知識として学習しても 人間性は変わらない

2月25日の開講から、間もなく2週間。真学校前半最終日の今日は、講座開始前にある出来事がありました。

今年の真学校は、受講生からも積極的な発言があり、講座中はとても賑やかです。でも、発言しているのはほとんど、前の方に座っている受講生だけ。いつの間にか受講生の席も固定化されて、毎日同じ席に同じ人が座るようになり、発言もほとんど同じ人たちがするようになっていました。
そして今朝、いつも後ろの方に座っていたジョイが、最前列の端の席に座りました。すると後からやって来たかくちゃんが、そこはいつも自分が座っている席だからどいてほしい、と言ったのです。かくちゃんが「私は目が悪いので、一番前の席でないとスクリーンが見えない」と言うので、他の人が「では、一番前の他の席に座ったらどう?」と言うと、「他の席だとホワイトボードから遠くなってホワイトボードが見えなくなるから、この端の席でないとダメ」とかくちゃん。
そのやり取りを聞いていたいさどんは、「あのね、肉体の目が見えなければ、心の目で見ることもできるんだよ」と伝えましたが、かくちゃんは頑として譲りません。結局ジョイは、最前列の他の席に座ることになりました。

そして講座開始の時間になり、いさどんが話し始めました。

今日初めて、一番前の席に座ったジョイ(右)
今日初めて、一番前の席に座ったジョイ(右)

 
いさどん:
僕は昨日、ジョイさんと面談をしました。そして彼に、ある提案をしました。

あなたは、自分の殻を破らないから、道が開かれません。これからも、あなたは人生の中でたくさんの課題に出会うことでしょう。それはあなたの人生ですから、あなた自身が乗り越えていくものです。今までの人生で道が開かれなかったとしたら、それを切り開いていく力を身に付けなければなりません。
しかし、今のあなたの姿勢のままで生きていくとしたら、これからも人生の道は開かれないでしょう。今、自分の中に在るものを外に出さなければ、新しいものは入って来ないのです。

多くの人々は、何か新しいものを知識として勉強し、それを覚えれば、自分の人間性が変わると思っています。しかし本当は、新しいものが自分の中に入ってきたら、それを知識として覚えるのではなく、腹に落とさなければいけないのです。腹に落ちると、それは腹から自ずと湧き出てくるようになります。そしてそれが、自らの新しい考えになるのです。腹に落ちるとは、そういうことです。

そこで僕は、彼に提案をしました。
あなたは知識を聞いて学ぼうと思い、情報を得ています。情報を、知識として得ている状態の人は、それが腹には入っていきませんから、どれだけ情報を得たとしても、その先も自分自身が変化することはありません。そこで、あなたはいつも後ろの方に座っていますが、これからは前に座り、発言をするようにしてください ────
そうすることで、ジョイさんが変化していくことを提案したのです。

他にも、自分の中に在るものを出さない人がいますね。しかし、その中の一人が前に来て、出すようになると、ここ全体の空気が少し変わります。物事が動きだします。そして、「変わる」ということは、宇宙の法則なのです。
ジョイさんには、昨日そういう話をする機会がありました。そしてここ全体の空気を変えるためにも、あなたは前に来てくださいという提案をしました。それはジョイさんのためであり、全体の空気を変えるという、全体のためでもあります。そして、それによって何か新しい空気がそこに発生するだろう、という予測をしていました。

これまで、いろんな学びをお話ししてきましたが、常に語っていることは同じです。私たちの生きる宇宙は、調和し、循環しています。調和し、循環しているということは、一つひとつのものが役割を果たすことによって、全体が回っているということです。その連鎖によって全体が運営され、また、全体が循環することによって、ひとつのものが生かされるのです。
ですから、この世界で大切なことは、「利他」ということです。他者のために自分がいる。それを利他と言います。それが、自分がこの世界で命をいただくことの原則です。

しかし今、この世界にはそれが欠けているから、皆さんにこの話をしています。何が言いたいかおわかりでしょう。自分のことを最優先する人は、人が変わりません。自分を犠牲にしてでも他者のために生きるからこそ、その人の人生は美しくなるのです。
自分を犠牲にするなんて、かわいそうなことのように思えるでしょうか。しかし、自分を犠牲にすると言うことは、自分を手放すということです。そうすると、天がその人を活かしてくれます。これが尊い生き方です。

そんなことはこれまでも、宗教や道徳など、いろいろな場所で語られてきました。小学生でも学んでいます。しかしそれは、学習という、知識としての学びなのです。ですから世の中に、そういったことを本当に理解している人はほとんどいません。それは、頭を回転させる学びだからです。自分のことを優先し、損得を計算するための学びになっているのです。
しかし本来学びとは、腹に落とす必要があります。腹に落ちれば、人は皆、良心というものを持っています。良心は、自らの価値を高めるためにあるものです。腹に落ちれば、良心を元にして、自らの考えや行動が湧いてきます。
自分の考えを正しいとして歩み、知識を得て得をしようとすれば、それは愚かな人間を創り、愚かな社会を創ります。皆さんがこの1ヶ月間を通して、最終的に何を持って帰るかは、それぞれの自由です。しかしその結果は、その先の皆さんの人生に反映されていきます。これは、伝える僕の話ではなく、皆さん自身の価値の話なのです。

ちょうど今日、真学校の前半が終わります。いい区切りの時だと思います。何でもそうですが、私たちはこの世界に生かされているのですから、どんな時にも「頂きます」という精神で生きていくことが、正しいことを身に付け、価値あるものとして生きていくことになるのです。

この学びを、本物にして帰ってください。

 

 


当たり前の仕組み・お財布ひとつの経済

1ヶ月間の真学校・第11日目の講座は「経済革命」。お財布ひとつで暮らす木の花の経済を事例として、21世紀の経済のあり方を探求します。
講座冒頭、「話すことが湧き上がってきて噴火しそう」と、いさどん。さて、どんな話が出てくるのでしょう?

「経済革命」講座用プレゼンテーションの表紙
「経済革命」の講座用プレゼンテーション表紙

いさどん:
今日は、木の花の不思議の一つ、経済についてお話しします。
(スクリーンに映し出されたプレゼンテーション表紙のスライドを見ながら)きれいな写真ですね。これは、いさどんが担当している木の花の蓮池の写真です。

今、世界の国々は、経済について一番興味を持っています。経済と言えば、世界にはタックスヘイブン(租税回避地)という不思議なところがあり、アングラマネーが世界中に横行しています。アングラマネーとは、通常の経済の表面には現れない、裏に回ってしまったお金です。今、世界のお金の動きはマネーゲームのようになっています。現在、世界で取り引きされるお金のうち、実際に物やサービスを提供することによって発生する実体経済の占める割合はわずか1%とも言われています。その他はすべて、株式や外国為替取引のような実体を伴わないコンピューター上でのやり取りです。
そして現代の人々は、お金に追われ、お金を求めることによって豊かさを探求しています。お金が豊かさを与えてくれると思っているのです。
そもそも、お金とは何だと思いますか?

シャオラー:
物と物を交換するための道具です。

いさどん:
そうですね。物と物を交換する時に便利だから、お金を使います。言い換えると、物の流通を円滑にするためということです。では、本来お金は世の中にどんなものをもたらすものでしょうか?

シャオラー:
公平に交換できるようにする。

いさどん:
公平に交換するということは、どういうことですか?

なかのん:
隅々まで行きわたらせる。

いさどん:
隅々まで行きわたらせ、循環させる。そういった状態のことを、何と言いますか? ──── そう、健康です。お金は本来、世の中を健康にするものなのです。
さて、お金は隅々まで公平に行きわたることで、世の中に健康をもたらすものですが、それと同じ働きをするものが、私たちの体の中にもあります。さぁ、何でしょうか?

レイチェル:
血液!

いさどん:
ピンポンピンポーン♪血液には、心臓というポンプがあります。これは人間の社会で言うと、中央銀行のようなものです。それが社会へお金を送り出すのです。送り出されたお金は、社会全体の必要なところに必要な分ずつ、くまなく行きわたり、全体が循環している。それがお金の働きで、社会を健康にします。それと同じ機能が、私たちの体の中の、血液の働きです。心臓のポンプから送り出された血液が、必用なところへ必要な分量ずつ平等に行きわたり、体の各機能が健全に働いて全体が循環すれば、私たちは健康でいられます。
その血液の流れがどこかで滞ると、どうなりますか?

こうたろう:
病気になる。

いさどん:
そうです。血液が滞れば、私たちの体は病気になります。そしてお金が滞れば、社会が病気になります。
さて、ではもう少し視野を広げてみましょう。人間の体を循環して健康にさせるのは血液ですね。そして社会を循環して健康にするのはお金です。では、地球の血液の働きをするものは、何でしょうか?

クワン:
水!

いさどん:
そうです。水です。水よりちょっとゆるい循環になりますが、大気もそうです。皆に平等に行きわたります。さてそれでは、さらに視野を広げましょう!太陽系の血液は、何だと思いますか?

レイチェル:
光。

いさどん:
なるほど、光でもいいですね。では答えの中に光も入れましょう。もう一つあります。それは太陽磁場です。太陽の磁場が届いているところが太陽圏なのです。銀河系の血液も磁場です。
さぁ、それでは、宇宙全体の血液は何でしょうか?

ゲェウ:
時間ですか?

