使われて地球が動き、時代が動いている。それに比べたら我々一人ひとりのエネルギーなんてないにも等しいのだから、個人の願望がどれだけあろうと、時代の波に対してはどうしようもない。だから逆に、その大きなエネルギーを利用すればいいんだよ。人類はこれまで、個人的に生きることにエネルギーをかけ過ぎた。だからこそ、これからの人は群れて生きる必要がある。みんなのエネルギーを使いながら、みんながそれぞれを活かしあっていく。それもスイングバイだ。これが新しい時代の、極めて効率的な生き方だ。

 


 

<後日談>

それから2週間近くが過ぎた3月10日の夜、ファミリーメンバーと受講生が参加する「大人ミーティング」の場で、上記の文章がシェアされました。文章が読み上げられた後、いさどんはこう言いました。

「今改めてこの文章を聞いていたら、面談の時の感覚がリアルによみがえってきました。あの時のめぐちゃんからすると、今のめぐちゃんは別人だね。もうスイングバイした状態になってるよ。」

上記の面談以降、めぐちゃんはどんどん変化し、講義中もいさどんとの掛け合いの中で宇宙の本質をひも解く発想が次々と湧き出すようになり、今では独自の視点を積極的にシェアして全体の学びを深める役割を果たすようになりました。その言葉には力強さがあり、受講当初のめぐちゃんとは確かに違っています。

めぐちゃん
あふれだす発想をシェアして、場を活性化するめぐちゃん

「3月3日のお誕生日会の時に受講生で人形劇の出し物をしたけれど、あの日を境に自分の中で何かが切り替わった感覚がある」とめぐちゃん。(詳しくは、後日掲載予定のめぐちゃんの日記をご覧ください。)

一人の変化は、世界の変化の第一歩。
明らかに、未来へつながる新たな動きが始まっています。

 

餅つき大会で餅つきに挑戦するめぐちゃん。「とりゃ~~~!!」
餅つき大会で餅つきに挑戦。「とりゃ~~~!!」

 


2日目午前「木の花ファミリープレゼンテーション」

1ヶ月間の真学校、最初の講座は、木の花ファミリーの暮らしや活動について紹介する『木の花ファミリープレゼンテーション』です。

プレゼンをするいさどん
プレゼンをするいさどん

 
01

これは、真学校で最初のプレゼンテーションです。木の花ファミリーの総合プレゼンテーションですが、一番最初のページはこんな言葉から始まります。

「人間の求める幸せの結果

僕はよく、このことについて語ります。それは、なぜ木の花ファミリーができたのかということにもつながるからです。
木の花ファミリーは、個人的な目的によって創られた場所ではありません。厳密に言えば、それは目的を持って結成されたとも言えるかもしれませんが、木の花ファミリーが存在する一番の目的は、今の社会がどのようになっていて、それにどのように貢献していくかということです。

人は生きていく時に、それぞれ自らの精神性にふさわしい目標を持っています。毎日晩酌のために一日を過ごしている人もいれば、ギャンブルで当たることを目標としている人もいます。日本には多くの依存症がありますが、ギャンブル依存の中には宝くじ依存症の人々がいます。宝くじを当てることばかりを夢見て、それを目標に毎日を生き、その結果破産する人々がいるのです。
おもしろい話があります。東京オリンピックは、東京都と国がお金を出し合って開催します。東京都の負担金の約半分は、宝くじによる収益です。国も、負担金の約半分を宝くじでまかないます。そしてもうひとつ、オリンピック実行委員会の資金は、すべて宝くじでまかなわれます。
東京都の負担金の半分が宝くじなら、残り半分はどこから来るか知っていますか?そう、税金です。ではその税金はどこから来ると思いますか?都民だと思うでしょう?実は残り半分は、自治体が自治体を運営するための宝くじでまかなうのだと言います。テレビをよく観ていると、宝くじのCMがたくさんあるでしょう。もともと国や自治体の予算も宝くじでまかなわれているのです。それが東京オリンピックの費用に充てられたというだけのことです。

