27日目午前「心豊かに生きる」〜 1ヶ月間の真学校・最後の講座

毎日毎日新たな一日を迎え、日々変化し続けて、気が付けばあっという間の1ヶ月間。最後の講座で、いさどんは以下のように語りました。

 

心豊かに生きる
〜 すべてはあなたの手の中にある 〜

いさどん:
おはようございます。

今日は最後の講座です。真学校が終わったからといって、地球の回転が止まるわけではありません。なぜこの世界で、人は場所を特定して、そこにがんじがらめになっているのでしょう。僕にはそういう不自由感がいつもあります。

不自由というのは、人それぞれ持っています。なぜ毎日眠らなければいけないのか。昔、忙しく働いていた頃には、寝溜めができればいいなと思っていました。寝ている暇がない時には、例えば3日間起き続けて、その後3日間眠ればいいということができたら、その方が効率がいいでしょう?でも、そんなことはできません。

我々は生命として、お母さんの胎内で細胞分裂を始めます。最初に心臓ができて、その心臓が動き出して、最後には心停止になります。これが死です。その間、心臓が休むことはありますか?ないですね。休むということは、命が終わるということです。
私たちの命は、心臓と連動しています。「心臓」というように、「心」という字が使われているのがおもしろいですね。英語でも心臓は「Heart(心)」と言いますね。オランダ語はどうですか?

ニナ:
オランダ語でも、心臓という言葉には「心」という意味があります。

いさどん:
同じですね。共通しているということは、言葉が違っても人間の体の仕組みが同じだということを表しています。
私たちは心臓と共にあります。その心臓は、休むことがありません。私たちは例えば、疲れたら寝て休むこともありますし、例えば仕事でストレスが溜まったら美味しいものを食べるとか、好きなことをやるなど、目の前にあることから自分を遠ざけるという休み方もあります。ストレスが溜まるということは負荷がかかっているということですから、それを解消しなさいという指令が出ているのです。
呼吸はどうでしょう。僕が昔お風呂でいったいどのくらい呼吸を止められるだろうかと試していた時には、3分くらいでした。世界記録は6分ほどでしょうか。普通の人がいきなり始めたら、30秒で苦しくなるでしょう。いずれにしても、空気との循環は拒否することはできません。

僕は変な人ですから、それを不自由だと思っていました。呼吸を止められないなんて、まるで強制されているみたいで不自由じゃないかと思い、それじゃあ止めてみようと試していました。でもどんなに努力しても、たったの3分なのです。
生きているということは、不自由です。心臓がかわいそうだから休ませてあげたい、呼吸を好きなようにさせてあげたい、と思っても、特定のリズムから外れることはできません。眠ることをコントロールすることもできません。ではこの不自由感から解放されたいと思ったら、どうしたら達成できると思いますか?

ニナ:
死ぬこと。

いさどん:
そう。死ぬことです。僕はこう考えました。今自分が不自由なのは、この肉体の中に入っているからだ。そう感じた時点で、自分とこの体は別物なんです。もっと自由であっていい。でも現実には、この体と心の状態で自分は成立しています。

僕は30歳の12月26日から、天から思考が降りてくるようになりました。
19歳の時に、亡くなったおばあさんが僕の頭上に表れて、僕を守護するようになりました。そのおばあさんが、僕が30歳の時に、男の人に代わったのです。それがお釈迦様でした。(お釈迦様といさどんの物語については、いさどんブログ「木の花記~金神様の巻」をご覧ください。)お釈迦様が現れて1年ほど経った時に、「1000日の行をいたせ」という命が降りてきました。それが何なのかわからないので、毎日瞑想をすることにしました。1日も欠かしたことはありませんでした。どんなに忙しい時でも、当時は建築業をやっていて現場から帰れないような時もありましたが、そんな時でも埃だらけの現場の片隅で瞑想をしました。
そうしたら、瞑想を始めて1年ほど経った頃から、幽体離脱をするようになりました。部屋の角に自分が浮かんでいて、瞑想している自分を見ている。そんなことが起きるようになったのです。ある時、僕はお釈迦様に「私とあなたの関係はいったいどのようなものなのでしょうか」と聞きました。お釈迦様から道をいただくようになったばかりのころ、僕は本当に普通の人で、お釈迦様は「始めはそなたは私の赤子のようであった」と言いました。そして続けてこう言いました。「やがてそなたは、私の子どもとなった。そして弟子となった。そして今、そなたは自らを離れて自らを観るようになった。その目線は私と同じである。だからそなたは私の兄弟である。」
その状態になってから、僕は物事を観る時にお釈迦様に頼るのではなく、自ら判断をするようになりました。客観視点を持ったということです。

なぜこんな話をしたのかというと、「不自由だ」という想いが湧いたことにつながります。この枠はいったい何なんだろうと。その後、瞑想中に自分の体を抜け出して、地球からも飛び出して、宇宙から地球を観るという体験をしました。そして人間の行いによって蝕まれた部分がケロイドのように広がっている地球の姿を観て、このために生きなければいけない、と思いました。
肉体を持ったこの状態で生きるということは、様々な不自由があります。肉体の中に自らが封印されているということでもあり、縁があってこの形をとっていかなければいけないということです。
ここで皆さんに質問ですが、日ごろどんなことを「不自由」と感じますか?

めぐちゃん:
やりたいことがあるのに、おなかがすいてしまうとか。

いさどん:
それはありますね。やりたいことがあるのに、おなかがすいてご飯を食べなくちゃいけない。

めぐちゃん:
夜中に寒くてずっとお布団に入っていたいのに、なぜかトイレに行かなくちゃいけないとか。

いさどん:
それは不自由だよね。その場でできたらどんなにいいだろうね(笑)。

オレンジ:
動物は人間より自由。人間は植物より自由。植物は微生物より自由。

いさどん:
じゃあ植物は「僕はもう10年もここに立っていて不自由だな~」と思ってると思う?それは人間が「ずっとあそこに立っていてかわいそうだな」と思うからじゃない?僕は植物を観ていて、その場で自由に育っていると感じるよ。観ていて「嫌だ嫌だ」と植物が思っているような感じがしない。寝る時に布団を敷く必要もないし、冬になったからといって服を着る必要もない。あなた自身が不自由だと感じることはないの?

けいご:
朝起きなきゃいけないこと。

いさどん:
それは共通してるね。

けいご:
後は、恐れを感じる時。

いさどん:
それは恐れから解放されたいということ?それはいつでもできるよ。あなたが勝手に恐れを感じているだけだよ。
不自由というのは、自分の想いに対して、そうじゃない方へ何かが強制していると感じた時に不自由と感じるんだよ。けいごくんの「恐れ」というのは自分自身が創っているものだから、いつでも手放せるんだよ。それは不自由とは言わず、自業自得と言います。

みかこ:
でも私も、けいごと同じように思うことがあるよ。さっきいさどんがお釈迦様に、そなたが大人になったのは自らを離れて自らを観るようになったからだと言われたと言っていたけれど、それができない人にとっては自分の中に湧いてくる想いの出所がわからないから、自動的に湧いてくるものに翻弄されているようで不自由に感じるんだよ。

いさどん:
でも、自らに起因していることは自らの自由の範疇にあるわけだから、それはコントロールできるんだよ。今僕が話している不自由とは、外から来るもののことです。
僕は「肉体」というスーツを着て、その中から外を見ている感があります。そして肌に気圧を感じて、それがとても不自由です。幽体離脱をした時には、このスーツの外から自分を観ていました。宇宙空間に出て、月を背にして地球を観た時には、地球の現状に驚くと同時に、外圧も内圧もない状態を体験し、これが自由なのだと感じました。宇宙飛行士の体験する無重力状態は偽物ですね。本当の無重力とは、肉体から解放された時にあるのです。つまり、本当の自由とは、肉体を返上して初めて感じられるということです。

あっこちゃん:
自分の中にイメージがあるんだけど、その通りに絵が描けないと不自由を感じたりする。でも習熟していくと、自由になっていくのかな。

いさどん:
上手か下手かというのは天性のものもあるよね。だけど描きたいと思ったらいつでも描くことはできるよ。天性のものはどうしようもないかもしれないけど、「こういう風に描きたい」という自分の願望が叶わないことに対して不自由を感じているということならば、その願望を手放せば不自由は消えるよ。
例えば心臓を休ませたいと思っても休ませられないとか、眠りたくないと思っても眠らなければならないという種類の不自由と、やろうとすればできるのにやらずにいて不自由だと感じるのは、種類が違うよね。そこをきちんと仕分けていかないと、できることなのに不自由を感じていることになる。

あっこちゃん:
確かに、身体的な不自由と思うように絵が描けない不自由は全然別のものだと今思いました。

いさどん:
それは大発見だね。不自由にはランクがある。もしくは、2種類だけかもしれない。自分の心のクセによって不自由を感じるものと、この世界の奥にある法則に対して自分がどうすることもできずに不自由を感じるのとでは、まったく種類が違うのです。

ニナ:
みんなの話をとても興味深く聞いていました。私は不自由の中にもいかに自由を見つけてその折り合いをつけていくかということをしています。

いさどん:
ではあまり日常の中で不自由を感じていないということ?

ニナ:
そうですね。

いさどん:
そういう答えが返ってくるだろうと思いました。というのは、あなたからは不自由の波動を感じないからです。けいごくんの場合は、自業自得型の不自由の波動です。オレンジくんなら勝手気ままで奇想天外。あっこちゃんのは自滅型の不自由の波動だね。
自分がどんなことに不自由を感じているかが、自分自身を表しています。多くの人はそんな見方はしません。僕の場合は、生きていることそのものに不自由を感じています。だから早く死にたいです。でも、普通の人の死にたいとはちょっと違いますよ。僕には肉体を持たない存在としてのビジョンがあり、意識がそちらへ向いているのです。だから肉体を持つと不自由を感じるのです。

めぐちゃん:
いさどんのような思考ができるのは、いさどんの中のスピリットと肉体が完全に分離されて認識されているからだけど、一般の人はその見分けがついていないから死を恐れるんですよね。

いさどん:
僕は時々柔軟体操をしますけど、その時の感覚は「この部品が錆び付いてきてしょうがないから整備しよう」という感覚です。機械の錆をとって油をさして使い勝手をよくするようなものですね。

お釈迦様に私とあなたの関係はどのようなものですかと問うた時に、始めはそなたは赤子のようであったと言われましたね。その時に、お釈迦様はこんなことも言っていました。天に向かってはいくら泣きわめいて赤子のようであっても良い。しかし横に向かって、つまり人間に向かって赤子のようでは駄目だぞ、と。そうすれば、人は育つ。そして己を離れて己を観るようになった時に、そなたは私の兄弟である、と言われた。

みかこ:
面白い話だね。己を離れて己を観るということは、天の視点を持ったということでしょう?1ヶ月間の真学校でやっていることは、誰もが幽体離脱をしなくても天の視点を持つことができるというトレーニングなんだよ。

いさどん:
なぜだかわからないけれど、我々は枠の中に入っています。生命であるということも枠の中にいることですし、人間であるということも枠の中のことです。僕の言う不自由感とは、形の世界にいる生命の不自由感です。それから解放されたいということは、形のない世界、例えば神々の世界のようであれば自由ですよね。そのさらに奥の潜象界まで行ってしまうと、何もなくなって自我も何もないわけですから、それでは元も子もないので、とりえずは自我があって肉体から解放されている状態のことをここでは言っています。

自我や自由とは、その人の目線によって変わります。いさどんの不自由感はユニークですね。皆さん一人ひとりの捉えている自由も、それぞれに個性的です。一人ひとりの心の性質によって、あんなのは嫌だという人もいれば、それがいいという人もいる。自分自身の心の性質に気付けば、それをエンジョイすることができます。エンジョイできるくらいに理解できれば、変えることもできる。もしかすると、変える必要はないのかもしれない。ただ、「使い方を間違えるな」ということです。不自由を感じて不平不満を言うのではなく、使い方を正しくすればどんなこともエンジョイできるということかもしれません。

僕は世の中をずっと眺めていて、いつも人間の在り様を観察しています。これまで1万人以上の人々の面談をしてきました。そこから観えてくるのは、現代の人間模様です。ご機嫌に生きている人たちとも出会いますが、そういう人と面談をすることはありません。面談をするのは、自分を不幸だと思っているような、行き詰っている人たちです。
そんな中で今の時代の心模様を観てきた時に、一人ひとりに心の性質があり、その性質がその人の不自由感を創っているということが観えてきました。真学校では、自分自身が何者であり、どういったプロセスの延長線上に今の形状をしていて、どのように不満を抱えているのか、ということを客観的に捉えていきます。それが嫌だと言っても、寿命がある限りその形状でいくのです。実は、今回の寿命が尽きたとしてもさらにその先があるのですよ。死んでも自分は成立しているということです。そうしたら、どのように自分を誘導していったら、心豊かに生きられるのでしょうか。それは、「はい、あなたはこうしてください」というマニュアルがあるのではなく、自分で人生の操縦かんをつかんで、旅するのです。その人生の操縦かんをつかんで自由に操るためのツールを、1ヶ月間の間解説してきました。

この世界に生きるとは、この世界の奥にある意志との対話です。そこから遠くなると、我々は迷子になります。迷子だからこそ怯え、それによって不平不満を言う。それが人生です。
よく様々な宗教で、「祈ることです」と言いますね。それでは怪しいな、と僕は思います。なぜなら、どういう精神で祈るかによってものごとはまったく変わってくるからです。ああなってほしいこうなってほしいという自らの欲望であったり、あいつは絶対に許さないという呪いの心で祈ることもあるでしょう。祈りにも質があるのですよ。
我々は、この世界との契約の元に生きています。そして宇宙人であり、宇宙の旅人です。我々の旅路は、現象世界の奥にある客観背後の意志と契約をしているのです。その契約から逸脱すると、我々は迷うことになります。どこに向かうのかという約束の元に進めば、出会うことのすべてを「こういうことだな」「こういうことだな」と受け止めながら進んでいくことができるのです。

「祈り」について考えた時に、これが出てきました。
(ここで「祈りの言葉」がシェアされました。)

 


祈りの言葉 

あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

あなたはわたしなのですから
わたしはあなたなのですから

あなたの御心に全ての人々が目覚め
平和で安穏なる幸せな世が訪れんことを願って
努めて参ります

無限なるあなたに無限なる感謝を
永遠なるあなたに永遠なる感謝を

アーメン、合掌

 

*「祈りの言葉」の詳しい解説については、こちらの記事をご覧ください。

 


 

いさどん:
今日は「心豊かに生きる」というテーマで、1ヶ月間の真学校の最後の講座です。この1ヶ月間話されてきたことは、見方によっては極めてマニアックな世界にも見えるかもしれません。でも、それに触れながら、皆さんの中に
この世界は過去からずっと続いて来て、今現在も宇宙全体が同じ仕組みの元に運営されています。そこに矛盾が発生すればそれにふさわしい現象が起きて、私たちに教えてくれるのです。目を開けてよーく観れば、それが観えます。目というのはこの肉体の目ではなく、霊的な目です。その目をつぶっていたら、愚痴になったり怒りになったり、それが束になると争いになります。一人ひとりがオリジナルなセンサー、オリジナルな目を持っています。その持ち方を間違えると、恐怖になったり怒りになったりうつ病になったりするのです。

「祈りの言葉」に「あなたの御心のままに」とあるように、私たちはそれに沿い、宇宙創造の側に立ち、今現在も生きているということは、神様と共に宇宙創造を果たしているのです。お釈迦様の言われたように、この無限なる世界と自分自身が一体であると思った時、自らの魂は宇宙最極小微粒子の「カ」となって、宇宙へ広がっていくのですよ。それがニルヴァーナであり、最終到達地点です。つまり、神様は人間を自分から遠いところへ置いて、人間がいろいろなことを経験しながら光へ向かっていくと、とうとう最後には一緒になるのです。ああ、ここがふるさとだった、と。でもそうなると、神様はまた宇宙を創るために人間を遠いところへ置くでしょう。我々は何度も何度もそれをくり返しながらどこかにその記憶を持っていますが、その途中の段階では愚かしいこともくり返して進んでいくのであり、それは諸行無常です。
諸行とは世の中のことです。無常とは、捉え方によってものごとはいかようにも変化するということです。自分がどの意識レベルで反応しているのか。それによってこの世界に種を播きながら、自業自得の現象に出会っているのです。あなたが出会っているものはあなたの目が見ているのですから、目が変われば違うものが観えるよ、ということです。

「心豊かに生きる」とは、すべてが自らの手の中にあるということです。もしも今まで不満を抱えて生きてきたとしたら、これからもそれを抱えて生きていきますか?

