プライバシー保護であなたは本当に守られている?~ 人格を学ぶ講座3

木の花ファミリーでは、毎晩大人メンバーが集い「大人ミーティング」を行います。そこでは、その日にあった出来事や自分の心の内を皆にシェアし、そこから感じたことを互いに伝えあいます。そして真学校受講生やゲストも、自由に参加することができます。
この大人ミーティングでファミリーメンバーの一人が自らの心の内をシェアし、皆で語り合った翌朝の講座で、ジイジは「プライバシー」について語りました


最近ラジオ体操のやり過ぎで筋肉痛のジイジです。体を活性させたり、その状態を意識するようにすると、自分自身の状態がよくわかるようになります。そうすると、怪我をしなくなります。しかし自分の体の状態を知らずにいると、注意せずに負荷をかけ続け、怪我の元となります。

木の花ファミリーでは、昨夜の大人ミーティングのように、個人的な問題ごとを全体のこととして、みんなの前でシェアします。その時に、個人に起きたことに対し、みんなから観える景色を伝えていきます。一般社会では、こういったことはプライバシーと言って、積極的に人の前では出さないものです。プライバシーが保護されるということは、ある意味その人が守られているという考え方が現代社会にはあるのです。しかし、私たちの生活ではその解釈を逆に捉えています。ここでは、個人のことをみんなのこととして、積極的に出すようにしています。同時に、出せる環境をつくっているのです。出せる環境と出す人、その両方を作るよう心掛けています。そういった場では、いつもみんなが何を考えているのかが、互いによくわかるようになります。それによって、全体に信頼関係が生まれます。

ここへ自然療法プログラムを受けに来る人は、いろいろなことで行き詰った結果、ここを訪れます。そしてここで滞在し、自らの状態を改善しようと決意しますが、その時に多くの人が心配することがあります。それは、大勢の人の中で暮らすことです。「私は大勢の中で生活するのが苦手です」「やったことがないので不安です」という人が多いのです。そこで私は、だいたいいつも決まったことを伝えています。あなたがたくさんの人と暮らしたり、たくさんの人があなたのことを見ているのが嫌だからこそ、そういったあなたの姿勢を改めるために、たくさんの人の中にこれから入るのですよ、と。それは、新しいあなたに出会うチャンスを提供するということです。

そう言われても、当然本人はその通り受け取る気持ちにはなれないものです。しかし、それまでの自分ではいけないと思っている人は、僕の提案を受け入れます。そこで、改善する意欲もなければ、僕の提案を受け入れないようなことでは、このプログラムの結果に良い答えは出ませんから、その場合は滞在をお断りする場合もあります。
滞在を始めると、ここに生活すること自体がいつもと違うリズムになりますから、まずはそれに慣れることから始めます。ですから最初は、症状の重い人は特に何もせずに、とりあえず毎日を過ごしてもらいます。少し慣れてきたら、日記を書いてもらいます。日記はだいたい決まった時間に提出してもらい、私と、サポーターがその日記を見ます。通常、日記は人に見せるものではありません。日記を人に見られるということは、一般的にはプライバシーの侵害です。心の病気をしているような人は、日記なんて書いたこともないという人が多いものです。ですから日記を書くこと自体が初めての経験であり、その日記を人に見せることで、自分の中にいつもあるけれども外には出さずにいたことを、オープンにするわけです。
オープンにすると、その人の人格的クセや、日頃出さずに内側に溜め込んでいたものが観えてきます。それに対して私がコメントを書きますが、コメントはその人のものの捉え方からは違った視点で書かれます。そうすると、日記を書いた人は、自分の考えとは違う視点をそこに見ることになります。始めの頃は、だいたいそのコメントを無視して日記は書かれていきますが、そのうちに、コメントに反応するようになります。どちらにしても、自分が本来閉じていたもの、プライバシーとして守られていたものが、だんだん外に出てきます。その外に出たものに対して、今度は私の方からの視点によってフィードバックされるのです。そうすると、それまでになかった新しい視点がその人の中に入ります。

始めに、毎日体を活性し、自分の体がどんな状態かを知っていくと、怪我をしないようになるということをお話ししました。
普通は、健康に毎日を暮らしていると、何も自分の内にあることをオープンにする必要は感じません。オープンにしないのは、プライバシーを保護されているということで、自分が守られているという認識になるのです。それで守られていると思っている人ほど、自分の考えの中でしか生きていません。それがだんだん強くなっていくと、それが自らの考えだという認識すらなくなり、自動思考になっていきます。簡単に言うと、よく考えないで、いつものように自動的に行動しているという状態になるのです。それでもそういう自分の状態を外にオープンにしないことを、守られていると思っています。
心の病気や問題ごとが起きて自然療法プログラムを受ける人は、そういった状態になることによって、症状が現れた人たちです。そしてそれは、健康な人であっても、同じことが言えるのです。ただ、健康な人は自らの問題を認識していませんから、それをやり続けられるだけなのです。

自然療法プログラムで、日記のコメントに反応をするようになった人は、その分だけ、私からの新しい提案を受け入れます。自分の考えよりもその提案の方が自らにとってより有効だということを理解したら、さらに、みんなの前でそれを発表することを提案されます。どんどんプライバシーがなくなっていきます。そのうちに、その人は自分からプライバシーを破っていくようになります。自分を守る心を、無しにしていくのです。そうすると、知らない間に、自らの考えや行動に対し、新たな考え方や行動の仕方が入ってくるようになります。それが活性するということです。そして自分のやることに対して周りから返ってくる反応やフィードバックを通して、自らの姿を知っていくようになります。つまり、客観的視点を持つようになるのです。

多くの人は、プライバシーが保護されることで自分を守っていると思っていますが、それは自分が自分の中に閉じこもっている状態です。自分の中で閉じこもっていると、そのうちにそれがパターン化し、思考もせずにただクセのままに行動しているという状態になります。健康であればそれをそのままやり続けていきますが、病気になったり引きこもってしまったりすると、そのこと自体が問題ですから、それを改善するために、こういったプライバシーのないところへ来て、最初は無理やりオープンにして、しまいには自分からオープンにするようになるのです。それが自由にできるようになると、もう病気ではありません。プログラムの卒業となるのです。
始めはなぜ自分が病気になったのかがわかりませんが、ここに滞在し、客観視点を身に付けていくうちに、自分の中に閉じこもっていた心が自分自身を病気にしたのだということがだんだんわかってきます。そこで自分の殻を破ってオープンにした時に、画期的な改善が見られ、新しい人生が始まるのです。その時に、面白い現象が起きます。その人の中に、感謝が生まれるのです。それまでそんな状態の自分に付き合ってきてくれた親や周りの人たちに感謝したり、木の花ファミリーのサポートに感謝したりするようになります。それどころか、私は病気になったからこのことに気付けた、と、病気にまで感謝するようになるのです。

病気は、知らぬ間に閉じこもっていた自分の殻を破ることを、気付かせてくれました。そのように人生を観ていくと、その人はやはり病気になるべきだったのです。そして病気になってありがたい、という段階へ行ったら、自然療法プログラムは卒業となるのです。そこで、その人の病気に対する認識がまったく変わるのです。
木の花ファミリーで暮らす人は、それがいかに大切で、自らに成長をもたらすものであるかを知っているからこそ、このようなプライバシーのないところに進んで生活しています。よくそんな所で暮らせると外の人は思うかもしれません。しかし、ここで暮らすことの大切を知っている人々は、それが喜びとなるのです。幸せや喜びに対する視点が違うということです。

宇宙は常に変化し続けます。私たちもその中に生きているのですから、常に変化、変容、変態を繰り返しています。それが宇宙の掟であり、自然の掟です。ですから、自分の中に閉じこもって活性していない状態は、宇宙の法則から外れているのです。
活性するとは、循環しているということです。循環するとは、一つ目から二つ目、二つ目から三つ目へと、自動的につながっていくことであり、そうしてすべてがつながることによって、宇宙全体が調和のもとに動いているのです。全体が動いている中に自らも存在するということは、個々のプライバシーはないということです。しかし、自らを主観で守っていると思っている人は、自らの情報を自分の中だけに抱え込み、それで守られていると思っているのです。しかしその認識は、自然や宇宙の法則からは外れていることになります。ですから、そういった場合、たとえ体が健康であっても、それは症状が出ていないだけで、この世界にとっては病気の状態なのです。

今日は、「人格を学ぶ講座」に入って3日目です。
自分を守っているということは、客観的な外からの視点が無いということです。客観的視点がなければ、自分がどんな考えをし、どんな行動をして周りにどんな影響をもたらしているかということが観えません。そうすると、自分のことがわかりませんから、人生の中でいずれ怪我や病気やトラブルに出会います。そこで客観的視点がなければ、その原因が自分にあるとは思いもせず、ましてや病気に感謝することなどまったくありません。
しかし私たちが病気や問題ごとに出会うのは、宇宙の法則です。簡単に言えば、神様が、私たちが法則から外れているから、その出来事を与え、元へ戻ることを教えてくれるのです。そのことに、病気や問題ごとに出会う前に気付いて、生きていると、毎日が変化の連続で活性します。そして常に心がオープンですから、周囲との絆も深まっていきます。そこに感謝できるようになると、人は優れた人生を生きることになるのです。そのような人のことを、覚醒者と呼びます。悟った人のことです。
現代には、そのような人はほとんどいなくなりました。ここは、そういった解釈を訪れた人々に提供する場所です。皆さんは、覚醒することを目指してここに来たのでしょう?しかし、ただ情報を得ているだけでは、覚醒者にはなれません。自らをオープンにして、自分と向き合うだけの勇気、意欲を持たないと、覚醒者にはなれません。つまり、自分を救うことはできないということです。そしてそれは他の誰のせいでもない、あなた自身の責任だということです。

私は、一人でも多くの人が目覚めていくことを望んでいます。なぜなら、地球がそれを求めているからです。そして地球が喜ぶからです。私たちのすべてである地球が喜ばない生き方を、私たち生命は絶対にしてはいけません。

 

 


世界に貢献できる人になるために ~ 人格を学ぶ講座2

真学校も第2週目に入り、「人格を学ぶ講座」も第2段階となった今日、なぜこの講座が大切なのかをジイジが語りました。


始めの1週間で私が皆さんに伝えたかったことは、まず私たちは、人間の特徴として、自我を持っているということです。自我は、誰もが同じものを持っているわけではありません。仕組みは同じですが、中身は違います。それぞれの心の形や性質は、個々にオリジナルな歴史のもとに創られてきたものです。私たちの顔や体つきが一人ひとり違うように、心も一人ひとりオリジナルなのです。
人間は自我を持つことにより、自分と他人を区別するようになりました。そして他の生きものと違うのは、自分から見える自分自身、そして自分から見える外のものを、自分にとって都合のいいように捉えるようになったことです。私たちは自分という枠の中にいて、そこから外の世界を見ています。そしてその枠の中から、周りにいる人々を「この人はこうだ」と主観で判断しています。しかし、自分の中から飛び出して、枠の外から自らを見てみると、自分が思う自分と外から見える自分が違うことがあります。