宝くじを買って得する人は、どのくらいいると思いますか?宝くじの売り上げの約8割は、売る側の収益になります。そして残りの2割を買った人に還元します。ですから、打率は2割以下ですね。パチンコと同じで、トータルで得をすることは決してありません。保険もそうです。外資系の保険会社は、人ではなくインターネットやテレビを使って勧誘をします。そうすると人件費がかからないので利益が大きくなり、売り上げの8割以上が収益になる会社もあります。そして、保険に入れば将来が安心だとうたいながら、人々の不安を煽っているのです。ギャンブルと同じように、決して健全に還元されない形でこの世界が回っているのです。

人間が幸せを求めてきた結果、社会に何がもたらされたでしょうか。

人々の中に不安があってそれを解消しようとしたり、あるいは何か目標を持ってそれを成し遂げる時に、その行動は世の中にたくさんの矛盾を生み出しています。そうやって今の世の中は動いています。それは本当のことです。それをわかることです。
もしもそのような矛盾がなくなり、世の中が健全になるとどうなるのかというと、とてもシンプルな世界になります。今の世の中はバブルのように、8割、9割が不要なことで成り立っています。その不要なものをそぎ落としていくと、どのような生活ができるでしょうか。

3月21日に、私たちはロータスランドをオープンします。そこではとてもおいしくて健康な食事が、とても安い金額で食べられます。
食材の多くは自家製のものを使い、建物の建築も7割ほどは自分たちでやっています。一般企業が人件費を払ってお店を運営するとしたら、こんなへんぴな所であんなお店は作りません。もっと利益の上げられる、条件の良い場所を選ぶでしょう。しかしここでは、それができる。なぜなら、木の花ファミリーという暮らしがあるからです。
そこで得る収益は、とても利益率が高い。ではその利益を何に使うのかというと、みんなでハワイ旅行に行くわけではありません。どうするかというと、次の木の花ファミリーの活動を充実させるために使います。そうやって普通の人々ができないことをやり、こんなふうに暮らせるんですよ、ということを社会に還元していくのです。これは社会運動であり、大いなる実験です。それはとても充実した、安心で、楽しい暮らしです。こういった暮らしを世の中の人々がするようになったら、世界は本当に平和で、少ないエネルギーで豊かに暮らせるようになるでしょう。

さて、20世紀型社会がわたし達にもたらしたものは何でしょうか。

 

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「自由」とは何か ~ ウェルカムコンサートより

初日の夜は、ウェルカムコンサート!
『Welcome to 木の花ファミリー』に始まり、木の花楽団のオリジナル楽曲の数々で受講生のみんなをお迎えします。

子どもたちによる『みつばち小学校のうた』

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最後は『みんなで踊ろう』!
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「今日は、かつて自分たちが星であったことを思い出して、星という視点からこの世界を観ることの始まりの日です」とメインボーカルのみかちゃん。

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そして木の花合唱団による『この星の上で』の前に、いさどんがこんな話をしました。

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今、ちょうどみかちゃんが僕が話したいことの入り口について話してくれました。それは「自由」ということについてです。

今の時代の人々は、「自由」というと、何でも自分の思う通りにやれること、好きなようにできることだと思っています。それは人それぞれに自分自身を好きなように表現するということですから、その人の心の在り方によってできる世界が変わってきます。わがままな人はわがままな世界を創り、自分を閉じ込めて苦しめる人は苦しい世界を創るのです。

そこで、もうひとつ違う「自由」があります。それは、この世界の自由です。

カタカムナには、「クニツクリ」という言葉があります。クニツクリとは、地球創りのことです。日本、オランダ、中国、アメリカ・・・地球上にはいろんな国がありますが、「クニ」という言葉には、「自由が定着した所」という意味があります。
現代の人々の思考は、まず自分があり、自分の側から見てこの世界が思うようになるかならないか、という捉え方になっています。そしてこの世界のルールが自分に都合の良いものであることを望んでいます。しかし真実は、まずこの世界があり、その中に自分がいるのです。つまり、先にこの世界のルールがあって、そのルールのもとに自分が生きているということです。そこで自分の願望とこの世界のルールが合わないと、人は「自由じゃない」と感じるようになるのです。