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いさどん:
これは極めて画期的な話です。過去には人々の幸福というのは、民衆を統治する王の力の元にありました。またある時には、聖者の教えの元にありました。それは、人々の手の中になかったのです。それは経典や聖者や権力者の手の内にありました。
しかし今、時代は、私たち誰もがその目を持って目覚め、誰もが高次の存在として生きられる時代になりました。だからこそ、今この話が語られているのです。
僕は教祖ではありません。王でもありません。その情報を提供する人です。その元は、この「祈りの言葉」の中の「あなた」という無限なる存在です。その存在がこの世界を創り、散りばめて、我々を配置しました。その配置されたものはすべて私であるぞ、ということです。

皆さんは1ヶ月間の真学校を受講するにあたり、一人ひとりの心の状態に応じてそれぞれの目的を持って参加しました。ここで皆さんが得たものは、自分の欲でそれを活かしたいといったものではなく、この世界とは何であるのかということを、これまで持ったことのなかった視点から分析するということです。自らの欲望を超えたところからそれを分析するということは、自我を超えた目線に出会ったということです。明らかに、真学校に参加する前と後では、視点が変わっているでしょう。

めぐちゃん:
ここに来る前は、真学校終了後の進路は何も決めずに、終了時の自分の心情に従って次の一歩を歩み出そうという想いで参加しました。やってみた結果、すごく毎日が楽しくてたまらなくて、自分の中で封印して用無しになっていたいろいろなものが湧き出してきて、今は「ここからだな」と感じています。家に戻って、ここで得た視点をこれからどう活かしていくのか、それを冷静に観ていくことが当面の課題だと思っています。今の正直な気持ちは、もう家は引き払って早く戻って来たいです(笑)。
木の花ファミリーというコミュニティは、人類をひとつの生命体としたら、そのひとつの成長点の先端にある部分で、現象化のスピードがものすごく速い。植物でも何でも、芽が出て成長していく時にその成長点というのは一番細胞の入れ替わりが激しい。その先端部分がまさに木の花ファミリーというコミュニティなんだと思います。
私もある意味欲のある人間で、昔から「ものごとの最先端にいたい」という欲がありました。大企業に勤めて最先端の研究に携わって、でも自分の中にそこに完全に合致できるものがなくて挫折して離れたんですけど、その後も最先端の技術を扱う仕事をして、だけど結局は従来型の価値観で損得や利害に縛られて、重くなって辞めました。でも本当の先端はここ。そこに出会えた喜びが、私の中にはすごくあります。

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いさどん:
いずれはこれが先端ではなく当たり前になる時代が来るでしょう。今は質的転換の時だからこそ芽になっていますが、それが当たり前の世界を目指しています。そのさらに先は考えなくていいですね(笑)。

よしこちゃん:
私は去年の3月21日に始めて木の花ファミリーに来て、それからここに通うようになる中で真学校の存在を知り、真学校を受講することがある意味この1年間の終着点となり、そこから次に向かうための何かが観えるかもしれないと思って受講を決めました。仕事も辞めて宙ぶらりんなわりには毎日心穏やかで、「ここに何かがあるだろう」と思いながら過ごし、次はどんな展開になるのかな~と思っていたら、途中で「自己実現」というのが自分にとってのパラダイムだったんだという気付きがありました。そうしたら、それまで自分を縛っていたくびきがなくなった。そして、これからの人生のために何かを探そうというよりは、今ここに在るものがそれなんだと思うようになったんです。

いさどん:
それこそ「あなたの御心のままに」ということだね。

よしこちゃん:
その通りです。だけど今までは、その「あなたの御心」とは何なのかを探そうとしていたんですよ。あなたの御心に沿うとはどういう生き方なんだろう?とかね。

いさどん:
おもしろいね。そこに目覚めると、心が自由を得られます。そうすると、自然とある特定のところに向かうようになります。つまり、自由に目覚めれば目覚めるほど、人は狭い道に行くのですよ。他に道はないことが観えてくるから。そこが面白いところですね。

よしこちゃん:
自分で選ぼうとしていた時にはそれは見つからなかったけれど、そういう自分の想いを手放したら、「ここ以外にない」という道が観えてきた。それはもう自分が探さなくても「ここにありますね」という感じです。

いさどん:
そういう時に何と言うのかといったら、「おめでとうございます」と言うんですよ。

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あっこちゃん:
私は真学校に参加する前は、すごく行きたいなという気持ちと、何に迷っているのかわからないけれど迷う気持ちがあって、ぎりぎりまで決断できずにいました。だけど参加したら、何で迷ってたんだろうというぐらいに、自分が求めていたものがバーンとそこにあった。
いさどんが、山の頂上に立つと目の下に雲海が見えると語った話が印象に残っています。外から聞いた話や人との出会いの中でそうだなと思うことがあっても、いったん雲の下のもやの中に沈んでいくような感じがするんです。そのもやがどこから来るのかはいろんな理由があると思うんですけど、それをこれから探っていきます。

いさどん:
富士山は雲海の上に頭を出していて、その下は曇って見えませんね。それはそれで、上から見るときれいなんですよ。でもその下はどしゃ降りだったり、霧だったりします。

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あっこちゃんはその雲海の上の目を持っているのに、どしゃ降りや曇りも上から観れば美しく観えるのに、なぜかその雲の中にいようとする。ただ上へ登っておいでよ、という話ですが、そこに介入はしません。それはあなたを尊重しているから。そこがよければそこにいればいいんです。ただ、あっこちゃんはその上があることを知ってしまったからね。そこでどう生きるのかは、あなたの意志です。

ニナ:
私はもっと学びたいと思い、とてもオープンな気持ちで真学校に参加しました。そして本当にたくさんのことを学びました。

いさどん:
あなたにとって一番大きかったのは、自分というものを確認できたことではないですか?

ニナ:
その通りです。オランダに帰ってからが興味深いですね。未来が楽しみです。ただ、カタカムナ研究会に参加できないことが残念ですね(笑)。

いさどん:
こちらから情報を送りましょう。あなたは研究目的で真学校に参加しましたが、言葉や文化の違いを超えてこんなにも自然に溶け込み、こんなにも安定したスタンスを保ち続ける人も珍しいですね。それが質的転換が常に起こり続ける宇宙の実相そのものの「ニナ」という魂なのでしょう。僕から伝えたいことは、ぜひそのまま客観的な情報を世の中に発信していってほしいということです。

ニナ:
これから先の数ヶ月間で、それを実践します。

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いさどん:
1ヶ月間は長いと思っていましたが、とうとう終わりを迎えました。終わりというのは、始まりということです。毎日が終わりであり、毎日が始まりであるということをくり返しながら、こういった節目を迎えて人生を刻んでいくのです。節がないものは、弱いですよ。節があるということは、竹のように柔軟だということでもあります。
皆さんの人生に介入はしません。この1ヶ月間を経て、それぞれの人生を、それぞれの個性のように歩んでいってください。その時に、できれば、安穏で幸せな人生を送ってもらいたい。そう願っています。

良い出会いを、ありがとうございます。

 


 

その夜、受講生主催の修了パーティーがありました。

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昨年の受講生も飛び入り参加で、「贈る言葉」をプレゼント。
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1ヶ月間ありがとう。
新たな学びが始まります。

 

 


25日目夜「いただきます物語」〜 実話に基づく死生観

農、食、医、経済、社会、環境、防災、そして性など、様々な切り口から世界観を学んできた1ヶ月。そのすべての根源とも言える「死生観」の講座を終えた日の夜、木の花劇団による演劇が披露されました。

タイトルは、「いただきます物語」。

これは、ファミリーメンバーのきょうこちゃんが、昨年子宮頸がんで生死の境をさまよい、奇跡的に復活した実話から生まれた、オリジナル劇です。
病気とは何か。死とは何か。
実際に病院で語られた会話などを元に、人間がこの世界で生きる意味を、劇団員たちがおもしろおかしく演じました。

生死の境をさまようきょうこちゃんのもとに現れる、個性豊かな八百万(やおよろず)の神々
生死の境をさまようきょうこちゃんのもとに現れる、個性豊かな八百万(やおよろず)の神々
人間の様々な側面を表現する八百万の神々に、受講生も子供達も大笑い
人間の様々な側面を表現する八百万の神々に、受講生も子供達も大笑い

劇の全篇を、動画にてご覧いただけます。ぜひどうぞ♪

後編の最後には、きょうこちゃんが入院していた時の実際の映像が含まれています。生死の境をさまよう日々、病室の中でも、外でも、様々な物語がありました。映像の中で、危篤状態になりながら一命をとりとめたきょうこちゃんは、涙を流しながら「遺言」を語っています。

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演劇の終了後、きょうこちゃんはみんなに挨拶をしました。

劇の中では「ようこ」役を演じていたきょうこちゃん
劇の中では「ようこ」役を演じていたきょうこちゃん

以下、きょうこちゃんの挨拶をご紹介します。


「劇を終えて」

いただきます物語、いかがでしたか?

まずは、みんなに報告があります。
昨日3月14日にがんセンターに検査の結果を聞きに行きました。
CT検査、MRI検査、細胞検査などの結果、癌が、あるかないかが分からない位になっているということでした。

私は子宮頸癌で、一番ひどいときは直径6.5センチほどの大きな癌の塊が子宮の入り口にあり、リンパや腎臓にまで浸食していました。約1年くらい前から断続的に大量出血があり、昨年10月の大量出血では命が危ない状態になり、急遽入院することになりました。

富士宮市立病院で放射線治療を受けた時に言われたことは、ここでの治療は血を止めるための応急処置でしかないから、早くて3カ月、長くても6カ月後にはまた同じような状況になるだろう、ということでした。
私も、生き延びることが出来たとはいえ、余命3カ月から6カ月だと覚悟はしていました。

でも、今信じられないような結果をいただいています。

科学や医学では説明できない何かが起こったと思うのです。
それは、この木の花ファミリーという場があったからこそ、起きたことだと思います。
みんなの愛と想いの力で奇跡が起きた。

だから、この物語は、きょうこ物語であると同時に、木の花物語なのです。
木の花マジック。あり得ないことが起きた。

こうしてみんなで集って暮らすことの素晴らしさが、この生き方の素晴らしさが、この私の体に起きた現象をもって証明されたのです。
すごい!!これは本当にすごいことだと思います。

入院中、この劇には盛り込み切れない、まだ沢山の物語がありました。
路上で茹でてくれた茹でたての新蕎麦、夢に出てきたお釈迦様の話、いさどんとした宇宙や世界情勢の話・・・。
劇のシナリオを書いていく中で、上演するには長すぎるので、たくさんの場面がカットされました。

そして、シナリオは一体何度書き直したかというくらい、読み合わせをするたびに、何度も何度も書き換えらえました。シナリオが出来上がり、今度は役者が演じるようになると、演じる度にまた何度も何度もシナリオが書き換えられました。
だからこれは、みんなで創り上げた劇。
そして、これは実際にあった実話に基づいていますから、木の花ファミリーのみんなによって創り上げられた劇なのです。

劇を練習していく中で、ある時魂が入る瞬間があります。
役者がセリフを覚えていなかったり、覚えたとしても覚えたものをただ言っているだけだと、観ている者に訴えるものがないのです。
セリフが自分のものになった時、そこにはアドリブが生まれ、セリフ通りではなくても観ている者に伝わり感動を生むのです。

私たちも同じだなと思いました。
私たちひとりひとりは、ある意味この世界の、というかこの宇宙劇場、神様劇場の役者で、神様が創ったシナリオのように人生をいただいている。
そのシナリオの意図を自分のものとし、自分のセリフとして演じることが、私たちに与えられた役割なんだと。

今回起きたことは、すごいことかも知れない。
でも、諸手を挙げてすごい、ということでもないのです。
だって、本当は癌というものをもらわなくても、こんな究極の状態をもらわなくても、人は学べる。
だから、みんなは私を見て、こんなになってはいけないんだと、学んでください。

体が元気になって、また癖が出てきます。
まだまだ癖だらけの私ですが、生きている限り、心の学びは続いて行くのです。

こうしてみんなと出会えたことに、
この生き方に出会えたことに感謝するとともに、
この稀な生き方をしていることを誇りに思います。
有難うございます。


 

講座で語られている死生観が、実生活を通してさらに深められていく。
そこにこそ、真実の学びがあります。

 

 


25日目午前「死生観」~ 死と一体となって、生きる

1ヶ月間の真学校、全講座の集大成とも言える死生観の講座をお届けします。


いさどん:
皆さんは「1ヶ月間の真学校」でたくさんのプレゼンテーションに出会いましたが、最後のプレゼンテーションがこの「死生観」です。これで情報の洪水からやっと解放されるかと思うと、おめでとうございます(笑)。
ただ、私たちが日々を生きるということは、実は情報の洪水です。私たちが1日を生きる時、「どちらへ行くか」という選択を常にしています。人間は常に選択をする生き物です。一日におよそ3000回の選択の機会があると言われています。それが自らの意思であり、自動的にスムーズにいくタイプの人もいれば、どれも迷い、抱え込んで、悩みながらいく人もいます。ただ、どんなに迷っても、明日は来ます。タイムリミットが来れば、それは積み残していくことになるのです。たくさん積み残していく人もいれば、自動焦点のようにスムーズにものごとを選択していく人もいます。そしてどのような選択をしていったのかによって、人生の結果が訪れてくるのです。

積み残しをたくさん持っている人は、きっと重い人生を生きていることでしょう。逆に、自動焦点のようにスムーズに選択できる人は、よく味わっていない分、充実していないかもしれませんね。自らの人生をどのように表現していくかは、それぞれの持っている精神性によって変わってきます。そしてすべての人は、その人にふさわしい人生を送っていきます。その最終章が、「死ぬ」ということです。

生死ではなく、「死生観」ですから、死んで生きると書きます。宇宙の原理は、相似形であり、対向発生であり、すべてのものが陰陽で成り立っています。陰という奥にある見えないものから、陽である現象が現れてきます。私たちが生きている世界から生死を捉えると、生きていることが前提となり、その向こうに死があると捉えられますが、それを客観的に捉えたら、私たちの解釈で言う死の世界の方が、現象世界の元にあるのです。その世界に存在することを、死と言っていいのかどうか。それを、私たちが現象界の側から捉える先にある不毛なところと解釈してしまえば、死の世界とも捉えられるのでしょう。

死という字を分析すると、どのように捉えられるでしょう。
「タ」と「ヒ」。「タ」は分離独立、そして「ヒ」は秘かな始まり ──── つまり、秘かに分離独立して立つ=すべての始まりという意味でもあります。一人の人間が生きて、その終わりを死というとしたら、その生をリセットした次に来るすべての始まりということになります。どちらにしても、「死は始まり」というのが結論ですね。

さて、私たちはどこへ向かって進んでいるのか。カタカムナ的世界観、そして、木の花ファミリーはなぜこの生き方をしているのかについてお話ししたいと思います。

スライド1

いさどん:
「21世紀の死生観」とありますが、21世紀でなくとも、人は生き死にを繰り返しています。生きて死んで終わりではなく、また生まれて生きて死ぬ、そしてまた生まれて生きて死ぬを繰り返していくのです。私たちは、生を単純に捉えると、生きている時には「死にたくない」と思うものです。そこでは、死が恐怖になっているのです。しかし死が恐怖だとしても、私たちは常に死に向かって確実に近付いています。なぜだかわかりますか? ──── そう、明日が来るからです。
もしも僕が10日ほど時を止めたい、と思っても、世界はその思いをまったく聞いてくれません。それは、時が生き物だからです。そして私たちは、その生き物の一部として存在しているからです。時が生き物という解釈は、時が常に循環し、変化変容変態を繰り返す宇宙の基盤となるものであるからです。これは、私たち生命の共通した乗り物とも捉えられます。
この時という乗り物に乗らないものに、私たちはこの世界で出会うことはできません。この世界の中で、すべての存在は固有のサイクルを持ち、時と共にそれぞれのサイクルを刻み、連動し、ひとつの時の上に存在しています。そのサイクルとは、らせん運動です。

