一ヶ月間の真学校もいよいよ終盤をむかえ、最後のまとめとして、12日と13日の午前の時間を使って一人一人の学びの振り返りをしました。初めにいさどんから以下のような話しがありました。
「どんなに人間が科学物理の世界を広げたとしても、神とつきあわないで人間の歴史があったことはありません。しかし人間は、神を見失い、神や真実を怪しむようになりました。人間の中に、神や真実の世界が定着しておらず、揺るぎない柱が立っていないので情報の洪水の中で、見えない世界に対しての迷い人となっているのです。迷い人たちが作り上げた現代社会は、矛盾の生産工場になってもいるのです。
人々の興味は自らの自我に向かっているのです。しかし、真学校では、最も大きな世界から自らに向かってきて、初めて自らが見えるというように、自分が世界の中心ではないことを学びました。みなさんが次のステージに立ったときに、真学校で学んだ客観視点で何を観るのか、それが一人一人のこれからの歩みで、真学校の本当のスタートなのです。」
そしてしばし、一人一人がここでの学びと、当初の目標が何だったのかを振り返る時間を持ちました。ここで、いさどんがみんなに伝えたことは、
「真学校は一人一人に伝える講座としてやりました。それは一人一人歩む道が違うからです。しかし、その本質はその、一つのことを伝えました。それはこの世界が一つだからです。」
それから丸く座り直し、振り返りの時間が始まりました。
「生き詰まっている人は、自らの望みを叶えようと奔走します。つまり自らを特定の枠の中においておこうとする人です。それを手放すと人は変わっていきます。
生きる事は一人一人オリジナルな旅をしている人生はバイキングのようなものです。みんなが自由に心をオープンにして語り合っていく中で、いろんな人のいいと思う性質を自分の人生にトッピングしていくことができます。」
13人の中身の濃い振り返りがあったのですが、その中から、2年前のEDEにも参加し、その後も会社に勤めながらも木の花に関わり続け、今は長期滞在しながら心を学んできいるあわちゃんの振り返りにスポットをあててみました。
あわちゃんの真学校に参加する目的は
「自己コントロールして健全に生きる。
真学校が終わって、これだったら僕にとっても心地よく自分の回りも喜び合えるような生き方を見つけること」というものでした。
以下は、今回の振り返りのいさどんとあわちゃんの会話です。
いさどん: あわちゃんは元々生きる事のテンションが高い人。今までテンションが高くなりすぎて壊れて、落ちてということを繰り返していた。テンションが高いのが個性なのだから、そこでテンションが高い状態で自分を他者に生かせるようになったら、あなたの心も満足し、回りにも貢献できる。結構今そこにはまってきていると思うけど、どうかな?最近はぐるぐるというよりも、巧妙に表現して最後は笑いを取って拍手をもらって終わるという感じになっているね。今もぐるぐるしているの?
あわちゃん: 最近はバラバラの思考が若干統合できるようになってきていて、文章にするとまとめられるけど、文章化しないと頭の中でまとめられないという状態です。
いさどん: 頭の中で考えたり、話したりするとまとめられないことが、文章にするとまとめられるということは、そういう役割で生きて行きなさいということでもあるんだね。
今まで先に「これが欲しい」と欲を優先してみんなダメにしてきたけど、わからないけど何かこれでいいんだという安心のもとに進んで行ったら、結果として出会って見えるものがあると思う。
あわちゃん: 自分の場合、「こうしたい、こうなりたい」というのがすごく強いので、それを一瞬一瞬止めていて、普段日常のことから積み上げていった結果が、ああいったシェアーとかブログという形になっている。僕の人生自体、真学校が終わった後どうなるか分からないから、とりあえず今常に自分の心にあるものを前に送り、その結果いろいろいただくので、いつもだとそこでバーンと落ちるんだけど、それを文章で表現するということで落ちる前に上手く循環できて、コントロールする感覚が得られてきていると思う。
いさどん: あわちゃんにはもう一つ聞きたいことがあって、ここまでは「自分がどうするか、自分の心の状態をどう掴んでいるか、そしてどういった姿勢でこれから望んでいくか」という話しをしたでしょう。木の花にいるいないに関係なく、その先にある社会という器に対して自分の目標やイメージはあるのかな?