クニは、その中にいる人間一人ひとりに何を求めているのでしょうか。そして、人間一人ひとりはどのような役割を果たしてクニを維持していくべきなのでしょうか。その両方が連携した時に初めて、この世界は健全になります。
現代の人々にとっての自由とは、ものごとを自分の思い通りにするというものです。しかし、そのような人々がたくさんいたら、はたして世界に秩序は成り立つでしょうか。例えば、それは自分の体でも同じことです。自分一人分の健康は、体の健全な循環の中にあります。ところが、心が「ああしたい」「こうしたい」という余分な思いを持っていると、体のバランスが崩れ、健康ではなくなるのです。
世の中もそうですね。社会を構成する一人ひとりが「ああしたい」「こうしたい」とバラバラであったら、全体が無秩序となり、その中で争いが起きるようになります。それは、体で言えば病気の状態です。

この世界は、個々の存在の自己主張によって保たれているのではなく、個々のものが個性を発揮し、それが連携して大きなネットワークとなることで成り立つようになっています。その構造を、自分に囚われず、自らの内からも外からも観える状態 ──── それが本当の「自由」なのです。

そのような美しいネットワークによって生まれる形、組織、星を、「クニ」と言います。それは、本当の自由の世界です。そこへ向かわなければ、地球の未来はありません。
今、このことを皆さんが学ぼうとしているということは、皆さん一人ひとりの健全で楽しい、豊かな毎日につながるということもありますが、一人ひとりが健全で楽しく豊かな毎日を送り、そのネットワークが広がっていったら、日本も、オランダも、中国も、アメリカも、世界中の国が豊かになって、地球が健全になることでしょう。個人の幸せは、世界中の健全と豊かさにつながらなければならないのです。

これから、そういった時代が始まります。僕がこの1ヶ月間を通して皆さんにお話しする話は、その時代の現れです。そして皆さんは、縁があって出会った、その時代の扉を開ける人たちです。それはとても充実した大切な人生を生きるということです。そうすると、皆さん一人ひとりの毎日が豊かで、楽しくなります。そうでなければなりません。世の中の扉を開けるとともに、皆さん自身の扉も開くのです。

これから、『この星の上で』という歌を歌います。今の人類の姿を見ていると、地球のがん細胞のようですね。人間以外の生命の視点から見れば、迷惑な存在であるとも言えます。しかし本来人間は、地球生態系ネットワークの指揮者でなければなりません。自らが模範となり、この地球というクニを、自由で、豊かで、みんなが幸せな世界にするのが人間の役割です。
私たちは何のために生まれてきたのか ──── そのことを問いかけ、歌った歌です。お聴きください、『この星の上で』。

 

この星の上で

宇宙の暗やみに浮かんでる
青い小さなこの星よ
大きな光の手に包まれて
今生まれ変わろうとしている

限りなきいのち与えられ
この星の上で生きている
はじめから全て与えられ
この星の上生きている

起こりゆくことの全ては
善きことのためにあると
悲しきことも苦しきことも
全てこの身に受けて

何のためにこの星に
降り立ったのかを
知らないままで暗やみの中
迷いながら生きている

何のためにこの星に
降り立ったのかを
思い出したらもう迷わない
いのちの道を歩みはじめる

やがて全ての人々が
互いに心をゆるしあい
やがて全ての人々が
光り輝き出すだろう

限りなきいのち与えられ
この星の上で生きている
はじめから全て与えられ
この星の上生きている

この星の上生きている

 

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1日目「皆さん一人ひとりに、新しい自分自身をプレゼントします」

始まりました!1ヶ月間の真学校2017!

さて、これからどんな1ヶ月間が紡がれていくことでしょうか。
講座の内容など、当サイトにて随時発信してまいります。皆さま、どうぞ遠隔参加ください。まずは開講にあたってのいさどんの挨拶をご紹介します!

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皆さん一人ひとりに
新しい自分自身をプレゼントします

— 1ヶ月間の真学校2017開講の挨拶 ―

最近僕は、自分はなぜこのような人生を生きているのだろう、と考えることがあります。それは自分の意志ではないと思っています。過去の歴史からつなげて今の時代を観てみると、世界は今、変革の時を迎えているということがわかるからです。

皆さんは、一人ひとりそれぞれの人格を持ち、それにふさわしい人生を生きています。そのふさわしい人生を、多くの人は、自分の意志で選んで生きてきたと思っています。
しかし、今の時代の社会を、自分で選んでつくることはできません。世の中が今こうなっているから自分はこういう人生を生きているのだ、というように人は捉えます。人によっては、自分の思うような人生が生きられなければ、自らを犠牲者のように捉える人もいます。時代を思うようにはできないということも、自分の人生は自分でつくってきたのだと思うことも、どちらも実は違うのではないか、と思うのです。
今、あえて「違うのではないか」と言ったのは、そのことを明快にするためにこの1ヶ月間の真学校があると考えるからです。

