1ヶ月間の真学校、全講座の集大成とも言える死生観の講座をお届けします。
いさどん:
皆さんは「1ヶ月間の真学校」でたくさんのプレゼンテーションに出会いましたが、最後のプレゼンテーションがこの「死生観」です。これで情報の洪水からやっと解放されるかと思うと、おめでとうございます(笑)。
ただ、私たちが日々を生きるということは、実は情報の洪水です。私たちが1日を生きる時、「どちらへ行くか」という選択を常にしています。人間は常に選択をする生き物です。一日におよそ3000回の選択の機会があると言われています。それが自らの意思であり、自動的にスムーズにいくタイプの人もいれば、どれも迷い、抱え込んで、悩みながらいく人もいます。ただ、どんなに迷っても、明日は来ます。タイムリミットが来れば、それは積み残していくことになるのです。たくさん積み残していく人もいれば、自動焦点のようにスムーズにものごとを選択していく人もいます。そしてどのような選択をしていったのかによって、人生の結果が訪れてくるのです。
積み残しをたくさん持っている人は、きっと重い人生を生きていることでしょう。逆に、自動焦点のようにスムーズに選択できる人は、よく味わっていない分、充実していないかもしれませんね。自らの人生をどのように表現していくかは、それぞれの持っている精神性によって変わってきます。そしてすべての人は、その人にふさわしい人生を送っていきます。その最終章が、「死ぬ」ということです。
生死ではなく、「死生観」ですから、死んで生きると書きます。宇宙の原理は、相似形であり、対向発生であり、すべてのものが陰陽で成り立っています。陰という奥にある見えないものから、陽である現象が現れてきます。私たちが生きている世界から生死を捉えると、生きていることが前提となり、その向こうに死があると捉えられますが、それを客観的に捉えたら、私たちの解釈で言う死の世界の方が、現象世界の元にあるのです。その世界に存在することを、死と言っていいのかどうか。それを、私たちが現象界の側から捉える先にある不毛なところと解釈してしまえば、死の世界とも捉えられるのでしょう。
死という字を分析すると、どのように捉えられるでしょう。
「タ」と「ヒ」。「タ」は分離独立、そして「ヒ」は秘かな始まり ──── つまり、秘かに分離独立して立つ=すべての始まりという意味でもあります。一人の人間が生きて、その終わりを死というとしたら、その生をリセットした次に来るすべての始まりということになります。どちらにしても、「死は始まり」というのが結論ですね。
さて、私たちはどこへ向かって進んでいるのか。カタカムナ的世界観、そして、木の花ファミリーはなぜこの生き方をしているのかについてお話ししたいと思います。
いさどん:
「21世紀の死生観」とありますが、21世紀でなくとも、人は生き死にを繰り返しています。生きて死んで終わりではなく、また生まれて生きて死ぬ、そしてまた生まれて生きて死ぬを繰り返していくのです。私たちは、生を単純に捉えると、生きている時には「死にたくない」と思うものです。そこでは、死が恐怖になっているのです。しかし死が恐怖だとしても、私たちは常に死に向かって確実に近付いています。なぜだかわかりますか? ──── そう、明日が来るからです。
もしも僕が10日ほど時を止めたい、と思っても、世界はその思いをまったく聞いてくれません。それは、時が生き物だからです。そして私たちは、その生き物の一部として存在しているからです。時が生き物という解釈は、時が常に循環し、変化変容変態を繰り返す宇宙の基盤となるものであるからです。これは、私たち生命の共通した乗り物とも捉えられます。
この時という乗り物に乗らないものに、私たちはこの世界で出会うことはできません。この世界の中で、すべての存在は固有のサイクルを持ち、時と共にそれぞれのサイクルを刻み、連動し、ひとつの時の上に存在しています。そのサイクルとは、らせん運動です。
皆さんはこの1ヶ月間を通し、農、食、医、経済、環境、防災、そして性など、様々な切り口を通して世界観を学んできましたが、そのすべてが行きつくところが死生観です。
この講座のテーマは、広い世界観で生死を捉えることです。狭い世界観で生死を捉えると、死のイメージは常にブルーなもので、「死にたくない」という発想につながります。しかし、明日は必ずやって来ます。私たちが生を通して時を刻み、1日生きるごとに、確実に死は近付いてくるのです。ところが人は、「死にたくない」という想いに追われ、毎日を生きています。死を意識しないで生きていても、どんどん死は近付いてくる。
では、死が近付かないためにはどうしたらいいのでしょう。生きていると死が近付いてくるのですから ──── そう、生きなければいいのです。生きなければ、死は近付いてきません。しかし今現在生きているものが生きなくなるためには、やはり死が必要です。いずれにしても、私たちは死を避けることはできないのです。
そうであるならば、その絶対避けることのできない死を、私たちが生きていることの証として身近に捉え、仲良くしろとは言いませんが、死というものをよく理解することです。理解して生きるのです。理解して生きるということは、いつでも死を快く迎えられるということ ──── 私たちが生きるということは、死が対向発生の先にあり、常に死と隣り合わせであるのです。ですから、私たちは常に死と一体であるということを理解して生きることが肝要です。
死生観とは、死と生を共に捉えることです。生きることが大切で、希望であり、尊いものであるならば、死ぬこともまた大切なものであり、希望であって、尊いのです。現代の人々は、死と生を区別して捉えています。その捉え方は主観的な人間思考であり、客観性がありません。客観性の奥にはさらに、「客観背後」という視点があります。そこに行きつくには、世界観を広げることです。私たちは、生死というものの奥に、物理性と霊性の意味を絡めながら、さらにその奥(客観背後)にある世界の働きによって生かされていることを知るべきなのです。
「生死」という順で捉えると、まず先に、生まれてくることには、生きることの目的が託されていることになります。なぜ生まれてくるのか。生まれてきて、生きることにも目的があり、そしてその先の、死ぬことにも目的があることになります。死とは、この世界に生まれ出る前の、魂の本住の地へ還っていくことです。
毎日眠ることは、面倒ではありませんか?眠ることも、起きることも、まるで強制されているように感じませんか。僕は、現象世界のプールの中でその不自由さを嘆いています。生きるとは、そういった不自由さの中で生きる心の鍛錬の場です。そこからすると、魂の本住の地というのは安定した場です。そこへ行くと、現象世界に生きていた時の自分をじっくりと振り返って観ることができます。ああだったな、こうだったな、次はこうしよう、と、来世のプランを練っているかもしれないですね。そして「よーし、今度こそは!」と生まれてくるのです(笑)。
