13日目の午前中はフリープログラム、午後は「コンポストトイレの作り方」及び「微生物資材の培養」の講座がありました。
今回は、現在ミャンマーで行っているビジネスにコンポストトイレの導入を考えているてんちゃんと、持続可能な暮らしの研究のためにファミリーを来訪中のマレーシアの大学教授スバルナさん夫妻も講座に参加し、熱心に受講されていました。
以下、「コンポストトイレの作り方」の講座資料をご紹介します。
13日目の午前中はフリープログラム、午後は「コンポストトイレの作り方」及び「微生物資材の培養」の講座がありました。
今回は、現在ミャンマーで行っているビジネスにコンポストトイレの導入を考えているてんちゃんと、持続可能な暮らしの研究のためにファミリーを来訪中のマレーシアの大学教授スバルナさん夫妻も講座に参加し、熱心に受講されていました。
以下、「コンポストトイレの作り方」の講座資料をご紹介します。
「ジャガイモていしょく」と聞いて思わず「味噌汁は付きますか?」と言ってしまう人もいるかもしれませんが、ジャガイモ定食ではなくジャガイモ定植です。「天然循環法 – 農」の実習第2回目は、春ジャガイモの種芋を畑に植えていく作業体験をしました。
以下、講座を担当した畑隊のカトケンより ────
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3月1日。受講生と畑隊、田んぼ隊のあわせて約20名でジャガイモ定植をしました。受講生たちが種芋を植えやすいように畑にヒモ線を引き、そこに種芋を配りながら、受講生の到着を待ちました。しばらくすると受講生たちが圃場に来てくれ、一緒にジャガイモを植え始めました。農業経験の少ない人が多かったこともあり、最初は慣れない様子もありましたが、時間が経つにつれて一人一人の動きが良くなっていきます。種イモの植える位置もちょうど良いところにおさまっていました。
ジャガイモの種芋
どんどん動きがスムーズになっていく受講生たち
合間にみんなでお茶休憩
太陽の光、緩やかな春風を受け、ともに汗を流し、多くの命の声に耳をかたむけながら作業が進んでいきます。一人一人の意識が自然と高まることで作業の流れが良くなり、こちらが予想していたよりも早くジャガイモ定植が終わりました。
みんなで楽しく植えたジャガイモ。どのような成長を見せてくれるのか楽しみですね。
今日の午後は農の実習でした。講師はカトケン。畑隊の若手で、かつて農業高校の講師をしていました。
まず、最初の実習は「ボカシ作り」。ボカシという言葉、あまり聞いたことがないと思いますが、簡単にいうと、発酵させた有機肥料のことです。
今回は一番シンプルな素材で作りました。
米ぬか10kgに籾殻1kg。そこに、有用微生物が200種類以上含まれる木の花菌(EM菌)から作った活性液と水分を加え、ダマにならないように揉みほぐしながら、丁寧に手で混ぜていきます。米ぬかには油分が多く含まれ、混ぜている手もしっとり。みんな「気持ちいい~!」「おいしそう!」「お菓子を作っているみたい」と楽しそうに混ぜていました。
ボカシの語源は、話をぼかす、色をぼかす、と同じ様な意味合いがあり、有機肥料を微生物により発酵させて、原形からぼかすところからその名前がつけられたとも言います。発酵させることにより、そこにはたくさんの微生物が繁殖し、植物に吸収しやすいものになるのです。
この世界には、空気中にも、土にも、野菜や穀物にも、人間の体にも、目には見えないけれど、あらゆるところに微生物や菌が存在します。微生物や菌には大きく分けて「腐敗」と「発酵」という2つのサイクルがあり、どちらも必要なのですが、発酵の方が私たちのような生命にとって健全なサイクルと言えます。
悪玉菌が活躍すると「腐敗」の方へ傾き、善玉菌が活躍すると「発酵」の方へ方向づけられます。数多くある微生物や菌のうち、善玉菌といわれるものは約1割。悪玉菌といわれるものも約1割。残りの約8割のものが「日和見(ひよりみ)菌」だといわれています。つまり、どっちにも行く可能性のあるものが大多数なんですね。受講生から「菌の世界も、人間の世界も同じだね。面白い!」という感想もありました。
そこで、いかに善玉菌を優勢にしてやるか、発酵の方向へ持っていくかがポイントになってきます。善玉菌が優勢になるためには、適度な温度や水分、空気という環境を整えてあげる必要があります。米ぬか自体にも菌がいるので、環境を整えてあげれば発酵が始まりますが、より発酵の方へ方向づけるために、今回は木の花菌を使いました。
その混ぜたものを、ビニールの袋に詰め、しっかり空気を抜いて、発酵させます。こうして発酵させることにより、例えば豆腐のオカラのようなとても腐りやすいものも、米ぬかなどと一緒にボカシにすると、1年以上品質が変わることはありません。
私たち人類は発酵という文化をいろいろと発展させてきました。農業分野に限らず、味噌、醤油、納豆、ヨーグルト、チーズ、パン・・・などなど身の回りにはたくさんの発酵を利用したものがあります。畑の土の中にも、たくさんの微生物たちがいます。
そして、その微生物や菌は、目に見えない非常に微細な存在で、だからこそ、それを扱う者の発するものが、ダイレクトに伝わってしまいます。
私たちが、畑に立つ時、作物と接するとき、ボカシを作るとき、木の花菌を仕込むとき、子供に接するとき・・・いつでも一番大切にしていることは、そこに向かう心です。
そう考えると、いつでもどこでも自分からいい空気を発することの大切さを改めて確認しました。
次は、「生ごみを利用した堆肥作り」です。
毎日家庭から出る生ごみ。普通は燃えるごみとして焼却されますが、その約4割が生ごみだと言われています。水分をたくさん含む生ごみは、燃やすのにも多くのエネルギーが必要です。
この実習では、通常ごみでしかないものを、資源として生かす。そして、さらに生ゴミを減らすことで環境負荷も減らせる、という生ごみの有効利用を学びます。
用意するものは水切りが出来るスノコのついたバケツ。(ホームセンターなどでも入手できます。)そこに、よく水を切った生ごみを入れ、発酵させるためにボカシを振りかけて混ぜ、手で押して空気を抜きます。それを繰り返して、漬物を作っていくようなイメージで仕込んでいきます。
最後にビニールの蓋をして空気が入らないようにし、きっちりとバケツの蓋をします。
約1週間おいておくと、菌が全体に回るので、いわゆる生ごみ臭さもほとんど無く、それを畑に埋め込んで、畑の肥料として使うことが出来ます。畑のない場合は、それを2倍量の土と混ぜ、生ごみ堆肥にすると、腐敗することなく、いつでも使いたいときに使うことが出来ます。それをプランターの土に混ぜて使ったり、畑にまいたりするのです。
ボカシにしても、生ごみ堆肥にしても、産業廃棄物になってしまう豆腐のオカラや、ごみでしかなかった生ごみが、「発酵」を利用することにより、捨てられてしまう「ごみ」ではなく、「資源」として生かしていけるということなのです。
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野外での実習を終え、室内に戻って、ちょっとティータイム。
受講生から、質問や感想なども出ました。
実家で母親が家庭菜園をしているというあっこちゃん。今まで畑に生ごみを入れると、くさいと周りから苦情があったそうですが、今日学んだことを、早速お母さんに教えてあげたいと言っていました。
さて、次は「活性液作り」と「米のとぎ汁活性液作り」。
調理実習の時のように、テーブルにはボウル、計量カップ、泡だて器などが並べてあります。
活性液は、木の花菌に糖蜜を加え、発酵させます。木の花菌は200種類以上の有用微生物が含まれる液体で、そこに餌となる糖蜜を加え、約40℃のお湯で溶かします。
微生物に餌を与えることで、微生物たちを活性化させるのです。2~3日するとペットボトルがパンパンに膨らみキャップを緩めるとプシュッとガスが抜けるくらい活性化してきます。
この活性液は、畑の作物に葉面散布(スプレー)したり、野菜の苗の水やりに毎日入れたりして、植物を元気にするために使う他、掃除の時に使うと汚れの落ちがよくなり、排水口が臭う時などに流し込むと、臭いが消えたりします。これらは微生物の働きによるものです。
米のとぎ汁活性液は、米のとぎ汁に木の花菌と餌となる糖蜜を加え、発酵させます。使い方は活性液と同じです。
米のとぎ汁と言えば、みなさん「水素水」というものをご存知ですか?
お米(玄米でも白米でもOK)を研ぐときに出る3回目のとぎ汁を密閉できる容器に入れて24時間(夏場は12時間)置くと「水素水」の出来上がり。
水素水は、体内の活性酸素を中和するので、飲むことにより老化防止、腸内環境改善、デトックス効果などの他、掃除の時に使っても汚れ落ちがよくなります。木の花ファミリーでは、キッチンさんが毎日作ってくれるんですよ。(詳しくは、白魔女の天然生活 at 木の花ファミリーをご覧ください。)
話を戻しますね。活性液と米のとぎ汁活性液を作ったら、ペットボトルに入れ、あとは人肌程度が適温なので、毎日一緒にお風呂に入ってもらって、発酵を進めます。ガスが発生し、糖蜜の匂いが消えて甘酸っぱい匂いに変わったら出来上がりです。微生物たちが活発に活動しているのがよく分かるはずです。
かつての真学校では、一緒に布団で寝て、布団の中で爆発してしまうという事件?やお風呂の中で爆発してしまったこともありました。今年は無事発酵させることができるでしょうか・・・?!(活性液爆発事件についてはこちらをご覧ください。)
全体を通して、受講生たちからいろいろと質問が出たりして、楽しい時間でした。オランダから参加している大学院生のニナは、国に帰ってからやってみたいと言っていました。
・・・という訳で、こんな風に、微生物や菌は、目には見えないけれど、とても身近なものなのです。
なぜ木の花ファミリーという暮らしを始めたのかというと、
美しい世界を創りたかったからです ────
講座の冒頭に、そう語ったいさどん。
今日は、そんな暮らしの中から生まれた「天然循環法」について学びます!