自分の中から外を見ることを「主観」と言います。それに対し、自分の外へ出て、外から自分自身や周りを見ることを「客観」と言います。人間は社会性がある生き物ですから、群れて生きています。群れるということは、他の様々な生命と一緒に生きているということです。その時に、自分の外の秩序を乱すような存在であっては、いい社会生活は送れません。できれば自分の存在や意思表示が、外の人たちに歓迎されるものであることが望ましいのです。
例えば私たちは、会社のようにお金や利益を得るところでは、自らの主張を制限したりします。それは、何かを得るためだからです。しかし、家族や恋人のように近い関係になると、自分を抑えて何かを得ようとするよりも、自分の願いを叶えようとする方が強くなりますから、自らの感情をコントロールすることを忘れてしまうこともあるのです。そのように自己主張が出ることを、わがままと言います。もしもそのわがままを、会社のようにお金や利益を得るための場所でやると、「あなたはうちの会社には要りません」とクビになることもあるでしょう。それは、現代社会を生きていく時に、よく出会うことです。
そのように、利益を得るために自らを抑えて、心の内に本当があるのに我慢して偽っている状態だと、心の中にストレスが溜まります。少しくらいのストレスであれば、休みの日に出かけてリフレッシュしたりして、解消することもできるでしょう。しかしストレスが溜まっていき強くなると、それでは解消しきれません。そうなると、今度は休みの日に出かけることもできずに、ぐったりと寝ているようなことにもなります。そういった状態を、自分が認識しないままにどんどん積み重ねていくと、そのうちに病気を発症するのです。

私たちの精神と体の機能は、様々な仕組みが連鎖して成り立っています。ストレスを溜め込んだ時にそれがどこに現れるかというと、弱いところに現れるのです。体に弱いところがあれば、そこにストレスのエネルギーが集中し、病気となって現れます。心の中に弱いところがあって、そこにストレスのエネルギーが向かえば、うつになったり、逆に躁になったりします。親がそういった性質を持ち、遺伝的に子どもに伝承されることもあります。それは更に、子どもから孫へと受け継がれます。そのように代々受け継がれていくと、暗い家系とか、同じような問題が続く家系というように、その家の傾向ができていきます。自分が一人で引き起こしたことであれば、その原因も「ああ、自分があれをやったからこうなったんだ」とわかりやすいのですが、代々の家系の流れの中で、所々で心や体の弱い人にそれが現れると、なぜそうなったのかわからない場合もあります。
そこで、主観的に捉えようとするとわからないのですが、客観的に分析していくと、そこに問題の起きる傾向の元が観えてきます。これは人間の人生についての話ですが、実は、地球上の様々な時代も、その時代のもとにどんな社会が展開されていくのかも、同じ仕組みで表現されていくのです。そこに存在する社会の背景にどのような流れがあり、そこに生きる人々がどのような性質をしているかによって、それにふさわしい世界が当然のように現れてくるのです。

私たちは真学校を通して、健康で生きていくためにはどうしたら良いのかを学びます。同時に、自分が社会を生きた結果社会が良くなっていくような、社会に優れた貢献ができる人になることも目指すべきです。それが、人が本当に目指すべき生き方だと私は考えています。なぜなら、現代は人間のわがままがいっぱいにあふれてしまって、世の中にたくさんの矛盾が起きているからです。
現代の人々が思う「良い人生」を生きることが本当に良い人生なのかというと、現代人一人ひとりが出会う人生には、とても問題ごとが多くなっています。現代の世界情勢や環境を観ると、もうこれ以上放っておいてはいけないところまで来ていることを、これまでにお伝えしてきました。そして先週末から、「人格を学ぶ講座」に入りました。なぜ、この講座を学ぶのでしょう。
私たちは人生を生きていると、いろいろな出来事に出会います。それは、出来事の方が向こうからやって来るように思えますが、実は自分がどんな性質をしていて、どのような道をどの方向に進むのかによって、出会うべき出来事に自らが原因となってふさわしく出会っているのです。つまり、私たちが人生の中で出会う出来事はすべて、自分自身を知るための映し鏡なのです。自らの姿がそこに映り、現象として現れているのです。ですから、人生を生きるとは、自分自身を鏡で見ていることになるのです。

その仕組みがわかると、私たちは人生を生きることによって、出会う出来事を通して自分自身を学習していることがわかります。出来事に出会う時に、自分の外に問題がある場合もありますが、その問題に出会う自分がいることを忘れてはいけません。ですから、問題に出会った時、人生を学ぶ姿勢のある人は、なぜそれに自分が出会ったのかをわかるために、先に自らを振り返ります。その時に、外から自分を観る客観視点を持つことによって、初めてその出来事を正確に捉えることが可能となるのです。それを自らの内側からの主観だけで見ると、社会が悪い、相手が悪い、と言って、自らの外に原因があると思うのです。
その姿勢で生きていると、どんな出来事に出会っても、自分自身を学習することはできません。それでは、自分の状態を知ることはできないのです。ですから問題が起きて、一旦はそれを乗り越えたとしても、また同じような問題に出会うことになります。学習をしない人は、何度でも繰り返し同じ問題に出会うことになるのです。
そういったこの世の中の仕組みをつくっているのが神様だとしたら、それは神様が何度も何度も、私たちの問題点を改めなさいと投げかけてくれいる、愛の現われです。

私は社会で行き詰っているたくさんの人にアドバイスをしてきました。しかし、こうしたら良くなるよ、と良くなる方法を伝えても、その人自身が自らの問題点に気付けなければ、改善されることはありません。何か特殊な能力を使って改善したとしても、その時限りのことになってしまい、長続きすることはありません。それに対して、本人が自分自身を観て、「ああ、問題の発信源は自分だ」と自らの内にある原因に気付いて改めれば、同じような問題ごとのくり返しは、なくなっていくものです。そういった時に、私たちは奇跡のような出来事に出会うのです。
私たちは毎日を生きていて、自分でも気付かないまま矛盾を起こしています。その矛盾は体や心の中に溜まっていきます。自分が矛盾を起こしていることを知らずにいると、自分には何も問題がないと思ったまま、その矛盾を溜めていくことになります。そして、ある時その矛盾が弱いところから溢れ出し、問題となるのです。
そこで、矛盾の発生源を絶ち、自らの内に矛盾を溜めないことと、弱いところを強化していくことで、そういった問題は発生しなくなくなります。そういった条件が整うと、それまで病気だったのが、何も治療をしていないのに、勝手に症状が消えていくのです。治るのではなく、問題ごとが自然に消えていくのです。現代医療は、表に出てきた症状に対して治療をします。様々なテクノロジーを駆使し原因を解明しますが、わかるのは表に症状として現れてきたものだけであり、その奥にある気の滞りは、テクノロジーで測ることはできません。ですから、そのような手法では根本的な解決に至らないのです。
そうすると、そういった不完全な医療により、利益を得る人たちが出てきます。それは製薬会社であり、医療機関です。病気の根本原因を解消せず、症状だけを表面的に治し、いつも病気でいっぱいの社会をつくっておけば、お医者さんは仕事ができます。同じように、人々が争い、社会秩序が乱れると、そのことにより活躍する人たちがいます。弁護士や警察は、人々が争うことで自らの存在意義が保たれるのです。現代社会には、本来無い方が良い仕事で潤う人が、たくさんいるのです。

そういった中で、木の花ファミリーでは自然療法プログラムを提供しています。例えば仕事に行ってもそこでいい人間関係が作れないからすぐにやめてしまうとか、人とのコミュニケーションを上手く取れない人が、なぜそうなるのかという原因を落ち着いて客観的に探り、それを自らの内に観つけ、改めることにより、人間関係が良くなったり、物事がスムーズに進むようになります。その結果、病気も自然と消えてしまうのです。主観だけではなく、客観的な視点で自らを観て、自分自身を理解する。それによって、自分に起きる問題の原因をひも解いていく。それは、自らが出会う出来事の原因を悟るということです。
そうして、その問題はもともと自分が周りに対して発していたものが返ってきたのだということがわかったら、それを発することをやめればいい。発するものの種類を変えるのです。その発しているものは、一人ひとりの個性的な人格が元になっています。ここにいる皆さんは、病気でもなければ、深刻な問題ごとを抱えているわけでもありません。ですから自然療法プログラムを受けるのではなく、問題ごとが起きる仕組みを知り、自分自身の発しているものを理解し、悪いものはやめ、いいものを伸ばしていくということをすれば、少なくとも、今より皆さんの人生は良くなります。そして良くなった人生を皆さんが社会に発信すれば、周りの人たちも、そして社会全体も良くなっていくものです。自らの人格を学び、健康な日々につなげていくと、自分も周りも社会も良くなるという、こんないい話はありません。

これは1回学んだだけではなかなか身に付きませんので、自分自身がどのような性質をしているのかをいつも心の中に留めておいて、毎日の生活の中でそれを優先し、意識しながら表現していくと、だんだん身に付いてきます。なぜこの講座が重要なのかというと、物事をみる時に、自分のクセや傾向を知らないと、透明なものに自分の色のフィルターをかけて見てしまったり、真っ直ぐなものが歪んで見えたりするからです。まずそこを知らなければ、物事は正しく観えないということです。
私たちは常に、対象を見る前に、自らの濁りや歪みを先に正していくことが、人生を健康で豊かに生きることにつながります。そして、あなたが健康であるということは、あなた一人分世の中を健康に導くことにつながります。心掛けていきたいものです。

 

 


生きることは体に歴史を刻むこと ~ 人格を学ぶ講座

第1週から第2週にかけて、全8コマにわたって行われる真学校でもっとも大切な講座が「人格を学ぶ講座」です。この講座では、カルマ読み、己読み、カタカムナの単音の思念という3つの手法を用いて、個人の人格を総合的に読み解いていきます。講座は、ジイジのこんなお話から始まりました。


あっという間に1週間が経とうとしています。時々思うのですが、未来に向かって一方通行に流れていくこの時の流れを、なぜ止めることができないのでしょう。そんなことを思うことはありませんか?普通はそんなことは考えないかもしれません。でも僕は、何か強制されているような、制約されているような気がするのです。
なぜそんなことを考えるのかと思ったことがあります。もしかすると、自分が今のような時間の制限がないところにいたからではないか、と思ったこともあります。私たちは生まれてから・・・といよりも、お母さんの体の中で命として発生した時から、1日24時間、1年365日という、1秒1秒を規則的に刻んでいくサイクルの中に入りました。そこにかっちりとはまって、そのサイクルから抜けることはありません。このように、私たちがこの世界に存在するということは、たくさんの制約のもとにあります。

