受講生、出発!

どこまでも広く世界観を広げ、かつてなく深く自分と向き合う1ヶ月間の学びが、ついに修了!

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受講生プロデュースによる感動の修了パーティー
受講生プロデュースによる感動の修了パーティー

修了パーティーから一夜明けた昨日は5人の受講生たちが旅立ち、今日はトーマス、たえちゃん、りょうこちゃんの3人がそれぞれの地へと出発しました。

出発前に、エリちゃんをおんぶしてホールを一周するトーマス。
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そしてみんなから、ハグの嵐。
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サポーターのこうちゃんとも。
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1ヶ月間、共にたくさんの学びをしてきたサリちゃんも見送りに出てきて、ハグ。サリちゃんは学びを深めるため、さらに3週間木の花に滞在します。
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「バスに遅れるよ~~!!」との声で別れを惜しみつつ車に乗り込み、みんなに見送られて、これから新たなるコミュニティを立ち上げるバリへと向かって出発!!
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続いてたえちゃんも出発。やっぱりハグの嵐。
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いったん家へ戻って、再び木の花へ帰ってくる予定のりょうこちゃんも、たえちゃんをお見送り。
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1ヶ月間、大きな支えとなったサポーターのあいちゃん。
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「行ってきまーす!!」
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12人の受講生たち一人ひとりが新しい自分に出会い、それぞれに変化した1ヶ月間。その響きが確実に世の中へと広がっていきます。

 

受講生たちはこれから、それぞれの体験記をまとめる予定です。本ブログも、各講義のレポートを日付をさかのぼって随時更新していきますので、どうぞチェックしてみてくださいね。
1ヶ月間の真学校の学びは、これからが本番です!

 

 


受講生といさどんとの対話・トオマスのヒトへの道編

「1ヶ月間の真学校」の中でいさどんは、担当するプログラムが始まる前には必ず「今日も僕はいさどんをやっています♪」と言ってからプログラムを始めていました。さて、真学校が終了した翌日13日の朝、受講生のトオマスはこれからコミュニティを立ち上げるインドネシアのバリへ出発する前に、いさどんと話す時間を持ちました。

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トオマス:
今日も僕はトオマスをやっています♪

いさどん:
僕はあなたがこれから歩んでいく道を見守っていきます。今までのあなたは現実的でなかったところもありましたが、それが今回の1ヶ月間で少し現実的になってきたと思っています。ただ、現実的イコール、事が成るばかりではありません。現実的ということは、いろいろな修正が必要なことが観えてきたということでもあるのです。人間は自らの意志で何かを成し遂げようと目標を立てるとき、強引にそれを成し遂げる能力も持ち合わせています。しかし、そのような可能性を人間たちが発揮してきたがために、今の世界の現状があるのです。それは人間社会の大きな行き詰まりにもなっていますし、自然からの反乱も招いています。それは、人間が自らの性質をこの世界に表現することの意味を履き違えているからです。

ですから、この世界を支配し、自らの願望を叶えようとするような姿勢ではなく、身近な人々に対して寄り添い、同時に自然や地球環境に寄り添うこと、それから大きな世界観を持って宇宙の流れや法則に寄り添うことが大切なのです。そのように寄り添っていく延長に自らの目的があるならば、人類がもたらし巨大になってしまった矛盾を解消できるのです。

あなたには、そういったこの世界の矛盾を解消するための閃きがあります。それは世の中や人々に有効なものをもたらすはずなのですが、それすらも独りよがりであったり、他者や自然に寄り添っていかなければ、結果同じような矛盾をこの世界にもたらすことになってしまうのです。そこでまず、自らの器を大きくすることが大切です。そして、他者に寄り添い、自分以外のすべての存在を常に意識することが大切です。それができれば、あなたの最終到達地点である尊い理想は叶うことでしょう。それは、あなたがブッダの人生を生きるということです。

日本では、「人が寄る家は栄える」と言います。その栄えることでも、低いレベルと高いレベルの栄えることがあるのです。それは自らの意識にふさわしくあるということです。今までの時代は、低い意識レベルで人間以外の存在に害をもたらし、人間の欲の心を引き寄せることによって栄えることがありました。しかしこれからは、ブッダの精神に人々が寄ってくる時代が訪れています。ブッダの精神を持つ人々が群れてコミュニティとなること――それが人々が暮らす理想の姿であり、木の花ファミリーで言う「菩薩の里」です。そこに人々が寄ってくるためには、引き寄せる核となるあなたの精神がブッダとなる必要があるのです。

あなたはまだ27歳と若いですね。僕はあなたを観ていて、自分の若い頃を思い出します。僕の若い頃より、あなたのほうがさらに目覚めています。また、僕のほうがあなたよりずっと暴走していました(笑)。そして、一番の違いは、僕はその頃自らの考えで歩んでいただけであり、誰か指針を与えてくれる人はいませんでした。もちろん当時は、天の存在などまったく意識していなかったのです。その僕にはなかったものが、今のあなたにはあります。そういった意味では、あなたにはとても良い環境があるのです。あなたが他者を意識し他者に寄り添っていけば、世の中の指針となる場所を創ることができ、あなたの人生の目的が達成されることでしょう。そこでは、あなたの目標イコール天の目標となることが大切です。

これからあなたがインドネシアでコミュニティを創っていくことは、時代的にはとても良い発想だと僕は思っています。ただ、そこではアメリカ人であるあなたとの文化的な違いがあるだろうから、今僕が伝えていることはさらに現実的にあなたに求められることでしょう。ですから、外との人間関係の調整よりも、自らの内面をどれだけ修正できるかがポイントです。

トオマス:
それを僕は今学んでいる最中です。それには180度の転換を要します。それは精神的に始まるものです。しかし同時に自らの思考や感情、人間関係の転換も要します。そして文化は、自分が何者であるのかを意味します。というのも、文化は魂と地球をつなげるからです。文化が僕たちをひとつのグループにまとめます。文化がなければ、僕たちはバラバラの存在です。ですからそれは、どれほど僕たちがまったく新しい文化を創っているのかを表しています。そしてそれは同時に僕が自分自身を観る方法の転換も要するのです。僕のここでの経験から、僕は自分が求めているものが何であるのかを知っています。だから、ただそこに飛び込んでいくだけなのです。

一昨日の講座の中でいさどんが「ヒト」について話していたとき、それがどのように成っていくのかを僕は考えました。ひとたび型が創られると、天はその中に生きます。ですから、ひとたび僕が型を目にすれば、僕はその中に生きる必要があるのです。もし僕がそれを物体としては見ても、その中に自らのいのちは入れないことになると、それは生きることにはなりません。そのようにして、万物は創造されます。それは、いかに僕たちが天の閃きであるのかということです。天は型を創り、それからその中に飛び込み、いのちとなりました。これは究極の現実です。そこでは自分たちの存在と僕たちが観るものの間に違いはありません。

いさどん:
究極の現実を語るときに、現実の現実も同時に観ていないと、つまり足元から究極の現実をつなげていかないと、身近なものと自分がつながらなくなってしまいます。ですから、あなたが究極の現実を語っているとき、僕は言葉を聞かず、感覚でそれを受け取っています。そうすると、あなたが言っていることは理解できます。しかし、人々はそれを理解することはできません。あなたの目的は、あなたのまわりにいる人々と創っていく世界です。ですから、身近にいる人々やあなたの現実と向き合い、寄り添い、ヒフミヨイムナヤコト(一二三四五六七八九十)という一から究極の現実の十までつなげられたときに、その究極の現実を語るあなたが身近にいる人々や現実の役に立つ人になるのです。

「現象を持って真実とすべし。」過去には人間社会には評価されず、悟りに至ったたくさんの聖者たちがいました。ヒマラヤにはそういったものたちがたくさんいました。彼らは自らの悟りの道を歩みましたが、人々と共にはありませんでした。そういった魂たちは天に戻った後、今度は人々に悟りを伝えるために、輪廻してまた地上に戻ってくるのです。そのときに、彼らは自らの悟りと他者とともにある悟りのギャップを埋めるのです。本来、悟りは悟ったもののためにあるのでありません。この宇宙の実相のように、調和して共にあること――そのために悟りがあるのです。

今のあなたの話を聞きながら、僕はヒマラヤで悟りに至った行者をイメージしました。実は僕も、初めて人間として地上に降り立ったときにはそのような姿勢でした。しかし最終的には、多くの人々と寄り添うことによって、天の意志を地上に表現するものになれると思うのです。それも、空想の中にではなく、現実の人々との生活の中にそれが現象として現れることが大切です。それは、生活すること自体がいのちの営みだからです。人々の生活のあり方が他の生命と調和し、さらにそれが地球や宇宙の法則と共にあることが大切なのです。調和すべき指針を探さなくても、わたしたちには自然の仕組みや宇宙の法則といった絶対のものがすでにあるのです。

ところが、今まで人間たちはそれを自我によって支配するものとして捉えてきたがために、現実の矛盾を生んでいます。今までのような人間の願望を叶える方向で生きていく限り、必ず行き詰まりを迎え、その矛盾はさらに大きくなるばかりです。ですから、そのような方向を転換し、自らから距離を置き、何が矛盾を創るエネルギーなのかを冷静に観る必要があるのです。その冷静に観る姿勢は非常にリラックスした状態です。天から時代を越えてものを観ること、天から星々の運行を観ること――そのような宇宙的な広い世界観を持つ必要があるのです。

トオマス:
僕がこれまで経験してきたように、すべての物事は僕の先にあります。必要なときが来れば、僕は必要な出来事に出会います。いさどんがよく言うように、僕は理論を観て、「これが最終結論です」と語る傾向があります。でも今さっき僕が話したように、型がまずあって、その中に天が入らなければいけないのです。いさどんは、これは理論であり、同時にそれは現実の生活なのだから、それを経験する必要があると伝えてくれましたね。そして経験が僕たちを次なる段階へいざなってくれるのです。

いさどん:
その経験があなたの先に観える目標をリアルにしてくれるのです。

トオマス:
いさどんが「僕があなたぐらいの年齢だったとき、僕はもっと暴走していました」と伝えてくれたとき、それは僕の人生の一部だったと感じました。僕の中にも激しい気性があるのです。神は絶対の存在ですから、神は「もう、そのようにする必要がありません」と伝えてくれます。しかし、僕が激しかった頃、違う現実があることに気づき始めました。今まで僕はそれが悟りに至ることで、経験の意味することだと考えてきました。しかし、それを人々に伝えようとしても、彼らは僕を理解しないのです。もしくは多くの人々は「何かがそこにあるね」「それは雲を見るようなものだね」「雲の中に顔が見えるね」と言うのです。そのように人々はそれぞれの世界の中で生きているのです。そこで僕が認識したこととして、この世界は他者からどんどん隔絶されていっています。事実、いのちのあり方のレベルはどんどん下がっています。ですから、気付きがあっても、それは生活をより良くするものではないのです。この状況はなんて馬鹿げたことなのだろうと僕は気付きました。僕たちはそこからポジティブに物事を捉えることもできますが、それは自分自身のためにそうするだけなのです。

いさどん:
もしくは、もっと広いスタンスで捉えると、ポジティブに捉えることもできるのです。自分とこの世界を分離していくような思考になると、ポジティブに捉えることはできません。そこでどちらの方向を向いているのかが大切なのですが、あなたは先程この世界はどんどん悪くなっていると言いましたね。それは事実です。人々は自然と共に生きることを忘れ、自然を感知する能力を失い、神を語っても自らの精神の中に神は生きていません。事実、人間の意識は神の存在からどんどん遠く離れていっています。

地球暦で言うと、一番強く近い角度が「結び」の状態です。それは二つの惑星が太陽の片側で同一線上にあり、二つの異なる意識が完全に寄り添っている状態です。それに対して、「開き」の状態は二つの惑星が太陽を挟んで同一線上に向かい合っている状態を指します。それは一番遠い角度です。そして距離が遠くなればなるほど、広いスタンスでつながることができるのです。一見遠くなったように見えても、その真ん中に絶対なる太陽があることに気付けば、遠くなった分だけ広い世界を表現することができるのです。

同じように、この世界が一見悪くなっているように見えたとしても、それはそのギャップの分だけ、広い意味で人々を進化させ悟らせるエネルギーにもなるのです。このように悪く見えることは、同時に良くなることでもあるのです。

トオマス:
僕はインドのシヴァ神と関係があります。なぜなら僕は災害を見ると、わくわくするからです(笑)。

いさどん:
僕も今、シヴァ神をイメージしながら話していました(笑)。今日は3月13日ですから、一昨日の3月11日は東日本大震災の5周年の日でした。今日はその5周年を迎えた最初の日曜日なので、一昨日から今日にかけて日本ではあの震災に関連する特別番組がたくさん放送されました。多くの人々はあの震災を不幸なことが起きたと捉えています。そして多くの人々は、破壊されたものを復活させることを考えています。しかし、あの震災が起きたことは人々に不幸だけをもたらしたのでしょうか。

あの震災は、人間たちが所有の心で創ってきた矛盾を洗い流してくれました。もし人間が自らの意志で所有を放棄することができていたら、天はあの震災を与える必要はなかったでしょう。そのためには、矛盾がピークに達し、それが爆発するようなことになる前に、常に矛盾を瞬間瞬間解放できるだけの心の柔軟性が必要なのです。あの震災は、人々の囚われのエネルギーが究極を迎え起きたようなものですからね。受け取り方によっては、いろいろな捉え方ができるのです。

ですから、僕もあなたと同じことを考えていました(笑)。

トオマス:
それは、多くの人々が理解することではありませんね。

いさどん:
地球上での人間の営みは、人間の心の表れです。現象という鏡からわたしたちは自らの姿を観ることができるのです。そしてそれが鏡としてわたしたちに伝えていることがわからなければ、人間は自らの行いを報いとして観ることになります。それは極めて強制的な学びです。それは、神がわたしたちと常に向き合っている証拠とも言えます。神と共にこの世界を創っているという神の側にわたしたちが立つならば、自らの自我ではなく、天の代理として天の意志を表現していると捉え、すべての出来事を受け取るようになります。

そのときに、いのちは自由に表現されます。わたしたちはとても自由な場所にいることが理解できるのです。それこそが、神さまが願っている豊かさなのです。そしてあなたが語る最終段階は、そこにあるのです。そこで最終段階が目的というよりも、始まり(ヒ)から最終段階(ト)までのすべての過程を踏んでいき、その結果最終段階に到達することが「ヒト」であり、「ヒト」の道です。それに寄り添ってくれているのが神の存在であり、宇宙の実態です。

わたしたちが自らの神聖に目覚め、神と同じように他のすべての存在に寄り添っていくと、神と同じように存在できると僕は考えますが、どうですか?