このプレゼンテーションは、「農業革命」と銘打っています。「革命」というのは、それまでの意識からガラリと変わり、新たな手法を取り入れるということでもあります。今までの農業のあり方を振り返ると、社会が観えてきます。その社会も含めて革命が起きるということを、農業を通して観ていきましょう。
画面に「生命力を曲げる『農』から『天然循環法』へ」とありますね。日本語の文字に表れている「農」の意味や、近年行われている慣行農法、有機農法、自然農法、そして我々が今現在到達している天然循環法について、説明したいと思います。
私たちの住んでいる地球は、広大な世界です。それは私たちの尺度からするととても大きなものですが、その地球を存在させている宇宙は、それよりもはるかに大きなものです。宇宙からすれば、地球はとても微細な存在です。宇宙の中に私たちが存在しているということは、この巨大な宇宙雲の中にあるということです。そのことをまず最初に考えなければ、私たち個人個人も、人間社会も、この世界に対して傲慢な姿勢を取ることになります。そういった近年の人類の姿勢の結果、現在の人間は環境を破壊し、多くの生命に様々な問題をもたらし、それどころか人類の行く末にも影響を与えかねない状況を生み出しています。
そのような捉え方をすることによって初めて、私たちは命の元である農について正しく語ることができるようになるのではないかと考えます。
地球生態系には、多様な命が無限に連鎖しながら存在しています。地球上の生命は280万種とも言われるほど、確認することができないくらいたくさんの種類と無限の生命がそこに存在しており、それが地球生態系というひとつの命のネットワークとして存在しています。
もともと地球は、三次元生命のネットワークである生態系の中に、その存在の意味があり、それが地球の特徴でもあります。そこに存在する一つひとつの生命はとても個性的で、多様性に満ちており、そのすべてがつながり、大きな地球という命を形成しています。
それは私たちの体も同じです。そして、宇宙も同じ構造なのです。私たちの体は「小宇宙」と言われているように、そういったつながりの中で存在しています。
現在の農の現場や人間のあり方を観ると、対立や競争の中で生命力を弱めており、場合によっては他の生命の存続を脅かすような存在にもなっています。近年の栄養学的な見地から健康というものを捉えると、例えば残留農薬の値が何ppm以下なら問題ないというような考え方がありますが、それはあくまでも、目に見えて現れる明らかな毒素としての影響だけを捉えた場合の話です。本来、生命の根源は響きです。それは、私たちの細胞を形成する情報であるDNAには十分な影響を与えるのです。たとえ目に見えないとしても、そういったごく微量の毒素が放つ響きは、どんなに微細なものであったとしても、生命の健全を脅かすのです。
例えば、これを生命の設計図として捉えてみましょう。何かを作るには、その前に設計図が必要になりますね。その設計の段階で毒素が入っていれば、実際に形になる時にその毒素の情報は確実に表現されるわけです。何ppm以下ならいいだろうという考え方は、その設計図に毒の情報を組み込んでいるようなものなのです。
「私たちは遠い昔から自然の恵みを享受し、命をつないでいく循環の中で生かされてきました。」
しかし現在の人々は、生きることを、競争することで勝ち取るものであるかのように捉えています。本来、すべてが循環して無駄がないのがこの世界の仕組みです。ところが、人間が競争して勝ち取り、独占していくことで、そこに無駄が発生するのです。
その無駄が矛盾の元となり、地球生態系にも、そして最終的には人間自身にも影響を及ぼしていくのです。そういったことを、現代の人々は考える必要があります。
私たち個人、家族、国、人類、地球生態系、地球、太陽系、銀河、大宇宙というように捉えていくと、それは私たちの器の連鎖です。小さなものが集まって多様性ある生命のネットワークを作り、それが循環することでもう一つ大きな生命を構成しているのがこの世界の仕組みです。近年は、人間個人が自らに都合のいい世界を表現しようとする考え方が当然のようになっていますが、もともと人間は自然の仕組みの中で生かされてきたのです。人間の横暴がまかり通るようになったのは、歴史的にはごく最近のことですね。
現代の人間たちは、地球上で傲慢な姿勢を取っています。その姿勢がなぜ傲慢だと言えるのかというと、人間は自然の中で生かされてきたからです。本来、生命は自然の循環の中で役割を果たすことによって存在するものなのです。現代人は、そういった意味では大きな勘違いをしていることになります。
農業革命の革命とは、何に対する革命なのかというと、農、食、そして命に対する人類の意識を変換するということです。
これは、近年の農の現場で行われていることですね。
「大量の作物を得るために、大量の化学肥料、農薬や除草剤等を使用し、それが土壌や地下水・河川を汚染し、自然界はバランスを崩している。」
生命は自然界から与えられるものを食べ物としていただき、自らの命にしています。そうすると、自然界だけではなく、自らの命もバランスが崩れていくのは当然のことです。
「生命バランスを失った作物は、病害虫に弱くなり、農薬を必要とするため、さらに化学物質が自然界に投入され悪循環になっている。」
人間には智恵がありますから、自然に反するようなものを使っても、なんとかそれをやり繰りして、表面的には問題がないかのように見せています。ところが、その自然に反したものは、響きとなって環境や私たち自身の体の中に情報として反映されていきます。そして、自然が非自然の状態となり、それが矛盾となって何らかの形でこの世界に表現されていくのです。
もっとも懸念されるのは、人間の精神性にそれが反映されているだろうということです。では、本来の精神性は何を拠りどころとするべきかというと、「生かされている」「いただいて生きている」という、私たちが生きる上で与えられているこの世界の仕組みを理解することです。ところが今は、「自分は自分の力で生きている」というように、「いただいている」のではなく「獲得している」かのように錯覚しています。近代になり、人間が自然を顧みなくなったことによって、その傾向はさらに強まっています。
「効率を求めるために、作物を単一化し、畑から多様性が消え、生態系が狂い始めた。」
自然の植物には、肥料は与えられません。当然、そこには農薬の存在もありません。しかしその世界はバランスがとれており、それによって健全に成り立っています。その代わり、大量生産はできません。人間に都合のいいものもできません。自然の中の生態系のバランスに則ったものしか、得ることはできないのです。それを人間の智恵によって、いかにより多く、より優れたものを得るかということは、人間が生きていく上で必要なことでもあります。しかし現代は、自然界にない形で成り立つ化学物質を投入してまでも、多くを得ようとするのです。
その背景にある精神は、「良いものをつくろう」という心ではないですね。何かといったら、お金にしようということです。そういった欲による汚染が、世の中に蔓延しています。
「不健康な食べ物が人間の体を蝕み、体のみならず精神にも異常をきたしている。」
これが、私たちが伝えたいことです。
現代は、人間のエゴを優先した結果、本来食べるべきものではないものを餌として牛に与え、その牛を人間が食べています。アメリカの五大湖では、冬場に魚を獲っては牛に食べさせていたと言います。それは牛のあるべき姿でしょうか。牛を生き物ではなく、食料として見ているのです。私たちは、ただ食べられればいいのでしょうか。自然の法則に則り、本来のあるべき姿で存在している命が自然な流れで食べ物として私たちの元へやってくるのか、それとも自然から外れた不自然な状態のものを食べ物として取り入れ、それを自らの命としていくのか。残留農薬が何ppm以下なら問題ないと言いますが、では長い期間にそれがどのようにDNAに情報として刻まれていくのかを考えると、とても問題のあることだと思うのです。
「石油開発やトウモロコシ栽培のための熱帯雨林の伐採で、ジャングルは大きく枯れ始めている。」
地球の酸素の供給源であるアマゾンの森が枯れていくのですから、地球にとって大変な問題です。それは、人間だからこその行いですね。
「砂漠地帯での大規模灌漑農業では 地下水を大量に使用し、2020年には地下水が枯渇するといわれている。」
砂漠の地下水は古代水といって、これを汲み上げてしまうともう供給されません。ずっと昔からあった地球の遺産のようなものですが、それがあたかも無限にあるかのように消耗し続けるということが、今行われています。
「農や食の現状は生命から程遠いものになってしまった」
けれども、今の世の中はそれで回っています。そうするとそこには何も問題がないかのように思えますが、本当にそうなのかどうかということを、今こそ考えなければなりません。
世界の穀物を一部の企業が握り、価格調整などのコントロールをしています。それは一部の企業だけの話ではなく、いろいろなところで、お金儲けのために農業が行われ、食料が利用されています。日本にはアメリカとの安全保障条約がありますが、それよりも私たちにとってもっと重要なのは、食料安保です。自国で食料を自給できないようなことでは、今後の気候変動に伴う世界的な食料難の時に、その国はとても弱い立場になることでしょう。本来、日本はそういったことを最優先に考えていかなければならない国ですが、現在は自動車や電化製品を売ることの方が優先されています。
世界の種の現状はこのようになっています。
ここで一番に考えなければならないのは、遺伝子組み換え作物が年々増加してきているということです。GM作物が問題かどうかというのは、科学的な分析からすると、よくわからないようです。ただ、遺伝子組み換えによって、作物を栽培する時に除草剤をまいても大丈夫なようになっています。雑草には除草剤が効くけれど自分たちが欲しい作物には効かないというのですから、この技術は素晴らしいですね。人間の叡智の賜物です。それはとても便利なことですが、自然からすると異常な状態です。そういったことを、科学的なデータだけを見て何も問題がないとするのではなく、もっと深い意味で観ていくことが大切なのです。
このような、近代の人々の精神性も含めた農の現状があります。そこでここからは、生命の「響き」という側面からのお話をします。
「この世界(現象界)は生命も物質も響きで出来ている」