ようこ:
おもしろいのが、日本語だと「死生観」というように「死」が先に来るけれど、英語では「the view of life and death」というように「生」が先に来ます。
いさどん:
日本語でも「生死」という言葉がありますから、どこで区切って捉えるかということでしょうが、やはり東洋的捉え方だと「死生観」になるのでしょうし、西洋的捉え方だと「生死観」となるのかもしれないですね。
みかこ:
日本語でも、「生死の境をさまよっている」という時は、生きている側から死の方に向かうという捉え方だから「生死」になるね。でも「死生観」は死をどう捉えるかということ。
いさどん:
「死生観」は、死をどう捉えるかというよりも、生死を超えたところで、生きるとはどういうことか、死ぬとはどういうことかを、冷静に捉えるということでしょう。
めぐちゃん:
東洋は「陰陽」と言うように、まず陰が先にある。
みかこ:
連綿と続く命としての死生観が、自然と身に付いている。
いさどん:
生態系と同じで、私たちが命の循環をどこで区切るかによって、ある時はシマウマだったり、ある時はライオンだったり、ある時は草だったり、微生物だったりする。
エリちゃん:
アメリカのあるコミュニティで暮らしていた時に、初めて日本人の友人ができました。その人はカップルで暮らしていて、いつもケンカをしていたので、ケンカをやめるように伝えると、「私たちはもうずっとこれをやってきているんですよ」と言うのですが、彼らが言っているのは今世だけではなく過去世でもずっとそうやってきたという意味なんです。そういう捉え方があるのかとびっくりしました。
昨年の受講生であるエリちゃんも、1年ぶりにやってきて講座に参加
いさどん:
魂からケンカしているのでしょうね。出来事の詳細はどうでもよく、日々対立する相手がそこにいるということが生きがいになっている(笑)。けいごくんが理由もないのに不安を感じるというのも、魂から来るもののひとつですね。
いさどん:
『「死生観」は多岐にわたる真学校のテーマの中でも、集大成となる根源的なテーマです。私たちが抱える問題の全てが生きていることから発生します。にもかかわらず 「人はなぜ生まれ、なぜ生きるのか、そしてなぜ死ぬのか」といった根本的なことに疑問を持たずに、あるいは曖昧にしたまま、私たちは生きています。』
曖昧にしたまま、問題ごとを抱えている。その問題ごとの原因が何であるかということを追求しない限り、問題ごとが発生し続ける人生になります。
『生命あるものは皆必ず死を迎えます。死について深めることは、生きることの意味を考えることであり、生も死も合わせた連綿と続くこの世界の仕組みを知ることなのです。
世界観を広げ、自らを壮大な宇宙の中の「ひとかけら」としてみていくならば、今まで見えなかった真実が浮かび上がってくるでしょう。』
すべての学びの集大成であり、根源的なテーマであるのが死生観です。我々はなぜ生まれ、なぜ生き、なぜ死ぬのか。一人ひとりにサイクルがあり、一人ひとりに存在する理由があります。誰か聖人が出てきて、生きるとはこうである、と、ざっくり決めることはできないのです。
僕は、ひとつの答えを皆さんに提示しようとしているのではありません。誰もが一人ひとりオリジナルな生き方をし、その中でお互いを活性化しあっていくのが、地球生態系そのものの姿です。人間は、その地球生態系の姿に倣っていくのが大切なのです。僕から観たら不十分と思える人も、一人ひとりの歩みのサイクルがあるのですから、そこを理解し、寄り添うようにしています。その先にある答えが何であるのかがわかっていて皆さんを誘導しているのでもなく、それは未来が教えてくれることです。答えを持って誘導するなどという傲慢なことはしません。
主役は、一人ひとりです。一人ひとりが個性的に、生き生きしながら、大切な死をどのように迎えるかということだと思います。
生きているものは、必ず死を迎えます。生の最終段階である死を深めることは、生きていることの意味を考えることです。例えば学校で勉強をするにしても、何のためにこの学校に入ったのかということが明確でなければ、勉強自体を楽しむことができないでしょう。つまり、生きていることの意味がわからなければ、生きることを楽しむことができないのです。そんな状態では、生きることにより、翻弄される人生になってしまいます。
生きていることの意味がわかるとは、答えがわかっているということとは違います。答えは、先に進んでみていただくものです。人生とは、何かの試験のように答えが決まっているのではなく、その時々で現れる答えをいただきながら、どのように生きていくかなのです。
この連綿と続く生命の仕組みを知ることは、生きながら死ぬことを学ぶこととも言えます。最終的には、この壮大な宇宙のひとかけらとして組み込まれ、私たちは宇宙を存続させている立場に立つのです。それを宇宙の側から観れば、宇宙を運営する立場に立つということになるのです。世界観が広がれば、神と共に、宇宙を運営する側にも立てるのです。
いさどん:
私たちは、死を「出発(たびだち)」と呼んでいます。去年、木の花ファミリーの死生観を刺激してくれた出来事がありました。メンバーのきょうこちゃんの子宮頸がんが進行して、何度も危篤状態になりました 。
私たちはとても複雑な人生を生きていますから、死ぬためには心の掃除というか、整理整頓をする必要があります。次のスライドは、昨年木の花ファミリーで行ったアンケートの冒頭の文章です。皆さんも、アンケートに答えるつもりで聞いてください。
いさどん:
有史以来約3000年間、「王の時代」という、権力が支配する時代がありました。その時代、人々の命は、社会の行く末を握っている権力者のもとにありました。社会を束ねる一部の人たちによって、主役の座が担われていたのです。
その後、宗教の時代が始まり、聖人が現れて、優れた考え方や生き方をモデルとして示すようになりました。それが尊い見本のように捉えられ、人々が生きることは既製品化されていきました。
今僕は、この出発アンケートの文章を読みながら、生きることには様々なかたちがあるということを思っていました。ここに『今の社会において、死生観という概念は一人ひとり違うものです』 とありますが、人それぞれが持っている価値観によって、生きることも死ぬことも、受け取り方が違ってきます。それは人の数だけあり、それでいいのです。
ただし、たくさんありますが、それらはすべて、共通する器の中に存在しています。共通する器の中に存在しているのですから、それは個性的ではあっても、バラバラで無秩序なものではいけないのです。そこでは、何かモデルを示してもらわなくても、この世界を正しく認識できていれば、それぞれの個性が尊重され、皆が同じ目的を持って生きることは当然なことになるのです。つまり、そこでは何かに強制されたり、見本に倣うのではなく、そこにいる一つひとつの生命が、自らの気付きによって同じ目的へ協同していくという時代の流れのもとにあるのです。それが21世紀に人々が取るべき生き方につながるのです。