トオマス:
いさどんが話していることを、僕は神のたくさんの声だと感じています。いさどんと僕は同じことを違う切り口で語ります。僕がさっき話したように、神は型をまず創り、その中に入り、それが「チョン(天の意志)」です。そのようにしていのちを与えます。僕たちは自分自身のためにいのちを創造し、生きるためにその型の中に入るのです。だから、「ヒト」の道はまず、何も知らないところから始まります。それから人生を通して、僕たちが誕生する以前から存在していた意識を拡大させていくのです。

いさどん:
それは思い出していく道でもあります。

トオマス:
それは最終的に僕たちが自分自身と向き合うまで続きます。そして、「わたしはすでにこれをしてきた!」とわかったとき、それが「ト」になるのです。

いさどん:
実は、その「ト」が第一段階のヒからトであったり、第二段階のヒからトであったり、さらには第十段階のヒからトであって、そしてその全体がまたヒであることがこの世界の構造だと思うのです。わたしたちはこのように多次元階層の無限なる世界にいるのです。ですから、今自分が考えられる世界と目指しているところがすべてだと思うと、実はそこをクリアしたときに次の目標が観えてくるのです。神さまは無限であり、この世界も無限なのです。それは、内なる微細な世界を観ても同じです。それを、今のような科学する思考で理解しようとしても限界があります。そこでは探求しようとする思考ではなく、感じることが大切です。それこそ、自らのすべての細胞のセンサーを使って感じ取ろうとすることです。

これはカタカムナで言う、カムミを感受するということです。つまり、体中のすべての細胞を花開かせ、そのアンテナの能力を全開にするのです。そしてその一つ一つの細胞のアンテナがすべてオープンになると、その一つ一つのアンテナの芯に「チョン」が入るのです。その状態で天とつながることが男女の最高の交わりの姿であり、それをカタカムナでは「カムウツシ・アマウツシ」と呼びます。

今回の真学校ではそれについて理論的な話しかできませんでしたが、本来カタカムナの世界ではそれは体現的なこととして可能であると言っています。今のところ、それをそのような形で伝えている人は誰もいません。これから今の価値観を超えて社会が創られるようになると、それを現実に表現できる人々が現れてくることでしょう。おそらく、今、10歳以下の子どもたちやこれから生まれてくる人たちにはそういったことが可能だろうと僕は観ています。

トオマス:
僕の役割を観ると、僕はただ天が入るための空間をつくるためにここにいます。もはや逆行できない人たちはここに引き寄せられてくることでしょう。それは高齢の世代の人たちです。しかし、若い世代の人たちはそういったことに自然に引き寄せられていくのです。

いさどん:
わたしたちは自らの人生を区切って捉えがちですが、時代の一部を担っていると捉えることが大切です。わたしたちの人生は、列車が線路の上を走るときの枕木一つ一つの間隔と同じ構造であることを知る必要があるのです。駅に着くたびに時代は移り変わるのです。そして駅に着くたびに新しい時代を創る人々が次の時代を表現するために乗ってくるのです。同時に降りていく人もいます。そこで自らの人生は枕木一つ一つの間隔であることを知る必要があります。枕木一個から次の一個までの間隔を始まりから終わりと観ることもできれば、それは長い列車の旅の可能性をつなぐ一コマにしかすぎないのです。

トオマス:
それは僕の言葉で言うところの「悲しみの喜び」です。それはとても美しいのですが、同時にわたしたちはそれを所有することはできないのです。

いさどん:
ハッハッハ。所有したい心があるから、悲しみになるのではないですか(笑)?自らのスタンスを広くすれば、所有しなくなるのです。狭く観るから、所有してしまうのです。自分という存在はこの世界にあると思えばあるのですが、ないと思えばないのです。ですから、昨日僕が午前中に伝えたように、リセットすればすべては幻なのです(笑)!意識すれば現実になるのです。わたしたちは生から死に向かって現実を観ていますが、この現象世界の出来事は死を迎えると幻になるのです。わたしたちはその枕木一個一個をつないで、人類としての旅をしているのです。それは人類の始まりから人類の終わりへの旅であり、それはほんの一コマで、生命の始まりから生命の終わりへの旅であり、それもほんの一コマであり、地球の始まりから地球の終わりへの旅であり、それもほんの一コマであり、宇宙の始まりから宇宙の終わりへの旅であり、きっとそれ以上のスタンスもあるのでしょう。それがもし無限にあるのだとしたら、わたしたちがこのように分析するよりも、無限の宇宙を感じることのほうがもっと大切なのです。そのときにわたしたちは解放されます。OKですか?

トオマス:
OKです!それはいかに神がシンプルにこの世界を創造したのかということですね。

いさどん:
そうです。この究極のシンプルと、究極の緻密さと複雑さをこの世界は表現しているのです。ですから、どちらも言えますね。宇宙や神を思うときに、常に相似形で対向発生という単純な構造でありながら、極めて緻密で複雑な世界ができています。それも、わたしたちが物理的に認識できるこの三次元どころか、多次元世界に渡ってそれが表現されているのです!これはわたしたちが今三次元で使うために与えられた脳では解釈できません。感受する脳の機能を宇宙に解き放つことによって、その解釈は可能となるのです。脳細胞のすべてを宇宙空間に解き放ち、それをセンサーにして感じ取るのです。そうすると、宇宙の実態はきっと感じ取れるのでしょう。そのときには今、わたしたちが観ている現実世界は些細なことになりますね。

トオマス:
そのとおりですね!(いさどんの両手を握り、そこに自らの額をつけながら)すべてに感謝しています!本当にありがとうございました。

いさどん:
良い出会いでした。こちらこそ、ありがとうございます。

 
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その1週間後、トオマスから木の花ファミリー宛に近況を知らせる次のメールが送られてきました。

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みなさん、お元気ですか? バリに戻ってから1週間が経ちました。こちらに戻ってからはすべてがまったく新たな始まりのようであり、むしろ難しい時間を過ごしています。世界には謙虚になるべきことがたくさんあり、神が自らの仕事を任せる魂たちは常にわたしたちを鍛えることに熱心なのです!

僕は家に帰ってから、元気がなく、真学校で得た明瞭さを見つけることをとても難しく感じました。ハハハ。僕はまさにヒの段階に戻ったようです!

33歳になったら僕は悟りの境地、すなわち僕が「ヒト」と呼ぶ境地に到達するだろうと言われたことがあります。しかし、その道にはたくさんの訓練があり、僕が永遠なる光の中に座ることができるためには極端に深い闇の中へ入らなければならないのです。すべてが神であるように、僕は神への新たな勇気と愛を感じました。僕が階段を降りたとき、33という数字を見て、神のみが僕の道に明瞭さをもたらすことができると感じました。その後、「阿吽の世界へ」を読みながら、神はずっとわたしたちと共にあることを感じました。神は秘かにわたしたちをこの道にいざなっています。それはたいへん微細なので、わたしたちは幾度となく神がわたしたちと共にあることを意識さえしないのです。

「阿吽の世界へ」の中にあるいさどんと僕の会話を読み、これは神のすばらしいユーモアであると同時に、神の創造物に対する美徳だと感じました。だから、わたしたちは決して見捨てられることはなく、事実わたしたちは常に自分自身の歩みをたどりなおし、新たな悟りと開かれた心と共にあるのです。真学校での僕の時間を読み返す機会を与えられたことはたいへんすばらしいことです。たった1週間前のことですが、通り過ぎていくことの中に知恵をすでに見出しているように感じています。ギャップは埋まってきています♪

木の花のみんな(もちろんいさどん)にすべての愛を
トオマス

 

 


28日目最終日いさどんの挨拶 「あなたのリセットはあなたに託されています」

みなさんにとって、この真学校は今日でリセットです。
僕はこの1ヶ月間、みなさんにいろいろな情報を提供してきました。情報を提供することでみなさんの人生がこれから切り替わっていくためのお手伝いをしてきたつもりです。

昨日の修了パーティが終わってから、実は僕もこの1ヶ月間の真学校をリセットしたのです。今朝起きて、そのことに気が付きました。

今朝起きたら僕は「死にたい」と思ったのですが、みなさんは人が死にたいと思うことに対してどんな印象を持ちますか。今までに死にたいと思ったことがある人はいますか?
(過半数が手を挙げる)

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それじゃ、自分は死なないと思っている人はいますか?
(2、3人が「魂は死なない」と言って手を挙げる)

僕が「死ぬ」と言っているのはリセットするということです。
みなさん一人ひとり、それぞれの人生があってここまで歩んできたのです。世界観の違いによって、人生とは、生まれてから死ぬまでと言う人もいますし、輪廻を信じている人は、魂の旅という捉え方をするでしょう。世界観が物理的なところに限定していれば、生命輪廻として捉え、世界観が宇宙的に広がっていれば、宇宙が始まってから現在までの、さらに世界観が無限になっていれば、この世界はぐるぐる回っており宇宙には始まりも終わりもないのでここは過程にしか過ぎない、という捉え方となります。そこでは死というものは存在しません。この世界で生きることに対する認識は、自分というものの意識がどのくらいの器でどのくらいの高さにあるかによって全く違うのです。しかし、どの位置の意識を持つかはみなさんの自由なのです。そして今まで生きてきた成り立ちの結果です。例えば食べられるか食べられないかについて興味を持っている人はそれだけが世界なので、今目の前にある困難によって生きることの希望も失うことになるのです。

このようにものの捉え方は世界観によっていろいろ違いますが、みなさんは、想像できる自らの起源から認識している現在地の範囲内で、自らの経験に基づいて思考しているのです。そこで自らの考えに囚われていれば、その思考で特定し理解できることが受け入れられること、または正しいこととするという尺度をそれぞれが持っているのです。ですから、みなさん一人ひとりが物差しであると言えるのです。

「2001年宇宙の旅」という映画に出てきた「モノリス」は、人としての叡智の基準であり、わたしたちの人生における旅の歩みを歴史として紡いでできあがった思考は、人間の個人の叡智です。あの映画では、猿に宇宙の叡智を与えることを起源として、人間の歩みの過程が描かれています。

「神」という漢字は二つの文字に分けられます。「示」すと「申」すという字で組み立てられています。これから解釈すると、何かに申して示したということになります。この申すという字は「さる」という字でもあることから、さるにしめしたと解釈できます。お前にわたしの志を与える、そしてわたしの代理として地上を生きなさい、というように示したのです。それが「神」という文字の成り立ちです。

この捉え方からすると、宇宙にいた魂、言い換えると宇宙の物理性の元にある宇宙創造の起源の意志が、宇宙創造の仕組みの法に従って地球を創り、そこに生命の種を降ろし、その生命の進化の流れの物語の話になります。そこで、わたしたち地球に生きる三次元生命は、宇宙の構造そのものをコンパクトにして表現したものです。これは人間が小宇宙だということです。そして小宇宙としてこの世界に人間が創造されたということは、人間が自らを模して人工頭脳を作ったようなものです。わたしたちはお母さんのお腹の中での精子と卵子(陰と陽)の出会いから「みこと」として独立した命の歩みを始めたのです。その歩みは2進法ですから陰と陽で2分割していくのです。最初の原子細胞から始まり、そこから2分割を繰り返すことで複雑になり、いろいろな機能ができていくのですが、この時に最初にできる臓器が心臓なのです。それは太陽系で言ったら太陽の役割であり、わたしたち人間に例えるとその中心は心ですからそれが太陽になり、だから体の中でも心臓が最初にできるのです。しかし、その段階ではまだわたしたちは原始的な生命にしか過ぎません。

それがお母さんのお腹の中で育つ過程の中で、最初はえらのある魚の形態から両生類になり、うろこのある爬虫類になり、そこから鳥類と哺乳類に分かれていきます。ですから妊娠7ヶ月の未熟児で生まれると猿のように毛深いそうです。それが10ヶ月で生まれるならもっと毛深くてもよさそうなものなのに、ちゃんと毛が取れて人になって生まれてきます。

この間、みかちゃんとカタカムナの5首6首のウタヒの意味をひも解いていたのですが、その時に、宇宙創造の仕組みは妊娠の過程と同じだと気づきました。「ヒ」の精子と卵子の出会いは秘かに始まり、「ト」のトつきトうか(10月10日)で整いヒトになって生まれてくるのです。わたしたちはお母さんの体内で、お父さんという種を起源にして創造されます。お父さんの種というのは縦軸が降りるということで、天から柱が降りる(御霊が天から降りる)、もしくは、地から天に向け柱を立てる(天の御霊を迎える)ということです。ですから、お父さんはお母さんの子宮に柱を立てて、種を送り、魂を迎えるのです。そしてお母さんは地球を表す子宮で、地球のように生命を創っていくのです。それは地球46億年の歴史の中の33億年の間の生命の成り立ちの話です。それをわたしたち人間はお母さんの体内で280日を経てコンパクトにたどり、生まれてここまで来ているのです。