まず、人間として生まれたということは、私たちは鉱物のような存在ではありません。有機物ですね。有機物は、例えば水分を与えると腐ります。熱を加えて水分が抜けると、炭素になります。そして、ただ単に有機物であるだけならば、この世界の命の循環活動の中にはいても、それそのものが生命として活動はしません。私たちは、「自分」というものが成立する時点で、同時にそこに「自我」が成立するのです。
山に生えている木々や植物、動物たちも、皆同じです。しかし、例えば木だったら枯れる、動物だったら死ぬということになると、また単なる有機物になり、腐り、自然界へと還っていきます。単なる有機物であることと、自分というひとつの個体として生命として成立していることは、意味が違います。今私たちは、人間として、一人ひとり名前を持ち、戸籍があり、自分という特定の素性を持った存在です。

今年の1月に、メンバーのみかちゃんのお姉さんのよこちゃんが亡くなりました。よこちゃんはずっと病院に入院していて、ここでは暮らしていませんでしたが、木の花ファミリーのメンバーです。若い時に統合失調症を発症し、体も弱く、6年ほど前にお母さんが亡くなったことをきっかけに木の花ファミリーで引き取りましたが、なかなか一緒に生活をすることが難しく、この近くの病院に入院していました。そして1月末のある日、病院から「容態が急変したのですぐに来てください」と電話がありました。僕もみかちゃんと一緒に病院に行きましたが、病院に着いた時には既に亡くなっていました。お医者さんが言うには、夕方お医者さんが彼女を見た時にはいつもと変わらない様子だったらしく、看護師さんが夕方にお世話した時にも「ありがとう」と言って、ご飯も食べて、いつも通りに寝たそうです。そして夜9時半ごろに看護師さんが様子を見に行ったら、もう亡くなっていました。死因は心不全とのことでした。人間は、誰でも心臓が動かなくなれば死にます。人間にはいろいろな死因がありますが、死ぬということは心臓が機能しなくなるということですから、最終的には皆、心不全です。
それで病室に案内され、よこちゃんの遺体と対面しました。不思議なことに、ベッドに横たわっている彼女の姿から、生命力をまったく感じませんでした。それは確かによこちゃんですが、そこに生きている波動を感じないのです。それは単なる有機物で、抜け殻だと思いました。それまで入っていたものが抜けてしまった、という感じです。彼女は6年前に初めてここに来て、僕たちは、彼女がその体を使って自分というものの意志表示をする姿に出会っています。ですから、確かに中によこちゃんがいたのに、それが抜けて、病室のベッドの上にはセミの抜け殻のように空っぽのものが横たわっていました。
皆さんは死体を見たことがありますか?(全員が手を挙げる。)それは、生きている時と違いますよね。その人が、体の中にいないのです。ある程度の年数を生きれば、その体を使ってその人が人生を表現していたことは、私たちの中に記憶として残っています。その姿を知っていて、その人が無くなると、何かが抜けてしまったように見えるのです。

もう一つ、最近死に出会いました。よこちゃんが亡くなった時は「亡くなったんだな」と思いましたが、最近出会った死は、それとは違います。
木の花のメンバーの一人が、妊娠していました。妊娠11週でしたが、1週間ほど前に病院に行ったら、心音が聞こえませんと言われました。それで別の病院に検査に行くことになっていましたが、その日の朝、トイレに行ったらその赤ちゃんが出てきたそうです。それで、彼女は同じ家にいたみかちゃんに、その既に心臓の止まっている赤ちゃんを見せました。そして元々病院に行くことになっていたので、赤ちゃんと一緒に病院に向かいました。その途中で、子宮に残っていた最後の胎盤も出て、病院に着いた時には子宮の中は空っぽになっていたそうです。だから病院では何も処置する必要がありませんでした。彼女は赤ちゃんの写真を撮って、大人ミーティングでみんなにシェアしました。赤ちゃんは手のひらに乗る大きさで、指も爪もあり、口は開いていて笑っていました。
なぜ亡くなったのか、原因はわかりません。生まれてくる縁がなかったということでしょう。僕はその写真を見て、こう感じました。よこちゃんは、今までずっと入っていたものが抜けたな、という感じがしたけれど、この人は脱け殻ではない。まだ一度も使われていない、人間の形をした肉の塊。つまり未使用です。よこちゃんは人生を経験した、言わば使用後の脱け殻ですが、赤ちゃんの方はまったくカルマが使われていない未使用の状態です。そこにとても大きな違いを感じました。
もう一つ感じたのは、よこちゃんは人間です。でも赤ちゃんは、宇宙人です。僕は赤ちゃんの写真を見て、直感でそう感じました。そして、生きるとは、私たちの体の中に、生きた歴史を刻み込むこと、喜んだり悲しんだり、そういったことのすべてを刻み込んでいくことなのだと、この二つの体の違いを観て気付いたのです。

僕はよこちゃんに病院で出会った時、彼女の体は脱け殻でしたが、その場に彼女の魂がいるのを感じました。彼女は僕に、いろいろありがとうございました、と言いました。とても明るい声でした。そして翌日に遺体を引き取りに行き、木の花でお葬式をしました。木の花では葬式とは言わず、「出発(たびだち)式」と言います。死は、次のステージへと出発するのですから、みんなで卒業をお祝いし、次のステージへと送り出すのです。出発式の前夜には、ちょうど富士浅間木の花祭りの新しい演目である「このはな八重の舞」のお披露目会が予定されていました。かつてよこちゃんがここに暮らしていた時に、この祭りの舞の稽古を見て自分も一緒に踊って楽しんでいたこともあり、お披露目会ではよこちゃんの棺を神座の前に置いて、その前でみんなで舞い踊りました。その時に僕は、よこちゃんの魂が子どものように楽しそうに、一緒に舞い踊っているのを感じました。

出発式の前夜の「このはな八重の舞」

よこちゃんは体が不自由で、体型も小さく、ある時から心を病んでずっと精神病院に入院していました。子どものころはとても明るい子だったそうですが、19歳の頃から性格が変わり、お医者さんにも「性格は薬では治らない」と言われるほどでした。でも病院で僕に「ありがとうございました」と言った時も、このはな八重の舞を踊っていた時も、小学生のように幼く、明るい、素直な人でした。
日本の仏教では、人間の魂は死を迎えてから四十九日はまだこちらの世界にいて、死後の世界への準備をしていると言われています。3月15日はよこちゃんの四十九日です。その日、真学校では死生観の講座をやります。そしてその夜、2年前にガンで実際に死にかけて復活したきょうこちゃんの物語を、木の花劇団が劇として演じます。
なぜ四十九日かというと、七×七だからです。七は質的転換、つまり切り替えです。七を七回繰り返し、納得して旅立っていくのです。よこちゃんの魂は未練の残る死に方ではなかったので、魂は乱れていませんでした。それでも時々、まだこの辺りにいるのを感じます。でも四十九日を過ぎたら、もう感じなくなるでしょう。人生を生きて亡くなると、生きた記憶が体に刻み込まれているから脱け殻になる。そして亡くなった後も、魂の世界へ旅立っていく準備をする、そういう過程がいるのです。しかし赤ちゃんの方は、まったく人生を生きていない。だから何の未練も経歴もなく、その遺体は病院にどうぞと預けて、終わりです。出発式も四十九日もありません。それはある意味、美しい状態です。

3月15日の劇は、死ぬはずだったのに蘇ってきたきょうこちゃんの物語です。実際に生のきょうこちゃんがいますから、話もできますよ。よこちゃん、赤ちゃん、きょうこちゃんの物語をこうやって一度に皆さんに紹介できるのも、まるで真学校のために準備をされていたかのようです。今年の真学校に対しては、見えないところから特別なメニューが用意されているのかもしれません。

なぜこの話をしたのかというと、私たちは命をつないで人生を生きており、そこではいろいろなことに出会います。その出会う出来事をどのように受け取っていくのかは、皆さん一人ひとりの人格の問題です。一人ひとりの人格に応じて様々な体験をし、いい人生を送ることも悪い人生を送ることもありますが、それはすべて、自分自身の魂を学習するためのものだということです。
これから「人格を学ぶ講座」に入ります。この講座では、自分のカルマはどのようなものであるのか、そして自分は宇宙から何を託され、それを受けてどのような人格をしているのか、さらに、自分がどのような響きを発して人生を表現しているのか。この3つの側面から、皆さんを分析していきます。
自分自身のことが理解できると、問題がある場合は、それを改善できるチャンスです。順調な人はそのままでいいですが、難しいのは、自分はこうだと思い込んでいる人です。自分が自分の枠の中にいて、本当の自分を知らない人は、自分自身に対して間違った認識をしています。ですから問題ごとに出会うと、相手が悪いとか、運が悪いとか、自分の外に原因があると思うのです。しかしこの世界は因果応報ですから、自分に起きていることはすべて、自分が発したことが返ってきているのです。それがわからないと、人生を生きている間に起きることはすべて人のせいになり、自分自身の状態が悪くても、良くすることはできません。自分自身を客観的に正しく見て、問題点を自己コントロールし、正せる人。それが悟りであり、いい人生を生きられる人です。これからいろいろな情報を提供しますが、自らを正しく捉える術を学ぶこの「人格を学ぶ講座」は、1ヶ月間の真学校で最も大切な講座です。

 

 


地球が回っていることを、感じていますか?

1ヶ月間の真学校・第9日目。
「人格を学ぶ講座  基礎編-2」は、いさどんのこんな話から始まりました。

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いさどん:
おはようございます。
皆さん、地球が回っていることを、感じていますか?

僕は朝目が覚めて、「ああ、今日も朝が来たな」と思いました。昨日も朝が来ましたね。一昨日も来ました。この調子で行くと、明日も朝が来ます。いさどんの思考はユニークですから、変化するのも単調ではなく、いろいろあってもいいじゃないか、と思うのです。そうすると、この世界で一番単調なのは、時が刻まれていくようすです。

人はそれぞれの意識を持って、毎日時と付き合っています。自分の興味だけに没頭して生きている人は、時を感じることを忘れています。「もう一日たっちゃった」「忙しい」「まだ他にもやることがある」と言って、時のことを忘れて、忙しい状態にいるのです。
「忙しい」という字は、「心」を「亡」くす、と書きます。「忘れる」という字も、「心」を「亡」くすと書きます。「忙しい」とは、忙しくて時の経つのを忘れた ──── つまり、天の法則を忘れたということです。そして「忘れる」とは、人の心を忘れるということです。

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個人的な話をします。
僕は朝目が覚めると、「朝が来たな」ということを感じます。朝が来たということは、一日時が動いたということです。ではなぜ時が動いたのかと考えると、僕は、地球が回転している動きを感じるのです。その時に、「天と共に生きている」ということを思い出すのです。
天の心を亡くす、つまり、天とのコミュニケーションをなくすと、忙しい、スケジュールいっぱいの状態になります。それで、ああ、時が動いているな、時と共にあるな、ということを、何かのタイミングで思い出すのです。「思い出す」ということは忘れていたということです。それが元に戻るのです。