めぐちゃん:
人それぞれ価値観は違うけれど、根底には共通したものがあるということ。以前、よしこちゃんが、ユングの言葉に「元型」 ──── アーキタイプというものがあると教えてくれた。表面的には見えないけれど、根底には人類共通の秘められたパターンを有していると。
いさどん:
それは人類共通とも言えるけれど、さらに生命共通、宇宙共通とも言える。それは、末端の一つひとつによって成り立っている。
みかこ:
前から気になっていたのだけど、「精神」という文字には「神」が入っている。この「神」とは何を表しているのか。
よしこちゃん:
「精神」とは、神のエッセンスという意味なのではないかと思う。人間のような精神活動は、動物にはない。それ自体が神の働きを表している。
みかこ:
精神性の高い犬とか、精神病の猿とか、いないものね(笑)。ということは、「精神病」というのはやはり精神を病んでいるということだね。天と通じる心が分断されている。
いさどん:
それはとてもデリケートで精妙な部分にアクセスしている。そこへアクセスできないがためにそうなっているということは、逆に言うと、そこに戻るためのきっかけとも言える。
エリちゃん:
去年の6月に父が亡くなったのですが、この死生観のプレゼンテーションはとても興味深いです。私にとって、葬儀は喪に服すというよりも、祝福のイメージです。私はアフリカ系アメリカ人ですが、父の葬儀の時には、黒い服を着たい人はもちろん着てもいいのですが、私たちは伝統的なカラフルな衣装を着て歌ったり踊ったりして、誰かが「これはお父さんの卒業式だね」と言っていました。まさにこのプレゼンテーションと同じ感覚です。
いさどん:
木の花でも、出発(たびだち)は「マツリ」 です。だから、きょうこちゃんが逝ってくれたらみんなで楽しめたのにね(笑)。
めぐちゃん:
「死」という文字の中には、すべての始まりを表す「ヒ」が入っている。始まりの「ヒ」と分離独立を表す「タ」が、横棒の下にあるということは、まだ表には現れない潜象界にあるということを表している。
いさどん:
めぐちゃんにはぜひ、論文を書いてもらいたいですね。
さて、次のスライドは、出発アンケートの内容です。
いさどん:
これは遺書を書くのと同じようなものですね。若い人の場合、変わっていくこともあるでしょうから、折に触れてこのアンケートをとり、一番新しいものを採用するようにします。メンバー一人ひとりがどのような回答をしているのかを見ていくのも面白いですよ。木の花ファミリーとは、こんなことをやっている面白い場所です。
いさどん:
死というものは、できればソフトランディングするように穏やかに迎えたいものですが、危惧する心や恐れなど、体中に囚われの鎖をつけてがんじがらめになっている人がたくさんいます。がんじがらめになりながら、それでも「死にたくない」と言うのですから、現代人の心は複雑になったものです。
よしこちゃん:
看護師として働く中で、本人は死にたくても家族がNOという場合があり、その方が不幸だと思っていました。本人は苦しくて「死なせてくれ」と言うのですが、家族は「何とかしてください」と頼み、その人の生死が自分を離れて家族のものになってしまうというパターンがとても多いのです。
いさどん:
僕の母が死ぬ時には、家族は「もう何もしなくていい」という意思だったのですが、その意思を受け取らない医師がいて、意思が合わなかったですね(チーン♪)。こちらがもういいですからと言っても、医師は「我々には立場がありますから」と言うんですよ。
みかこ:
医者の役割が、生かすことだけになってしまっているね。
いさどん:
病院の方針でもあるのでしょう。やればやるほど、病院の経営にとってはプラスになりますから。本人にはそのつもりはなく、医師の使命だというのですが、どことなくベースに、ここまでの治療をしてここまでの成果を上げて、という、患者一人当たりに対する売り上げの基準のようなものが感じられるのです。
みかこ:
きょうこちゃんの場合は、逆に医者の方が諦めていたね。
いさどん:
受講申し込みのあった人たちの国の死因を表にしてみました。どこからデータを取るかによって順位は変わってきますので、あくまでも情報の一つです。
いさどん:
死ぬ時にはあまり病院などでガタガタせずにサッと逝きたい、という人が多いようです。しかし実はこちらの方が往生際が悪いとも言えます。サッと逝きたいというのは、いろいろ考えてしまってそれが辛いからサッと逝きたいということでしょう。寝込んでもいいという人は、それを味わってもいいということですから、むしろ覚悟があるとも言えるのです。
【選んだ理由】として、1の人たちは「家族に迷惑をかけたくない」と答えていますが、そこが大きな勘違いで、そういう死に方をする人は、実は生きている間に既にたくさん迷惑をかけているのです。
みかこ:
一見、1の方が良さそうに見えるけれど、その回答の奥にある心を観ると、実は家族や自分自身と向き合いたくないからということが観えてくるね。
いさどん:
その下のアンケートからは、死後の世界について若い人の方が信じていることが伺えます。愛知県の学生だけがそうなのかはわかりませんが(笑)。戦後生まれの世代は物理的なことばかりを追いかけてきましたが、若い人たちは死に対してロマンを感じているのかもしれないですね。
『死に関して語り合うことは何となくタブー視されている。親やおばあちゃんがこういっていたからそう思っていたなど、確信の持てるものは何もない。死後の世界を信じていない人でも、形式的なお墓参りや、葬儀はするという結果が出ている。』
日本は仏教の国ですから、葬式やお墓参りをしますが、死後の世界がなければそんなことをする必要もなく、ただ送って終わりでいいはずです。東日本大震災から6年が経って、死んだ孫にランドセルを買っている人がいますが、死後の世界を信じていなければそんなこともしないはずです。現代の人々にとって、そこは極めて曖昧なままの状態になっているのです。それがこの世の中の曖昧さを創り出しているとも言えます。
めぐちゃん:
現代人が死を忌み嫌うのは、戦争で大量殺戮が生まれて、そこで大きく死に対する捉え方を変えられたということもあったのではないでしょうか。
いさどん:
戦争では銃を使いますが、確かに引き金ではありますね。では人間はなぜ戦争をするのかと捉えていくと、そこに人間の性質が観えてきます。なぜ戦争をするのかと言えば、自分の家族を守るためであったり、自分を守るためであったり、生きることが目的なのですが、それが自分に特化した都合の良い考えの下にあるものですから、結果的にそこに死が発生するわけです。
みかこ:
かつて「王の時代」には、王の一存で国が動き、民衆は言われた通りにするしかなかった。王の意識がそのまま世に反映するから、王が守りの姿勢なのか、民を大切にするのかによって、世の中も変わっていった。
いさどん:
「宗教の時代」も、例えばキリスト教の名のもとに十字軍が遠征したり、アフリカではキリスト教の名のもとに植民地化や奴隷制度が浸透していきましたね。現代でも、ジハードの名のもとに自爆テロが行われています。現代文明につながる発想が、6500年前に始まった「王の時代」から続いているのです。
みかこ:
太陽の一螺旋の光のピークの時と、現在の闇のピークでは死生観がガラリと変わっているけれど、その起点が6500年前の王の時代から始まっている。ネイティブアメリカンの死生観は「今日は死ぬのにいい日だ」と言って、自ら旅立つ日を感じ取ったりする。王の時代の前まではそういう死生観が息づいていた。王が恐怖に駆られたり自分の命を長らえたいと思えば、自分を守るために民を戦争に使うという世の中になるけれど、それ以前の時代は、みんなで生きていたんだよ。
アマゾンのある先住民族の、興味深い話がある。その民族は、女の子が平均14歳で妊娠して森の中で出産し、産んだ子を育てるか育てないかを精霊と対話して決め、育てない場合はバナナの葉に包んでシロアリの巣に入れて食べてもらう。生まれたばかりの子を人間ではなく、精霊と捉えている。
いさどん:
それは現代人からしたら残酷なように聞こえるかもしれないけど、聖なる生き方をしているということでもあるね。
めぐちゃん:
それはヤノマミ族ですね。自分たちのコミュニティを神に委ねているということでしょう。人が増えすぎてもコミュニティとしてのバランスが崩れるし、子どもを育てるかどうかの決定権が天にあって、全体を運営してもらっている。
いさどん:
生きることは自分達で所有せず、決定権が自然との対話のもとにある。逆に、人工の世界が進むと、生きることの決定権はすべて人間が握るようになりますね。
いさどん:
『曖昧な死生観のままに生きています』 とありますが、私たち人類は、これまでに数え切れないほどの死に出会ってきています。にも拘らず、その死を定義することができず、その都度その都度、それぞれの人生観や人間性や社会的背景などの環境によって様々なことが語られながら、ずっと曖昧なままなのです。曖昧であるということは、多様性の世界で様々な死の捉え方があるということであり、それはそれでいいのですが、その奥に、私たちは生まれてきたら必ず死ぬものであり、その死への旅の途中で出会うものの積み重ねが、最終的に死へと旅立つ時の自らの精神状態を構成するものになっていくという基本だけは押さえておく必要があります。それがないまま、ただ迷い、グルグルと考えた末に生まれてきた意味も分からないまま旅立っていく人がいるから、次に生まれてくる人たちもまた曖昧な状態で生まれてくるのです。しかしよく考えてみると、時代がそういうことを要請していたとも言えますね。
よしこちゃん:
私もそう思います。以前、なぜ死がタブーになっているのかを集中的に考えていた時期がありました。現代は死というものが家から切り離され、病院や施設など人の目から離れた場所に委ねられるようになり、死というものを目にする機会がなくなってしまった。死とは何なのかをリアルに体験せずに、ただ病院から連絡を受けて駆け付けたらもう死んでいる状態で、間が見えないからこそ、死が恐怖になっていったのではないでしょうか。
自分も看護師として働く前は、それこそ死んだ後のおじいさん、おばあさんくらいしか見たことがなかったけれど、勤務した先が、お年寄りが多く、比較的自然に死を迎えるような対応をしている場所で、余計なことをしなければ、人間はとてもスムーズに旅立っていくのだということを目の当たりにしました。だんだん眠る時間が多くなっていき、仏さまの顔になっていくのです。そうすると「ああ、そろそろだな」ということがわかり、ソフトランディングしていく。それを見ていたら、死は怖くもないし、人間の終末の過程というのは余計なことをしなければこういうものなんだ、ということがわかりました。
みかこ:
私の母は1年以上管をつながれて生きていたけれど、それがなければもっと短い期間でそのプロセスを経て、早く死んでいたかもしれないね。
よしこちゃん:
体は自然とそのようになっていきます。低体温になって、一種の冬眠状態のようになっていくんですよ。
いさどん:
きょうこちゃんの場合は、逆にみんなで押しかけていってダジャレを言って笑わせて、本人はソフトランディングしようとしていたのに甦らせちゃった(笑)。
めぐちゃん:
両方でしょうね。そういう関係性を持つことをきょうこちゃん自身が選んだわけでもあるから。
いさどん:
僕には思惑がありました。あなたはまだ使えるのにもったいないだろう、こちらはこちらで覚悟はしているが、逝くなら使い切ってから逝け、まだ死んでる場合じゃないぞ、と。
みかちゃん:
きょうこちゃんのことはいろんな角度から捉えることができる。私はきょうこちゃんはまだ寿命ではないと観ていたから、いさどんのように覚悟はしていなかった。だって精神の遍歴がまだ終わっていないから。
いさどん:
逝こうとするものを縛ってはいけない。その後の魂の旅路のことを考えたらね。
めぐちゃん:
その時点できょうこちゃんの人生はきょうこちゃんのものではなくなっていますね。
いさどん:
その人の人生が個人のものではないというのは、豊かなことですね。情にまみれていては醜いものになりますが。
僕はきょうこちゃんをもったいないから復活させるということと、逝った時にはどうするかということを同時に考えていました。だから棺桶も買ったし、骨壺もとしちゃんに焼いてもらいました(笑)。
この物語には続きがあって、きょうこちゃんは復活したら復活したで、もうあの時のことを忘れてしまって元のきょうこちゃんのクセが出てきています。だからもう、死相がまったくないんですよ。元のきょうこちゃんだから。昨日も「あなたはまた性格の悪いところが出てきたね」と伝えたところです。
いさどん:
死とは、昨日から今日、今日から明日へと向かうのと同じことです。人生が充実していれば死も充実し、人生が曇り空かどしゃ降りのように生きていれば、死ぬこともそのようになります。すべて自分次第です。
いさどん:
肉体と魂とは、見えるものと見えないものですね。魂は陰ですから、見えない世界につながり、さらにその奥の世界にもつながっています。肉体は生態系の構成要素として三次元宇宙にあり続けます。その両方をつなげているのが人間の体であると言えるでしょう。
人間は精神性を持っていますから、そちらの世界へつながっていますが、動物の場合はどうでしょうか。植物はまさに精霊と対話していますね。特徴は自我がないことです。
