1ヶ月間の真学校、最後の講座となる「心豊かに生きる」というプログラムの中で、受講生ひとりひとりがこの1ヶ月間を振り返る時間が持たれました。その中で、受講生のしゅうくんは以下のようにこの1ヶ月間を振り返りました。
しゅうくん:
僕は1ヶ月間の真学校を受ける前はここでヘルパー滞在をしていたのですが、この1ヶ月間はそのときとは違い、常に生活を共にしている仲間との間で自分の癖がたくさん出て、こんなにも僕はまわりをひどい状況にさせるのだと自分の影響力の大きさに気付かされました。こうやって僕は不調和を起こしていくのだと知ることができました。この1ヶ月間、日記で自分のことを振り返りながら、なんとなく自分のことはわかっていましたが、その状態がそもそも囚われていたことにやっと気付いたところです。わかっていたけれど、やってこなかったことが今、わかったところです。
これから自分がどのように生きていくのかをここ数日間考えていたのですが、自分としっかりと向き合っていくのだと感じています。自分の中では気になることがたくさんあって、自分が大きなことで悩んでいるのならまだいいのですが、自分自身が嫌だからとか、そういった狭い世界観の中で僕は悩んでいるのです。だから、そこから離れて世界観を広げていくことを、これから謙虚に素直に取り組んでいきます。僕は今まで本当に傲慢だったと思っています。今は素の自分を出していることで、少し楽になっています。
いさどん:
ひとつ質問があります。これまでは自分の癖をそのまま出してきて、それはある意味、素の自分を出してきたということですよね。
しゅうくん:
はい。
いさどん:
そこは反省しているのですよね。
しゅうくん:
はい。
いさどん:
反省した結果、今話していることは、ある意味これからも素の自分を出していくという結論に至ったのですよね。
しゅうくん:
素の自分を出していく・・・それは、自分自身で素の自分を認めて、それをコントロールしていくということです。
いさどん:
もう一度言いますね。結局、しゅうくんがやってきたことは自分の癖をよく理解せず、癖のままに表現してきて、素の自分を出したことがこんなにも全体に大きな影響を与えているのだと学んだのです。その結果、結論はやはり素の自分を出していくことなのだと言っていましたね。それは矛盾だと言っているのではありません。その最初の素の自分を出したことと、後で気が付いて素の自分を出そうという結論に至ったこととでは、一体何が違うのでしょうか。
問題の元となった素の自分と、学んだ後に素の自分を出すことによって「これで行こう!」と感じている素の自分との違いは、一体何なのでしょうか?
みかちゃん:
それはこの前一緒にご飯を食べていたときに話したよね。癖のままに出す素の自分と、客観目線も入れた上で出す素の自分の違いについて混乱している人が多いから、正直を出すことがいいことなのかどうなのか。正直を出したらそれでいいのか、という話をしたね。
しゅうくん:
そうそう!でも、それをどのように説明したらいいのか・・・。
いさどん:
どちらも同じ素の自分ですからね。これはとても重要なポイントなのですが、今の世の中もある意味みんな、素の自分を出しているのです。その結果、社会は今のような状況に至り、行き詰っているのです。しかし、自分らしく正直に生きることによって、これは解決できると思うのです。ですから、今までの正直に出していたことと、その後の正直の違いをわかる必要があるのです。「このように素の自分を出していけばいいのだ!」と理解できると、次のステージへ力強く進んでいくことができます。さあ、みなさん、考えてください!
よしやん:
そのふたつは同時にいるんじゃないかな?自分の好きな自分と自分の嫌いな自分の両方が混在している。
いさどん:
混在しているのはわかりますが、自分の好きな自分というのもそれは自分基準になっている場合が多いのです。これはポイントですよ♪自分の心地良い自分を素に表現したときに、それがまわりにとって良いかどうかはわかりません。それこそが独りよがりですからね。
たえちゃん:
客観視点を持って自分を観て、まわりを把握して、自分を出していく。
いさどん:
それは最終目標ですね。自分を入れた大きな枠の中で自分を観て、全体を把握した状態で自分を表現することは最終目標です。今、ここで質問していることは、最初に素の自分を出したときに不調和をもたらしたしゅうくんがいました。その素の自分はある意味問題だったのです。しかし、そういったことも学んだ上で、最終的にしゅうくんはやはり素の自分を出していくことが大切なのだという結論に至ったのです。それは正解だと思います。以前の不調和をもたらした素の自分と「やはり素の自分を出していくべきなのだ!」というポジティブに解釈できる素の自分の違いは、一体何なのでしょうか?
