お祈りの時に、何を思っているのですか?

木の花ファミリーでは、いつも食事の前にお祈りの時間を持っています。大人ミーティングの場で、受講生のかずえちゃんが、このお祈りの時にみんなはどんなことを思っているのですかと質問をしました。そこでファミリーの「祈りの言葉」が紹介され、いさどんがその意味を語りました。

 

 祈りの言葉 —    

あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

あなたはわたしなのですから
わたしはあなたなのですから

あなたの御心に全ての人々が目覚め
平和で安穏なる幸せな世が訪れんことを願って
努めて参ります

無限なるあなたに無限なる感謝を
永遠なるあなたに永遠なる感謝を

アーメン、合掌

 

いさどん:
一般的に「祈り」というのは、人間が自らの願いを叶えたいために、神仏に対して願掛けの心で想いを向けることだと解釈されるでしょう。もしくは対象なしで、ただ自らの中に巡る願望を成就しようと願うのが一般的な祈りの現状です。

それに対して、本来の祈りは想いを巡らせ、その想いの奥にある宇宙創造の物理エネルギーによってこの世界を創造すること。宇宙創造の物理性(波動)が世界を創っているのです。宇宙(生命)は循環し巡り巡って、変化・変容・変態を繰り返し、進化し続けるものなのです。それはわたしたち地球生命のあり方と同じです。それは宇宙自体が生命だからです。

生命というのは、「生きる命」と書くでしょう。「命」とは「みこと」、それは現象世界に顕れた神のことだから、生命とは生きる神ということなのです。この世界は、大本の神様の存在する陰(潜象世界)のひずみが、陽(現象世界)へ生み出されて動き出しました。それがこの世界の生命の成り立ちで、その成り立ちとなる物理性を理解した者が奏上することで、本来の祈りの意味を成し、その目的を達成することになります。たとえばカタカムナを奏上するのは、本来の祈りです。ですから、本来の祈りの姿勢としては、まず自らの意識を高め、思考を無にしてその場に臨むことが望ましいのです。

その結果として、祈る者の心が美しく磨かれていきます。その人の内なる鏡がきれいになった時に、外にある宇宙創造の仕組みが内なる鏡に映り、内なる想いと宇宙創造の想いとが共鳴し矛盾がなくなっていく。そして、その美しい想いがこの世界に実現されていく。それが祈るということなのです。

美しくなった者は、この世界、つまり神の物理性を内なる鏡に映し出し、そしてそのまま生きていくと、今度はその神の物理性が内から外に発せられて、この世界が美しくなっていく。つまり、自分の内なる鏡に映るということは、外と内が合わせ鏡になっていて共に共鳴し響き合うということなのです。

 
祈りの言葉を解説すると −−−−

 
あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

「あなた」というのは、自らを取り囲むこの世界の物理性(神)のことです。それは大宇宙の法でもあり、エネルギーと解釈してもいいし、法則と解釈してもいいし、神と解釈してもいいのです。わたしたちの外にあって全てに遍満し、宇宙全てに響き渡り、この世界を運営しているそのものなのです。その仕組みのままに「わたしはあります」ということです。この宇宙創造の仕組みのままに、神様のままにわたしはある(有・あってあるもの)、ということを宣言しています。

それと同時に、「ない(無・なきてなきもの)」ということも宣言しています。つまり、宇宙創造のままにわたしはある、ということは、宇宙創造のそのままの姿がわたしの内なる鏡に映っていて、その中にわたし自身という我はありません、ということです。つまり「あります」ということは、あなたのままにあって、わたしはありません、ということを言っているのです。ですからここでは、宇宙の本質である「あってあるもの、なきてなきもの」を表現しています。

一つのことを三回唱えるのは、「ミ」ということで、満ち満ちていることを表しています。つまり、絶対で揺るぎがありませんということです。あなたの御心のままに、宇宙創造の響きのままに、神様のままに、わたしは写し鏡としてそのままの姿であります。だからこそ、わたし自身のエゴや我というものは一切ありません。そしてそれは、わたしの中に満ち満ちて絶対です。それを三回唱え、揺るぎない意志を表しています。

三回唱えることを三度繰り返すということは、絶対の絶対の絶対の意志を表しています。「絶対」を三回繰り返して、くどく言っているのです。「ク」は「九」だから、「九」の絶対の境地に到達すれば、その次にカミ(命・食)をいただき、強い意志を持って「十(統合)」につながるのです。