死を迎えると、魂はそれぞれに相応しい異次元宇宙へ還っていきますが、相応しい異次元宇宙というのは、地獄から、多次元構造の高次元宇宙まで幅広くあり、その幅広い中から様々な段階の魂が、ひとつの時間と空間の下にある現象界へ降りてきているのです。ですからこの世界で生きているということは、ものすごく多様なものを見ることができる、体験ツアーのようなものです。本当に狭い世界観で晩酌だけを楽しみに生きている人もいれば、宇宙を運営するくらいのスケールの意識で生きている人もいます。
死ぬと、肉体と魂は分離します。生きているということはそれが連動しているということであり、両方を感じて生きることができます。そこでどちらにより偏るかによって、バランスを欠くこともあります。
いさどん:
この図の中心にある肉体は、現象界のものです。現象界のもとは、地水火風空です。それらは太陽がもとになって、循環しています。人は地とも、水とも、火とも、風とも、空とも循環して生きています。毎日酸素を取り込んでは、二酸化炭素や水蒸気を排出し、それらを取り込んで地に育まれた植物を食べ、水も飲んで排せつしたり蒸発したり、太陽からもエネルギーを取り入れて熱にして、その熱を排出しています。地球生態系を構成する五大要素「地水火風空」といういのちの循環の中で、肉体というのは3次元世界にあり、魂によって束ねられています。魂が抜けるとそれは一気に分解し、この世界へサーッと還っていくのです。その過程に腐敗があったり、発酵があるということですね。
いさどん:
先ほどの地水火風空は、この図で言うと横糸です。これは少し意識したら感じられるものです。ところがこの縦糸が、今の人たちにはわかりません。これは霊的なものですから。現代の人たちはこの縦糸を見失っているものだから、よこしまに流れてしまうのです。
潜象界から常に湧き出してくる元の気=生命力が縦糸となり、横の循環が生まれます。横の循環とは、地水火風空とそこから発生する生命のネットワークです。食べることと排せつすることは、命を自らの中に取り込み、また次へと渡していくことであり、そこを小さく区切って捉えれば弱肉強食の世界にもなります。しかし全体をつなげて観れば、命のバトンタッチです。
このネットワークは、柱が立つことによって全体が正常な位置につきます。しかし柱がないと、バラバラにぐるぐると回って無秩序な状態になります。それぞれの生命に固有の寿命やサイクルがあるということは、それぞれに役割分担をするためにあるのですが、それがてんでバラバラでは連携しません。そして自然界が乱れていくのです。
依正不二(えしょうふに)という言葉があります。人間以外の存在を「依法(えほう)」といい、人間だけを「正法(しょうほう)」とするのは、人間だけがこの仕組みを体系化して理解し、その次元の意識を持ってこの世界に生きることができるからです。人間が高次の意識を持つことで、この世界の不具合を修理していくことができるのです。人間以外の存在は、ただ受け取ることしかできません。
みかこ:
動物は四足で、人間だけが二足歩行なのは、やはり人間は縦の軸を持っているから。動物は四つ足で自然の摂理のままに生きている。その横糸と、縦の糸を統合するのが人間の役割なのだけれど、今の人間にはそれができていない。
いさどん:
人間は縦と横の両方を併せ持っています。それが「ヒト」という存在です。
いさどん:
先祖から受け継いできた縦の糸と、魂の輪廻である横の糸が紡がれて、今のあなたがいます。縦の糸を15代さかのぼると、すべての人の先祖はひとつになるそうです。それをさらにさかのぼっていくと生命の始まりになり、さらにさかのぼると宇宙の始まりになります。さらに子孫の方をずっと未来へとたどっていけば、生命の終わり、宇宙の終わりにまで行きつきます。つまり、今の自分というのは、過去の宇宙の始まりから、未来の宇宙の終わりまでを情報として持っているプロセスとしての存在だということです。
縦糸は物理的DNAの流れです。そして横糸は魂の変遷です。今の自分は、過去の自分の人生の結果として、相応しい惑星の配置のもとに降りてきています。そして今世の結果がまた、来世へと反映されていくのです。そしてそのすべての生に、先祖と子孫がいます。その先祖も子孫も最終的には宇宙の始まりと宇宙の終わりという共通に行きつきます。これらのすべてが、宇宙そのものなのです。
その中で私たちは、現在のポジションを、霊的にも、物理的にも共有しています。よく「先祖が大切だ」とか「我が子がかわいい」と言いますが、では前世での先祖はどうなるのか、来世での子はどうするのかと考えたら、身内は世界中どこにでもいるのです。そうすると、私たちはひとつの命であることがわかります。
それでは、カタカムナからこの世界の生死の仕組みを観てみましょう。
いさどん:
カタカムナは、人間の智恵の中のひとつの捉え方というよりも、現象界も潜象界も含めたこの宇宙の壮大なドラマを物理的に解析してくれているものですから、人類、特にこれからの人類に対する大きな贈り物であると言えます。ただし、それを学問のように捉えてしまっては、たくさんある切り口の中の一つにしかなりません。
この図はこれまでに何度も見てきましたが、もう一度おさらいをします。私たちが生きるこの現象界は、「見える世界」と「見えない世界」から成っています。目に見える肉体や現象、そして目には見えない思いや心が組み合わさった、陰陽から成る「カタ」の世界です。現代の科学は、この見える世界の中だけで回っています。とても優れたものでありながら、見える世界の中だけに留まっているので、考え方や文化が偏っていき、対立を生んでいます。
その「人工」の世界から「自然循環」になると、見えない世界も含めて循環するようになりますから、現象の世界の奥には、この世界をひとつに貫く法則があり、豊かで美しい多様性ある世界を表現しています。多様性とは拡大して広がるものですが、その無限に拡大して広がっていくダイナミックなこの世界は、実はすべて、一番大本の世界から生まれてきているということを理解したのが「天然循環法」です。見えない世界と見える世界(「ある世界」)という陰陽の背後に、「ない世界」という陰があり、その三層構造によってこの世界が成り立っているのです。これは、カタカムナの世界観があるからこそひも解けたことです。
20世紀までの自然循環の考え方では、人間の行いによってこの世界はいくらでも歪められていきます。今の放射能の問題をどうするのか、今の固定された宗教の概念でイスラム教とキリスト教はいつ調和するのか、いつになったら人々は、すべてはこの宇宙というひとつの枠の中に存在するということを理解するのか。自然循環までの捉え方では、それは永遠に解決されない、とても難しいことでした。
では、この世界のふるさとは一体どこにあるのか。そこで、もうひとつ大きなくくりの「ない世界」までを含めた世界観がなければ、人類は次の時代へ行けないのです。12900年前の光のピークの時代から、太陽の一螺旋の半周を経て、闇のピークを越え、質的転換を起こす時に我々は来ています。だからこそ、今この世界観が必要であり、それが地上に降ろされたのです。