たえちゃん:
最初の素の自分は感情が伴っていて、感情をコントロールしていない素の自分。
いさどん:
それは全体に何をもたらしましたか?
のぶくん:
しゅうくんの感情の痛みだと思います。
いさどん:
いや、しゅうくんはまわりに何をもたらしましたか?
のぶくん:
まわりに不調和をもたらしたことで、しゅうくんが傷ついて、そこで学んだということではないでしょうか?
いさどん:
それはしゅうくんが学んだのですか?
のぶくん:
そうです。
いさどん:
そうすると、まわりはどうだったのですか?
のぶくん:
まわりも学んで、しゅうくんも学びました。
いさどん:
ということは、しゅうくんが感情をコントロールしないで出した結果、まわりもしゅうくんも学んだとしたら、それは悪いことではありませんね?しかし、その状態だと学びは学びでも、良くない見本として、つまり教訓としての学びになりますね。その教訓を超えていくときに、やはり素の自分を出さないといけないとしゅうくんは言いましたね?僕もそうだと思うのです。そこで、振り返る前と後とでは何が違うのか?場を乱すような素の自分を出し続けることと、振り返った後の素の自分を出すこととは違いますよね?
しゅうくん:
感覚ではわかるのですが・・・
いさどん:
言葉にならないということですね。
しゅうくん:
はい。
いさどん:
あなたは以前の素の自分を出したときの体験と、その後に「やはり素の自分を出すべきだ」という体験の両方をしたのですよね。その感覚の違いを言葉にしてみたらどうですか?
しゅうくん:
以前はとても苦しかったです!まわりに自分の感情をバーッと出したときにはみんなとの距離をとても感じました。それで自分もどんどん苦しくなっていって、孤独になりたかったし、そうするとまたどんどん自分が辛くなっていくと思って、「これではまずい!」と思って切り替えたのです。
いさどん:
そのときに、まわりを混乱させようと思って、やっていたわけではありませんね?
しゅうくん:
はい。
いさどん:
感情のままに出したとき、何が目的だったのですか?
しゅうくん:
・・・これといった目的はなかったのですが・・・。
いさどん:
ただ言いたいことを言っただけですか?僕はあなたのしていたことを把握していますよ。
たえちゃん:
しゅうくんが感情を出してコントロールしていないときにわたしが感じたことは、「俺はこんなに一生懸命やっているのに、なんでみんなわからないんだ!」というような空気を感じました。
いさどん:
すばらしい!しゅうくんの心はそれですよ♪その背景として、しゅうくんの想いには何があるのですか?
よしやん:
自己嫌悪?
いさどん:
そうですか??
よこなおちゃん:
認めてほしい心。
いさどん:
そうですか???
たえちゃん:
「俺の言うとおりにしろよ」とか??
いさどん:
そこで、なぜみんなは言うとおりにする必要があるのですか?みんなが言うとおりにした結果から、しゅうくんは何を求めているのですか?
たえちゃん:
自分の成功??
いさどん:
ここでしゅうくんは自分の成功を望んでいますか?当事者であるしゅうくんはどうですか?少なくとも、正解はあなたの中にあるのですよ!これがあなたから出てこないとしたら、自分の感情に対してそれを認識せず、感情のままに出しているということです。しかし、その感情が湧き出てきた元にあなたの意志があるはずなのです。その意志がもう一度何だったのかを確認できるといいですね。
今すぐ出てこないようなので、僕が少し誘導しますが、しゅうくんは最初に力強く想いを出して、素の自分を出した結果、ここを混乱させたと自分で認識しているのですよね?
しゅうくん:
はい。
いさどん:
しかし、混乱させようと思って出しましたか?
のぶくん:
混乱させたいという気持ちもあったと思います。
いさどん:
しゅうくんに混乱させたいという気持ちがありましたか?それは彼の意志ですか?もしかしたら、自分の気持ちを重ねていませんか?
のぶくん:
もちろんそうです。自分視点でしかしゅうくんを捉えられないので、そう言っています。
いさどん:
本当はそこを卒業するといいのですよ。この場所はしゅうくんに寄り添ってみんなで考えることが大切なのです。そこを自分視点でしか捉えられないところに、のぶくんの課題があります。あなたの中には人が同じような共通点を持っていると安心する心があるのです。そこで、あなたの感情はより強く動きます。しかし、今はあなたの感情は抜きにして、しゅうくんの感情について振り返る必要があるのです。
のぶくん:
どうやって振り返るのですか?
いさどん:
そこは本人に聞くということです。自分から見て決め付けるのではなく、本人に聞くのが大切なのです。
のぶくん:
でも、本人でもわかっていない気持ちはありますよね?