私たちの存在する世界は、響きという情報によって、形が形成されています。
「『響き』は生命力の源であり、元の気が出るところ。すなわち音の故郷(潜象界)から生まれ出る」
人が誰かと出会った時に、その人から明るい印象を感じたり、暗い印象を感じたりしますね。「この人に会うと元気になる」とか、「あの人に出会うと気分が悪くなる」ということがあるのは、何かを感じているからです。それが響きです。人間はそれを感じるセンサーを持っており、かつ自らも発信しています。その響きによってご機嫌な人生を送ったり、ご機嫌な社会が創られていくのです。
自然界では、個々がそれぞれに個性的です。種が違えばその個性はさらに個性的かつ多様になりますが、同じ種の中でも一つひとつが個性的なのです。今、人間は70億人以上がいますが、一人として同じ人はいないですね。
ところが、その個性がつながらずに対立や競争、区別をすることになると、争いの元となり、ゴミが発生し、無駄が生じることになります。しかし個性とは、他者にないものを持っているということであり、本来それは他者につなぎ、循環に活かし、全体の可能性を広げるためにあるのです。自らの個性を社会に還元すれば、同じように社会が自らにないものを与えてくれます。その循環が地球生態系の仕組みであり、宇宙の仕組みでもあるのです。我々の体も同じ構造です。すべては循環の響きによって成り立っています。
響きには、循環だけではなく対立の響きもあります。循環を止めてしまうのです。ものごとが滞り、淀んで腐敗していく響きもあります。しかし自然界は、腐敗してもそれが美しくよみがえり、他の生命に吸収されていく仕組みになっています。すべての生命が他の生命を生かしているということは、生命とは善意によって成り立っているということです。その善意をつなげていくのが、響きなのです。
「生命を壊すメカニズムを知り、美しい響きのままの状態を保つために、私たちはどのようにすればよいのでしょうか」
現代は、競争や「自分さえよければいい」という我先の心によって、美しい響きが循環していくことを妨げ、生命を壊すメカニズムが蔓延しています。本来、農とは命をつなげていくものです。ところがそのつなぐためのものが、逆につながりを断ち切るようなものになっているのです。
それでは、命を育む農について考えてみましょう。
これは農に限らず、宇宙の根本的な構造を、13000年前に東アジアで発展したカタカムナ文明の宇宙物理学の見地から表したものです。
私たちの存在する世界は、この図の右側のブルーの部分です。ここを「現象界」と言います。現象界は、目で見たり手で触れたりして形を五感で感じることのできる「見える世界」と、心や魂や縁など、形の世界を巡回してつないでいく「見えない世界」から成っています。「見える世界」が陽であるのに対し、「見えない世界」は陰です。この陰陽から成り立っているのが現象界です。それは「形の世界」です。そこでは命が循環して、地球生態系を表現しています。
見える世界の中で近年著しい発展を遂げたのが、右端の濃いブルーの「人工」の世界です。人工とは、人間の手によって自然の仕組みから逸脱した世界です。この人工の歪みはカルマとも言います。人間の持つ欲などの自我の心が発生源となって広がる世界です。現代人はそれを表現して対立し、競争し、戦争まで起こしています。
「人間は長い歴史の中で世界観が狭くなり、天然循環の法則を忘れ、己の利益のみを求め、他に害を与える存在になってしまった。」
ものごとを唯物論的に捉える人々は、「見える世界」の中だけでものごとを解釈しています。スピリチュアル的な捉え方をする人々は、「見える世界」の奥に「見えない世界」があることを意識していますが、カタカムナではさらにその奥を観ます。「見える世界」と「見えない世界」から成る現象界は、現象が現れているのですから、形の世界とします。それを陽と捉えると、それに対してもう一方の陰の働きをする世界があることになります。この世界をカタカムナでは「潜象界」と言います。ここが、私たちの存在する現象界の源であり、響きの故郷なのです。
カタカムナでは、この世界の響きは48の音からできていると説いています。この48音は、すべての言語の元です。この世界は音でできており、どんな国の言葉であっても、音からその意味を探っていくと同じような意味を示しています。
この現象界で汚れたものは、自然が改善してくれます。ところが今は自然の改善能力のキャパを超えてしまい、改善しきれないのです。例えば、バクテリアは水を浄化しますね。ところがバクテリアの力では浄化しきれないほどの汚染を生み出した時には、汚染はどんどん広がっていきます。
しかし実際は、自然の力以上に、その汚染を改善する力がこの世界にはあるのです。それがこの図に表れています。現象界と潜象界の間にあるこのひし形のゾーンを見てください。現象界は潜象界の側にはみ出し、潜象界は現象界の側にはみ出しています。この中間地点を通り、現象界では改善されないものも潜象界へと戻って、すべての現象は、その源である響きだけの状態へと還り、リセットされていくのです。そこには、物質は一切ありません。音の種があるだけです。
「人間が破壊し続けても、源の世界は生命エネルギーを全生命に与え続けている。」
これは、現象界で歪んだものが、潜象界へ還って、歪みのない元の状態になるということです。原子が合体して分子になる時、その組み合わせによっては毒の働きをするものがありますね。ところが、その分子の構造をバラバラにして原子の状態に戻せば、無害になるでしょう。それと同じような仕組みです。潜象界は響きだけであり、一切の濁りもゆがみもない世界なのです。
現象界は「ある世界」であり、潜象界は「ない世界」です。「ない世界」とは、人間には認識のできない世界です。しかし、この世界は常にその認識のできない世界から、美しい歪みのない生命エネルギーが供給されており、それによってこの世界は健全に成り立っているのです。
そのことを理解し、天然循環法というものを学ぶことの何が重要なのかというと、人間がその物理的構造を理解し、濁りのない美しい響きを自らの精神性に乗せて響かせた時に、そこにはイヤシロチという濁りも歪みもない世界ができるのです。逆に、人間が欲をかいて精神がどんどん汚れていくと、自然が破壊されて人工に汚染された大都市のような場所ができます。それをケガレチと言います。人間にはその両方を創る能力があり、人間の能力は両刃の剣のようなものです。低い意識で自我にまみれれば、自らの人生や世界を汚染する原因にもなります。しかし高い意識となり潜象界までの仕組みを理解し、その法則に則った精神状態を有して生きる者は、その者が響かせる響きによってこの世界を美しいイヤシロチへと変えることができるのです。
その精神を有したものが自然に接することにより、より健全な作物を育むことができます。それが天然循環法の農の基本です。ここを抑えなければ、天然循環法とは何であるかを理解することはできないでしょう。
さて、日本語の文字に「命」という字があります。
「命という字を見てみると『祝詞をあげて天の命を受ける』『人が集まって神託を受ける』の意があります。」
私たちは、自らの命をつないでいくために、自然の恵みをいただいています。自然に感謝をし、祀りごとを行います。祀る対象は天であり、命(みこと)であり、神です。日本では、神のことを「みこと(命)」と言います。私たちは、この世界に遍満している神の命の現れの一部なのです。つまり、私たち自身も「みこと」だということです。
では、「命」という漢字の成り立ちを見てみましょう。
「『口』には『命令する』『言いつける』『授ける』『名前を付ける』等の意味がある。形としては、のりとを載せる台」
この台には、天からいただいた作物を供物として乗せます。
「儀礼用の深い帽子をかぶりひざまずいて神のお告げを受ける人の形」
天に感謝を伝えたり、その恵みをいただいていく自らの姿勢について天にお伺いをたてています。こういった人のあるべき姿が、「命」という文字に表れているのです。
私たちが毎日を生きるということは、命をつないでいるということです。その時に、農の現場を通して食べ物を生産します。食べ物の生産は命をつなぐことであり、それは宇宙の根本原理と同じことなのです。私たちは、すべてが循環し巡り巡って命がつながっていく宇宙の仕組みを、形を持って現象界に表現している「みこと」なのです。
「命とは天(潜象界)から地(現象界)に向かって降ろされる神の響き(神託=命)。すなわち現象界に生み出された神(=命)のことである。その仕組みは、生命ネットワークであり、常に循環し、巡り巡って変化し続けるもの。」
変化し続けるということは、例えば何か富を得た時に、欲の心でその富をずっと持ち続けようとするのではなく、常に与えられる状況をいただいて感謝し、それを手放し、また次の状況をいただいて感謝するということのくり返しです。この世界は常に変化し続けているのですから、何かを保ち続けようとすることは宇宙の仕組みから外れることであり、そこには必ず矛盾が発生するのです。
「農」という文字は、二つに分けることができます。
上の部分は、「曲げる」という意味を現しています。下の部分の「辰」は、星や北極星を表し、日本では、動植物がぶるぶると奮い立つことから十二支の5番目(5月)にも充てられ、生命力を意味しています。つまり、農とは生命力、即ち天の法則を曲げたものだということが、この文字に表れているのです。
「自然」という言葉があります。それは、生命本来の生命力が、生態系の仕組みの中であるようにあるということです。そこには自然の厳しさもあり、状況は様々ですが、それらはすべて天の仕組みによって成り立つものです。その中で人間は、よりたくさん採れるようにとか、もっと食べやすいものがいいというような条件を付けて、自分たちに都合のいいように環境を変え、自然の姿を変えてきました。それが農です。
「現代の農業の発想は、人間の歪んだ思いによって『天の法則』や『生命力』を弱めることから発しているので、宇宙の原理から見たら根本的に逆さまであり、本来の自然の姿ではない。」
本来、食べ物をいただくということは、祝詞をあげて天にお伺いを立て、命をいただくというということです。その姿勢は、自然に対して「ありがとうございます」と心から感謝して、謙虚であるべきことなのです。そこからすると、現代の農はまったく違う世界になってしまっています。