長い間封印されてきたカタカムナを、戦後に出会って最初にひも解いたのは楢崎皐月という人でした。そこから様々な流れがあり、木の花ファミリーはそれを生活に落とすということをしていますが、カタカムナは誰のものでもありません。そしてその奥深さは、これから先へ行くほど深まっていくのだとしたら、誰もがその探求に参加し、深め、表現していくものなのです。それは世界共通のものであり、人類すべてがその世界観の世界を生きていると捉えれば、カタカムナはこれからの人類の進化に生かされることになるでしょう。
その中で、今日は死生観について語っています。このような真理に出会うのも、苦痛を感じるのも喜びを感じるのも、生きていればこそです。何のためにそれを感じているのかというと、その先にはちゃんと死があり、それが終わるとはどういうことなのかというと、質的転換を迎えて次のステージに進むということなのです。
死とは「ある世界」から「ない世界」へと質的転換することですが、現代人は「見える世界」から「見えない世界」へと行くことを死と捉えています。
みかこ:
そこでは質的転換は起きません。
いさどん:
見えると見えないを行ったり来たりしているだけなのです。
いさどん:
これは、生死の仕組みをみかちゃんが図に表したものです。
みかこ:
この図ではトキ軸が横向きに進んでいます。そのトキ軸に沿い、生きている期間と死んでいる期間を表すトコロ軸がらせんを描きながら進んでいます。見える、見えない、見える、見えない、或いは陰、陽、陰、陽と捉えてもいいですね。
めぐちゃん:
光は電磁波ですが、電磁波が伝搬していく時にもこういう波があります。それぞれの波長の長さがあり、それぞれの振幅という、云わば人生の幅がある。
みかこ:
例えばネズミのサイクル、象のサイクル、微生物のサイクルなど、それぞれに違う。
めぐちゃん:
その波長の長さによって色も変わり、そういうものがその人その人の個性になる。
みかこ:
この図は、誕生、維持、破壊、空を繰り返す宇宙の連なりを表していて、その形が蓮根のように見えることから「蓮根宇宙」とも言います。
いさどん:
蓮根宇宙は、満つれば欠けるこの世の仕組みそのものを表しています。そして蓮根にたくさんの穴があるように、大宇宙の中に無数の中宇宙や小宇宙が存在しています。宇宙が誕生し、拡大していって、意識が統合されていくと再び収縮していって、一点に集約される(蓮根と蓮根のつなぎ目の部分)のですが、そこが「無」であり、潜象界 ──── 即ち「ない世界」です。ここには時がないので、無限とも言えます。そしてそこがまた次の始まりでもあるのです。
いさどん:
肉体は、自分のものではありません。宇宙の、地球の、生態系の循環の中で、自分という自我を持つ魂が呼び寄せた「縁」なのです。人生でいろいろなものに出会うということは、自身のニーズに周りが応えてくれているということであり、その縁によってすべてが紡がれていきます。この顔立ち、この性質、どこに生まれるのか、どのような家族を持つかということも、すべて自らの魂が引き寄せ、その魂のニーズに応える縁によって紡がれているのです。それはものすごく精妙な世界です。ですから愚痴っていることも、喜んでいることも、すべて縁から成っていくのです。
めぐちゃん:
蓮根も、切ると糸を引きますね。
いさどん:
蓮根が食べたくなったね(笑)。
『生まれてくる目的の一つは魂(霊性)を向上させるためにあります。』
ではなぜ向上させるのかといったら、宇宙は変化変容変態を遂げた結果、進化するために存在しているのであり、退化するという目的はないからです。
遥か昔、神様は光そのものであり、自分を認識することができませんでした。そこで神様は、自分から遠いところに闇を置き、そこから光の方へと戻ってくる道を創りました。光に近付けば近付くほど、それは希望となり、喜びとなります。逆に、遠ざかれば遠ざかるほど、苦しみを体験することになっていくのです。
今、人類は、その闇から光へと帰る過程にいます。そして完全に光へと帰ったら、今度はまた闇へと向かう道を歩み出すのです。その時には、みんなで積極的に苦しみましょう(笑)。そういう時もあるかもしれないということです。
『現象界(自然界)は個に独立したものの生命ネットワークです。従って、個々の生命は自らに偏っています。』
ですから、自然界では偏っていることはOKなのです。その偏りが個性となり、それがネットワークしていけばいいのです。ネットワークせずに独りよがりになると、独りよがりのものたちが作る現象が展開するようになります。そこに不調和が発生して行き詰まるようになっているということは、ネットワークすることが目的であり、そのネットワークを断ち切ると問題が発生するようになっているということです。
ですから、目には見えませんが、私たちには確実にそこに行けるような一方通行の道が用意されているということです。ですから、それを無視してそこに行かなければ、痛みが発生するようになっているのです。何という心憎い配慮でしょうか。
みかこ:
偏っていてくれないと、困るね。偏っているからこそ、光は光、水は水、空気は空気の働きができ、この世界が循環していく。そこで個々が個性を持ち、一度は分断したからこそ、つながる喜びが発生する。つながるとこんなにうまくいくのか、ということが体験できるようになっている。
いさどん:
そういったものの象徴的なものが原爆です。核融合という光の発信元は、我々三次元生命の元となる仕組みです。それを武器として使えばあのような究極の破壊の世界ができるのです。あの仕組みはすべての三次元生命の源であり、聖なるものの根源であるはずなのに、使い方を誤れば破壊の権化と化すのです。
人間の意識が狭い時には、ある村の中で一生を終えることもあります。自分の所属はその生まれた土地にある。それが、世界観がどんどん広がると、日本国、アジアと広がって、それが世界になり、地球になり、21世紀は人類の意識が宇宙にまで広がり、宇宙人として生きる時代がやって来ます。これから、人間が宇宙の運営をどうするかという時代が確実に来るということです。
いさどん:
死ぬということは、寿命が尽きることです。人間の手の内にあるのは、その与えられた寿命をどう生きるのかということです。人生の中身については、個人の意思が尊重されています。
すべてはその人の裁量の中にありますが、裁量の中にあるにしては、けっこう方向付けがされてもいます。それが何かと言ったら、独りよがりで独善的に生きれば衝突が起き、不調和に生きれば苦痛が発生します。バランスを欠いていれば、必ずそのバランスに相応しく、問題ごとが発生するようになっています。つまり、バランスを整えなければいけないようにものごとが起きてくるのです。私たちの人生に自由を与えているという割には、神様は結構介入していますね。