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「神」は申(さる)に示した

さらに地球生命の歴史をひも解いていくと、わたしたちは最初タンパク質からアミノ酸になりました。それは宇宙的に言えば、とてつもない奇跡のような変化によってもたらされたものです。しかし、その時点ではまだ生命ではありません。そのアミノ酸が何かの拍子に最初の細胞になったのです。それが原始生命になり複雑な生命に進化し、微生物やプランクトンに変化していきました。海(あま)は女の人を表し、海は生命の起源であり、女の人の子宮と同じ役割です。そこに最初の生命が生まれて、それが魚になり、両生類として陸に上がり、爬虫類になり、そこから鳥類にまたは哺乳類になるというように進化し分かれていきました。その哺乳類から猿が生まれたのです。

このようにわたしたち人類は、その進化の過程で猿から人に分かれてきたのです。その猿から人に分かれるということについて、考古学上、生命の進化をたどっていくと、猿までは進化論で説明ができるのです。生物学上では猿と人間はほぼ同じものです。しかし進化論では、猿から人になるまでの間がなかなか埋まらないのです。信仰上の観点から、アメリカ人の6割くらいは進化論を否定するのです。ところが日本人のほとんどは猿の進化したものが人間だと思っています。物理的には猿の進化の先に人間がいるのですから、猿と人間の間を埋め合わせる存在がいてもいいと思うのです。

DNAとしては、99%は猿と人間は同じという説もあります。アメーバと人間もほとんど生命的仕組みは同じなのです。つまり生命であるものと生命でないものには極端な差があって、三次元生命が地球上に発生したということは、宇宙の三次元生命でないものの連鎖の中ではものすごい奇跡なのです。このようにわたしたち地球生命はある意味みんな仲間です。

「2001年宇宙の旅」で出てきた「モノリス」は物理的な柱で表現されていました。僕はそれを、わたしたちの中には見えない柱があると捉えました。それが「アメノミナカヌシ」です。その大元は宇宙の叡智である「アマノミナカヌシ」です。地球生命は進化論で捉えると猿まで進化してきたのですが、それも宇宙の意志が導いたのです。天にいた魂たちは地上(地球)を上から見ていました。地上ができてくると生命の種を降ろし育てていきました。ヒフミヨイムナヤ(一二三四五六七八)まで生命を育てて、コ(九)でこの世に生命を出し、そしてその生命の進化を上から見守っていたのです。その生命が猿まで進化してきました。天にいた魂は自分たちの受け皿を育てていたのです。そこで猿を見て、それを自らの地上での受け皿とし、地上を歩くことを始めたのです。それまでの進化論でたどりついた猿に人としての宇宙の叡智が入ることとなり、彼らはモノリスに触れると、感電したようにそこにあった動物の骨を持って、意志表示をするようになったのです。そこから、道具を使って自分たちの勢力を広めていく道を歩み出したのです。ここがすべての自我の始まりです。僕はあの映画をそのように解釈しました。

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そのようにして生命の歴史が始まって以来、わたしたちにはこのような見えない柱が立っているのです。だから自らが記憶する自らの歴史というのは、この脳が現在使っている解析量で意識しているだけではないのです。生命のDNAの記憶には、はるかに古いものが内在しているのです。しかし、現在の人類は、自らが使っている脳細胞の範囲内での自己認識しかしていません。現代人が今使っているのは脳の機能のほんの一部分の10パーセントくらいのものであると言われています。あとの90パーセントは眠っているのです。眠っているのですから、目覚めさせることができるのです。それには目覚めさせるための思考回路を使うことが必要となります。

そろそろ現代人が使っていない脳を使っていかないと、人類は時代の進化に乗り遅れてしまいます。自らを守ろうとし自らの考えに固執している人は、もう時代遅れなのです。そういった状態である人もある意味自らの幸せを求めているのですが、その姿勢で幸せを求めることは、自らを囚われの中に閉じ込めていくことになるのです。そうすると自我は膨らむばかりで、囚われの鎧を着続けていることになります。ご機嫌な環境を求めて主張する人は、囚われの鎧を着て、自らを守っているつもりなのですが、その鎧はどんどん重くなるばかりです。そして人生の可能性をつぶしていくのです。可能性は、自らの囚われを取り去ることによって開かれていくのです。

そこでトオマスのように、途中の段階を抜きにして到達地点を語ると、他者はそれを理解することができません。そういった人は孤独となるのです。しかし本来、生命には孤独という状態はありません。なぜならば、常に互いの連携の中で循環し巡り続けていくのが生命の実態だからです。この世界はどんなものをも必要として存在させているのです。宇宙の始まりから宇宙の完成、生命の始まりから生命の完成までで、これらは循環し巡り続けているのです。その中で孤独に陥ることは、この世界の生命の実相から外れ、矛盾を発生させているという気付きを与えてくれることになります。そのような複雑な織物のようにこの世界はできているのです。

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そういった枠組みで自らを捉えると、特定するものなどありません。だから、わたしたちは自らの囚われから自我を解放してやると、それまで固執してきた自我は幻となるのです。リセットすれば全て幻です。囚われているのはリセットしていない現実なのです。トオマスの言っていることは正解なのですが、そこだけを語っていると、囚われの中にいる者には理解できないのです。ですから、囚われている者の心境を理解し寄り添いながら統合にいざなっていくことが、道を示すことなのです。そうでないと、その完成された境地は自らに孤独をもたらすことになります。

みなさんはそれぞれ囚われの位置にいます。囚われを取るのは簡単です。例えば誰かを見て「あの人いいなぁ」と思えば、自分をリセットしてその人になればいいのです。

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先程も話したように、僕は今朝、目が覚めた時に死にたいと思ったのです。僕には中空を観て、「ああ、そうだな」と思う確信があるのです。そこには何も意味のない「そうだな」という境地が観えるのです。僕がこういった心の探求の道に出会ったばかりの頃、僕の頭上に黄金のブッダが現れた時、僕は半日泣きました。なぜ泣いたかと言えば、その尊さに打たれたのです。しかし、その尊さを語ることはできません。その尊さに意味付けをすることはできません。それはただ尊いのです。尊いのはただ尊いだけ。そこに理屈はないのです。この世界の実相(宇宙)は生命です。生命は光です。光は生命の始まり(ヒ)であり、尊いのです。そのように僕には「そうだな」という心があって、言葉には表せない確信に至っているのです。僕はこの確信に出会う喜びをみなさんに伝えたいのです。それで僕のもとに仲間が集って、この暮らしを始めたのですが、実は僕の意志というより天の意志がそれを導いたのです。今、僕の役割は「そうだな」という確信を伝えることです。その確信に人々をいざなうのが僕の役割なのです。確信というのは揺るぎのないものです。そして同時に、その確信はみなさん一人ひとりの中にある意志でもあるのです。

そうすると、人間が肉体に降り、地上を生きる迷えるものであるとしたならば、その先に人間が到達する目的地は、その確信に出会うことです。だから、人はどこで生きても、目覚めればその目的地に到達することができるのです。

どうも僕にはそれを伝える役割があるようで、(受講生の一人ひとりを指しながら)ウダウダしている人がいるし、良いところにいても確信に至るには深い読みが足らない人もいるし、歪んでわざわざ遠回りをする人や、棚の上のことだけを考えて下から梯子をかけていない人、何か大事なものを見ているのにそこに行くために自らの持っている執着をそぎ落とす必要がある人、道を行くよりも自分の今の評価の方が大切になっている人などもいるのです。理想があるのに遠回りばかりしている人、どこかに理想を感じているのに自分の思考を整理整頓していない人、鋭い感性があるのに本質に行くことをしていないから世の中に流されている人、迷いが人生を表現することになっている人、本質を観る力があるのにわからないと言ってさぼっている人、鋭い分析力があるのに頑固で不器用なためにその分析力を自分に落とせないでいる人など個性的でいろいろです。それを伝えるのは本当に面倒くさいです。ある意味1か月間付き合うのは苦痛です。しかし、そういった人間が地球上には70億人もいるのですから大変です。

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そう語りながら、今、気が付きました。これは僕が全て責任を負わなくてもいいことなのです。それは時代の切り替わりが人々の意識に現れるときが来ているのですから。だから僕はそのように表現しながら、今、楽になっています。これから時代が切り替わっていく上で、一人ひとりの中に想いが湧いてきます。そしてそれは時代の意志であり、天の意志です。そこで、僕は自分ひとりでそれを背負うと感じると、面倒くさく苦痛で死にたいと思うのです。このような尊い役割と道を伝える側にいても、人間個人に囚われると面倒くさくて辛いことにもなります。しかし、それを天との共同作業と捉えるならば、喜びを持って進んでいけます。天は僕にこう言うのです。「難しいことを与えておるゆえ、心していけ。」と。

人間はある意味生命の最高到達地点にいます。しかし、今の人類のいる地点は、皮肉なことに自我の垢にまみれた最高地点にいるのです。地球上の生命の歴史で今は、最も垢にまみれたところにいると言えるでしょう。それは人間の価値観で正義の側のものも悪の側のものも同じところにいるのです。そういった状態をすべてリセットしひっくり返して新たな価値観にいざなっていく。それを僕が伝えるとなったら、無限に続く険しい道に観えます。

そこで今日思ったのは、一人ひとりにこの道を返すということです。あなたのリセットはあなたに託されています。そして一人ひとりが目覚める。これから目覚めるということは、今は眠っているということです。ですから、今のあなたの苦痛は、あなたがあなたを囚われの中に閉じ込めているから発生しているのです。それをあなたがリセットすれば、今までの苦痛は全て幻となり、あなたは新たな人生へスイッチを入れることになります。幸せはみんな一人ひとり、自らの手の中に持っています。そのスイッチを入れないで不満を言っていてはいけません。

それで今朝、僕もリセットしたのです。それを苦痛に思わない。その結果、早速みなさんに伝えているのです。時代はもうそういった時代に入っているのです。これから世の中の価値観はガラッと変わります。ですからその現れとして今、行き詰まりがたくさん浮き上がってきているのです。これは天の采配です。一人ひとりが個の花を咲かせる時代が来ます。今までの自分をリセットすれば、それまでの人生は全て幻となります。そんな簡単なスイッチが隠されていることが、この世界のカラクリです。この世界、人生はカラクリです。逆に言えばカラクリですから、それをひも解けばどのようにもあなたは変身できるのです。

今、僕には確信があるのです。中空を観て、「ああ、そうだな」という確信があるのです。それは頭の中で思考を巡らせてわかることではありません。尊さを言葉で表せないのと同じです。そういったことを人々が理解し、地上を生きていく時代の扉は今、開いているのです。

こうしたことが地上で語られるのは、もしかしたらここが初めてかもしれません。「えっ!自分が?」と信じられないかもしれませんが、始まりは秘かにあるものです。それがあなたであるという確率は常にあるのです。それを信じた者は、その一番の始まりに自らが立てるのです。信じなければ、そこに立てることはありません。

この話は、今朝僕がリセットして「死にたい」と思い、今までの解釈を手放したら天から降りてきました。囚われている分だけその扉を開けると、天は与えてくれます。そして僕は口を開いて語ります。僕の中から出ると、門が開き、開いているから入ってきます。これが天とともに生きるということであり、その意識に到達した者は宇宙を生きるということです。

みなさんはこれから、今までのあなたの自我が反映され表現されてきた現場に戻ります。そこへ帰って、今までの自分に戻るのか、「ああ、そうだ」と新たな方向へ向かって行くのかは、みなさん一人ひとりの自由です。

わたしたちは常に天とともに、すべての生命と一つとしてともにあり、孤独なものはいないのです。ですから、そのことに気付いて豊かに調和した世界を生きていくのか、それとも自我に囚われ生きていくのかは、あなたの自由なのです。しかし、ここで学んできたように、宇宙は、あなたの歩みが反の方向へ進むと、常に苦痛を与えるようになっているのです。宇宙に生きることも時代を表現することも、そこに示されているのは一つの方向である宇宙の法(正の方向)です。そこでは人間に自由を与えながら、法の中に存在することを求めているのです。自由意志の証として自我を与えながら、人間が自我に囚われ法から外れると、法の中に引き戻す作用が働くのです。それが天の意志であり、導きです。そして人間に対する愛なのです。それを受け取ることは、わたしたちが人として存在する価値を理解することにつながります。ですから、もしあなたがまだ自我を大切にしたいのなら、自我の方へ行って下さい。それはみなさんの自由です。

僕はこの1ヶ月間を通して昨日の修了パーティを終え、今朝リセットしました。いさどんですが、ニューいさどんです。みなさんは、どうしますか?では、また会いましょう。

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みなさんは、これからどうしますか?

 


27日目午前「心豊かに生きる」~後編

前編より ~

「心豊かに生きる」の時間も残すところ30分あまり。さて、みんなは共に階段の間を埋めていくことができるのでしょうか?!

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たえちゃん:
しゅうくんが素の自分を出した最初の段階と後の段階を今考えてみると、後の段階ではしゅうくんは意見を出すたびに「それで大丈夫かな?」とか「いいかな?」とみんなに確認していました。

いさどん:
それは、しゅうくんがみんなに配慮していたということですね。

たえちゃん:
そうです。

みかちゃん:
進化していった。

いさどん:
それはどのように進化していたのですか?

みかちゃん:
最初は相手の気持ちを考えないで独りよがりだった。それが今度は独りよがりだとわかったから、みんなと確認を取っていくようになった。

しゅうくん:
最初の頃は、自分が正しいと思ってみんなに言っていました。

いさどん:
ということは、最初はある意味押し付けるような感じだったということですね。

しゅうくん:
はい。それで自分が学んだ後では、自分が感じたことを情報として出すようにしました。

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いさどん:
それは、ひとつの意見として出していたということですね。

しゅうくん:
そうです。

みかちゃん:
それはすごく違うよね。

いさどん:
大分階段がかかってきましたね♪

みかちゃん:
みんなもそういったしゅうくんの違いは感じていましたか?

