受講生といさどんとの対話・トオマスのヒトへの道編

「1ヶ月間の真学校」の中でいさどんは、担当するプログラムが始まる前には必ず「今日も僕はいさどんをやっています♪」と言ってからプログラムを始めていました。さて、真学校が終了した翌日13日の朝、受講生のトオマスはこれからコミュニティを立ち上げるインドネシアのバリへ出発する前に、いさどんと話す時間を持ちました。

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トオマス:
今日も僕はトオマスをやっています♪

いさどん:
僕はあなたがこれから歩んでいく道を見守っていきます。今までのあなたは現実的でなかったところもありましたが、それが今回の1ヶ月間で少し現実的になってきたと思っています。ただ、現実的イコール、事が成るばかりではありません。現実的ということは、いろいろな修正が必要なことが観えてきたということでもあるのです。人間は自らの意志で何かを成し遂げようと目標を立てるとき、強引にそれを成し遂げる能力も持ち合わせています。しかし、そのような可能性を人間たちが発揮してきたがために、今の世界の現状があるのです。それは人間社会の大きな行き詰まりにもなっていますし、自然からの反乱も招いています。それは、人間が自らの性質をこの世界に表現することの意味を履き違えているからです。

ですから、この世界を支配し、自らの願望を叶えようとするような姿勢ではなく、身近な人々に対して寄り添い、同時に自然や地球環境に寄り添うこと、それから大きな世界観を持って宇宙の流れや法則に寄り添うことが大切なのです。そのように寄り添っていく延長に自らの目的があるならば、人類がもたらし巨大になってしまった矛盾を解消できるのです。

あなたには、そういったこの世界の矛盾を解消するための閃きがあります。それは世の中や人々に有効なものをもたらすはずなのですが、それすらも独りよがりであったり、他者や自然に寄り添っていかなければ、結果同じような矛盾をこの世界にもたらすことになってしまうのです。そこでまず、自らの器を大きくすることが大切です。そして、他者に寄り添い、自分以外のすべての存在を常に意識することが大切です。それができれば、あなたの最終到達地点である尊い理想は叶うことでしょう。それは、あなたがブッダの人生を生きるということです。

日本では、「人が寄る家は栄える」と言います。その栄えることでも、低いレベルと高いレベルの栄えることがあるのです。それは自らの意識にふさわしくあるということです。今までの時代は、低い意識レベルで人間以外の存在に害をもたらし、人間の欲の心を引き寄せることによって栄えることがありました。しかしこれからは、ブッダの精神に人々が寄ってくる時代が訪れています。ブッダの精神を持つ人々が群れてコミュニティとなること――それが人々が暮らす理想の姿であり、木の花ファミリーで言う「菩薩の里」です。そこに人々が寄ってくるためには、引き寄せる核となるあなたの精神がブッダとなる必要があるのです。

あなたはまだ27歳と若いですね。僕はあなたを観ていて、自分の若い頃を思い出します。僕の若い頃より、あなたのほうがさらに目覚めています。また、僕のほうがあなたよりずっと暴走していました(笑)。そして、一番の違いは、僕はその頃自らの考えで歩んでいただけであり、誰か指針を与えてくれる人はいませんでした。もちろん当時は、天の存在などまったく意識していなかったのです。その僕にはなかったものが、今のあなたにはあります。そういった意味では、あなたにはとても良い環境があるのです。あなたが他者を意識し他者に寄り添っていけば、世の中の指針となる場所を創ることができ、あなたの人生の目的が達成されることでしょう。そこでは、あなたの目標イコール天の目標となることが大切です。

これからあなたがインドネシアでコミュニティを創っていくことは、時代的にはとても良い発想だと僕は思っています。ただ、そこではアメリカ人であるあなたとの文化的な違いがあるだろうから、今僕が伝えていることはさらに現実的にあなたに求められることでしょう。ですから、外との人間関係の調整よりも、自らの内面をどれだけ修正できるかがポイントです。

トオマス:
それを僕は今学んでいる最中です。それには180度の転換を要します。それは精神的に始まるものです。しかし同時に自らの思考や感情、人間関係の転換も要します。そして文化は、自分が何者であるのかを意味します。というのも、文化は魂と地球をつなげるからです。文化が僕たちをひとつのグループにまとめます。文化がなければ、僕たちはバラバラの存在です。ですからそれは、どれほど僕たちがまったく新しい文化を創っているのかを表しています。そしてそれは同時に僕が自分自身を観る方法の転換も要するのです。僕のここでの経験から、僕は自分が求めているものが何であるのかを知っています。だから、ただそこに飛び込んでいくだけなのです。

