毎日毎日新たな一日を迎え、日々変化し続けて、気が付けばあっという間の1ヶ月間。最後の講座で、いさどんは以下のように語りました。
心豊かに生きる
〜 すべてはあなたの手の中にある 〜
いさどん:
おはようございます。
今日は最後の講座です。真学校が終わったからといって、地球の回転が止まるわけではありません。なぜこの世界で、人は場所を特定して、そこにがんじがらめになっているのでしょう。僕にはそういう不自由感がいつもあります。
不自由というのは、人それぞれ持っています。なぜ毎日眠らなければいけないのか。昔、忙しく働いていた頃には、寝溜めができればいいなと思っていました。寝ている暇がない時には、例えば3日間起き続けて、その後3日間眠ればいいということができたら、その方が効率がいいでしょう?でも、そんなことはできません。
我々は生命として、お母さんの胎内で細胞分裂を始めます。最初に心臓ができて、その心臓が動き出して、最後には心停止になります。これが死です。その間、心臓が休むことはありますか?ないですね。休むということは、命が終わるということです。
私たちの命は、心臓と連動しています。「心臓」というように、「心」という字が使われているのがおもしろいですね。英語でも心臓は「Heart(心)」と言いますね。オランダ語はどうですか?
ニナ:
オランダ語でも、心臓という言葉には「心」という意味があります。
いさどん:
同じですね。共通しているということは、言葉が違っても人間の体の仕組みが同じだということを表しています。
私たちは心臓と共にあります。その心臓は、休むことがありません。私たちは例えば、疲れたら寝て休むこともありますし、例えば仕事でストレスが溜まったら美味しいものを食べるとか、好きなことをやるなど、目の前にあることから自分を遠ざけるという休み方もあります。ストレスが溜まるということは負荷がかかっているということですから、それを解消しなさいという指令が出ているのです。
呼吸はどうでしょう。僕が昔お風呂でいったいどのくらい呼吸を止められるだろうかと試していた時には、3分くらいでした。世界記録は6分ほどでしょうか。普通の人がいきなり始めたら、30秒で苦しくなるでしょう。いずれにしても、空気との循環は拒否することはできません。
僕は変な人ですから、それを不自由だと思っていました。呼吸を止められないなんて、まるで強制されているみたいで不自由じゃないかと思い、それじゃあ止めてみようと試していました。でもどんなに努力しても、たったの3分なのです。
生きているということは、不自由です。心臓がかわいそうだから休ませてあげたい、呼吸を好きなようにさせてあげたい、と思っても、特定のリズムから外れることはできません。眠ることをコントロールすることもできません。ではこの不自由感から解放されたいと思ったら、どうしたら達成できると思いますか?
ニナ:
死ぬこと。
いさどん:
そう。死ぬことです。僕はこう考えました。今自分が不自由なのは、この肉体の中に入っているからだ。そう感じた時点で、自分とこの体は別物なんです。もっと自由であっていい。でも現実には、この体と心の状態で自分は成立しています。
僕は30歳の12月26日から、天から思考が降りてくるようになりました。
19歳の時に、亡くなったおばあさんが僕の頭上に表れて、僕を守護するようになりました。そのおばあさんが、僕が30歳の時に、男の人に代わったのです。それがお釈迦様でした。(お釈迦様といさどんの物語については、いさどんブログ「木の花記~金神様の巻」をご覧ください。)お釈迦様が現れて1年ほど経った時に、「1000日の行をいたせ」という命が降りてきました。それが何なのかわからないので、毎日瞑想をすることにしました。1日も欠かしたことはありませんでした。どんなに忙しい時でも、当時は建築業をやっていて現場から帰れないような時もありましたが、そんな時でも埃だらけの現場の片隅で瞑想をしました。
そうしたら、瞑想を始めて1年ほど経った頃から、幽体離脱をするようになりました。部屋の角に自分が浮かんでいて、瞑想している自分を見ている。そんなことが起きるようになったのです。ある時、僕はお釈迦様に「私とあなたの関係はいったいどのようなものなのでしょうか」と聞きました。お釈迦様から道をいただくようになったばかりのころ、僕は本当に普通の人で、お釈迦様は「始めはそなたは私の赤子のようであった」と言いました。そして続けてこう言いました。「やがてそなたは、私の子どもとなった。そして弟子となった。そして今、そなたは自らを離れて自らを観るようになった。その目線は私と同じである。だからそなたは私の兄弟である。」
その状態になってから、僕は物事を観る時にお釈迦様に頼るのではなく、自ら判断をするようになりました。客観視点を持ったということです。
なぜこんな話をしたのかというと、「不自由だ」という想いが湧いたことにつながります。この枠はいったい何なんだろうと。その後、瞑想中に自分の体を抜け出して、地球からも飛び出して、宇宙から地球を観るという体験をしました。そして人間の行いによって蝕まれた部分がケロイドのように広がっている地球の姿を観て、このために生きなければいけない、と思いました。
肉体を持ったこの状態で生きるということは、様々な不自由があります。肉体の中に自らが封印されているということでもあり、縁があってこの形をとっていかなければいけないということです。
ここで皆さんに質問ですが、日ごろどんなことを「不自由」と感じますか?