皆さん、時々、時が動いているということを思い出してください。スケジュールがいっぱいで忙しい時ほど、時が動いているんだな、ということを思い出してください。私たちがどんなに忙しくても、時は同じリズムを刻んでいきます。カッ、カッ、カッ、カッ・・・これは地球が回る音です。そして明日が来るのです。
どんなに大変なことが起きたとしても、その先に必ず、次の世界がめぐってきます。ですから、忙しくてどうしようもないとか、何か大変なことが起きてもう先がないと思うのは、人間の心です。どんなに自分が認められないことが起きたとしても、必ずそれを取り込んだ先の世界がやってくるのです。

この世界の現象のすべての中心を貫く柱、それを天之御中主(アマノミナカヌシ)と言います。その柱は一方通行です。
過去から未来へ一方通行に進むトキ軸によって、この世界は支えられています。時という柱があり、その法則の下に宇宙全体が動いているのです。そして銀河、太陽系、地球、私たち一人ひとり、その一つひとつを、アマノミナカヌシの分身であるアメノミナカヌシが貫いています。
しかし、人間は忙しいと、そのアメノミナカヌシの存在を忘れています。それは、天の心を忘れ、人間の心も忘れている状態です。だからこそ、時々、地球の動きを感じてみることが大事なのです。地球の動きを感じて、私たちは天と共にあり、生きることをいただいているのだ、というところに立ち返るのです。

忙しい状態で生きていると、心を忘れているわけですから、その結果起きてくる現象も、どこか的が外れたものになります。何かが狂ってくるのです。確実にそうなります。
一方、時の変化を感じ、天の心と人の心が連動していれば、そこで生きていることがうまくかみ合うようになります。木の花ファミリーは、目的を実現しようと努力をしたり、企んだり、こうなってほしいという願望を持つことはあまりありません。ただ、今あるがままを生きているだけですが、出来事や人との出会い、モノやお金の流れなどが、とてもうまいことかみ合っていきます。天の動きと人の動き、アマノミナカヌシとアメノミナカヌシ、それが一致していると、自然とそうなるのです。それは、駆け引きの必要のない世界です。何かを成し遂げようとするための努力は要りません。ただ、心を美しくするための努力をすれば、ことは自ずと流れるようになります。
私たちは、この世界と連動しています。何かしら自分の思惑と違うことを与えられた時、そのことの奥にある意味に気付いたなら、生きることはずっと深くなるのです。

これまでの講座で、現代の世界情勢を観てきました。今、世界は混乱しています。なぜ混乱しているかというと、新たな価値観に変わらなければいけない時に来ているということです。それは時代の要請でもあるのです。
時代が混乱している原因は、もう一つあります。人間の自我です。私たちは一人ひとり自我を持っています。その自我の側に偏っていることによって、世界に混乱が起き、私たち自身が変わらなければいけない時が来ています。
しかし、では人間の自我が悪いのかというと、それもまた時代の要請でもあるのです。時代が要請するということは、私たち人間もその中に共にあるのですから、自我の使い方が混乱を生む方向から、自我の使い方が世界の混乱を収めるという方向に、自らを切り替える時が来ているのです。私たち人間の持つ自我は、とても個性的で、多様性に富んでいます。それは植物や動物のような、単純なものではありません。そして多様性に富むからこそ、そのたくさんの自我たちが連動していないと、世界に混乱をもたらすのです。

この「人格を学ぶ講座」では、人格を学ぶ、つまり自我の中身を理解するということで、まず自分の自我がどういう形になっているかということを学びます。そして、ではどんな自我があるのかという多様性を今、学んでいます。
これは、とても愉快な世界です。何という多様性の世界でしょう。しかしその多様性ゆえに、お互いを理解し合えないと、その多様性が混乱のもとにもなります。一人ひとりの人間が、自分に意識が行きすぎると、自我が強くなります。そうすると天とのコミュニケーションを忘れ、忙しい、忙しい、と生きることになります。そして人の心を忘れることになるのです。ですから、私たちはもっと心に余裕を持たなければいけません。

どうぞ皆さん、時々、この地球の動きを感じてください。朝が来た、でもいいですし、夜が来た、でもいいです。その、一日の動きを感じてください。そうすると、「忙しい」とか「忘れる」のサイクルではなく、人は天と共に生きるサイクルに戻れるのです。

 

 


たくさんの人に明るい人生を与えてください ~ 私たちが「人格」を学ぶ意味

1ヶ月間の真学校・第8日目。
いよいよ、1ヶ月間の中でももっとも多くの時間をかけて学ぶ「人格を学ぶ講座」が始まりました。以下、講座開始にあたってのいさどんのお話をお届けします。

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いさどん:
新しい週が始まりました。先週1週間は、現代の世界情勢を知り、宇宙をカタカムナで分析するということをやりました。私たちはどういった時代に生き、その中でどのような個性を持ち、どう生きているのか。その結果、自分自身がどのような状態になっているのか。多くの人は、そのことを詳しくはわかっていません。

人生の波があるとしますね。ある人は、その波の中を泳いでいます。ある人は、波にのまれて溺れています。泳いでいるのは、自分の意志がはっきりして、人生を歩んでいるという意識のある人です。一方、人生の海で溺れている人もいます。それはあまり印象の良い人生ではないですね。もうひとつ、サーファーのようにその波を楽しんでいる人もいます。しかしその楽しんでいることが、良いことなのか悪いことなのかは、理解できていません。

人間は、自らの感情的な欲求を満たしてやることが幸せだと、勘違いしているところがあります。それが幸せだと思っていても、実は社会や、自分自身に対してさえも、良くない事をしている場合もあるのです。不幸だと思っていることが、実は今の社会の仕組みや今の時代を表していることもあります。ですから私たちは、自分のしていることがどのようなことなのかを、もっと大きな視点から観る必要があるのです。特に、溺れている人にとってそれは大切なことです。元気に生きている人たちにとっても大切です。なぜなら、その元気で幸せな暮らしが、世の中に悪い影響を及ぼしている可能性もあるからです。

今日から、「人格を学ぶ講座」に入ります。人格とは、皆さん一人ひとりの性格です。人間はそれぞれの人格によって物事を判断し、そして行動します。その行動の結果を受けて、喜んだり、悲しんだりするのですが、その受け取り方もそれぞれの人格によって変わります。皆さん一人ひとりの人格が、人生のすべてにおいて影響しているのです。

私たちは人生の中で様々な出来事に出会いますが、同じ出来事に出会っても、それに対する反応は人それぞれに違います。ところが人生を雑に生きている人は、みんな一緒だと思っています。そして自分の考えを正しいと思っている人は、人にそれを押し付けます。親が子どもにとか、先生が弟子にとか、政治家が国民にというように、いろいろな形があります。優れているとか、正しいという立場に立っている人ほど、そういうことをするのです。

人格を学ぶと、人間は一人ひとり違うことがわかってきます。私たち一人ひとりは地球の細胞であり、各細胞はパラボラアンテナでもあるのです。一人ひとりがそれぞれの独自の視点からこの世界を感じ、得たものを情報として社会に共有すると、社会はその多様性ある反応を分析し、結果としてみんなが喜ぶ世界になります。私たちはアンテナを張り、情報を集め、それぞれに得た情報を共有して、地球が健全になっていくために活かしていけるのです。

人間の体は、ネットワークです。このネットワークは、様々な機能が連携し、互いに情報交換しながら、人体というひとつの生命体を成立させています。そこでは細胞の一つひとつに魂があり、意志があり、それぞれに独立した自分のポジションで得た情報を互いに交換しながら、人体全体の健康を保っています。その姿は、地球生態系とまったく同じです。地球生態系が健全であるためには、私たち人間が、それぞれに違ったポジションで得た情報を互いに交換しながら、その情報を地球全体が健全になるように活かしていくのです。

そのためには、皆さん一人ひとりの人格の個性を理解することです。いろいろな人たちの情報を得て、それを正しく活かすと、社会が健全になります。そして、なぜ自分はこんな出来事に出会うのだろうかとこれまで疑問に思っていたことの、発生の仕組みが理解できると、一人ひとりも明るく健康になります。人は、暗くて物が見えないと不安になるのです。しかし、その問題が解決しなくても、どうしてそうなったのかがわかるだけで楽になるのです。

そんなことについて、この講座では学んでいきます。皆さん一人ひとりの現在の状態を明るく軽くすると同時に、これをしっかりマスターして、たくさんの人に明るい人生を与えてください。

 

 


受講生といさどんとの対話・サリちゃん編

12人いれば12通りの学びがある、1ヶ月間の真学校。アメリカ人の父と日本人の母を持つ25歳のサリちゃんは、他者の善意を引き出すことが真学校中に学びたいことであり、自らの天命だと語ります。そんなサリちゃんは、真学校7日目の日記に次のように書いていました。

――

いさどんが言うように、わたしは自分を「かわいい」とは見ていません。だから、いさどんがわたしのことをかわいいと呼ぶと、わたしはいい気分がしないのです。なぜなら、あなたがわたしのことを本当にかわいいと思っているからそう言うというよりも、わたしがもっと自信を持てるようそう言っているとわたしは感じるからです。わたしは冷静なとき、みなさんがつくってきたこの素晴らしい環境でもっと自信をもっていられます。だから、いさどんは、わたしが自信を持てるようかわいいね、とわたしに伝える必要はないのです。わたしは自分自身を知り、自信をもって、地球や自然にとって良い仕事をしていきたいのです。

――

そして、その後いろいろな感情が洪水のようにあふれてきたサリちゃんは、いさどんとの面談を希望しました。

サリちゃん
サリちゃん

サリちゃん:
今日は時間をとってくださってありがとうございます。わたしは自分のエゴに対してたくさん取り組むべきことがあります。おそらく、いさどんのほうがわたしのことをもっと知っていることでしょう。

いさどん:
客観的にあなたを観ていますからね。

サリちゃん:
いさどんのわたしに対する客観的視点を聞いてもいいですか?それを教えてもらって学びたいのです。

いさどん:
人は自分をこういうふうに思われたいと思っているところがあります。しかし、現実の自分とこういうふうに思われたいという自分の願望にはギャップがあるのです。そして、自分が思っている自分と、他者が共通してあなたに感じるものには違いがあるのですが、事実、多くの人が共通して感じることが自分自身なのです。

ところが、自分がこういう人でありたいと強く思う人は、他者から見える自分を受け入れられないのです。他者から見える自分と自分から見える自分が共通していることが正しい自分の捉え方なのです。そこに矛盾があると、人は悩みます。

サリちゃん:
では、どうしたらわたしはわたしらしくいられるのでしょうか?

いさどん:
そこで「わたしらしく」というのは、どこから見える自分が一体わたしなのかということです。つまり、自分を捉えるときにいろいろな捉え方がありますね。自分が自分らしくいたいという感情が働くのは、特定のイメージの中に置いた自分のことなのです。

サリちゃん:
ハッハッハ!わたしはそうしていますか(笑)?

いさどん:
それはあなたがそう置いていないと思えば、置いていないのです。ギャップや苦しみはそのようなところから生まれます。

サリちゃん:
振り返ってみると、わたしが友達と一緒にいるときは自分らしいと思います。でも、他者がわたしのことを違うように見るということは、わたしは自分自身ではないということですか?