「農業」というと、「農」という自然の仕組みを曲げたものに、さらに人間の「業(ごう=カルマ)」が付いています。人間の欲の延長線上に行われるのが農業です。そこには「命をいただく」という姿勢はありません。農業を行う人々は、作付の計画を立てる時にも、これだけ作ればいくら稼げるかと考えており、常にお金と農が結びついています。その欲の心の象徴として、遺伝子組み換えや種の操作、農薬、化学肥料、除草剤などが世界中に蔓延しています。それは、人間の歪んだ心が創り上げた矛盾です。
その矛盾の世界から、私たちは、どのように次に進んでいけばよいのでしょうか。
「百姓」という日本語があります。「百」とは、単なる99+1の数字の100ではなく、無限という意味です。日本語には「八百万(やおよろず)の神々」という表現がありますが、それはこの世界には命(みこと=神)が無限にいて、その連鎖によって成り立っているということです。
「百姓」の「姓」の文字には「女」という字が入っています。この世界は陰陽から成り立っており、男性が陽であるのに対して、女性は陰です。
「『姓』の中の『女』とは陰のこと。形に現れていない奥にある大切なもの。『女性性』は天からいただいた種をはらみ、生命を生み出し、ネットワークする役割。自然の奥に潜んでいる天の理『男性性』を受け取り、命を生み出し、地に表現する『女性性』の特性が『百姓』に通じる」
「奥にあるもの」とは、現象界でいうと、例えば私たちの肉体の奥にある精神性や心です。心が健全だと、形も健全になります。しかし、形がいくら健全に見えても、その奥にある心が悪ければ、結局はすべてが不健全なものとなるのです。ですから、女性性とはとても大切なものですね。本来、この世界では見えないものが先にあり、それを元にして形を形成していくことが大切なのです。
百姓とは「作物を通して天の仕組み・生命の仕組みを学び表現する生き方」です。これはとても大切なことです。百姓として食べ物を作るのは、本来お金を儲けるためではありません。それは、自然から命をいただき、生きることの意味を学び、自らの精神を高めていくもっとも大切な生き方なのです。自らの精神性を高め、世の中を健全にしていく。そういった意味が百姓にはあります。あらゆる職業の中で最も尊く、優れている生き方が、百姓という生き方なのです。そういったことを、皆さんにもご理解いただければと思います。
これが、天然循環法の原点です。ですから、人間の精神が美しくなることが前提です。それだけの高い精神性を有した者が、この世界を美しくしていく力を持っているということです。
そこで、「自分には高い精神性がないからダメだ」ということではありませんよ。だからこそ自らの精神性を磨いていくのです。それが私たちが生きることの真の意味です。
自然は、それぞれの存在に個性があります。それが循環していく中で、格差が生まれます。人間の世界でも、個々の間には差があり、それが格差を生んでいきます。人工の世界では、その差がエゴによって極端に大きくなっていくのです。その差を取って、あなたも私も同じものであり、みんなでつながって助け合って生きることを「差取り=悟り」と言います。「差」を「取る」のです。
それは個性をなくすのではなく、それぞれの個性を活かしながらつながって、もう一つ大きな命を創るという宇宙根本の仕組みの姿です。その意識の者が創る世界では、個々の間の差は自然となくなります。あなたも私も大きな命の中でそれぞれの役割を果たしているということが理解できた時、その人は悟りを有した者となるのです。それが優れた人間です。
もともと、私たちはみんな同じところから来ているのです。同じ故郷から、それぞれに個性を与えられて現象界へ生まれたのです。その個性的な者たちが再びつながり、循環し、ひとつの命を創る。それが差を取るということです。天然循環の仕組みがわかれば、そのことが理解できます。
「現代人は食べる事で不健全な体や精神を創っています。食べる事で健康になっていく食べ物、薬になる食べ物があることを知っていますか。」
これは当たり前のことですね。ところが今は、食べることによって不健康になり、病気になっていくことがたくさんあります。本来、健全な食べ物というのは、病気になったものを治す力があるのですよ。私たちは、そういったものを生産していくことが大切であり、それは単に環境にいい資材を使えばいいのだというようなことではありません。それを生産する人間の精神性がもっとも大切なのです。人間の波動はいろいろなものに影響を与え、汚れた世界を創ることもできれば、それがネットワークし、美しい世界にしていくこともできます。だからこそ人間が率先して美しい世界を創る精神性になることが肝要なのです。
あらゆる農法には、農という文字が入っていますが、天然循環法には入っていません。もともと農は生命力(=宇宙の法則)を曲げたものであり、人間の思惑の上に発展してきたものだからです。天然循環法とは、農という食料生産の現場だけではなく、この世界の仕組みそのものを表しており、本来、生きることのすべてが天然循環法なのです。
慣行農法から有機農法、自然農法までは、農業の手法でした。そこからすると、天然循環法とはとても深いところを突いています。これは優劣をつけているのではなく、宇宙の法である天理の話です。このことを理解すると、これを広めていくことの大切さを改めて理解できます。
自然農法とは、「 現象界(自然界)の好循環を意識して作物を作る農法だが、人知で作物をとってやろうという「欲」の心に陥りやすい。天意に沿い、いただく精神に欠ける。」
自然農法や有機農法にも、環境を良くするというような側面はありますが、そこにはやはり作物をたくさんとってお金を得ようとする心があります。そこで人間が心を磨くことにより意識が変わっていくと、天然循環法の世界が観えてきます。
そこでは「生まれたての元の響き=無垢な気=元の気(元気)に戻すことによって、美しく濁り汚れのない、生命力あふれる作物が育つ。手がける人の心がその仕組みを理解、体得しその響きを響かせることによって、曲げられた作物に元の気が復活する。天の法によって生かされていることを表現する営み。」ということです。それは農法を超えた生き方にもつながります。
天然循環法は、直感栽培とも言います。
人間が「どうしたらもっと得するか」と頭の中でああでもないこうでもないと思考を回すことを、人智と言います。それに対して直観を有することは、「心の状態が安定し、自らに囚われず天地と一体の精神を有するものは、ものの実態を一瞬でつかみ取る直感を有し、天の法則に則った響きを場に響かせることができる。そのものの存在がイヤシロチとなる。」
つまり、その人がいるだけでなぜかいい空気になったり、場が明るくなっていくのです。反対に、場を暗くしていく人もいますね。
「そしてその生活の場もイヤシロチとなり、全てが好循環(天然循環)していく。そこで営まれる生活が天然循環法=直感栽培」
直感とは、頭の中で思考を巡らせて企むものではなく、パッと感じてサッと判断することです。それは天の気を感じることです。それには、自らの精神状態を美しくすることが必要です。自我にまみれて損得勘定をしているようなことでは、天から降りてくる直感を受け取ることはできないのです。
今の世の中では、お金をたくさん稼いだ人が成功者だと見られていますが、それは霊的には、汚れた人生を生きていることになります。21世紀を迎えた今、人類はそこに目覚めなければ、本当の意味で地球に生きる役割を果たすことはできません。
この図は、この世界の仕組みを表しています。中心に「質的転換」をする出入口がありますね。潜象界では響きだけの存在だったものが、質的転換をして、現象界に命となって現れます。命として生まれ、個性を持ちます。その個性が人工的な歪みを発生させ、自然から遠のいていくのです。
現象界の「人工の歪みの世界」の中だけで行われるのが慣行農法です。それに対して、資材はいいものを使っているのが有機農法です。そして自然の法則を取り入れたのが自然農法です。さらに、潜象界までを含めたこの世界の仕組みを理解した精神状態の者が行うのが、天然循環法です。
慣行農法は、「アメリカによる戦後の農業大改革から始まった、農薬・化学肥料を主体とする農法。遺伝子組み換え、種の操作も行われている。環境汚染の原因NO.1。支配するものと、支配されるものの関係で成り立っている。どちらも、目先の利益のみに囚われ、世界観が狭く、そのような自分自身も観えない状態」ということで、これが現代の農業の大部分を占めています。
有機農法は、「慣行農法では環境に良くない、という意識から生まれた農法だが、規定が多すぎて、現実的ではない。製品のニーズが少なく、消費者の奪い合いが起こる。お金や、規定の縛りの中にあり、天然の理より、自分の都合が優先している状態」というもので、そこではやはりお金を稼いで生活を成り立たせることが目的になっています。
自然農法は、「自然の仕組みに沿う精神性をベースに生まれた農法だが、科学的探究に偏り、精神性が忘れられている。理論と実際の精神性にギャップがある」というものです。自然農法を行う人々は、自分たちが世の中から理解されたいがために科学的な分析をして裏付けを取り、世間の支持を得ようとしています。しかし、そういった様々な農法は、現代の科学万能主義の社会にゴマをするようなことになってしまっています。地球の歴史を振り返ってみれば、現代の農法が地球上に表れたのはごくごく最近のほんの一瞬のことであり、それは本来の生命のあり方から大きく外れてきています。生命とは何であるのかという世界観をもとにして考えたならば、社会に媚びを売るのではなく、むしろ今の世の中のあり方に警鐘を鳴らすような立場を取るべきでしょう。
それに対し天然循環法とは、「自分優先の生き方から、天の心をいただく生き方」です。天の心とは法則ですね。天体の動きや時代の流れを感じながら生きていく生き方です。広い世界観をもとにした精神状態の者が天と対話し、自然と対話しながら、人間の欲によって歪んだ世界を美しくしていくのです。その上で、天から与えられた食べ物をいただいていく。そういった姿勢で日々を生きていく。その人生そのものの表現が天然循環法です。
「天然とは自然界の奥にあって、生命の元になる世界であり、そのもとの美しい響き「天のしかるべき状態」を生活全般に表現することを天然循環法という。その中に「農」もある。全ては豊かな循環の中にあり争う必要のない世界の表現。」
それが天然循環法であり、生きることの大革命なのです。