めぐちゃん:
やりたいことがあるのに、おなかがすいてしまうとか。
いさどん:
それはありますね。やりたいことがあるのに、おなかがすいてご飯を食べなくちゃいけない。
めぐちゃん:
夜中に寒くてずっとお布団に入っていたいのに、なぜかトイレに行かなくちゃいけないとか。
いさどん:
それは不自由だよね。その場でできたらどんなにいいだろうね(笑)。
オレンジ:
動物は人間より自由。人間は植物より自由。植物は微生物より自由。
いさどん:
じゃあ植物は「僕はもう10年もここに立っていて不自由だな~」と思ってると思う?それは人間が「ずっとあそこに立っていてかわいそうだな」と思うからじゃない?僕は植物を観ていて、その場で自由に育っていると感じるよ。観ていて「嫌だ嫌だ」と植物が思っているような感じがしない。寝る時に布団を敷く必要もないし、冬になったからといって服を着る必要もない。あなた自身が不自由だと感じることはないの?
けいご:
朝起きなきゃいけないこと。
いさどん:
それは共通してるね。
けいご:
後は、恐れを感じる時。
いさどん:
それは恐れから解放されたいということ?それはいつでもできるよ。あなたが勝手に恐れを感じているだけだよ。
不自由というのは、自分の想いに対して、そうじゃない方へ何かが強制していると感じた時に不自由と感じるんだよ。けいごくんの「恐れ」というのは自分自身が創っているものだから、いつでも手放せるんだよ。それは不自由とは言わず、自業自得と言います。
みかこ:
でも私も、けいごと同じように思うことがあるよ。さっきいさどんがお釈迦様に、そなたが大人になったのは自らを離れて自らを観るようになったからだと言われたと言っていたけれど、それができない人にとっては自分の中に湧いてくる想いの出所がわからないから、自動的に湧いてくるものに翻弄されているようで不自由に感じるんだよ。
いさどん:
でも、自らに起因していることは自らの自由の範疇にあるわけだから、それはコントロールできるんだよ。今僕が話している不自由とは、外から来るもののことです。
僕は「肉体」というスーツを着て、その中から外を見ている感があります。そして肌に気圧を感じて、それがとても不自由です。幽体離脱をした時には、このスーツの外から自分を観ていました。宇宙空間に出て、月を背にして地球を観た時には、地球の現状に驚くと同時に、外圧も内圧もない状態を体験し、これが自由なのだと感じました。宇宙飛行士の体験する無重力状態は偽物ですね。本当の無重力とは、肉体から解放された時にあるのです。つまり、本当の自由とは、肉体を返上して初めて感じられるということです。
あっこちゃん:
自分の中にイメージがあるんだけど、その通りに絵が描けないと不自由を感じたりする。でも習熟していくと、自由になっていくのかな。
いさどん:
上手か下手かというのは天性のものもあるよね。だけど描きたいと思ったらいつでも描くことはできるよ。天性のものはどうしようもないかもしれないけど、「こういう風に描きたい」という自分の願望が叶わないことに対して不自由を感じているということならば、その願望を手放せば不自由は消えるよ。
例えば心臓を休ませたいと思っても休ませられないとか、眠りたくないと思っても眠らなければならないという種類の不自由と、やろうとすればできるのにやらずにいて不自由だと感じるのは、種類が違うよね。そこをきちんと仕分けていかないと、できることなのに不自由を感じていることになる。
あっこちゃん:
確かに、身体的な不自由と思うように絵が描けない不自由は全然別のものだと今思いました。
いさどん:
それは大発見だね。不自由にはランクがある。もしくは、2種類だけかもしれない。自分の心のクセによって不自由を感じるものと、この世界の奥にある法則に対して自分がどうすることもできずに不自由を感じるのとでは、まったく種類が違うのです。
ニナ:
みんなの話をとても興味深く聞いていました。私は不自由の中にもいかに自由を見つけてその折り合いをつけていくかということをしています。
いさどん:
ではあまり日常の中で不自由を感じていないということ?