いさどん:
実は宇宙には時間のないところがあるのですよ。銀河が変わると時間も変わる可能性があります。宇宙はとても大きなものですが、その宇宙の血液は、なんと私たちも持っているものなんですよ。

クワン:
エネルギー?

いさどん:
エネルギーは無いところとあるところがあり、全体に平等にとはいかないですね。

ようたろう:
意識?

いさどん:
そうとも言えますが ──── 正解は、スピリットです。宇宙はひとつのスピリットのもとに、すべてが循環しています。宇宙のスピリットとは、簡単に言えば、神様の心です。

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いさどん:
私たちの体、社会、地球、太陽系、銀河、そして宇宙。それぞれに、全体を循環する血液の役割を果たすものがあります。さてそれでは、こういったものが存在する目的は何でしょうか?

ゲェウ:
生きるため。

いさどん:
なるほど。そうでもありますが、もっと簡単なことですよ。

こうたろう:
健康になるため?

いさどん:
健康のもとです。それは、その世界をひとつにつなぐ、ということです。全体を循環することで、全体をひとつにするのです。これが大事です。ここを通らなければ、木の花の経済は語れないのです。

経済とは、お金の流れです。では、木の花の中でお金の流れはどうなっているでしょう。
木の花の中のお金は、ひとつです。皆さんの会社や家庭の中で、お金はひとつではないでしょう?でも木の花では、お金はひとつなのです。みんなでひとつの財布です。つまり木の花の経済は、私たちの体や地球、太陽系、銀河、宇宙の仕組みと同じなのです。それはこの世界の仕組みそのものですから、当たり前のことですね。ところが、この当たり前のことが今の人間社会にはできないのです。
僕はいろいろなエコビレッジなどに招待されて行くことがありますが、皆さんのところではお財布はひとつですか、と聞くと、そうではありませんね。たった「財布ひとつ」ができない。なぜだかわかりますか。それはスピリット、つまり、心がひとつではないからです。

木の花の経済は「財布ひとつ」ですが、それを循環させる心臓の役割を今日は連れてきました。

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いさどん:
経理のなかのんです。木の花の心臓です。よろしくお願いします。

(みんな拍手!)

みかこ:
金は天下の回り物、と言いますね。

いさどん:
おもしろいですね。「天下」とは天の下、つまり地上のことですね。
木の花の経済は「目から鱗」と言いますが、実は当たり前のことです。天の恵みを世の中に広げる、天然循環経済。その基本が、財布ひとつということです。
財布ひとつと言うと、みんなびっくりします。でも、地球の水はひとつですよね。液体だったり個体だったり気体だったりしますが、それは循環しているだけで、ひとつです。空気もひとつですね。今私たちは、ひとつの空気を共有しているじゃないですか。これはみんなの中を循環し、みんなを健康にするものです。そしてこの世界をひとつにします。お金もそうでなければなりません。それは、私たちの体を流れる血液と同じなのです。

もしも皆さんの会社や所属する組織がお財布ひとつだったら、とても便利がいいですよ。自分の貯金なんて確保しなくていいのです。お金が必要になった時に、お財布の中身が足りない、どうしようなんて考えなくても、全体のお財布から持ってくればいいのです。その代わり、自分が日々働くことは全体のためであり、お金も全体に入ります。自分は全体のために働き、自分が何かを必要になった時は全体から供給されます。ということは、自分のためだけに、なんて考えなくてもいいのです。とても楽だと思いませんか?とても楽で理に適った当たり前のことですが、それを聞いてみんな驚くのです。

でも皆さんは、そんな世界を求めているのではありませんか?

 

 


ジオセントリックからヘリオセントリックへ ~「己読み」を学ぶ意味

「人格を学ぶ講座3」は、いよいよ地球暦を使った「己読み(こよみ)」に入ります。
「己読み」とは、太陽系の惑星配置を通してその人の天命を読み解くものです。なぜこれを学ぶことが大切なのか。その意味を、いさどんが語りました。

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いさどん:
おはようございます。いさどんでございます。毎日いさどんです。
今日は、地球暦というものについて、いろいろな情報を学びます。

「地球暦」ですから、暦のことです。宇宙の構造をだんだん正確に知っていくにつれて、宇宙はいろいろな星と星が対話しながら成り立っているということがわかってきました。それは、私たちがこの地球で生きている姿と同じです。私たちは地球で、時と空間を共有し、地球と共に宇宙を旅しています。
私たちは生きて、宇宙を旅していますが、それを私たち一人ひとりが自分の意志でコントロールすることはできません。ちょっと皆さん、宇宙空間に、自転しながら公転し、太陽と共に旅をしている地球の映像を思い浮かべてください。そしてその上に存在する、私たち人間の姿を思い浮かべてください。私たちの姿は、想像できないでしょう?何故なら私たちは、その小さな地球にへばりついている、微生物のようなものだからです。
そのたった1個の微生物である私たち一人ひとりは、地球という天体、或いは太陽と惑星の天体群に対して、どれだけの影響を与えられるでしょう。能力としては、何もできない状態です。私たちの体の中にはたくさんの微生物がいますが、その微生物の1つが、私たちに何か影響を与えているとは思えませんね。そして私たちも、自分の体内の微生物に対して、何か会話をして連携を取るということはしていません。
ですが、食についての講座では、その微生物の働きについて学びます。微生物は、実は私たちの体の健康をコントロールしてくれています。宇宙空間を旅している小さな星と、その星にへばりついている微生物一つひとつの関係も同じです。微生物と星の関係は、とても密接に結びついて、共に旅をしています。つまり、あなたの健康が、地球の健康になっているということです。おなかの中の微生物の状態が健全ならば私たちが健康であるように、同じことが地球と私たちの関係にも言えるのです。
それは、広い世界観を持っているからこそ分かることです。それが私たちが日々暮らしているこの自然生態系の姿です。

ところがですよ。私たち人間一人ひとりは、そんな意識を持っているでしょうか。持っていませんね、人間以外の動植物もそんな意識は持っていませんが、動植物は自然生態系の仕組みの中にきっちりとはめ込まれて、そこから外れることはありません。それは、自我を持たない状態です。自我を持たず、自然のままに生きています。その状態は、人間が自我を超越し、高く優れた精神状態に至った時の姿と同じです。
ある意味、人間は自我を持つことにより、自らの立場や役割を忘れて、精神状態が低くなっているということが言えます。大切な役割を失っている状態です。

その話を聞いても、私には関係ないと思っている人が世の中ではほとんどでしょうか。それは本当は罪なことです。私たちを生かしてくれている、そしてその体と一緒に旅している地球に対して、罪を犯しています。ですから、真学校の始まりの時に、いさどんは小劇場をやりましたね。

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*真学校第1日目の挨拶「これ以上、皆さんを前に進めさせません」より

ちょっといさどんは、人間たちに怒りがあります。それは人間に対してというよりも、自分に対する決意でもあります。自分も人間ですから、自分にも責任があるということです。この大切な人間の持つべき自覚、それを人々に伝えていく。それが、この道を歩み始めてからのいさどんの人生の目的です。
地球暦を学ぶということは、地球が中心にあり、その周りを他の星々が周っているかのような自己中心的なこれまでの捉え方ではなく、天体は皆力を合わせ、対話し、共に宇宙を旅していることを学ぶ、ということです。それは、地球生態系の中で私たちが他者によって生かされながら、同時に他者に対して役割を果たし貢献しているのと同じ仕組みです。私たちの体も、そのような仕組みで成り立っています。
これまでの捉え方を、ジオセントリック(地球中心)と言います。それは自己中心的なものの見方で、人々は自分の都合のいいように人生を歩み、世界に不調和をもたらしてきました。これから学ぶのは、ヘリオセントリック(太陽中心)という宇宙の捉え方です。天体たちは太陽に心を向け、互いに対話しながら、調和し、共に宇宙を旅しています。その視点を持たなければ、私たちは、地球に平和をもたらすものにはなれないのです。

調和するとは、他者を尊重し、そして自らを生かすことです。21世紀の始まりにあたり、私たち人類はまだまだ、20世紀型の自我を優先した不調和の中に生きています。ですが、時代はヘリオセントリックの調和の姿のように、私たちを新しい世界へといざなっているのです。その宇宙のメッセージを早く受け取った者たちは、今の社会に先駆けてそこに目覚め、世の中を良くするために自らの意識を高める、という動きをします。そのような、高く、優れた視点を持つことが、私たち自身の価値を高めることなのです。

そろそろ、お金やモノに豊かさを求めるのではなく、平和で調和した社会の中に豊かさを見出す時がやって来ました。そして私たちは、そういった世の中に対して役に立つために、しっかりとした意識を持って生きていくのです。そのような高い意識で他者に対して役立てる人生を生きた時、それは本当に豊かで、充実した人生になるのではないでしょうか。

皆さんはそのことについてどう思うのかという意味で、いさどんは皆さんに訴えたい。もうこれ以上今までのような人類の在り方で、皆さんを前へは進めさせません。ストップ!

 

 


地球が回っていることを、感じていますか?

1ヶ月間の真学校・第9日目。
「人格を学ぶ講座  基礎編-2」は、いさどんのこんな話から始まりました。

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いさどん:
おはようございます。
皆さん、地球が回っていることを、感じていますか?