現代人の発想は、損得勘定の二元論です。
「見えるもののみを大切にし、物事の奥にある意味や本質を観ない。宇宙の仕組みを無視し、国や個人の利益に重点を置く生き方。結果、自然生態系や宇宙の調和を乱し、世界に害をもたらす。」
程度の差はありますが、慣行農法も有機農法も自然農法も、こういった発想の中にあります。それは人間の頭で考えた人智の世界なのです。そこでは生きることも、自分の力で生きていると捉えています。
そこから世界観が広がって視点が大転換すると、「自己中心視点」から「宇宙視点」になります。宇宙視点とは、「目覚めの時代のヒトの発想」です。
「自分優先の生き方から、天の法をいただく生き方へ。生命の無限の連鎖の中で、ヒトとしての役割を与えられ生きる。」
ヒトというのは、宇宙の誕生、維持、破壊、空というプロセスを数理で表すと「ヒフミヨイムナヤコト」となりますが、その始まりである「ヒ」から終わりの「ト」までを理解し、宇宙のすべての原理をマスターした存在を言います。「人間」は「人」の「間」と書きますので、まだヒトには至らない途上の者ということです。ヒトとしての役割というのは、天の法の中にあり、簡単に言うとこの世界のために生きるということです。
「結果、欲望の延長に獲得しなくても不足しているものが自然と補われていく。」
この世界には、本来不足しているものはありません。欲望から獲得しようとしなくても、道理に沿えば、必要なものは自然と補われていくのです。
「天然とは、天の然るべき状態。人間によって歪められていない純粋な元の響きの状態」ということです。
つまりこの生き方は、天の意志を受け取り地上に表現する、地上天国創りなのです。これからの時代を生きる人々には、そういったことが求められていきます。そういったことが忘れられている現代の社会は、地球生態系からすれば異常なことなのです。
人間には、目には見えない生命の響きを嗅ぎ分けられる能力があるのです。
大切なのは、これだけ大事な役割を果たしている微生物は非常に繊細なものだということです。人間の心が歪んだり濁ったりしていると、微生物の生育を阻害したり破壊することにもなります。人間が傲慢な心で接すれば、良い資材ができないどころか、腐敗していくこともあるのです。微生物は地球にとっての人間のような存在ですね。有効なものとして働くのか、それとも腐敗菌となるのかは、私たち人間次第なのです。
木の花ファミリーでは、このように様々な微生物を活用しています。
これはクリノゼオライトです。私たちは自らの精神を高めると同時に、こういった資材の力も借りて農を行っています。
これは21世紀最大の人類への贈り物と言われる、ニームです。木の花ファミリーでは、これをタイから輸入して使用しています。
このニームとクリノゼオライトとサンカルシウムを組み合わせることによって、農薬を使うことなく病害虫に負けない作物を育てることを実践しています。
人間が心を磨いて美しくなると、作物も美しいものができます。健全な作物は土と作物のバランスがとれており、虫に喰われることもなく美しい姿をしています。
作物のできには、環境や、そこに関わる人間の性質がそのまま現れます。だから作物と対話していくことが本当に大切です。ものを言わぬ作物が何を訴えているのかを、瞬間瞬間感じ取る。そのセンサーを働かせるには、精神が純粋でなくてはなりません。では純粋でないとはどういうことかというと、自我による思い込みや囚われがあり、自分に都合のいいようにものごとを考えたり、怠けている状態です。そういったクセ性分が、畑にも、人生にも反映されていきます。そこをいかに自らと向き合い、美しくしていくか。それが天然循環法の醍醐味であり、原点です。心磨きなくして天然循環法はあり得ないのです。
地・水・火・風・空という自然の五原則が、人間の心、体、社会と一体となり、天然の響きを響かせることが大切です。現代の社会では、人間の心、体、社会が発する響きは天然ではなく、人工の響きであり、それが地・水・火・風・空を汚染しています。しかし本来人間は、美しい世界を築いていく原動力にならなければいけないのです。
さて、皆さん、これからどのように行動しますか?
今日の午前中は、木の花ファミリーの見学ツアーから始まりました。8時半におひさまハウスひまわりを出発し、こうちゃんガイドのもと、本宅、配送センター、養蜂場、ビニールハウス、ニワトリ小屋、畑を回ります。
冬を越すために、巣箱を毛布で包んで温かくしている蜂小屋。それぞれがそれぞれの役割を果たしながら全体でひとつの生き物のように生きているミツバチの生態は、これからの人類のモデルになる、ということで、木の花ファミリーではミツバチを飼い始めたのでした。
隣りのビニールハウスでは、蜜源植物となるエキウム・ウィルドプレッティの苗を育てていたり ー
メダカがいたり。
セロリもすくすく育ってます。
そしていちごハウスへ。
赤い実を探して、つまみ食い♪
続いてキャベツの畑へ。
人間の役割は、作物が本来の生命力のままに伸びゆくことができる場を整えること。キャベツが何を言っているのかを感じ取り、必要なことをする。農とは、作物と人間の協同作業なのです。
「作物はウソをつかないから、自分のやったことの答えがそのまま正直に返ってくる。そういう意味では人間より付き合いやすいかもしれないね」とこうちゃん。
今日は気候も穏やかで、見学日和。あちらこちらに梅の花も咲いていました。
見学後は講義室へ戻り、『互いを知る』のワークショップ。
これから1ヶ月間を共に過ごすのも、いわばひとつのコミュニティ。1ヶ月間を通して自分自身を深く知ると同時に、他者のこともより深く知って、互いを理解しあい、共に生きることを学びます。
1ヶ月間の真学校、最初の講座は、木の花ファミリーの暮らしや活動について紹介する『木の花ファミリープレゼンテーション』です。
これは、真学校で最初のプレゼンテーションです。木の花ファミリーの総合プレゼンテーションですが、一番最初のページはこんな言葉から始まります。
「人間の求める幸せの結果」
僕はよく、このことについて語ります。それは、なぜ木の花ファミリーができたのかということにもつながるからです。
木の花ファミリーは、個人的な目的によって創られた場所ではありません。厳密に言えば、それは目的を持って結成されたとも言えるかもしれませんが、木の花ファミリーが存在する一番の目的は、今の社会がどのようになっていて、それにどのように貢献していくかということです。
人は生きていく時に、それぞれ自らの精神性にふさわしい目標を持っています。毎日晩酌のために一日を過ごしている人もいれば、ギャンブルで当たることを目標としている人もいます。日本には多くの依存症がありますが、ギャンブル依存の中には宝くじ依存症の人々がいます。宝くじを当てることばかりを夢見て、それを目標に毎日を生き、その結果破産する人々がいるのです。
おもしろい話があります。東京オリンピックは、東京都と国がお金を出し合って開催します。東京都の負担金の約半分は、宝くじによる収益です。国も、負担金の約半分を宝くじでまかないます。そしてもうひとつ、オリンピック実行委員会の資金は、すべて宝くじでまかなわれます。
東京都の負担金の半分が宝くじなら、残り半分はどこから来るか知っていますか?そう、税金です。ではその税金はどこから来ると思いますか?都民だと思うでしょう?実は残り半分は、自治体が自治体を運営するための宝くじでまかなうのだと言います。テレビをよく観ていると、宝くじのCMがたくさんあるでしょう。もともと国や自治体の予算も宝くじでまかなわれているのです。それが東京オリンピックの費用に充てられたというだけのことです。
宝くじを買って得する人は、どのくらいいると思いますか?宝くじの売り上げの約8割は、売る側の収益になります。そして残りの2割を買った人に還元します。ですから、打率は2割以下ですね。パチンコと同じで、トータルで得をすることは決してありません。保険もそうです。外資系の保険会社は、人ではなくインターネットやテレビを使って勧誘をします。そうすると人件費がかからないので利益が大きくなり、売り上げの8割以上が収益になる会社もあります。そして、保険に入れば将来が安心だとうたいながら、人々の不安を煽っているのです。ギャンブルと同じように、決して健全に還元されない形でこの世界が回っているのです。
人間が幸せを求めてきた結果、社会に何がもたらされたでしょうか。
人々の中に不安があってそれを解消しようとしたり、あるいは何か目標を持ってそれを成し遂げる時に、その行動は世の中にたくさんの矛盾を生み出しています。そうやって今の世の中は動いています。それは本当のことです。それをわかることです。
もしもそのような矛盾がなくなり、世の中が健全になるとどうなるのかというと、とてもシンプルな世界になります。今の世の中はバブルのように、8割、9割が不要なことで成り立っています。その不要なものをそぎ落としていくと、どのような生活ができるでしょうか。
3月21日に、私たちはロータスランドをオープンします。そこではとてもおいしくて健康な食事が、とても安い金額で食べられます。
食材の多くは自家製のものを使い、建物の建築も7割ほどは自分たちでやっています。一般企業が人件費を払ってお店を運営するとしたら、こんなへんぴな所であんなお店は作りません。もっと利益の上げられる、条件の良い場所を選ぶでしょう。しかしここでは、それができる。なぜなら、木の花ファミリーという暮らしがあるからです。
そこで得る収益は、とても利益率が高い。ではその利益を何に使うのかというと、みんなでハワイ旅行に行くわけではありません。どうするかというと、次の木の花ファミリーの活動を充実させるために使います。そうやって普通の人々ができないことをやり、こんなふうに暮らせるんですよ、ということを社会に還元していくのです。これは社会運動であり、大いなる実験です。それはとても充実した、安心で、楽しい暮らしです。こういった暮らしを世の中の人々がするようになったら、世界は本当に平和で、少ないエネルギーで豊かに暮らせるようになるでしょう。
さて、20世紀型社会がわたし達にもたらしたものは何でしょうか。
1ヶ月間の真学校では、農や食、その他のあらゆる場面において新しい生き方の指針となる「天然循環法」の世界観を学びます。
では、天然循環法とは一体どのようなものなのでしょう。以下に、講座で使用したスライドとともに概論をお届けします!