いさどん:
それを誘導して紐解いていくのが人のために寄り添うということです。今この時間は、みんなでしゅうくんの気持ちに寄り添おうとしているのです。ですから、そこで自分の感情をオーバーラップさせては、真実は観えてきません。
さて、しゅうくんははじめに強い意志で素の自分を出しました。そうしたら、場が混乱しました。しゅうくんはその混乱を見て、自分が素を出すとまわりを混乱させるのだと気付き、それでは自分に対する印象がよくなかったので自分に対して落ち込んだのです。そのしゅうくんがはじめに自分の意向をよく考えないでそのままストレートに出した心の元は、この場に混乱をもたらそうと思ってやったかどうか?それはどういう心でやったのでしょうか?本当は本人に聞いているのですが、本人がその答えを出せないので、みんなで探っていきましょう。
りょうこちゃん:
みんなとつながりたいから。
いさどん:
しゅうくんはみんなとつながりたいのですよね?
しゅうくん:
はい。
いさどん:
つながりたい目的は何ですか?
しゅうくん:
より良い世界を創りたい。
いさどん:
そうです!しゅうくんはより良い場を創りたかったのです。しゅうくんはこの場がまとまっていないと彼流に感じたので、この場を良い場所にして、みんなとつながっていきたいと思ったのです。そしてそれを実行したのです。それは悪いことですか?
しゅうくん:
悪くはないです。
いさどん:
しかし、悪い印象しか残っていませんね?
しゅうくん:
はい。まわりから、僕がいらいらしているとか怒っているというフィードバックをもらったので。
いさどん:
しゅうくんが全体に投げかけた意向は、善意ですよね。そのことについてみんながクレームを言ったのは、悪意ですか?
しゅうくん:
悪意ではなかったです。
いさどん:
しゅうくんは全体を良くするために投げかけたのですが、そのことによってこの場が乱れたので、みんなもこの場を良くするために自分の想いを出したのですよね?ここで少し僕がファシリテートしますが、しゅうくんも善意で出した。みんなもそのことによって善意で出した。しかし、当初ここには何が起きたのですか?不調和が起きましたね。みんなは善意で出しているのに、不調和が起きたのです。ということは、ここで何を観るべきなのでしょうか?何を観たら不調和ではない世界が観えてくるのでしょうか?
これはテストを受けているようですね(みんな、笑)。
かずえちゃん:
彼が出した奥の客観背後を観る。
いさどん:
ハッハッハ。それはまたハイレベルなことを言いましたね(笑)。
かずえちゃん:
その奥にある真意を観たいと今思いました。
いさどん:
そうすると、その奥にあるしゅうくんの真意、みんなの真意を観たら、何が観えてきますか?
たえちゃん:
みんなと調和したい心。
いさどん:
そうです!そこにはみんなと調和したい善意の心しかありませんよね。そこだけを観ていけば、いつでも善意の場ができるのです。しかし、その奥にある善意を観るに至らないと、善意の場にならないし、調和にならないのだと僕は思うのです。
さて、一番重要なところへ来ましたね!しゅうくんが感情的だったことを何気なく振り返ったことから、今わたしたちはとても大切なところへ来ています。少なくとも、しゅうくんが出した不調和は彼の善意から出たこと、さらにその不調和が起きたことに対してみんなはそれを改善しようとして善意から投げかけたのです。しかし、結果としては不調和の場ができました。そこで、みんなの元の心を観たら、すべて善意でした。善意だけだったら、問題はないはずですよね?
よしやん:
その善意を押し付けがましく感じる?善意だけど、悪意の善意?ちゃうなあ(笑)。
いさどん:
えっ!悪意の善意があるのですか??
