8日目「人格を学ぶ講座2」

一昨日の「人格を学ぶ講座1」に続く第2弾!
カルマ読みや地球暦といった手法を通して、表面からはなかなかわからない、その人の本質を読み解いていきます。人はどうすると健全になるのか。いさどんが語ります!

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いさどん:
人間というのはとても個性的で一人ひとりオリジナルにできています。しかし、一般的な人間関係においては、そのことがわからずに、相手に対してとても雑に接しています。例えば表面的には弱いように見える人が、実は弱さを演出して自分を主張している場合もあり、それにごまかされていたりするのです。人間の本質を見抜くことは、実にやっかいで難しいものです。

そういった精神構造の実態がわかればわかるほど、人間とはとても扱いにくいものだとわかってきます。ですから、相手をよく理解していくことが大切です。僕は今までたくさんの人間と出会ってきましたが、素直な心で生きている人間とはあまり出会ったことがありません。そして、そのような人たちと付き合いながら人間というものを探求してきた結果、極めて人間不信となりました。

多くの人は、自分で自分の姿を観ることはできません。それは、自らの実態を直視しようとしないということでもあります。そこで他者からの客観的な視点が必要になるのですが、人から伝えてもらう時に最も大切なことは、素直になるということです。まず、素直に自分を表現する。それは正直であるということです。自分の本当の気持ちを出して、その結果起きることや、それに対する相手からの反応を素直に受け取っていく。そうすれば、どんな人でもすぐに健全になれます。

人は過去世において、どのように生きたかによって、個性のベースができあがります。その積み重ねが、人格の元となるカルマを形成しています。そしてそのカルマが今世でどのように表現されていくのかは、今世の生きる姿勢にかかっています。カルマは個性ですから、有効に表現することもできれば、有害なものとして表現することもできるのです。
カルマは、小さな子どもの頃から、個性として表れます。子どもは社会経験が少ない分だけ、人から伝えられた時に、素直に受け取っていくことができます。しかし、年齢を重ねるにしたがっていろいろな経験をしていく中で、その人の性質が自らのカルマをどの方向に向けていくかによって、濁りや歪みが積み重なり、受け取ることがだんだん難しくなっていくのです。
幼い頃から確実に表れてくる人それぞれの性質を客観的に観て、そこにある矛盾を冷静に捉え、寄り添っていくようにすると、その人本来の個性が素直に表現されるようになります。そうすると、その子はとても個性的で素直な子どもになります。しかしほとんどの子どもは、そうはなりません。なぜなら、周りの環境が人格の形成に大きく影響するからです。それは先天的にそういった道を歩む定めがあるとも言えますし、後天的な出会いがその人の人生に加味されているとも言えます。つまり、その人のカルマに相応しく経験するようになっているのです。

例えば、ある年齢まで普通の環境で育ってきて途中から木の花に入ってきた子どもは、3歳までなら素直になるのは早いのですが、それを超えると修正するのがだんだん大変になっていきます。素直になる環境に来ているのに、素直になることに自我が抵抗して、その環境が苦痛になるのです。それでも年齢が若ければ若いほど早く歪みは取れていきますが、20歳を超えると、素直になることが自分を否定することであるかのように感じるようになるのです。
そうすると、たとえ伝えられたことの意味を理解しても、それによって自分が否定されたと思ってしまうため、いじけたり、自分を守ろうとしてその状態を維持し続けることになります。それがさらに継続していくと、それが固定された状態になってしまうのです。
ですから、年を取れば取るほど、素直になるためには相当なパワーと自覚が要ります。そこにメスを入れずに歪んだ状態のままで生き続ければ、物理的な現象でも、対人関係でも様々な問題の発生源となり、そういった人生の繰り返しにつながるのです。しかし、生きている限り、手遅れではありません。生きている限りチャンスがあるのですから、命がなくなるまでそのチャンスを活かして、少しでも次の為の良い種を播きたいものです。

あわちゃん:
今の話はすごいポイントですね。木の花では「正直、素直、信じる」ということを大切にしていて、正直な気持ちを出したことに対して周りから率直なフィードバックが返ってくると「正直に出せと言ったから出したのに!」と不満を言う人がいるけど、正直に出したからこそ、率直なフィードバックをもらって自分を客観的に知ることができるわけだから、正直に出すことと素直に受け取ることはセットなんですよね。

さこちゃん:
今までの自分を捨てたくなくて、泣いたりしてきました。

いさどん:
そんなに今までの自分を捨てたくなくて悲しいなら、それをそのまま持っていればいいのに、持っているのは嫌だと言うのです。嫌なくせに、それを持ち続けて泣いている。そして自分でもそれが嫌なのに、人から「それを持つのをやめなよ」と言われたらそれもまた嫌だと言う。
なぜそういう状態になるのかと言ったら、心の枠が狭いからです。キャパも小さく視野も狭い。ですから、それを超える一つの方法として、世界観を広げましょうと伝えているのです。自分のことばかり考えて自らの興味にだけ意識を向けるのではなく、多角的な視点を持つための情報を取り入れ、視野を広げていくと、自らのこだわりに囚われなくなり柔軟な物事の捉え方が身に付き、嫌な自分を捨てやすくなります。そういった視点を持ち柔軟性が身に付いた人は、他者の為になる人です。それは社会にとっても大切な存在であり、今、そういった人たちが必要とされる時代が来たのです。

これまでの世の中は、経済が大きく広がり物理的に豊かになり、そういった価値観一辺倒の、質を問わない時代でした。物の質は問われてきましたが、心の質は問われなかったのです。しかし、心の質が雑であれば、世の中全体が雑になります。人間関係も雑なら、物の本質も雑なのです。そして物があふれればあふれるほど、世の中が雑になっていきました。そこで、その切り換え時にはどういった意味があるのかということを考える必要があるのです。

ここには、たくさんの人が訪れます。以前は僕も、一人ひとりの人をきっちりと治してやろうという気持ちがありました。僕も一生懸命だったのです。しかし、その人の問題なのに僕の方が一生懸命になっていて、本人は熱心ではないというケースもありました。その人を改善するために、僕の方が何とかしようよと言っている。中には、自分がそうできないことの怒りを相手にぶつけてくる人もいました。そこで僕も、嫌ならやめたらいいんだよ、とどんどんシビアになっていきました。本人が求めれば、どこまでも付き合います。しかし求めない相手に付き合っていてはエネルギーがもったいないですから、それならば好きにしなさいと言うようになりました。それで最近は自分の方からエネルギーが出ていかないので、このように体に蓄積されてふくらんでしまいました(笑)。