皆さんはこの1ヶ月間を通し、農、食、医、経済、環境、防災、そして性など、様々な切り口を通して世界観を学んできましたが、そのすべてが行きつくところが死生観です。

この講座のテーマは、広い世界観で生死を捉えることです。狭い世界観で生死を捉えると、死のイメージは常にブルーなもので、「死にたくない」という発想につながります。しかし、明日は必ずやって来ます。私たちが生を通して時を刻み、1日生きるごとに、確実に死は近付いてくるのです。ところが人は、「死にたくない」という想いに追われ、毎日を生きています。死を意識しないで生きていても、どんどん死は近付いてくる。
では、死が近付かないためにはどうしたらいいのでしょう。生きていると死が近付いてくるのですから ──── そう、生きなければいいのです。生きなければ、死は近付いてきません。しかし今現在生きているものが生きなくなるためには、やはり死が必要です。いずれにしても、私たちは死を避けることはできないのです。
そうであるならば、その絶対避けることのできない死を、私たちが生きていることの証として身近に捉え、仲良くしろとは言いませんが、死というものをよく理解することです。理解して生きるのです。理解して生きるということは、いつでも死を快く迎えられるということ ──── 私たちが生きるということは、死が対向発生の先にあり、常に死と隣り合わせであるのです。ですから、私たちは常に死と一体であるということを理解して生きることが肝要です。

死生観とは、死と生を共に捉えることです。生きることが大切で、希望であり、尊いものであるならば、死ぬこともまた大切なものであり、希望であって、尊いのです。現代の人々は、死と生を区別して捉えています。その捉え方は主観的な人間思考であり、客観性がありません。客観性の奥にはさらに、「客観背後」という視点があります。そこに行きつくには、世界観を広げることです。私たちは、生死というものの奥に、物理性と霊性の意味を絡めながら、さらにその奥(客観背後)にある世界の働きによって生かされていることを知るべきなのです。
「生死」という順で捉えると、まず先に、生まれてくることには、生きることの目的が託されていることになります。なぜ生まれてくるのか。生まれてきて、生きることにも目的があり、そしてその先の、死ぬことにも目的があることになります。死とは、この世界に生まれ出る前の、魂の本住の地へ還っていくことです。
毎日眠ることは、面倒ではありませんか?眠ることも、起きることも、まるで強制されているように感じませんか。僕は、現象世界のプールの中でその不自由さを嘆いています。生きるとは、そういった不自由さの中で生きる心の鍛錬の場です。そこからすると、魂の本住の地というのは安定した場です。そこへ行くと、現象世界に生きていた時の自分をじっくりと振り返って観ることができます。ああだったな、こうだったな、次はこうしよう、と、来世のプランを練っているかもしれないですね。そして「よーし、今度こそは!」と生まれてくるのです(笑)。

ようこ:
おもしろいのが、日本語だと「死生観」というように「死」が先に来るけれど、英語では「the view of life and death」というように「生」が先に来ます。

いさどん:
日本語でも「生死」という言葉がありますから、どこで区切って捉えるかということでしょうが、やはり東洋的捉え方だと「死生観」になるのでしょうし、西洋的捉え方だと「生死観」となるのかもしれないですね。

みかこ:
日本語でも、「生死の境をさまよっている」という時は、生きている側から死の方に向かうという捉え方だから「生死」になるね。でも「死生観」は死をどう捉えるかということ。

いさどん:
「死生観」は、死をどう捉えるかというよりも、生死を超えたところで、生きるとはどういうことか、死ぬとはどういうことかを、冷静に捉えるということでしょう。

めぐちゃん:
東洋は「陰陽」と言うように、まず陰が先にある。

みかこ:
連綿と続く命としての死生観が、自然と身に付いている。

いさどん:
生態系と同じで、私たちが命の循環をどこで区切るかによって、ある時はシマウマだったり、ある時はライオンだったり、ある時は草だったり、微生物だったりする。

エリちゃん:
アメリカのあるコミュニティで暮らしていた時に、初めて日本人の友人ができました。その人はカップルで暮らしていて、いつもケンカをしていたので、ケンカをやめるように伝えると、「私たちはもうずっとこれをやってきているんですよ」と言うのですが、彼らが言っているのは今世だけではなく過去世でもずっとそうやってきたという意味なんです。そういう捉え方があるのかとびっくりしました。

昨年の受講生であるエリちゃんも、1年ぶりにやってきて講座に参加
昨年の受講生であるエリちゃんも、1年ぶりにやってきて講座に参加

いさどん:
魂からケンカしているのでしょうね。出来事の詳細はどうでもよく、日々対立する相手がそこにいるということが生きがいになっている(笑)。けいごくんが理由もないのに不安を感じるというのも、魂から来るもののひとつですね。

スライド2

いさどん:
『「死生観」は多岐にわたる真学校のテーマの中でも、集大成となる根源的なテーマです。私たちが抱える問題の全てが生きていることから発生します。にもかかわらず 「人はなぜ生まれ、なぜ生きるのか、そしてなぜ死ぬのか」といった根本的なことに疑問を持たずに、あるいは曖昧にしたまま、私たちは生きています。』
曖昧にしたまま、問題ごとを抱えている。その問題ごとの原因が何であるかということを追求しない限り、問題ごとが発生し続ける人生になります。

『生命あるものは皆必ず死を迎えます。死について深めることは、生きることの意味を考えることであり、生も死も合わせた連綿と続くこの世界の仕組みを知ることなのです。
世界観を広げ、自らを壮大な宇宙の中の「ひとかけら」としてみていくならば、今まで見えなかった真実が浮かび上がってくるでしょう。』

すべての学びの集大成であり、根源的なテーマであるのが死生観です。我々はなぜ生まれ、なぜ生き、なぜ死ぬのか。一人ひとりにサイクルがあり、一人ひとりに存在する理由があります。誰か聖人が出てきて、生きるとはこうである、と、ざっくり決めることはできないのです。
僕は、ひとつの答えを皆さんに提示しようとしているのではありません。誰もが一人ひとりオリジナルな生き方をし、その中でお互いを活性化しあっていくのが、地球生態系そのものの姿です。人間は、その地球生態系の姿に倣っていくのが大切なのです。僕から観たら不十分と思える人も、一人ひとりの歩みのサイクルがあるのですから、そこを理解し、寄り添うようにしています。その先にある答えが何であるのかがわかっていて皆さんを誘導しているのでもなく、それは未来が教えてくれることです。答えを持って誘導するなどという傲慢なことはしません。
主役は、一人ひとりです。一人ひとりが個性的に、生き生きしながら、大切な死をどのように迎えるかということだと思います。

生きているものは、必ず死を迎えます。生の最終段階である死を深めることは、生きていることの意味を考えることです。例えば学校で勉強をするにしても、何のためにこの学校に入ったのかということが明確でなければ、勉強自体を楽しむことができないでしょう。つまり、生きていることの意味がわからなければ、生きることを楽しむことができないのです。そんな状態では、生きることにより、翻弄される人生になってしまいます。
生きていることの意味がわかるとは、答えがわかっているということとは違います。答えは、先に進んでみていただくものです。人生とは、何かの試験のように答えが決まっているのではなく、その時々で現れる答えをいただきながら、どのように生きていくかなのです。
この連綿と続く生命の仕組みを知ることは、生きながら死ぬことを学ぶこととも言えます。最終的には、この壮大な宇宙のひとかけらとして組み込まれ、私たちは宇宙を存続させている立場に立つのです。それを宇宙の側から観れば、宇宙を運営する立場に立つということになるのです。世界観が広がれば、神と共に、宇宙を運営する側にも立てるのです。

スライド3

いさどん:
私たちは、死を「出発(たびだち)」と呼んでいます。去年、木の花ファミリーの死生観を刺激してくれた出来事がありました。メンバーのきょうこちゃんの子宮頸がんが進行して、何度も危篤状態になりました

私たちはとても複雑な人生を生きていますから、死ぬためには心の掃除というか、整理整頓をする必要があります。次のスライドは、昨年木の花ファミリーで行ったアンケートの冒頭の文章です。皆さんも、アンケートに答えるつもりで聞いてください。

スライド4

スライド5

スライド6

いさどん:
有史以来約3000年間、「王の時代」という、権力が支配する時代がありました。その時代、人々の命は、社会の行く末を握っている権力者のもとにありました。社会を束ねる一部の人たちによって、主役の座が担われていたのです。
その後、宗教の時代が始まり、聖人が現れて、優れた考え方や生き方をモデルとして示すようになりました。それが尊い見本のように捉えられ、人々が生きることは既製品化されていきました。
今僕は、この出発アンケートの文章を読みながら、生きることには様々なかたちがあるということを思っていました。ここに『今の社会において、死生観という概念は一人ひとり違うものです』とありますが、人それぞれが持っている価値観によって、生きることも死ぬことも、受け取り方が違ってきます。それは人の数だけあり、それでいいのです。
ただし、たくさんありますが、それらはすべて、共通する器の中に存在しています。共通する器の中に存在しているのですから、それは個性的ではあっても、バラバラで無秩序なものではいけないのです。そこでは、何かモデルを示してもらわなくても、この世界を正しく認識できていれば、それぞれの個性が尊重され、皆が同じ目的を持って生きることは当然なことになるのです。つまり、そこでは何かに強制されたり、見本に倣うのではなく、そこにいる一つひとつの生命が、自らの気付きによって同じ目的へ協同していくという時代の流れのもとにあるのです。それが21世紀に人々が取るべき生き方につながるのです。

めぐちゃん:
人それぞれ価値観は違うけれど、根底には共通したものがあるということ。以前、よしこちゃんが、ユングの言葉に「元型」 ──── アーキタイプというものがあると教えてくれた。表面的には見えないけれど、根底には人類共通の秘められたパターンを有していると。

いさどん:
それは人類共通とも言えるけれど、さらに生命共通、宇宙共通とも言える。それは、末端の一つひとつによって成り立っている。

みかこ:
前から気になっていたのだけど、「精神」という文字には「神」が入っている。この「神」とは何を表しているのか。

よしこちゃん:
「精神」とは、神のエッセンスという意味なのではないかと思う。人間のような精神活動は、動物にはない。それ自体が神の働きを表している。

みかこ:
精神性の高い犬とか、精神病の猿とか、いないものね(笑)。ということは、「精神病」というのはやはり精神を病んでいるということだね。天と通じる心が分断されている。

いさどん:
それはとてもデリケートで精妙な部分にアクセスしている。そこへアクセスできないがためにそうなっているということは、逆に言うと、そこに戻るためのきっかけとも言える。

エリちゃん:
去年の6月に父が亡くなったのですが、この死生観のプレゼンテーションはとても興味深いです。私にとって、葬儀は喪に服すというよりも、祝福のイメージです。私はアフリカ系アメリカ人ですが、父の葬儀の時には、黒い服を着たい人はもちろん着てもいいのですが、私たちは伝統的なカラフルな衣装を着て歌ったり踊ったりして、誰かが「これはお父さんの卒業式だね」と言っていました。まさにこのプレゼンテーションと同じ感覚です。

いさどん:
木の花でも、出発(たびだち)は「マツリ」です。だから、きょうこちゃんが逝ってくれたらみんなで楽しめたのにね(笑)。

めぐちゃん:
「死」という文字の中には、すべての始まりを表す「ヒ」が入っている。始まりの「ヒ」と分離独立を表す「タ」が、横棒の下にあるということは、まだ表には現れない潜象界にあるということを表している。

いさどん:
めぐちゃんにはぜひ、論文を書いてもらいたいですね。
さて、次のスライドは、出発アンケートの内容です。

スライド7

いさどん:
これは遺書を書くのと同じようなものですね。若い人の場合、変わっていくこともあるでしょうから、折に触れてこのアンケートをとり、一番新しいものを採用するようにします。メンバー一人ひとりがどのような回答をしているのかを見ていくのも面白いですよ。木の花ファミリーとは、こんなことをやっている面白い場所です。

スライド8

いさどん:
死というものは、できればソフトランディングするように穏やかに迎えたいものですが、危惧する心や恐れなど、体中に囚われの鎖をつけてがんじがらめになっている人がたくさんいます。がんじがらめになりながら、それでも「死にたくない」と言うのですから、現代人の心は複雑になったものです。

よしこちゃん:
看護師として働く中で、本人は死にたくても家族がNOという場合があり、その方が不幸だと思っていました。本人は苦しくて「死なせてくれ」と言うのですが、家族は「何とかしてください」と頼み、その人の生死が自分を離れて家族のものになってしまうというパターンがとても多いのです。

いさどん:
僕の母が死ぬ時には、家族は「もう何もしなくていい」という意思だったのですが、その意思を受け取らない医師がいて、意思が合わなかったですね(チーン♪)。こちらがもういいですからと言っても、医師は「我々には立場がありますから」と言うんですよ。

みかこ:
医者の役割が、生かすことだけになってしまっているね。

いさどん:
病院の方針でもあるのでしょう。やればやるほど、病院の経営にとってはプラスになりますから。本人にはそのつもりはなく、医師の使命だというのですが、どことなくベースに、ここまでの治療をしてここまでの成果を上げて、という、患者一人当たりに対する売り上げの基準のようなものが感じられるのです。

みかこ:
きょうこちゃんの場合は、逆に医者の方が諦めていたね。

スライド9

いさどん:
受講申し込みのあった人たちの国の死因を表にしてみました。どこからデータを取るかによって順位は変わってきますので、あくまでも情報の一つです。

スライド10

いさどん:
死ぬ時にはあまり病院などでガタガタせずにサッと逝きたい、という人が多いようです。しかし実はこちらの方が往生際が悪いとも言えます。サッと逝きたいというのは、いろいろ考えてしまってそれが辛いからサッと逝きたいということでしょう。寝込んでもいいという人は、それを味わってもいいということですから、むしろ覚悟があるとも言えるのです。
【選んだ理由】として、1の人たちは「家族に迷惑をかけたくない」と答えていますが、そこが大きな勘違いで、そういう死に方をする人は、実は生きている間に既にたくさん迷惑をかけているのです。

みかこ:
一見、1の方が良さそうに見えるけれど、その回答の奥にある心を観ると、実は家族や自分自身と向き合いたくないからということが観えてくるね。

いさどん:
その下のアンケートからは、死後の世界について若い人の方が信じていることが伺えます。愛知県の学生だけがそうなのかはわかりませんが(笑)。戦後生まれの世代は物理的なことばかりを追いかけてきましたが、若い人たちは死に対してロマンを感じているのかもしれないですね。

『死に関して語り合うことは何となくタブー視されている。親やおばあちゃんがこういっていたからそう思っていたなど、確信の持てるものは何もない。死後の世界を信じていない人でも、形式的なお墓参りや、葬儀はするという結果が出ている。』
日本は仏教の国ですから、葬式やお墓参りをしますが、死後の世界がなければそんなことをする必要もなく、ただ送って終わりでいいはずです。東日本大震災から6年が経って、死んだ孫にランドセルを買っている人がいますが、死後の世界を信じていなければそんなこともしないはずです。現代の人々にとって、そこは極めて曖昧なままの状態になっているのです。それがこの世の中の曖昧さを創り出しているとも言えます。

めぐちゃん:
現代人が死を忌み嫌うのは、戦争で大量殺戮が生まれて、そこで大きく死に対する捉え方を変えられたということもあったのではないでしょうか。

いさどん:
戦争では銃を使いますが、確かに引き金ではありますね。では人間はなぜ戦争をするのかと捉えていくと、そこに人間の性質が観えてきます。なぜ戦争をするのかと言えば、自分の家族を守るためであったり、自分を守るためであったり、生きることが目的なのですが、それが自分に特化した都合の良い考えの下にあるものですから、結果的にそこに死が発生するわけです。

みかこ:
かつて「王の時代」には、王の一存で国が動き、民衆は言われた通りにするしかなかった。王の意識がそのまま世に反映するから、王が守りの姿勢なのか、民を大切にするのかによって、世の中も変わっていった。