 
あなたはわたしなのですから
わたしはあなたなのですから

「あなた」という宇宙創造のエネルギー(あなた=神)はわたしなのですから。わたしは宇宙であり、あなたなのですから、区別することはできません。なぜなら、わたし(自我)はない(無)のですから。それが、あなたはわたしなのですから、わたしはあなたなのですから、ということです。

 
あなたの御心に全ての人々が目覚め
平和で安穏なる幸せな世が訪れんことを願って
努めて参ります

「あなたの御心」、つまり宇宙創造のエネルギーに、全ての人間が目覚める。目覚めて、あなたの世界と人間が創る世界が一体となる。「平和で、安穏なる幸せな世」というのは、地上天国、ユートピアのことです。そして神人和合の世界のことを示しているのです。

そしてわたしは、平和で幸せな世(みろくの世)が訪れんことを願って、生きるということをいたします。努めて参ります。つまり、努力します。それがわたしの意志です。世の為人の為に生きます、という決意と行動(知意行一体)のことです。

 
無限なるあなたに無限なる感謝を
永遠なるあなたに永遠なる感謝を

アーメン、合掌

「無限なるあなた」とは、無限なる宇宙(神)。「永遠なるあなた」とは、永遠なる宇宙(神)。
「感謝」というのは、その目覚めに到達した自らの喜び、ありがとうございますということです。
最後の「アーメン、合掌」は、宗教などの特定した思想信条を問わないことを示しています。

無限なる感謝、無限なるありがとうございます。永遠なる感謝、永遠なるありがとうございます。有難いことに気づいたならば、有難い宇宙の神秘が世界に紐解かれ、有難いが現れる(有ることが難しい宇宙の神秘が現れて御座います)。有難宇御在益(ありがとうございます。)

そして、アーメン、合掌。人の歩むべき道は一つ、心は一つということ。

宇宙創造の物理性がこの世界を創り、人々がそのことに気付いて美しきものとなり、それをこの世界に表現するものとなっていく。その結果人々の境がなくなり、そして、天と地の境もなくなり一つとなって、地上に理想郷を創っていく。それが祈りの言葉に込められた意志なのです。

 

 


22日目午前「災害に向かって生きる」

1ヶ月間の真学校第22日目の午前は、「災害に向かって生きる」というプログラムが提供されました。そのプログラムの冒頭でいさどんは次のように語りました。

いさどん

「災害」というのは、人間から見た解釈です。地震も津波も地球の生命活動であり、それは新陳代謝でもあるのです。わたしたちの体も同様に、毎日多くの細胞が死に、そして新たな細胞が生まれてきています。地球の中でも新陳代謝の激しいところと比較的安定しているところがあります。また、長い地球の歴史からすると、大きな変化が起きた時と長く安定していた時があります。それは、地球が生命であるということです。そしてその生命は宇宙そのものであり、宇宙は常に変化、変容、変態を繰り返しているのです。ですから、わたしたち人間が築き上げたものが壊れたといって区切って見る解釈は、きわめて人智的な捉え方なのです。それは、長い目で見たらものは必ず壊れるからです。生命自体は誕生、維持し、それが壊れ、空(くう)となって、また始まるという循環の中にあり続けるのです。

今日は3月6日です。あと5日で東日本大震災が発生してから5年が経ちます。東日本大震災で約2万人の人々が亡くなり、たくさんの物が壊れましたが、あの震災を振り返ってみると、あの地にはこれまでに何度も地震がありましたし、津波もあの地域を襲っていました。しかし、長い間に人々は古くからの言い伝えを忘れてしまい、人工的な防波堤を信頼し、危険な場所に住んでいたのです。昔、そうしたことを伝えていた道祖神など(波分け観音など)がありましたが、人間の欲が勝ってしまったがために人々はそうした伝統的な言い伝えを無視し、便利さのために危険な場所に住んでいたことが、5年前の震災があったときに明らかになりました。

しかし、そういったことを天然循環法で捉えると、直観で感じ取り、そのようなトコロに住まない、もしくはたとえ津波が間近に迫っている時でも、直観でそのような兆しを感受することができれば逃れられたはずなのです。危機的な状況の中で直観が働き、命が守られることは、生命感が優れている証です。しかし機械的な情報ばかりに頼ってしまい、人間の生命感が失われていると、災害に遭うことになるのです。例えば、ゴキブリやネズミは家が火事になる前に引っ越していくそうですが、人間はお酒を飲んで寝ていたりして亡くなることがあるのです。本来、わたしたち人間もそのような生命感を持っているはずなのですが、今の人々はそれを失っています。