僕は朝目が覚めて、「ああ、今日も朝が来たな」と思いました。昨日も朝が来ましたね。一昨日も来ました。この調子で行くと、明日も朝が来ます。いさどんの思考はユニークですから、変化するのも単調ではなく、いろいろあってもいいじゃないか、と思うのです。そうすると、この世界で一番単調なのは、時が刻まれていくようすです。

人はそれぞれの意識を持って、毎日時と付き合っています。自分の興味だけに没頭して生きている人は、時を感じることを忘れています。「もう一日たっちゃった」「忙しい」「まだ他にもやることがある」と言って、時のことを忘れて、忙しい状態にいるのです。
「忙しい」という字は、「心」を「亡」くす、と書きます。「忘れる」という字も、「心」を「亡」くすと書きます。「忙しい」とは、忙しくて時の経つのを忘れた ──── つまり、天の法則を忘れたということです。そして「忘れる」とは、人の心を忘れるということです。

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個人的な話をします。
僕は朝目が覚めると、「朝が来たな」ということを感じます。朝が来たということは、一日時が動いたということです。ではなぜ時が動いたのかと考えると、僕は、地球が回転している動きを感じるのです。その時に、「天と共に生きている」ということを思い出すのです。
天の心を亡くす、つまり、天とのコミュニケーションをなくすと、忙しい、スケジュールいっぱいの状態になります。それで、ああ、時が動いているな、時と共にあるな、ということを、何かのタイミングで思い出すのです。「思い出す」ということは忘れていたということです。それが元に戻るのです。

皆さん、時々、時が動いているということを思い出してください。スケジュールがいっぱいで忙しい時ほど、時が動いているんだな、ということを思い出してください。私たちがどんなに忙しくても、時は同じリズムを刻んでいきます。カッ、カッ、カッ、カッ・・・これは地球が回る音です。そして明日が来るのです。
どんなに大変なことが起きたとしても、その先に必ず、次の世界がめぐってきます。ですから、忙しくてどうしようもないとか、何か大変なことが起きてもう先がないと思うのは、人間の心です。どんなに自分が認められないことが起きたとしても、必ずそれを取り込んだ先の世界がやってくるのです。

この世界の現象のすべての中心を貫く柱、それを天之御中主(アマノミナカヌシ)と言います。その柱は一方通行です。
過去から未来へ一方通行に進むトキ軸によって、この世界は支えられています。時という柱があり、その法則の下に宇宙全体が動いているのです。そして銀河、太陽系、地球、私たち一人ひとり、その一つひとつを、アマノミナカヌシの分身であるアメノミナカヌシが貫いています。
しかし、人間は忙しいと、そのアメノミナカヌシの存在を忘れています。それは、天の心を忘れ、人間の心も忘れている状態です。だからこそ、時々、地球の動きを感じてみることが大事なのです。地球の動きを感じて、私たちは天と共にあり、生きることをいただいているのだ、というところに立ち返るのです。

忙しい状態で生きていると、心を忘れているわけですから、その結果起きてくる現象も、どこか的が外れたものになります。何かが狂ってくるのです。確実にそうなります。
一方、時の変化を感じ、天の心と人の心が連動していれば、そこで生きていることがうまくかみ合うようになります。木の花ファミリーは、目的を実現しようと努力をしたり、企んだり、こうなってほしいという願望を持つことはあまりありません。ただ、今あるがままを生きているだけですが、出来事や人との出会い、モノやお金の流れなどが、とてもうまいことかみ合っていきます。天の動きと人の動き、アマノミナカヌシとアメノミナカヌシ、それが一致していると、自然とそうなるのです。それは、駆け引きの必要のない世界です。何かを成し遂げようとするための努力は要りません。ただ、心を美しくするための努力をすれば、ことは自ずと流れるようになります。
私たちは、この世界と連動しています。何かしら自分の思惑と違うことを与えられた時、そのことの奥にある意味に気付いたなら、生きることはずっと深くなるのです。

これまでの講座で、現代の世界情勢を観てきました。今、世界は混乱しています。なぜ混乱しているかというと、新たな価値観に変わらなければいけない時に来ているということです。それは時代の要請でもあるのです。
時代が混乱している原因は、もう一つあります。人間の自我です。私たちは一人ひとり自我を持っています。その自我の側に偏っていることによって、世界に混乱が起き、私たち自身が変わらなければいけない時が来ています。
しかし、では人間の自我が悪いのかというと、それもまた時代の要請でもあるのです。時代が要請するということは、私たち人間もその中に共にあるのですから、自我の使い方が混乱を生む方向から、自我の使い方が世界の混乱を収めるという方向に、自らを切り替える時が来ているのです。私たち人間の持つ自我は、とても個性的で、多様性に富んでいます。それは植物や動物のような、単純なものではありません。そして多様性に富むからこそ、そのたくさんの自我たちが連動していないと、世界に混乱をもたらすのです。

この「人格を学ぶ講座」では、人格を学ぶ、つまり自我の中身を理解するということで、まず自分の自我がどういう形になっているかということを学びます。そして、ではどんな自我があるのかという多様性を今、学んでいます。
これは、とても愉快な世界です。何という多様性の世界でしょう。しかしその多様性ゆえに、お互いを理解し合えないと、その多様性が混乱のもとにもなります。一人ひとりの人間が、自分に意識が行きすぎると、自我が強くなります。そうすると天とのコミュニケーションを忘れ、忙しい、忙しい、と生きることになります。そして人の心を忘れることになるのです。ですから、私たちはもっと心に余裕を持たなければいけません。

どうぞ皆さん、時々、この地球の動きを感じてください。朝が来た、でもいいですし、夜が来た、でもいいです。その、一日の動きを感じてください。そうすると、「忙しい」とか「忘れる」のサイクルではなく、人は天と共に生きるサイクルに戻れるのです。

 

 


たくさんの人に明るい人生を与えてください ~ 私たちが「人格」を学ぶ意味

1ヶ月間の真学校・第8日目。
いよいよ、1ヶ月間の中でももっとも多くの時間をかけて学ぶ「人格を学ぶ講座」が始まりました。以下、講座開始にあたってのいさどんのお話をお届けします。

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いさどん:
新しい週が始まりました。先週1週間は、現代の世界情勢を知り、宇宙をカタカムナで分析するということをやりました。私たちはどういった時代に生き、その中でどのような個性を持ち、どう生きているのか。その結果、自分自身がどのような状態になっているのか。多くの人は、そのことを詳しくはわかっていません。

人生の波があるとしますね。ある人は、その波の中を泳いでいます。ある人は、波にのまれて溺れています。泳いでいるのは、自分の意志がはっきりして、人生を歩んでいるという意識のある人です。一方、人生の海で溺れている人もいます。それはあまり印象の良い人生ではないですね。もうひとつ、サーファーのようにその波を楽しんでいる人もいます。しかしその楽しんでいることが、良いことなのか悪いことなのかは、理解できていません。

人間は、自らの感情的な欲求を満たしてやることが幸せだと、勘違いしているところがあります。それが幸せだと思っていても、実は社会や、自分自身に対してさえも、良くない事をしている場合もあるのです。不幸だと思っていることが、実は今の社会の仕組みや今の時代を表していることもあります。ですから私たちは、自分のしていることがどのようなことなのかを、もっと大きな視点から観る必要があるのです。特に、溺れている人にとってそれは大切なことです。元気に生きている人たちにとっても大切です。なぜなら、その元気で幸せな暮らしが、世の中に悪い影響を及ぼしている可能性もあるからです。

今日から、「人格を学ぶ講座」に入ります。人格とは、皆さん一人ひとりの性格です。人間はそれぞれの人格によって物事を判断し、そして行動します。その行動の結果を受けて、喜んだり、悲しんだりするのですが、その受け取り方もそれぞれの人格によって変わります。皆さん一人ひとりの人格が、人生のすべてにおいて影響しているのです。

私たちは人生の中で様々な出来事に出会いますが、同じ出来事に出会っても、それに対する反応は人それぞれに違います。ところが人生を雑に生きている人は、みんな一緒だと思っています。そして自分の考えを正しいと思っている人は、人にそれを押し付けます。親が子どもにとか、先生が弟子にとか、政治家が国民にというように、いろいろな形があります。優れているとか、正しいという立場に立っている人ほど、そういうことをするのです。

人格を学ぶと、人間は一人ひとり違うことがわかってきます。私たち一人ひとりは地球の細胞であり、各細胞はパラボラアンテナでもあるのです。一人ひとりがそれぞれの独自の視点からこの世界を感じ、得たものを情報として社会に共有すると、社会はその多様性ある反応を分析し、結果としてみんなが喜ぶ世界になります。私たちはアンテナを張り、情報を集め、それぞれに得た情報を共有して、地球が健全になっていくために活かしていけるのです。

人間の体は、ネットワークです。このネットワークは、様々な機能が連携し、互いに情報交換しながら、人体というひとつの生命体を成立させています。そこでは細胞の一つひとつに魂があり、意志があり、それぞれに独立した自分のポジションで得た情報を互いに交換しながら、人体全体の健康を保っています。その姿は、地球生態系とまったく同じです。地球生態系が健全であるためには、私たち人間が、それぞれに違ったポジションで得た情報を互いに交換しながら、その情報を地球全体が健全になるように活かしていくのです。

そのためには、皆さん一人ひとりの人格の個性を理解することです。いろいろな人たちの情報を得て、それを正しく活かすと、社会が健全になります。そして、なぜ自分はこんな出来事に出会うのだろうかとこれまで疑問に思っていたことの、発生の仕組みが理解できると、一人ひとりも明るく健康になります。人は、暗くて物が見えないと不安になるのです。しかし、その問題が解決しなくても、どうしてそうなったのかがわかるだけで楽になるのです。