いさどん:
「宗教の時代」も、例えばキリスト教の名のもとに十字軍が遠征したり、アフリカではキリスト教の名のもとに植民地化や奴隷制度が浸透していきましたね。現代でも、ジハードの名のもとに自爆テロが行われています。現代文明につながる発想が、6500年前に始まった「王の時代」から続いているのです。

みかこ:
太陽の一螺旋の光のピークの時と、現在の闇のピークでは死生観がガラリと変わっているけれど、その起点が6500年前の王の時代から始まっている。ネイティブアメリカンの死生観は「今日は死ぬのにいい日だ」と言って、自ら旅立つ日を感じ取ったりする。王の時代の前まではそういう死生観が息づいていた。王が恐怖に駆られたり自分の命を長らえたいと思えば、自分を守るために民を戦争に使うという世の中になるけれど、それ以前の時代は、みんなで生きていたんだよ。
アマゾンのある先住民族の、興味深い話がある。その民族は、女の子が平均14歳で妊娠して森の中で出産し、産んだ子を育てるか育てないかを精霊と対話して決め、育てない場合はバナナの葉に包んでシロアリの巣に入れて食べてもらう。生まれたばかりの子を人間ではなく、精霊と捉えている。

いさどん:

それは現代人からしたら残酷なように聞こえるかもしれないけど、聖なる生き方をしているということでもあるね。

めぐちゃん:
それはヤノマミ族ですね。自分たちのコミュニティを神に委ねているということでしょう。人が増えすぎてもコミュニティとしてのバランスが崩れるし、子どもを育てるかどうかの決定権が天にあって、全体を運営してもらっている。

いさどん:
生きることは自分達で所有せず、決定権が自然との対話のもとにある。逆に、人工の世界が進むと、生きることの決定権はすべて人間が握るようになりますね。

スライド11

いさどん:
『曖昧な死生観のままに生きています』
とありますが、私たち人類は、これまでに数え切れないほどの死に出会ってきています。にも拘らず、その死を定義することができず、その都度その都度、それぞれの人生観や人間性や社会的背景などの環境によって様々なことが語られながら、ずっと曖昧なままなのです。曖昧であるということは、多様性の世界で様々な死の捉え方があるということであり、それはそれでいいのですが、その奥に、私たちは生まれてきたら必ず死ぬものであり、その死への旅の途中で出会うものの積み重ねが、最終的に死へと旅立つ時の自らの精神状態を構成するものになっていくという基本だけは押さえておく必要があります。それがないまま、ただ迷い、グルグルと考えた末に生まれてきた意味も分からないまま旅立っていく人がいるから、次に生まれてくる人たちもまた曖昧な状態で生まれてくるのです。しかしよく考えてみると、時代がそういうことを要請していたとも言えますね。

よしこちゃん:
私もそう思います。以前、なぜ死がタブーになっているのかを集中的に考えていた時期がありました。現代は死というものが家から切り離され、病院や施設など人の目から離れた場所に委ねられるようになり、死というものを目にする機会がなくなってしまった。死とは何なのかをリアルに体験せずに、ただ病院から連絡を受けて駆け付けたらもう死んでいる状態で、間が見えないからこそ、死が恐怖になっていったのではないでしょうか。
自分も看護師として働く前は、それこそ死んだ後のおじいさん、おばあさんくらいしか見たことがなかったけれど、勤務した先が、お年寄りが多く、比較的自然に死を迎えるような対応をしている場所で、余計なことをしなければ、人間はとてもスムーズに旅立っていくのだということを目の当たりにしました。だんだん眠る時間が多くなっていき、仏さまの顔になっていくのです。そうすると「ああ、そろそろだな」ということがわかり、ソフトランディングしていく。それを見ていたら、死は怖くもないし、人間の終末の過程というのは余計なことをしなければこういうものなんだ、ということがわかりました。

みかこ:
私の母は1年以上管をつながれて生きていたけれど、それがなければもっと短い期間でそのプロセスを経て、早く死んでいたかもしれないね。

よしこちゃん:
体は自然とそのようになっていきます。低体温になって、一種の冬眠状態のようになっていくんですよ。

いさどん:
きょうこちゃんの場合は、逆にみんなで押しかけていってダジャレを言って笑わせて、本人はソフトランディングしようとしていたのに甦らせちゃった(笑)。

めぐちゃん:
両方でしょうね。そういう関係性を持つことをきょうこちゃん自身が選んだわけでもあるから。

いさどん:
僕には思惑がありました。あなたはまだ使えるのにもったいないだろう、こちらはこちらで覚悟はしているが、逝くなら使い切ってから逝け、まだ死んでる場合じゃないぞ、と。

みかちゃん:
きょうこちゃんのことはいろんな角度から捉えることができる。私はきょうこちゃんはまだ寿命ではないと観ていたから、いさどんのように覚悟はしていなかった。だって精神の遍歴がまだ終わっていないから。

いさどん:
逝こうとするものを縛ってはいけない。その後の魂の旅路のことを考えたらね。

めぐちゃん:
その時点できょうこちゃんの人生はきょうこちゃんのものではなくなっていますね。

いさどん:
その人の人生が個人のものではないというのは、豊かなことですね。情にまみれていては醜いものになりますが。
僕はきょうこちゃんをもったいないから復活させるということと、逝った時にはどうするかということを同時に考えていました。だから棺桶も買ったし、骨壺もとしちゃんに焼いてもらいました(笑)。
この物語には続きがあって、きょうこちゃんは復活したら復活したで、もうあの時のことを忘れてしまって元のきょうこちゃんのクセが出てきています。だからもう、死相がまったくないんですよ。元のきょうこちゃんだから。昨日も「あなたはまた性格の悪いところが出てきたね」と伝えたところです。

スライド12

いさどん:
死とは、昨日から今日、今日から明日へと向かうのと同じことです。人生が充実していれば死も充実し、人生が曇り空かどしゃ降りのように生きていれば、死ぬこともそのようになります。すべて自分次第です。

スライド13

いさどん:
肉体と魂とは、見えるものと見えないものですね。魂は陰ですから、見えない世界につながり、さらにその奥の世界にもつながっています。肉体は生態系の構成要素として三次元宇宙にあり続けます。その両方をつなげているのが人間の体であると言えるでしょう。
人間は精神性を持っていますから、そちらの世界へつながっていますが、動物の場合はどうでしょうか。植物はまさに精霊と対話していますね。特徴は自我がないことです。
死を迎えると、魂はそれぞれに相応しい異次元宇宙へ還っていきますが、相応しい異次元宇宙というのは、地獄から、多次元構造の高次元宇宙まで幅広くあり、その幅広い中から様々な段階の魂が、ひとつの時間と空間の下にある現象界へ降りてきているのです。ですからこの世界で生きているということは、ものすごく多様なものを見ることができる、体験ツアーのようなものです。本当に狭い世界観で晩酌だけを楽しみに生きている人もいれば、宇宙を運営するくらいのスケールの意識で生きている人もいます。
死ぬと、肉体と魂は分離します。生きているということはそれが連動しているということであり、両方を感じて生きることができます。そこでどちらにより偏るかによって、バランスを欠くこともあります。

スライド14

いさどん:
この図の中心にある肉体は、現象界のものです。現象界のもとは、地水火風空です。それらは太陽がもとになって、循環しています。人は地とも、水とも、火とも、風とも、空とも循環して生きています。毎日酸素を取り込んでは、二酸化炭素や水蒸気を排出し、それらを取り込んで地に育まれた植物を食べ、水も飲んで排せつしたり蒸発したり、太陽からもエネルギーを取り入れて熱にして、その熱を排出しています。地球生態系を構成する五大要素「地水火風空」といういのちの循環の中で、肉体というのは3次元世界にあり、魂によって束ねられています。魂が抜けるとそれは一気に分解し、この世界へサーッと還っていくのです。その過程に腐敗があったり、発酵があるということですね。

スライド15

いさどん:
先ほどの地水火風空は、この図で言うと横糸です。これは少し意識したら感じられるものです。ところがこの縦糸が、今の人たちにはわかりません。これは霊的なものですから。現代の人たちはこの縦糸を見失っているものだから、よこしまに流れてしまうのです。
潜象界から常に湧き出してくる元の気=生命力が縦糸となり、横の循環が生まれます。横の循環とは、地水火風空とそこから発生する生命のネットワークです。食べることと排せつすることは、命を自らの中に取り込み、また次へと渡していくことであり、そこを小さく区切って捉えれば弱肉強食の世界にもなります。しかし全体をつなげて観れば、命のバトンタッチです。
このネットワークは、柱が立つことによって全体が正常な位置につきます。しかし柱がないと、バラバラにぐるぐると回って無秩序な状態になります。それぞれの生命に固有の寿命やサイクルがあるということは、それぞれに役割分担をするためにあるのですが、それがてんでバラバラでは連携しません。そして自然界が乱れていくのです。

依正不二(えしょうふに)という言葉があります。人間以外の存在を「依法(えほう)」といい、人間だけを「正法(しょうほう)」とするのは、人間だけがこの仕組みを体系化して理解し、その次元の意識を持ってこの世界に生きることができるからです。人間が高次の意識を持つことで、この世界の不具合を修理していくことができるのです。人間以外の存在は、ただ受け取ることしかできません。

みかこ:
動物は四足で、人間だけが二足歩行なのは、やはり人間は縦の軸を持っているから。動物は四つ足で自然の摂理のままに生きている。その横糸と、縦の糸を統合するのが人間の役割なのだけれど、今の人間にはそれができていない。

いさどん:
人間は縦と横の両方を併せ持っています。それが「ヒト」という存在です。

スライド16

いさどん:
先祖から受け継いできた縦の糸と、魂の輪廻である横の糸が紡がれて、今のあなたがいます。縦の糸を15代さかのぼると、すべての人の先祖はひとつになるそうです。それをさらにさかのぼっていくと生命の始まりになり、さらにさかのぼると宇宙の始まりになります。さらに子孫の方をずっと未来へとたどっていけば、生命の終わり、宇宙の終わりにまで行きつきます。つまり、今の自分というのは、過去の宇宙の始まりから、未来の宇宙の終わりまでを情報として持っているプロセスとしての存在だということです。
縦糸は物理的DNAの流れです。そして横糸は魂の変遷です。今の自分は、過去の自分の人生の結果として、相応しい惑星の配置のもとに降りてきています。そして今世の結果がまた、来世へと反映されていくのです。そしてそのすべての生に、先祖と子孫がいます。その先祖も子孫も最終的には宇宙の始まりと宇宙の終わりという共通に行きつきます。これらのすべてが、宇宙そのものなのです。
その中で私たちは、現在のポジションを、霊的にも、物理的にも共有しています。よく「先祖が大切だ」とか「我が子がかわいい」と言いますが、では前世での先祖はどうなるのか、来世での子はどうするのかと考えたら、身内は世界中どこにでもいるのです。そうすると、私たちはひとつの命であることがわかります。

それでは、カタカムナからこの世界の生死の仕組みを観てみましょう。

スライド17

いさどん:
カタカムナは、人間の智恵の中のひとつの捉え方というよりも、現象界も潜象界も含めたこの宇宙の壮大なドラマを物理的に解析してくれているものですから、人類、特にこれからの人類に対する大きな贈り物であると言えます。ただし、それを学問のように捉えてしまっては、たくさんある切り口の中の一つにしかなりません。
この図はこれまでに何度も見てきましたが、もう一度おさらいをします。私たちが生きるこの現象界は、「見える世界」と「見えない世界」から成っています。目に見える肉体や現象、そして目には見えない思いや心が組み合わさった、陰陽から成る「カタ」の世界です。現代の科学は、この見える世界の中だけで回っています。とても優れたものでありながら、見える世界の中だけに留まっているので、考え方や文化が偏っていき、対立を生んでいます。
その「人工」の世界から「自然循環」になると、見えない世界も含めて循環するようになりますから、現象の世界の奥には、この世界をひとつに貫く法則があり、豊かで美しい多様性ある世界を表現しています。多様性とは拡大して広がるものですが、その無限に拡大して広がっていくダイナミックなこの世界は、実はすべて、一番大本の世界から生まれてきているということを理解したのが「天然循環法」です。見えない世界と見える世界(「ある世界」)という陰陽の背後に、「ない世界」という陰があり、その三層構造によってこの世界が成り立っているのです。これは、カタカムナの世界観があるからこそひも解けたことです。

20世紀までの自然循環の考え方では、人間の行いによってこの世界はいくらでも歪められていきます。今の放射能の問題をどうするのか、今の固定された宗教の概念でイスラム教とキリスト教はいつ調和するのか、いつになったら人々は、すべてはこの宇宙というひとつの枠の中に存在するということを理解するのか。自然循環までの捉え方では、それは永遠に解決されない、とても難しいことでした。
では、この世界のふるさとは一体どこにあるのか。そこで、もうひとつ大きなくくりの「ない世界」までを含めた世界観がなければ、人類は次の時代へ行けないのです。12900年前の光のピークの時代から、太陽の一螺旋の半周を経て、闇のピークを越え、質的転換を起こす時に我々は来ています。だからこそ、今この世界観が必要であり、それが地上に降ろされたのです。
長い間封印されてきたカタカムナを、戦後に出会って最初にひも解いたのは楢崎皐月という人でした。そこから様々な流れがあり、木の花ファミリーはそれを生活に落とすということをしていますが、カタカムナは誰のものでもありません。そしてその奥深さは、これから先へ行くほど深まっていくのだとしたら、誰もがその探求に参加し、深め、表現していくものなのです。それは世界共通のものであり、人類すべてがその世界観の世界を生きていると捉えれば、カタカムナはこれからの人類の進化に生かされることになるでしょう。

その中で、今日は死生観について語っています。このような真理に出会うのも、苦痛を感じるのも喜びを感じるのも、生きていればこそです。何のためにそれを感じているのかというと、その先にはちゃんと死があり、それが終わるとはどういうことなのかというと、質的転換を迎えて次のステージに進むということなのです。
死とは「ある世界」から「ない世界」へと質的転換することですが、現代人は「見える世界」から「見えない世界」へと行くことを死と捉えています。

みかこ:
そこでは質的転換は起きません。

いさどん:
見えると見えないを行ったり来たりしているだけなのです。

スライド18

いさどん:
これは、生死の仕組みをみかちゃんが図に表したものです。

みかこ:
この図ではトキ軸が横向きに進んでいます。そのトキ軸に沿い、生きている期間と死んでいる期間を表すトコロ軸がらせんを描きながら進んでいます。見える、見えない、見える、見えない、或いは陰、陽、陰、陽と捉えてもいいですね。

めぐちゃん:
光は電磁波ですが、電磁波が伝搬していく時にもこういう波があります。それぞれの波長の長さがあり、それぞれの振幅という、云わば人生の幅がある。

みかこ:
例えばネズミのサイクル、象のサイクル、微生物のサイクルなど、それぞれに違う。

めぐちゃん:
その波長の長さによって色も変わり、そういうものがその人その人の個性になる。

みかこ:
この図は、誕生、維持、破壊、空を繰り返す宇宙の連なりを表していて、その形が蓮根のように見えることから「蓮根宇宙」とも言います。

いさどん:
蓮根宇宙は、満つれば欠けるこの世の仕組みそのものを表しています。そして蓮根にたくさんの穴があるように、大宇宙の中に無数の中宇宙や小宇宙が存在しています。宇宙が誕生し、拡大していって、意識が統合されていくと再び収縮していって、一点に集約される(蓮根と蓮根のつなぎ目の部分)のですが、そこが「無」であり、潜象界 ──── 即ち「ない世界」です。ここには時がないので、無限とも言えます。そしてそこがまた次の始まりでもあるのです。

スライド19

いさどん:
肉体は、自分のものではありません。宇宙の、地球の、生態系の循環の中で、自分という自我を持つ魂が呼び寄せた「縁」なのです。人生でいろいろなものに出会うということは、自身のニーズに周りが応えてくれているということであり、その縁によってすべてが紡がれていきます。この顔立ち、この性質、どこに生まれるのか、どのような家族を持つかということも、すべて自らの魂が引き寄せ、その魂のニーズに応える縁によって紡がれているのです。それはものすごく精妙な世界です。ですから愚痴っていることも、喜んでいることも、すべて縁から成っていくのです。