一昨日の講座の中でいさどんが「ヒト」について話していたとき、それがどのように成っていくのかを僕は考えました。ひとたび型が創られると、天はその中に生きます。ですから、ひとたび僕が型を目にすれば、僕はその中に生きる必要があるのです。もし僕がそれを物体としては見ても、その中に自らのいのちは入れないことになると、それは生きることにはなりません。そのようにして、万物は創造されます。それは、いかに僕たちが天の閃きであるのかということです。天は型を創り、それからその中に飛び込み、いのちとなりました。これは究極の現実です。そこでは自分たちの存在と僕たちが観るものの間に違いはありません。

いさどん:
究極の現実を語るときに、現実の現実も同時に観ていないと、つまり足元から究極の現実をつなげていかないと、身近なものと自分がつながらなくなってしまいます。ですから、あなたが究極の現実を語っているとき、僕は言葉を聞かず、感覚でそれを受け取っています。そうすると、あなたが言っていることは理解できます。しかし、人々はそれを理解することはできません。あなたの目的は、あなたのまわりにいる人々と創っていく世界です。ですから、身近にいる人々やあなたの現実と向き合い、寄り添い、ヒフミヨイムナヤコト(一二三四五六七八九十)という一から究極の現実の十までつなげられたときに、その究極の現実を語るあなたが身近にいる人々や現実の役に立つ人になるのです。

「現象を持って真実とすべし。」過去には人間社会には評価されず、悟りに至ったたくさんの聖者たちがいました。ヒマラヤにはそういったものたちがたくさんいました。彼らは自らの悟りの道を歩みましたが、人々と共にはありませんでした。そういった魂たちは天に戻った後、今度は人々に悟りを伝えるために、輪廻してまた地上に戻ってくるのです。そのときに、彼らは自らの悟りと他者とともにある悟りのギャップを埋めるのです。本来、悟りは悟ったもののためにあるのでありません。この宇宙の実相のように、調和して共にあること――そのために悟りがあるのです。

今のあなたの話を聞きながら、僕はヒマラヤで悟りに至った行者をイメージしました。実は僕も、初めて人間として地上に降り立ったときにはそのような姿勢でした。しかし最終的には、多くの人々と寄り添うことによって、天の意志を地上に表現するものになれると思うのです。それも、空想の中にではなく、現実の人々との生活の中にそれが現象として現れることが大切です。それは、生活すること自体がいのちの営みだからです。人々の生活のあり方が他の生命と調和し、さらにそれが地球や宇宙の法則と共にあることが大切なのです。調和すべき指針を探さなくても、わたしたちには自然の仕組みや宇宙の法則といった絶対のものがすでにあるのです。

ところが、今まで人間たちはそれを自我によって支配するものとして捉えてきたがために、現実の矛盾を生んでいます。今までのような人間の願望を叶える方向で生きていく限り、必ず行き詰まりを迎え、その矛盾はさらに大きくなるばかりです。ですから、そのような方向を転換し、自らから距離を置き、何が矛盾を創るエネルギーなのかを冷静に観る必要があるのです。その冷静に観る姿勢は非常にリラックスした状態です。天から時代を越えてものを観ること、天から星々の運行を観ること――そのような宇宙的な広い世界観を持つ必要があるのです。

トオマス:
僕がこれまで経験してきたように、すべての物事は僕の先にあります。必要なときが来れば、僕は必要な出来事に出会います。いさどんがよく言うように、僕は理論を観て、「これが最終結論です」と語る傾向があります。でも今さっき僕が話したように、型がまずあって、その中に天が入らなければいけないのです。いさどんは、これは理論であり、同時にそれは現実の生活なのだから、それを経験する必要があると伝えてくれましたね。そして経験が僕たちを次なる段階へいざなってくれるのです。

いさどん:
その経験があなたの先に観える目標をリアルにしてくれるのです。

トオマス:
いさどんが「僕があなたぐらいの年齢だったとき、僕はもっと暴走していました」と伝えてくれたとき、それは僕の人生の一部だったと感じました。僕の中にも激しい気性があるのです。神は絶対の存在ですから、神は「もう、そのようにする必要がありません」と伝えてくれます。しかし、僕が激しかった頃、違う現実があることに気づき始めました。今まで僕はそれが悟りに至ることで、経験の意味することだと考えてきました。しかし、それを人々に伝えようとしても、彼らは僕を理解しないのです。もしくは多くの人々は「何かがそこにあるね」「それは雲を見るようなものだね」「雲の中に顔が見えるね」と言うのです。そのように人々はそれぞれの世界の中で生きているのです。そこで僕が認識したこととして、この世界は他者からどんどん隔絶されていっています。事実、いのちのあり方のレベルはどんどん下がっています。ですから、気付きがあっても、それは生活をより良くするものではないのです。この状況はなんて馬鹿げたことなのだろうと僕は気付きました。僕たちはそこからポジティブに物事を捉えることもできますが、それは自分自身のためにそうするだけなのです。