時代は、物語を刻んでいます。それを小さく区切って自らの目の前のことだけを見て、日常の中に思考が囚われていては、時代が物語を紡いでいることを理解することはできません。多くの人は時代に翻弄され、実際に水の中で溺れてはいなくとも、心は時代の波にのみ込まれています。自分自身の感情にすら翻弄されているのです。
ずっと昔、人間がもっと自然に近かった時代には、そのようなことはありませんでした。それは、自然から与えられた環境のままに人間が生きていたからです。人間はとても高い能力を持っていました。やがて火を使うようになり、道具を使うようになり、どんどん賢くなって、生きることに工夫をするようになりました。
そうすると、人間の中に「あれが欲しい」「これがしたい」という思いが湧くようになりました。そしてその思いがだんだん膨らみ、育っていきました。何のためにそれがしたいのかというと、自らの満足のためにしたいのです。それが自我の目覚めです。

自我とは、本能と同じものです。本能のままに自我はあります。しかし人間が他の動物や植物と違うのは、その自我がある意味欲望であり、感情であり、それぞれの精神性にふさわしく膨らませていくものであるということです。それが行きついたところが、現代の社会です。
1ヶ月間の真学校では、このことについてひも解いていきます。現代は人間の自我が極めて膨らみ、本来私たちは自然の生命でありながら、非自然の中に生きるようになりました。生命は自然の仕組みそのものですが、人間は自然とはかけ離れた欲望を持ち、自然とはかけ離れた環境を創り出し、生きるようになったのです。
その結果、「あれが欲しい」「これがしたい」という欲望もどんどん膨らみ、本来の自然の生命観からしたら不要な思いをたくさん持つようになりました。皆さんも、持っているでしょう?その不要な思いを持つことによって何が起きるのかというと、それは自然の中では矛盾ですから、本来自然の中にあるべき秩序を乱し、この世界に歪みをもたらし、人々がつくる社会にも不調和をもたらします。自然界では、動物の関係も植物の関係も自然の循環の中にあり、とてもスムーズです。ところが人間は、人間同士の間ですら関係が難しくなりました。さらに、自らの思いが自然から離れることで、自らの体にまで矛盾を発生させるようになりました。それを病気といいます。

現代の人々はそのような分析はしません。病気が蔓延していることや、世界にまだ戦争があることなど、自然にはありえない現象が人間の世界にたくさん存在していることを、当たり前に思っているのです。そしてそれが在ることを前提に、対処しています。ですから、なぜそれが起きているのかを根本的に考えるということをしないのです。
根本的に考えるとは、もっと大きな枠でその現象を捉えるということです。しかし人々は、まずそれがあることを前提にして見ていますから、その目線では決してその根本的原因を理解することができず、問題の解決を図ることはできません。

今回1ヶ月間の真学校に参加された皆さんは、参加の理由はそれぞれにあることでしょう。しかし、共通して言えることがあります。
皆さんは、この時代にこういったものごとの捉え方を得る機会に出会いました。この時代だからこそ、この視点が必要なのです。それを得ると、皆さんの人生は確実に変わります。
どう変わるのかというと、生きるということに対する解釈が変わっていきます。1ヶ月間が経てば、確実に変わります。ただし、そのことに対する一人ひとりのニーズの内容はそれぞれでしょう。今の暮らしを安定した人生にすることを求めている人もいれば、新たな人生を歩みたいという人もいます。ニーズはそれぞれですが、確かなことは、今この時を生きる人々にとって、こういった学びが必要とされているということです。

今、世界中でたくさんの矛盾がピークを迎えています。その矛盾を理解し、新たな時代へと移行していく時に、その先端を行く者はごく少数から始まります。やがてそれは全体へと伝播していきますが、今はまだ、世の中全体は混乱の中にあり、多くの人々は次に進むべき新たな世界を見出せずにいます。そして矛盾が発生し続けています。皆さんは、このことを理解し、これからの時代のために、世の中のために生きていってくれる人たちだと思うのです。