やすこちゃん:
真学校の最後のほうでは、しゅうくんはそれほど感情を乗せずに発言しているような印象を受けました。

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いさどん:
そうすると、そこでのしゅうくんの正直な発言は調和につながる発言になりますね。しゅうくんもみんなも、そこに至るのに大分時間がかかりましたね。

さて、この時間がかかったことに対して、もっと早く、極端なことを言えば瞬間にできる方法はないのでしょうか?

エリちゃん:
何かの結論をみんなで出す前に、みんなが自分を表現できたと感じる場を持つことが大切なのかどうか、今考えています。

いさどん:
それは自分たちの気持ちを出す場を先に持つということですか。

エリちゃん:
もし、自分の意志がまわりと違うのであれば、自分の一部を全体の調和に足すために、それを出していくということです。

いさどん:
それは何でも言える場を最初に設けるということですか。

エリちゃん:
何でもかどうかはわかりませんが、もしその場に共鳴しないのであればそれを表現するということです。今、わたしがここで言いたいのはしゅうくん一人がこの場の混乱に責任があるのではなく、少なくともわたしは、いさどんがみんなで場を創っていると話したことを理解しようとしているのです。だからわたしは今、トオマスが話したこととのギャップを埋めようとしています。みんなの心はしゅうくんが出したものをそれぞれ解釈しているので、もしみんなが自分を正直に表現していったら、そこには調和の場がもたらされるかもしれないのです。しかし、しゅうくんだけが自分を表現すれば、まわりの人たちはしゅうくんが押し付けがましいとか、怖いと解釈し、不調和が生まれるのです。だから、ここで質問なのですが、もし誰かがみんなをエーッと驚かせるようなことを出しても、みんなもそこから自分を出していけば、それは調和になるモデルとなるのでしょうか。

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いさどん:
それをわかりやすく解説すると、しゅうくんはここの中のひとりとしてここが良い場であるべきだという善意のもとに、それはあくまでも彼の価値観で素の自分を出したのです。エリちゃんはそれをみんなでやったほうがいいのではと考え、そのことによって正直な場ができて、その結果ここが少し混乱するかもしれないけれど、みんながこの場を良い場にしようとする心が共通していれば、最終的には調和の場になっていくということですね。

エリちゃん:
それがわたしが言いたかったことです!これは小さな仕組みだけではなく、大きな仕組み、たとえば家庭、教室、政府機関といった組織でもそうなのですが、みんながコミュニケーションをとるために話したり、意見が聞かれることを許さない仕組みであれば、わたしたちは調和に到達することはできないのです。なぜならそれは一部の声を聞くだけだからです。

トオマス:
エリちゃんが言ったことを聞いて思ったのは、もし僕が明快に客観的に聞いていなければ、他者の意図を聞くことはできないということです。そこでは自分自身の価値で聞くことになるからです。そうすると僕は、「それは違うよ!合わないよ!」と言うことになってしまうのです。それで他者の話を自己流に判断してしまうのです。それでは僕たちは現実に調和的な仕組みや目的を得ることはできません。だから、僕たちは他者を聞くときには明快で客観的である必要があるのです。そしてそれは自らの価値観を変えることになるかもしれないのです。

いさどん:
それは対象と寄り添うということですよね。さて、階段はどのくらい埋まったでしょうか(笑)?

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一人ひとりにはそれぞれオリジナルな事情があるので、ここで一律の共通認識を持つ必要はないと思います。しかし、明らかに一人ひとりはこの1ヶ月間を経て、変化していることは確かです。ここで何か完璧なものを得て、これからの人生をスタートしていくのではなく、自分の本当に出会い、その位置をスタート地点にして次へ進んでいけばいいのです。

1ヶ月間の学びを通してみなさんにお伝えしたかったことは、広い世界観を持つことによって、自分のキャパを広げ、世界に多様性を観て、いろいろなあり方を認めましょう、ということです。それは外に向かっての取り組みです。逆に内に対しては、自分の真実を知りましょう。それはあなたにとって受け入れがたいことでもあるかもしれません。多くの人は自らの幻想を見ているのです。そして「こういうふうに見られたい」「こういう人でありたい」と思って生きているのです。それが自分に対する囚われた感情です。ですから、感情をオーバーラップしていたら、本当の自分は観えません。そして感情をオーバーラップしていたら、外の世界も常に自分の感情を通して見ることになりますから、本当の世界を観ることはできません。そういったあなたに対して、常にこの世界はあなたの心の状態を忠実に反映した出来事を返してくれるのです。それがこの世界に生きることであると同時に、神様の意志であり、宇宙の法則なのです。

そこで、まず大切なことは、自分にとって印象が良かろうが悪かろうが、真実の自分と向き合う勇気を持つことです。それには努力が要ります。その勇気と努力の上に広い世界観がないと、ありとあらゆる可能性・多様性の中で真実の自分をより分けて、観ることはできません。まず内を観て、本当の自分と向き合い、それを認める。そして外を観て、あなた以外の多様性を認める。その中であなたが生まれてきた意味を存分に発揮するためには、この世界に存在する自分に与えられたピースを見つけるということです。そこにはあなたにしかできない役割があって、自分自身が充実した人生を送りながらこの世界の役割を果たすこともできるのです。

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今日はこの階段を埋めていくという話をしました。途中でトオマスが最終結論の話をしてくれましたが、それはすでに完成された境地の場が用意されていて、この世界に存在しているということです。しかし、今はこの段階にいるのですから、そこにはいきなり到達できないのです。ですから、わたしたちはその過程を踏んでいきながら、そこへ行くための道である階段を一段ずつ登っていかないといけないのです。そこに思惑や感情が入れば、その過程を飛び越えたくもなるのです。そこで、冷静に自らの感情にも他者の感情にも寄り添っていく必要があるのです。

そういった歩みの過程では、遠回りをすることもあります。無駄な時間を使って、エネルギーを無駄にすることもあります。それはなぜかというと、自らの感情がオーバーラップすることにより、本当の自分自身も相手も観ていないからです。

先程のしゅうくんの話に戻ると、ここに集った人たちはこの場を良くしようという善意でここにいました。しかし、多くの人が自分との違いを先に見るのです。それは自我が優先しているからです。つまり、自分の基準が優先しているのです。

日本では、「一を聞いたら十を知る」という言葉があります。カタカムナでいうと、ヒフミヨイムナヤコト(一二三四五六七八九十)のプロセスを経て熟知したヒト(一+十=十)は、人の完成された悟りの姿です。それは一から十までの道とも言えますが、ヒトは一と十であり、その間がありませんね。道がわからないものは一から十まですべてを歩まないといけないとも言えるのですが、ひとたびその仕組みがわかったものは、現れている現象の奥にその本質をすべて観ることができるのです。

そのときに、今の話の中では本質をどこに観ればいいのでしょうか?まず、そこに登場する人たち全員に善意があったのです。そして、善意を最初のベースにおいて物事を観たときに、お互いの善意の違いを理解し合えば、あとはつなげるだけなのです。それが「一を聞いたら十を知る」ということです。実は、途中の学びはヒトが完成されるといらなくなるのです。

それを違う言葉で表現すると、「阿吽(あうん)」です。日本の言葉には48音があり、「あいうえお かきくけこ・・・ん」で終わります。そうすると、「あ」と聞いたら「ん」と答える。それですべてがわかって、そこに調和が生まれるのです。これが宇宙の最終の実相です。そして人間にとって可能な最終到達地点です。わたちたちが目指すべき到達地点はそこなのです。

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ということで、階段の間が抜けていたのを一気に埋めていきましたが(笑)、みなさんにそれぞれの個性があるように、それぞれの心にふさわしくどこかが抜けているのかもしれません。みなさん、ヒトという完成されたものの道があることを理解してください。そして、みなさん一人ひとりにふさわしく、その抜けている道をこれから自分で埋めていき、ぜひ「ヒト」として完成された人生を生きてもらいたいと思います。この仕組みがわかったものは「ヒト」となり、「一を聞いて十を知る」ことになり、そして「阿吽」の世界を生きることになるのです。

では、時間を少し過ぎましたが、これにて1ヶ月間の真学校のすべてのプログラムを終了します。みなさん、ありがとうございました(みんな、拍手)。

いさどんに抱き着くトーマス
いさどんに抱き着くトーマス

――

 
この日の夜の大人会議では、今日のプログラムの時間についてシェアする場が持たれました。その中でトオマスは次のようにみんなにシェアしました。

 
トオマス:
こんばんは!

みんな:
こんばんは!!

トオマス:
今日の講座が終わったとき、僕はトイレの外でひそかにいさどんを待っていました(笑)♪

いさどん:
(拍手!!!!)

トオマス:
というのも、今日僕は「ようこ」になろうとしたのです!

いさどん:
僕がトイレから出たら、トオマスによく似たようこがいてね(笑)、どちらだか区別できませんでした(みんな、爆笑)。

トオマス:
僕は今、もっと繊細であるよう取り組んでいるところです。それでトイレから出てくるいさどんにタオルを差し出したのです♪

いさどんがトイレから出てきたとき、「最後の最後ですべてを料理できましたね」と伝えました。「ヒト」の境地に到達するのは山登りのようです。山の頂上が「ト」です。しかし、いったん「ト」に到達したら、また下に降りてくる必要があるのです。そして、他者と共にまた登っていくことが大切なのです。

この1ヶ月間の真学校は僕たちにとって心と向き合う練習の場であり、それは道場のようなものです。そしてこの世界は僕たちが実践していく場です。そこで僕たちは共に歩んでいくのです。

もし僕たちがこうした学びすべてを1ヶ月間の真学校の初日に知っていたら、それでは真学校は成立しませんでしたね。常にもうひとつの山があるように、常にもうひとつの真学校があるのです。だから、僕はまた次回ここに戻ってくるのを楽しみにしています!

いさどん:
今日の一番のメインイベントは、講座が終わった後に僕がトイレに入ってトイレから出てきたときの出来事です。以前、真学校の受講生には講座の中で話したことがあるのですが、僕はトイレに入るとき中にある手洗いを使わず、いつも流し台のところに行って手を洗います。流し台の前にはタオルがかけてあります。僕が手を洗って、そのタオルを取ろうとすると、すっとそのタオルが自動的に上がってくるのです!だから、僕はタオルを取るためにかがんで足を曲げる努力をしなくても、手をタオルのほうに向けただけで、タオルがちょうど良い高さに上がってくるのです。いつも「あれっ!」と思うと、そこにようこちゃんがいて、パッとタオルを上げてくれるのです。それはなぜかというと、たとえ足を曲げるにしろ、手を少し伸ばすにしろ、そのエネルギーをようこちゃんは僕に使わせないようにしているのです。僕のエネルギーを少しでも僕にしかできない役割に使ってもらうために、ようこちゃんはサポートしていると言うのです。この話はようこちゃんの心構えということで受講生のみんなにも以前話したことがあったのですが、今日トイレから出たら、タオルを胸の前で持ちながら両手で僕に差し出す人がいたのです!それで、「ようこだ!」と思ったのです(笑)。トオマスは流しのところではなく、トイレの入り口の前に立っていたのです。それから僕は流しへ行って手を洗い、トオマスが差し出してくれたタオルを使って手をふきました。そのときに話したのがさきほどトオマスが話してくれた話です。

しゅうくんの話は、彼が感情的だったときから、1ヶ月間の真学校を通して学んでいき、そこで自分のイメージが悪くなって振り返り、みんなに心を配るようになっていきました。しゅうくんは最初も素の自分を出してまわりを混乱させました。みんなも素の自分を出して、場を修正しようとしましたが、できませんでした。しかし結果として今日、最終的にしゅうくんが発言したことにより、みんなにもたらしたものはみんなの調和でした。

実は今日、僕は企んでいました。というのは、この1ヶ月を通してどうしてもここまでは語りたいということが自分の中にはあったのですが、全体の場がそこまで語る段階に至っていなかったのです。だから、実はとうとう語らずに終わりそうだと思っていました。そうしたら、今日の最終プログラムの中でしゅうくんが手を挙げ、自らの振り返りを語り始めました。そのとき、時間は1時間弱しか残っていませんでしたね。そして、みんなの考えを聞いていくうちに、僕はある映像を組み立てるイメージをしながらファシリテートしていました。途中でトオマスが一番上のトを語りました。最終到達地点を語ったのです。それはそのとおりなのですが、その間に階段がいるのです。階段がないのに、一番下の話から一番上までの話はつなげて理解できないからです。そうしたら、僕が誘導していくうちに、たえちゃんがその途中の階段をかけ、よしやんがかけたり、いろいろな人がその間を埋めていった結果、ヒからトまでの階段の十段が少しずつかかっていきました。

そのような中でエリちゃんから「みんなで自由に話せる場をつくったらいいのでは?」という話が出ました。それはそのとおりなのですが、みんなが自由に話せる場はなかなかできないのです。それはある意味仕上がった場所ですからね。それから、みんなが自由に話せる場所であっても、そこに共通した目的がないと、話がたくさん出て、時間がたくさんかかってしまうのです。コミュニケーションの学びの場では人が心を開いて何でも話せる場を創って対話していくことが大切だといわれるのですが、実はそこを超えた世界があることを、1ヶ月かけてみなさんに伝えたかったのです。

今日は講座の最終日だったのでそこまで到達したかったのです。途中では「今日はちょっと無理かな?」と思ったのですが、しゅうくんのシェアから最初の一が語られ、そのあとトオマスから十が語られ、途中が語られていく中で、いろいろな人がその間を埋めていきました。しかし実は、このように時間をかけて埋めていかなくても、たちどころに通じる心のあり方があるのです。