あわちゃん: 大きなものは今あえて考えていません。狙わない方がいいと気がついたので。
いさどん: 最終的なイメージとしてその人のスケールで社会に貢献していくこと、よりよい社会の成り立ちに貢献する自分につながったらいいと思うので、そういうイメージは持っていたらいいね。
あわちゃん: 僕が何も狙わずににシェアーをした事を受けて、ともくん(ヘルパーさん)が「僕も勇気をもらったからやってみるよ」と言って自分の事をシェアーしてくれたのは、すごく嬉しかった。狙ったわけではないけど、結果的に僕自身のうまくいってないところを出すことで、同じような想いをしている人たちが勇気をもらって歩んでいってもらえる、そういう感じが僕の役割なのかな。
いさどん: 社会に貢献しているね。今までは、あわちゃんが「こうなりたい、ああなりたい」と言っているのを見ると、あわちゃんだけの世界で勝手にやっていて、孤立しているという感じだったけど、ともくんが反応したということは、共感出来るものが発信されているからそうなったんだよ。とりあえず自分が思うところをやった結果、答えがちゃんとそこにある。自分が行動したから起こったことで、流れや出会いによっていただいたことでもある。
ここで共通しているのは、21世紀の始まりの今の時代を生きているよね。今の時代はすごく分かりやすくて、日本でいったら江戸時代なんていう時代は同じ様な変化のない時代がずっと続いていて、わかりにくかった。
例えば江戸時代と明治維新というのは、時代は変わったけどそんなに意識は変わっていない。あの時代は国を開けて外と自分たちを比べる時代が来たから激しい変化のように見えるけど、人の意識は武士から日本帝国軍兵士に変わっただけで、武士道はそのままで、その元にある意識は変わっていない。
でもこれからの時代は日本人が日本人でなくなり、世界人になる。そして地球人が宇宙人になる時代だからすごく変わる時代。そういう意味で情報を提供してきたけど、太陽が一螺旋して銀河の冬至が来たとか宇宙的にも、地球上の時代の流れ的にも、また環境的にも変化の時をむかえている。哲学とかイデオロギーとか宗教が元になっていた制度が限界に来ている。そういったいろんな意味で切り替えの時が来て、ものすごく大きな変革が来るとしたら、一人一人がどこかでそのことを意識し始めている。そのためには誰もが変化していく必要がある。
あわちゃんは、どちらかというと独りよがりで自滅するという、社会にとって有効なのか無効なのか分からない様な存在だった。しかし、あなたの個性が生かされて社会が転換していく役に立ったとき、一人が一人の人生を作っていくという以上の大きな意義が生まれる。その両方をみんなには考えて欲しい。真学校はみんなにそういったことに目覚めてもらう場所でもある。単に「個人の目標を見つけて良い人生を生きましょう」というセミナー的な発想とは違うと僕は思っています。その意識を社会的に持って欲しいということ。これはあわちゃんだけでなく、みんなに伝えたい事です。
そうすると自分の目標のスケールが大きくなって、心の尺度も大きくなり、柔軟性も増す。例えば社会で起業して成功するのは何のためなのと考えること。それは成功するためにはどういう人であるべきなのかということになって、どんどん人が大きくなっていく。起業して成功するということだけだとお金があるかないか、規模がどうだとか、考えていることは自らの利益のためだけ、そうすると新しい社会にとって新たな害をもたらす事にもなる。そうすると時代が転換することにはあまり有効なものにはならない。
あわちゃん: 真学校の13人のコミュニテイーってこれからの時代の超スモール版だと思う。これ自体、時代の流れに沿ったものであれば、ここで学んだ事を社会とか地球に広げるだけで、良いのかなと思う。
いさどん: たかだか一人の人生ですよ。そして一人一人がこれからどう生きて行くかということは、小さく見えるけど、そういったものがネットワークしてこの世界が出来ている。それは地道な話しであるけれど、それがネットワークすると、個人意識だったものが宇宙人になるぐらい、時代をにない創造していく人になる。それはすごくダイナミックで大きな話しにつながる。カタカムナで言う「カ」という最極微少粒子が、この巨大な世界を作っている。小さければ小さいほど連携して振動しこの世界を作っているとしたならば、このネットワークは「あっ」という間にわ~っと広がる。アマハヤミだから。「大きい」は「小さい」が創造している。
最近のあわちゃんは、まだまだ荒削りだし未熟で、これからも探求とか自己コントロールがいるだろうけど、日記を止めて単独の行動としてブログという形でみんなを楽しませていることを、いい意味であわちゃん流にはじけていると思って見ている。
「ルールは日記の中から、コメントもらって振り返れよ」なんて、そんな狭い枠に閉じこめるんじゃなくて、いい意味でどんどんはじければいい。
みかこ: これが、無個性になる道じゃなくて、クセが個性になっていって害から良いものを回りに与えるといういい例だね。
いさどん: ひとりひとりの個性の花を開くというのが、「コノハナ」の意味。
よしてる: 「個人の花」という意味?