――
いさどん:
私たちは、木の花ファミリー設立当初は有機農法をやっていました。これは今、一般的に普及している農法ですね。
有機農法は、人間が自然から作物を「取ってやろう」というものです。有機農法をやっている人々は、確かに環境に配慮をして、農業資材もそれなりのものを使っていますが、その暮らしはお金を稼いで生活することが目的になっています。ですから、その人たちと一緒に過ごしてみると、生活のサイクルがお金で回っていることがわかります。
確かに木の花ファミリーも社会の中にありますし、社会の血液であるお金の流通の中に生きていますが、ここにはお金に縛られて生活している人はいません。ここでは労働するのはやることがあるからです。しかし一般的には、労働とはお金を稼ぐため、生活をするためにやることになっています。農業で言うと、農産物を生産し、それを買ってもらってお金にし、生活することが目的になっています。それで本当に自然と純粋に付き合えるかと言うと、それはなかなか難しいのです。
私たちはカタカムナに出会い、天然循環法という世界に踏み出しました。「天然循環法」という名前は、木の花で付けたものです。これが始まった時に、やっと行き着くべきところに来たのだということを感じました。それは、そこに関わる人々の精神性から醸し出す響きまでを生活に表現する場所です。
僕は40歳の時に仕事を辞めて、いずれ農的暮らしをしようということで農業の勉強を始めました。その時に始めたのは、慣行農法でした。
その頃、僕の畑にはいろんな人がやって来ました。僕のいない時にも来ました。そこで農薬を使ったら、農薬の残留期間があるので○○日までは食べられませんよ、ということを知らせる立札を立てておかなければいけませんでした。それから、害虫は土と植物のバランスが崩れた時に発生するものですが、それを無理やり抑えるために土の中に薬をまくのです。誰に聞いても薬をまく以外の方法がないという結論に行きついた時に、僕は畑にバーナーを持って行って、土を掘り起こしては焼くということをしました。それは大変な労力でした。そこへ生ごみを入れたらいいだろうと無知な発想でやってみたら、それはもう、蛾の幼虫を養殖しているような畑になってしまいました(笑)。後に土壌の状態と作物の関係がわかって来た時に、僕のやったことは作物ではなく害虫を作っていたのだということが証明されました。(みんな:笑)
それで、とびっきり良い野菜を作ろうと思いました。そうしたら微生物に出会いました。それは現在、「木の花菌」のベースになっているものです。私たちの生活には、農業だけではなくあらゆる場所で、微生物が様々な形で利用されています。私たちの生活は微生物と共存しているのです。
13000年前の日本に存在していた宇宙物理文明・カタカムナの世界観から、この世界の仕組みを観てみましょう。
この世界は、目に見える世界と見えない世界を合わせた「現象界(ある世界)」と、それらすべての源となる「潜象界(ない世界)」から成っています。微生物は自然界の一番奥に存在します。そこは潜象界の入り口です。微生物は、潜象界から湧き出してくる生命の一番始めの姿なのです。
僕は微生物の存在に出会った時に、それを神様からの贈り物だと受け取りました。それはとても神聖なもので、人間の心が汚れていると影響されるような、繊細なものだと捉えていました。そして、有機農法に出会いました。
慣行農法は、確かにこの現象界の自然の中にありますが、そこでの営みは自然のバランスを考えずに、むしろ自然を壊しながら生産をする現場になっています。そこで作られたものは、場合によっては毒素を含んでいます。戦争で、サリンやマスタードガスなどの化学兵器が使われることがありますね。そういったものと化学式がほんの少し違うだけの農薬が、慣行農法では使われてきました。ですからそれを知っている農家は、自分が作ったものを自分では食べません。けれどもお金にするために人には売ります。すごい世界でしょう。しかしそれが私たちの食料を生産する主力となる場の現状だったのです。
そこで有機農法は、人の健康や環境に配慮するために、素性の良い素材を使おうということで始まりました。ですから有機農法にはたくさんの基準があります。それは世界基準になっており、その基準を守っている人は特別な表示で売ってもいいということになっています。そして流通にしても有機JASの認証にしても、どうしてもそこにお金が絡んでくるのです。ですから有機農家はいいことをやっているようなつもりでも、その波動は美しいものではないですね。
こうちゃん:
そう、ひどい世界です。僕は元有機農家だけど(みんな:笑)有機農家が増えていくと消費者の奪い合いになるから、有機農家は同業が増えないことを望んでいたりします。
口では環境を良くしたいと言ったり、お金があまりないから皆で協力し合って農業機械を貸し合ったり消費者を広げる活動をしたりしてるけど、本心では有機農家が増えてもらっちゃ困る、と思ってる。すごい世界ですよ。要は、自分の損得が思考のベースになってるんです。
いさどん:
これはもしかすると日本だけのことかもしれませんが、なかなか有機農家は増えないですね。いずれにしても、その世界はお金やルールの縛りの中にあるのです。
その後、私たちは自然農法に出会いました。自然を観察し、科学して、いかに圃場に自然を表現するか。これは、今の私たちの農のベースになりました。
自然農法は本来、その発生元からして精神性をベースとして生み出された農法のはずでした。ところが、それを広めているのは、実践の現場とはほど遠いアカデミックな研究者たちでした。その実践の現場とかけ離れた研究者の人々の中に、精神性の重要性を探求する姿勢は見受けられません。本来そういった真理を探究する現場では、一貫して揺るがない何かがあるものです。特に現代社会のようにものごとの本質を失ってしまった場では、その揺るぎない精神性を示すことが社会の健全さに貢献するための筋となるのです。しかしながら、そのような確固たる方針を見失った人々は、一般社会にうけることを目的とし、どれだけうけたかによって自分たちの正当性を裏付けようとするのです。
そして実際に自然農法を探求しているという人々と付き合ってみると、科学的探求に偏っている人が多く、中には個人的に人格の疑わしい人も見かけました。そういった本来の柱であるべき精神性が失われた現場では、そのもっとも重要なことが問われないのです。
一般社会にうけようとしたら、目に見える世界の奥にある存在や、そこに携わる人の精神性がいかに大切であるかということを語ることはできません。けれども、多くの自然農法研究者たちは、一般社会にうけることを目的とし、いかにそれを広めるかということに重きを置いていたのです。
そこで私たちは考えました。やはり、濁りのない心でさわやかに「これだ!」と思えるものを実践していこう。それは人や世の中の顔色を見ることではありません。ましてやお金ではありません。
私たちが生活していく中で、毎日「これだ!」と思い、確信の持てる生き方をしよう。そしてその流れができると、自分で意図しなくても、不足しているものが自然と補われるようになっていくのです。それが天然循環法の世界で表現される、「天と共に生きる」ということです。
ですから皆さん、見てください。慣行農法、有機農法、自然農法、天然循環法と4つ並べてみると、ひとつだけに違いがあるでしょう(図1参照)。そうです!天然循環法は「農法」ではないのです。
私たちは、これを「農法」と呼ぶことをやめました。つまり、これはライフスタイルなのです。すべてのものに通じる生き方のことです。
では、「農」という字を見てみましょう。
「農」という字を二つに分けると、上の部分は「曲げる」という字になります。そして下の部分は「辰」という字です。これは北極星や、生命力の元となる命の力を表しています。この命の力を曲げてしまったことを示すものが、「農」という字です。
農的暮らしとか農業というと、良いものだというイメージがあるでしょう。ところが現在の農は、自然が与えてくれた生命そのものではなく、人間の都合で曲げられたものになっています。本来、潜象界から出てきたばかりの最も美しい生命力が「天然」の状態です。しかし、もっと生産性を上げたいとか、もっと味のいいものが欲しいというような人々の欲の心から、その生命力を曲げてしまったのです。ですから農のことをYesではなくNoと言います。(チーン♪)
カタカムナの世界観で観る、現象界と潜象界の仕組みをもう少し説明しましょう。
明日から「人格を学ぶ講座」が始まります。そこでも学びますが、私たちは日ごろ、現象界の「見える世界」と「見えない世界」の、「見える世界」を主に認識しています。化学・物理の世界では、現象で証明しなければ正しいとは認められません。けれども実際は、この世界には目に見える現象の奥や、そのさらに奥にも物理性があります。そのことを、皆さん理解できますか?