めぐちゃん:
蓮根も、切ると糸を引きますね。

いさどん:
蓮根が食べたくなったね(笑)。

『生まれてくる目的の一つは魂(霊性)を向上させるためにあります。』
ではなぜ向上させるのかといったら、宇宙は変化変容変態を遂げた結果、進化するために存在しているのであり、退化するという目的はないからです。
遥か昔、神様は光そのものであり、自分を認識することができませんでした。そこで神様は、自分から遠いところに闇を置き、そこから光の方へと戻ってくる道を創りました。光に近付けば近付くほど、それは希望となり、喜びとなります。逆に、遠ざかれば遠ざかるほど、苦しみを体験することになっていくのです。
今、人類は、その闇から光へと帰る過程にいます。そして完全に光へと帰ったら、今度はまた闇へと向かう道を歩み出すのです。その時には、みんなで積極的に苦しみましょう(笑)。そういう時もあるかもしれないということです。

『現象界(自然界)は個に独立したものの生命ネットワークです。従って、個々の生命は自らに偏っています。』
ですから、自然界では偏っていることはOKなのです。その偏りが個性となり、それがネットワークしていけばいいのです。ネットワークせずに独りよがりになると、独りよがりのものたちが作る現象が展開するようになります。そこに不調和が発生して行き詰まるようになっているということは、ネットワークすることが目的であり、そのネットワークを断ち切ると問題が発生するようになっているということです。
ですから、目には見えませんが、私たちには確実にそこに行けるような一方通行の道が用意されているということです。ですから、それを無視してそこに行かなければ、痛みが発生するようになっているのです。何という心憎い配慮でしょうか。

みかこ:
偏っていてくれないと、困るね。偏っているからこそ、光は光、水は水、空気は空気の働きができ、この世界が循環していく。そこで個々が個性を持ち、一度は分断したからこそ、つながる喜びが発生する。つながるとこんなにうまくいくのか、ということが体験できるようになっている。

いさどん:
そういったものの象徴的なものが原爆です。核融合という光の発信元は、我々三次元生命の元となる仕組みです。それを武器として使えばあのような究極の破壊の世界ができるのです。あの仕組みはすべての三次元生命の源であり、聖なるものの根源であるはずなのに、使い方を誤れば破壊の権化と化すのです。

人間の意識が狭い時には、ある村の中で一生を終えることもあります。自分の所属はその生まれた土地にある。それが、世界観がどんどん広がると、日本国、アジアと広がって、それが世界になり、地球になり、21世紀は人類の意識が宇宙にまで広がり、宇宙人として生きる時代がやって来ます。これから、人間が宇宙の運営をどうするかという時代が確実に来るということです。

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いさどん:
死ぬということは、寿命が尽きることです。人間の手の内にあるのは、その与えられた寿命をどう生きるのかということです。人生の中身については、個人の意思が尊重されています。
すべてはその人の裁量の中にありますが、裁量の中にあるにしては、けっこう方向付けがされてもいます。それが何かと言ったら、独りよがりで独善的に生きれば衝突が起き、不調和に生きれば苦痛が発生します。バランスを欠いていれば、必ずそのバランスに相応しく、問題ごとが発生するようになっています。つまり、バランスを整えなければいけないようにものごとが起きてくるのです。私たちの人生に自由を与えているという割には、神様は結構介入していますね。
実は、神様は完璧に介入しています。自由を与えているというのは、神様は自分から遠く離れたところに闇を置き、そこから人間が光の方へと戻ってくる時にどのような過程を経るのか、その振幅の幅については自由が与えられていますが、闇の側から光の方へと戻ってくる道については、完全に一方通行なのです。神様は自由を与えていると言いながら、ものすごく束縛しているでしょう?なぜだかわかりますか。

としみちゃん:
すべて神が創ったものだから。

いさどん:
そうです。この世界はすべて、神様のマスターベーションです。私たちも神様の心の中にあり、神様そのものなのです。神様がぶわーーっと膨らませた心の一部なのですよ。ですから、この世界のあらゆるところに「カ」が遍満し、神の息吹が満つっているのです。それがぐーっと収縮して統合すると、また神様一人の世界です。それをぶわーーっと膨らませたものが多様性に見えるだけで、膨らんだり、収縮したり、これは宇宙の呼吸であり、すべてが神の実体です。
ですから人間の自由というのは、お釈迦様の手のひらの上にいる孫悟空のようなものですね。それが神様と私たちの実体であり、私たちが神様に向かって「あなた」と呼びかけること自体がおかしいのです。私たち自身も、「あなた」の内にある一人だからです。

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いさどん:
この図は、宇宙の誕生から消滅までの神の一呼吸を表したものですが、まさしく目のように見えますね。目は英語で「アイ(eye)」ですね。

みかこ:
目もアイであるし、図の中心にいる自分自身も「アイ(I)」だね。

めぐちゃん:

自分という存在も、相手があればこそですよね。相手、つまり「アイ」の「テ」ということ。

いさどん:
私たちはこの宇宙にあって、自分という狭い枠に囚われていれば、その意識は見える世界の中だけを生きることになりますが、囚われを外せば、物理的には見ることのできないミクロ宇宙もマクロ宇宙も、心で感じられるようになります。

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いさどん:
これは宇宙の中の私たちの立ち位置です。高次の意識になれば、宇宙全体を観測しなくても、居ながらにして宇宙の構造を理解できます。

まったく新しい情報を得る時には、古い情報は自動的に整理されて、捨てられることになります。そうでなければ、新しい情報は入って来ません。その時に、中が整理されないまま新しい情報が入ると、副作用が起きます。薬でも、拒否反応が出たりしますよね。しかし、まったく未知の情報ではなく、ただ忘れていることであれば、思い出して元の自分に戻るだけですから、それまでに持っていたものを捨てることで、むしろ楽になるのです。「忘れる」という漢字は心を亡くすと書きます。損得勘定に走っていると、忘れていくのです。しかし思い出せば、「ああそうだった」と本来の立ち位置に戻れるのです。

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いさどん:

『人間以外の生物は、このつながりから逸脱できない』とありますが、実は人間も逸脱はできないのですよ。では人間はどこで逸脱するのでしょう。人間は、自我を優先することにより、全体がひとつの集合体であることを忘れ、自らの立ち位置を踏み外してしまうのです。
一方自我は、すべてがひとつの集合体であるということを、客観的に観て学習するために、わざわざそこから離れるとも言えます。客観的に観て、さらに客観背後までを認識して、この世界を観ることもできるのです。しかしまた、そこから逸脱するということは、ひとつの集合体であることを忘れてしまい、この世界の調和を乱すようなものにもなります。人間とは諸刃の剣で、悪にも善にもなるのです。
神様がすごいのは、その両方を人間に与えたことです。つまり、「そなたは私である」と言いながら、「そなたは私から限りなく遠いところにいる」という道を与えました。その遠いところから元の光へと戻ってくる道のりが神様の意思で、遠ざかっては元に戻り、また遠ざかっては元に戻るということをくり返しているのです。
そう考えると、「神」という文字は、旧字体で「示」に「申」と書きますが、この世界は神と人間のキャッチボールと言えます。

もう一度、宇宙の構造に戻りましょう。
なぜ、地球があるのか。これから先、人類が宇宙を探査していく時代に、水を発見したり、微生物に出会うことはあるかもしれませんが、この奇妙な「ヒト」という、「ヒ」から「ト」までの要素を持っているような生き物に出会うことができるのかどうか。想像する限り、それは難しいですね。つまりそれは、地球という星が、いかに宇宙の総意で創られた奇跡の星であるかということです。そして「ヒト」というものがいかに宇宙の総意によってこの立ち位置を得ているのかを考えた時、私たちが地球に存在していること、生命であること、ヒトであること、そして自分自身であるということがいかに貴重で尊いことなのかということが観えてきます。
人間は自らの人生を自滅させるような人もいれば、マザー・テレサやガンジーのような聖人としての生き方をする人もいます。自分のことしか考えず、お酒やタバコなどの依存症になっていく人もいれば、自殺する様な人もいるわけです。多様性の世界を表現するための役割だから大丈夫だよ、うつになって生きていてもいいんだよ、と褒めてあげたいような大らかな気持ちにもなりますね。
これから私たちがさらに宇宙を探査し、ある星に辿り着いたら、それは「うつ星」だった。みんなうつで、うつであることがステイタスで、「高次のうつ」なんてものがあったりしてね。そういうの、どう?(笑)
うつだけではなく、そういった多様性の世界をピンからキリまで体験できるのが、地球という星です。そう考えると、地球に生きるとはすごいことだと思いませんか?何があっても、どんなことに出会っても、楽しいという感じがしませんか。そういった捉え方をすれば、生きることと死ぬことは、まるっきり正反対のようなものですが、この星に生きることは、それを両方体験できるのです。皆さんは、その体験ツアーに来ているのですよ。

みかこ:
発生学のことを思い出した。人間は最初に肛門ができて、そこから内臓が順々にできて、頭ができて、最後に脳ができる。だから脳は二次的なものだというのだけれど、脳には松果体という、宇宙を感知するとても大切な部分がある。とても高度なものであるからこそ、先にその他の部分を受け皿として創り、最後に脳を創ったのだと今理解しました。それは、動物の中で人間が最後に創られたことと同じ。高度だからこそ、その最終章に登場した。

脳は潜象界の感受体であり、体は現象界そのものを現している。特に手足は、さらなる現象を生み出していく現象化の働きをする。潜象界から現象界に現れる時には、自動的に質的転換が起こる。それは、脳の右脳は左半身に、左脳は右半身に作用する仕組みと同じで、まさに潜象界と現象界を質的転換しながらIMG_0361行ったり来たりするのと同じ仕組みになっている。同じように、目から入ってきたものは目の奥で焦点を結んで反転し、脳に認識される。つまり、目というのは、潜象界から現れた現象界を感知するための器官なんだよ。脳に直結し、現象界で捉えた像を脳へと送っている。その情報を持って、脳は現象の奥にあるものまで感受できる能力を持っているのだけれど、目が曇っているというのは、まさにそういった真理を探究する心の目が曇っていると言える。目(芽)は、表に現れている部分は少ないけれど、その奥に広がりを持っているものが控えている。まさに氷山の一角だね。

いさどん:
それは依正不二という言葉にも表れています。この世界で人間は、脳の役割を果たし、動物たちは現象化するための役割であるとも捉えられます。人間の目が曇っていると、結果、この世界のすべてが混乱していくのです。

めぐちゃん:
今聞いていて思ったのが、脳の松果体で受けたものが喉で交差して体へといくわけだけれど、まさにその喉で声 ──── 響きを発していますね。

みかこ:
そこに意志が現れる。いさどんがいつも言うのは、語ると現象化するということ。だから声に出すことはとても大事。

いさどん:
「イ」「シ」とは、「示し」の「位置」。体へ行くだけではなく、外にも発せられます。

みかこ:
その中で、松果体で受けたものには、天の意志が示されているんだね。

いさどん:

でも今は上(霊性=潜象界)よりも下(体=現象界)が優先してしまっている。

みかこ:
松果体は宇宙を感受する場所。カタカムナはここの感受性を磨くことを伝えている。

いさどん:

今は思考の主体が損得勘定になっており、そういった思考は下から湧いてきます。しかし本来、生きるとは、「今日は天気がいいから何をしたらよいでしょうか」と、上にお伺いをたてて生きるものなのです。そしてその結果も、先に行ってみていただいていく「いただきます」の姿勢であるべきなのです。

みかこ:
現代人は脳の10%しか使っていないというのは、現象界しか見ていなければ当然のこと。

いさどん:

6500年前から、そういった時代が始まりました。しかし13000年前には松果体優先で生きる人々がいたわけですから、地球46億年の歴史からしたらそんなに遠い話でもないですね。それもサイクルを刻みながら先へ進んでいるのですから、今私たちが物質文明をこれだけ発展させたのも、それを体験して次のサイクルへ行くためのものなのです。ですから、そんなに深く考える必要もないのかもしれないですね。これを経験しなければ、次がないのですから。

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いさどん:

人間が正しく生きるとこの世界が正しく運営されるということは、人間が「ヒ」から「ト」までを理解した「ヒト」になるということです。
人間は、この世界の法則から逸脱することができます。生命ですから、本来この世界の法則から逸脱することはできないはずなのに、できるとはどういうことかと言うと、意識の上で逸脱できるということです。そして、その逸脱の体験を学習することができるのです。
「依法」と「正法」は不二、つまり表裏一体です。依法と正法は、その双方が役割を果たすことによって、この世界を運営しているということです。それを忘れていてはいけません。

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いさどん:
この世界は「成住壊空」の仕組みで成り立っています。この拡大の始まる一点がビッグバンです。ここから世界が広がり、地球上では現象化が進んできました。生命も進化してきました。そしてピークを迎えると、「満つれば欠ける」というように、今度は崩壊に向かっていくのです。「成=誕生」「住=維持」「壊=破壊」と進んでひとつのサイクルが終わると、「空」即ち無になります。図で見ると、この「空」は一点で表されていますが、この点は天であり、無限なる宇宙でもあるのです。この点である瞬間が無限につながり、無限の世界を創っています。つまり、そこではトキも存在しないのです。それは限りなく長い世界であるとも言えるし、「ない世界」ですから一瞬で次の世界に切り替わるとも言えます。

『この世界は、「ある世界(現象界・陽)」と「ない世界(潜象会・陰)」を行ったり来たり(質的転換)しながら循環し、生死を繰り返している』
その天然循環の世界が神様の歩みであるとしたら、この図は神様の呼吸を表してもいます。私たち人類の文明も、同じように呼吸していますね。時代は、神様の呼吸で創られているのです。誕生し、死を迎え、誕生し、死を迎えるという陰陽のサイクルが無限に続いているのです。

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いさどん:
これは村山節さんという人が提唱した、文明周期説に基づいています。今私たちは西洋文明と東洋文明の盛衰が入れ替わる、転換期にいます。転換期だからこそ、こういったことに気付けるのです。そういった切り替え時だからこそ、今話しているようなことを理解し、語れるのであって、もっと前の時代にはそのような視点は持てませんでした。今、様々なターニングポイントが同時に地球上に訪れていますが、私たちがその大転換の時に生きているということはとても重要であり、めぐちゃんが言うように「過去にこんな時代があっただろうか」というくらい稀な時に私たちは集っているということです。
その中でも、こういった仕組みを理解できる場に集っているということはとても貴重なことです。世の中はまだ、銀河の冬至という闇のピークを越えたばかりで、季節で言えばこれから「小寒」「大寒」がやって来るのですから、もっと寒くなります。そういった事実を抜きにして、私たちは松果体を震わせて世界の全容を読み解ける立場にいるのですから、それは時代にとってとても重要な立場に立っているとも言えるのです。

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いさどん:
これからは、宗教のように何か他のものから価値を得ようとするのではなく、自分自身の中に眠っているものを目覚めさせる。そうすることによって、自らが尊きものとなり生きる時代がやってきたのです。

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いさどん:

どの宗教も同じですね。人々の「救われたい」という発想がベースになっているのです。

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いさどん:

この世界に生きるということは、自らが「無」となって宇宙の法の元にあるすべてのものごとをいただきながら、「有」である現象界を生きることです。私たちが生きるこの世界は、無と有が共存しているのです。

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いさどん:

お釈迦様が悟りを得た時、それはとても心地よい境地に至り、お釈迦様は一人でその境地にいつまでも浸っていたい気持ちになりました。しかし、尊き存在の立ち位置は、それではいけないのです。聖なる者として地上に降りたものは、迷える者たちを救わなければなりません。それが聖なる者の本分なのです。ですから神様は旅人に姿を変え、そのことを何度もお釈迦様に伝えました。

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いさどん:
その花とは、既製品ではなく、一人ひとりオリジナルな「個の花」です。

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いさどん:
なぜ「願ってやみません」と書かれているのかというと、そのことの大切さに気付いた者がどんなに高次の意識で投げかけたとしても、結局人間には自由が与えられており、自らがどのような意識で生きていくかは一人ひとりの選択なのです。
そのことの大切に気付き、ぜひその境地に行っていただきたい。この世界はあなたの目覚めにかかっているのですから。