それが日本で言う「一を聞いて十を知る」です。最初、みんなの元にある心は善意でした。みんなが言葉の奥にある善意を互いに感じとれたら、自動的に互いの心がつながり、そこで信頼の場ができあがり、一から十の場ができるのです。そこに集ったということが一ですから、そしてみんなが善意だと確認できれば自動的に十になるのです。カタカムナで十は完成を示すのですから、みんなが善意であることが理解できれば、その場は心が完全にオープンで、駆け引きも何もない場になります。そこではみんなが正直に出していく場ですから、「あなたはどう?」「あなたは二段ね」「あなたは五段ね」「あなたは八段ね」とポンポンとはめていくと、たちどころに一から十が完成するのです。

しかし、今は一人ひとりの意志を聞いて、一段一段をはめる作業がいるのです。そこでは互いの善意が確認し合えていたら、細かい打ち合わせはいらなくなりますね。誰かが「あなたには一をやってもらいたいんだ」と言ったら、あなたは「これは最終的にはここにつながるんだね」と理解し、まわりにいる誰かが「それだったらわたしは二をできるわ」と言うようになっていき、それが「阿吽」の世界につながるのです。人の求める究極の世界は「阿吽」なのです。そうすると、その場では心の調整もいらなくなります。

この1ヶ月間の真学校を通して、そういった世界があるというところにまで僕はみんなをいざないたかったのです。そして今日、それに間に合ったと思ったときに、講座の後にトイレに入ってトイレから出たら、トオマスがようこちゃんをやっていたのです!以前僕がしたようこちゃんの話をトオマスは直観で感じ取り、タオルを僕に差し出していたのです。

トオマスは最初に十を語りましたが、それは正解なのです。それは、みんなが共通して北極星を持つことにつながるからです。しかし、トオマスはいつも北極星を先に語りますが、みんながまだそれを理解していないところで北極星の話をしても、それでは意味がありません。それで、トオマスが僕にタオルを差し出した後に話したのは、登山をして頂上に到達したものはそれだけの価値を知っているのだから、逆にこれから登山するものにその道を示すことができるのです。そうすると、頂上に到達した後、また降りてきて、一から行くものに寄り添っていくと、ヒフミヨイムナヤコトの道を他者にいざなうことができるのです。トオマスもこれからそのように生きていけるといいね、と伝えました。

それで今日は無理かなと思っていた話が、そこで完成したのです!僕がこの1ヶ月間、みなさんに伝えたかったことが最後の最後で語れました。僕はとても満足しています。

トオマス:
しゅうくんと僕が一緒に歩いたら、「ヒト」になりますね♪
※トオマスは、ヒール(かかと)とトゥ(つま先)を交互に「ヒ」「ト」「ヒ」「ト」と動かしました。(みんな、笑)

僕は今、いさどんのようですか(笑)?

いさどん:
(OKとジェスチャー♪)

トオマス:
僕は子どもの頃、取り扱い説明書を読むのが嫌だったので、「僕は何でも知っているよ」と思って、バイクを組み立てるときでも何でも、途中のプロセスを抜かしてきました。

いさどん:
だから、壊してきたのでしょう(笑)。

トオマス:
そのとおりです!それで最終的には自分自身に怒って、最初のステップに戻って適切なる方法でやり直さないといけなかったのです。だから今は、すべてのプロセスが大切なのだと本当に感じています(みんな、大拍手♪)

 

 


27日目午前「心豊かに生きる」~前編

1ヶ月間の真学校、最後の講座となる「心豊かに生きる」というプログラムの中で、受講生ひとりひとりがこの1ヶ月間を振り返る時間が持たれました。その中で、受講生のしゅうくんは以下のようにこの1ヶ月間を振り返りました。

しゅうくん
しゅうくん

しゅうくん:
僕は1ヶ月間の真学校を受ける前はここでヘルパー滞在をしていたのですが、この1ヶ月間はそのときとは違い、常に生活を共にしている仲間との間で自分の癖がたくさん出て、こんなにも僕はまわりをひどい状況にさせるのだと自分の影響力の大きさに気付かされました。こうやって僕は不調和を起こしていくのだと知ることができました。この1ヶ月間、日記で自分のことを振り返りながら、なんとなく自分のことはわかっていましたが、その状態がそもそも囚われていたことにやっと気付いたところです。わかっていたけれど、やってこなかったことが今、わかったところです。
これから自分がどのように生きていくのかをここ数日間考えていたのですが、自分としっかりと向き合っていくのだと感じています。自分の中では気になることがたくさんあって、自分が大きなことで悩んでいるのならまだいいのですが、自分自身が嫌だからとか、そういった狭い世界観の中で僕は悩んでいるのです。だから、そこから離れて世界観を広げていくことを、これから謙虚に素直に取り組んでいきます。僕は今まで本当に傲慢だったと思っています。今は素の自分を出していることで、少し楽になっています。

いさどん:
ひとつ質問があります。これまでは自分の癖をそのまま出してきて、それはある意味、素の自分を出してきたということですよね。

しゅうくん:
はい。

いさどん:
そこは反省しているのですよね。

しゅうくん:
はい。

いさどん:
反省した結果、今話していることは、ある意味これからも素の自分を出していくという結論に至ったのですよね。

しゅうくん:
素の自分を出していく・・・それは、自分自身で素の自分を認めて、それをコントロールしていくということです。

いさどん:
もう一度言いますね。結局、しゅうくんがやってきたことは自分の癖をよく理解せず、癖のままに表現してきて、素の自分を出したことがこんなにも全体に大きな影響を与えているのだと学んだのです。その結果、結論はやはり素の自分を出していくことなのだと言っていましたね。それは矛盾だと言っているのではありません。その最初の素の自分を出したことと、後で気が付いて素の自分を出そうという結論に至ったこととでは、一体何が違うのでしょうか。

問題の元となった素の自分と、学んだ後に素の自分を出すことによって「これで行こう!」と感じている素の自分との違いは、一体何なのでしょうか?

みかちゃん:
それはこの前一緒にご飯を食べていたときに話したよね。癖のままに出す素の自分と、客観目線も入れた上で出す素の自分の違いについて混乱している人が多いから、正直を出すことがいいことなのかどうなのか。正直を出したらそれでいいのか、という話をしたね。

しゅうくん:
そうそう!でも、それをどのように説明したらいいのか・・・。

いさどん:
どちらも同じ素の自分ですからね。これはとても重要なポイントなのですが、今の世の中もある意味みんな、素の自分を出しているのです。その結果、社会は今のような状況に至り、行き詰っているのです。しかし、自分らしく正直に生きることによって、これは解決できると思うのです。ですから、今までの正直に出していたことと、その後の正直の違いをわかる必要があるのです。「このように素の自分を出していけばいいのだ!」と理解できると、次のステージへ力強く進んでいくことができます。さあ、みなさん、考えてください!

よしやん:
そのふたつは同時にいるんじゃないかな?自分の好きな自分と自分の嫌いな自分の両方が混在している。

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いさどん:
混在しているのはわかりますが、自分の好きな自分というのもそれは自分基準になっている場合が多いのです。これはポイントですよ♪自分の心地良い自分を素に表現したときに、それがまわりにとって良いかどうかはわかりません。それこそが独りよがりですからね。

たえちゃん:
客観視点を持って自分を観て、まわりを把握して、自分を出していく。

いさどん:
それは最終目標ですね。自分を入れた大きな枠の中で自分を観て、全体を把握した状態で自分を表現することは最終目標です。今、ここで質問していることは、最初に素の自分を出したときに不調和をもたらしたしゅうくんがいました。その素の自分はある意味問題だったのです。しかし、そういったことも学んだ上で、最終的にしゅうくんはやはり素の自分を出していくことが大切なのだという結論に至ったのです。それは正解だと思います。以前の不調和をもたらした素の自分と「やはり素の自分を出していくべきなのだ!」というポジティブに解釈できる素の自分の違いは、一体何なのでしょうか?

たえちゃん:
最初の素の自分は感情が伴っていて、感情をコントロールしていない素の自分。

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いさどん:
それは全体に何をもたらしましたか?

のぶくん:
しゅうくんの感情の痛みだと思います。

いさどん:
いや、しゅうくんはまわりに何をもたらしましたか?

のぶくん:
まわりに不調和をもたらしたことで、しゅうくんが傷ついて、そこで学んだということではないでしょうか?

いさどん:
それはしゅうくんが学んだのですか?

のぶくん:
そうです。

いさどん:
そうすると、まわりはどうだったのですか?

のぶくん:
まわりも学んで、しゅうくんも学びました。

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いさどん:
ということは、しゅうくんが感情をコントロールしないで出した結果、まわりもしゅうくんも学んだとしたら、それは悪いことではありませんね?しかし、その状態だと学びは学びでも、良くない見本として、つまり教訓としての学びになりますね。その教訓を超えていくときに、やはり素の自分を出さないといけないとしゅうくんは言いましたね?僕もそうだと思うのです。そこで、振り返る前と後とでは何が違うのか?場を乱すような素の自分を出し続けることと、振り返った後の素の自分を出すこととは違いますよね?

しゅうくん:
感覚ではわかるのですが・・・

いさどん:
言葉にならないということですね。

しゅうくん:
はい。

いさどん:
あなたは以前の素の自分を出したときの体験と、その後に「やはり素の自分を出すべきだ」という体験の両方をしたのですよね。その感覚の違いを言葉にしてみたらどうですか?

しゅうくん:
以前はとても苦しかったです!まわりに自分の感情をバーッと出したときにはみんなとの距離をとても感じました。それで自分もどんどん苦しくなっていって、孤独になりたかったし、そうするとまたどんどん自分が辛くなっていくと思って、「これではまずい!」と思って切り替えたのです。

いさどん:
そのときに、まわりを混乱させようと思って、やっていたわけではありませんね?

しゅうくん:
はい。

いさどん:
感情のままに出したとき、何が目的だったのですか?

しゅうくん:
・・・これといった目的はなかったのですが・・・。

いさどん:
ただ言いたいことを言っただけですか?僕はあなたのしていたことを把握していますよ。

たえちゃん:
しゅうくんが感情を出してコントロールしていないときにわたしが感じたことは、「俺はこんなに一生懸命やっているのに、なんでみんなわからないんだ!」というような空気を感じました。

いさどん:
すばらしい!しゅうくんの心はそれですよ♪その背景として、しゅうくんの想いには何があるのですか?

よしやん:
自己嫌悪?

いさどん:
そうですか??

よこなおちゃん:
認めてほしい心。

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いさどん:
そうですか???

たえちゃん:
「俺の言うとおりにしろよ」とか??

いさどん:
そこで、なぜみんなは言うとおりにする必要があるのですか?みんなが言うとおりにした結果から、しゅうくんは何を求めているのですか?

たえちゃん:
自分の成功??

いさどん:
ここでしゅうくんは自分の成功を望んでいますか?当事者であるしゅうくんはどうですか?少なくとも、正解はあなたの中にあるのですよ!これがあなたから出てこないとしたら、自分の感情に対してそれを認識せず、感情のままに出しているということです。しかし、その感情が湧き出てきた元にあなたの意志があるはずなのです。その意志がもう一度何だったのかを確認できるといいですね。

今すぐ出てこないようなので、僕が少し誘導しますが、しゅうくんは最初に力強く想いを出して、素の自分を出した結果、ここを混乱させたと自分で認識しているのですよね?

しゅうくん:
はい。

いさどん:
しかし、混乱させようと思って出しましたか?

のぶくん:
混乱させたいという気持ちもあったと思います。

いさどん:
しゅうくんに混乱させたいという気持ちがありましたか?それは彼の意志ですか?もしかしたら、自分の気持ちを重ねていませんか?

のぶくん:
もちろんそうです。自分視点でしかしゅうくんを捉えられないので、そう言っています。

いさどん:
本当はそこを卒業するといいのですよ。この場所はしゅうくんに寄り添ってみんなで考えることが大切なのです。そこを自分視点でしか捉えられないところに、のぶくんの課題があります。あなたの中には人が同じような共通点を持っていると安心する心があるのです。そこで、あなたの感情はより強く動きます。しかし、今はあなたの感情は抜きにして、しゅうくんの感情について振り返る必要があるのです。

のぶくん:
どうやって振り返るのですか?

いさどん:
そこは本人に聞くということです。自分から見て決め付けるのではなく、本人に聞くのが大切なのです。

のぶくん:
でも、本人でもわかっていない気持ちはありますよね?

いさどん:
それを誘導して紐解いていくのが人のために寄り添うということです。今この時間は、みんなでしゅうくんの気持ちに寄り添おうとしているのです。ですから、そこで自分の感情をオーバーラップさせては、真実は観えてきません。

さて、しゅうくんははじめに強い意志で素の自分を出しました。そうしたら、場が混乱しました。しゅうくんはその混乱を見て、自分が素を出すとまわりを混乱させるのだと気付き、それでは自分に対する印象がよくなかったので自分に対して落ち込んだのです。そのしゅうくんがはじめに自分の意向をよく考えないでそのままストレートに出した心の元は、この場に混乱をもたらそうと思ってやったかどうか?それはどういう心でやったのでしょうか?本当は本人に聞いているのですが、本人がその答えを出せないので、みんなで探っていきましょう。

りょうこちゃん:
みんなとつながりたいから。

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いさどん:
しゅうくんはみんなとつながりたいのですよね?

しゅうくん:
はい。

いさどん:
つながりたい目的は何ですか?

しゅうくん:
より良い世界を創りたい。

いさどん:
そうです!しゅうくんはより良い場を創りたかったのです。しゅうくんはこの場がまとまっていないと彼流に感じたので、この場を良い場所にして、みんなとつながっていきたいと思ったのです。そしてそれを実行したのです。それは悪いことですか?