実は、神様は完璧に介入しています。自由を与えているというのは、神様は自分から遠く離れたところに闇を置き、そこから人間が光の方へと戻ってくる時にどのような過程を経るのか、その振幅の幅については自由が与えられていますが、闇の側から光の方へと戻ってくる道については、完全に一方通行なのです。神様は自由を与えていると言いながら、ものすごく束縛しているでしょう?なぜだかわかりますか。
としみちゃん:
すべて神が創ったものだから。
いさどん:
そうです。この世界はすべて、神様のマスターベーションです。私たちも神様の心の中にあり、神様そのものなのです。神様がぶわーーっと膨らませた心の一部なのですよ。ですから、この世界のあらゆるところに「カ」が遍満し、神の息吹が満つっているのです。それがぐーっと収縮して統合すると、また神様一人の世界です。それをぶわーーっと膨らませたものが多様性に見えるだけで、膨らんだり、収縮したり、これは宇宙の呼吸であり、すべてが神の実体です。
ですから人間の自由というのは、お釈迦様の手のひらの上にいる孫悟空のようなものですね。それが神様と私たちの実体であり、私たちが神様に向かって「あなた」と呼びかけること自体がおかしいのです。私たち自身も、「あなた」の内にある一人だからです。
いさどん:
この図は、宇宙の誕生から消滅までの神の一呼吸を表したものですが、まさしく目のように見えますね。目は英語で「アイ(eye)」ですね。
みかこ:
目もアイであるし、図の中心にいる自分自身も「アイ(I)」だね。
めぐちゃん:
自分という存在も、相手があればこそですよね。相手、つまり「アイ」の「テ」ということ。
いさどん:
私たちはこの宇宙にあって、自分という狭い枠に囚われていれば、その意識は見える世界の中だけを生きることになりますが、囚われを外せば、物理的には見ることのできないミクロ宇宙もマクロ宇宙も、心で感じられるようになります。
いさどん:
これは宇宙の中の私たちの立ち位置です。高次の意識になれば、宇宙全体を観測しなくても、居ながらにして宇宙の構造を理解できます。
まったく新しい情報を得る時には、古い情報は自動的に整理されて、捨てられることになります。そうでなければ、新しい情報は入って来ません。その時に、中が整理されないまま新しい情報が入ると、副作用が起きます。薬でも、拒否反応が出たりしますよね。しかし、まったく未知の情報ではなく、ただ忘れていることであれば、思い出して元の自分に戻るだけですから、それまでに持っていたものを捨てることで、むしろ楽になるのです。「忘れる」という漢字は心を亡くすと書きます。損得勘定に走っていると、忘れていくのです。しかし思い出せば、「ああそうだった」と本来の立ち位置に戻れるのです。
いさどん:
『人間以外の生物は、このつながりから逸脱できない』 とありますが、実は人間も逸脱はできないのですよ。では人間はどこで逸脱するのでしょう。人間は、自我を優先することにより、全体がひとつの集合体であることを忘れ、自らの立ち位置を踏み外してしまうのです。
一方自我は、すべてがひとつの集合体であるということを、客観的に観て学習するために、わざわざそこから離れるとも言えます。客観的に観て、さらに客観背後までを認識して、この世界を観ることもできるのです。しかしまた、そこから逸脱するということは、ひとつの集合体であることを忘れてしまい、この世界の調和を乱すようなものにもなります。人間とは諸刃の剣で、悪にも善にもなるのです。
神様がすごいのは、その両方を人間に与えたことです。つまり、「そなたは私である」と言いながら、「そなたは私から限りなく遠いところにいる」という道を与えました。その遠いところから元の光へと戻ってくる道のりが神様の意思で、遠ざかっては元に戻り、また遠ざかっては元に戻るということをくり返しているのです。
そう考えると、「神」という文字は、旧字体で「示」に「申」と書きますが、この世界は神と人間のキャッチボールと言えます。
もう一度、宇宙の構造に戻りましょう。
なぜ、地球があるのか。これから先、人類が宇宙を探査していく時代に、水を発見したり、微生物に出会うことはあるかもしれませんが、この奇妙な「ヒト」という、「ヒ」から「ト」までの要素を持っているような生き物に出会うことができるのかどうか。想像する限り、それは難しいですね。つまりそれは、地球という星が、いかに宇宙の総意で創られた奇跡の星であるかということです。そして「ヒト」というものがいかに宇宙の総意によってこの立ち位置を得ているのかを考えた時、私たちが地球に存在していること、生命であること、ヒトであること、そして自分自身であるということがいかに貴重で尊いことなのかということが観えてきます。
人間は自らの人生を自滅させるような人もいれば、マザー・テレサやガンジーのような聖人としての生き方をする人もいます。自分のことしか考えず、お酒やタバコなどの依存症になっていく人もいれば、自殺する様な人もいるわけです。多様性の世界を表現するための役割だから大丈夫だよ、うつになって生きていてもいいんだよ、と褒めてあげたいような大らかな気持ちにもなりますね。
これから私たちがさらに宇宙を探査し、ある星に辿り着いたら、それは「うつ星」だった。みんなうつで、うつであることがステイタスで、「高次のうつ」なんてものがあったりしてね。そういうの、どう?(笑)
うつだけではなく、そういった多様性の世界をピンからキリまで体験できるのが、地球という星です。そう考えると、地球に生きるとはすごいことだと思いませんか?何があっても、どんなことに出会っても、楽しいという感じがしませんか。そういった捉え方をすれば、生きることと死ぬことは、まるっきり正反対のようなものですが、この星に生きることは、それを両方体験できるのです。皆さんは、その体験ツアーに来ているのですよ。
みかこ:
発生学のことを思い出した。人間は最初に肛門ができて、そこから内臓が順々にできて、頭ができて、最後に脳ができる。だから脳は二次的なものだというのだけれど、脳には松果体という、宇宙を感知するとても大切な部分がある。とても高度なものであるからこそ、先にその他の部分を受け皿として創り、最後に脳を創ったのだと今理解しました。それは、動物の中で人間が最後に創られたことと同じ。高度だからこそ、その最終章に登場した。
脳は潜象界の感受体であり、体は現象界そのものを現している。特に手足は、さらなる現象を生み出していく現象化の働きをする。潜象界から現象界に現れる時には、自動的に質的転換が起こる。それは、脳の右脳は左半身に、左脳は右半身に作用する仕組みと同じで、まさに潜象界と現象界を質的転換しながら 行ったり来たりするのと同じ仕組みになっている。同じように、目から入ってきたものは目の奥で焦点を結んで反転し、脳に認識される。つまり、目というのは、潜象界から現れた現象界を感知するための器官なんだよ。脳に直結し、現象界で捉えた像を脳へと送っている。その情報を持って、脳は現象の奥にあるものまで感受できる能力を持っているのだけれど、目が曇っているというのは、まさにそういった真理を探究する心の目が曇っていると言える。目(芽)は、表に現れている部分は少ないけれど、その奥に広がりを持っているものが控えている。まさに氷山の一角だね。