何が言いたいのかというと、自分が一生懸命になれば道は開かれるということです。反対に、駄目だ駄目だとか、誰か救ってくれないかなと言って努力しない人には、道は開かれないということです。
自分の人生は、自分で歩んで開いていくものです。だからこそ、自らの中にあるものを積極的に出す。正直に出す。そして結果を素直に受け取る。「正直」という言葉がありますが、これは「正しく直る」ということであり、表に見えている姿勢が実際の自分の姿を表しているということです。外と内が違っていてはいけないのです。かっこいいも悪いも関係なく、いつでも本当の自分を出す。それはなかなか勇気のいることです。「正直」とは、今の実体そのものになるということなのです。

そして「素直」とは、素のままの本質に戻るということです。とかく人は、こういうふうに見せたいとか、こういうふうに受け取ってほしいというような思惑を持つものですが、本当は人間は楽になりたいのです。楽になるとは、負荷がかからない状態になるということです。「素直」とは、負荷のかからないリラックスした状態のことであり、顔と心が一致しているということです。
そう考えると、のぶくんの場合、知らない間に緊張して、こう見られるのではないか、ああ見られるのではないかと、心も体もとても緊張している状態ですね。そうではなく、「素直」というのは、負荷をかけずに実体のままにあるということです。

「正直」「素直」というのは、正直でなければ素直になれないし、素直でなければ正直になれません。これは連動しているのです。そしてもう一つ、「信じる」があるのですが、信じるというのは難しいのです。何故かと言うと、ここでの信じるというのは、本当がわからない状態でありながら信じて行くということを意味するからです。
例えば何かを始める時に、これは自分にとっていいことだと考えて、それがわかってからやろうとする人は、信じたことにはなりません。ほとんどの人は、これは間違いないと自分で納得してからことを始めるのですが、「信じる」というのは、納得できなくても、わからなくても進んでいけるということであり、自分の安心を何かに託せるということなのです。
それは、自分自身を、自分ではない何かに託せるということです。とてもハイレベルなことですよ。信じる心に至るには、勇気が要るのです。そしてそこには、わからなくても「そうだ」という確信が要るのです。木の花には『信じる心』という歌があります。「わからないけれど生きていく」「信じる心で生きていく」という歌詞が言っているのは、そこなのです。

かずえちゃん:
それは直観ですか。

いさどん:
そうです。「正直」で「素直」な心があるから勇気が生まれて、「信じる」になるのです。

 
信じる心

わからないけれど 生きている
信じる力で 生きている
わからないけれど 生きている
信じる心で 生きている

みんなで共に生きていることの この貴さを知らせよう
ひとりだと思い込んで生きている魂たちよ
みんなでつながっていることを思い出そう

わからないけれど 生きている
信じる力で 生きている
わからないけれど 生きている
信じる心で 生きている

砂に埋もれた希望の星を今 みんなで掘り起こして
空では星が歌っている つながっていると歌っている

わからないけれど 生きている
信じる力で 生きている
わからないけれど 生きている
信じる心で 生きている

 
いさどん:
信じる心は、勇気と確信がなければ持つことができません。そして「正直」「素直」「信じる」の3つは順番ではなく、セットなのです。
人にはそれぞれ、いろいろな心の癖がありますね。それを道理で伝えられた時に素直に聞いていくと、この人の言うことは本当だ、この人は私より私のことを知っている、だからこの人に賭けよう、という確信が生まれてきます。そうしたら、どんなに難しい病気でもたちどころに良くなります。その勇気と確信が信じる心になる期間が、木の花ファミリーの自然療法プログラムで言う、治療期間です。

実はこれまでは、現代的な医療の概念に浸かっている一般社会の人々には、こういった話はなかなかできませんでした。なぜなら、人々は、今自分が抱えている問題ごとは自分で解決するものではなく、人に託して解決してもらうものだと思い込んでおり、自らがそれを創り出したものだという解釈がないからです。ですから、自分は病気で、分析不可能な混乱の中に入っていると思い込んでいたのです。
しかし今、時代はこういったことまで皆さんに伝えられる段階になってきました。そして、物理的な問題ごとを生み出す自らの性質が客観的に観えてくれば、自ずと病気にもかかる必要がなくなるのです。なぜなら病気は、物事の本質が観えずに矛盾を発生させる自らの性質に対しての警告、もしくは気付きを促す作用だからです。

我々がこの世界に生まれてきて、なぜ問題事が与えられるのかと言うと、自らの魂にふさわしく、気付くために与えられています。それをどんどん素直に受け取って気付いていく人は、早い段階で自らの課題をクリアしていくことになります。特に子どものうちにこのような環境で育つと、初期の段階でクリアするのでさわやかな人生を生きられるようになります。そしてある段階から、自分ごとではなく、人の為に生きられるようになるのです。
皆さんも、今まで自分のことばかり考えて生きてきたということを振り返ったなら、まだ手遅れではないですから、ここから切り替えて、自らを人の為に役立てる人生を生きてください。そうすれば、誰もが希望を持って生きていくことができるのですから。

 
kalma

 
☆さてそれでは、どのように個々の人格を紐解いていくのか。
 詳細は、「1ヶ月間の真学校2017」へどうぞお越しください(^v^)ゞ

 


6日目「人格を学ぶ講座1」序章の話

2016年度1ヶ月間の真学校では、最初の2週間で全8コマの「人格を学ぶ講座」を受講します。名前からその人の魂の陰陽や性質を読み解く「カルマ読み」、生まれた日の惑星配置から天命を知る「地球暦」、そして日本語の元となった48音の思念を通して生命の本質を解き明かす古代文明「カタカムナ」という3つの手法を通し、受講生一人ひとりが自らの人格を客観的に捉えた上で後半を迎え、さらに学びを深めます。
それまで知らずにいた自分自身の本質を知ることで、驚く人あり、深く納得する人あり、時には「そうだと思いたくない」と抵抗する人あり。しかしこれは、自分に都合の良い情報だけを取り上げて自己満足するための占いではないのです。

1ヶ月間の真学校の基盤とも言えるこの講座の冒頭に、「序章の序章の話」として、なぜこれをやることが大切なのか、その意味をいさどんが語りました。

まりちゃんが作った新しい服を着て
まりちゃんが作った新しい服を着て

――

僕は、いろいろな情報を得るときに、自らの感情を入れないでその情報を捉えましょう、とよく言います。それは、情報に感情がオーバーラップしてしまうと、真実が観えなくなるからです。まずは自分の思考のクセをよく把握し、その上でそのクセを意識しながら情報を聞くと、ものごとを客観的に捉えることができます。