そこで、では自分は世の中のために何ができるだろうと考えます。簡単なことです。自分一人を変えれば、自分一人分世の中が変わります。あなたがご機嫌で、幸せで、理に適った生き方をすれば、あなた一人分世の中を良くするのです。
今、時代は大きな切り替えの時に来ています。その変化が連鎖していく種になるということは、あなた自身が変化の波の先端に立ち、これから後に続いてくるであろう人々の見本にもなるということです。

実は、皆さんへの講座で使うプレゼンテーションを今用意しているのですが、その半分ほどは、もしかするとちんぷんかんぷんかもしれません。その、よくわからないものを皆さんにプレゼントしようとしています。「これを聞いてもきっと理解できないだろうな」と思いながら、プレゼンテーションを準備しています。
それはなぜかというと、もしも皆さんがわかることを得るとしたら、皆さんはきっと納得することでしょう。しかしそれでは、あなたの心は満足するかもしれませんが、あなたが変わることにはならないのです。
多くの人は、自分が納得できるものだけを得ようとします。しかし納得できるということは、それは自分の理解の範囲内のものだけを得るということですから、そこに進化はありません。時代は常に進化し続けているのですから、今の考えのままでい続ければいつかは必ずそこに矛盾が発生し、行き詰まるようになっています。ですから、皆さんのために、「きっとこれは理解できないだろうな」と思いながらプレゼンテーションを用意しています。

新たなものに出会うということは、「そういう捉え方があるのか!」と、これまでの自分の枠を突破することになります。ですから、皆さん一人ひとりにできる限り寄り添いながら、理解できるようにお話ししていきますが、わからなくてもいいんですよ。なぜなら、わからない話に出会っている、というだけで、すでにあなたは、今までのあなたの枠を外し、新しい世界にいるからです。
そうでしょう?自分がわからないところへ積極的に行こうとするなんて、普通はしませんね。そこにいるというだけで、新たなものを得ようとする姿勢があるということなのです。それは、進化しようとする姿勢の証です。

木の花ファミリーには、毎晩夕食後に「子どもミーティング」というものがあります。通常は、その日にあった出来事などを子どもたちが話し、それに対して大人たちがコメントをするなどしてやり取りをする場です。
そこに時々、いさどんが登場することがあります。いさどんはできるだけ子どもたちにもわかるように話しますが、それは世界観が広く、小学生以下の子どもたちには難しい話です。中学生以上でも難しいかもしれません。できるだけ理解できるように話すものの、本来そういった世界観を、子どもたちはまだ持ってはいないのです。
ではなぜそんな話をするのかというと、わからなくてもいいのです。つまり、子ども達はそこで言葉を聞いているのではありません。いさどんという人が、何か大切な話をしている。それを大人たちが熱心に聞いている。言葉も難しくてわからないけれど、何か大切なことを言う人がいて、それを大切に受け取っている人たちがいるという、その空気を感じているのです。
そうすると、意味がわからなくても、子どもたちは「自分のわからないことで大切なことがあるんだ」ということをしっかりと受け止めていきます。ですから日常の中でちょっとそういった話に出会うと、子どもたちはパッとそれを受け取り、いつの間にか大人よりも立派なことを言うようになるのです。大人は頭で学習しますが、子どもたちの言葉は内からにじみ出てきたものですから、本物です。

これから1ヶ月間、きっとわからないだろうというような話を、皆さんに伝わるように、精一杯やっていきます。皆さんも、わからなくても付き合ってみてください。そうすると、1週間経ち、2週間経ち、3週間経ち、1ヶ月が経つと、皆さんはきっと変わっています。
これから、とても充実した1ヶ月間を皆さんにプレゼントします。皆さんも、自分の頭の中で先に何かを予測するのではなく、すべてを白紙にしてお付き合いください。そうすれば、皆さん一人ひとりに、新しい自分自身をプレゼントすることができるだろうと思っています。

1ヶ月間、よろしくお願いします!

 

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自分を変え、世界を変える1ヶ月間の始まりです

 


「マツリ」の中の真学校

2017年1ヶ月間の真学校の開講まで、いよいよあと2日!