いさどん:
では、どういう自分が自分らしいと思うのですか?そこには何か特定のイメージがありますよね。そして、あなたはいくつかの自分を持っている中で、こういう自分は自分らしく、こういう自分は自分らしくないと分けているところがあるのです。しかし、あなたが嫌な自分も好きな自分も、どれも自分なのです。

サリちゃん:
わたしの中の矛盾を少しずつ理解できてきました!もう、答えがわかってきたように感じますが、わたしはここから進むしかありませんよね。そこから本当の自分らしく生きていこうと思います。

いさどん:
そこで、真実をどこに観ているかが重要です。真実はたくさんあるのです。

サリちゃん:
たとえば、わたしは無駄を発生させる物質主義の表面的な世界に反対しているとしますよね。しかし、わたしは新しい靴を買いたいと思って、そういう欲望とともに生きているとすると、わたしがどのような世界を創りたいのかということに焦点を合わせられなくなってしまいます。これはひとつの例です。

いさどん:
それをあなたはどうしたいのですか?

サリちゃん:
今、わたしは自分が正しいと思うことをしています。今は精神性について学び、精神性を高めようと取り組んでいます。そして、1ヶ月間の真学校が終わってアメリカに戻ったら、わたしが学んだことをまわりにいる人々に広めたいと思っています。

いさどん:
あなたが魂として成長することを望んでいるとして、それはどのような取り組みで成長しようとしているのですか?

サリちゃん:
わたしに起きている現象から学び、それが何であるのかを知ろうと思っています。

いさどん:
具体的な話をしますね。たとえば、あなたは自分をかわいくないと思うのですよね。

サリちゃん:
・・・今は自分をかわいいとは思いません!

いさどん:
「今は思わない」という言葉の奥には、かわいい自分でありたいという心があるのです。それで、わたしがあなたを観て、あなたがかわいいと思うからかわいいと言うことに対して、あなたがかわいくないと思うのはあなたの主観ですよね。しかし、わたしがあなたをかわいいと思うのはわたしの自由です。わたしは別にあなたを貶めようとしているわけではなく・・・・

サリちゃん:
(いさどんの話をさえぎって)いさどんがわたしのことを貶めようとしているとは思っていません!

いさどん:
ハッハッハ。ですから、わたしに悪意はないのです。

サリちゃん:
それは確かにわかっています!!

いさどん:
しかし、悪意がない心を受け取って、あなたは不愉快になるのでしょう(笑)?

サリちゃん:
もし、いさどんがわたしとふたりでいるときに、わたしのことをかわいいと言うのであれば、わたしは喜んでそれを受け取ることでしょう。しかし、皆の前でいさどんが何度もそう言うと、わたしのシャイな傾向を見せてきたので、わたしがもっと自信を持てるようにいさどんがそう言っているように感じてしまうのです。

いさどん:
それは日記にも書いてありましたね。わたしはその都度そう思うから言っているだけなのです。わたしは正直な人ですから。

サリちゃん:
はい!

いさどん:
それなのに、その結果あなたはかわいくない人間をそこで出すのです。

サリちゃん:
ハッハッハ。そうなのです(笑)!!

いさどん:
でも、そのような小さなことが心に引っかかっているあなたは、かわいい人ですけどね(笑)。

サリちゃん:
ハッハッハ。

いさどん:
そこにはもうひとつ別の想いが入っていて、かわいいというのは子どもっぽいということであり、もっと大人になりましょうということでもあるのです。サリちゃん、かわいいね(笑)!

サリちゃん:
はい、成長します(笑)!成長していきます!!

いさどん:
今あなたがそこを克服すると、ハワイへ戻ったときに成長したあなたをまわりの人たちに見せられますね。

サリちゃん:
そうします!

いさどん:
もうひとつ、わたしが話すときにあまり頭は回っていないのです。瞬間的に言葉が出るのです。たとえば、「サリちゃん、かわいいね」と言う場面を振り返ってみると、イメージとしてはあなたとふたりだけで言う言葉ではないのです。それは皆がいるところで言うべきことだと思うのです。さらにそのときの情景を振り返ってみると、あなたは皆のアイドル的存在でいなさい、ということでもあるのです。そのように皆に愛される人でありなさい、ということをその場面では伝えているのです。しかし、実際のあなたはそこで卑屈になっていて、かわいくないのです(笑)。

サリちゃん:
本当にそうですね!1ヶ月間の真学校の中の「人格を学ぶ講座」で、いさどんはわたしのことをキャパが小さいと言いましたね。

いさどん:
あなたは最初、自分のキャパが小さくないと思っていましたね(笑)。

サリちゃん:
はい!でも、よく考えてみたら、自分のキャパは小さいのだと気付きました。

いさどん:
ハッハッハ!だから、講座の中で何度もわたしは、人間はうそつきだと言いましたね。

サリちゃん:
でも、意図的にうそをついたわけではないのです!

いさどん:
それはもちろんそうなのですが、人間は本能的にうそつきなのです。動物はそのようなことはしません。いさどんのほうが理にかなっていますね(笑)♪

サリちゃん:
そうですね(笑)!わたしの傾向として、物事を分析しすぎて悩みや不安が出てくるということがあります。

いさどん:
それは、分析しすぎるということでもあるのですが、たとえばここに分析する対象があるとしますね。それを分析するということは、その対象の中を開いて徹底的に調べていくようなものです。しかし、あなたの分析は対象を目の前に持ってきたら、それをひっくり返して調べていくようなものです。そのようなあなたのねじれた性質は、あなたに出会ったときから感じていました。

サリちゃん:
最初からですか????

いさどん:
今回あなたが1ヶ月間の真学校に参加した目的は、あなたの目覚めです。そのためにどのような手助けができるのかと思いながら、前もってあなたを分析しましたし、そのように毎日あなたに接しています。

サリちゃん:
わたしは自分のねじれを解きたいです!というのも、ここ数年間、わたしが実際してきたこととわたしの想像の中で起きていることの間に大きなギャップがあるのです。ですから、わたしはもっと積極的になりたいのです。

いさどん:
ということは、あなたは行動はしているけれど、思考との間にギャップがあるということですか?あなたの場合、思いを浮かべ、行動することの間に何かがあるのではないですか?たとえば、思ったことをやっていいのだろうかとか、やったらどうかなってしまうのではないかという余分な思考があなたにはあるのです。

サリちゃん:
そうです!

いさどん:
そこでスムーズな行動の仕方は、まず思い、その後行動に移すための調整を行い、それから行動をし、そして行動した結果とともに振り返るのです。結果とともに検討するということは、真実を検討することです。しかし、行動する前に結果を考えてしまうと、実際とは違うことを考えてしまい、それ自体が余分なエネルギーなのです。その思考がたくさん膨らむと、疲れてしまいますね。そして、結果と違う答えでも引き出してしまいます。簡単に言うと、あなたは余分な思考をまわしています。あなたの場合、思考回路が豊かではないのにたくさん働かせてしまうので、だからあなたのような人は疲れてしまうのです。

サリちゃん:
そうすると、わたしはただ思い、行動して、結果をもらうということを繰り返していけば、もっと省エネで生きられるということですね!

いさどん:
そうです。結果を得てから、判断することが大切なのです。しかしあなたは、結論を得る前に不確かな判断をしてしまい、判断するのが早すぎるのです。

サリちゃん:
いさどんが今伝えてくれたことは、昨日わたしに起きたことでもあります。だから、状況はどんどん悪くなって、混乱してしまうのです。

いさどん:
そうですね。

サリちゃん:
昨日の朝、日記を書いていたら感情があふれてきて、そのまま午前の講座中も感情的になっていたので、わたしの感情を手放そうとしていました。しかし、同時に講座の情報がわたしの感情を増幅させ、何らかの理由でそうした感情を手放すことができなかったのです。正しいということはないかもしれませんが、そのときにいさどんが今伝えてくれたような行動のプロセスをとればよかったと思っています。

いさどん:
現象が起きたときにそれを真実だと受け取ることは、人によっては起きた現象を受け入れられないので、その現象をなかったことにしたいと思うのです。ですから、起きた出来事を常に真実として受け取る姿勢が大切です。それは、まだ起きていないことを想定せず、起きたことを拒否しないという姿勢です。そのように、常に起きたことに対してだけ思考を回していけば、効率的で潔く覚悟のある捉え方ができるのです。それが普通の人の効率的な思考の回し方です。

そこからさらに、いろいろな出来事に対する思惑がない状態、つまりエゴがない状態になれば、その出来事は実は宇宙の流れだと気付きます。それは星と星の関係と同じであり、自然界の成り立ちと同じように、とても効率よく事は成っていくのです。エゴがなく効率の良い流れに乗ると、自分が思考をまわして考えたこととは違う気付きが湧いてくるのです。そうすると、自分が思っている以上に事がスムーズに成っていくのです。

この世界にはそのような順序があり、1ヶ月間の真学校は人間の考えを超えた流れを人生の中に取り入れて生きていく講座なのです。

サリちゃん:
はい!わたしはそれを今学んでいる最中です。

いさどん:
しかしその前に、今、それに対する自らの心の準備をしているところなのです。決して遅くはないですよ♪できればこの1ヶ月間の真学校中にそれが理解できたらいいですね。もしくは、今回の取り組みがそれをマスターするためのきっかけとなれば、それはそれでもいいのです。人が生きると良い風が吹いて、良い場所になることをわたしはいつも望んでいます。そのためには、まず正直であることが大切ですね。

サリちゃん:
感情があふれてきた昨日はさておき、わたしはいつも良い場所をつくっていますか??

いさどん:
あなたは辛そうですね(笑)。

サリちゃん:
そういえば、わたしが昨年11月に初めて木の花に来たときに、ようこからもそう言われました!ようこは、わたしが楽しそうに見えるときもあれば、辛そうに見えるときもあると言っていました。それを聞いて、わたしはとても驚いたことを覚えています!

いさどん:
ハッハッハ!まりねえのことは知っていますか?彼女はとても明るい人で、冗談をよく言う人でした。しかし、初めてわたしが彼女に出会ったときに、「あなたはとても暗い人ですね」と伝えたのです。彼女は「えっ!!!」と驚いていたので、彼女の暗さの理由をそこで説明してあげました。つまり、彼女は皆の前では自分が明るい人だと思われたいために明るく振舞うのです。そして疲れて、ひとりになると暗くなるのです。わたしは彼女がわたしたちと一緒にいるときの姿を伝えたのではなく、わたしたちと会っていないときの彼女の姿を伝えたのです。

サリちゃん:
いさどんの言うことは本当によくわかります!わたしの両親が離婚したとき、わたしは幸せを偽っているような状態でした。それから大学時代を通し、自分の本質に戻るために瞑想やスピリチュアルなことに出会い、自分が何ものであるのかを少しずつ理解するようになりました。そして今、真の幸せを心から感じています。友達と一緒にいるときなど、心から真の幸せを感じるのです!・・・でも、実はそれは真の幸せではないのでしょうか??