人は自我に目覚める以前より、育てられる環境に反応し、適応することによって、内に秘められた人格が湧き出てきます。そして人間形成が進んでいくのです。
人格の成り立ちを緻密に振り返ってみると、様々な洞察が湧き出し、その人格がどのように形成されてきたのかという流れを観ることができます。その流れの中で築かれてきた人格が、私という存在です。
ある程度年齢を重ねていくと人間関係が広がり、他者との違いを通して自らがオリジナルな存在であることに気付いていきます。人によっては、そのオリジナルな目覚めが他者と違うからと言って辛い思いをすることもあれば、多くの人と同じであることに安心感を覚える人もいます。また、他者との違いから優越感に浸る人もいます。そこで優越感に浸るのか劣等感を持つのか、はたまた安心するのかは、その人の性質によって異なります。あるいは、それまでに育った環境がその反応を引き起こしている場合もあります。
そのようにして、もともと持っていた人格と、後天的な環境などから引き出された人格が折り重なり、その人の自我が創り上げられていきます。その時に、被害者のようになって人生を生きる人もいれば、加害者として生きていく人もいます。また中には、自らの人生をマイペースに生きて他者のことにはあまり干渉しない人もいます。人それぞれで、いろいろな人がいるものです。

このように細かく自らの人格形成の成り立ちを認識していく人は、ほとんどいません。ですから、多くの人は無自覚のうちに形成された人格をクセのように身に付け、そのクセのままに思考し行動していることに気付いていないのです。ですから同じことを繰り返し、「またやっちゃった」と反省したり、人から指摘されて「そういえば前にも同じことを言われてたね」「あなたらしいね」ということになります。自分の中から日々湧き出てくる感情を観察し、自己コントロールしている人というのは非常に少ないのです。

ただ、そのようにノーチェックでクセを出すことで、この世界に波紋を広げていることは事実です。この世界は鏡ですから、自らが世界に波紋を広げれば、それはいずれ必ず自らに返ってきます。因果応報という言葉の通り、この世界は原因と結果の連鎖によって成り立っていますから、何かの形で結果が返ってきたということは、必ずどこかで自分がその原因を発しているということです。その構造がわかったら、原因はどこにあるのだろうと振り返ることができます。それを発したことによって喜べない結果が返ってきたとしたら、今後はそれを発することをやめれば、同様の結果は発生しないことになるのです。

日々自らの中に湧き出してくる感情も、その瞬間にそれがどのようなものなのかを客観的に捉えることができれば、その感情をコントロールすることができます。例えばそれが相手に対して突き刺さるようなものであれば、少し緩めたりして表現すればいいのです。相手に強く突き刺されば刺さるほど、それは自らに強く返ってきます。それは相手が強く発したとも言えますが、強く返ってくるには返ってくるだけの、何かの理由があるのです。

この世界は、目に見える世界と目に見えない世界からなる「現象界(ある世界)」と、それらすべての源となる「潜象界(ない世界)」によって成り立っているということを、カタカムナの世界観から学びましたね。現象界では、光は真っ直ぐに進みます。そして物に当たりながら進むので、速度も遅くなります。しかし、私たちの想いは光よりもはるかに高速です。人がこの世界全体の構造を理解する時、その心から発せられる想いは「アマハヤミ」で宇宙を駆け抜けます。それは一切の抵抗なく人の心すらも通り抜け、瞬間的にいい人間関係作ることができるのです。
ただし、作るといっても、自分の都合の良いように作るわけにはいきません。相手には相手の都合と、精神的な歩みの段階があります。ですから、少なくとも自分からは相手が不愉快に思うような種を蒔かないことです。しかし、時と場合によっては相手が不愉快と思うようなことも、相手の状態を理解しながらあえて発しなければいけないこともあることを、忘れてはいけません。それが他者を想うことであり、自らの気付きを生かすということです。そのように自由自在にトキとトコロをかぎ分け、自らの精神を使い分けることができる人が、自己コントロールして生きる人なのです。

そのように分析しながら毎日を生きている人はほとんどいませんが、そういった構造を体得すると、自らをコントロールすることができるようになります。しかし知らなければ、無自覚に自分の感情を他者にぶつけ続けることになります。その思考回路は、ただ思いついたことを出し、また何かが浮かんだら出すという条件反射的で感情をノーチェックの状態です。そして精神が幼いと、ノーチェックで出した自らの想いが叶うのがいいことであり、叶わないと辛いことになるのです。
けれども、カタカムナの講座でも触れたように、すべての存在はそもそも「間違い」からこの世界に生まれてきています。そして物事が滞ることを通して、人は「正しい」とはどういうことなのかを知るのです。ですから、神様はわざわざ滞りを私たちに与えました。このことを理解できない人は、滞りが起きると「神様はいじわるだ!」と思うかもしれません。けれども、神様も含めたもう一つ大きな世界から観れば、そうではないことがわかります。そのスケールでものごとを解釈できた時に、人は初めて自らのスケールを広げ、大人としての人格を持つことができるのです。

「人格を学ぶ講座」では、まず自らの人格の実態を知っていきます。3つの手法(カルマ読み、地球暦、カタカムナ)を通して、心の形を客観的に捉え、それが現在の自分にどのように表現されているのか、今までの人生を振り返ってどのように表現されてきたか、またその結果を受けてどのように反応してきたかということを紐解いていきます。そして、自分は今世どのような心の性質を持って生まれてきて、それをどれだけ認識して生きているかということを観ていきます。
ほとんどの人はそのようなことに無自覚なのですが、幸せなことに、たくさん問題ごとに出会う人ほど、少しずつそれを伝えられる環境をもらっていることになります。それは神様の愛です。そして、それが自らの中で愛として捉えられているかどうかが、とても重要なのです。

今私たちが生きている時代や環境、民族、国、親兄弟やその他の近しい人々まで、そういったものはすべて、学びとして自らが選んで生まれてきているのです。しかし多くの人は、何か問題が起きると周りのせいにします。周りが間違っているから自分は辛いのだと不満を言うのか、それとも、その問題のおかげで自らの学びを深めることができてありがたいと思うのか、そこには大きな違いがあります。そしてそれは何か特定のものに感謝するということではなく、この仕組み自体が私たちが生まれてきた意味そのものなのです。誰しもそこから離れて生きられる人はいないのです。