そんなことについて、この講座では学んでいきます。皆さん一人ひとりの現在の状態を明るく軽くすると同時に、これをしっかりマスターして、たくさんの人に明るい人生を与えてください。

 

 


ちょっとブレイク 〜 御神酒造り

1ヶ月間の真学校は、毎週土曜日がフリータイム。受講生は思い思いに1日を過ごし、外出する人もいれば、味噌仕込みや蕎麦打ち、お菓子作りなど、いくつかのフリープログラムの中から受講生同士で相談をして、やりたいものを選ぶこともできます。
今日は、やすえどんによる「御神酒造り」がありました。

微生物と対話する「御神酒造り」
微生物と対話する「御神酒造り」
やすえどん(右)と受講生のクワン
やすえどん(右)と受講生のクワン

以下、講師のやすえどんより ─────

 

御神酒造り

木の花ファミリーでは、手造りの御神酒を祭事や新月、満月の時に私達が恩恵に預かっている食べ物と共に、神に捧げ感謝して頂いています。お酒と言いましても、糖化醗酵中の甘酒状態のもので、栄養価に優れ「飲む点滴」とも言われています。
お酒には、何かしら皆んなの心を一つにする力がある事を感じ、御神酒造りの提案をさせて頂いたのですが、何と、日本、中国、台湾、タイ王国からの真学校生ほぼ全員の参加があり、この世界を元気にするカタカムナのウタヒを響かせながら、粛々と取り行うことが出来ました ♪

カタカムナ第63首を響かせながら御神酒を仕込む
カタカムナ第63首を響かせながら御神酒を仕込む

「固めの盃を交わす」と言う言葉がありますね。意味は、人と人との結びつきや約束事を確かにするために盃を取り交わして酒を飲む事とあります。目には見えない心のつながりをこうして紡いでいくのですね。又、御神酒は、神への捧げものであると同時に、身を清め神との一体感を高めるための飲み物でもあります。つまり、心を綺麗にしていく事が大切だと言うことですね。

お酒を造ることを「かむ(噛む)」と言います。
「かむ」→「かむす」→「かもす(醸す)」
「口噛みで酒をかむす」「酒を醸す」

日本列島での米の口噛み酒は、縄文時代後期以降であると考えられており、米などの穀物や芋、木ノ実などを口に入れて噛み、それを吐きだして溜めたものを放置して造るお酒のことを言います。大和(古代日本)や台湾では口噛み酒は神事の際にも造られており、原料を口で噛む人間として巫女や処女が選ばれていたと言います。中国ではこれを「米寄(ミィーチー)」と言ったそうです。
ちなみに、口を噛み噛みして動いたところを「こめかみ」と言うのですから、日本語に秘められている意味を知ると実に道理にかなっており面白いですね ♪

by やすえどん

 

天気が良かったので、御神酒を仕込む「本宅」まで歩いて行きました
天気が良かったので、御神酒を仕込む「本宅」まで歩いて行きました

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本宅の釜戸小屋にて、まずは「四拍手」で場を清めます
本宅の釜戸小屋にて、まずは「四拍手」で場を清めます

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富士浅間木の花祭りで世界中から届いた清水を注いでいきます
富士浅間木の花祭りに寄せられた世界中の清水と浅間大社の清水を注ぎます

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糀の投入
糀の投入

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今回の御神酒は黒米を使用
今回の御神酒は黒米を使用
一段落したところで、先に仕込んでおいた御神酒の試飲
一段落したところで、先に仕込んでおいた御神酒の試飲
カンパーイ♪
カンパーイ!
楽しかったね♪
楽しかったね♪

 


世界に新しい価値観をもたらすには まず自分を解放してあげなさい

今日の午前中は「人格を学ぶ講座・序章」の予定でしたが、まずは昨日終わることができなかった「カタカムナ2」のプレゼンテーションを終わらせ、それから「人格を学ぶ講座」に入ろうということになりました。ところが、話が深まる深まる。やっぱりカタカムナは終わらず、「人格を学ぶ講座」は次へと持ち越しになりました。その場の流れに沿いながら、行き先は天任せ。真学校のプログラムは常に流動的なのです。
さて、カタカムナの「ミノナライ」の解説中、「考える」ということについてこんな話がありました。

「ミノナライ」について語るいさどん
「ミノナライ」について語るいさどん

いさどん:
昨日、大人ミーティングでメンバーのじゅんぞうくんが僕に質問をしました。それに対して、僕は答えを言いませんでした。なぜなら、僕がすべてを答えてしまうと、じゅんぞうくんはその内容を覚え、それを手法として自分に取り入れようとするからです。そうすると、じゅんぞうくんはいさどんを先生にして、いさどんから正解をもらって、それをやっていればいいというだけの人になります。だから僕は彼の質問に答えませんでした。それによって彼には、考える機会が与えられました。考えることが大事なのです。

「カンガエル」をカタカムナでひも解いて観ましょう。
「カ」は宇宙の最極小微粒子。「ン」はそれを強める働きをします。そして「ガ」は「カ」に濁点が付いて濁ったもの ―――「我」です。「エ」は発生、「ル」は行為の継続を表します。つまり、「カンガエル」とは、新鮮な「カ」がどんどん湧き出してくることであり、それを「我」によって引き出そうとする力が発生するということです。
だからじゅんぞうくんに正解を与えてはいけないのです。彼が自分で考えて、引き出す。

なおやくん:
じゃあ、僕は昨日その後にじゅんぞうくんの質問に答えてしまったけど、あれではいけなかったんですね。

いさどん:
本当はよくないですが、答えを持っている人は言いたくなるものです。しかしその言いたくなる気持ちは、相手のためというより、「自分は答えを持っているぞ」ということが言いたいのです。相手のためなら、答えは言わないことです。そうすれば、彼は自分で道を切り開く人になります。
僕が皆さんに語ることは、「これが正しい」とか「これは間違っている」ということではありません。そういったものをすべて情報として提供し、それによって皆さん一人ひとりが自分の位置を知るということです。あなたは今、どこにいるのか。そして、その位置でいいのか。今の自分の位置が見えたなら、そこからどこを目指すのかは、あなた自身が考えるのです。僕がやっているのは、そういうことです。

人間は、自分の考えや経験を良いものにしたがります。それは、自分のやっていることは良いことであるとして自分の枠の中に収めることですから、それ以上成長しません。その枠を壊さなければ、人間は進歩しないのです。
「納得する」には2種類あります。一つは、自分の理解できる枠の中に収める納得。もうひとつは、「自分にわからないこともあるのだ」という、未知なるものを許容する納得。未知なるものを許していくと、自分は広がっていきます。しかし、枠の中にはめようとして収まらないから「納得できない」とするのは、その枠の中に自分を閉じ込めることになります。自分を広げようと思うなら、未知なるものに心を開いていくことです。

人間は考える生き物です。大切なのは、どちらの方向に考えるかということです。自分の考えに囚われる方向に考えるのか、自分の考えから自分を解放して、自由になる方向に考えるのか。

みかこ:
「カンガエル」とは、「ガ=我」「エ=発生」「ル=継続」ですから、「我」が発生し続けることであるとも言えます。「ガ」の濁点(=濁り)を取って「カンカエル」なら、濁りも歪みもない純粋なエネルギーである「カ」が発生し続けるということですから、これは美しい思考だとも言えますね。

しずかちゃん:
では先ほど言っていたのは、「カンガエル」ではなく「カンカエル」をしなさいということですか?

いさどん:
違います。それでは「ガ」が悪くて「カ」が良いという話になってしまいますが、私たちは我の世界に生きています。この世界は我の世界です。ですから、「ガ」が悪いということではなく、「カンガエル」の方向性が大事なのです。自分を高めて優れたものにしたり、汚れを取って美しくする方向へ考えるのか、それとも自分に囚われて損得勘定に走って、さらに自分を汚していくような方向に考えるのか。おなじ「カンガエル」でも方向が違います。そのことを知ることが大事なのです。
本当は、「カンカエル」であるべきです。しかしそうは言っても、私たちの思考は「カンガエル」なのです。なおやくんがなおやくんであるように、しずかちゃんがしずかちゃんであるように、誰もが自分という我を持っています。そこでその「ガ」が、どちらの方向に向いているか、ということなのです。

みかこ:
大事なのは、性質を知ることです。現象界から濁りを取ることはできない。そもそもの存在が、濁りや歪みから発生しているのだから。

イメージキャラクター「カンガエル」くん
イメージキャラクター「カンガエル」くん

いさどん:
今一度振り返って、皆さんにお話ししたいと思います。
真学校が始まったばかりの頃に、私たちは自我を持っています、ということをお話ししました。自我を持っている人は、自我の欲望を満たすことを幸せに感じます。そして自我の中には過去の経験や知識があり、それを正しいものとしたがります。そうすることで、人間は「これでいいのだ」という自信を持って生きていくことができるからです。それが人間を幸せに導いたり、正しいとされていた時代がありました。
しかし、それは自分という枠の中の価値観から観た満足の世界です。その状態では、その人は枠の中だけでしか思考していませんから、実はその枠の中に閉じ込められた不自由な状態です。矛盾しているでしょう?自分を不自由にすることが幸せだと思っているのです。

そこで、自分の考えを、たくさんある考えの中のひとつだとしておきましょう。ものごとの捉え方は人によって様々であり、自分の考えは全体の中の一つなのだと捉えた時に、自分の自我から離れた目線が持てるのです。それが客観性です。