しゅうくん:
悪くはないです。

いさどん:
しかし、悪い印象しか残っていませんね?

しゅうくん:
はい。まわりから、僕がいらいらしているとか怒っているというフィードバックをもらったので。

いさどん:
しゅうくんが全体に投げかけた意向は、善意ですよね。そのことについてみんながクレームを言ったのは、悪意ですか?

しゅうくん:
悪意ではなかったです。

いさどん:
しゅうくんは全体を良くするために投げかけたのですが、そのことによってこの場が乱れたので、みんなもこの場を良くするために自分の想いを出したのですよね?ここで少し僕がファシリテートしますが、しゅうくんも善意で出した。みんなもそのことによって善意で出した。しかし、当初ここには何が起きたのですか?不調和が起きましたね。みんなは善意で出しているのに、不調和が起きたのです。ということは、ここで何を観るべきなのでしょうか?何を観たら不調和ではない世界が観えてくるのでしょうか?

これはテストを受けているようですね(みんな、笑)。

かずえちゃん:
彼が出した奥の客観背後を観る。

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いさどん:
ハッハッハ。それはまたハイレベルなことを言いましたね(笑)。

かずえちゃん:
その奥にある真意を観たいと今思いました。

いさどん:
そうすると、その奥にあるしゅうくんの真意、みんなの真意を観たら、何が観えてきますか?

たえちゃん:
みんなと調和したい心。

いさどん:
そうです!そこにはみんなと調和したい善意の心しかありませんよね。そこだけを観ていけば、いつでも善意の場ができるのです。しかし、その奥にある善意を観るに至らないと、善意の場にならないし、調和にならないのだと僕は思うのです。

さて、一番重要なところへ来ましたね!しゅうくんが感情的だったことを何気なく振り返ったことから、今わたしたちはとても大切なところへ来ています。少なくとも、しゅうくんが出した不調和は彼の善意から出たこと、さらにその不調和が起きたことに対してみんなはそれを改善しようとして善意から投げかけたのです。しかし、結果としては不調和の場ができました。そこで、みんなの元の心を観たら、すべて善意でした。善意だけだったら、問題はないはずですよね?

よしやん:
その善意を押し付けがましく感じる?善意だけど、悪意の善意?ちゃうなあ(笑)。

いさどん:
えっ!悪意の善意があるのですか??

よしやん:
善意でいても相手がうっとくるということは、善意の押し付け的な感情を感じて、こちらも感情が出てしまう。

いさどん:
それは受ける側の理論ですね。被害的に受けていると、「あなたの善意は悪意が混じっている!」という話になってしまうのです。そうではなく、一番元の心が善意であるということは、善意でしかないのです。しかし、なぜそこで不調和が生まれるのか、考えてみましょう。

トオマス:
僕に思い浮かんだイメージを伝えますね。ここの場のように僕たちが輪になっているとします。それで僕たちはみんな、織物をつくるための糸を1本ずつ持っているとします。僕たちはそれぞれ意図を持っています。しかし、僕たちがその意図を解釈するときには、僕たちはその場に感情をもたらします。そして他の人もみんな互いの意図を解釈し始めます。だから、「これはそういう意図ではなかったから、変えてみよう」ということになるのです。そこで僕たちが自分自身の中でゆるぎないものとなって、確固たる意図を持ったときに初めて、それはその場に反映され始めるのです。だから、僕たちが自分自身の中でゆるぎないものとなると、僕たちは柱になるのです。僕たちは他者にとっての柱にもなれるのです。僕たちが揺れ動くことがなければ、僕たちは状況を変える必要はありません。僕たちは自分たちの意図に対してただ確固たる必要があるだけです。そして、僕たちはありのままの姿で紡がれた調和をその場に観ることができるのです。

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いさどん:
トオマスは最終結論を言ってくれました(笑)!今、トオマスは最終結論の十のところの話をしてくれたのですが、どうもこの場はまだ二か三にいて、これからその先に行くところです(笑)。大分間が抜けていますね。これからそこを埋める必要があります。

たえちゃん:
しゅうくんが感情とともに、善意で素の自分を出したときに、みんながそれをどのように感じるのかをしゅうくんは考えていなかった。

いさどん:
それを解説すると、しゅうくんの最初の素の心はこの場を良くしたいという心で出したのですが、その強い想いはみんなのことを考えないで、しゅうくんの自分の想いだけを出したのです。しかしそこで考えなければいけないことは、彼は善意でこの場のためにやっていたということです。そのときに、善意であっても、この場に不調和の種が蒔かれたということです。

かずえちゃん:
それはまわりへの配慮がなかったということですか?

いさどん:
そうとも言えますし、逆に捉えると、まわりに配慮がなかったということはしゅうくんの姿勢はどうだったということですか?

たえちゃん:
自分よがりだった。

いさどん:
そうですね。

トオマス:
僕のしゅうくんとの体験をシェアすると、僕はしゅうくんの誠実さを感じてきました。僕たちがお誕生日会や修了パーティの練習をしているときや部屋にいるとき、またお風呂にいるときでも、しゅうくんは本当に何かポジティブなことをシェアしたいのだと感じていました。同時に、しゅうくんから不安定さも感じています。だから、しゅうくんは外に気持ちを出しても、それがどのように受け取られるのかわからず、みんながそれをどのように思うのかを知る前に修正してしまうようなところがあるのです。
それから、僕がただ「ありがとう!」と感じているときでも、しゅうくんは僕がそれをポジティブに感じていることを知らなかったこともあります。僕たちは同じ言語を話しませんが、僕は「それはいいね!」と伝えたいだけなのです。たとえばお風呂場での出来事でも、「僕はそれを知らなかったから、教えてくれてありがとう!」と伝えたかっただけなのです。しかし、しゅうくんはそのとき僕に対して感情的だったことを感じました。もしくは、しゅうくんはしゅうくん自身に対して動揺していたのかもしれません。だから、しゅうくんの最初の意図は人の役に立つものであったのに、そのように事は成らなかったということです。しかし、しゅうくんにはポジティブな意図があったことを僕はわかっていたので、僕たちが話し合えば、僕にはしゅうくんの意図していたことがわかるのです。そのようにして、僕たちは一緒にギャップを埋めることができました。

いさどん:
トオマスは大分上から降りてきて、僕たちがわかる言語のレベルになってきましたね(みんな、爆笑)。

トオマス:
はい!今は五まで来ましたか(笑)?

いさどん:
まだ大分間が空いていますから、このプログラムの時間が終わるまでにそれを埋める作業をしたいと思っています。もう一度話を整理すると、しゅうくんはこの場を良くしたいという強い意気込みで、正直な自分を出しました。その元の心は善意です。しかし、まわりの人たちは彼が独りよがりの方針を出したことによって、それを受け取れないがためにここに混乱が起きたのです。それに対してまわりの人たちは、その混乱を修正し全体の場を良くするために、善意でしゅうくんに投げかけたのです。しかし、そのときにまわりの人たちはしゅうくんを問題児として受け取っていたのかもしれませんね。問題児だと感じていたからこそ、しゅうくんも含めてこの場を健全にするために投げかけたのかもしれません。

そして今トオマスが、しゅうくんは誠実な人で、彼は善意のもとにいることをシェアしてくれました。しかし、実際にはここに混乱が起きたのです。だからその混乱を観て、しゅうくんは自分の起こしたこととして振り返って落ち込んでいたのです。それから事がいろいろと成っていった結果、彼はそれを学習し、「やはり素の正直な自分を出すべきだ!」という結論に至ったのです。

全体に混乱をもたらした最初の素の自分も善意であり、後からそれを学び修正して「やはり素の自分を出すべきだ!」というしゅうくんの結論も善意なのです。この違いを埋めていくと、この階段がすべて埋まると思うのですが、いかがでしょうか?

 

後編に続く~

 

 


社会という池に、あなたは何を流しますか

真学校の修了を4日後に控えたこの日、受講生希望者たちは木の花ファミリーメンバーと一緒に、長野県の皆神山へ富士浅間木の花祭りの舞や歌の奉納に出かけ、とても意味深い時間を過ごしました。そして夜の大人ミーティングで、いさどんは以下のように語りました。

皆神山にて、奉納を終えて ー
皆神山にて、奉納を終えたファミリーメンバーと受講生たち

 
いさどん:
僕の心にある絵が浮かんできました。

そこに池があります。
その池が汚れているかいないかは、その周りで生活している人の姿勢の現れなのです。自分の生活の仕方を振り返らない人々は、池が汚れていることの原因に気が付きません。

池の水は自分たちの命であり健康や幸せの元です。しかし自らの姿勢を見ないものにとっては、その池が汚れているのは、「世の中のせい、他者のせい」なのです。しかし池をきれいに保つためには、誰の心にも共通する姿勢がないとなりません。

「私たちは、その命の池をきれいにして、みんなで美しく保ち、そして健康に生きていきましょう。」

この池というのは、私たちの創っているこの社会のことです。
その社会に向けて自分がどんな響きや心を流しているのか。
その結果、今の社会というものをつくっているのです。
誰もが自分は健康でありたいと思い、池の水を飲むときに、健康な水をいただきたいものです。

しかし、その社会の池を作っているのは、あなたなのです。
そこで「あなたはきれいな水をいただいて健康に生きていくということをしたくありませんか」と言ったら、誰もが「そうしたい」というのです。そのためには、あなたが流す心の水をきれいにしないと、社会の水・池はきれいにならないのです。簡単なことですね。

それをするにはどうしたらいいのでしょうか。それは、心の目を開けて自らを観ることです。
自らが美しくなっていけば、同時に自らを取り囲む社会もきれいになってゆくのです。
そんな明快で当たり前の道を、今の時代を生きる人々は忘れているのです。
そんな当たり前のことですが、それをただひたすら真面目にまじめにやっていけばそれが世の中を美しくすることになり、それがこれからの見本となるのです。簡単なことでしょう。

それなのに、きれいになることを「損をする」ことのように思い、素直に受け取らず、ゆがんだ心で社会の池を汚して生きている人たちがいるのです。

あなたはあなた自身をどうしたいのか、生活の糧としてある大切な社会の池をどうしたいのか、そこに暮らす一人一人が自らに問うべきだと思うのです。

そんな映像が今浮かんできたのですが、これはとても明快な話なのです。しかし、世の中にはこのことを明快に理解して生きる人が、まだまだ少ないのです。せめて私たちは、この場をそういった明快な人たちの生活の場としての見本にしたいものです。

真学校に参加された皆さんも、自らがこのプログラムに参加する前にはどのような心だったのか、そして今どんな心をしているのか。
これから真学校が終わって次のステージに旅立っていくときに、どのような心で旅立ちたいのか、自らの価値としてあなたはどんな自分でありたいのか、正直に自らの心に向き合い、そして、真学校の終了を迎えてもらいたいと思います。

 

皆神山からの帰り道、富士山の前にて
皆神山からの帰り道、富士山の前にて

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23日目午後「愛とお米があればいい」

 この日は、いさどんとみかちゃんによる講座としては最後の、「愛とお米があればいい」でした。これは木の花楽団の歌のタイトルからとっていて、歌詞にも深い意味があります。

2016真学校「愛とお米があればいい」

その歌詞をもとにして話は進み、ここ木の花ファミリーで、最も大切にしている「心磨き」の話になりました。

2016真学校「愛とお米があればいい心磨き」
いさどん:
自我を表現することで痛みや学びをもらうということは、人は生きることによって出会う問題事や痛みを受けると、その苦痛から逃げようとすることが多いのですが、本当はその出会いこそが学習する機会となるのです。しかし、わざわざ痛みをもらってまで学ばなくても、自我の出所をよく理解し、その捉われをなくしていくことにより手放し、変化していけるものです。

のぶくん:
自我を表現するとはどういう意味ですか。

いさどん:
自分の心の在り様のままに生きていく、自分の思った通りに素直に生きていくということです。

のぶくん:
やりたいようにするということですか。

いさどん:
その通りですが、反対に、あなたの心の中の思いを、人からどう思われるかと考えて出さないことも、自我を表現していることになるのです。

のぶくん:
出さないこともですか。

いさどん:
そうです。出さないことはあなたらしい自我の表現ですからね。その場合、出すとわかりやすいからすぐに形になって答えが返ってきます。出せば早く痛みや問題を体験することができますが、隠して出さないでいるとその結果に行き着くまでに時間がかかります。その状態を長く続けていると不完全燃焼状態が続くということになりますが、それも自我の表現の結果の一つです。この世界にあって自分が生きているということは、全て自我を表現した結果との出会いです。その結果出会ったことは全て自らの自我の表現に対する答えをもらっていることになり、それをその都度素直に受け取っていけば、人間はどんどん変化し、成長していくのです。そしてそれは変化変容変態を繰り返す宇宙の実相と同じです。だからこの世界に生きることの本質は、率先して変化することを喜びとして生きることなのです。ですから、常に固定概念を持たないでどんどん手放していくことにより新たなものが次々と入ってきて成長していきます。しかし、その道理から離れると、今までの固定された自分が邪魔をして、自分の解釈で正しいとか間違いという基準を持つようになるのです。すでにそこで神様とのゲームに負けていることになるのです。