よしやん:
善意でいても相手がうっとくるということは、善意の押し付け的な感情を感じて、こちらも感情が出てしまう。
いさどん:
それは受ける側の理論ですね。被害的に受けていると、「あなたの善意は悪意が混じっている!」という話になってしまうのです。そうではなく、一番元の心が善意であるということは、善意でしかないのです。しかし、なぜそこで不調和が生まれるのか、考えてみましょう。
トオマス:
僕に思い浮かんだイメージを伝えますね。ここの場のように僕たちが輪になっているとします。それで僕たちはみんな、織物をつくるための糸を1本ずつ持っているとします。僕たちはそれぞれ意図を持っています。しかし、僕たちがその意図を解釈するときには、僕たちはその場に感情をもたらします。そして他の人もみんな互いの意図を解釈し始めます。だから、「これはそういう意図ではなかったから、変えてみよう」ということになるのです。そこで僕たちが自分自身の中でゆるぎないものとなって、確固たる意図を持ったときに初めて、それはその場に反映され始めるのです。だから、僕たちが自分自身の中でゆるぎないものとなると、僕たちは柱になるのです。僕たちは他者にとっての柱にもなれるのです。僕たちが揺れ動くことがなければ、僕たちは状況を変える必要はありません。僕たちは自分たちの意図に対してただ確固たる必要があるだけです。そして、僕たちはありのままの姿で紡がれた調和をその場に観ることができるのです。
いさどん:
トオマスは最終結論を言ってくれました(笑)!今、トオマスは最終結論の十のところの話をしてくれたのですが、どうもこの場はまだ二か三にいて、これからその先に行くところです(笑)。大分間が抜けていますね。これからそこを埋める必要があります。
たえちゃん:
しゅうくんが感情とともに、善意で素の自分を出したときに、みんながそれをどのように感じるのかをしゅうくんは考えていなかった。
いさどん:
それを解説すると、しゅうくんの最初の素の心はこの場を良くしたいという心で出したのですが、その強い想いはみんなのことを考えないで、しゅうくんの自分の想いだけを出したのです。しかしそこで考えなければいけないことは、彼は善意でこの場のためにやっていたということです。そのときに、善意であっても、この場に不調和の種が蒔かれたということです。
かずえちゃん:
それはまわりへの配慮がなかったということですか?
いさどん:
そうとも言えますし、逆に捉えると、まわりに配慮がなかったということはしゅうくんの姿勢はどうだったということですか?
たえちゃん:
自分よがりだった。
いさどん:
そうですね。
トオマス:
僕のしゅうくんとの体験をシェアすると、僕はしゅうくんの誠実さを感じてきました。僕たちがお誕生日会や修了パーティの練習をしているときや部屋にいるとき、またお風呂にいるときでも、しゅうくんは本当に何かポジティブなことをシェアしたいのだと感じていました。同時に、しゅうくんから不安定さも感じています。だから、しゅうくんは外に気持ちを出しても、それがどのように受け取られるのかわからず、みんながそれをどのように思うのかを知る前に修正してしまうようなところがあるのです。
それから、僕がただ「ありがとう!」と感じているときでも、しゅうくんは僕がそれをポジティブに感じていることを知らなかったこともあります。僕たちは同じ言語を話しませんが、僕は「それはいいね!」と伝えたいだけなのです。たとえばお風呂場での出来事でも、「僕はそれを知らなかったから、教えてくれてありがとう!」と伝えたかっただけなのです。しかし、しゅうくんはそのとき僕に対して感情的だったことを感じました。もしくは、しゅうくんはしゅうくん自身に対して動揺していたのかもしれません。だから、しゅうくんの最初の意図は人の役に立つものであったのに、そのように事は成らなかったということです。しかし、しゅうくんにはポジティブな意図があったことを僕はわかっていたので、僕たちが話し合えば、僕にはしゅうくんの意図していたことがわかるのです。そのようにして、僕たちは一緒にギャップを埋めることができました。
いさどん:
トオマスは大分上から降りてきて、僕たちがわかる言語のレベルになってきましたね(みんな、爆笑)。
トオマス:
はい!今は五まで来ましたか(笑)?
いさどん:
まだ大分間が空いていますから、このプログラムの時間が終わるまでにそれを埋める作業をしたいと思っています。もう一度話を整理すると、しゅうくんはこの場を良くしたいという強い意気込みで、正直な自分を出しました。その元の心は善意です。しかし、まわりの人たちは彼が独りよがりの方針を出したことによって、それを受け取れないがためにここに混乱が起きたのです。それに対してまわりの人たちは、その混乱を修正し全体の場を良くするために、善意でしゅうくんに投げかけたのです。しかし、そのときにまわりの人たちはしゅうくんを問題児として受け取っていたのかもしれませんね。問題児だと感じていたからこそ、しゅうくんも含めてこの場を健全にするために投げかけたのかもしれません。
そして今トオマスが、しゅうくんは誠実な人で、彼は善意のもとにいることをシェアしてくれました。しかし、実際にはここに混乱が起きたのです。だからその混乱を観て、しゅうくんは自分の起こしたこととして振り返って落ち込んでいたのです。それから事がいろいろと成っていった結果、彼はそれを学習し、「やはり素の正直な自分を出すべきだ!」という結論に至ったのです。
全体に混乱をもたらした最初の素の自分も善意であり、後からそれを学び修正して「やはり素の自分を出すべきだ!」というしゅうくんの結論も善意なのです。この違いを埋めていくと、この階段がすべて埋まると思うのですが、いかがでしょうか?
~後編に続く~