簡単に言うと、自分を壊せということです。
もっと極端な言い方をすると、自分を否定しなさい、ということです。

自分を否定したら、何を元に考えればいいのでしょう?
今与えられた出来事や情報を、常に新鮮に自分の中に入れていきなさい。そうすると、常に新鮮な情報が自由に入ってきます。それを、過去や経験に囚われない今の自分の視点で観て、必要なものを選んでいきなさい。そうすると、現在の自分はそこに在りますが、それは常に変わり続ける自分です。これを自由と言います。

そう聞いても、人間にはそれぞれクセがあり、なかなか離れることができません。それは、これまでそういった考え方が主流となって世界が動いてきたからです。時代を観ても、国を見ても、政治や社会の在り方を観ても、すべてそうです。それが今、行き詰まりを迎えています。

私たちは、自分の自我を壊すことはなかなかできませんが、何か外の世界に疑問を感じて、今ここに集っています。新しい世界を観ようとしています。同時に、この社会に新しい価値観をもたらそうとしています。それができる人になるためには、まず、自分を解放してあげることです。

あなたが自分の中に「これが絶対に正しい」というものを持っていれば、それは他の人の「正しい」と対立することになります。あなたがどんなに優れていても、それが正しいと主張したら、自我に汚染されていることになります。それは、その「正しい」を理解できない自我を持っていると人との、対立を生むだけです。私たちは、自分の視点に囚われずに、情報として自分の視点を伝えあい、共有していく。そのことが大切なのです。

知意行一体の段階で、私たちにはもう一つコミュニケーションを取る場所があります。
私たちは、人間社会や自然と接し、感じて、いろいろなことを考えたり発信したりします。それは客観視点で捉えることができるものです。今までお話ししてきたのは、客観視点についてです。

そこでもう一つ、私たちにはどうすることもできない、見えない、捉えられない世界がありますね。宇宙です。宇宙が存在するから、この地球があって、人間社会があって、私たちがいるのです。そうすると、まず自分という主観があり、そしてこの世界や地球という客観があり、さらにその奥に、宇宙という「客観背後」があります。その客観背後の意志を感じ取るのです。

私たちは自分の人生を生きるものでもありますが、地球人でもあります。そして太陽系を構成するものでもあります。銀河を構成するものでもあれば、この全宇宙の意志と共に、宇宙を生きているものでもあります。

これまで人類は、20世紀までの時代を歩んできました。それは否定するものではありません。しかしそれは、私たちが歩んできた階段の、20世紀という段にしかすぎません。私たちは今、21世紀という段階に足をかけました。そしてこれからずっと先へと、その階段を昇っていくのです。もう、これまでの手法は変わらなければいけないのです。

 


「これ以上、皆さんを前に進めさせません」~ 2018年1ヶ月間の真学校 開講の挨拶

始まりました!1ヶ月間の真学校2018!

今回は、参加お申し込みが定員に達し受け付けを締め切った後にも「どうしても受講したい」というお申し込みがあり、最終的に16名が参加することになりました。16名中、日本人は4人。その他に、中国、台湾、香港、そしてタイと、アジア各地からの参加者がそろいました。21世紀は東洋の時代と言われますが、さて、どんな1ヶ月間となることでしょう!?

アジア各地から集った多彩な受講生たち
アジア各地から集った多彩な受講生たち

多彩な参加者に合わせ、プログラムも初の日・中・英3ヶ国語での提供となります。中国語の通訳は、中国人のしずかちゃんと、台湾人のなおやくんが、なんと1ヶ月間ボランティアで引き受けてくれることになりました。

「地球サポーター」を自認するしずかちゃん
「地球サポーター」を自認するしずかちゃん
ユーモアあふれる通訳で場を明るくしてくれるなおやくん
ユーモアあふれる通訳でみんなを和ませるなおやくん

真学校後半には、さらに二人のボランティア通訳さんが応援に駆けつけてくれます。その他にも、講座の資料などの膨大な量の翻訳を、国内外のたくさんの友人たちが引き受けてくれました。真学校で提供される世界観に共鳴するたくさんの人々のサポートによって、初めての3ヶ国語での講座提供が可能になったのでした。

受講生たちの参加理由は様々です。
「愛を学びたい」「新たな視点を得たい」「突破口を開きたい。一時的なものではなく、常に突破し続けるための動力源を得たい」「目覚めて、それをどう行動に現していくか」「良い生活とは何かを学び、調和のとれたコミュニティを築く」「心の重荷を手放したい」 ────
理由はそれぞれですが、現状を突破し、新しい世界に出会おうとしている意欲と探究心の強さは、不思議と一致しています。

中には、「いさどんの考えを知りたい」という受講生も。それを聞いたいさどんは、こう言いました。「僕の話していることは、僕の考えではありませんよ。僕は天のスピーカーです。そしてそこは、誰もがアクセスできるのです。」

以下、開講にあたってのいさどんの挨拶をご紹介します!

 

「これ以上、皆さんを前に進めさせません」
2018年1ヶ月間の真学校 開講の挨拶

私たちが毎日を生きると、いろいろな出来事に出会います。そして誰もが、一人ひとりオリジナルの人生を生きています。そしてその一人ひとりのオリジナルの人生は、この巨大な宇宙の中の出来事としてあるということが事実です。
毎日をどのような意識で生きるのか。それはそのまま、その人の人生に反映されます。それは宇宙の法則です。小さく、暗く、狭い意識の世界で生きることも、宇宙の現象のひとつです。広い視点を持ち、高く、明るく生きるのも、宇宙の中のひとつです。

人類が地球上に誕生してから、400万年が経ったと言います。その人類は今、地球上にこのような文明をつくっています。今の時代を良い時代と捉えるか、混乱して不幸な時代と捉えるかは、一人ひとりがこの世界をどう見ているかによって変わります。間違いないのは、今の社会をつくっている、その一人が自分だということです。
ある捉え方からすると、人間の営みは、この地球上の自然の仕組みを逸脱し、環境破壊などの様々な問題を引き起こしているとも言えます。しかし人間には、豊かで愛のあるとても素晴らしい世界を創る能力もあるのです。
皆さんは、いろいろな理由があってここに参加しました。そしてそのいろいろな理由が、今のこの地球上の社会をつくっています。そう捉えると、時代は私たちに、もうそろそろ生き方の方向を変えなさい、と言っているような気がしませんか。そして人間の生き方の方向が変わること ─────
それが、皆さん一人ひとりの人生が花開くことになるのです。

皆さんが幸せであることと、この世界に存在する人間以外の生き物が幸せであること、そして地球が健康であることは、一緒でなくてはなりません。さて、それではどう生きていったら、皆さんの心は晴れるのでしょう。一人ひとりがどう生きたかの結果が、地球の未来に現れてきます。
私たちは年齢も経歴も様々です。でもみんな一緒です。どういう意味かというと、「この時代を生きている」ということです。
皆さんは、この時代をどう生きて、どのように自らに価値をもたらすのか。一人ひとりがオリジナルですから、一人ひとり道は違いますが、この時代をどうするかということについては、私たちはひとつの答えを出すべきだと思うのです。

僕の目には、ある映像が浮かんでいます。ちょっと、今から小さな劇をしますね。

(そう言っていさどんは、後ろにあるドアの奥に隠れました。少し間をあけてドアから出てきたいさどんは、みんなの前に立ち、一人ひとりの顔を見渡した後、両手をガバッと大きく広げ、こう言いました。)

これ以上、行かせない。

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これ以上、皆さんを前に進めさせません。
これまでのような20世紀型の人間のわがままを、地球上にこれ以上広げない。

21世紀から30世紀にかけての人類の、優れた、尊い考えを持ち、地球上に生きていってもらいたい。そのように生きたならば、皆さん一人ひとりは尊い存在です。私たちはこの地球という星で、たくさんの生命と共に暮らしています。地球コミュニティとして、一緒に宇宙を旅しているのです。

すべてが家族です。宇宙には、天体という家族がいます。人類に、これ以上地球でわがままをすることを許しません!そうすれば、人間は地球のガン細胞ではなく、真に尊きものとして、共に宇宙を創造していく存在となることでしょう。

そんなことを、皆さんと一緒に1ヶ月間学んでいきたいと思います。

 

夜のウェルカムコンサートは大盛り上がり!新しい世界に出会う1ヶ月間の始まりです。
夜のウェルカムコンサートは大盛り上がり!新しい世界に出会う1ヶ月間の始まりです♪

 


27日目午前「心豊かに生きる」〜 1ヶ月間の真学校・最後の講座

毎日毎日新たな一日を迎え、日々変化し続けて、気が付けばあっという間の1ヶ月間。最後の講座で、いさどんは以下のように語りました。

 

心豊かに生きる
〜 すべてはあなたの手の中にある 〜

いさどん:
おはようございます。

今日は最後の講座です。真学校が終わったからといって、地球の回転が止まるわけではありません。なぜこの世界で、人は場所を特定して、そこにがんじがらめになっているのでしょう。僕にはそういう不自由感がいつもあります。

不自由というのは、人それぞれ持っています。なぜ毎日眠らなければいけないのか。昔、忙しく働いていた頃には、寝溜めができればいいなと思っていました。寝ている暇がない時には、例えば3日間起き続けて、その後3日間眠ればいいということができたら、その方が効率がいいでしょう?でも、そんなことはできません。

我々は生命として、お母さんの胎内で細胞分裂を始めます。最初に心臓ができて、その心臓が動き出して、最後には心停止になります。これが死です。その間、心臓が休むことはありますか?ないですね。休むということは、命が終わるということです。
私たちの命は、心臓と連動しています。「心臓」というように、「心」という字が使われているのがおもしろいですね。英語でも心臓は「Heart(心)」と言いますね。オランダ語はどうですか?