いさどん:
人間はうそつきなのです(笑)。

サリちゃん:
それはどういうことですか???わたしは、本当は幸せではないということですか???

いさどん:
あなたが幸せかどうかは別にして、あなたは今までそのような人生を歩んできたということは事実です。

サリちゃん:
それはわたしが幸せを偽ってきたということですか?

いさどん:
あなたにとって、幸せということが人生のテーマのようですね。幸せであるかどうかを語る人は、今までの人生が不幸だったという思いがあるからなのですよ。

サリちゃん:
ハッハッハ!

いさどん:
それほど不幸だったのですか(笑)?

サリちゃん:
今、わたしが幸せについて話しているのは、いさどんはまりねえが幸せであると語りましたね。だから今、わたしは幸せについて話しているのです。

いさどん:
わたしはまりねえの幸せの話はしていません。彼女は妙に明るく振舞っていたので、「あなたは暗い人ですね」と彼女の別の姿を想像して伝えたのです。そうしたら彼女は「えっ!!!」と言ったものの、「わたしは本当は暗いのです」と本当のことが言えたのです。それで彼女が幸せになったかどうかは別として、その結果彼女は楽になったのです。

わたしはあなたを観ていて、皆の中で明るくしているのが似合っていると思うのです。そういうイメージがあります。だから、「サリちゃん、かわいいね!」と言うのです。そして、あなたもそういう人でありたいと思っているはずです。

サリちゃん:
それが天からわたしに与えられた資質だと気付いています。

いさどん:
そうです。それは、あなたの真我です。本当のあなたが輝いている状態がかわいいと思うので、そう伝えているのです。ですから、これは神様のメッセージなのです。わたしには何の責任もないのですよ♪ただ本当のことを言っているだけなのです。

サリちゃん:
ありがとうございます!これからは自分自身をもっとさらけ出していくことに取り組んでいきます。

いさどん:
そうですね。そうすると、風通しが良くなります。一番の主役はあなたですからね。自分の心が広く、オープンな人であれば、心地良い場所が自然とできてきます。しかし、自分の心が狭ければ、極端なことを言うと、自分としか向き合わなくなり、中には自分とも向き合わない人もいます。すべてはあなたの心次第なのです。

サリちゃん:
そうですね!今日は時間を持ってくださってありがとうございました!

いさどん:
また話す時間を持ちましょう♪

――

 
今、1ヶ月間の真学校は3分の1が過ぎたところです。これから、サリちゃんの真我はどのように花開いていくのでしょうか。みなさん一人ひとりの目覚めが連動して、今という時代を創っているのです。

「1ヶ月間の真学校」塾長・いさどん
「1ヶ月間の真学校」塾長・いさどん

 

 


8日目「人格を学ぶ講座2」

一昨日の「人格を学ぶ講座1」に続く第2弾!
カルマ読みや地球暦といった手法を通して、表面からはなかなかわからない、その人の本質を読み解いていきます。人はどうすると健全になるのか。いさどんが語ります!

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いさどん:
人間というのはとても個性的で一人ひとりオリジナルにできています。しかし、一般的な人間関係においては、そのことがわからずに、相手に対してとても雑に接しています。例えば表面的には弱いように見える人が、実は弱さを演出して自分を主張している場合もあり、それにごまかされていたりするのです。人間の本質を見抜くことは、実にやっかいで難しいものです。

そういった精神構造の実態がわかればわかるほど、人間とはとても扱いにくいものだとわかってきます。ですから、相手をよく理解していくことが大切です。僕は今までたくさんの人間と出会ってきましたが、素直な心で生きている人間とはあまり出会ったことがありません。そして、そのような人たちと付き合いながら人間というものを探求してきた結果、極めて人間不信となりました。

多くの人は、自分で自分の姿を観ることはできません。それは、自らの実態を直視しようとしないということでもあります。そこで他者からの客観的な視点が必要になるのですが、人から伝えてもらう時に最も大切なことは、素直になるということです。まず、素直に自分を表現する。それは正直であるということです。自分の本当の気持ちを出して、その結果起きることや、それに対する相手からの反応を素直に受け取っていく。そうすれば、どんな人でもすぐに健全になれます。

人は過去世において、どのように生きたかによって、個性のベースができあがります。その積み重ねが、人格の元となるカルマを形成しています。そしてそのカルマが今世でどのように表現されていくのかは、今世の生きる姿勢にかかっています。カルマは個性ですから、有効に表現することもできれば、有害なものとして表現することもできるのです。
カルマは、小さな子どもの頃から、個性として表れます。子どもは社会経験が少ない分だけ、人から伝えられた時に、素直に受け取っていくことができます。しかし、年齢を重ねるにしたがっていろいろな経験をしていく中で、その人の性質が自らのカルマをどの方向に向けていくかによって、濁りや歪みが積み重なり、受け取ることがだんだん難しくなっていくのです。
幼い頃から確実に表れてくる人それぞれの性質を客観的に観て、そこにある矛盾を冷静に捉え、寄り添っていくようにすると、その人本来の個性が素直に表現されるようになります。そうすると、その子はとても個性的で素直な子どもになります。しかしほとんどの子どもは、そうはなりません。なぜなら、周りの環境が人格の形成に大きく影響するからです。それは先天的にそういった道を歩む定めがあるとも言えますし、後天的な出会いがその人の人生に加味されているとも言えます。つまり、その人のカルマに相応しく経験するようになっているのです。

例えば、ある年齢まで普通の環境で育ってきて途中から木の花に入ってきた子どもは、3歳までなら素直になるのは早いのですが、それを超えると修正するのがだんだん大変になっていきます。素直になる環境に来ているのに、素直になることに自我が抵抗して、その環境が苦痛になるのです。それでも年齢が若ければ若いほど早く歪みは取れていきますが、20歳を超えると、素直になることが自分を否定することであるかのように感じるようになるのです。
そうすると、たとえ伝えられたことの意味を理解しても、それによって自分が否定されたと思ってしまうため、いじけたり、自分を守ろうとしてその状態を維持し続けることになります。それがさらに継続していくと、それが固定された状態になってしまうのです。
ですから、年を取れば取るほど、素直になるためには相当なパワーと自覚が要ります。そこにメスを入れずに歪んだ状態のままで生き続ければ、物理的な現象でも、対人関係でも様々な問題の発生源となり、そういった人生の繰り返しにつながるのです。しかし、生きている限り、手遅れではありません。生きている限りチャンスがあるのですから、命がなくなるまでそのチャンスを活かして、少しでも次の為の良い種を播きたいものです。

あわちゃん:
今の話はすごいポイントですね。木の花では「正直、素直、信じる」ということを大切にしていて、正直な気持ちを出したことに対して周りから率直なフィードバックが返ってくると「正直に出せと言ったから出したのに!」と不満を言う人がいるけど、正直に出したからこそ、率直なフィードバックをもらって自分を客観的に知ることができるわけだから、正直に出すことと素直に受け取ることはセットなんですよね。

さこちゃん:
今までの自分を捨てたくなくて、泣いたりしてきました。

いさどん:
そんなに今までの自分を捨てたくなくて悲しいなら、それをそのまま持っていればいいのに、持っているのは嫌だと言うのです。嫌なくせに、それを持ち続けて泣いている。そして自分でもそれが嫌なのに、人から「それを持つのをやめなよ」と言われたらそれもまた嫌だと言う。
なぜそういう状態になるのかと言ったら、心の枠が狭いからです。キャパも小さく視野も狭い。ですから、それを超える一つの方法として、世界観を広げましょうと伝えているのです。自分のことばかり考えて自らの興味にだけ意識を向けるのではなく、多角的な視点を持つための情報を取り入れ、視野を広げていくと、自らのこだわりに囚われなくなり柔軟な物事の捉え方が身に付き、嫌な自分を捨てやすくなります。そういった視点を持ち柔軟性が身に付いた人は、他者の為になる人です。それは社会にとっても大切な存在であり、今、そういった人たちが必要とされる時代が来たのです。

これまでの世の中は、経済が大きく広がり物理的に豊かになり、そういった価値観一辺倒の、質を問わない時代でした。物の質は問われてきましたが、心の質は問われなかったのです。しかし、心の質が雑であれば、世の中全体が雑になります。人間関係も雑なら、物の本質も雑なのです。そして物があふれればあふれるほど、世の中が雑になっていきました。そこで、その切り換え時にはどういった意味があるのかということを考える必要があるのです。

ここには、たくさんの人が訪れます。以前は僕も、一人ひとりの人をきっちりと治してやろうという気持ちがありました。僕も一生懸命だったのです。しかし、その人の問題なのに僕の方が一生懸命になっていて、本人は熱心ではないというケースもありました。その人を改善するために、僕の方が何とかしようよと言っている。中には、自分がそうできないことの怒りを相手にぶつけてくる人もいました。そこで僕も、嫌ならやめたらいいんだよ、とどんどんシビアになっていきました。本人が求めれば、どこまでも付き合います。しかし求めない相手に付き合っていてはエネルギーがもったいないですから、それならば好きにしなさいと言うようになりました。それで最近は自分の方からエネルギーが出ていかないので、このように体に蓄積されてふくらんでしまいました(笑)。

何が言いたいのかというと、自分が一生懸命になれば道は開かれるということです。反対に、駄目だ駄目だとか、誰か救ってくれないかなと言って努力しない人には、道は開かれないということです。
自分の人生は、自分で歩んで開いていくものです。だからこそ、自らの中にあるものを積極的に出す。正直に出す。そして結果を素直に受け取る。「正直」という言葉がありますが、これは「正しく直る」ということであり、表に見えている姿勢が実際の自分の姿を表しているということです。外と内が違っていてはいけないのです。かっこいいも悪いも関係なく、いつでも本当の自分を出す。それはなかなか勇気のいることです。「正直」とは、今の実体そのものになるということなのです。

そして「素直」とは、素のままの本質に戻るということです。とかく人は、こういうふうに見せたいとか、こういうふうに受け取ってほしいというような思惑を持つものですが、本当は人間は楽になりたいのです。楽になるとは、負荷がかからない状態になるということです。「素直」とは、負荷のかからないリラックスした状態のことであり、顔と心が一致しているということです。
そう考えると、のぶくんの場合、知らない間に緊張して、こう見られるのではないか、ああ見られるのではないかと、心も体もとても緊張している状態ですね。そうではなく、「素直」というのは、負荷をかけずに実体のままにあるということです。

「正直」「素直」というのは、正直でなければ素直になれないし、素直でなければ正直になれません。これは連動しているのです。そしてもう一つ、「信じる」があるのですが、信じるというのは難しいのです。何故かと言うと、ここでの信じるというのは、本当がわからない状態でありながら信じて行くということを意味するからです。
例えば何かを始める時に、これは自分にとっていいことだと考えて、それがわかってからやろうとする人は、信じたことにはなりません。ほとんどの人は、これは間違いないと自分で納得してからことを始めるのですが、「信じる」というのは、納得できなくても、わからなくても進んでいけるということであり、自分の安心を何かに託せるということなのです。
それは、自分自身を、自分ではない何かに託せるということです。とてもハイレベルなことですよ。信じる心に至るには、勇気が要るのです。そしてそこには、わからなくても「そうだ」という確信が要るのです。木の花には『信じる心』という歌があります。「わからないけれど生きていく」「信じる心で生きていく」という歌詞が言っているのは、そこなのです。