災害を語る前に、何よりも認識しておかなければいけないことは、わたしたちは生命であり、生まれたら必ず死ぬということです。そうであるならば、むやみやたらに死ぬことを恐れる精神状態を考える必要があるのです。つまり、死は生きることの集大成なのですから、その生きる中身がどうであるかによって、死はいつ訪れても恐れるものではなくなるのです。なぜならば、死は必ず訪れるものであり、生きることの結果必ずついてまわるものだからです。ですから、もし死にたくなければ、生まれてこなければいいのです。ところが、不思議なことに人は生まれてくると、生きていることに対して一喜一憂するのです。大切なことは、わたしたちが生まれてきた意味や生きる意味、そして死んでいく意味をホリスティックに理解した上で、生命世界を生きていくことなのではないでしょうか。そのように捉えると、災害が少し違って見えてくると思います。

災難というと、何か嫌なことが訪れ、出来れば避けたいと思うものですが、地球の歴史を遡ってみれば、生命は何度も大量絶滅を繰り返してきました。少し不謹慎な話かもしれませんが、僕は津波のことを思い浮かべたときに、たらいの中に浮かべた板の上の蟻を想像したのです。たらいに浮かべた板の上に蟻を何匹か乗せて、水面に何かを落とすと、波が起きて板の上に水がかかります。蟻からしたら、その波は5メートルくらいの波でしょうか。この写真の津波も、5、6メートルくらいでしょうか。

出典: geocities.yahoo.co.jp
出典: geocities.yahoo.co.jp

そうすると、たらいの中に何か物を落として、波が起こり、蟻の何倍かの高さの波が蟻の上を通っていったとき、それを地球の大きさに例えればほんの僅かな現象なのです。例えば、地球上には最も高いエベレストという山があります。それは9千メートル弱です。それから海の一番深いところが1万メートルくらいありますが、地球の直径は約1万2千キロメートル、また大気は約100キロメートルあります。地球にとって100キロメートルは卵に例えると、卵の殻の部分に匹敵します。そうすると、この地球は山の皺や海のへこみを含めても、とてもきれいな球だということです。そこに5メートル、10メートル、30メートルの津波が来ることは、ほとんど何も起きていないに等しいのです。ですから、わたしたちにとっては大変なことが起きたように思えたとしても、地球規模で言えば、それは何も起きていないに等しいのです。それに比べ、わたしたちがご飯を食べる前に手を洗うとき、それは手についている菌からすると、災害が起きているような大変なことになります。もしも、しっかり手を洗う人がいれば、手についている菌にとっては大災害に出遭い、大量絶滅したことにもなるのです。

今回の真学校では世界観を広げることがテーマでした。そして世界観のスケールが大きくなればなるほど、被害を受けたと感じる被害者意識がほとんどなくなっていきます。地震は地球の生命活動であり新陳代謝なのですから、宇宙から見たら地球はとても安定した星なのです。ですから、自然災害が起きて報道されるたびに、僕にはそのようなイメージが浮かんできて、「それほど大したことは起きていないのになぁ。これは定期的に起きている地球の新陳代謝であり、生きていることによって生まれたひずみが、地球をほんの少し変えているだけなのになぁ」と思うのです。そして、ほんのちょっとの水の波がこのような現象を引き起こすのですから、手を水で洗ったくらいではなかなか菌が取れないのと同じように、人間の営みも5年もすればまた元の状態に復活していくのです。

出典:http://workers-magazine.com/
出典:http://workers-magazine.com/

このように捉えると、ものの見方が変わっていきます。ものの本質を捉える時に、世界観が狭く囚われの心で見れば、それはとても悲惨なことであり、大切な人を無くしてしまった悲しく追悼すべきことになります。この震災で2万人くらいの人が亡くなりました。しかし、災害などがない時にも人はどんどん亡くなっていきます。僕は、人々が亡くなったことがどうでも良いと言っているのではなく、こうしていろいろな形で新陳代謝が繰り返されていることを理解する必要があると伝えているのです。ましてや災害対策を考えれば、生きているわたしたちにとって死は常に隣り合わせにあり、どのような形にしろ、わたしたちにはいずれ死が訪れます。宇宙において死ぬことは、正の方向であり流れです。ですから死を恐れるのではなく、どう生きるのかが大切であり、その死を満足のもとに受け入れていくことが重要なのです。さらに、死ぬことは宇宙の流れからすると、また生まれてくるということでもあるのですから、爽やかに生きて、気持ちよく旅立っていけば、また爽やかに生まれてくることになります。これはお金でも同じことです。気持ちよく使う人には、また気持ち良いお金が入ってきます。このように全てのものには、人の心の響きが乗ります。人生にも心の響きが乗りますから、生きることの心構えとして、いかに宇宙法則に乗せて気持ち良く流していくかが大切なのです。そのように解釈すると少し気分が変わりませんか?