ニナ:
そうですね。
いさどん:
そういう答えが返ってくるだろうと思いました。というのは、あなたからは不自由の波動を感じないからです。けいごくんの場合は、自業自得型の不自由の波動です。オレンジくんなら勝手気ままで奇想天外。あっこちゃんのは自滅型の不自由の波動だね。
自分がどんなことに不自由を感じているかが、自分自身を表しています。多くの人はそんな見方はしません。僕の場合は、生きていることそのものに不自由を感じています。だから早く死にたいです。でも、普通の人の死にたいとはちょっと違いますよ。僕には肉体を持たない存在としてのビジョンがあり、意識がそちらへ向いているのです。だから肉体を持つと不自由を感じるのです。
めぐちゃん:
いさどんのような思考ができるのは、いさどんの中のスピリットと肉体が完全に分離されて認識されているからだけど、一般の人はその見分けがついていないから死を恐れるんですよね。
いさどん:
僕は時々柔軟体操をしますけど、その時の感覚は「この部品が錆び付いてきてしょうがないから整備しよう」という感覚です。機械の錆をとって油をさして使い勝手をよくするようなものですね。
お釈迦様に私とあなたの関係はどのようなものですかと問うた時に、始めはそなたは赤子のようであったと言われましたね。その時に、お釈迦様はこんなことも言っていました。天に向かってはいくら泣きわめいて赤子のようであっても良い。しかし横に向かって、つまり人間に向かって赤子のようでは駄目だぞ、と。そうすれば、人は育つ。そして己を離れて己を観るようになった時に、そなたは私の兄弟である、と言われた。
みかこ:
面白い話だね。己を離れて己を観るということは、天の視点を持ったということでしょう?1ヶ月間の真学校でやっていることは、誰もが幽体離脱をしなくても天の視点を持つことができるというトレーニングなんだよ。
いさどん:
なぜだかわからないけれど、我々は枠の中に入っています。生命であるということも枠の中にいることですし、人間であるということも枠の中のことです。僕の言う不自由感とは、形の世界にいる生命の不自由感です。それから解放されたいということは、形のない世界、例えば神々の世界のようであれば自由ですよね。そのさらに奥の潜象界まで行ってしまうと、何もなくなって自我も何もないわけですから、それでは元も子もないので、とりえずは自我があって肉体から解放されている状態のことをここでは言っています。
自我や自由とは、その人の目線によって変わります。いさどんの不自由感はユニークですね。皆さん一人ひとりの捉えている自由も、それぞれに個性的です。一人ひとりの心の性質によって、あんなのは嫌だという人もいれば、それがいいという人もいる。自分自身の心の性質に気付けば、それをエンジョイすることができます。エンジョイできるくらいに理解できれば、変えることもできる。もしかすると、変える必要はないのかもしれない。ただ、「使い方を間違えるな」ということです。不自由を感じて不平不満を言うのではなく、使い方を正しくすればどんなこともエンジョイできるということかもしれません。
僕は世の中をずっと眺めていて、いつも人間の在り様を観察しています。これまで1万人以上の人々の面談をしてきました。そこから観えてくるのは、現代の人間模様です。ご機嫌に生きている人たちとも出会いますが、そういう人と面談をすることはありません。面談をするのは、自分を不幸だと思っているような、行き詰っている人たちです。
そんな中で今の時代の心模様を観てきた時に、一人ひとりに心の性質があり、その性質がその人の不自由感を創っているということが観えてきました。真学校では、自分自身が何者であり、どういったプロセスの延長線上に今の形状をしていて、どのように不満を抱えているのか、ということを客観的に捉えていきます。それが嫌だと言っても、寿命がある限りその形状でいくのです。実は、今回の寿命が尽きたとしてもさらにその先があるのですよ。死んでも自分は成立しているということです。そうしたら、どのように自分を誘導していったら、心豊かに生きられるのでしょうか。それは、「はい、あなたはこうしてください」というマニュアルがあるのではなく、自分で人生の操縦かんをつかんで、旅するのです。その人生の操縦かんをつかんで自由に操るためのツールを、1ヶ月間の間解説してきました。