みかこ:(絵を描きながら)
「コ」はカタカムナのムナヤコトのコで、深い意味があって、「くり返し」とか「転がり出る」「超える」などの意味がある。潜象界(現象界の元となる多次元世界)から常時生命力がわき出してくること。それがこの世界に伸してくる。次々と転がり出たものが、この世界に生み出された個性なんだよね。それが個人の「コ」でもあり、大宇宙の中に小宇宙がとびだしたということでもあり、「コノハナ」というのは飛びだした個性が花のように開いてバランスを取り合って曼荼羅を作っているという意味。
ホワイトボードの絵
いさどん: コノハナというのは宇宙を歩くそれを理解した人たち。我々がそういうことを理解してこの世界に生きるということは、宇宙(時代)を歩くことを理解し、個人を存分に発揮しながらこの世界を創る人々という意味。イメージはそういった宇宙意識を持った人たちが宇宙空間(時代)を歩いている。(ここでナンバ歩きの動作をする)
そうすると気持ちが落ち着いて、存分にコ(個人)の花を咲かせられる。そうすると自ずとあなたのポジションが見えて来る。
あわちゃん: まだ荒削りなのは重々解っています。
いさどん: その典型的なのは、あなたが良く語る「もてる」という話しだよね。「もてたい」という心があるのは荒削りで、「もてる」というのは「もてたい」じゃなくて魅力的な人になればもてるんだよね。しかし、自分に似合わないものにもてたら困るでしょ。やっぱりふさわしいところでもてる事が一番だよ。そうしたら、落ちるところへ一度落ちて、そこからもう一度積み上げることだね。
この世界にいろんな花があるとすると、そのものらしく咲いているということは、その花が必要とされているということです。
みかこ: 最近のあわちゃんをいいなと思うのは、天の意志とつながりだしたから魅力が出てきているんだよね。あわちゃんは今まで、ほかの人に好かれたい。でもみんなが天とつながらないところで連携して全体で外れていくという世界をやっていたんだね。みんなが中心の意志とつながり始め一人一人に柱が立つと、世界に花を咲かせるということになると思う。柱が立った人たち同士で連携していくと、お互い魅力的だなと思うのが当たり前の世界なんだと思う。
いさどん: (ホワイトボードの図参照しながら)
この一個一個が個性でしょ。こういった個性が存在することが自らの位置を理解する客観だよね。この一個のものがどう生きるかということは、そのものの物語なんだけど、一つ一つ全体の関係性の中で役割があるとしたら、全体の物語を紡ぐ役割があるということ。それはこの時代の盤面から離れないと解らない。それが客観背後。直観はこの中心の柱からもおりてくるんだよ。
みかこ:今は世界全体が中心の意志の柱を見失っていて、全体で横にそれていっている状態。ネットワークも悪いネットワークになっている。しかし、このネットワークに中心の想いの柱が立ったら、全体に良い流れになるね。
いさどん: というように、客観背後まで捉えても、我々は最も身近に単独の自分というエゴをもらっている。常にそれを主役にしながら、同時にこの大きな世界を意識していく。そしてこの両面を意識していれば、自らの中にいる自分は必ず生かされるものです。
真学校を受ける中で、確実に大きな変化があった人の一人があわちゃんでした。それがこの振り返りに現れていて、大きな世界観にまでつながったのでしょう。
最近のあわちゃんブログには、地球外生命が登場して、いろいろな鋭いコメントをしています。その名も「あわりーぬ」。是非こちらも見て下さいね。
★あわちゃんブログのアドレス
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