いさどん:
もしくは、もっと広いスタンスで捉えると、ポジティブに捉えることもできるのです。自分とこの世界を分離していくような思考になると、ポジティブに捉えることはできません。そこでどちらの方向を向いているのかが大切なのですが、あなたは先程この世界はどんどん悪くなっていると言いましたね。それは事実です。人々は自然と共に生きることを忘れ、自然を感知する能力を失い、神を語っても自らの精神の中に神は生きていません。事実、人間の意識は神の存在からどんどん遠く離れていっています。

地球暦で言うと、一番強く近い角度が「結び」の状態です。それは二つの惑星が太陽の片側で同一線上にあり、二つの異なる意識が完全に寄り添っている状態です。それに対して、「開き」の状態は二つの惑星が太陽を挟んで同一線上に向かい合っている状態を指します。それは一番遠い角度です。そして距離が遠くなればなるほど、広いスタンスでつながることができるのです。一見遠くなったように見えても、その真ん中に絶対なる太陽があることに気付けば、遠くなった分だけ広い世界を表現することができるのです。

同じように、この世界が一見悪くなっているように見えたとしても、それはそのギャップの分だけ、広い意味で人々を進化させ悟らせるエネルギーにもなるのです。このように悪く見えることは、同時に良くなることでもあるのです。

トオマス:
僕はインドのシヴァ神と関係があります。なぜなら僕は災害を見ると、わくわくするからです(笑)。

いさどん:
僕も今、シヴァ神をイメージしながら話していました(笑)。今日は3月13日ですから、一昨日の3月11日は東日本大震災の5周年の日でした。今日はその5周年を迎えた最初の日曜日なので、一昨日から今日にかけて日本ではあの震災に関連する特別番組がたくさん放送されました。多くの人々はあの震災を不幸なことが起きたと捉えています。そして多くの人々は、破壊されたものを復活させることを考えています。しかし、あの震災が起きたことは人々に不幸だけをもたらしたのでしょうか。

あの震災は、人間たちが所有の心で創ってきた矛盾を洗い流してくれました。もし人間が自らの意志で所有を放棄することができていたら、天はあの震災を与える必要はなかったでしょう。そのためには、矛盾がピークに達し、それが爆発するようなことになる前に、常に矛盾を瞬間瞬間解放できるだけの心の柔軟性が必要なのです。あの震災は、人々の囚われのエネルギーが究極を迎え起きたようなものですからね。受け取り方によっては、いろいろな捉え方ができるのです。

ですから、僕もあなたと同じことを考えていました(笑)。

トオマス:
それは、多くの人々が理解することではありませんね。

いさどん:
地球上での人間の営みは、人間の心の表れです。現象という鏡からわたしたちは自らの姿を観ることができるのです。そしてそれが鏡としてわたしたちに伝えていることがわからなければ、人間は自らの行いを報いとして観ることになります。それは極めて強制的な学びです。それは、神がわたしたちと常に向き合っている証拠とも言えます。神と共にこの世界を創っているという神の側にわたしたちが立つならば、自らの自我ではなく、天の代理として天の意志を表現していると捉え、すべての出来事を受け取るようになります。

そのときに、いのちは自由に表現されます。わたしたちはとても自由な場所にいることが理解できるのです。それこそが、神さまが願っている豊かさなのです。そしてあなたが語る最終段階は、そこにあるのです。そこで最終段階が目的というよりも、始まり(ヒ)から最終段階(ト)までのすべての過程を踏んでいき、その結果最終段階に到達することが「ヒト」であり、「ヒト」の道です。それに寄り添ってくれているのが神の存在であり、宇宙の実態です。

わたしたちが自らの神聖に目覚め、神と同じように他のすべての存在に寄り添っていくと、神と同じように存在できると僕は考えますが、どうですか?