ニナ:
オランダ語でも、心臓という言葉には「心」という意味があります。

いさどん:
同じですね。共通しているということは、言葉が違っても人間の体の仕組みが同じだということを表しています。
私たちは心臓と共にあります。その心臓は、休むことがありません。私たちは例えば、疲れたら寝て休むこともありますし、例えば仕事でストレスが溜まったら美味しいものを食べるとか、好きなことをやるなど、目の前にあることから自分を遠ざけるという休み方もあります。ストレスが溜まるということは負荷がかかっているということですから、それを解消しなさいという指令が出ているのです。
呼吸はどうでしょう。僕が昔お風呂でいったいどのくらい呼吸を止められるだろうかと試していた時には、3分くらいでした。世界記録は6分ほどでしょうか。普通の人がいきなり始めたら、30秒で苦しくなるでしょう。いずれにしても、空気との循環は拒否することはできません。

僕は変な人ですから、それを不自由だと思っていました。呼吸を止められないなんて、まるで強制されているみたいで不自由じゃないかと思い、それじゃあ止めてみようと試していました。でもどんなに努力しても、たったの3分なのです。
生きているということは、不自由です。心臓がかわいそうだから休ませてあげたい、呼吸を好きなようにさせてあげたい、と思っても、特定のリズムから外れることはできません。眠ることをコントロールすることもできません。ではこの不自由感から解放されたいと思ったら、どうしたら達成できると思いますか?

ニナ:
死ぬこと。

いさどん:
そう。死ぬことです。僕はこう考えました。今自分が不自由なのは、この肉体の中に入っているからだ。そう感じた時点で、自分とこの体は別物なんです。もっと自由であっていい。でも現実には、この体と心の状態で自分は成立しています。

僕は30歳の12月26日から、天から思考が降りてくるようになりました。
19歳の時に、亡くなったおばあさんが僕の頭上に表れて、僕を守護するようになりました。そのおばあさんが、僕が30歳の時に、男の人に代わったのです。それがお釈迦様でした。(お釈迦様といさどんの物語については、いさどんブログ「木の花記~金神様の巻」をご覧ください。)お釈迦様が現れて1年ほど経った時に、「1000日の行をいたせ」という命が降りてきました。それが何なのかわからないので、毎日瞑想をすることにしました。1日も欠かしたことはありませんでした。どんなに忙しい時でも、当時は建築業をやっていて現場から帰れないような時もありましたが、そんな時でも埃だらけの現場の片隅で瞑想をしました。
そうしたら、瞑想を始めて1年ほど経った頃から、幽体離脱をするようになりました。部屋の角に自分が浮かんでいて、瞑想している自分を見ている。そんなことが起きるようになったのです。ある時、僕はお釈迦様に「私とあなたの関係はいったいどのようなものなのでしょうか」と聞きました。お釈迦様から道をいただくようになったばかりのころ、僕は本当に普通の人で、お釈迦様は「始めはそなたは私の赤子のようであった」と言いました。そして続けてこう言いました。「やがてそなたは、私の子どもとなった。そして弟子となった。そして今、そなたは自らを離れて自らを観るようになった。その目線は私と同じである。だからそなたは私の兄弟である。」
その状態になってから、僕は物事を観る時にお釈迦様に頼るのではなく、自ら判断をするようになりました。客観視点を持ったということです。

なぜこんな話をしたのかというと、「不自由だ」という想いが湧いたことにつながります。この枠はいったい何なんだろうと。その後、瞑想中に自分の体を抜け出して、地球からも飛び出して、宇宙から地球を観るという体験をしました。そして人間の行いによって蝕まれた部分がケロイドのように広がっている地球の姿を観て、このために生きなければいけない、と思いました。
肉体を持ったこの状態で生きるということは、様々な不自由があります。肉体の中に自らが封印されているということでもあり、縁があってこの形をとっていかなければいけないということです。
ここで皆さんに質問ですが、日ごろどんなことを「不自由」と感じますか?

めぐちゃん:
やりたいことがあるのに、おなかがすいてしまうとか。

いさどん:
それはありますね。やりたいことがあるのに、おなかがすいてご飯を食べなくちゃいけない。

めぐちゃん:
夜中に寒くてずっとお布団に入っていたいのに、なぜかトイレに行かなくちゃいけないとか。

いさどん:
それは不自由だよね。その場でできたらどんなにいいだろうね(笑)。

オレンジ:
動物は人間より自由。人間は植物より自由。植物は微生物より自由。

いさどん:
じゃあ植物は「僕はもう10年もここに立っていて不自由だな~」と思ってると思う?それは人間が「ずっとあそこに立っていてかわいそうだな」と思うからじゃない?僕は植物を観ていて、その場で自由に育っていると感じるよ。観ていて「嫌だ嫌だ」と植物が思っているような感じがしない。寝る時に布団を敷く必要もないし、冬になったからといって服を着る必要もない。あなた自身が不自由だと感じることはないの?

けいご:
朝起きなきゃいけないこと。

いさどん:
それは共通してるね。

けいご:
後は、恐れを感じる時。

いさどん:
それは恐れから解放されたいということ?それはいつでもできるよ。あなたが勝手に恐れを感じているだけだよ。
不自由というのは、自分の想いに対して、そうじゃない方へ何かが強制していると感じた時に不自由と感じるんだよ。けいごくんの「恐れ」というのは自分自身が創っているものだから、いつでも手放せるんだよ。それは不自由とは言わず、自業自得と言います。

みかこ:
でも私も、けいごと同じように思うことがあるよ。さっきいさどんがお釈迦様に、そなたが大人になったのは自らを離れて自らを観るようになったからだと言われたと言っていたけれど、それができない人にとっては自分の中に湧いてくる想いの出所がわからないから、自動的に湧いてくるものに翻弄されているようで不自由に感じるんだよ。

いさどん:
でも、自らに起因していることは自らの自由の範疇にあるわけだから、それはコントロールできるんだよ。今僕が話している不自由とは、外から来るもののことです。
僕は「肉体」というスーツを着て、その中から外を見ている感があります。そして肌に気圧を感じて、それがとても不自由です。幽体離脱をした時には、このスーツの外から自分を観ていました。宇宙空間に出て、月を背にして地球を観た時には、地球の現状に驚くと同時に、外圧も内圧もない状態を体験し、これが自由なのだと感じました。宇宙飛行士の体験する無重力状態は偽物ですね。本当の無重力とは、肉体から解放された時にあるのです。つまり、本当の自由とは、肉体を返上して初めて感じられるということです。

あっこちゃん:
自分の中にイメージがあるんだけど、その通りに絵が描けないと不自由を感じたりする。でも習熟していくと、自由になっていくのかな。

いさどん:
上手か下手かというのは天性のものもあるよね。だけど描きたいと思ったらいつでも描くことはできるよ。天性のものはどうしようもないかもしれないけど、「こういう風に描きたい」という自分の願望が叶わないことに対して不自由を感じているということならば、その願望を手放せば不自由は消えるよ。
例えば心臓を休ませたいと思っても休ませられないとか、眠りたくないと思っても眠らなければならないという種類の不自由と、やろうとすればできるのにやらずにいて不自由だと感じるのは、種類が違うよね。そこをきちんと仕分けていかないと、できることなのに不自由を感じていることになる。

あっこちゃん:
確かに、身体的な不自由と思うように絵が描けない不自由は全然別のものだと今思いました。

いさどん:
それは大発見だね。不自由にはランクがある。もしくは、2種類だけかもしれない。自分の心のクセによって不自由を感じるものと、この世界の奥にある法則に対して自分がどうすることもできずに不自由を感じるのとでは、まったく種類が違うのです。

ニナ:
みんなの話をとても興味深く聞いていました。私は不自由の中にもいかに自由を見つけてその折り合いをつけていくかということをしています。

いさどん:
ではあまり日常の中で不自由を感じていないということ?