僕自身のことを振り返ってみると、なぜ自分のもとにこういった道が与えられたのか、その意味が分かってきました。それはこの時代の人々に、新しい意識を提供するためです。
そう言うと、救いの手を差し伸べられたかのように受け取る人がいるかもしれません。一時はそのように捉えてもいいのですよ。しかし、ぜひその先に行ってもらいたいと思っています。これから学ぶ手法を通して自らを紐解き、それを生かして、世の中に生きることの本当の意味を知ることを広めてもらいたいのです。
生きることの本当の意味を知ったら、人は無駄なことはしません。無駄なことをしないからエネルギーも無駄にならないし、競争をしないから争いも生まれません。生きる意味を知ることは、人の心を穏やかにするのです。それが真の平和運動であり、それこそが、この1ヶ月間の真学校のテーマである「目覚め」の目的なのです。

人は自分を知るために人生を生きていると言えます。自らを知らずにいると、どこにいるのかもわからないままやみくもに生きることになります。世界にたった一つしかない自分物語を、自らが主役となって生きるからこそ、人生を振り返り、一人ひとりオリジナルに与えられた役割を果たすことができるのです。

これまでは、世の中にも、人々の間にも差がありました。そして政治の世界でも経済の世界でも、社会を構成するほとんどの人はリーダーシップをとる側ではなく、ついていく側にいたのです。
しかし今、みんなで創る時代が始まりました。一人ひとりが主役となり、みんなで創っていく。それは本当にやり甲斐のある、希望の持てることなのです。

(いさどん)

――
こんなふうに一人ひとりが思えるかが、時代の大きなターニングポイントを迎えるに当たり本当に大切なことなのです。

日常の出来事を受け、小さな心の動きから、それを緻密に観て分析していくことで、自分を知り、他者を知り、世界、宇宙の仕組みを知っていく。そして逆に宇宙、世界、他者の視点から自分を観る。それが循環しながら、一瞬一瞬、自分が意識しようがしまいが波動となってこの世界に表現されていく。自らのカルマを超え、もとの美しいヒビキを持つものになった時、宇宙からのメッセージを受け、それをそのまま表現できるものになる。そこに表されたものは、一人ひとりオリジナルで、しかもそれらの一つ一つは不完全だからこそ繋がりあい、美しいハーモニーを奏でる。その為に不完全さがあるのだから、その仕組みを知り、調和の方へと自らをコントロールしていければ、その不完全さが個性となって輝く。

そんなイメージを日々持ち、自分の人生を大切に生きていれば、愛あふれた調和の世界が遠からず実現できます。大きな構想ですが、それも小さな一人ひとりの意識の一歩から創られていくのです。

(まりねえ)

 


第1週のようすをまとめてスライドショーにしました!

1ヶ月間の真学校もあっという間に1週間が過ぎました!

これまでの様子を動画にしてまとめてみましたので、ご覧ください♪

<初日の様子(約1分)>

<1週間の様子(約1分)>

内容のレポートは後ほど公開予定ですので、しばらくお待ち下さい^^


5日目「天然循環法 – 農」概論

1ヶ月間の真学校では、農や食、その他のあらゆる場面において新しい生き方の指針となる「天然循環法」の世界観を学びます。
では、天然循環法とは一体どのようなものなのでしょう。以下に、講座で使用したスライドとともに概論をお届けします!

――

いさどん:
私たちは、木の花ファミリー設立当初は有機農法をやっていました。これは今、一般的に普及している農法ですね。
有機農法は、人間が自然から作物を「取ってやろう」というものです。有機農法をやっている人々は、確かに環境に配慮をして、農業資材もそれなりのものを使っていますが、その暮らしはお金を稼いで生活することが目的になっています。ですから、その人たちと一緒に過ごしてみると、生活のサイクルがお金で回っていることがわかります。
確かに木の花ファミリーも社会の中にありますし、社会の血液であるお金の流通の中に生きていますが、ここにはお金に縛られて生活している人はいません。ここでは労働するのはやることがあるからです。しかし一般的には、労働とはお金を稼ぐため、生活をするためにやることになっています。農業で言うと、農産物を生産し、それを買ってもらってお金にし、生活することが目的になっています。それで本当に自然と純粋に付き合えるかと言うと、それはなかなか難しいのです。

私たちはカタカムナに出会い、天然循環法という世界に踏み出しました。「天然循環法」という名前は、木の花で付けたものです。これが始まった時に、やっと行き着くべきところに来たのだということを感じました。それは、そこに関わる人々の精神性から醸し出す響きまでを生活に表現する場所です。

僕は40歳の時に仕事を辞めて、いずれ農的暮らしをしようということで農業の勉強を始めました。その時に始めたのは、慣行農法でした。
その頃、僕の畑にはいろんな人がやって来ました。僕のいない時にも来ました。そこで農薬を使ったら、農薬の残留期間があるので○○日までは食べられませんよ、ということを知らせる立札を立てておかなければいけませんでした。それから、害虫は土と植物のバランスが崩れた時に発生するものですが、それを無理やり抑えるために土の中に薬をまくのです。誰に聞いても薬をまく以外の方法がないという結論に行きついた時に、僕は畑にバーナーを持って行って、土を掘り起こしては焼くということをしました。それは大変な労力でした。そこへ生ごみを入れたらいいだろうと無知な発想でやってみたら、それはもう、蛾の幼虫を養殖しているような畑になってしまいました(笑)。後に土壌の状態と作物の関係がわかって来た時に、僕のやったことは作物ではなく害虫を作っていたのだということが証明されました。(みんな:笑)
それで、とびっきり良い野菜を作ろうと思いました。そうしたら微生物に出会いました。それは現在、「木の花菌」のベースになっているものです。私たちの生活には、農業だけではなくあらゆる場所で、微生物が様々な形で利用されています。私たちの生活は微生物と共存しているのです。

13000年前の日本に存在していた宇宙物理文明・カタカムナの世界観から、この世界の仕組みを観てみましょう。
この世界は、目に見える世界と見えない世界を合わせた「現象界(ある世界)」と、それらすべての源となる「潜象界(ない世界)」から成っています。微生物は自然界の一番奥に存在します。そこは潜象界の入り口です。微生物は、潜象界から湧き出してくる生命の一番始めの姿なのです。

図1
 図1

僕は微生物の存在に出会った時に、それを神様からの贈り物だと受け取りました。それはとても神聖なもので、人間の心が汚れていると影響されるような、繊細なものだと捉えていました。そして、有機農法に出会いました。