トオマス:
いさどんが話していることを、僕は神のたくさんの声だと感じています。いさどんと僕は同じことを違う切り口で語ります。僕がさっき話したように、神は型をまず創り、その中に入り、それが「チョン(天の意志)」です。そのようにしていのちを与えます。僕たちは自分自身のためにいのちを創造し、生きるためにその型の中に入るのです。だから、「ヒト」の道はまず、何も知らないところから始まります。それから人生を通して、僕たちが誕生する以前から存在していた意識を拡大させていくのです。

いさどん:
それは思い出していく道でもあります。

トオマス:
それは最終的に僕たちが自分自身と向き合うまで続きます。そして、「わたしはすでにこれをしてきた!」とわかったとき、それが「ト」になるのです。

いさどん:
実は、その「ト」が第一段階のヒからトであったり、第二段階のヒからトであったり、さらには第十段階のヒからトであって、そしてその全体がまたヒであることがこの世界の構造だと思うのです。わたしたちはこのように多次元階層の無限なる世界にいるのです。ですから、今自分が考えられる世界と目指しているところがすべてだと思うと、実はそこをクリアしたときに次の目標が観えてくるのです。神さまは無限であり、この世界も無限なのです。それは、内なる微細な世界を観ても同じです。それを、今のような科学する思考で理解しようとしても限界があります。そこでは探求しようとする思考ではなく、感じることが大切です。それこそ、自らのすべての細胞のセンサーを使って感じ取ろうとすることです。

これはカタカムナで言う、カムミを感受するということです。つまり、体中のすべての細胞を花開かせ、そのアンテナの能力を全開にするのです。そしてその一つ一つの細胞のアンテナがすべてオープンになると、その一つ一つのアンテナの芯に「チョン」が入るのです。その状態で天とつながることが男女の最高の交わりの姿であり、それをカタカムナでは「カムウツシ・アマウツシ」と呼びます。

今回の真学校ではそれについて理論的な話しかできませんでしたが、本来カタカムナの世界ではそれは体現的なこととして可能であると言っています。今のところ、それをそのような形で伝えている人は誰もいません。これから今の価値観を超えて社会が創られるようになると、それを現実に表現できる人々が現れてくることでしょう。おそらく、今、10歳以下の子どもたちやこれから生まれてくる人たちにはそういったことが可能だろうと僕は観ています。

トオマス:
僕の役割を観ると、僕はただ天が入るための空間をつくるためにここにいます。もはや逆行できない人たちはここに引き寄せられてくることでしょう。それは高齢の世代の人たちです。しかし、若い世代の人たちはそういったことに自然に引き寄せられていくのです。

いさどん:
わたしたちは自らの人生を区切って捉えがちですが、時代の一部を担っていると捉えることが大切です。わたしたちの人生は、列車が線路の上を走るときの枕木一つ一つの間隔と同じ構造であることを知る必要があるのです。駅に着くたびに時代は移り変わるのです。そして駅に着くたびに新しい時代を創る人々が次の時代を表現するために乗ってくるのです。同時に降りていく人もいます。そこで自らの人生は枕木一つ一つの間隔であることを知る必要があります。枕木一個から次の一個までの間隔を始まりから終わりと観ることもできれば、それは長い列車の旅の可能性をつなぐ一コマにしかすぎないのです。

トオマス:
それは僕の言葉で言うところの「悲しみの喜び」です。それはとても美しいのですが、同時にわたしたちはそれを所有することはできないのです。

いさどん:
ハッハッハ。所有したい心があるから、悲しみになるのではないですか(笑)?自らのスタンスを広くすれば、所有しなくなるのです。狭く観るから、所有してしまうのです。自分という存在はこの世界にあると思えばあるのですが、ないと思えばないのです。ですから、昨日僕が午前中に伝えたように、リセットすればすべては幻なのです(笑)!意識すれば現実になるのです。わたしたちは生から死に向かって現実を観ていますが、この現象世界の出来事は死を迎えると幻になるのです。わたしたちはその枕木一個一個をつないで、人類としての旅をしているのです。それは人類の始まりから人類の終わりへの旅であり、それはほんの一コマで、生命の始まりから生命の終わりへの旅であり、それもほんの一コマであり、地球の始まりから地球の終わりへの旅であり、それもほんの一コマであり、宇宙の始まりから宇宙の終わりへの旅であり、きっとそれ以上のスタンスもあるのでしょう。それがもし無限にあるのだとしたら、わたしたちがこのように分析するよりも、無限の宇宙を感じることのほうがもっと大切なのです。そのときにわたしたちは解放されます。OKですか?

トオマス:
OKです!それはいかに神がシンプルにこの世界を創造したのかということですね。

いさどん:
そうです。この究極のシンプルと、究極の緻密さと複雑さをこの世界は表現しているのです。ですから、どちらも言えますね。宇宙や神を思うときに、常に相似形で対向発生という単純な構造でありながら、極めて緻密で複雑な世界ができています。それも、わたしたちが物理的に認識できるこの三次元どころか、多次元世界に渡ってそれが表現されているのです!これはわたしたちが今三次元で使うために与えられた脳では解釈できません。感受する脳の機能を宇宙に解き放つことによって、その解釈は可能となるのです。脳細胞のすべてを宇宙空間に解き放ち、それをセンサーにして感じ取るのです。そうすると、宇宙の実態はきっと感じ取れるのでしょう。そのときには今、わたしたちが観ている現実世界は些細なことになりますね。