かずえちゃん:
それは直観ですか。

いさどん:
そうです。「正直」で「素直」な心があるから勇気が生まれて、「信じる」になるのです。

 
信じる心

わからないけれど 生きている
信じる力で 生きている
わからないけれど 生きている
信じる心で 生きている

みんなで共に生きていることの この貴さを知らせよう
ひとりだと思い込んで生きている魂たちよ
みんなでつながっていることを思い出そう

わからないけれど 生きている
信じる力で 生きている
わからないけれど 生きている
信じる心で 生きている

砂に埋もれた希望の星を今 みんなで掘り起こして
空では星が歌っている つながっていると歌っている

わからないけれど 生きている
信じる力で 生きている
わからないけれど 生きている
信じる心で 生きている

 
いさどん:
信じる心は、勇気と確信がなければ持つことができません。そして「正直」「素直」「信じる」の3つは順番ではなく、セットなのです。
人にはそれぞれ、いろいろな心の癖がありますね。それを道理で伝えられた時に素直に聞いていくと、この人の言うことは本当だ、この人は私より私のことを知っている、だからこの人に賭けよう、という確信が生まれてきます。そうしたら、どんなに難しい病気でもたちどころに良くなります。その勇気と確信が信じる心になる期間が、木の花ファミリーの自然療法プログラムで言う、治療期間です。

実はこれまでは、現代的な医療の概念に浸かっている一般社会の人々には、こういった話はなかなかできませんでした。なぜなら、人々は、今自分が抱えている問題ごとは自分で解決するものではなく、人に託して解決してもらうものだと思い込んでおり、自らがそれを創り出したものだという解釈がないからです。ですから、自分は病気で、分析不可能な混乱の中に入っていると思い込んでいたのです。
しかし今、時代はこういったことまで皆さんに伝えられる段階になってきました。そして、物理的な問題ごとを生み出す自らの性質が客観的に観えてくれば、自ずと病気にもかかる必要がなくなるのです。なぜなら病気は、物事の本質が観えずに矛盾を発生させる自らの性質に対しての警告、もしくは気付きを促す作用だからです。

我々がこの世界に生まれてきて、なぜ問題事が与えられるのかと言うと、自らの魂にふさわしく、気付くために与えられています。それをどんどん素直に受け取って気付いていく人は、早い段階で自らの課題をクリアしていくことになります。特に子どものうちにこのような環境で育つと、初期の段階でクリアするのでさわやかな人生を生きられるようになります。そしてある段階から、自分ごとではなく、人の為に生きられるようになるのです。
皆さんも、今まで自分のことばかり考えて生きてきたということを振り返ったなら、まだ手遅れではないですから、ここから切り替えて、自らを人の為に役立てる人生を生きてください。そうすれば、誰もが希望を持って生きていくことができるのですから。

 
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☆さてそれでは、どのように個々の人格を紐解いていくのか。
 詳細は、「1ヶ月間の真学校2017」へどうぞお越しください(^v^)ゞ

 


6日目「人格を学ぶ講座1」序章の話

2016年度1ヶ月間の真学校では、最初の2週間で全8コマの「人格を学ぶ講座」を受講します。名前からその人の魂の陰陽や性質を読み解く「カルマ読み」、生まれた日の惑星配置から天命を知る「地球暦」、そして日本語の元となった48音の思念を通して生命の本質を解き明かす古代文明「カタカムナ」という3つの手法を通し、受講生一人ひとりが自らの人格を客観的に捉えた上で後半を迎え、さらに学びを深めます。
それまで知らずにいた自分自身の本質を知ることで、驚く人あり、深く納得する人あり、時には「そうだと思いたくない」と抵抗する人あり。しかしこれは、自分に都合の良い情報だけを取り上げて自己満足するための占いではないのです。

1ヶ月間の真学校の基盤とも言えるこの講座の冒頭に、「序章の序章の話」として、なぜこれをやることが大切なのか、その意味をいさどんが語りました。

まりちゃんが作った新しい服を着て
まりちゃんが作った新しい服を着て

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僕は、いろいろな情報を得るときに、自らの感情を入れないでその情報を捉えましょう、とよく言います。それは、情報に感情がオーバーラップしてしまうと、真実が観えなくなるからです。まずは自分の思考のクセをよく把握し、その上でそのクセを意識しながら情報を聞くと、ものごとを客観的に捉えることができます。

人は自我に目覚める以前より、育てられる環境に反応し、適応することによって、内に秘められた人格が湧き出てきます。そして人間形成が進んでいくのです。
人格の成り立ちを緻密に振り返ってみると、様々な洞察が湧き出し、その人格がどのように形成されてきたのかという流れを観ることができます。その流れの中で築かれてきた人格が、私という存在です。
ある程度年齢を重ねていくと人間関係が広がり、他者との違いを通して自らがオリジナルな存在であることに気付いていきます。人によっては、そのオリジナルな目覚めが他者と違うからと言って辛い思いをすることもあれば、多くの人と同じであることに安心感を覚える人もいます。また、他者との違いから優越感に浸る人もいます。そこで優越感に浸るのか劣等感を持つのか、はたまた安心するのかは、その人の性質によって異なります。あるいは、それまでに育った環境がその反応を引き起こしている場合もあります。
そのようにして、もともと持っていた人格と、後天的な環境などから引き出された人格が折り重なり、その人の自我が創り上げられていきます。その時に、被害者のようになって人生を生きる人もいれば、加害者として生きていく人もいます。また中には、自らの人生をマイペースに生きて他者のことにはあまり干渉しない人もいます。人それぞれで、いろいろな人がいるものです。

このように細かく自らの人格形成の成り立ちを認識していく人は、ほとんどいません。ですから、多くの人は無自覚のうちに形成された人格をクセのように身に付け、そのクセのままに思考し行動していることに気付いていないのです。ですから同じことを繰り返し、「またやっちゃった」と反省したり、人から指摘されて「そういえば前にも同じことを言われてたね」「あなたらしいね」ということになります。自分の中から日々湧き出てくる感情を観察し、自己コントロールしている人というのは非常に少ないのです。

ただ、そのようにノーチェックでクセを出すことで、この世界に波紋を広げていることは事実です。この世界は鏡ですから、自らが世界に波紋を広げれば、それはいずれ必ず自らに返ってきます。因果応報という言葉の通り、この世界は原因と結果の連鎖によって成り立っていますから、何かの形で結果が返ってきたということは、必ずどこかで自分がその原因を発しているということです。その構造がわかったら、原因はどこにあるのだろうと振り返ることができます。それを発したことによって喜べない結果が返ってきたとしたら、今後はそれを発することをやめれば、同様の結果は発生しないことになるのです。

日々自らの中に湧き出してくる感情も、その瞬間にそれがどのようなものなのかを客観的に捉えることができれば、その感情をコントロールすることができます。例えばそれが相手に対して突き刺さるようなものであれば、少し緩めたりして表現すればいいのです。相手に強く突き刺されば刺さるほど、それは自らに強く返ってきます。それは相手が強く発したとも言えますが、強く返ってくるには返ってくるだけの、何かの理由があるのです。

この世界は、目に見える世界と目に見えない世界からなる「現象界(ある世界)」と、それらすべての源となる「潜象界(ない世界)」によって成り立っているということを、カタカムナの世界観から学びましたね。現象界では、光は真っ直ぐに進みます。そして物に当たりながら進むので、速度も遅くなります。しかし、私たちの想いは光よりもはるかに高速です。人がこの世界全体の構造を理解する時、その心から発せられる想いは「アマハヤミ」で宇宙を駆け抜けます。それは一切の抵抗なく人の心すらも通り抜け、瞬間的にいい人間関係作ることができるのです。
ただし、作るといっても、自分の都合の良いように作るわけにはいきません。相手には相手の都合と、精神的な歩みの段階があります。ですから、少なくとも自分からは相手が不愉快に思うような種を蒔かないことです。しかし、時と場合によっては相手が不愉快と思うようなことも、相手の状態を理解しながらあえて発しなければいけないこともあることを、忘れてはいけません。それが他者を想うことであり、自らの気付きを生かすということです。そのように自由自在にトキとトコロをかぎ分け、自らの精神を使い分けることができる人が、自己コントロールして生きる人なのです。

そのように分析しながら毎日を生きている人はほとんどいませんが、そういった構造を体得すると、自らをコントロールすることができるようになります。しかし知らなければ、無自覚に自分の感情を他者にぶつけ続けることになります。その思考回路は、ただ思いついたことを出し、また何かが浮かんだら出すという条件反射的で感情をノーチェックの状態です。そして精神が幼いと、ノーチェックで出した自らの想いが叶うのがいいことであり、叶わないと辛いことになるのです。
けれども、カタカムナの講座でも触れたように、すべての存在はそもそも「間違い」からこの世界に生まれてきています。そして物事が滞ることを通して、人は「正しい」とはどういうことなのかを知るのです。ですから、神様はわざわざ滞りを私たちに与えました。このことを理解できない人は、滞りが起きると「神様はいじわるだ!」と思うかもしれません。けれども、神様も含めたもう一つ大きな世界から観れば、そうではないことがわかります。そのスケールでものごとを解釈できた時に、人は初めて自らのスケールを広げ、大人としての人格を持つことができるのです。

「人格を学ぶ講座」では、まず自らの人格の実態を知っていきます。3つの手法(カルマ読み、地球暦、カタカムナ)を通して、心の形を客観的に捉え、それが現在の自分にどのように表現されているのか、今までの人生を振り返ってどのように表現されてきたか、またその結果を受けてどのように反応してきたかということを紐解いていきます。そして、自分は今世どのような心の性質を持って生まれてきて、それをどれだけ認識して生きているかということを観ていきます。
ほとんどの人はそのようなことに無自覚なのですが、幸せなことに、たくさん問題ごとに出会う人ほど、少しずつそれを伝えられる環境をもらっていることになります。それは神様の愛です。そして、それが自らの中で愛として捉えられているかどうかが、とても重要なのです。

今私たちが生きている時代や環境、民族、国、親兄弟やその他の近しい人々まで、そういったものはすべて、学びとして自らが選んで生まれてきているのです。しかし多くの人は、何か問題が起きると周りのせいにします。周りが間違っているから自分は辛いのだと不満を言うのか、それとも、その問題のおかげで自らの学びを深めることができてありがたいと思うのか、そこには大きな違いがあります。そしてそれは何か特定のものに感謝するということではなく、この仕組み自体が私たちが生まれてきた意味そのものなのです。誰しもそこから離れて生きられる人はいないのです。