いさどん:
それは依正不二という言葉にも表れています。この世界で人間は、脳の役割を果たし、動物たちは現象化するための役割であるとも捉えられます。人間の目が曇っていると、結果、この世界のすべてが混乱していくのです。
めぐちゃん:
今聞いていて思ったのが、脳の松果体で受けたものが喉で交差して体へといくわけだけれど、まさにその喉で声 ──── 響きを発していますね。
みかこ:
そこに意志が現れる。いさどんがいつも言うのは、語ると現象化するということ。だから声に出すことはとても大事。
いさどん:
「イ」「シ」とは、「示し」の「位置」。体へ行くだけではなく、外にも発せられます。
みかこ:
その中で、松果体で受けたものには、天の意志が示されているんだね。
いさどん:
でも今は上(霊性=潜象界)よりも下(体=現象界)が優先してしまっている。
みかこ:
松果体は宇宙を感受する場所。カタカムナはここの感受性を磨くことを伝えている。
いさどん:
今は思考の主体が損得勘定になっており、そういった思考は下から湧いてきます。しかし本来、生きるとは、「今日は天気がいいから何をしたらよいでしょうか」と、上にお伺いをたてて生きるものなのです。そしてその結果も、先に行ってみていただいていく「いただきます」の姿勢であるべきなのです。
みかこ:
現代人は脳の10%しか使っていないというのは、現象界しか見ていなければ当然のこと。
いさどん:
6500年前から、そういった時代が始まりました。しかし13000年前には松果体優先で生きる人々がいたわけですから、地球46億年の歴史からしたらそんなに遠い話でもないですね。それもサイクルを刻みながら先へ進んでいるのですから、今私たちが物質文明をこれだけ発展させたのも、それを体験して次のサイクルへ行くためのものなのです。ですから、そんなに深く考える必要もないのかもしれないですね。これを経験しなければ、次がないのですから。
いさどん:
人間が正しく生きるとこの世界が正しく運営されるということは、人間が「ヒ」から「ト」までを理解した「ヒト」になるということです。
人間は、この世界の法則から逸脱することができます。生命ですから、本来この世界の法則から逸脱することはできないはずなのに、できるとはどういうことかと言うと、意識の上で逸脱できるということです。そして、その逸脱の体験を学習することができるのです。
「依法」と「正法」は不二、つまり表裏一体です。依法と正法は、その双方が役割を果たすことによって、この世界を運営しているということです。それを忘れていてはいけません。
いさどん:
この世界は「成住壊空」の仕組みで成り立っています。この拡大の始まる一点がビッグバンです。ここから世界が広がり、地球上では現象化が進んできました。生命も進化してきました。そしてピークを迎えると、「満つれば欠ける」というように、今度は崩壊に向かっていくのです。「成=誕生」「住=維持」「壊=破壊」と進んでひとつのサイクルが終わると、「空」即ち無になります。図で見ると、この「空」は一点で表されていますが、この点は天であり、無限なる宇宙でもあるのです。この点である瞬間が無限につながり、無限の世界を創っています。つまり、そこではトキも存在しないのです。それは限りなく長い世界であるとも言えるし、「ない世界」ですから一瞬で次の世界に切り替わるとも言えます。
『この世界は、「ある世界(現象界・陽)」と「ない世界(潜象会・陰)」を行ったり来たり(質的転換)しながら循環し、生死を繰り返している』
その天然循環の世界が神様の歩みであるとしたら、この図は神様の呼吸を表してもいます。私たち人類の文明も、同じように呼吸していますね。時代は、神様の呼吸で創られているのです。誕生し、死を迎え、誕生し、死を迎えるという陰陽のサイクルが無限に続いているのです。
いさどん:
これは村山節さんという人が提唱した、文明周期説に基づいています。今私たちは西洋文明と東洋文明の盛衰が入れ替わる、転換期にいます。転換期だからこそ、こういったことに気付けるのです。そういった切り替え時だからこそ、今話しているようなことを理解し、語れるのであって、もっと前の時代にはそのような視点は持てませんでした。今、様々なターニングポイントが同時に地球上に訪れていますが、私たちがその大転換の時に生きているということはとても重要であり、めぐちゃんが言うように「過去にこんな時代があっただろうか」というくらい稀な時に私たちは集っているということです。
その中でも、こういった仕組みを理解できる場に集っているということはとても貴重なことです。世の中はまだ、銀河の冬至という闇のピークを越えたばかりで、季節で言えばこれから「小寒」「大寒」がやって来るのですから、もっと寒くなります。そういった事実を抜きにして、私たちは松果体を震わせて世界の全容を読み解ける立場にいるのですから、それは時代にとってとても重要な立場に立っているとも言えるのです。
いさどん:
これからは、宗教のように何か他のものから価値を得ようとするのではなく、自分自身の中に眠っているものを目覚めさせる。そうすることによって、自らが尊きものとなり生きる時代がやってきたのです。
いさどん:
どの宗教も同じですね。人々の「救われたい」という発想がベースになっているのです。
いさどん:
この世界に生きるということは、自らが「無」となって宇宙の法の元にあるすべてのものごとをいただきながら、「有」である現象界を生きることです。私たちが生きるこの世界は、無と有が共存しているのです。
いさどん:
お釈迦様が悟りを得た時、それはとても心地よい境地に至り、お釈迦様は一人でその境地にいつまでも浸っていたい気持ちになりました。しかし、尊き存在の立ち位置は、それではいけないのです。聖なる者として地上に降りたものは、迷える者たちを救わなければなりません。それが聖なる者の本分なのです。ですから神様は旅人に姿を変え、そのことを何度もお釈迦様に伝えました。
いさどん:
その花とは、既製品ではなく、一人ひとりオリジナルな「個の花」です。
いさどん:
なぜ「願ってやみません」と書かれているのかというと、そのことの大切さに気付いた者がどんなに高次の意識で投げかけたとしても、結局人間には自由が与えられており、自らがどのような意識で生きていくかは一人ひとりの選択なのです。
そのことの大切に気付き、ぜひその境地に行っていただきたい。この世界はあなたの目覚めにかかっているのですから。