ニナ:
そうですね。

いさどん:
そういう答えが返ってくるだろうと思いました。というのは、あなたからは不自由の波動を感じないからです。けいごくんの場合は、自業自得型の不自由の波動です。オレンジくんなら勝手気ままで奇想天外。あっこちゃんのは自滅型の不自由の波動だね。
自分がどんなことに不自由を感じているかが、自分自身を表しています。多くの人はそんな見方はしません。僕の場合は、生きていることそのものに不自由を感じています。だから早く死にたいです。でも、普通の人の死にたいとはちょっと違いますよ。僕には肉体を持たない存在としてのビジョンがあり、意識がそちらへ向いているのです。だから肉体を持つと不自由を感じるのです。

めぐちゃん:
いさどんのような思考ができるのは、いさどんの中のスピリットと肉体が完全に分離されて認識されているからだけど、一般の人はその見分けがついていないから死を恐れるんですよね。

いさどん:
僕は時々柔軟体操をしますけど、その時の感覚は「この部品が錆び付いてきてしょうがないから整備しよう」という感覚です。機械の錆をとって油をさして使い勝手をよくするようなものですね。

お釈迦様に私とあなたの関係はどのようなものですかと問うた時に、始めはそなたは赤子のようであったと言われましたね。その時に、お釈迦様はこんなことも言っていました。天に向かってはいくら泣きわめいて赤子のようであっても良い。しかし横に向かって、つまり人間に向かって赤子のようでは駄目だぞ、と。そうすれば、人は育つ。そして己を離れて己を観るようになった時に、そなたは私の兄弟である、と言われた。

みかこ:
面白い話だね。己を離れて己を観るということは、天の視点を持ったということでしょう?1ヶ月間の真学校でやっていることは、誰もが幽体離脱をしなくても天の視点を持つことができるというトレーニングなんだよ。

いさどん:
なぜだかわからないけれど、我々は枠の中に入っています。生命であるということも枠の中にいることですし、人間であるということも枠の中のことです。僕の言う不自由感とは、形の世界にいる生命の不自由感です。それから解放されたいということは、形のない世界、例えば神々の世界のようであれば自由ですよね。そのさらに奥の潜象界まで行ってしまうと、何もなくなって自我も何もないわけですから、それでは元も子もないので、とりえずは自我があって肉体から解放されている状態のことをここでは言っています。

自我や自由とは、その人の目線によって変わります。いさどんの不自由感はユニークですね。皆さん一人ひとりの捉えている自由も、それぞれに個性的です。一人ひとりの心の性質によって、あんなのは嫌だという人もいれば、それがいいという人もいる。自分自身の心の性質に気付けば、それをエンジョイすることができます。エンジョイできるくらいに理解できれば、変えることもできる。もしかすると、変える必要はないのかもしれない。ただ、「使い方を間違えるな」ということです。不自由を感じて不平不満を言うのではなく、使い方を正しくすればどんなこともエンジョイできるということかもしれません。

僕は世の中をずっと眺めていて、いつも人間の在り様を観察しています。これまで1万人以上の人々の面談をしてきました。そこから観えてくるのは、現代の人間模様です。ご機嫌に生きている人たちとも出会いますが、そういう人と面談をすることはありません。面談をするのは、自分を不幸だと思っているような、行き詰っている人たちです。
そんな中で今の時代の心模様を観てきた時に、一人ひとりに心の性質があり、その性質がその人の不自由感を創っているということが観えてきました。真学校では、自分自身が何者であり、どういったプロセスの延長線上に今の形状をしていて、どのように不満を抱えているのか、ということを客観的に捉えていきます。それが嫌だと言っても、寿命がある限りその形状でいくのです。実は、今回の寿命が尽きたとしてもさらにその先があるのですよ。死んでも自分は成立しているということです。そうしたら、どのように自分を誘導していったら、心豊かに生きられるのでしょうか。それは、「はい、あなたはこうしてください」というマニュアルがあるのではなく、自分で人生の操縦かんをつかんで、旅するのです。その人生の操縦かんをつかんで自由に操るためのツールを、1ヶ月間の間解説してきました。

この世界に生きるとは、この世界の奥にある意志との対話です。そこから遠くなると、我々は迷子になります。迷子だからこそ怯え、それによって不平不満を言う。それが人生です。
よく様々な宗教で、「祈ることです」と言いますね。それでは怪しいな、と僕は思います。なぜなら、どういう精神で祈るかによってものごとはまったく変わってくるからです。ああなってほしいこうなってほしいという自らの欲望であったり、あいつは絶対に許さないという呪いの心で祈ることもあるでしょう。祈りにも質があるのですよ。
我々は、この世界との契約の元に生きています。そして宇宙人であり、宇宙の旅人です。我々の旅路は、現象世界の奥にある客観背後の意志と契約をしているのです。その契約から逸脱すると、我々は迷うことになります。どこに向かうのかという約束の元に進めば、出会うことのすべてを「こういうことだな」「こういうことだな」と受け止めながら進んでいくことができるのです。

「祈り」について考えた時に、これが出てきました。
(ここで「祈りの言葉」がシェアされました。)

 


祈りの言葉 

あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

あなたはわたしなのですから
わたしはあなたなのですから

あなたの御心に全ての人々が目覚め
平和で安穏なる幸せな世が訪れんことを願って
努めて参ります

無限なるあなたに無限なる感謝を
永遠なるあなたに永遠なる感謝を

アーメン、合掌

 

*「祈りの言葉」の詳しい解説については、こちらの記事をご覧ください。

 


 

いさどん:
今日は「心豊かに生きる」というテーマで、1ヶ月間の真学校の最後の講座です。この1ヶ月間話されてきたことは、見方によっては極めてマニアックな世界にも見えるかもしれません。でも、それに触れながら、皆さんの中に
この世界は過去からずっと続いて来て、今現在も宇宙全体が同じ仕組みの元に運営されています。そこに矛盾が発生すればそれにふさわしい現象が起きて、私たちに教えてくれるのです。目を開けてよーく観れば、それが観えます。目というのはこの肉体の目ではなく、霊的な目です。その目をつぶっていたら、愚痴になったり怒りになったり、それが束になると争いになります。一人ひとりがオリジナルなセンサー、オリジナルな目を持っています。その持ち方を間違えると、恐怖になったり怒りになったりうつ病になったりするのです。

「祈りの言葉」に「あなたの御心のままに」とあるように、私たちはそれに沿い、宇宙創造の側に立ち、今現在も生きているということは、神様と共に宇宙創造を果たしているのです。お釈迦様の言われたように、この無限なる世界と自分自身が一体であると思った時、自らの魂は宇宙最極小微粒子の「カ」となって、宇宙へ広がっていくのですよ。それがニルヴァーナであり、最終到達地点です。つまり、神様は人間を自分から遠いところへ置いて、人間がいろいろなことを経験しながら光へ向かっていくと、とうとう最後には一緒になるのです。ああ、ここがふるさとだった、と。でもそうなると、神様はまた宇宙を創るために人間を遠いところへ置くでしょう。我々は何度も何度もそれをくり返しながらどこかにその記憶を持っていますが、その途中の段階では愚かしいこともくり返して進んでいくのであり、それは諸行無常です。
諸行とは世の中のことです。無常とは、捉え方によってものごとはいかようにも変化するということです。自分がどの意識レベルで反応しているのか。それによってこの世界に種を播きながら、自業自得の現象に出会っているのです。あなたが出会っているものはあなたの目が見ているのですから、目が変われば違うものが観えるよ、ということです。

「心豊かに生きる」とは、すべてが自らの手の中にあるということです。もしも今まで不満を抱えて生きてきたとしたら、これからもそれを抱えて生きていきますか?

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いさどん:
これは極めて画期的な話です。過去には人々の幸福というのは、民衆を統治する王の力の元にありました。またある時には、聖者の教えの元にありました。それは、人々の手の中になかったのです。それは経典や聖者や権力者の手の内にありました。
しかし今、時代は、私たち誰もがその目を持って目覚め、誰もが高次の存在として生きられる時代になりました。だからこそ、今この話が語られているのです。
僕は教祖ではありません。王でもありません。その情報を提供する人です。その元は、この「祈りの言葉」の中の「あなた」という無限なる存在です。その存在がこの世界を創り、散りばめて、我々を配置しました。その配置されたものはすべて私であるぞ、ということです。

皆さんは1ヶ月間の真学校を受講するにあたり、一人ひとりの心の状態に応じてそれぞれの目的を持って参加しました。ここで皆さんが得たものは、自分の欲でそれを活かしたいといったものではなく、この世界とは何であるのかということを、これまで持ったことのなかった視点から分析するということです。自らの欲望を超えたところからそれを分析するということは、自我を超えた目線に出会ったということです。明らかに、真学校に参加する前と後では、視点が変わっているでしょう。

めぐちゃん:
ここに来る前は、真学校終了後の進路は何も決めずに、終了時の自分の心情に従って次の一歩を歩み出そうという想いで参加しました。やってみた結果、すごく毎日が楽しくてたまらなくて、自分の中で封印して用無しになっていたいろいろなものが湧き出してきて、今は「ここからだな」と感じています。家に戻って、ここで得た視点をこれからどう活かしていくのか、それを冷静に観ていくことが当面の課題だと思っています。今の正直な気持ちは、もう家は引き払って早く戻って来たいです(笑)。
木の花ファミリーというコミュニティは、人類をひとつの生命体としたら、そのひとつの成長点の先端にある部分で、現象化のスピードがものすごく速い。植物でも何でも、芽が出て成長していく時にその成長点というのは一番細胞の入れ替わりが激しい。その先端部分がまさに木の花ファミリーというコミュニティなんだと思います。
私もある意味欲のある人間で、昔から「ものごとの最先端にいたい」という欲がありました。大企業に勤めて最先端の研究に携わって、でも自分の中にそこに完全に合致できるものがなくて挫折して離れたんですけど、その後も最先端の技術を扱う仕事をして、だけど結局は従来型の価値観で損得や利害に縛られて、重くなって辞めました。でも本当の先端はここ。そこに出会えた喜びが、私の中にはすごくあります。

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いさどん:
いずれはこれが先端ではなく当たり前になる時代が来るでしょう。今は質的転換の時だからこそ芽になっていますが、それが当たり前の世界を目指しています。そのさらに先は考えなくていいですね(笑)。