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4日目午前「カタカムナ1」 ~ 認識できない世界をひも解く

6時間では到底理解できない奥深い世界、カタカムナ。以下、講座の内容をご紹介します。あくまでもダイジェストであることをどうぞご了承ください。(カタカムナを学ぶにあたっての心がまえについては、本講座の冒頭に語られたお話をご覧ください。)

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いさどん:
ここに、カタカムナに80首あるウタヒの中の第5首、第6首の解説があります。表の物理性の解説と同時に、裏の性についての解説が載っています。
かつてここでカタカムナ勉強会の講師をやっていた人は全国各地で勉強会を開催していたのですが、カタカムナの勉強会を始めた頃、カタカムナの真実はこの裏の部分に秘められている、ということで、勉強会でその奥義を説き始めたら、まず女性が来なくなったそうです。そしてそのうちに人が減っていきました。女性が先に来なくなったということは、女性がいかに性に対してネガティブなイメージを持っているかということを表しています。それをひも解いていくと、男性がいかに雑なセックスをしているかということです。そして女性は受け身ですから、その間違った性が浸透していったのです。
その講師の人は、それ以来勉強会でも性について触れなくなりました。しかし僕は、そこに踏み込んでこそ、カタカムナの神髄だと思っています。もっとも、そうすると人が来なくなるのかもしれませんが。

人は自分の色をつけてものごとを見ています。性に対する認識がこれだけ歪んでいるのは、それだけ世の中が汚れているということです。そう言うと、自分のことは置いておいて「そうだ、世の中が汚れているから私は大変なんだ」と被害者になる人がいるのですが、あなた自身が汚れているのですよ。だからまず、あなたがきれいになることです。

それでは、スライドを見ていきましょう。

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「カタカムナの世界観を現代に生かす」というのは、とても深いことです。

現代の人々は大脳思考です。そしてヨコシマ(邪)と言って、その思考は邪ですから、損得勘定の二元的思考をしています。しかし人間は地上を生きる生命として、本来は縦思考で、直観に従い、生きるべき生き物なのです。それは自らの都合で思考を回すのではなく、生きる上で必要な生命観は自ずと湧き出してくるものです。
縦というのは、天に通ずる、この世界の仕組みの柱となるものです。それを「トキ軸」と言います。それに対して、そのトキ軸に沿って回転し、この世界に現象を生み出すはたらきを「トコロ軸」と言います。

人間は、DNAの中に宇宙の始まりから今までの成り立ちを、情報としてすべて持っています。しかし現代の人々は、脳の10%程度しか使っていないため、そういった内に秘められた情報を活用することはほとんどありません。では残りの脳のはたらきは何なのかというと、宇宙を生きるためのアンテナとしての情報です。天から降りてくる様々な情報をキャッチしたり、自らの中から湧き出してくるものをつかむのです。
今、25800年ぶりの銀河の冬至を越えて、これまでのヨコシマな損得勘定から、縦思考と横思考のバランスを取る時代に入りました。一般のカタカムナの勉強会ではこのような話は出ません。これは、地球暦やこれまでの人類の歩みをここで独自にひも解いていく中で、観えてきたことです。

「因果応報」というのは、今ここにあなたが存在していることの仕組みです。何かが発生したり存在するということは、必ずそこに至る原因があります。そしてその結果がまた次の原因となって新たな現象を引き起こし、延々とつながっていくのです。そして振り返った時に、その軌跡があなたの人生です。
原因に対して相応しい結果が現れる。それが因果応報です。原因、結果、原因、結果という連鎖を延々とくり返し、それをすべてつなげて観ると、そのひとつらなりの流れの奥に物語が観えてきます。そして、誰もが一人ひとり独自の物語を持っています。宇宙にも、誕生からずっと続いている物語があります。宇宙は誕生、維持、破壊、空、そしてまた誕生というサイクルをくり返していますから、その物語には終わりがないとも言えるでしょう。その物語が観えた時、因果応報の奥にある天の意志が観えてきます。
それを観るためには、自らに囚われているようでは観ることはできません。自らの視点からちょっと離れて、いったい自分はどういう歩みをしているのだろうかと客観的に捉えることが必要です。自らのクセというのはなかなか見えないものですが、ちょっと離れてみることでそれが観えてくるのです。

「一度止まる」と書いて、「正」という字になります。今自分がどのような歩みをしているのかを、いったん止まって、離れて観る。それが客観視点です。

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私たちは現象世界にいて、その奥にはすべての源である潜象界があります。そこまでの構造を理解すると、客観背後と言って、すべての現象の背後にあるこの世界の意志が観えてくるのです。それは意志を持っていますが、持っていないとも言えます。それは何も私たちに意志表示をしない、この世界が成立するための存在です。それを神と呼ぼうが法則と呼ぼうが物理性の元と呼ぼうが、何でもいいのですが、それが観えてくるのです。

02

人生は不可思議です。主観が強い人は、他の人も自分と同じように考えて生きていると思っています。では主観に囚われずに生きている人がどれだけいるかというと、ほとんどいません。誰もがオリジナルです。それを、さも普通であるかのような顔をしてごまかしていますが、「人格を学ぶ講座」ではその一人ひとりの独自性をひも解いていきます。

人間というのは、嘘つきです。僕はたくさんの人の人生相談を受けてきましたが、まずみんな、口から出てくる言葉と奥に持っている心が違います。ですから僕は、その奥の心を観ます。相手の言葉をそのまま受け取ったりはしません。それが客観です。
その時に僕を上手にだましたとしても、それは正確なアドバイスがもらえないということですから、その分損をしていることになります。一番は、とにかく正直になることです。「こんな恥ずかしい事は言えない」と思っても、僕は今まで1万件以上の相談を受けてきて恥ずかしい話なんて山ほど聞いていますから、全然珍しくないのです。
人間は嘘つきです。ペットは人間に近いから嘘をつくかもしれませんが、自然のものは絶対に嘘をつきません。人間が嘘をつくのは、それだけ高度の生き物だということでもあります。だから曲がりくねったでこぼこの道を歩んでいくのです。先日北朝鮮の金正男氏が暗殺されたというニュースがありましたが、報道されていることはどこまでが真実でしょうか。世界は嘘でできています。そこから真実を観抜く力を持つ。それには、自分の心を磨かなければ観えません。

でこぼこ道の奥に、この世界を存在させている大いなる意志があります。こんなにひどい世界を創って、いったいその意志は何をしようとしているのでしょうか。僕は不満に思い、それを神様に問いかけたことがあります。するとこんな答えが返ってきました。

「この世界を私の実体とみて、不満を言うならば、
その意志を見分けられるおまえになれ。」

おまえが不満を持って疑っている限り、真実は観えないだろう。周りがどうであろうとも、正直でありなさい。常に正しくものを観ることを心掛けなさい ──── そう伝えられました。

03

自分がもやもやとした雲を創っていては、見えてくるものももやもやでしかありません。そしてもやもやの人ほど、それを絶対だと思っています。そして何か新しいものに出会うと「これが真実だ」と飛びつき、また別の何かに出会えば「これこそ真実だ」というように、ころころ変わっていくのです。
それが人生だとも言えます。ですから、もやもやの中にいてもいいのですよ。それがもやもやだとわかっていればいいのです。しかし、もやもやだとわかっていない人は、そのもやもやにごまかされていきます。

04

正確に言うと、循環する前に振動し、自転し、公転し、歳差運動をして、そして循環しています。その身近にある代表例が地球です。そしてそれと相似形をなしているのが、我々の体です。細胞です。原子です。素粒子です。
カタカムナでは、素粒子よりさらに小さな存在である宇宙最極小微粒子を「カ」と呼びます。素粒子は観測できますが、カは観測することはできません。それはこの世界のすべての現象が発生する前の素材です。ですから、「ない」のです。「ない」ところに「ある」微粒子 ――― それが「カ」です。

めぐちゃん:
それはダークマターのことですか?

いさどん:
「カ」は、アマハヤミと言って、光の速さの10の64乗倍の速さで宇宙空間を飛び回り、そしてある時、現象を創りたいという想いが宇宙に湧いたとしますね。そうすると、その縁を元に「カ」はヒフミヨイと数理の道順に従い、「密かに」「震え出して二つになり」「満つって」「横に広がり」というプロセスを踏んで、「位置」が決まり、そこに「マ」という空間ができ、「ワ」という球体になります。「ワ」(=球体)ができるとは、その中に空間ができるということですが、ここには実は何もないのです。

宇宙はすべて、その空間のへりにできます。我々の銀河もそこにあります。するとこの空間は、とてつもなく広い、何もない世界です。それをダークマターと名付けてもいいですが、それが何であるのかは解明できていません。ホワイトホールやブラックホールという捉え方もありますが、それもまだ不確かなものであり、今わかっているのはここまで、としておいた方がいいでしょう。

ブラックホールがすべてを吸い込むとしたら、その行き先はどこなのか。ホワイトホールから噴き出してくるとしたら、それはどこから噴き出すのか。それをどう認識するのかと言ったら、我々が認識できない世界があるということです。それが、現象界、即ち「ある世界」の源である、潜象界、即ち「ない世界」です。

「ない」のですから、私たちには認識できません。ところが、その「ない世界」を理解しないと、この「ある世界」のことを本当に理解することはできないのです。ダークマターというのは認識しているということですが、本来はそれをダークマターとも言えません。認識できない世界にあるということです。

05

世界には様々なことが起きています。戦争があり、災害があり、病気があり、貧困があり、経済の破たんもあれば、トランプさんが出てきて何をするかわからないという状況もあります。これは、悪いことでしょうか?それを体験して「痛い」と思えば、嫌だと思うかもしれません。しかし、それを体験するということは、この世界の表現の可能性を知るということです。

この世界はすべて、陰と陽の対向発生によって成り立っています。そうすると、この世界を理解するためには、陰と陽の関係から離れて全体を観る必要があるのです。もしくは、こちら側にいるものは、向こう側に行き、こちら側を見ることによって初めて自らを知ることになるのです。
現代物理学は、現象世界を解析してきました。しかしどんなにこの現象世界だけを解析したとしても、現象世界が陰陽のどちらか一方であるとするならば、必ずそれを成立させるもう一方の存在があるはずであり、そこを理解した目でこちらの世界を観ることにより、初めてこの世界の構造がわかるのです。
人類が物理的にこの世界を理解するためには、今いる現象世界と対であるもう一方の世界へ行ってこちら側を見るか、もっと確かな情報を得るには、両方の世界を離れて全体を観ることです。ではそうするためには何に乗っていけばいいのでしょうか。今確認できている宇宙のスケールは数百億光年とも言われていますから、光の速さの乗り物に乗ったとしても宇宙から離れるには数百億年かかるということです。そんなことは物理的に不可能でしょう?ですから、現代物理学でこの世界をひも解くには限界があるのです。

そこで僕は、カタカムナが現代に復活したのだと思いました。その昔、カタカムナ人は、この「ある世界(現象界)」の奥に、それを成立させている「ない世界(潜象界)」があるということを、13000年前に理解していました。そして「ない世界」の働きが「ある世界」を表しているということを知っていました。この捉え方が現代物理学に反映されれば、物理はさらに発展することでしょう。そこから先は、人間の思考が大脳思考ではなく松果体思考、つまり直観思考になると、動き出します。
ところが今の多くの科学者はそういったことを認めませんから、そのままでは行き詰りますね。特に西洋科学を絶対視する人たちはそうです。脳の構造を変えなければこの先はありません。物理学とは何の関係もないこのような場所でそんなことが語られているのも、面白いですね。
物理学を始めとする近代科学は現代社会の発展に寄与しましたが、では人間の日常生活にどれだけの豊かさをもたらしたのかというと、今ではむしろ害をもたらしています。これは近代科学を否定しているのではなく、一方に偏ったものに、もう一方にあるものを合わせていくと、次の世界のステージが観えてくるということです。この世界を運営している存在は、一体全体何のためにこの世界を創ったのか、そしてそれを受けて人間はどうしたらよいのかということが、今ようやく語られ始めたということです。

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これは月の満ち欠けです。それが地球の海の満ち引きをつくり、生命が発生しました。生命の起源は光だと言いますが、光だけでは駄目なのです。つまり、光(陽)に対して闇の働き(陰)が必要です。ちょうど良い距離に太陽があり、ちょうど良い距離に月が生まれ、双方の働きが陰陽となって地球に生命が誕生しました。

陰は女性性を現します。女性の生理は生きることの基本であり、それは月と連動しています。男性の生理は精子の生産ですが、これは毎日行われています。それは太陽のリズムです。肉体的には男性が陽であり、女性が陰です。それを善悪や損得のような二元論で捉えると、男は陽だから表にいて、女は陰だから陰にいて従う存在だというような封建的な捉え方にもなります。近年、世界中がそうでしたね。
しかし、それは違うのですよ。本当は、この「ある世界」と「ない世界」の関係も、すべては陰が元になっているのです。生命もすべて女性から始まっています。ですから、「霊主体従」という言葉が表すように、陰が主であり、陽が従なのです。
長い間、権力やお金、物理的な優秀さなど、そういった陽的なものが主となり、心を従とする時代が続いてきました。今、時代はその切り替え時を迎えています。文明的にも、これまで世界をリードしてきた、物事を細分化して科学的に捉える西洋型文明から、世界を統合的に捉えその奥を観る東洋型文明に切り替わる時が来ています。例えば病気になれば、西洋文明ではその症状を物理的に治すことに専念しますが、東洋文明ではその病気の要因となる奥の気や心を観るのです。

あるものが現れて栄えていくと、それは月の満ち欠けと同じように必ず頂点を迎え、やがて欠けていきます。その時に、それと対向発生し、潜んで奥で支えていたもう一方の存在が、入れ替わりに現れてくるのです。

それでは、カタカムナの世界を具体的に観てきましょう。

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いさどん:
この図は、この世界の仕組みを二元に落とし込んで表現したものです。とてもわかりやすいですが、実際はこの世界は二元ではありません。

みかこ:
この図では左側が潜象界で右側が現象界というように分かれていますが、実際はこんな風に単純に区切られているわけではなく、潜象界はこの世界に重なってあるものです。

いさどん:
僕はある時、この現象世界の空間にふっと切れ目が入って、そこからふわーっと何かが出てくるのを感じました。何とは言えませんが、何かが来る。そして、それが「カ」なのだと思いました。これが供給されることによってこの世界が創られ続けているのだということを感じたのです。
なぜそれが観えるようになったのかというと、この世界の物理性を理解してきたからです。「カ」は宇宙最小の微粒子であり、すべての現象の元となるものです。そういった仕組みを人間は、宇宙の発生、維持、破壊、消滅までの仕組みを理解すると、意識的にその原動力である「カ」を潜象界から引き出すことができるようになります。人工によって汚染されていない純粋なエネルギーを引き出すことで、この世界に「イヤシロチ」(汚れのない生命力にあふれた場)を創り出し、美しくしていくことができる。そこまでの域に人間は達することができるのだと気付いたのです。
逆に、この仕組みを理解していないと人工の世界の中だけでぐるぐると意識を回し、人工的な歪みを増幅させてどんどんこの世界を汚していく(ケガレチ)ことになります。潜象界はこの世界のあらゆるところに重なって存在していますから、人間がその意識になれば、どこからでも「カ」は供給されるのです。例えば畑に行って「人間の欲で汚れているな」と感じたら、欲のない美しい心で作物に語りかけます。するとその空間から新しい純粋なエネルギーが作物や土に供給されて、美しく濁りのない作物が育つのです。

この図を見てください。私たちが通常認識している世界は、現象界=カタの世界です。「カ」は宇宙最極小微粒子であり、それが「タ」即ち分離独立したものが「カタ」であり、それが持続する(=チ)と「カタチ」となります。カタの世界は「見える世界」です。
その奥に、「見えない世界」があります。例えば心は見えませんね。見えませんが、カタチである顔の表情を見ていると、その奥にある心が観えてくるでしょう。ところが人間はそれを隠しますね。カタチで隠すのです。その隠れて見えないものが、この図にある「思い」「幽」「心」「言霊」といったものです。この見えないものが見えるものと重なり合って、人間が形成されます。人間だけでなく、あらゆるものがその仕組みで成り立っています。そしてすべての存在は、固有のサイクルを持っており、人間なら80年、ネズミなら数ヵ月、星なら数百億年というように、それぞれのサイクルがあって生命が維持されています。それがカタの世界です。宗教で言う霊とは、一般的にこのカタの世界の中の「見えない世界」の存在を言います。そして「見える世界」と「見えない世界」を、因果がぐるぐると回っているのです。