「今日は防災訓練だ!」となると、火事になったときにどうしようといった話になって、とかく人は構えてしまいます。リラックスしていれば、全身の細胞がパラボラアンテナのようにセンサーになり、それが色々な変化を感受するので、上手に天の気を読むことができるようになるのです。しかし、「助かりたい!」という想いが強くなると、色々なものにぶつかってしまい、かえって動きが悪くなります。ですから、防災に対する捉え方も、人の心に起因するものだと僕は思います。こういった話をすると防災の話は不要になってしまいますが、資料が用意してありますので、今から一緒に見ていきましょう。

スライド4

この後、「災害はメッセージ」のプログラムのプレゼンに沿って、いさどんとみちよが話をしました。その後、ワークショップ形式で、参加者一人一人が自分たちが暮らす環境を振り返る時間が持たれました。

防災WS (3)

 

そして、最後のまとめとして、いさどんは以下のように語りました。

今日は、防災について学ぶと同時に、防災とは何かということをみんなで話し合いました。そこで至った結論は、わたしたちが生きると、色々な問題事に出会うということです。これは、真学校を通して一貫して皆さんにお話ししてきたことです。問題事に出会うことは、わたしたちが自我で生きていることに対して、この世界の法によって生かされていることをわたしたちに認識させるためのものです。わたしたち自身は、肉体と心により形成されています。それは自身の内から外に向かって観た視点です。同時にわたしたちは、外から内に向かってこの命が形成されるネットワークの中にいるのです。その双方の成り立ちを意識したバランスの取れた視点を持てば、宇宙が完璧に素晴らしい世界をわたしたちに提供してくれていることに気付くのです。

地上を生きるものとして世界観が狭ければ、物事を広い視点で捉え、そこにある流れや生きることの意味を理解することは難しいでしょう。しかし、わたしたちが地上を生きる役割は、もっと大きな宇宙の仕組みである調和や愛を地上に表現することです。そのことがわかれば、それらを地上に表現できるのです。それが天と地の和合であり、地上に天の法則を表現する役割を果たすことになります。それが本来、わたしたちが地球に生きることの意味です。それが宇宙の実相ですから、それを地球という特別に創られた奇跡の星で表現することが、わたしたち人間に与えられている大きな使命なのです。わたしたちは過去から未来に向かって時代を紡ぎ、その役割として地上に現れ、この宇宙物語を表現しているのです。

web of lights
出典: https://judithkusel.wordpress.com

災害やそれに対する防災を考えるとき、わたしたちの世界観が狭ければ、そこに起きることに対する対策をすぐにしたがるものです。そうした対策は大いにする必要があるのですが、それが目先だけに囚われた解釈になると、それは辛いことに対する対策で終わってしまいます。しかし、災害に出遭うことや災害に備えてその意味を考え、語り合うことは人々の霊性を高め、世界観を広め、最終的にはこの地上に理想の世界をもたらすきっかけとなるのです。ですから人々の意識が宇宙法則から外れるほど、天はわたしたちにそういった出来事を通して考えるチャンスを与えてくれるのです。そのような災害の捉え方をすれば、ただ辛いことに出会っただけではなく、災害もありがたいこととして受け止められるのです。生命として生きることはそのような高い意識を創る世界に存在することであり、そして自然の中に生きることは、ある意味自我を超える修行をしているようなものですから、厳しく感じられるようにできているのです。

そもそも、この世界は矛盾から生まれたのですから、その矛盾の現れである自然の中に生きることは、常に矛盾を埋め合わせて行くことになります。そのカラクリを知り、その中で翻弄されるのではなく、見事にそれをすり抜けて生きる術を見つけたならば、わたしたちはもっと大きな存在になれるのです。それは、宇宙を理解し、命を超越して宇宙を旅するコノハナ人になるということです。

真学校も終盤を迎え、この学びに出会うことの意味が皆さんに定着してきたと思います。当初は、皆さん一人一人の人生の課題に向き合うということでしたね。そろそろ、自らの存在がこの世界を担っているという高い意識に目覚めることが、真学校に出会った意味だと気づいていただければと思います。そして、人は必ず死にます。その時に悔いのない旅立ちをするために、皆さん一人ひとりが高い意識の元にこの世界の成り立ちを担っていることを意識しながら生きていくことを願っています。