よしこちゃん:
私は去年の3月21日に始めて木の花ファミリーに来て、それからここに通うようになる中で真学校の存在を知り、真学校を受講することがある意味この1年間の終着点となり、そこから次に向かうための何かが観えるかもしれないと思って受講を決めました。仕事も辞めて宙ぶらりんなわりには毎日心穏やかで、「ここに何かがあるだろう」と思いながら過ごし、次はどんな展開になるのかな~と思っていたら、途中で「自己実現」というのが自分にとってのパラダイムだったんだという気付きがありました。そうしたら、それまで自分を縛っていたくびきがなくなった。そして、これからの人生のために何かを探そうというよりは、今ここに在るものがそれなんだと思うようになったんです。

いさどん:
それこそ「あなたの御心のままに」ということだね。

よしこちゃん:
その通りです。だけど今までは、その「あなたの御心」とは何なのかを探そうとしていたんですよ。あなたの御心に沿うとはどういう生き方なんだろう?とかね。

いさどん:
おもしろいね。そこに目覚めると、心が自由を得られます。そうすると、自然とある特定のところに向かうようになります。つまり、自由に目覚めれば目覚めるほど、人は狭い道に行くのですよ。他に道はないことが観えてくるから。そこが面白いところですね。

よしこちゃん:
自分で選ぼうとしていた時にはそれは見つからなかったけれど、そういう自分の想いを手放したら、「ここ以外にない」という道が観えてきた。それはもう自分が探さなくても「ここにありますね」という感じです。

いさどん:
そういう時に何と言うのかといったら、「おめでとうございます」と言うんですよ。

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あっこちゃん:
私は真学校に参加する前は、すごく行きたいなという気持ちと、何に迷っているのかわからないけれど迷う気持ちがあって、ぎりぎりまで決断できずにいました。だけど参加したら、何で迷ってたんだろうというぐらいに、自分が求めていたものがバーンとそこにあった。
いさどんが、山の頂上に立つと目の下に雲海が見えると語った話が印象に残っています。外から聞いた話や人との出会いの中でそうだなと思うことがあっても、いったん雲の下のもやの中に沈んでいくような感じがするんです。そのもやがどこから来るのかはいろんな理由があると思うんですけど、それをこれから探っていきます。

いさどん:
富士山は雲海の上に頭を出していて、その下は曇って見えませんね。それはそれで、上から見るときれいなんですよ。でもその下はどしゃ降りだったり、霧だったりします。

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あっこちゃんはその雲海の上の目を持っているのに、どしゃ降りや曇りも上から観れば美しく観えるのに、なぜかその雲の中にいようとする。ただ上へ登っておいでよ、という話ですが、そこに介入はしません。それはあなたを尊重しているから。そこがよければそこにいればいいんです。ただ、あっこちゃんはその上があることを知ってしまったからね。そこでどう生きるのかは、あなたの意志です。

ニナ:
私はもっと学びたいと思い、とてもオープンな気持ちで真学校に参加しました。そして本当にたくさんのことを学びました。

いさどん:
あなたにとって一番大きかったのは、自分というものを確認できたことではないですか?

ニナ:
その通りです。オランダに帰ってからが興味深いですね。未来が楽しみです。ただ、カタカムナ研究会に参加できないことが残念ですね(笑)。

いさどん:
こちらから情報を送りましょう。あなたは研究目的で真学校に参加しましたが、言葉や文化の違いを超えてこんなにも自然に溶け込み、こんなにも安定したスタンスを保ち続ける人も珍しいですね。それが質的転換が常に起こり続ける宇宙の実相そのものの「ニナ」という魂なのでしょう。僕から伝えたいことは、ぜひそのまま客観的な情報を世の中に発信していってほしいということです。

ニナ:
これから先の数ヶ月間で、それを実践します。

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いさどん:
1ヶ月間は長いと思っていましたが、とうとう終わりを迎えました。終わりというのは、始まりということです。毎日が終わりであり、毎日が始まりであるということをくり返しながら、こういった節目を迎えて人生を刻んでいくのです。節がないものは、弱いですよ。節があるということは、竹のように柔軟だということでもあります。
皆さんの人生に介入はしません。この1ヶ月間を経て、それぞれの人生を、それぞれの個性のように歩んでいってください。その時に、できれば、安穏で幸せな人生を送ってもらいたい。そう願っています。

良い出会いを、ありがとうございます。

 


 

その夜、受講生主催の修了パーティーがありました。

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昨年の受講生も飛び入り参加で、「贈る言葉」をプレゼント。
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1ヶ月間ありがとう。
新たな学びが始まります。

 

 


25日目夜「いただきます物語」〜 実話に基づく死生観

農、食、医、経済、社会、環境、防災、そして性など、様々な切り口から世界観を学んできた1ヶ月。そのすべての根源とも言える「死生観」の講座を終えた日の夜、木の花劇団による演劇が披露されました。

タイトルは、「いただきます物語」。

これは、ファミリーメンバーのきょうこちゃんが、昨年子宮頸がんで生死の境をさまよい、奇跡的に復活した実話から生まれた、オリジナル劇です。
病気とは何か。死とは何か。
実際に病院で語られた会話などを元に、人間がこの世界で生きる意味を、劇団員たちがおもしろおかしく演じました。

生死の境をさまようきょうこちゃんのもとに現れる、個性豊かな八百万(やおよろず)の神々
生死の境をさまようきょうこちゃんのもとに現れる、個性豊かな八百万(やおよろず)の神々
人間の様々な側面を表現する八百万の神々に、受講生も子供達も大笑い
人間の様々な側面を表現する八百万の神々に、受講生も子供達も大笑い

劇の全篇を、動画にてご覧いただけます。ぜひどうぞ♪

後編の最後には、きょうこちゃんが入院していた時の実際の映像が含まれています。生死の境をさまよう日々、病室の中でも、外でも、様々な物語がありました。映像の中で、危篤状態になりながら一命をとりとめたきょうこちゃんは、涙を流しながら「遺言」を語っています。

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演劇の終了後、きょうこちゃんはみんなに挨拶をしました。

劇の中では「ようこ」役を演じていたきょうこちゃん
劇の中では「ようこ」役を演じていたきょうこちゃん

以下、きょうこちゃんの挨拶をご紹介します。


「劇を終えて」

いただきます物語、いかがでしたか?

まずは、みんなに報告があります。
昨日3月14日にがんセンターに検査の結果を聞きに行きました。
CT検査、MRI検査、細胞検査などの結果、癌が、あるかないかが分からない位になっているということでした。

私は子宮頸癌で、一番ひどいときは直径6.5センチほどの大きな癌の塊が子宮の入り口にあり、リンパや腎臓にまで浸食していました。約1年くらい前から断続的に大量出血があり、昨年10月の大量出血では命が危ない状態になり、急遽入院することになりました。

富士宮市立病院で放射線治療を受けた時に言われたことは、ここでの治療は血を止めるための応急処置でしかないから、早くて3カ月、長くても6カ月後にはまた同じような状況になるだろう、ということでした。
私も、生き延びることが出来たとはいえ、余命3カ月から6カ月だと覚悟はしていました。

でも、今信じられないような結果をいただいています。

科学や医学では説明できない何かが起こったと思うのです。
それは、この木の花ファミリーという場があったからこそ、起きたことだと思います。
みんなの愛と想いの力で奇跡が起きた。

だから、この物語は、きょうこ物語であると同時に、木の花物語なのです。
木の花マジック。あり得ないことが起きた。

こうしてみんなで集って暮らすことの素晴らしさが、この生き方の素晴らしさが、この私の体に起きた現象をもって証明されたのです。
すごい!!これは本当にすごいことだと思います。

入院中、この劇には盛り込み切れない、まだ沢山の物語がありました。
路上で茹でてくれた茹でたての新蕎麦、夢に出てきたお釈迦様の話、いさどんとした宇宙や世界情勢の話・・・。
劇のシナリオを書いていく中で、上演するには長すぎるので、たくさんの場面がカットされました。

そして、シナリオは一体何度書き直したかというくらい、読み合わせをするたびに、何度も何度も書き換えらえました。シナリオが出来上がり、今度は役者が演じるようになると、演じる度にまた何度も何度もシナリオが書き換えられました。
だからこれは、みんなで創り上げた劇。
そして、これは実際にあった実話に基づいていますから、木の花ファミリーのみんなによって創り上げられた劇なのです。

劇を練習していく中で、ある時魂が入る瞬間があります。
役者がセリフを覚えていなかったり、覚えたとしても覚えたものをただ言っているだけだと、観ている者に訴えるものがないのです。
セリフが自分のものになった時、そこにはアドリブが生まれ、セリフ通りではなくても観ている者に伝わり感動を生むのです。

私たちも同じだなと思いました。
私たちひとりひとりは、ある意味この世界の、というかこの宇宙劇場、神様劇場の役者で、神様が創ったシナリオのように人生をいただいている。
そのシナリオの意図を自分のものとし、自分のセリフとして演じることが、私たちに与えられた役割なんだと。

今回起きたことは、すごいことかも知れない。
でも、諸手を挙げてすごい、ということでもないのです。
だって、本当は癌というものをもらわなくても、こんな究極の状態をもらわなくても、人は学べる。
だから、みんなは私を見て、こんなになってはいけないんだと、学んでください。

体が元気になって、また癖が出てきます。
まだまだ癖だらけの私ですが、生きている限り、心の学びは続いて行くのです。

こうしてみんなと出会えたことに、
この生き方に出会えたことに感謝するとともに、
この稀な生き方をしていることを誇りに思います。
有難うございます。


 

講座で語られている死生観が、実生活を通してさらに深められていく。
そこにこそ、真実の学びがあります。