この現象界に対し、対向発生をしている潜象界の存在をひも解いているのがカタカムナ宇宙物理学です。その潜象界には何があるのかというと、すべての音のふるさとの響きです。響きはすべての源です。宇宙空間も実は響きなのです。
潜象界では、48の音は単独で存在しています。それが現象界へやってくると、縁が発生して他の音とつながり、意味を成すようになります。潜象界では「ア」と「イ」というように単独で存在していたものが、現象界へやってくると、それが縁により結ばれ「アイ」になるのです。
潜象界は、濁りや歪みのない世界です。それは極めて美しい状態です。ですからそれを理解するためには自らを無垢の状態にしなければなりません。先入観があっては、それをわかることはできないのです。

潜象界から現象界へ生まれ出てくると、様々な形状を持つようになります。それが自然の命の多様性です。そしてそこには「差」があります。形状の差、役割の差。そしてそれがネットワークしていくのです。
潜象界には差はありません。ネットワークもありません。それが現象界へやってくると歪みが発生して差が生まれ、ネットワークする。それが命の世界です。その歪みとは美しい歪みであり、そこでは一つひとつの差は個性なのです。
ところがそこから人工の世界へ進むと、カルマや人間の思惑による人工の歪みが発生します。それによって今、自然が汚染されているのです。それに対して、人々がどう解決しようとしているのかと言うと「自然保護」だと言うのですが、それは違います。人間の心が汚れているから、自然も汚染されているのです。

それを美しくするには、現象界の奥にある潜象界までを含めたこの世界の構造を理解し、人間が自主的に自分自身を美しくすることです。そうすると、人工で汚染されたものは潜象界へと還り、そこからまた新しい新鮮なエネルギーが供給されるという循環が生まれ、自然は自ずと美しくなっていきます。
「自然保護」というのは傲慢な言葉です。自分たちが汚染の根源であるのに、自然を「保護」しようと言うのですから。そんなことを言う前に、自らの心を改めることです。

まずは、あなたから。あなたがきれいになると、それが世界に広がって、必ず世界は美しくなるでしょう。

 

 


4日目午前「カタカムナ1」導入 ~ もっとも“わからない”講座

第4日目は、この世界をひも解く神髄とも言えるカタカムナの講座です。まずは冒頭のいさどんのお話から ──── 。

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いさどん:
今日は、カタカムナの世界観を学びます。ただし、これはカタカムナ宇宙観の入り口です。

13000年前の宇宙物理文明

カタカムナの世界は、とても深いものです。真学校では2コマ6時間をカタカムナに充てていますが、それだけでマスターすることはできません。6時間で学べることはほんの概要であり、深い世界を粗く見て「ああ、そういう感じなのか」ということをつかむためのものです。
真学校の初日に、皆さんにわからないことを伝えていきます、とお話ししました。それをわからないからと言って切り捨ててしまうと、新たな世界観を認識することはできません。このカタカムナの講座が、まさしくそれです。なるべく皆さんが理解できるようには進めていきますが、それで皆さんが本当にその神髄をつかめるかどうかはわかりません。

実は、今カタカムナの世界観をマスターしている人はこの世界にいないだろうと思います。
カタカムナは、およそ13000年前に東アジアに栄えていた宇宙物理文明であり、とても深い世界観を持っていましたが、やがて時代が進んで物質的文明が台頭してくるに従って衰退し、長い間封印されていました。そして1949年、楢崎皐月という明治生まれの物理学者が、兵庫県の六甲山系の金鳥山というところにあるカタカムナ神 ──── 正式には保久良神社というそうですが ──── そこで平十字という老人と出会い、神社の御神体として伝えられているという記号のようなもので書かれた巻物を見せられ、それをひも解き始めたことから、再び世に現れ出したのです。それは第二次世界大戦が終わってから4年後のことです。
楢崎皐月という方はとても優秀で集中力のある方だったのでしょう。それから5年間をかけて、巻物に書かれていた文字を解析し、48音の意味をひも解いていきました。この文字が、カタカムナの「八鏡文字」です。そして、カタカムナをひも解けばひも解くほど、彼一人の力ではそれを解析できないということがわかってきました。そして後に、宇野多美恵さんという女性と、その妹に出会います。そして3人で力を合わせてカタカムナ文献をひも解いていったのです。

これが八鏡文字です。

カタカムナ第5首・第6首
カタカムナ第5首・第6首

この文字が、カタカナの元になっていると言われています。
「マワリテメクル」というのは、地球の自転と公転のような物理性を表しています。そしてもうひとつ、この世界は「対向発生」と言って、陰と陽のように相反する二つのものが同時に存在することによって成り立っていることも表しています。
カタカムナには、この48音を組み合わせた80首の「ウタヒ」があり、一説によると120種以上あるとも言われています。それはこの世界の命の仕組みを表したものです。48音の一つひとつにそれぞれの意味があり、それをつなげることによって命の仕組みである物理性を表しているのですが、それをひも解いていくのはとても難解なことです。最初に発見された文献には、この図のようにフリガナが打ってあったわけではありません。それをひも解いたのですから、楢崎さんという方は素晴らしい頭脳と創造力の持ち主だったのでしょう。
80首のウタヒをひも解いていくと、「表」のカタカムナの解説があり、表を陽とするならばそれと対になる陰、即ち「裏」の解説があります。表は宇宙の物理性を説いています。裏は、性についての解説です。男女が交わることの意味や、それによって何が得られるのかということが示されています。

最も小さなコミュニティ、男女の出会い

人は生きていく上で、群れて社会を創ります。その時にできる最も小さな単位のコミュニティとは、男女の出会いです。それが対向発生です。1+1は通常2ですが、男女が出会えば子どもが生まれて3になります。それが家族というコミュニティの始まりです。家族というコミュニティが集まって一族ができ、そして村ができ、町ができ、社会ができていくわけですから、家族というコミュニティが健全であることが世の中の健全につながります。
昔から、多くの人が理想郷を築くことを目指してきました。しかしほとんどの場合、実際に理想のコミュニティを目指し、立ち上げても、長続きはしませんでした。歴史の中でユートピア運動というのは世界中にあり、日本でも多くのコミュニティが立ち上げられてきましたが、今も存在しているところがどれだけあるでしょうか。密度高く安定している場としては、木の花は代表的な事例です。
多くのコミュニティが長く続かない原因は、お金と性の問題です。これをクリアすると、コミュニティは安定します。性の話というのは多くの人にとって秘め事であり、みんな表に出そうとはしません。しかし、「性」とは「聖」と同じなのですよ。

「セイ」をカタカムナの単音でひも解くと、「セ」とは「せまい」とか「エネルギーが集中している」ことを表します。「イ」とは「位置」であり、「ヒフミヨイ」の「イ」ですから、これから現象化する用意が整ったことを表しています。つまり、「セイ」とは狭い位置に密度が集中しているということですから、「性」であれば女性器に男性器が結合していることを表しています。「聖」ならば道を究めていって高く狭い位置に到達し、そこで安定している状態を表しています。下の方の世界では価値観が様々にあってバラバラの状態ですが、そこから極めていって確固たる高次の精神の位置に到達したということです。「清」も「セイ」と読みますね。いろいろと汚れている世の中で、余分なものをそぎ落とし、美しく清らかな状態になったということです。

カタカムナの80首とも120首とも云われるウタヒをひも解いていくと、その7割から8割は、性についての本義が示されています。表は宇宙の物理性の解説ですが、裏には、性から紐解かれる命の解説が明快に示されています。聖なる男女が交わることによってどのような境地に至るかということが綴られているのです。
それは、現代のアダルト産業が描くような性の世界とは、まったく違った世界です。しかし現代の多くの人々は、そのような聖なる描写に出会っても誤解をします。なぜ誤解するのかというと、その人自身が、性に対して誤解をするようなレベルの認識しか持っていないからです。

「怪しい」は自分の中にある

僕がいかに真剣に、熱意を持って、その人のために、世の中のために真実を語ったとしても、人はどこかに自分の常識というものを持っており、そこから外れたことを聞くと「それは怪しい」と判断します。では何が怪しいのかというと、その人自身の中に怪しいものの基準があるのです。

本来、性とは聖なるものであり、神聖なものですよ、その聖なる精神性に則って交わることは、それにふさわしい神聖な魂を天から降ろし、優れた精神の人が世に現れ、世の中を良くしていくのですよ、と語ると、「その通りだ」と思う人もいれば、自らの性に対するイメージを重ねて「あんなことを言うなんて怪しい」と思う人もいます。現代の一般的な性の認識しか持っていない人は、性と聞くとすべて自分の中のイメージにつなげて、それは欲情をそそるものでよこしまなものだと決めつけます。女性の場合、性の出会いが不幸で嫌悪感を持っている人も少なくありません。みんな自分の中のイメージで「性とはこういうものだ」と決めつけているのです。

僕の話を聞いて「怪しい」と言う人は、実際にそのものを認識しているわけではありません。それ自体を客観的に捉えるのではなく、自分の中にある認識をそこに投影して見て、想像しているのです。
人間は恐ろしいことに、ものごとの真実を確認せずに、自らの中にあるイメージを重ねて事実とは違う幻想を創り上げ、それを独り歩きさせていきます。それは間違いを独り歩きさせているようなものです。その結果、真実と間違いのギャップが生じ、そのギャップを生きることになります。それは人生に間違いの種を播き続けることになりますから、必ず未来に間違いの芽が出ます。
その時に、本人には自分が間違いの種を播いてきたのだという認識がありません。ですから間違いの芽を見て、いったい誰がこれを播いたのだろう、なぜ私がこんなものに出会わなければいけないのだろう、と思うのです。すべて人のせいになるのです。そうすると、その人の人生にはさらに間違いが起きるようになります。

理解を超えるものを受け取る

昨日、「世界観を広げよう」という講座をやりました。その中に、心を磨くことの大切さが出てきます。なぜ世界観を広げることが必要なのかというと、視野が狭いと自分がどこにいるのかが観えないからです。広い視野の中で様々な認識に触れると、その中で自らがどのような位置にいるのかがわかり、自分の思考がどのようなものであるのかを客観的に捉えることができます。
ところが、狭い枠の中で自分の見える範囲のものだけを見て生きていると、それが世界の全てだと思うようになります。中には、自分の今の状態は他者や世の中のせいだと言って被害妄想になっている人もいます。そのように自らの視点だけで生きていては、世の中に間違いの認識を広めていくようなものです。だから世界観を広げることが必要なのです。

その時に、自分の理解できることだけを受け取っているようでは、世界観は広がりません。多くの人は狭い枠の中にいて、自分の理解できないことは間違いだとしています。しかし、カタカムナを生きるということは、今の世の中の人々が認識していない、新たな道を歩み出すということなのです。
僕は昔、この道に出会った時に、最初は自分が精神分裂病になったのかと思いました。自分の中に言葉が降りてくるのです。そういうことが、人間にはある。どうやら自分は、そういう人になってしまったようだ。そう思いました。

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しかしこれは実際に怪しい話です。一歩間違えば魑魅魍魎(ちみもうりょう)の不確かな世界にも通じるからです。よくテレビにも霊能力者と言われるような人々が出てきますが、そういった世界にも通じるもので、人々を惑わせることにもなる危険なものなのです。ですから僕自身も、そのような状態の自らを疑いながら歩んできました。しかし、疑いながらも、そうなってしまったものはなってしまったのですから、仕方がありません。「これはどういうことなのだろう」と歩みを止めることなくそれに付き合ってきました。そうして、ここまで歩んできたのです。

真実はひとつ

自分が出会ったものは何なのかということを突き詰めていくと、その人の精神構造のレベルの位置に到達します。皆さんも、いろんな本などを通してスピリチュアルな世界に出会っていると思いますが、それを教科書のように崇めていては、それを発信している人の精神レベルを超えることはできません。何かを経典とした時点で、その先の道は閉ざされるのです。

しかし、この世界は広大なものであり、情報は無限にあります。自分自身を空っぽにして、自身の中に定着したものだけが、得たものです。そして世界は無限ですから、探求は永遠に続きます。
これは、真学校を1ヶ月間どのように過ごすのかという姿勢の話です。あなたの中に新しい情報をどれだけ入れるのか。そしてそれをどれだけこなせるか。有害なものはひとつもありません。しかしそこで自分の中に入れるものを自分で選別するようでは、大事なものがすっぽりと抜けた骨抜きの情報の寄せ集めになるかもしれません。1ヶ月後にどれだけのものをあなたが得ているのかは、皆さん自身にかかっているのです。
そして、その得たものを元にそれから先の人生を生きていくことになります。それをくり返しながら人生が完成されていくのです。新たに得る情報というのは、自分が知らないものですね。ですから、わからないことでもまず取り入れてみることです。その全てをマスターすることはできなくても、まずは取り入れてみて、そして残るものを自分のものとしていけばいいのです。

その時に、これを取り入れたらいいことがあるのだと御利益を求めるようなことでは、何かのセミナーを受けて良い人生になりますようにと願うのと同じで、まやかしです。何を持って良い人生とするかは、人によって違います。今僕は、生きるということ、そしてその中で出来事に出会う時の基本の姿勢についてお話ししていますが、それは一人ひとりみんな違います。皆さんはこれまで、一人ひとり違う人生を歩んできました。これからも違うことでしょう。そこで最も気を付けなければいけないのは、自分は先入観を持っていて、その色眼鏡でものごとを見てはいないかということです。
もしもそうであるなら、あなたはあなたの色を付けてものごとを見ていることになり、真実を自分の中に取り込むことはできません。逆に言うと、その先入観で彩られた認識が、あなたにとっての真実になります。ですから、真実は人の数だけあることになります。しかし先入観を外してその情報に出会えるならば、今あなたが必要とする情報があなたにもっともふさわしい形であなたの内に残ることでしょう。そして内に残ったものこそが、誰にとっても共通するこの世界の真実なのです。

カタカムナを生きる

カタカムナの世界観を学ぶにあたり、まずは冒頭のお話をしました。これから3時間の講座が始まりますが、人によってはさっぱりわからない時間を過ごすことになります。最初は頭が痛くなることもあるでしょう。それでも付き合っていくと、何かが感じられるようになるかもしれません。それが大事なのです。
現代人は前頭葉で思考を回し、いわゆる大脳思考でものごとを解釈しますが、カタカムナ人は脳の中心にある松果体という部分を震わせて、この世界の真実を直観で受け取っていたと言われています。その時に、思考は回しません。会話も、今のように文章にするのではなく、単音に近い形でやり取りをしていました。そして群れて、直観のセンサーを働かせながら、生き残ってきたのです。ですから、生命観がとても強い。豊かに生きるにはどうしたらいいかなどと、大学の講義のように考えることはなかったのです。
これから八鏡文字について学んでいきますが、これは楢崎皐月さんが解析したもので、カタカムナ人は誰もこんな講義を受けて学んだりはしていませんでした。現代人はそれを教科書にして勉強会を開催したりしていますが、それでは結局、現代人の思考回路で知識的に学んでいるに過ぎません。

みかこ:
この文字の成立自体が、カタカムナ文明が栄えていた13000年前からずっと後の約8000年前だろうと言われています。後の世の人々が体系化したんですね。

いさどん:
木の花ファミリーでも、カタカムナに出会ってから2年間は毎月勉強会を開催していましたが、僕はある時、もうこれ以上は必要ないと思いました。間違いの方向に進み出したと思ったからです。カタカムナ人は勉強をするのではなく、毎日の生活の中でそれを表現していました。いくら知識としての勉強を重ねても、人間性を高め、その知識が人生に反映されることにはならないのです。
僕がその2年間で気付いたことは、「カタカムナを学ぶ」のではなく「カタカムナを生きる」ということでした。そしてカタカムナを探求すればするほど、私たちが今までコミュニティとして目指し表してきたここの生活が、カタカムナを表現しているのだと思いました。ですから私たちは勉強会を開催するのではなく、それを生きて、そして生活の中で表現することでもっとわかりやすく皆さんに伝えていくことができると思ったのです。カタカムナは宗教のように御利益を求めるものでも、学問のように知識として学ぶものでもなく、実際にそれを生きることで、自らの人間性に反映させていくものなのです。

それは理想論ですか?