この世界に生きるとは、この世界の奥にある意志との対話です。そこから遠くなると、我々は迷子になります。迷子だからこそ怯え、それによって不平不満を言う。それが人生です。
よく様々な宗教で、「祈ることです」と言いますね。それでは怪しいな、と僕は思います。なぜなら、どういう精神で祈るかによってものごとはまったく変わってくるからです。ああなってほしいこうなってほしいという自らの欲望であったり、あいつは絶対に許さないという呪いの心で祈ることもあるでしょう。祈りにも質があるのですよ。
我々は、この世界との契約の元に生きています。そして宇宙人であり、宇宙の旅人です。我々の旅路は、現象世界の奥にある客観背後の意志と契約をしているのです。その契約から逸脱すると、我々は迷うことになります。どこに向かうのかという約束の元に進めば、出会うことのすべてを「こういうことだな」「こういうことだな」と受け止めながら進んでいくことができるのです。
「祈り」について考えた時に、これが出てきました。
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祈りの言葉
あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります
あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります
あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります
あなたはわたしなのですから
わたしはあなたなのですから
あなたの御心に全ての人々が目覚め
平和で安穏なる幸せな世が訪れんことを願って
努めて参ります
無限なるあなたに無限なる感謝を
永遠なるあなたに永遠なる感謝を
アーメン、合掌
*「祈りの言葉」の詳しい解説については、こちらの記事をご覧ください。
いさどん:
今日は「心豊かに生きる」というテーマで、1ヶ月間の真学校の最後の講座です。この1ヶ月間話されてきたことは、見方によっては極めてマニアックな世界にも見えるかもしれません。でも、それに触れながら、皆さんの中に
この世界は過去からずっと続いて来て、今現在も宇宙全体が同じ仕組みの元に運営されています。そこに矛盾が発生すればそれにふさわしい現象が起きて、私たちに教えてくれるのです。目を開けてよーく観れば、それが観えます。目というのはこの肉体の目ではなく、霊的な目です。その目をつぶっていたら、愚痴になったり怒りになったり、それが束になると争いになります。一人ひとりがオリジナルなセンサー、オリジナルな目を持っています。その持ち方を間違えると、恐怖になったり怒りになったりうつ病になったりするのです。
「祈りの言葉」に「あなたの御心のままに」とあるように、私たちはそれに沿い、宇宙創造の側に立ち、今現在も生きているということは、神様と共に宇宙創造を果たしているのです。お釈迦様の言われたように、この無限なる世界と自分自身が一体であると思った時、自らの魂は宇宙最極小微粒子の「カ」となって、宇宙へ広がっていくのですよ。それがニルヴァーナであり、最終到達地点です。つまり、神様は人間を自分から遠いところへ置いて、人間がいろいろなことを経験しながら光へ向かっていくと、とうとう最後には一緒になるのです。ああ、ここがふるさとだった、と。でもそうなると、神様はまた宇宙を創るために人間を遠いところへ置くでしょう。我々は何度も何度もそれをくり返しながらどこかにその記憶を持っていますが、その途中の段階では愚かしいこともくり返して進んでいくのであり、それは諸行無常です。
諸行とは世の中のことです。無常とは、捉え方によってものごとはいかようにも変化するということです。自分がどの意識レベルで反応しているのか。それによってこの世界に種を播きながら、自業自得の現象に出会っているのです。あなたが出会っているものはあなたの目が見ているのですから、目が変われば違うものが観えるよ、ということです。
「心豊かに生きる」とは、すべてが自らの手の中にあるということです。もしも今まで不満を抱えて生きてきたとしたら、これからもそれを抱えて生きていきますか?