トオマス:
そのとおりですね!(いさどんの両手を握り、そこに自らの額をつけながら)すべてに感謝しています!本当にありがとうございました。

いさどん:
良い出会いでした。こちらこそ、ありがとうございます。

 
――

その1週間後、トオマスから木の花ファミリー宛に近況を知らせる次のメールが送られてきました。

――

 
みなさん、お元気ですか? バリに戻ってから1週間が経ちました。こちらに戻ってからはすべてがまったく新たな始まりのようであり、むしろ難しい時間を過ごしています。世界には謙虚になるべきことがたくさんあり、神が自らの仕事を任せる魂たちは常にわたしたちを鍛えることに熱心なのです!

僕は家に帰ってから、元気がなく、真学校で得た明瞭さを見つけることをとても難しく感じました。ハハハ。僕はまさにヒの段階に戻ったようです!

33歳になったら僕は悟りの境地、すなわち僕が「ヒト」と呼ぶ境地に到達するだろうと言われたことがあります。しかし、その道にはたくさんの訓練があり、僕が永遠なる光の中に座ることができるためには極端に深い闇の中へ入らなければならないのです。すべてが神であるように、僕は神への新たな勇気と愛を感じました。僕が階段を降りたとき、33という数字を見て、神のみが僕の道に明瞭さをもたらすことができると感じました。その後、「阿吽の世界へ」を読みながら、神はずっとわたしたちと共にあることを感じました。神は秘かにわたしたちをこの道にいざなっています。それはたいへん微細なので、わたしたちは幾度となく神がわたしたちと共にあることを意識さえしないのです。

「阿吽の世界へ」の中にあるいさどんと僕の会話を読み、これは神のすばらしいユーモアであると同時に、神の創造物に対する美徳だと感じました。だから、わたしたちは決して見捨てられることはなく、事実わたしたちは常に自分自身の歩みをたどりなおし、新たな悟りと開かれた心と共にあるのです。真学校での僕の時間を読み返す機会を与えられたことはたいへんすばらしいことです。たった1週間前のことですが、通り過ぎていくことの中に知恵をすでに見出しているように感じています。ギャップは埋まってきています♪

木の花のみんな(もちろんいさどん)にすべての愛を
トオマス

 

 


27日目午前「心豊かに生きる」~後編

前編より ~

「心豊かに生きる」の時間も残すところ30分あまり。さて、みんなは共に階段の間を埋めていくことができるのでしょうか?!

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たえちゃん:
しゅうくんが素の自分を出した最初の段階と後の段階を今考えてみると、後の段階ではしゅうくんは意見を出すたびに「それで大丈夫かな?」とか「いいかな?」とみんなに確認していました。

いさどん:
それは、しゅうくんがみんなに配慮していたということですね。

たえちゃん:
そうです。

みかちゃん:
進化していった。

いさどん:
それはどのように進化していたのですか?

みかちゃん:
最初は相手の気持ちを考えないで独りよがりだった。それが今度は独りよがりだとわかったから、みんなと確認を取っていくようになった。

しゅうくん:
最初の頃は、自分が正しいと思ってみんなに言っていました。

いさどん:
ということは、最初はある意味押し付けるような感じだったということですね。

しゅうくん:
はい。それで自分が学んだ後では、自分が感じたことを情報として出すようにしました。

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いさどん:
それは、ひとつの意見として出していたということですね。

しゅうくん:
そうです。

みかちゃん:
それはすごく違うよね。

いさどん:
大分階段がかかってきましたね♪

みかちゃん:
みんなもそういったしゅうくんの違いは感じていましたか?

やすこちゃん:
真学校の最後のほうでは、しゅうくんはそれほど感情を乗せずに発言しているような印象を受けました。

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いさどん:
そうすると、そこでのしゅうくんの正直な発言は調和につながる発言になりますね。しゅうくんもみんなも、そこに至るのに大分時間がかかりましたね。

さて、この時間がかかったことに対して、もっと早く、極端なことを言えば瞬間にできる方法はないのでしょうか?