(まだよくわからない、という顔をしている受講生たちを見て)まだマインドコントロールが進んでいませんね。(みんな:笑)ここはね、しっかりマインドコントロールが進まないといけません。このことが理解できる位置に立つと、皆さんの世界観や思考回路がどんどん広がっていくからです。
自分の殻の中にいると、何を大切に守っているのか、頑なになって広がっていくことはできません。それは自分にとって損なことです。僕の話を聞いても聞かなくてもいいですが、皆さんが自らをオープンにしなければ、成長することはできません。それは皆さんにとって損なことですから、なるべく積極的に自らの殻を破って、広げた方がいいですね。1ヶ月の講座が終わって振り返って「広げすぎたな」と思ったらその時に縮めればいいんですから。(みんな:笑)たぶんその時には手遅れになってると思いますけどね。(みんな:爆笑)
現代の「見える世界」は、人間の思惑によって本来の生命力が曲げられた、人工の歪みが支配している世界です。私たちは常に自らの魂を、その精神性のもとに現象界で表現しています。その人工の世界の中だけに自らの意識があると客観的視点を持つことが難しく、何か出来事が起きるたびにただ条件反射をしているだけの状態になります。
そこでは、人々は対処療法的に浅く物事を捉え、ものごとの本質を観ることをせずに右往左往し、自らの姿勢を正す学びを得ることはできません。その精神レベルで痛みを感じれば、それは人や社会のせいになり、人々は常に被害者の立場にいることになります。そして自らが歪んでいることに気付かないまま、その歪みの中でぐるぐると回り続けるのです。
この人工の「見える世界」の中だけで行われているのが慣行農法です。そういった中で作られる作物が私たちの食べ物として供給された時に、私たちの中で私たちの生命にどのような影響をもたらすか、想像できますか。
有機農法は、人工だけの世界(見える世界)から少し自然(見えない世界)へ入り込んでいます(図1参照)。今でこそ有機農法と言いますが、ちょっと昔に化学肥料や農薬が使われるようになるまではこれが当たり前でした。昔の人たちはそれを当たり前にやっていて、「足るを知る」という精神で生きていました。しかし今では、この目に見えない思いの世界も歪んでいます。
今、自然界では、私たちが知らない間にたくさんの生命が淘汰されています。信じられないかもしれませんが、僕にも10代のころがありました。(みんな:え~~!!笑)学校帰りに近くの小川に行って魚を捕ったり、虫やいろんな動物を捕まえたり、通学路にある柿の木の実をとって食べたり、とてもおおらかでしたね。大雨が降ると道が川のようになって、そこをウナギが泳いでいったこともありました(笑)。
僕の生きていた時代に、そういった時があったのです。それはとても豊かな世界でした。けれどもその自然は、消えてしまいました。潜象界へ還ってしまったのです。今でもまったく無くなったわけではないですから、それを残していかなければ、とは思います。
そのために必要なのは、環境を保護する心ではありません。保護しようというのは、奢った心です。必要なのは、今のその自然の状態と共鳴する心の姿勢です。それを人間が持てば、もともと人間が自然を今の状態に追いやったのですから、人間次第でまた元に戻る可能性はあるのです。そう僕は信じています。
天然循環法という「農」を入れないライフスタイルは、潜象界の、まだ何も汚れていない、濁りやゆがみのない美しいものを引き出すということです。人の心が美しくなれば、自然の元となる美しい響きを人は引き出し、かつてあった美しい世界を再現することも可能なのです。僕は今、この話をしながら、そのことの大切さを改めて再認識しています。
このスライド(図2)を読んでください。
「『農』とは、現象界(自然界)の中にあるべき『天の法則』や『生命力』を人間の歪んだ想いによって曲げたもの、ということになる。だから、農は本来の自然の姿ではないことになる。」
なぜこのようなことを語るのか、理解していただけるでしょうか。
こんなにも大切なことが隠されているのに、誰も知らないのです。
次のスライドを見てみましょう。
人間が生きるということは、他のものを犠牲にして、人間に都合のいい世界を広げていくということではありません。ここに「人間が生きるということは生命循環の中で役割を果たすこと」と「この世界の仕組みを理解できない者たちは願望を叶えようとしている」とありますね。今の世の中は、この二つのせめぎあいです。しかし前者の意識を持っている人はほとんどいません。ほとんどの人間は後者であり、その人々は大きな錯覚をしています。そしてそれは、すべての解釈の逆転現象を生んでいます。農の世界でも、この世界の解釈の逆転現象が起こっているのです。
艮の金神様の言葉に「この世はすべて逆さまじゃ」とありますが、ものごとの捉え方が浅いと、その逆さまの世界がまともに見えてしまうのです。そしてその浅い解釈をマスコミも世の中も持ち上げるので、それが絶対であるかのように思われています。それは人々の意識がそこにあるということですから仕方のないことですが、それを進めれば進めるほど、世の中の目覚めは遅くなります。
もしも皆さんが、自らの欲望を満たし、願望を叶えることに目的を置き、ただ世の中の顔色をうかがって生きていくだけなら、このような真理に出会うことは不幸ですね。しかし、時代の扉は既に開いています。皆さんの中に最先端を生きようという気持ちがあるならば、この目に見える世界の奥にある世界に、目を向けなければいけません。それは、これから訪れようとする時代では、当たり前の話なのです。
人間の命は天の法則より与えられています。我々はその法則を理解し、天の意志にかなうように生きるのが本来の命あるものの目的です。そして心を整えると、この世界の仕組みを直観で感受し、的を射た判断が下せるようになります。
ですから、心が整っていないとまったく見当違いなものの方が正しく、大切に思えます。政治の世界でも、農業の世界でも、食べ物の世界でも、これがいいともてはやされているものが、実は自然や宇宙の本質から外れているということが、特に今の時代はたくさんあるのです。最近の良い事例として、清原さんの覚せい剤使用があります。彼は、現代社会の人々の羨望の的となる成功者としてまつり上げられ、その浅い評価と本人の人間性とのギャップから転落することとなった、ある意味社会の犠牲者でもあると言えます。
皆さんはこれから、そういった本質を見抜ける力を、真学校の学びを通して身に付けます。天然循環の考え方で生きるということは、人を育てます。作物は天が与えてくれるものです。人間は、そこに出会うことによって育てられるのです。
ですから、自分が育てようなどと思うことではありません。一生懸命に自らの心をきれいにして、この世界を汚さないように、この世界に失礼にならないような姿勢で向かうということです。
みかこ:
カタカムナを学び始めて、農には生命力を曲げるという意味があることを知った時にはびっくりしました。
こうちゃん:
だけど僕たちは、木の花ファミリーを始めた当初から「畑を耕す前に心を耕せ」と言っていました。もともとそういった発想があり、カタカムナに出会って改めてその意味を確認できたという感覚です。
いさどん:
木の花ファミリーの生活は、農を目的として始まったわけではありません。しかし結果的に農的生活をすることになったのは、自然というこの世界でもっとも美しいものと共に生きるということと、その美しいものが汚れているのでそれを守るという意味があったのです。微生物を使い出したのも、水をきれいにするためでもあったのです。
ですから、これは社会運動ですね。当初は自分たちで育てた作物を売るという発想がなかったので、近所の人たちにタダであげていました。そうしたらそのうちに受け取ってもらえなくなりました。なぜかと言うと、人は面白いもので、他者と自分の区別があるがために、もらい続けるとだんだん申し訳ない気持ちになっていくのです。それでもあげますと言っていたら、では売ってくださいと言われました。それで販売が始まったのです。
簡単に言うと、僕たちは始めから変な人たちだったということですね(笑)。
みかこ:
現代の農業は、実は畜産と共に環境汚染の一番の原因です。農薬や化学肥料の使用による土壌や水系の汚染、農業用水の汲み上げによる地下水の枯渇などが世界各地で問題になっています。
いさどん:
そんな中で、私たちはどうしたらいいのでしょう。
「農」という字に、さらに「業(ごう)」を付けたのが農業です。「業」とはカルマを表しますから、「農」だけでも生命力を曲げているのに、そこにさらにカルマまで付いた状態が農業なのです。その業に汚染された結果として、遺伝子組み換え食品や種の操作、農薬、化学肥料、除草剤など様々なものがありますね。人間の歪んだ心が作り上げた世界です。先ほどの農の分類のスライド(図1)で見たように、人工の世界でカルマにまみれている状態ですね。現代の農業の現場では、本当にそういった世界が表現されています。
そして、そこから生み出されたものが食べ物として世の中に浸透していくと、その響きによって人々の体が作られ、日常の中にその響きが矛盾として広がっていくのです。
スライドに、「農業から百姓へ」とありますね。これは、文字にとても意味があります。
百姓とは、本来の生命力を曲げない生活のあり方です。「百」には単なる数字の100ではなく、無限という意味があります。そして「姓」という文字には「女」が入っており、これは陰、つまり、形に現れていない、奥にある大切なものを意味します。私たちの体で言うと、陰とは心のことですね。現象界と潜象界で言えば、潜象界のことです。
もともと自然の奥に潜んでいる本質から大事なものを受け取り、生きる糧とするのが百姓です。それは作物を通して天の仕組みを学ぶ生き方です。自然と対話をしたり、人間が自然と一体となって生きる生き方です。
百姓についてさらに深めましょう。
天の命(意志)を受け生きる(天命)ということは、常に直観が働いて生きているということです。
そして植物と対話するということは、自然と対話するということですね。自然と対話できると、自然を壊したりはしません。そういったことを理解しない人間は、自然は人間に従属するものであるかのように思っているから、平気で自然を壊すのです。
私たちの命は循環のもとに、自然と命を交換をしています。つまり、私たちが自然に与えたものはまた我々に返ってくるということです。だからこそ美しいものを提供し、美しいものをいただいていく。そういった美しい循環の中に、私たちは生きられるのです。
「命」という字は、祝詞をあげて天の命を受ける人間の姿勢を表しています。
昔、社会がシャーマニズムで動いていた時代には、人々は精霊に問いかけて生きていました。イヌイットの人々は、自分たちがアザラシを捕まえるのにどれだけの数を捕っていいかということを、天にお伺いを立てて神託を受け、捕り過ぎることのないようにしていました。今は、現代人の考え方に汚染されてしまいましたけれどね。
木の花ファミリーは、有機農法の後に自然農法を始めました。それが今、天然循環法へと変化しています。
本来食べ物とは、食べることで健康になっていくものです。そういう食べ物があることを知っていますか?