慣行農法は、確かにこの現象界の自然の中にありますが、そこでの営みは自然のバランスを考えずに、むしろ自然を壊しながら生産をする現場になっています。そこで作られたものは、場合によっては毒素を含んでいます。戦争で、サリンやマスタードガスなどの化学兵器が使われることがありますね。そういったものと化学式がほんの少し違うだけの農薬が、慣行農法では使われてきました。ですからそれを知っている農家は、自分が作ったものを自分では食べません。けれどもお金にするために人には売ります。すごい世界でしょう。しかしそれが私たちの食料を生産する主力となる場の現状だったのです。
そこで有機農法は、人の健康や環境に配慮するために、素性の良い素材を使おうということで始まりました。ですから有機農法にはたくさんの基準があります。それは世界基準になっており、その基準を守っている人は特別な表示で売ってもいいということになっています。そして流通にしても有機JASの認証にしても、どうしてもそこにお金が絡んでくるのです。ですから有機農家はいいことをやっているようなつもりでも、その波動は美しいものではないですね。

こうちゃん:
IMG_9772-768x512そう、ひどい世界です。僕は元有機農家だけど(みんな:笑)有機農家が増えていくと消費者の奪い合いになるから、有機農家は同業が増えないことを望んでいたりします。
口では環境を良くしたいと言ったり、お金があまりないから皆で協力し合って農業機械を貸し合ったり消費者を広げる活動をしたりしてるけど、本心では有機農家が増えてもらっちゃ困る、と思ってる。すごい世界ですよ。要は、自分の損得が思考のベースになってるんです。

いさどん:
これはもしかすると日本だけのことかもしれませんが、なかなか有機農家は増えないですね。いずれにしても、その世界はお金やルールの縛りの中にあるのです。
その後、私たちは自然農法に出会いました。自然を観察し、科学して、いかに圃場に自然を表現するか。これは、今の私たちの農のベースになりました。
自然農法は本来、その発生元からして精神性をベースとして生み出された農法のはずでした。ところが、それを広めているのは、実践の現場とはほど遠いアカデミックな研究者たちでした。その実践の現場とかけ離れた研究者の人々の中に、精神性の重要性を探求する姿勢は見受けられません。本来そういった真理を探究する現場では、一貫して揺るがない何かがあるものです。特に現代社会のようにものごとの本質を失ってしまった場では、その揺るぎない精神性を示すことが社会の健全さに貢献するための筋となるのです。しかしながら、そのような確固たる方針を見失った人々は、一般社会にうけることを目的とし、どれだけうけたかによって自分たちの正当性を裏付けようとするのです。
そして実際に自然農法を探求しているという人々と付き合ってみると、科学的探求に偏っている人が多く、中には個人的に人格の疑わしい人も見かけました。そういった本来の柱であるべき精神性が失われた現場では、そのもっとも重要なことが問われないのです。
一般社会にうけようとしたら、目に見える世界の奥にある存在や、そこに携わる人の精神性がいかに大切であるかということを語ることはできません。けれども、多くの自然農法研究者たちは、一般社会にうけることを目的とし、いかにそれを広めるかということに重きを置いていたのです。

そこで私たちは考えました。やはり、濁りのない心でさわやかに「これだ!」と思えるものを実践していこう。それは人や世の中の顔色を見ることではありません。ましてやお金ではありません。
私たちが生活していく中で、毎日「これだ!」と思い、確信の持てる生き方をしよう。そしてその流れができると、自分で意図しなくても、不足しているものが自然と補われるようになっていくのです。それが天然循環法の世界で表現される、「天と共に生きる」ということです。
ですから皆さん、見てください。慣行農法、有機農法、自然農法、天然循環法と4つ並べてみると、ひとつだけに違いがあるでしょう(図1参照)。そうです!天然循環法は「農法」ではないのです。
私たちは、これを「農法」と呼ぶことをやめました。つまり、これはライフスタイルなのです。すべてのものに通じる生き方のことです。

では、「農」という字を見てみましょう。

図2
 図2

「農」という字を二つに分けると、上の部分は「曲げる」という字になります。そして下の部分は「辰」という字です。これは北極星や、生命力の元となる命の力を表しています。この命の力を曲げてしまったことを示すものが、「農」という字です。
農的暮らしとか農業というと、良いものだというイメージがあるでしょう。ところが現在の農は、自然が与えてくれた生命そのものではなく、人間の都合で曲げられたものになっています。本来、潜象界から出てきたばかりの最も美しい生命力が「天然」の状態です。しかし、もっと生産性を上げたいとか、もっと味のいいものが欲しいというような人々の欲の心から、その生命力を曲げてしまったのです。ですから農のことをYesではなくNoと言います。(チーン♪)

カタカムナの世界観で観る、現象界と潜象界の仕組みをもう少し説明しましょう。
明日から「人格を学ぶ講座」が始まります。そこでも学びますが、私たちは日ごろ、現象界の「見える世界」と「見えない世界」の、「見える世界」を主に認識しています。化学・物理の世界では、現象で証明しなければ正しいとは認められません。けれども実際は、この世界には目に見える現象の奥や、そのさらに奥にも物理性があります。そのことを、皆さん理解できますか?
(まだよくわからない、という顔をしている受講生たちを見て)まだマインドコントロールが進んでいませんね。(みんな:笑)ここはね、しっかりマインドコントロールが進まないといけません。このことが理解できる位置に立つと、皆さんの世界観や思考回路がどんどん広がっていくからです。
自分の殻の中にいると、何を大切に守っているのか、頑なになって広がっていくことはできません。それは自分にとって損なことです。僕の話を聞いても聞かなくてもいいですが、皆さんが自らをオープンにしなければ、成長することはできません。それは皆さんにとって損なことですから、なるべく積極的に自らの殻を破って、広げた方がいいですね。1ヶ月の講座が終わって振り返って「広げすぎたな」と思ったらその時に縮めればいいんですから。(みんな:笑)たぶんその時には手遅れになってると思いますけどね。(みんな:爆笑)

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現代の「見える世界」は、人間の思惑によって本来の生命力が曲げられた、人工の歪みが支配している世界です。私たちは常に自らの魂を、その精神性のもとに現象界で表現しています。その人工の世界の中だけに自らの意識があると客観的視点を持つことが難しく、何か出来事が起きるたびにただ条件反射をしているだけの状態になります。
そこでは、人々は対処療法的に浅く物事を捉え、ものごとの本質を観ることをせずに右往左往し、自らの姿勢を正す学びを得ることはできません。その精神レベルで痛みを感じれば、それは人や社会のせいになり、人々は常に被害者の立場にいることになります。そして自らが歪んでいることに気付かないまま、その歪みの中でぐるぐると回り続けるのです。
この人工の「見える世界」の中だけで行われているのが慣行農法です。そういった中で作られる作物が私たちの食べ物として供給された時に、私たちの中で私たちの生命にどのような影響をもたらすか、想像できますか。