エリちゃん:
何かの結論をみんなで出す前に、みんなが自分を表現できたと感じる場を持つことが大切なのかどうか、今考えています。

いさどん:
それは自分たちの気持ちを出す場を先に持つということですか。

エリちゃん:
もし、自分の意志がまわりと違うのであれば、自分の一部を全体の調和に足すために、それを出していくということです。

いさどん:
それは何でも言える場を最初に設けるということですか。

エリちゃん:
何でもかどうかはわかりませんが、もしその場に共鳴しないのであればそれを表現するということです。今、わたしがここで言いたいのはしゅうくん一人がこの場の混乱に責任があるのではなく、少なくともわたしは、いさどんがみんなで場を創っていると話したことを理解しようとしているのです。だからわたしは今、トオマスが話したこととのギャップを埋めようとしています。みんなの心はしゅうくんが出したものをそれぞれ解釈しているので、もしみんなが自分を正直に表現していったら、そこには調和の場がもたらされるかもしれないのです。しかし、しゅうくんだけが自分を表現すれば、まわりの人たちはしゅうくんが押し付けがましいとか、怖いと解釈し、不調和が生まれるのです。だから、ここで質問なのですが、もし誰かがみんなをエーッと驚かせるようなことを出しても、みんなもそこから自分を出していけば、それは調和になるモデルとなるのでしょうか。

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いさどん:
それをわかりやすく解説すると、しゅうくんはここの中のひとりとしてここが良い場であるべきだという善意のもとに、それはあくまでも彼の価値観で素の自分を出したのです。エリちゃんはそれをみんなでやったほうがいいのではと考え、そのことによって正直な場ができて、その結果ここが少し混乱するかもしれないけれど、みんながこの場を良い場にしようとする心が共通していれば、最終的には調和の場になっていくということですね。

エリちゃん:
それがわたしが言いたかったことです!これは小さな仕組みだけではなく、大きな仕組み、たとえば家庭、教室、政府機関といった組織でもそうなのですが、みんながコミュニケーションをとるために話したり、意見が聞かれることを許さない仕組みであれば、わたしたちは調和に到達することはできないのです。なぜならそれは一部の声を聞くだけだからです。

トオマス:
エリちゃんが言ったことを聞いて思ったのは、もし僕が明快に客観的に聞いていなければ、他者の意図を聞くことはできないということです。そこでは自分自身の価値で聞くことになるからです。そうすると僕は、「それは違うよ!合わないよ!」と言うことになってしまうのです。それで他者の話を自己流に判断してしまうのです。それでは僕たちは現実に調和的な仕組みや目的を得ることはできません。だから、僕たちは他者を聞くときには明快で客観的である必要があるのです。そしてそれは自らの価値観を変えることになるかもしれないのです。

いさどん:
それは対象と寄り添うということですよね。さて、階段はどのくらい埋まったでしょうか(笑)?

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一人ひとりにはそれぞれオリジナルな事情があるので、ここで一律の共通認識を持つ必要はないと思います。しかし、明らかに一人ひとりはこの1ヶ月間を経て、変化していることは確かです。ここで何か完璧なものを得て、これからの人生をスタートしていくのではなく、自分の本当に出会い、その位置をスタート地点にして次へ進んでいけばいいのです。

1ヶ月間の学びを通してみなさんにお伝えしたかったことは、広い世界観を持つことによって、自分のキャパを広げ、世界に多様性を観て、いろいろなあり方を認めましょう、ということです。それは外に向かっての取り組みです。逆に内に対しては、自分の真実を知りましょう。それはあなたにとって受け入れがたいことでもあるかもしれません。多くの人は自らの幻想を見ているのです。そして「こういうふうに見られたい」「こういう人でありたい」と思って生きているのです。それが自分に対する囚われた感情です。ですから、感情をオーバーラップしていたら、本当の自分は観えません。そして感情をオーバーラップしていたら、外の世界も常に自分の感情を通して見ることになりますから、本当の世界を観ることはできません。そういったあなたに対して、常にこの世界はあなたの心の状態を忠実に反映した出来事を返してくれるのです。それがこの世界に生きることであると同時に、神様の意志であり、宇宙の法則なのです。

そこで、まず大切なことは、自分にとって印象が良かろうが悪かろうが、真実の自分と向き合う勇気を持つことです。それには努力が要ります。その勇気と努力の上に広い世界観がないと、ありとあらゆる可能性・多様性の中で真実の自分をより分けて、観ることはできません。まず内を観て、本当の自分と向き合い、それを認める。そして外を観て、あなた以外の多様性を認める。その中であなたが生まれてきた意味を存分に発揮するためには、この世界に存在する自分に与えられたピースを見つけるということです。そこにはあなたにしかできない役割があって、自分自身が充実した人生を送りながらこの世界の役割を果たすこともできるのです。

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今日はこの階段を埋めていくという話をしました。途中でトオマスが最終結論の話をしてくれましたが、それはすでに完成された境地の場が用意されていて、この世界に存在しているということです。しかし、今はこの段階にいるのですから、そこにはいきなり到達できないのです。ですから、わたしたちはその過程を踏んでいきながら、そこへ行くための道である階段を一段ずつ登っていかないといけないのです。そこに思惑や感情が入れば、その過程を飛び越えたくもなるのです。そこで、冷静に自らの感情にも他者の感情にも寄り添っていく必要があるのです。