のぶくん:
自我を手放すとはどういうことですか。

いさどん:
自我を手放すとは、自らの性質やクセに捉われないで、物事を客観的に取り入れるとか、これが正しいという正邪の固定概念を抜きにして物事を判断することです。固定概念を強く持つ人は決めつけが激しく、他者の意見に耳を傾けないものですが、そのような人こそ自分以外の考えも取り入れてみることが必要で、それが自我を手放す人の判断です。この場合、自我を捨てるのではなく、視点をいくつも持つことで、どの視点も物事の捉え方としての判断をするのが客観視点であり、自我を手放すとは、自らの考えを優先せず、かつ固定しないことです。そのように考えると、あなたは今まで強い自我のもとに生きてきて、その結果がそのまま人生に現れていたのですから、これを神様の贈り物と捉えると、神様はあなたの捉われの姿を忠実に示してくれていたありがたい存在ということになります。ただその時に、どのような神様と縁があるかによって現れてくる現象が違ってくるのです。例えば、厄病神が来れば病気になるのだし、嫌われ神なら怒りが現れたり、祟り神なら祟られていろいろな災いに出会うなどということをいただくことになるのです。

今までは人間が困り事に出会い、それを多くの神々を対象にインスタントに救われようと人々が求めた結果、それに応える神々が甘い言葉とともにその欲の心の受け皿となってきました。その結果、お賽銭を投げれば願いが叶うとか、お払いをすれば物事の状況がよくなるというご利益の世界が生まれてきたのです。その他にも、安易にセミナーを受けてバーチャルな体験をし、救われた気持ちになったり、ロックコンサートに行ってストレスが発散され、心が楽になったからとそこに救いを求める等々、根本的な解決をしないで、表面的な手法で解決をもたらす誘惑がこの世界にはたくさん氾濫しています。そのような誘惑のもとに人間の気持ちを引き付けていくのも神の世界の末端にいて、霊的な世界は、そのような誘惑のもとに裾野を広げている実態があります。そしてそういったものが宗教などとなって人間世界にはびこっていましたが、一人ひとりが目覚めて、直接宇宙の実体の大元と繋がれば、これからはそのような人を惑わすものは必要ありません。それがこれからの時代です。

2016真学校「愛とお米があればいい大事なもの」宇宙の実相であり生命ネットワークのベースである「愛」と、生きていくための体のベースになる「お米」の二つがあれば、それ以外の余分なものは求めなくていいのです。ただこの世界はとても豊かになりましたので、その他の豊かさをプラスαとしていただけば、あるのが当然とか、かき集めてやろうとするのではなく、これほど十分に与えられているにもかかわらず、まださらに与えられているのかと思えば、「ありがとうございます」という謙虚な心に人はなります。そういったいただくことに感謝して生きると、もったいないから大切に活かそうという心も湧いてきます。

今の地球人はそのような心にはなっていませんが、これからはそういった謙虚な心になっていかないと、人間の営みの結果、地球のバランスがさらに崩れてしまいます。そしてそれは人間だけがもたらすことなのです。ですから、生活の中に余分なものを必要とする心があると、その分道から外れることになります。だから余計な思考や欲求を持たないことがシンプルに生きるということで、そういった姿勢を保つことを喜びとすることが大切です。人間は不必要なものを持つことを豊かさと勘違いして多くを求めますが、品物を山のように欲深く抱えると病気になると書いて「癌」という字になっているように、そのような欲望を優先してきた結果、今人間は、地球の癌のようになってしまいました。

本来、人は心を探求することが生きることの目的であり、人として、生命として生まれてきた目的なのです。

2016真学校「愛とお米があればいい癌」

さえちゃん:
自分なりに魂の使命が見えていたのですが、今はその真逆に自分がいるので、どうしたらいいのかわかりません。

いさどん:
自分の本当の姿が見えていないものをどうにかしようと思わなくてもいいのです。見えていないのがあなたの今の実体なのですから、その状態のあなたは今は何もしなくてもいいのです。何かが必要になったらその時に自然に見えてきますから、それまで待つこともいただいていくことです。その時に見えないからどうしようと考えること自体が自我なのです。

流れや出会いとその結果をいただきながら待っていればよいのですが、あなたは余分な思考をたくさん回しているのです。それはいただく心がないということです。いただくという姿勢は外のものを内に入れることで、自らが常に変化することなのです。目覚めるというのは自我の捉われを捨てることなのです。そもそも宇宙自体が現状(自我)をどんどん捨てることで変化変容変態を繰り返しているのです。自らをどんどん捨てていけばその繰り返しの新陳代謝により、内と外の区別がなくなり、この世界の実相に近付いていくことになり、逆に自らを保とうとすればするほど、自分と他を区別する方向に進むことになります。ですから、その自分と他者を隔てている区別の心を取り去れば、他者の話はどんどん入ってきます。自らを守ろうとする心があるほど、自分に危害が及ぶのではないかと、自分の考えを基準にして勝手に良い悪いという基準をつくることになるのです。真実は、この世界に良いも悪いもないのです。もしそれがあるとするならば、それは自らが作っている基準なのです。

内と外の区別がなくなってくると、この世界に愚かしいものはなくなって、すべての出来事は神様の愛の表現と受け取ることができるのです。闇に行けば行くほど光は強く見え、逆に光の方に行けば行くほど光そのものになります。このように、どこにいても真理を理解するための仕組みがこの世界にはあるのです。そこに気付けば自我を持つことは必要なくなり、人は悟りの境地に至るのです。人間が勘違いしやすいことは、自らの心が納得するところが良いことで、正しいところだと思っていることです。自分が納得するという状態は、自らの自我が満たされている状態です。その自我に、この世界の実体が中に入ってくるほど柔軟で無条件に変化していく状態になった時に、私たちはこの世界そのものになっていくのですから、その精神状態のことを悟りというのです。

「まとめとしてのいさどんの話」

今回の真学校のスタートに当たって、それぞれの心の位置を、いろいろな情報を提供することにより、一人ひとりの真学校に参加した目的に沿って伝えてきましたが、その理解が進んでいくほど、もともとばらばらであった目的はシンプルになり、実は一つになっていくのです。その意識に至れば、どんな人間も個人の為に生きているという意識の者はいなくなるのです。それは生態系の中の一つの生命であり、生態系の中の人類としての一人の役割を担っているだけなのです。さらに、人類が社会を創造し時代を営んでいく時には、時代の変遷に沿って自分一人分の役割を担っているだけで、そのこと自体が、実は宇宙に生きているのだということに気付くと、その意識状態では自我というものは本来ないことになり、自我を意識している状態というのは、ある意味錯覚していることだとわかります。

例えば、生きるということをどれだけ自分の意志であると認識できますか。生まれてくることも死ぬことも、呼吸することも眠ることも年をとることも、心臓が動いたり血液が循環することも、ありとあらゆる生きるということに対して、私たちには何一つコントロールできることはないのです。もしできることがあるとしたら、自我を表現することで宇宙の法則から外れて病気になったり、辛い思いをしたりという自業自得の出来事をもらって自らを知る道があるだけです。そういった自我にまつわることが、生きる上で人間に与えられている自由なのです。そしてその自由は何の為に与えられているかというと、自我を表現することによって、本当の自らの実体、宇宙の法に沿ってこの地球生態系の中でどのようなポジションをいただきどんな役割を果たすかという、あなただけに与えられた自分というピースにはまることで、時代や世の中の人の為に生きるということに目覚めるという、とてもシンプルな話なのです。その精神に至った者のことを先人たちは悟った者と言ったのです。だから悟らない途上の者は、願望を巡らせ、自我を表現しては不平不満を言い、その結果自らの価値を下げるという人生を生きているのです。人の価値観によって、それでよければよいのですが、今時代は、人類がもうそういった意識の精神状態にいることを望んでいないのです。

その大事に気付く機会に出会えたみなさんは、そういった時代を担うに相応しい縁ある人たちなのです。これからは特別な能力を持たない普通の人たちが目覚めて、この世界に存在するすべての生命、それは微生物一つとっても全て大切な生命として活かされ、必要とされていく時代なのです。

真学校の初めに当たり、みなさんにばらばらの道を提供するとお話ししましたが、実は私たちが生命としてこの地球上で健全に生きていく道は最後には一つなのです。例えば、富士山のふもとから登り始めた時にはみんなの心は別々、それぞれ体力も登り口も別々ですが、最後の目的地である頂上は1か所です。そして富士山とは違ってこれは形のない無限な道です。これが今回の人生でもらった人生の一本道であり、私たちにはそのことを知った者として、力を合わせて歩んでいくことが求められているのです。

 

 


お祈りの時に、何を思っているのですか?

木の花ファミリーでは、いつも食事の前にお祈りの時間を持っています。大人ミーティングの場で、受講生のかずえちゃんが、このお祈りの時にみんなはどんなことを思っているのですかと質問をしました。そこでファミリーの「祈りの言葉」が紹介され、いさどんがその意味を語りました。

 

 祈りの言葉 —    

あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

あなたはわたしなのですから
わたしはあなたなのですから

あなたの御心に全ての人々が目覚め
平和で安穏なる幸せな世が訪れんことを願って
努めて参ります

無限なるあなたに無限なる感謝を
永遠なるあなたに永遠なる感謝を

アーメン、合掌

 

いさどん:
一般的に「祈り」というのは、人間が自らの願いを叶えたいために、神仏に対して願掛けの心で想いを向けることだと解釈されるでしょう。もしくは対象なしで、ただ自らの中に巡る願望を成就しようと願うのが一般的な祈りの現状です。

それに対して、本来の祈りは想いを巡らせ、その想いの奥にある宇宙創造の物理エネルギーによってこの世界を創造すること。宇宙創造の物理性(波動)が世界を創っているのです。宇宙(生命)は循環し巡り巡って、変化・変容・変態を繰り返し、進化し続けるものなのです。それはわたしたち地球生命のあり方と同じです。それは宇宙自体が生命だからです。

生命というのは、「生きる命」と書くでしょう。「命」とは「みこと」、それは現象世界に顕れた神のことだから、生命とは生きる神ということなのです。この世界は、大本の神様の存在する陰(潜象世界)のひずみが、陽(現象世界)へ生み出されて動き出しました。それがこの世界の生命の成り立ちで、その成り立ちとなる物理性を理解した者が奏上することで、本来の祈りの意味を成し、その目的を達成することになります。たとえばカタカムナを奏上するのは、本来の祈りです。ですから、本来の祈りの姿勢としては、まず自らの意識を高め、思考を無にしてその場に臨むことが望ましいのです。

その結果として、祈る者の心が美しく磨かれていきます。その人の内なる鏡がきれいになった時に、外にある宇宙創造の仕組みが内なる鏡に映り、内なる想いと宇宙創造の想いとが共鳴し矛盾がなくなっていく。そして、その美しい想いがこの世界に実現されていく。それが祈るということなのです。

美しくなった者は、この世界、つまり神の物理性を内なる鏡に映し出し、そしてそのまま生きていくと、今度はその神の物理性が内から外に発せられて、この世界が美しくなっていく。つまり、自分の内なる鏡に映るということは、外と内が合わせ鏡になっていて共に共鳴し響き合うということなのです。

 
祈りの言葉を解説すると −−−−

 
あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

「あなた」というのは、自らを取り囲むこの世界の物理性(神)のことです。それは大宇宙の法でもあり、エネルギーと解釈してもいいし、法則と解釈してもいいし、神と解釈してもいいのです。わたしたちの外にあって全てに遍満し、宇宙全てに響き渡り、この世界を運営しているそのものなのです。その仕組みのままに「わたしはあります」ということです。この宇宙創造の仕組みのままに、神様のままにわたしはある(有・あってあるもの)、ということを宣言しています。

それと同時に、「ない(無・なきてなきもの)」ということも宣言しています。つまり、宇宙創造のままにわたしはある、ということは、宇宙創造のそのままの姿がわたしの内なる鏡に映っていて、その中にわたし自身という我はありません、ということです。つまり「あります」ということは、あなたのままにあって、わたしはありません、ということを言っているのです。ですからここでは、宇宙の本質である「あってあるもの、なきてなきもの」を表現しています。

一つのことを三回唱えるのは、「ミ」ということで、満ち満ちていることを表しています。つまり、絶対で揺るぎがありませんということです。あなたの御心のままに、宇宙創造の響きのままに、神様のままに、わたしは写し鏡としてそのままの姿であります。だからこそ、わたし自身のエゴや我というものは一切ありません。そしてそれは、わたしの中に満ち満ちて絶対です。それを三回唱え、揺るぎない意志を表しています。

三回唱えることを三度繰り返すということは、絶対の絶対の絶対の意志を表しています。「絶対」を三回繰り返して、くどく言っているのです。「ク」は「九」だから、「九」の絶対の境地に到達すれば、その次にカミ(命・食)をいただき、強い意志を持って「十(統合)」につながるのです。

 
あなたはわたしなのですから
わたしはあなたなのですから

「あなた」という宇宙創造のエネルギー(あなた=神)はわたしなのですから。わたしは宇宙であり、あなたなのですから、区別することはできません。なぜなら、わたし(自我)はない(無)のですから。それが、あなたはわたしなのですから、わたしはあなたなのですから、ということです。

 
あなたの御心に全ての人々が目覚め
平和で安穏なる幸せな世が訪れんことを願って
努めて参ります

「あなたの御心」、つまり宇宙創造のエネルギーに、全ての人間が目覚める。目覚めて、あなたの世界と人間が創る世界が一体となる。「平和で、安穏なる幸せな世」というのは、地上天国、ユートピアのことです。そして神人和合の世界のことを示しているのです。

そしてわたしは、平和で幸せな世(みろくの世)が訪れんことを願って、生きるということをいたします。努めて参ります。つまり、努力します。それがわたしの意志です。世の為人の為に生きます、という決意と行動(知意行一体)のことです。

 
無限なるあなたに無限なる感謝を
永遠なるあなたに永遠なる感謝を

アーメン、合掌

「無限なるあなた」とは、無限なる宇宙(神)。「永遠なるあなた」とは、永遠なる宇宙(神)。
「感謝」というのは、その目覚めに到達した自らの喜び、ありがとうございますということです。
最後の「アーメン、合掌」は、宗教などの特定した思想信条を問わないことを示しています。