いさどん:
これは極めて画期的な話です。過去には人々の幸福というのは、民衆を統治する王の力の元にありました。またある時には、聖者の教えの元にありました。それは、人々の手の中になかったのです。それは経典や聖者や権力者の手の内にありました。
しかし今、時代は、私たち誰もがその目を持って目覚め、誰もが高次の存在として生きられる時代になりました。だからこそ、今この話が語られているのです。
僕は教祖ではありません。王でもありません。その情報を提供する人です。その元は、この「祈りの言葉」の中の「あなた」という無限なる存在です。その存在がこの世界を創り、散りばめて、我々を配置しました。その配置されたものはすべて私であるぞ、ということです。
皆さんは1ヶ月間の真学校を受講するにあたり、一人ひとりの心の状態に応じてそれぞれの目的を持って参加しました。ここで皆さんが得たものは、自分の欲でそれを活かしたいといったものではなく、この世界とは何であるのかということを、これまで持ったことのなかった視点から分析するということです。自らの欲望を超えたところからそれを分析するということは、自我を超えた目線に出会ったということです。明らかに、真学校に参加する前と後では、視点が変わっているでしょう。
めぐちゃん:
ここに来る前は、真学校終了後の進路は何も決めずに、終了時の自分の心情に従って次の一歩を歩み出そうという想いで参加しました。やってみた結果、すごく毎日が楽しくてたまらなくて、自分の中で封印して用無しになっていたいろいろなものが湧き出してきて、今は「ここからだな」と感じています。家に戻って、ここで得た視点をこれからどう活かしていくのか、それを冷静に観ていくことが当面の課題だと思っています。今の正直な気持ちは、もう家は引き払って早く戻って来たいです(笑)。
木の花ファミリーというコミュニティは、人類をひとつの生命体としたら、そのひとつの成長点の先端にある部分で、現象化のスピードがものすごく速い。植物でも何でも、芽が出て成長していく時にその成長点というのは一番細胞の入れ替わりが激しい。その先端部分がまさに木の花ファミリーというコミュニティなんだと思います。
私もある意味欲のある人間で、昔から「ものごとの最先端にいたい」という欲がありました。大企業に勤めて最先端の研究に携わって、でも自分の中にそこに完全に合致できるものがなくて挫折して離れたんですけど、その後も最先端の技術を扱う仕事をして、だけど結局は従来型の価値観で損得や利害に縛られて、重くなって辞めました。でも本当の先端はここ。そこに出会えた喜びが、私の中にはすごくあります。
いさどん:
いずれはこれが先端ではなく当たり前になる時代が来るでしょう。今は質的転換の時だからこそ芽になっていますが、それが当たり前の世界を目指しています。そのさらに先は考えなくていいですね(笑)。
よしこちゃん:
私は去年の3月21日に始めて木の花ファミリーに来て、それからここに通うようになる中で真学校の存在を知り、真学校を受講することがある意味この1年間の終着点となり、そこから次に向かうための何かが観えるかもしれないと思って受講を決めました。仕事も辞めて宙ぶらりんなわりには毎日心穏やかで、「ここに何かがあるだろう」と思いながら過ごし、次はどんな展開になるのかな~と思っていたら、途中で「自己実現」というのが自分にとってのパラダイムだったんだという気付きがありました。そうしたら、それまで自分を縛っていたくびきがなくなった。そして、これからの人生のために何かを探そうというよりは、今ここに在るものがそれなんだと思うようになったんです。
いさどん:
それこそ「あなたの御心のままに」ということだね。
よしこちゃん:
その通りです。だけど今までは、その「あなたの御心」とは何なのかを探そうとしていたんですよ。あなたの御心に沿うとはどういう生き方なんだろう?とかね。
いさどん:
おもしろいね。そこに目覚めると、心が自由を得られます。そうすると、自然とある特定のところに向かうようになります。つまり、自由に目覚めれば目覚めるほど、人は狭い道に行くのですよ。他に道はないことが観えてくるから。そこが面白いところですね。
よしこちゃん:
自分で選ぼうとしていた時にはそれは見つからなかったけれど、そういう自分の想いを手放したら、「ここ以外にない」という道が観えてきた。それはもう自分が探さなくても「ここにありますね」という感じです。
いさどん:
そういう時に何と言うのかといったら、「おめでとうございます」と言うんですよ。
あっこちゃん:
私は真学校に参加する前は、すごく行きたいなという気持ちと、何に迷っているのかわからないけれど迷う気持ちがあって、ぎりぎりまで決断できずにいました。だけど参加したら、何で迷ってたんだろうというぐらいに、自分が求めていたものがバーンとそこにあった。
いさどんが、山の頂上に立つと目の下に雲海が見えると語った話が印象に残っています。外から聞いた話や人との出会いの中でそうだなと思うことがあっても、いったん雲の下のもやの中に沈んでいくような感じがするんです。そのもやがどこから来るのかはいろんな理由があると思うんですけど、それをこれから探っていきます。
いさどん:
富士山は雲海の上に頭を出していて、その下は曇って見えませんね。それはそれで、上から見るときれいなんですよ。でもその下はどしゃ降りだったり、霧だったりします。
あっこちゃんはその雲海の上の目を持っているのに、どしゃ降りや曇りも上から観れば美しく観えるのに、なぜかその雲の中にいようとする。ただ上へ登っておいでよ、という話ですが、そこに介入はしません。それはあなたを尊重しているから。そこがよければそこにいればいいんです。ただ、あっこちゃんはその上があることを知ってしまったからね。そこでどう生きるのかは、あなたの意志です。
ニナ:
私はもっと学びたいと思い、とてもオープンな気持ちで真学校に参加しました。そして本当にたくさんのことを学びました。
いさどん:
あなたにとって一番大きかったのは、自分というものを確認できたことではないですか?
ニナ:
その通りです。オランダに帰ってからが興味深いですね。未来が楽しみです。ただ、カタカムナ研究会に参加できないことが残念ですね(笑)。
いさどん:
こちらから情報を送りましょう。あなたは研究目的で真学校に参加しましたが、言葉や文化の違いを超えてこんなにも自然に溶け込み、こんなにも安定したスタンスを保ち続ける人も珍しいですね。それが質的転換が常に起こり続ける宇宙の実相そのものの「ニナ」という魂なのでしょう。僕から伝えたいことは、ぜひそのまま客観的な情報を世の中に発信していってほしいということです。
ニナ:
これから先の数ヶ月間で、それを実践します。
いさどん:
1ヶ月間は長いと思っていましたが、とうとう終わりを迎えました。終わりというのは、始まりということです。毎日が終わりであり、毎日が始まりであるということをくり返しながら、こういった節目を迎えて人生を刻んでいくのです。節がないものは、弱いですよ。節があるということは、竹のように柔軟だということでもあります。
皆さんの人生に介入はしません。この1ヶ月間を経て、それぞれの人生を、それぞれの個性のように歩んでいってください。その時に、できれば、安穏で幸せな人生を送ってもらいたい。そう願っています。
良い出会いを、ありがとうございます。
その夜、受講生主催の修了パーティーがありました。
昨年の受講生も飛び入り参加で、「贈る言葉」をプレゼント。
1ヶ月間ありがとう。
新たな学びが始まります。