すでに受講生のみなさんをお迎えする準備は整い、あとは到着を待つばかり。メイン講師のいさどんとみかちゃんは、講座資料の最終確認を行っています。
実は木の花ファミリーでは、真学校終了3日後の3月21日に新店舗「ロータスランド」をオープンするため、ただ今真学校と並行してロータスランドの開業準備も進んでおり、畑や田んぼでも新たな取り組みが始まるなど、あちこちに同時進行で様々なプロジェクトが進んでいます。そんな中、いさどんが早朝に目を覚まし、こんなことを語り始めました。

*上の写真は昨年の1ヶ月間の真学校のイベント時のものです。


いさどん:
ロータスランドのオープンに向けて、今、みんなで一丸となってひとつのことをやっている。一丸となってひとつのことを越えていくというのは、たくさんの心がそこに共鳴しあって、人に希望を与えることだ。
その中で、誰か一人でも自我にまみれていては、そのような場はできない。自我を忘れて、みんなが渦になる。カタカムナで言えば、「マワリテメクル」ということ。それは地球の動きだ。地球は自転し、公転し、歳差運動をし、微振動をしながら進んでいる。これは、古くから日本人の中にある、「マツリ」の精神だ。

今、我々は生活の中でマツリを表現している。そこでただ物理的なことを目指していると、何か特定の目的があって、それを達成するためにみんなでひとつになろうという世界になる。そこでも、自我があっては調和的な世界を創ることはできない。
今日、1ヶ月間の真学校の講座で使うカタカムナのプレゼンテーションをチェックしながら、改めてカタカムナの精神について振り返っていた。カタカムナの精神とは、マツリの精神だ。マツリの精神とは、命の仕組みの精神であり、宇宙の天体の成り立ちを言う。
そのことについて思考を巡らせていたら、北朝鮮の金正男氏が暗殺されたことが思い浮かんだ。そしてトランプ政権のフリン補佐官が更迭されたことが思い浮かんだ。世界中で争いやいがみ合いが起きている。人間のご都合主義の世界が、今の世の中に蔓延している。

ここで表現しようとしているのは、それとは別の世界だ。これをカタカムナ精神と言っていいものかどうかはわからないが、ここの生活にはカタカムナが浸透している。つまり、カタカムナを学ぶのではなく、カタカムナを語り、カタカムナを生きているということだ。魂のこもった生き方とは、そのようなことを言うのだろう。それをやっていかなければならない。いくら知識を学んで語ったところで、それが生活の中で現象化しなければ、生きることに反映されないのだから。
これからそれをやっていこうということではなく、我々は今、現実にそれをやっている。そしてその現象化したものを、1ヶ月間の真学校で伝えていく。それはとても難しいことだ。カタカムナの講座は6時間あるが、たったの6時間でどこまで伝えられるだろうか。ほとんどは理解できないだろう。なぜなら、まず価値観が違うからだ。価値観は違うが、縁があって出会った人々にそれを伝えることは、大変ではあるが希望のあることでもある。

例えばカタカムナ理論というように特定の用語を作って固定してしまうと、数ある理論の中のひとつのように思えるが、これは宇宙に遍満している法則そのものだ。
宇宙は、動いている。我々は毎日を認識し、時が過ぎていくが、これは巨大なエネルギーがうねっている「マワリテメクル」の世界だ。その中の一環としてこの仕組みがあるということを理解すると、すべてのところにその法則が遍満していることが観えてくる。それを意識しながら生きていくことが大切だ。
この理論が体得できるようになると、自我は消え、この世界を構成するものとして、大いなる生命としての役割を果たしながら、宇宙の実体のままに生きていくことになる。現代の人々は大いなるものから離れ、自我にまみれていがみ合っているが、そういったことがすべて帳消しになってしまう世界が、いがみ合いの奥にいつでもちゃんと控えているのだ。
それを語っていくことは、物理的な現状の地球を見ていると不可能なように思えるかもしれないが、ここではその存在を知って、語り出した。いずれ必ず、人間たちがそれを理解する時が来る。既に扉は開き、その動きは始まっているのだと思うと、やはりテンションは上がる。それこそ病魔に侵されて死にかかった者が生きることの本当の意味を知って「死んでなんかいられない」となるように、僕も、夜中だけど寝てなんかいられないよというテンションになった。まあ、語ったらまた寝るけどね(笑)。しかし何か、この今のときめきを語っておかなければいけない、と思った。

今日、真学校のプログラムとして上演する木の花劇団の劇の読み合わせをやった。この劇は、ガンになって死の瀬戸際まで行ったきょうこちゃんの体験を元にして、彼女自身が脚本を書いている。そこに出てくる自分のセリフを読み上げながら、あれはセリフではなく、日常会話の中から出てきた言葉だから、本番でもアドリブを交えて、そのまま生でやれたらいいと思った。最後にみんなが泣くシーンがあるが、あの涙はいいね。その場で本物の涙を流しながら、やりたいね。

(ここでひとみちゃんが、ロータスランドのテラスの上に描く壁画の下絵を持って部屋に入ってきました。)

いさどん:
何をしていたの?