有機農法は、人工だけの世界(見える世界)から少し自然(見えない世界)へ入り込んでいます(図1参照)。今でこそ有機農法と言いますが、ちょっと昔に化学肥料や農薬が使われるようになるまではこれが当たり前でした。昔の人たちはそれを当たり前にやっていて、「足るを知る」という精神で生きていました。しかし今では、この目に見えない思いの世界も歪んでいます。
今、自然界では、私たちが知らない間にたくさんの生命が淘汰されています。信じられないかもしれませんが、僕にも10代のころがありました。(みんな:え~~!!笑)学校帰りに近くの小川に行って魚を捕ったり、虫やいろんな動物を捕まえたり、通学路にある柿の木の実をとって食べたり、とてもおおらかでしたね。大雨が降ると道が川のようになって、そこをウナギが泳いでいったこともありました(笑)。
僕の生きていた時代に、そういった時があったのです。それはとても豊かな世界でした。けれどもその自然は、消えてしまいました。潜象界へ還ってしまったのです。今でもまったく無くなったわけではないですから、それを残していかなければ、とは思います。
そのために必要なのは、環境を保護する心ではありません。保護しようというのは、奢った心です。必要なのは、今のその自然の状態と共鳴する心の姿勢です。それを人間が持てば、もともと人間が自然を今の状態に追いやったのですから、人間次第でまた元に戻る可能性はあるのです。そう僕は信じています。

天然循環法という「農」を入れないライフスタイルは、潜象界の、まだ何も汚れていない、濁りやゆがみのない美しいものを引き出すということです。人の心が美しくなれば、自然の元となる美しい響きを人は引き出し、かつてあった美しい世界を再現することも可能なのです。僕は今、この話をしながら、そのことの大切さを改めて再認識しています。
このスライド(図2)を読んでください。
「『農』とは、現象界(自然界)の中にあるべき『天の法則』や『生命力』を人間の歪んだ想いによって曲げたもの、ということになる。だから、農は本来の自然の姿ではないことになる。」

なぜこのようなことを語るのか、理解していただけるでしょうか。
こんなにも大切なことが隠されているのに、誰も知らないのです。

次のスライドを見てみましょう。

図3
 図3

人間が生きるということは、他のものを犠牲にして、人間に都合のいい世界を広げていくということではありません。ここに「人間が生きるということは生命循環の中で役割を果たすこと」と「この世界の仕組みを理解できない者たちは願望を叶えようとしている」とありますね。今の世の中は、この二つのせめぎあいです。しかし前者の意識を持っている人はほとんどいません。ほとんどの人間は後者であり、その人々は大きな錯覚をしています。そしてそれは、すべての解釈の逆転現象を生んでいます。農の世界でも、この世界の解釈の逆転現象が起こっているのです。

艮の金神様の言葉に「この世はすべて逆さまじゃ」とありますが、ものごとの捉え方が浅いと、その逆さまの世界がまともに見えてしまうのです。そしてその浅い解釈をマスコミも世の中も持ち上げるので、それが絶対であるかのように思われています。それは人々の意識がそこにあるということですから仕方のないことですが、それを進めれば進めるほど、世の中の目覚めは遅くなります。
もしも皆さんが、自らの欲望を満たし、願望を叶えることに目的を置き、ただ世の中の顔色をうかがって生きていくだけなら、このような真理に出会うことは不幸ですね。しかし、時代の扉は既に開いています。皆さんの中に最先端を生きようという気持ちがあるならば、この目に見える世界の奥にある世界に、目を向けなければいけません。それは、これから訪れようとする時代では、当たり前の話なのです。

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人間の命は天の法則より与えられています。我々はその法則を理解し、天の意志にかなうように生きるのが本来の命あるものの目的です。そして心を整えると、この世界の仕組みを直観で感受し、的を射た判断が下せるようになります。
ですから、心が整っていないとまったく見当違いなものの方が正しく、大切に思えます。政治の世界でも、農業の世界でも、食べ物の世界でも、これがいいともてはやされているものが、実は自然や宇宙の本質から外れているということが、特に今の時代はたくさんあるのです。最近の良い事例として、清原さんの覚せい剤使用があります。彼は、現代社会の人々の羨望の的となる成功者としてまつり上げられ、その浅い評価と本人の人間性とのギャップから転落することとなった、ある意味社会の犠牲者でもあると言えます。

皆さんはこれから、そういった本質を見抜ける力を、真学校の学びを通して身に付けます。天然循環の考え方で生きるということは、人を育てます。作物は天が与えてくれるものです。人間は、そこに出会うことによって育てられるのです。
ですから、自分が育てようなどと思うことではありません。一生懸命に自らの心をきれいにして、この世界を汚さないように、この世界に失礼にならないような姿勢で向かうということです。

みかこ:
カタカムナを学び始めて、農には生命力を曲げるという意味があることを知った時にはびっくりしました。

こうちゃん:
だけど僕たちは、木の花ファミリーを始めた当初から「畑を耕す前に心を耕せ」と言っていました。もともとそういった発想があり、カタカムナに出会って改めてその意味を確認できたという感覚です。

いさどん:
木の花ファミリーの生活は、農を目的として始まったわけではありません。しかし結果的に農的生活をすることになったのは、自然というこの世界でもっとも美しいものと共に生きるということと、その美しいものが汚れているのでそれを守るという意味があったのです。微生物を使い出したのも、水をきれいにするためでもあったのです。
ですから、これは社会運動ですね。当初は自分たちで育てた作物を売るという発想がなかったので、近所の人たちにタダであげていました。そうしたらそのうちに受け取ってもらえなくなりました。なぜかと言うと、人は面白いもので、他者と自分の区別があるがために、もらい続けるとだんだん申し訳ない気持ちになっていくのです。それでもあげますと言っていたら、では売ってくださいと言われました。それで販売が始まったのです。
簡単に言うと、僕たちは始めから変な人たちだったということですね(笑)。

みかこ:
現代の農業は、実は畜産と共に環境汚染の一番の原因です。農薬や化学肥料の使用による土壌や水系の汚染、農業用水の汲み上げによる地下水の枯渇などが世界各地で問題になっています。

いさどん:
そんな中で、私たちはどうしたらいいのでしょう。

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 図4

「農」という字に、さらに「業(ごう)」を付けたのが農業です。「業」とはカルマを表しますから、「農」だけでも生命力を曲げているのに、そこにさらにカルマまで付いた状態が農業なのです。その業に汚染された結果として、遺伝子組み換え食品や種の操作、農薬、化学肥料、除草剤など様々なものがありますね。人間の歪んだ心が作り上げた世界です。先ほどの農の分類のスライド(図1)で見たように、人工の世界でカルマにまみれている状態ですね。現代の農業の現場では、本当にそういった世界が表現されています。
そして、そこから生み出されたものが食べ物として世の中に浸透していくと、その響きによって人々の体が作られ、日常の中にその響きが矛盾として広がっていくのです。