いさどん:
人間は、まず自分自身の個性という認識の色がついています。そしてその色を通してものごとを解釈しています。そこでちょっと自分の外に出てみましょう。そして自分はどんな色を持っているのか、どんな心のクセを持っているのかを客観的に見てみましょう。そうでなければ、いつまでも自分の色やクセを通して世界を見ることになります。

としみちゃん:
聞いていて、胸に突き刺さります。さっき、男女が聖なる交わりをすることで素晴らしい子どもが生まれると言いましたよね。私は小さなころから性に対して嫌悪感があるんですけど・・・

いさどん:
今、「小さなころから」と言いましたけど、それはいつのことですか?小さな子どもの時から性的なことに関わってきたということですか?

としみちゃん:
小さいと言っても中学生くらいの時です。

いさどん:
それは正確に言わなければいけませんよ。「小さな」というと2、3歳の子どものようですが、中学生となれば、多くは自身の体験が元となってイメージを持つようになっています。中には何も体験していないのにネガティブなイメージを持つ人もいますが、それはもともと自らの中にネガティブな種があるということです。それがその人の色ですね。

としみちゃん:
その、聖なる行為で素晴らしい子どもが生まれてくるというのが、そうなったらいいなとは思うけれど、きれいごとというか、理想論に聞こえてしまうんですけど・・・

いさどん:
その「理想論に聞こえる」というのは、あなたの考えではないですか?そのあなたの考えで、「これは理想論なのだ」と断定しますか?あなたは今までも、そうやって自分の考えでものごとを断定しながら生きてきましたね。
「素晴らしい人」というのはどこから生まれてくるのでしょう。お釈迦様もキリストも、性の営みから生まれてきたのですよ。
人は自然を見て、美しいと言いますね。その自然も、性の営みによって生まれています。植物にも雄しべと雌しべがあり、それが交わることによって次の世代につながるのです。それはきれいごとでしょうか。

としみちゃん:
うーん・・・人はそういう考えでは行為をしていないんじゃないかなって思うんです。それは自分の考えですけど。

いさどん:
実際そうですよ。では、みんなに聞いてみましょう。交わることを神聖な行為として受け止めている人はいますか?
(2名が手を挙げる。)
では、実際に自分はそれを神聖なものとして行っている、という人はいますか?
(誰も手を上げない。)

「世界観を広げよう」の講座で、この世界は間違いから生まれているということを伝えましたね。そして、今の時代は混乱のピークにあることをお話ししました。その混乱の一番の原因は、性の間違いから来ています。性の間違いが正されると、この世界はすべてが美しくなります。
カタカムナは、表では宇宙物理を説いています。表は陽の世界です。しかしその元は、陽を支える陰の世界にあります。陰とは、霊です。見えない世界です。その見えない世界が先にあり、それが元となり、この世界が表現されているのです。「健全なる肉体に健全なる精神が宿る」と言いますが、真実は「健全なる精神に健全なる肉体が宿る」のです。
性の話も同じです。健全なるセックスに、健全なる子が宿ります。それでもあなたは疑いますか?

としみちゃん:
言葉ではわかるんですけど、心の中は「う~ん」という感じです。

正直に自分の想いを出すことで皆に学びを提供しているとしみちゃん
正直に自分の想いを出すことで皆に学びを提供しているとしみちゃん

いさどん:
あなたのその状態に付き合っていると時間はかかるし、面倒ですね。結局は、あなたがあなたの色をどうするかです。1ヶ月間どんなに勉強したとしても、自分の中の固定概念をとらない限り、あなたはいつまでも同じ位置にいることになります。そこを超えて、自らをフリーにして受け取ろうという姿勢になった時に、あなたは新たな世界を生きることになるのです。そこでいつまでも「う~ん」と疑っていると、相変わらず同じ人生を生きることになります。その決断をどうするのかは僕の範疇ではありません。それはあなたの意志の範疇であり、皆さん一人ひとりの意志の範疇です。

地球は円ではなく、球

いさどん:
自分の中に「これが絶対だ」というものを持っている人は進歩しません。宇宙は常に瞬間瞬間変化変容をくり返しながら、常に先へ先へと、未知なる未来へ進み続けているのですよ。

みかこ:
カタカムナはこの世界の成り立ちを表すもので、それはとてつもなく広いものです。例えば地球をいろんな側面から立体的に見たら球だけど、一カ所だけから見たら円に見えるよね。その時に、いくら地球は球なんですよと説明をしても、「私からは円にしか見えないからそれはおかしい」というようでは、そこで話は終わってしまう。そこで地球が円にしか見えないのは、自分の立ち位置が固定されていて、そこからしか見ていないからなんだよ。

いさどん:
地球は球ですが、それを紙という二次元の上で表せば円になります。現代の私たちの思考は、二元的発想に囚われています。八鏡文字は宇宙の成り立ちを二元で表していますが、これは実際は、球なんです。

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このボールは、ここで作ったものです。これは宇宙の成り立ちの仕組みを立体で表していますが、これを二元で表現すると八鏡文字のような図になります。それが間違いの始まりです。立体のものを二元に置き換えて、伝わるわけがないのです。
もっとも、このボールも単なる球体の模型です。最終的には、「この世界はこうなっているんだ」ということを自分自身の中で描ける人にならなければ、いくら僕が語ったところで「でも私から見ると円だ」と言い続けることになるのです。
それでは進化しません。宇宙を生きるとは、常に無の状態で新たな認識へと自らをいざなっていくことです。少しでもカタカムナが理解できると、それを糸口として、だんだんその意味がわかってきます。

めぐちゃん:
昨日、カタカムナの講座を受けるにあたり、自分自身の認識について考えていました。さっき、現代人は大脳思考という話がありましたけど、大脳思考の人間が発している言葉というのは音の一音一音が粒子的で、いろんな種類の粒子の組み合わせでひとつの意味を持っている。でもこの宇宙の物質には粒子性と波動性の両方があり、カタカムナ的解釈のできる人々は、粒子性と同時に波動性を認識する能力を持っている。この世界にはいろんな波動の発生源があって、その波が互いに相互作用して波模様として表現されているけれど、そういった波動的なものが現代人にはなかなか認識できないんじゃないかと思うんです。でも木の花ファミリーでは各メンバーの人たちがそれぞれ個性的な波動の発生源になっていて、そこから発される波模様が干渉しあって調和的な波紋をつくり、発生源の位置や強さによって波模様が常に変化している。昔、直観を主体として生きていたカタカムナの人々は、そういった感覚を持っていたのかな、と思いました。

元光学エンジニアならではの見地から解析をするめぐちゃん
物理畑出身ならではの見地から解析をするめぐちゃん

いさどん:
そうです。今めぐちゃんが話したことというのは、日常話される会話からするとちんぷんかんぷんでしょう?通常、今のような会話は生活の中ではあまり語られない話です。彼女は物理学を勉強してきたから、その切り口から話をしていました。それが人それぞれのこの世界を測る尺度なんです。
僕はカタカムナを学んできたから彼女の言うことはわかりますが、物理学を学ばずにカタカムナに出会った人は、そのような切り口から解釈することはできません。同時に、物理学の切り口からカタカムナを見るとある段階までは理解できますが、その切り口からだけでは限界があるのです。ですからそこに囚われると、その解釈では行き詰まることとなります。
めぐちゃんは物理学の切り口から世界の成り立ちを解析し、成り立ちの関係性を解析し、それが人と人との関係の中にもあるのだということを語りましたね。

めぐちゃん:
私も大脳的思考じゃなく、松果体的思考の大切さを感じています。

いさどん:
だからあなたはここに出会い、共鳴したのでしょう。生きるとはそういったことの連続です。僕は初めてカタカムナに出会った時に、これは今まで我々が生きてきた生き方を物理的に立証するものだということを直観で感じました。
直観の大切さを、我々はカタカムナから学んだわけではありません。もともとここにあった生き方の中でそのことを理解してきて、そしてカタカムナに出会い、同じことを言っているね、となっただけなのです。それは何かを学んで解釈したものをやってきた結果ではなく、まったく無色の状態で未知の道を歩んできた結果出会い、今の状態に至ったのです。そういった人の解釈を超えたところでの出会いは、とても大事なものです。
これを切り口として新たな時代の可能性は広がっていきますから、これが絶対だというわけではありません。今はまだ2000年代が始まったばかりで、3000年に向かってこれから1000年をかけてこの流れが仕上がっていくのですから、今はまだ始まったばかりです。

さて、それでは休憩に入りましょう。その前に何か質問はありますか?あっこちゃんはどう?

あっこちゃん:
まだよくわからないです。

いさどん:
大丈夫だよ。ずっとわからないから。(みんな:笑)。

あっこちゃん:
具体的にはならないんですか?

いさどん:
具体的になりますよ。ただ、なるまで我慢できるかどうかです(笑)。

あっこちゃん:
じゃあ我慢します。(みんな:笑)

我慢して聞き続けてみよう
我慢して聞き続けてみよう

いさどん:
今日の6時間で理解できるかどうかは、皆さん次第です。これまで積み重ねてきた心のクセが多ければ多いほど、難しいかもしれません。

 

 


4日目午後「続・世界観を広げよう」~21世紀をどう生きる?

前回、大人ミーティングの時間を使っても終えることのできなかった『世界観を広げよう』。スケジュールを変更し、本日午後、続きの時間を持ちました。第1部から第3部までは、この世界の仕組みとこれまでの人類の歩み、そしてその結果現代社会にどのような問題が起きているのかを見ていきました。そして、大切なのはここから!第4部では、それを受けて、私たちは現代をどう生きていくのかということについて深めます。(前回までの内容はこちら♪)

以下、講座のスライドをご覧ください。

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2日目午後「世界観を広げよう」~固くなったものをやわらかく

午前中の『木の花ファミリー総合プレゼンテーション』に続いて、午後の講座は『世界観を広げよう』。
「わからないことを提供していきます」という初日の挨拶の通り、固定概念の枠を超える情報の洪水に「頭が噴火しそう」と受講生のとしみちゃん。

休憩時間に倒れこむけーごくん
休憩時間に倒れこむけーごくん

それでもけーごくん曰く、「今まで何度かここで世界観のプレゼンを聞いてきたけど、今日が一番深く理解できた」。
それぞれに「何か」を探し求めてやってきた受講生たちの間から次々と質問が飛び出し、講座はとても活気のある場になっています。「脱線の中に真実あり」。そう、質問によって新たなものが引き出され、どんどん脱線して話の幅がぐんと広がることで、思いがけず宇宙の真理に出会ったりするのです。

子どもの時に星空のあまりの美しさに魅せられ、ずっと宇宙のことをもっと知りたいと思ってきためぐちゃん
子どもの時に星空のあまりの美しさに魅せられ、宇宙物理学の道へ進みながら自分が本当に知りたいことは何なのかを探し求めてきためぐちゃん
みんな熱心にメモをとっています
熱心にメモをとり続けます

講座の冒頭、いさどんはこう語りました。
「今、地球は狭くなりました。19世紀までは地球を1周するのは大変なことでしたが、今は無給油で地球を1周する乗り物もできました。それだけ世界を認識できるようになったということですが、逆に、人間の個々の価値観は狭くなりました。そこで広い意識を持ち、世界観を広げることによって、固くなったものをやわらかくしていきます。」

やわらかいいさどん
やわらかいいさどん

それでは、頭の中を白紙にしてお付き合いください。

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いさどんは語ります。
「時代は、生きものです。その中で私たちは、『時の旅人』です。これはどんなに拒否しても、乗車拒否することはできません。死ぬとできるだろうかというと、死んでもできません。我々が存在している限り、この『時』という乗り物に乗っているということです。
私たちは肉体という器を持ち、そこに縁ある魂が乗って、人生という旅をしています。そこで同時に、時という乗り物にも乗っています。一定の時間を過ごし、寿命が来ればみんな死にますね。私たちが死んだ後も、時代は動き続けています。ですからもしも生まれ変わるとしたら、それだけ時代が進んだ先に生まれるのです。そのように人間は、生まれては死ぬことをくり返しています。これを輪廻と言います。人間が生きている時も、死んでいる時も、時は同じように進んでいます。」

「私たちが生きている時、肉体は変化します。それは手に触れ、つかむこともできます。しかし魂は、つかむことはできません。魂は死ぬこともありません。たとえば、(受講生の)よしこちゃんがよしこちゃんであり続けるのは、『よしこ』というプログラムになっているからです。そのプログラムが変わると、もしかすると『わるこ』ちゃんになるかもしれません(笑)。前の人生では別のプログラムを持っていて、その結果として、今世のよしこちゃんがあるのです。そしてこの先、さらによしこちゃんになるのか、或いはわるこちゃんになるのかは、今の生き方にかかっています。」

はたしてさらによしこになるのか、わるこになるのか?
はたしてさらによしこになるのか、わるこになるのか!?

「現象世界には、永遠はありません。しかし、現象の奥にあるものというのは物質ではありませんから、そのプログラムが成立している限り、物語として続いていきます。
今は西暦2017年ですが、僕はよく、3000年までのプログラムが始まったと言います。『西暦3000年なんて私は生きていないから関係ないわ』と思うでしょう?でも実は、そのスケールのサイクルでものごとを捉えている人には、関係があるのです。よく、人々がわかりやすいように『皆さんの子孫のために』と言いますが、それは実は自分自身のためなんですよ。今あなたがその魂で成立しているということは、過去にその魂で生まれてくるような生き方をした結果であり、ひとつの物語としてずっとつながっているのです。」

今現在も、私たちは地球に乗って秒速30kmというスピードで宇宙空間を移動し続けています。自転しながら、公転しながら、歳差運動しながら、微振動しながら移動し続ける地球の動きをいさどんは地球儀ボールを使って解説。こんなに複雑な動きをしながら地球は宇宙を移動し続けており、その動きによって地球上に1日や四季がもたらされ、その中で私たちは生きているのです。

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ここからさらに、話はどんどん深まっていきます。
星の動きと人類の歴史や個人の人生がいかに連動しているかということ、時代と共に北極星は移り変わっており、今絶対と思っているものも変化していくということ、私たちはそもそも「間違い」から生まれているということ、欠けているからこそ存在しているのであり、存在するためには欠けていなければいけないということ、欠けていることを認識するために生きていて、それを認識できるだけの特別な能力を人間は与えられているということ、紙の発明以来人間は平面でものごとを捉えるようになり、良いか悪いか、損か得かという二元思考が生まれたこと、人間の思考が鈍くなったのは余分なことを考えるようになったからであり、その余分を取り除けば自分の中から宇宙の真理が無限に湧き出してくるようになること ──── 等々。
とてもここには書ききれません(*_*)以下、スライドをご紹介しますので、どうぞご覧ください。さらに深く学びたい方は、ぜひ来年の真学校へお越しください♪

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受講生との活発なやり取りで話はどんどんふくらみ、講座時間内に終わり切らなかったため、続きは夜の大人ミーティングに突入。

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大人ミーティングで講座の続きをスタート

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・・・大人ミーティングでも終わりませんでした。

今後は情報量を調整します、と反省を語るいさどんとみかちゃん
今後は情報量を調整します、と反省を語るいさどんとみかちゃん

一コマの講座でこれだけの情報量を消化するのは、そもそもムリ。が、しかし、どれも重要な内容であることには変わりありません。
そこで!スケジュールを変更し、明後日の午後に続きをやることになりました。ここまでは、過去の人類の歩みや現代社会の実態などを見てきましたが、ここからは、その現代を私たちはどう生きていくのか、という内容に入ります。

今、社会の現状を分析して何が問題なのかを語る人は多くいますが、ではそこから実際にどう生きていくのかという代替案に出会うことはなかなかありません。けれども、大切なのはそこからなのです。

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それでは、どうぞ明後日の講座をお楽しみに!

物語は、つづく。