無限なる感謝、無限なるありがとうございます。永遠なる感謝、永遠なるありがとうございます。有難いことに気づいたならば、有難い宇宙の神秘が世界に紐解かれ、有難いが現れる(有ることが難しい宇宙の神秘が現れて御座います)。有難宇御在益(ありがとうございます。)

そして、アーメン、合掌。人の歩むべき道は一つ、心は一つということ。

宇宙創造の物理性がこの世界を創り、人々がそのことに気付いて美しきものとなり、それをこの世界に表現するものとなっていく。その結果人々の境がなくなり、そして、天と地の境もなくなり一つとなって、地上に理想郷を創っていく。それが祈りの言葉に込められた意志なのです。

 

 


22日目午前「災害に向かって生きる」

1ヶ月間の真学校第22日目の午前は、「災害に向かって生きる」というプログラムが提供されました。そのプログラムの冒頭でいさどんは次のように語りました。

いさどん

「災害」というのは、人間から見た解釈です。地震も津波も地球の生命活動であり、それは新陳代謝でもあるのです。わたしたちの体も同様に、毎日多くの細胞が死に、そして新たな細胞が生まれてきています。地球の中でも新陳代謝の激しいところと比較的安定しているところがあります。また、長い地球の歴史からすると、大きな変化が起きた時と長く安定していた時があります。それは、地球が生命であるということです。そしてその生命は宇宙そのものであり、宇宙は常に変化、変容、変態を繰り返しているのです。ですから、わたしたち人間が築き上げたものが壊れたといって区切って見る解釈は、きわめて人智的な捉え方なのです。それは、長い目で見たらものは必ず壊れるからです。生命自体は誕生、維持し、それが壊れ、空(くう)となって、また始まるという循環の中にあり続けるのです。

今日は3月6日です。あと5日で東日本大震災が発生してから5年が経ちます。東日本大震災で約2万人の人々が亡くなり、たくさんの物が壊れましたが、あの震災を振り返ってみると、あの地にはこれまでに何度も地震がありましたし、津波もあの地域を襲っていました。しかし、長い間に人々は古くからの言い伝えを忘れてしまい、人工的な防波堤を信頼し、危険な場所に住んでいたのです。昔、そうしたことを伝えていた道祖神など(波分け観音など)がありましたが、人間の欲が勝ってしまったがために人々はそうした伝統的な言い伝えを無視し、便利さのために危険な場所に住んでいたことが、5年前の震災があったときに明らかになりました。

しかし、そういったことを天然循環法で捉えると、直観で感じ取り、そのようなトコロに住まない、もしくはたとえ津波が間近に迫っている時でも、直観でそのような兆しを感受することができれば逃れられたはずなのです。危機的な状況の中で直観が働き、命が守られることは、生命感が優れている証です。しかし機械的な情報ばかりに頼ってしまい、人間の生命感が失われていると、災害に遭うことになるのです。例えば、ゴキブリやネズミは家が火事になる前に引っ越していくそうですが、人間はお酒を飲んで寝ていたりして亡くなることがあるのです。本来、わたしたち人間もそのような生命感を持っているはずなのですが、今の人々はそれを失っています。

災害を語る前に、何よりも認識しておかなければいけないことは、わたしたちは生命であり、生まれたら必ず死ぬということです。そうであるならば、むやみやたらに死ぬことを恐れる精神状態を考える必要があるのです。つまり、死は生きることの集大成なのですから、その生きる中身がどうであるかによって、死はいつ訪れても恐れるものではなくなるのです。なぜならば、死は必ず訪れるものであり、生きることの結果必ずついてまわるものだからです。ですから、もし死にたくなければ、生まれてこなければいいのです。ところが、不思議なことに人は生まれてくると、生きていることに対して一喜一憂するのです。大切なことは、わたしたちが生まれてきた意味や生きる意味、そして死んでいく意味をホリスティックに理解した上で、生命世界を生きていくことなのではないでしょうか。そのように捉えると、災害が少し違って見えてくると思います。

災難というと、何か嫌なことが訪れ、出来れば避けたいと思うものですが、地球の歴史を遡ってみれば、生命は何度も大量絶滅を繰り返してきました。少し不謹慎な話かもしれませんが、僕は津波のことを思い浮かべたときに、たらいの中に浮かべた板の上の蟻を想像したのです。たらいに浮かべた板の上に蟻を何匹か乗せて、水面に何かを落とすと、波が起きて板の上に水がかかります。蟻からしたら、その波は5メートルくらいの波でしょうか。この写真の津波も、5、6メートルくらいでしょうか。

出典: geocities.yahoo.co.jp
出典: geocities.yahoo.co.jp

そうすると、たらいの中に何か物を落として、波が起こり、蟻の何倍かの高さの波が蟻の上を通っていったとき、それを地球の大きさに例えればほんの僅かな現象なのです。例えば、地球上には最も高いエベレストという山があります。それは9千メートル弱です。それから海の一番深いところが1万メートルくらいありますが、地球の直径は約1万2千キロメートル、また大気は約100キロメートルあります。地球にとって100キロメートルは卵に例えると、卵の殻の部分に匹敵します。そうすると、この地球は山の皺や海のへこみを含めても、とてもきれいな球だということです。そこに5メートル、10メートル、30メートルの津波が来ることは、ほとんど何も起きていないに等しいのです。ですから、わたしたちにとっては大変なことが起きたように思えたとしても、地球規模で言えば、それは何も起きていないに等しいのです。それに比べ、わたしたちがご飯を食べる前に手を洗うとき、それは手についている菌からすると、災害が起きているような大変なことになります。もしも、しっかり手を洗う人がいれば、手についている菌にとっては大災害に出遭い、大量絶滅したことにもなるのです。

今回の真学校では世界観を広げることがテーマでした。そして世界観のスケールが大きくなればなるほど、被害を受けたと感じる被害者意識がほとんどなくなっていきます。地震は地球の生命活動であり新陳代謝なのですから、宇宙から見たら地球はとても安定した星なのです。ですから、自然災害が起きて報道されるたびに、僕にはそのようなイメージが浮かんできて、「それほど大したことは起きていないのになぁ。これは定期的に起きている地球の新陳代謝であり、生きていることによって生まれたひずみが、地球をほんの少し変えているだけなのになぁ」と思うのです。そして、ほんのちょっとの水の波がこのような現象を引き起こすのですから、手を水で洗ったくらいではなかなか菌が取れないのと同じように、人間の営みも5年もすればまた元の状態に復活していくのです。

出典:http://workers-magazine.com/
出典:http://workers-magazine.com/

このように捉えると、ものの見方が変わっていきます。ものの本質を捉える時に、世界観が狭く囚われの心で見れば、それはとても悲惨なことであり、大切な人を無くしてしまった悲しく追悼すべきことになります。この震災で2万人くらいの人が亡くなりました。しかし、災害などがない時にも人はどんどん亡くなっていきます。僕は、人々が亡くなったことがどうでも良いと言っているのではなく、こうしていろいろな形で新陳代謝が繰り返されていることを理解する必要があると伝えているのです。ましてや災害対策を考えれば、生きているわたしたちにとって死は常に隣り合わせにあり、どのような形にしろ、わたしたちにはいずれ死が訪れます。宇宙において死ぬことは、正の方向であり流れです。ですから死を恐れるのではなく、どう生きるのかが大切であり、その死を満足のもとに受け入れていくことが重要なのです。さらに、死ぬことは宇宙の流れからすると、また生まれてくるということでもあるのですから、爽やかに生きて、気持ちよく旅立っていけば、また爽やかに生まれてくることになります。これはお金でも同じことです。気持ちよく使う人には、また気持ち良いお金が入ってきます。このように全てのものには、人の心の響きが乗ります。人生にも心の響きが乗りますから、生きることの心構えとして、いかに宇宙法則に乗せて気持ち良く流していくかが大切なのです。そのように解釈すると少し気分が変わりませんか?

「今日は防災訓練だ!」となると、火事になったときにどうしようといった話になって、とかく人は構えてしまいます。リラックスしていれば、全身の細胞がパラボラアンテナのようにセンサーになり、それが色々な変化を感受するので、上手に天の気を読むことができるようになるのです。しかし、「助かりたい!」という想いが強くなると、色々なものにぶつかってしまい、かえって動きが悪くなります。ですから、防災に対する捉え方も、人の心に起因するものだと僕は思います。こういった話をすると防災の話は不要になってしまいますが、資料が用意してありますので、今から一緒に見ていきましょう。

スライド4

この後、「災害はメッセージ」のプログラムのプレゼンに沿って、いさどんとみちよが話をしました。その後、ワークショップ形式で、参加者一人一人が自分たちが暮らす環境を振り返る時間が持たれました。

防災WS (3)

 

そして、最後のまとめとして、いさどんは以下のように語りました。

今日は、防災について学ぶと同時に、防災とは何かということをみんなで話し合いました。そこで至った結論は、わたしたちが生きると、色々な問題事に出会うということです。これは、真学校を通して一貫して皆さんにお話ししてきたことです。問題事に出会うことは、わたしたちが自我で生きていることに対して、この世界の法によって生かされていることをわたしたちに認識させるためのものです。わたしたち自身は、肉体と心により形成されています。それは自身の内から外に向かって観た視点です。同時にわたしたちは、外から内に向かってこの命が形成されるネットワークの中にいるのです。その双方の成り立ちを意識したバランスの取れた視点を持てば、宇宙が完璧に素晴らしい世界をわたしたちに提供してくれていることに気付くのです。

地上を生きるものとして世界観が狭ければ、物事を広い視点で捉え、そこにある流れや生きることの意味を理解することは難しいでしょう。しかし、わたしたちが地上を生きる役割は、もっと大きな宇宙の仕組みである調和や愛を地上に表現することです。そのことがわかれば、それらを地上に表現できるのです。それが天と地の和合であり、地上に天の法則を表現する役割を果たすことになります。それが本来、わたしたちが地球に生きることの意味です。それが宇宙の実相ですから、それを地球という特別に創られた奇跡の星で表現することが、わたしたち人間に与えられている大きな使命なのです。わたしたちは過去から未来に向かって時代を紡ぎ、その役割として地上に現れ、この宇宙物語を表現しているのです。

web of lights
出典: https://judithkusel.wordpress.com

災害やそれに対する防災を考えるとき、わたしたちの世界観が狭ければ、そこに起きることに対する対策をすぐにしたがるものです。そうした対策は大いにする必要があるのですが、それが目先だけに囚われた解釈になると、それは辛いことに対する対策で終わってしまいます。しかし、災害に出遭うことや災害に備えてその意味を考え、語り合うことは人々の霊性を高め、世界観を広め、最終的にはこの地上に理想の世界をもたらすきっかけとなるのです。ですから人々の意識が宇宙法則から外れるほど、天はわたしたちにそういった出来事を通して考えるチャンスを与えてくれるのです。そのような災害の捉え方をすれば、ただ辛いことに出会っただけではなく、災害もありがたいこととして受け止められるのです。生命として生きることはそのような高い意識を創る世界に存在することであり、そして自然の中に生きることは、ある意味自我を超える修行をしているようなものですから、厳しく感じられるようにできているのです。

そもそも、この世界は矛盾から生まれたのですから、その矛盾の現れである自然の中に生きることは、常に矛盾を埋め合わせて行くことになります。そのカラクリを知り、その中で翻弄されるのではなく、見事にそれをすり抜けて生きる術を見つけたならば、わたしたちはもっと大きな存在になれるのです。それは、宇宙を理解し、命を超越して宇宙を旅するコノハナ人になるということです。

真学校も終盤を迎え、この学びに出会うことの意味が皆さんに定着してきたと思います。当初は、皆さん一人一人の人生の課題に向き合うということでしたね。そろそろ、自らの存在がこの世界を担っているという高い意識に目覚めることが、真学校に出会った意味だと気づいていただければと思います。そして、人は必ず死にます。その時に悔いのない旅立ちをするために、皆さん一人ひとりが高い意識の元にこの世界の成り立ちを担っていることを意識しながら生きていくことを願っています。


21日目午前「養蜂」

今日の午前はフリープログラムで「養蜂」の講座がありました。

前半は室内での講義、後半は実際に養蜂の現場を見学です。

受講生たちも興味津々で話を聞いていました。

ところで、ティースプーン一杯分のハチミツを集めるのに蜜蜂はどれぐらいの時間をかけるのか知っていますか?

答えは

「一生」です。

ティースプーン一杯分のハチミツを、蜜蜂一匹は一生をかけて集めます。とてもとても貴重なものです。

更にハチミツは体にもとても良く、世界最古の甘味料とも言われています。

また、木の花ファミリーでは、「蜜蜂の社会は、これからの人類のモデルになる」そんな気づきから蜜蜂を飼い始めました

(蜜蜂小屋に入る前にみんなで面布を被る)

いざ、蜜蜂小屋へ!

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そして蜜蜂さんの様子を伺うと。。

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じゃーん!!

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今日も元気に蜜蜂さんは活動されています。(下の写真の丸で囲んだ蜂は女王蜂)

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僕がこの講義で特に印象に残ったことは、「養蜂」は天の気を読み「天気」「花の状況」「蜜蜂の様子」など様々な要素をいつも考え感じることが大事だということ。

だから、採蜜をする期間だけではなく、いつもいさどんの頭の片隅には蜜蜂のことがあるそうです。

まさに「直感養蜂」、ここに天然循環養蜂の真髄があるのでしょう。

昔、木の花ファミリーに来てハチミツを食べてこんなに美味しいハチミツを食べたのは初めて」と言っているゲストの方がいました。

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受講生のみんなもご満悦だった様子です。IMG_2376

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是非このブログをお読みの皆さんも、木の花ファミリーにいらしたら一度その深い味わいのハチミツをご堪能ください♪