スライドに、「農業から百姓へ」とありますね。これは、文字にとても意味があります。
百姓とは、本来の生命力を曲げない生活のあり方です。「百」には単なる数字の100ではなく、無限という意味があります。そして「姓」という文字には「女」が入っており、これは陰、つまり、形に現れていない、奥にある大切なものを意味します。私たちの体で言うと、陰とは心のことですね。現象界と潜象界で言えば、潜象界のことです。
もともと自然の奥に潜んでいる本質から大事なものを受け取り、生きる糧とするのが百姓です。それは作物を通して天の仕組みを学ぶ生き方です。自然と対話をしたり、人間が自然と一体となって生きる生き方です。
百姓についてさらに深めましょう。

図5
 図5

天の命(意志)を受け生きる(天命)ということは、常に直観が働いて生きているということです。
そして植物と対話するということは、自然と対話するということですね。自然と対話できると、自然を壊したりはしません。そういったことを理解しない人間は、自然は人間に従属するものであるかのように思っているから、平気で自然を壊すのです。
私たちの命は循環のもとに、自然と命を交換をしています。つまり、私たちが自然に与えたものはまた我々に返ってくるということです。だからこそ美しいものを提供し、美しいものをいただいていく。そういった美しい循環の中に、私たちは生きられるのです。
「命」という字は、祝詞をあげて天の命を受ける人間の姿勢を表しています。

 図6
 図6

昔、社会がシャーマニズムで動いていた時代には、人々は精霊に問いかけて生きていました。イヌイットの人々は、自分たちがアザラシを捕まえるのにどれだけの数を捕っていいかということを、天にお伺いを立てて神託を受け、捕り過ぎることのないようにしていました。今は、現代人の考え方に汚染されてしまいましたけれどね。

木の花ファミリーは、有機農法の後に自然農法を始めました。それが今、天然循環法へと変化しています。

 図7
 図7

本来食べ物とは、食べることで健康になっていくものです。そういう食べ物があることを知っていますか?
スライドに、「天意に沿い、いただく精神が大切」とありますね。現代の農は、自然を科学し、よりたくさんとれるようにとか、世の中にたくさん広めようとか、人々から支持されようという心がベースになっています。それはなぜかと言うと、今の自然世界を人間が支配していると錯覚しているからです。自然が自分たちの手の中にあると思っているのです。
それに対して天然循環法という生き方は、生まれたての元の響き=無垢な気=元の気(元気)に戻すことによって、美しく、濁りや汚れのない、生命力あふれる世界が生まれます。大切なのは、それを手掛ける人がその仕組みを理解し、体得しているということです。逆に言うと、理解し体得していなければ、その優れた理論も現実のものとはなりません。すべては自分次第であり、だから心磨きが必要なのです。
天然循環法を理解すると、人々は宇宙の法則や自然の仕組みの中で自らが生かされているという、とても謙虚な姿勢になります。そこに向かうには、心磨きがもっとも大切なものとなります。

図8
 図8

天然とは天の然るべき状態であり、それが降りてきて自然となります。自然とは、自我が然るべき状態になったものです。
潜象界はまだ現象化していない世界ですから、元の響きがあるだけです。そしてそこから湧き出してきていろいろな生命になったものが自然です。草や木や動物やバクテリアまで、自然には様々なものがあるでしょう。自然の「自(し)」は、自分になると「自(じ)」というように濁点が付きますね。それは個であり、多様性の表現の働きです。それがネットワークすることによって現象界(ある世界)ができます(図1参照)。
自然のネットワークは、様々な個性がつながり合った、多様性のある美しいネットワークです。ですから、皆さんも自然を見て「美しいね」と言いますね。しかし自然の「自(し)」が人間の世界で「自(じ)」になると、自我となって、この世界の不調和の原因となり、問題ごとが発生します。
人工の世界は、その自我を持つ人間によって歪められた世界です。人工の構造物の美しさというのもありますが、あれは本来の循環システムに則ったものではありません。美しくても、自然の循環の中にはなく、いずれは人工的に壊して作り直さなければいけないものです。

この世界の本質は、天然の状態から命が発生して自然となり、それが個性となって、美しい生命ネットワークとなって表現されていきます。そしてその一つひとつに寿命があります。それぞれのサイクルがあるのです。そして寿命が尽きて役割が終わると、元の世界(潜象界)へ還っていきます。
自然界で生きているものは、天然から閃きや直観の働きかけをもらいながら生きています。スライド(図8)の右側に、慣行農法と自然農法と天然循環法が、それぞれこの世界のどこまでの循環の中にあるのかが描かれています。天然までに到達する天然循環法では、心磨きが必要なのです。

自然にはもともと差があり、歪みがあります。その歪みや差によって生まれるダイナミックなネットワークが自然の美しさです。それを人間の自我によって歪め、汚染したのが人工の世界です。自然界には潜象界から貫かれた天の理である秩序がありますが、人工の世界ではエゴが蔓延しているため、天の理が通らず、無秩序となります。
今、世界中に国という組織があり、それがさらに連携して国連という組織になって世界が動いていますが、その組織自体が自然をどんどん歪めて破壊する元凶ともなっています。ですから地球規模で観ると、人間のやっていることは無秩序なのです。天然循環法とは、この人工の歪みを解いて宇宙の元の響きへと組み直し、天の然るべき状態へと還すことなのです。

こういった話をしていくと、かつて僕の父親が僕に言ったことを思い出します。「世の中にはたくさん人がいるのに、おまえだけがそんなことを言ってもどうにもならない」と。父親だけではありません。多くの人が「そんな理想論を言っても無理だろう」と思っています。
けれども、そこで考えてもらいたいのです。現実には多くの抵抗があり、なかなか変化は起きないように思われます。しかし、あなた一人分でも、心に濁りのない状態で生きることを心掛け、旅立っていくことがとても重要なのです。
そこでこそ自我で、「自らの納得する人生を生きたい」という強い信念を持ち、人生を探求しなければいけません。そこで自我を通すということは、自らのためを優先するのではなく、天から地への道理を通し、世の中に一本の真理の筋を通すことなのですから、それこそエゴ的な自我を超えて、本当の意味での自らの価値を高める優先するべき自我の表現のしどころなのです。
そして時が来れば、必ず同じ意志を持った人々が現れてネットワークしていきます。今、時代の扉が開いて、いよいよそれが地上に顕れ出しています。その証としてこの「1ヶ月間の真学校」があるのがわかりますか、皆さん!(みんな:わかる~~!!)