そういった歩みの過程では、遠回りをすることもあります。無駄な時間を使って、エネルギーを無駄にすることもあります。それはなぜかというと、自らの感情がオーバーラップすることにより、本当の自分自身も相手も観ていないからです。

先程のしゅうくんの話に戻ると、ここに集った人たちはこの場を良くしようという善意でここにいました。しかし、多くの人が自分との違いを先に見るのです。それは自我が優先しているからです。つまり、自分の基準が優先しているのです。

日本では、「一を聞いたら十を知る」という言葉があります。カタカムナでいうと、ヒフミヨイムナヤコト(一二三四五六七八九十)のプロセスを経て熟知したヒト(一+十=十)は、人の完成された悟りの姿です。それは一から十までの道とも言えますが、ヒトは一と十であり、その間がありませんね。道がわからないものは一から十まですべてを歩まないといけないとも言えるのですが、ひとたびその仕組みがわかったものは、現れている現象の奥にその本質をすべて観ることができるのです。

そのときに、今の話の中では本質をどこに観ればいいのでしょうか?まず、そこに登場する人たち全員に善意があったのです。そして、善意を最初のベースにおいて物事を観たときに、お互いの善意の違いを理解し合えば、あとはつなげるだけなのです。それが「一を聞いたら十を知る」ということです。実は、途中の学びはヒトが完成されるといらなくなるのです。

それを違う言葉で表現すると、「阿吽(あうん)」です。日本の言葉には48音があり、「あいうえお かきくけこ・・・ん」で終わります。そうすると、「あ」と聞いたら「ん」と答える。それですべてがわかって、そこに調和が生まれるのです。これが宇宙の最終の実相です。そして人間にとって可能な最終到達地点です。わたちたちが目指すべき到達地点はそこなのです。

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ということで、階段の間が抜けていたのを一気に埋めていきましたが(笑)、みなさんにそれぞれの個性があるように、それぞれの心にふさわしくどこかが抜けているのかもしれません。みなさん、ヒトという完成されたものの道があることを理解してください。そして、みなさん一人ひとりにふさわしく、その抜けている道をこれから自分で埋めていき、ぜひ「ヒト」として完成された人生を生きてもらいたいと思います。この仕組みがわかったものは「ヒト」となり、「一を聞いて十を知る」ことになり、そして「阿吽」の世界を生きることになるのです。

では、時間を少し過ぎましたが、これにて1ヶ月間の真学校のすべてのプログラムを終了します。みなさん、ありがとうございました(みんな、拍手)。

いさどんに抱き着くトーマス
いさどんに抱き着くトーマス

――

 
この日の夜の大人会議では、今日のプログラムの時間についてシェアする場が持たれました。その中でトオマスは次のようにみんなにシェアしました。

 
トオマス:
こんばんは!

みんな:
こんばんは!!

トオマス:
今日の講座が終わったとき、僕はトイレの外でひそかにいさどんを待っていました(笑)♪

いさどん:
(拍手!!!!)

トオマス:
というのも、今日僕は「ようこ」になろうとしたのです!

いさどん:
僕がトイレから出たら、トオマスによく似たようこがいてね(笑)、どちらだか区別できませんでした(みんな、爆笑)。

トオマス:
僕は今、もっと繊細であるよう取り組んでいるところです。それでトイレから出てくるいさどんにタオルを差し出したのです♪

いさどんがトイレから出てきたとき、「最後の最後ですべてを料理できましたね」と伝えました。「ヒト」の境地に到達するのは山登りのようです。山の頂上が「ト」です。しかし、いったん「ト」に到達したら、また下に降りてくる必要があるのです。そして、他者と共にまた登っていくことが大切なのです。

この1ヶ月間の真学校は僕たちにとって心と向き合う練習の場であり、それは道場のようなものです。そしてこの世界は僕たちが実践していく場です。そこで僕たちは共に歩んでいくのです。

もし僕たちがこうした学びすべてを1ヶ月間の真学校の初日に知っていたら、それでは真学校は成立しませんでしたね。常にもうひとつの山があるように、常にもうひとつの真学校があるのです。だから、僕はまた次回ここに戻ってくるのを楽しみにしています!