スライドに、「天意に沿い、いただく精神が大切」とありますね。現代の農は、自然を科学し、よりたくさんとれるようにとか、世の中にたくさん広めようとか、人々から支持されようという心がベースになっています。それはなぜかと言うと、今の自然世界を人間が支配していると錯覚しているからです。自然が自分たちの手の中にあると思っているのです。
それに対して天然循環法という生き方は、生まれたての元の響き=無垢な気=元の気(元気)に戻すことによって、美しく、濁りや汚れのない、生命力あふれる世界が生まれます。大切なのは、それを手掛ける人がその仕組みを理解し、体得しているということです。逆に言うと、理解し体得していなければ、その優れた理論も現実のものとはなりません。すべては自分次第であり、だから心磨きが必要なのです。
天然循環法を理解すると、人々は宇宙の法則や自然の仕組みの中で自らが生かされているという、とても謙虚な姿勢になります。そこに向かうには、心磨きがもっとも大切なものとなります。
天然とは天の然るべき状態であり、それが降りてきて自然となります。自然とは、自我が然るべき状態になったものです。
潜象界はまだ現象化していない世界ですから、元の響きがあるだけです。そしてそこから湧き出してきていろいろな生命になったものが自然です。草や木や動物やバクテリアまで、自然には様々なものがあるでしょう。自然の「自(し)」は、自分になると「自(じ)」というように濁点が付きますね。それは個であり、多様性の表現の働きです。それがネットワークすることによって現象界(ある世界)ができます(図1参照)。
自然のネットワークは、様々な個性がつながり合った、多様性のある美しいネットワークです。ですから、皆さんも自然を見て「美しいね」と言いますね。しかし自然の「自(し)」が人間の世界で「自(じ)」になると、自我となって、この世界の不調和の原因となり、問題ごとが発生します。
人工の世界は、その自我を持つ人間によって歪められた世界です。人工の構造物の美しさというのもありますが、あれは本来の循環システムに則ったものではありません。美しくても、自然の循環の中にはなく、いずれは人工的に壊して作り直さなければいけないものです。
この世界の本質は、天然の状態から命が発生して自然となり、それが個性となって、美しい生命ネットワークとなって表現されていきます。そしてその一つひとつに寿命があります。それぞれのサイクルがあるのです。そして寿命が尽きて役割が終わると、元の世界(潜象界)へ還っていきます。
自然界で生きているものは、天然から閃きや直観の働きかけをもらいながら生きています。スライド(図8)の右側に、慣行農法と自然農法と天然循環法が、それぞれこの世界のどこまでの循環の中にあるのかが描かれています。天然までに到達する天然循環法では、心磨きが必要なのです。
自然にはもともと差があり、歪みがあります。その歪みや差によって生まれるダイナミックなネットワークが自然の美しさです。それを人間の自我によって歪め、汚染したのが人工の世界です。自然界には潜象界から貫かれた天の理である秩序がありますが、人工の世界ではエゴが蔓延しているため、天の理が通らず、無秩序となります。
今、世界中に国という組織があり、それがさらに連携して国連という組織になって世界が動いていますが、その組織自体が自然をどんどん歪めて破壊する元凶ともなっています。ですから地球規模で観ると、人間のやっていることは無秩序なのです。天然循環法とは、この人工の歪みを解いて宇宙の元の響きへと組み直し、天の然るべき状態へと還すことなのです。
こういった話をしていくと、かつて僕の父親が僕に言ったことを思い出します。「世の中にはたくさん人がいるのに、おまえだけがそんなことを言ってもどうにもならない」と。父親だけではありません。多くの人が「そんな理想論を言っても無理だろう」と思っています。
けれども、そこで考えてもらいたいのです。現実には多くの抵抗があり、なかなか変化は起きないように思われます。しかし、あなた一人分でも、心に濁りのない状態で生きることを心掛け、旅立っていくことがとても重要なのです。
そこでこそ自我で、「自らの納得する人生を生きたい」という強い信念を持ち、人生を探求しなければいけません。そこで自我を通すということは、自らのためを優先するのではなく、天から地への道理を通し、世の中に一本の真理の筋を通すことなのですから、それこそエゴ的な自我を超えて、本当の意味での自らの価値を高める優先するべき自我の表現のしどころなのです。
そして時が来れば、必ず同じ意志を持った人々が現れてネットワークしていきます。今、時代の扉が開いて、いよいよそれが地上に顕れ出しています。その証としてこの「1ヶ月間の真学校」があるのがわかりますか、皆さん!(みんな:わかる~~!!)
それでは、元の響きを復活させるにはどうしたらよいのでしょう。
まずは日々の心磨き。いつも天を意識して生きていくということですが、人はだいたい自分の都合ばかりを考えて生きています。そうすると、常に天から命(めい)が降りてきていても、それに気付くことはできません。それを直観で受け取る受け皿がないのです。先ほど「命」という字を見ましたね。常に天に心を向け、その命を受ける姿勢で生きていくのが本来の生命の姿なのです。
そして、カタカムナの奏上。これについては、真学校の中で深める時間を持ちます。
イヤシロチ化とは、畑をパワースポットや神社のように特別なパワーを持つ場にしていくということです。そして人間の意識が上がると波動量が上がり、その高い波動をこの世界にもたらすことができる者になるのです。
日々の心磨きをしていない人がいい作物を育てたいと言っても、育ちません。ですから、ひとえに心磨きをしましょう。心磨きは一律のものではないのですよ。それぞれが自分の心に合わせて相応しくやっていくのですから、まずは自分の心を知らなければいけません。明日から始まる「人格を学ぶ講座」で、皆さん一人ひとりが自らを知る学びをしていきます。
心の状態が安定し、自らに囚われず、天地と一体の精神を有する者になると、ものの状態を一瞬でつかみ取る直観力を持ち、天の法則に則った響きを響かせることができるようになります。するとその場はイヤシロチとなり、すべてが好循環する天然の状態となっていきます。そこで表現される生活が、天然循環法なのです。
今日は、午前中は「天然循環法ー農」について学び、午後は実習でぼかしや木の花菌を使った活性液をつくりました^^
3月10日の午前には、天然循環法―農の最後として、稲作の講義がありました。
以下、初講師を務めた田んぼ隊のこまねちからのレポートです。
冒頭に、稲作に関するスライドショーを見ました。田んぼではどんな作業をしているのか、イネがどのように成長するのかが紹介されました。
そして、稲作に関するプレゼンがありました。そのテーマは「田んぼはすごいな尊いな」です。真学校の受講生たちは農業をやりたいわけではないので、農業的な知識はできるだけ省き、地球における稲作の大切さや尊さを日本神話やカタカムナ、環境保護の視点などから伝えようとしていたプレゼンでした。
質疑応答では受講生から様々な質問や思いが出て、関心の高さが伺えました。
その後、田んぼに入る水はどこからやってくるのかを実際に見るために、用水路を上流の方へと辿っていきました。
上流へとさかのぼっていくと、森の中の湧水のような気持ちの良い所があり、そこで受講生たちは「こんな素晴らしいところから下流の田んぼに水が流れてるんだ」と思ったのもつかの間、さらに上流へと進んでみると堰堤のようなコンクリート構造物のある所に出ました。田んぼ隊のまこっちゃんは言います。
「天然循環法っていうといかにも人工物に頼ってないイメージとか、自分たちだけで善い事やってますっていう感じがするかもしれないけど、僕は全然そうは思わない。自分たちだけでってことは決してなくて、例えば水ひとつとっても、誰かが昔こういうのを作ってくれていて、地域とか村単位で利水してる。人工物に頼る頼らないはどっちでもよくて、「天からの頂き物とのつながり」をどれだけ意識して実践するかが大事。」受講生たちはうなずいていました。
翌11日の午後には、田んぼに実際に行きました。折よく晴天で富士山が見守る中、まずは広い田んぼを皆で歩き回った後、「チェーン除草機」を曳いたり「手押し除草機」を押したり、「備中」で田んぼを耕したりしました。田んぼ隊からの話を聞きながら、受講生たちはそれぞれ自由に遊んでいました。とても楽しかったようです。
その後のおやつタイムで、受講生たちと田んぼ隊で色々な話をしました。農作業に対する姿勢、お米に対する思いなどが話される中で、何が大切かを受講生たちはそれぞれ感じ取ったようです。
受講生の声を紹介します。
「楽しかった!」
「木の花の食べ物がなんでこんなに美味しいのかが分かった」
「除草って大変すぎ。お米の有難みが分かった」
「稲が植わってる時に講義が受けられたらなお良かったけど。それ以外はベストだったと思う」
「田んぼの畦にしばらく寝っ転がっていたら、すごく疲れが取れて頭痛がなくなった!」
今朝の前半は、木の花ファミリーのあちこちで使われている木の花菌と呼ばれる微生物資材の培養について、木の花菌づくりの発案者であるいさどんと製造担当者のひろみちゃんの講義がありました。以下、講師を務めたひろみちゃんの講義レポートです。
木の花菌とは、EMをベースに、木の花でオリジナルに培養している微生物資材で、木の花ファミリーの生活のあらゆるところで利用されています。
木の花菌の培養が始まったのは、今から約25年前、農法について模索していたいさどんが、新聞記事の中にEMを見つけたことがきっかけでした。
それはEMを使ってスイカを栽培している農家さんの記事でした。早速会いに出かけた車の窓から見えた周囲の景色は、いつもより美しく輝いて見えたそうです。いさどんは、何か新しい扉が開く事を予感したそうです。
この出会いがEMの開発者の方との出会いに繋がり、木の花に木の花菌の培養技術が確立していくことにつながりました。
必要な出会いは、必要なトキに、必要なトコロにやってくる。
だから、流れがやってきたら、ただその流れにのっていけばいいのです。そういった生き方をしていくことです。
講義は、こうした物語から始まり、微生物のこと、木の花菌の作り方や使い方を学びました。