それでは、元の響きを復活させるにはどうしたらよいのでしょう。

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まずは日々の心磨き。いつも天を意識して生きていくということですが、人はだいたい自分の都合ばかりを考えて生きています。そうすると、常に天から命(めい)が降りてきていても、それに気付くことはできません。それを直観で受け取る受け皿がないのです。先ほど「命」という字を見ましたね。常に天に心を向け、その命を受ける姿勢で生きていくのが本来の生命の姿なのです。
そして、カタカムナの奏上。これについては、真学校の中で深める時間を持ちます。
イヤシロチ化とは、畑をパワースポットや神社のように特別なパワーを持つ場にしていくということです。そして人間の意識が上がると波動量が上がり、その高い波動をこの世界にもたらすことができる者になるのです。
日々の心磨きをしていない人がいい作物を育てたいと言っても、育ちません。ですから、ひとえに心磨きをしましょう。心磨きは一律のものではないのですよ。それぞれが自分の心に合わせて相応しくやっていくのですから、まずは自分の心を知らなければいけません。明日から始まる「人格を学ぶ講座」で、皆さん一人ひとりが自らを知る学びをしていきます。

心の状態が安定し、自らに囚われず、天地と一体の精神を有する者になると、ものの状態を一瞬でつかみ取る直観力を持ち、天の法則に則った響きを響かせることができるようになります。するとその場はイヤシロチとなり、すべてが好循環する天然の状態となっていきます。そこで表現される生活が、天然循環法なのです。

 

 


4日目「カタカムナ」

「全ては一つ」

今回から木の花ファミリー独自にリニューアルされたカタカムナの講座は、真にそのことを宇宙的な広い視点と日々の日常に根付いたミクロ的な視点の全てにおいて証明するような素晴らしい内容となっていました。

その場にいないと表現できないような凄まじいエネルギーに満ち溢れたものになり、僕自身は、この日の夜は脳がギューーーっとして脳が筋肉痛になっている感じで、今まであまり使っていなかった脳を働き刺激されるような、過去に味わったことがない空間にだったことを改めて実感しました。

「カタカムナ」とは、1万2千年前に日本で極められた叡智の結集です。

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カタカムナは宇宙物理学であり、宇宙の創造・発展・消滅についても深い洞察を有しており、現代の最先端の物理学もその域にまだ達してはいません。

そして、時代の大きなターニングポイントを迎えている現代にカタカムナが再び復活したことの意味は、私たちの想像をはるかに超越するものです。

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木の花ファミリーでのカタカムナは単なる知識的なものではなく、「カタカムナを生きる」という日々日常の生活にその精神を反映することを最も大事なこととして伝えられています。

受講生達も頭で理解しようというよりも、何か感覚的に、その場の空気や波動や想いを受け取っているように見えました。

「宇宙の叡智」なんて言うと、随分難しいし到底理解は困難なのではないか?とか、そんな怪しいもの興味がないよ、なんて方もいるかもしれませんが、それは実は私たちが毎日生きているこの当たり前の毎日の中に当たり前にあることでもあります。

「ただ、その人らしく生き生きと、この世界の調和と共に生きる」

こんな簡単な言葉でも、「カタカムナを生きる」という意味と近いのではないでしょうか。

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この世界で起こるあらゆる出来事、それは宇宙の仕組みでも、人間社会で起こる戦争でも、個人の生活の中の病でも、すべてのことに意味があり、その奥に人類・生命そしてそれぞれの人々の本来の役割が秘められています。

その役割に目覚め、この世界のために生きることが「カタカムナを生きる」ことです。

このカタカムナの講座は、真学校すべての講座の「軸」となるもので、更に私たちが生きていく上でも常に必要となるとても大事なことを教えてくれる、とてもとても深いものでした。

このブログで表現しきれるものではないし、講座を受けたからと言ってマスターできるものでもありません。

広い世界観を持ちながら、心を磨き日々の日常を丁寧に生きることが、カタカムナをより理解でき、生きることにもつながります。

ということで、是非みなさんも来年の真学校を受講して、共にこの新しい宇宙時代を生きていきましょう♪

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3日目午後「リーダシップ&ファシリテーション講座」

リーダシップ&ファシリテーション講座は、まずは屋外のワークで「現代のリーダーシップとは何なのか」を体験。

渡り鳥は飛行する際に「V字」体型になり、先頭の鳥はリーダーであり、後方の鳥は先頭の鳥についていきます。さらに、先頭の鳥も、順次阿吽の呼吸で後方の鳥と入れ替わっていきます。

そんなワークをみんなで行いました。

次に、ビーチボールを使って一度も地面にボールを落とさず、ひとりひとりが2回ずつボールに触ったらゲーム終了、というワークを行いました。

10回以上のチャレンジの後、無事クリアー!!

今回のワークで、受講生たちは何を感じ、今後どのように講座の中でこの体験を生かしていくのでしょうか!?


2日目午後「世界観を広げる」

今時代は、とても大きなターニングポイントにあります

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2012年12月21日に銀河の冬至を超え、今、時代はとても大きなターニングポイントを迎えています。それはいくつものターニングポイントが複数折り重なったとても貴重な奇跡的な時でもあります。

そのため、今社会では様々な出来事が起こっています。

一見「危機」に見えるこの時は、広い視点から見ると人類が生き方を切り替えるポイントを迎えたことを指し、人々が一人ひとり自らの真の役割に目覚め新しい地球を創ることができるとてもダイナミックな時代であるということでもあります。

まずは固定概念の殻を破ること。
1ヶ月間の真学校、いよいよここからが本番です!


2日目午前「木の花ファミリープレゼン」

さぁ、いよいよ、1ヶ月の真学校の講座が始まりました!!

初日は「木の花ファミリープレゼン」

そして最初の講座から、事前に準備されたプレゼン資料から話は脱線し、とても大事な話に。

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人はみんな枠に囚われています。「人」という文字を枠(□)で囲むと「囚」という字になります。

そしてその枠の大きさでその人の世界観や思考・発想、そして人間性にまで大きく影響してきます。

その枠を取り払うというよりも、自分にとってその枠がなんであるか客観的に、さらにその客観の奥に気がついていくことで人は成長していきます。

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「・・・??よく分からない」という言葉が聞こえてきそうですが、そんな方は是非来年の真学校にご参加ください♪