僕自身のことを振り返ってみると、なぜ自分のもとにこういった道が与えられたのか、その意味が分かってきました。それはこの時代の人々に、新しい意識を提供するためです。
そう言うと、救いの手を差し伸べられたかのように受け取る人がいるかもしれません。一時はそのように捉えてもいいのですよ。しかし、ぜひその先に行ってもらいたいと思っています。これから学ぶ手法を通して自らを紐解き、それを生かして、世の中に生きることの本当の意味を知ることを広めてもらいたいのです。
生きることの本当の意味を知ったら、人は無駄なことはしません。無駄なことをしないからエネルギーも無駄にならないし、競争をしないから争いも生まれません。生きる意味を知ることは、人の心を穏やかにするのです。それが真の平和運動であり、それこそが、この1ヶ月間の真学校のテーマである「目覚め」の目的なのです。

人は自分を知るために人生を生きていると言えます。自らを知らずにいると、どこにいるのかもわからないままやみくもに生きることになります。世界にたった一つしかない自分物語を、自らが主役となって生きるからこそ、人生を振り返り、一人ひとりオリジナルに与えられた役割を果たすことができるのです。

これまでは、世の中にも、人々の間にも差がありました。そして政治の世界でも経済の世界でも、社会を構成するほとんどの人はリーダーシップをとる側ではなく、ついていく側にいたのです。
しかし今、みんなで創る時代が始まりました。一人ひとりが主役となり、みんなで創っていく。それは本当にやり甲斐のある、希望の持てることなのです。

(いさどん)

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こんなふうに一人ひとりが思えるかが、時代の大きなターニングポイントを迎えるに当たり本当に大切なことなのです。

日常の出来事を受け、小さな心の動きから、それを緻密に観て分析していくことで、自分を知り、他者を知り、世界、宇宙の仕組みを知っていく。そして逆に宇宙、世界、他者の視点から自分を観る。それが循環しながら、一瞬一瞬、自分が意識しようがしまいが波動となってこの世界に表現されていく。自らのカルマを超え、もとの美しいヒビキを持つものになった時、宇宙からのメッセージを受け、それをそのまま表現できるものになる。そこに表されたものは、一人ひとりオリジナルで、しかもそれらの一つ一つは不完全だからこそ繋がりあい、美しいハーモニーを奏でる。その為に不完全さがあるのだから、その仕組みを知り、調和の方へと自らをコントロールしていければ、その不完全さが個性となって輝く。

そんなイメージを日々持ち、自分の人生を大切に生きていれば、愛あふれた調和の世界が遠からず実現できます。大きな構想ですが、それも小さな一人ひとりの意識の一歩から創られていくのです。

(まりねえ)

 


第20日目:自然療法プログラム

今日の午前は、木の花ファミリーで10年ほど前から行っている「自然療法プログラム」についての講義でした。

自然療法プログラムの原型は、今から30年以上前(いさどんが32歳の時)の人生相談という形で始まった。その頃は何でも相談に乗っていて、カルマ読みをベースにして相談を受けていた。

その初期の頃の話がたまたまfacebook にちなっぴーがあげていたので、それをみんなでシェアした。いさどんおじさんと10代のちなっぴーのほんわかした雰囲気が出ていて講義の合間のアイスブレイクにもなった。 木の花ファミリーfacebook

「ケアはテクニックでなく場の力である。」

「ここにいるだけで心身の改善が進む。」

といさどんが何度も語っていたように、どういった場で暮らすのかが一番心の癒しになる。

コミュニティがいいと言っても、群れは良くない。それは傷口を舐めあう関係になれば逆効果。問題とは一人で向き合わなければならない。周りは健全で、それをサポートするのがいい関係。

相談を受ける中で、お母さんが子どもに対する接し方がわからないということがある。自分が子どもから抜け切れないインナーチャイルドの親もいるということからすると、親子の絆や秩序をつけていき、そこに柱(父性)がないのだから柱を立てていくことが大切である。

自然療法プログラムでは必ず定期的に面談を行うのだが、その時の録音テープを聴くことで、客観的に自分を捉えることができる。それは自分で自分の癖や傾向などに気付いていく為に有効である。

面談の他に主治医のいさどんは、つけてもらった日記を点検してコメントをしているのだが、これらを含めても、このプログラムは一人がテクニックを駆使してできることではなく、周りの環境が必要になる。だから一人を健全にしていく為には社会作りが必要となる。

一方、天然循環法の「食」の講座の中でもいさどんが語ったように、病気の中にも治療してはいけないものもある。病気や問題事は因果応報で、自分にふさわしく与えられているのだから、時と場合によっては、治して楽にすると学ぶチャンスを奪うことになり、当事者の成長を妨げることになる。病気や問題事というのは神様からの贈り物であり、なぜそれを与えられるのかを振り返り、健全になっていく為に起こっているということが腑に落ちれば、その問題事は不必要となり消えていくというのが宇宙の法である。

だから、それを伝えることを生業とすれば、霊的には天の意志に反することになり、人生が終わる時には、それが必ずチェックされる。

けれども浅い意識のところではそのことはいいことになってしまう。いさどんは、初期に神様から伝えられた

「心を語って飯を食うな。」

をずっと固く守り続けている。

この取り組みは、純粋に相手のことを想うことであり、そういう意味からも「治療」ではなく、「世直し」だといさどんは語った。

自らの心の癖を知って自己コントロール(洗心)し、上手に使い分けていくとそれが個性となる。

自分のエゴ(我)に縛られているのに、好きなことをしてそれが叶うことが自由だと思っている。本当は、エゴ(我)を手放していくことで自由になるのにはき違えている。このように物の価値観がひっくり返る転換期が来ている。歪みに執着していると楽にならない。本来全てのものは、もとの響きの健全な状態になろうとしている。それが嫌だといって病気になったり、嘘をついたりして無駄なエネルギーを使っている。物事が自分の思い通りにならないのは本当は有難いことなのだ。

今の時代を見ても、いいと思ってやっていることがおかしな結果になっている。(例えば、昨日テレビで観たネットバンキングの被害では、便利だとうたってお客を獲得してきた銀行が、知らない間に何者かにネットバンキングの銀行口座からお金を引き出されて、そのセキュリティ対策にお金をかけ、そのセキュリティの裏をかいてまた詐欺が行われる)これはしっかりとした柱が立っていないからで、それに気付かせるために起こっている現象とも言える。

このようなことは宇宙真理であって、決して宗教ではない。

今の世の中には舎利弗(釈迦の十大弟子の一人であり、頭が良くて賢いが、それ故に悟りが遅かったと言われる)のような人がたくさんいて、人より優れていると思い、自己主張ばかりで振り返らないので、自分が正しいと思い、人の話を聞かない。それに対して鳩摩羅什という人は、頭は良くなかったが、尊師の言うがままに生きて早く悟りを開いたように、尊師、即ち宇宙の法に則り、いただく精神で、生かされているという謙虚な心で生きていくことで人間は早く目覚めることができる。

腹を決めると柱が立つ。

そして天とともに地を生きて、菩薩の心を持ちながら地上を生きることができる。

みんな平等であり、「(教育、宗教、医療、政治などの)先生」はいらない。一人一人が目覚めて世界に貢献している理想郷を目指していて、それをまず木の花が表現する為に私たちはこの生活をしている。

現実に、治療不可能と医者から見放された多くのケアの人達が、この自然療法プログラムによって治って社会復帰を果たしている。今回の受講生14名のうち、5名がこのケアプログラムの卒業生である。また、メンバーの中にも卒業生がおり、ケアではなくても、行き詰っていた人達がここで健全になり日々を過ごしている。

この講座を受講生以外の現在ケア滞在中のあっこちゃんも受けていた。日に日に明るくなっていくあっこちゃんを見ると嬉しく有難いなぁと思う。そしてこの気持ちは地球の心だと思った。彼女が社会復帰できることを心から願う。

そのことを考えてみても、このような捉え方で日々を生きることは、人類にとって本当に大切な取り組みであると思う。

そういった意味でも、私達はみんな毎日「自然療法プログラム」を受けながら暮らしていると言える。

 

 

 

 


第8日目:人格を学ぶ講座-2

全日:人格を学ぶ講座

午前中の講座は、これまで学んだ陰陽の仕組みから、まず自分の性格とその活かし方についての話をし、その後、いろいろな人たちの相性を見ていく実習をしていきました。

講座に聞き入る受講生
講座に聞き入る受講生

受講生のやまちゃんからの質問:

「自分は読みにくい名前で中性に近い二文字陽性(6/7 の+1)ですが、性格はネガティブなところがある。それを活かすというのはどういうことでしょうか?」

それに対して、いさどんからは、
「読みにくい名前の人は、他の人に無い発想をする。変わり者であるというのは孤独でもあるが、独創的な道を歩むということでもある。6/7なので、独りよがりで勝手に行く部分もあるが、ぶれないで進めることができる。悪いところを考えるときに、その反対を見ていくとどんな風に見えるか、良いところを考えていくんだよ」と説明がありました。

その後、受講生とサポーターの相性を見ていきました。自分のパートナーや身近な人たちとの相性を計算している人もいました。いさどんからそれに対する解説があり、みんな興味深々。やまちゃんは、パートナーとの相性はバッチリ!関係の改善点までアドバイスがありました。

但し、相性が良いからといって、それが必ずしも良いとは言えません。むしろ相性が悪い人たち同士が実際には結婚していたりすることが多いのです。それは、縁が深いということ。こうした縁による出会いは、そこから学びを得ていくための因縁です。

カルマ読み、己読みが活かされやすい人の特徴
カルマ読み、己読みが活かされやすい人の特徴

 

後半はいよいよ地球暦について。

地球暦の開発者、杉山開知くんとの出会いは3.11の直後。開知くんとの勉強会を経て、地球暦を毎日使っていく中で、木の花独自の読み方が編み出されました。そして、これが個人の天命を知り、それをよく理解して生きることに活かされるためのツールになったのです。

 

名前や惑星に現れる特徴は、今生のテーマで、生まれたときのスタートの状態が表されています。これは生きている間に、自分に足らないものを埋めていきながら変えていくものなのです。占いで運命を見るようなものではないのです。

問題ごとがあるということは、自分のどこをどう改善してよいかがわかると言うこと。

心を磨き、カルマを越え、天命を生きること。それは自然な流れ。宇宙の流れに沿った生き方、自らにも地球にも優しいこれからの生き方です。

その後、冥王星による世代の特徴を見ていきました。今回の受講生の9割は、天秤世代。ニートや引きこもりが多い世代ですが、それも時代の要請に応じて起こっていることなので、悩む必要はないという話になりました。

二度と来ない時空を旅するわたしたち。それぞれが、この宇宙の中で然るべき役割をすべく、この世界に生まれ、そして死んでいきます。この世に生存している期間に、自分の天命に気づかずに死んでいく人も多くいます。

名前講座や地球暦、カタカムナを学ぶことで、自分の心の癖を知り、それを改善し、天命に沿った生き方をすることで、自分もこの世界も調和したものになっていくのです。

いさどんの地球暦
いさどんの地球暦