ひとみ:
壁画の下絵を描いてた。

いさどん:
テラスの上の壁画を描くのに、足場に手すりをつけないのはどうしてだか、わかる?

テラスの上の壁に壁画を描くひとみちゃん
テラスの上の壁に壁画を描くひとみちゃん

ひとみ:
落ちるように?(笑)

いさどん:
あなたは、足場が壁に近すぎて、全体を見ながら描くことができないと言う。それはわかる。だから池の方に向かってデッキの端まで足場を作り、壁から離れて見られるようにするが、それは面倒なことであり、できればなくていけたらいい仕事だ。
人は自分の頭の中に構想を持っていて、それを物理的に現す時に、大きな絵なら離れて全体を見ようとする。その遠くから全体を見る目を、例えば他の誰かが補うとか、足場の下に降りて離れて見るということもできる。あなたが「近いから見にくい」と言うと、みんなはすぐにそれを解決してあげようとする。それは悪いことではないが、それよりも、そういったことを含めて、あなたの神がかり的な能力を発揮してやってもらいたい。

ひとみ:
大丈夫だよ。降りたり上がったりしながら描いてるから。

いさどん:
降りたり上がったりしながら、あなたのシャーマン的精神を呼び覚ましてもらいたい。あなたには、きっとできる。

(ここで、ひとみちゃんが持って帰ってきた絵を広げて見ました。いさどんの助言を受けて、絵には新たに太陽と月が描き加えられていました。)

ああ、いいね!月をもう少し上に上げて、月と太陽が斜め45度の角度に並ぶようにしよう。太陽はもう少し富士山の右肩に隠れて、半分だけ顔を出して、これからもう半分が出るよ、という感じになるといい。鶴と亀はどこに描くの?亀が空を飛んでいてもいいね。ルールは破ればいい。写実画を求めているわけではないのだから。(しばらくアドバイスをした後、しみじみと絵を眺めながら)いいね。テーマは、やはり花だよ。花がなければいけない。
あなたが一人でこれを描いているという気がしない。これは協同作業だ。一緒にやろう。時間のことは気にせずにやっていけばいい。そうすれば、必要なことは必要なように、事が成っていくから。これは仏像をつくるのと同じで、そこにあるものが描かれていくのだから、自分でやってやろうだなんて思わないことだよ。「これはこうだな」「これは少し違うな」と、あるものを探りあてていく、手探りのような作業だ。完成形があるわけではなく、そこに関わっていくと自然と成っていく。
あなたがあそこで絵を描いている姿は、絵になるよ。そこを通りがかる人は「何をしているんだろう?」と思い、進捗状況を気にするようになるだろう。こんなふうに、お金持ちがお金を払って誰かに絵を描いてもらうのではなく、生活の中ににじみ出る余裕から、そこに表現されていく。それは、生活そのものがマツリだからこそできることだ。

「祭」という字は「サイ」とも読む。「何々祭」というと、それは日常の生活から離れた儀式の場で使う用語になる。そこには天と地があり、地が天を崇めて祭典をするという「サ」=差のある状態だ。「サイ」は「マツリ」とは違い、まだマツリに至らない段階の儀式に用いられる。
それが「マツリ」になると、「マ」は宇宙空間であり、生命が躍動する特定の場、宇宙の法則が表現される場所のことであり、「ツ」は集い、「リ」は離れるということ。自我から離れた者たちが集い、宇宙の法則のままに生命が躍動する。それがマツリだ。そのような無我の境地で、美しく、日々を舞い踊るように生きたいものだ。

 


 

そんなマツリの日々の中で、真学校は開催されます。どうぞ一緒に、自我の囚われから放たれて美しく舞い踊るような1ヶ月間を過ごしましょう。^^