いさどん:
今日の一番のメインイベントは、講座が終わった後に僕がトイレに入ってトイレから出てきたときの出来事です。以前、真学校の受講生には講座の中で話したことがあるのですが、僕はトイレに入るとき中にある手洗いを使わず、いつも流し台のところに行って手を洗います。流し台の前にはタオルがかけてあります。僕が手を洗って、そのタオルを取ろうとすると、すっとそのタオルが自動的に上がってくるのです!だから、僕はタオルを取るためにかがんで足を曲げる努力をしなくても、手をタオルのほうに向けただけで、タオルがちょうど良い高さに上がってくるのです。いつも「あれっ!」と思うと、そこにようこちゃんがいて、パッとタオルを上げてくれるのです。それはなぜかというと、たとえ足を曲げるにしろ、手を少し伸ばすにしろ、そのエネルギーをようこちゃんは僕に使わせないようにしているのです。僕のエネルギーを少しでも僕にしかできない役割に使ってもらうために、ようこちゃんはサポートしていると言うのです。この話はようこちゃんの心構えということで受講生のみんなにも以前話したことがあったのですが、今日トイレから出たら、タオルを胸の前で持ちながら両手で僕に差し出す人がいたのです!それで、「ようこだ!」と思ったのです(笑)。トオマスは流しのところではなく、トイレの入り口の前に立っていたのです。それから僕は流しへ行って手を洗い、トオマスが差し出してくれたタオルを使って手をふきました。そのときに話したのがさきほどトオマスが話してくれた話です。

しゅうくんの話は、彼が感情的だったときから、1ヶ月間の真学校を通して学んでいき、そこで自分のイメージが悪くなって振り返り、みんなに心を配るようになっていきました。しゅうくんは最初も素の自分を出してまわりを混乱させました。みんなも素の自分を出して、場を修正しようとしましたが、できませんでした。しかし結果として今日、最終的にしゅうくんが発言したことにより、みんなにもたらしたものはみんなの調和でした。

実は今日、僕は企んでいました。というのは、この1ヶ月を通してどうしてもここまでは語りたいということが自分の中にはあったのですが、全体の場がそこまで語る段階に至っていなかったのです。だから、実はとうとう語らずに終わりそうだと思っていました。そうしたら、今日の最終プログラムの中でしゅうくんが手を挙げ、自らの振り返りを語り始めました。そのとき、時間は1時間弱しか残っていませんでしたね。そして、みんなの考えを聞いていくうちに、僕はある映像を組み立てるイメージをしながらファシリテートしていました。途中でトオマスが一番上のトを語りました。最終到達地点を語ったのです。それはそのとおりなのですが、その間に階段がいるのです。階段がないのに、一番下の話から一番上までの話はつなげて理解できないからです。そうしたら、僕が誘導していくうちに、たえちゃんがその途中の階段をかけ、よしやんがかけたり、いろいろな人がその間を埋めていった結果、ヒからトまでの階段の十段が少しずつかかっていきました。

そのような中でエリちゃんから「みんなで自由に話せる場をつくったらいいのでは?」という話が出ました。それはそのとおりなのですが、みんなが自由に話せる場はなかなかできないのです。それはある意味仕上がった場所ですからね。それから、みんなが自由に話せる場所であっても、そこに共通した目的がないと、話がたくさん出て、時間がたくさんかかってしまうのです。コミュニケーションの学びの場では人が心を開いて何でも話せる場を創って対話していくことが大切だといわれるのですが、実はそこを超えた世界があることを、1ヶ月かけてみなさんに伝えたかったのです。

今日は講座の最終日だったのでそこまで到達したかったのです。途中では「今日はちょっと無理かな?」と思ったのですが、しゅうくんのシェアから最初の一が語られ、そのあとトオマスから十が語られ、途中が語られていく中で、いろいろな人がその間を埋めていきました。しかし実は、このように時間をかけて埋めていかなくても、たちどころに通じる心のあり方があるのです。

それが日本で言う「一を聞いて十を知る」です。最初、みんなの元にある心は善意でした。みんなが言葉の奥にある善意を互いに感じとれたら、自動的に互いの心がつながり、そこで信頼の場ができあがり、一から十の場ができるのです。そこに集ったということが一ですから、そしてみんなが善意だと確認できれば自動的に十になるのです。カタカムナで十は完成を示すのですから、みんなが善意であることが理解できれば、その場は心が完全にオープンで、駆け引きも何もない場になります。そこではみんなが正直に出していく場ですから、「あなたはどう?」「あなたは二段ね」「あなたは五段ね」「あなたは八段ね」とポンポンとはめていくと、たちどころに一から十が完成するのです。

しかし、今は一人ひとりの意志を聞いて、一段一段をはめる作業がいるのです。そこでは互いの善意が確認し合えていたら、細かい打ち合わせはいらなくなりますね。誰かが「あなたには一をやってもらいたいんだ」と言ったら、あなたは「これは最終的にはここにつながるんだね」と理解し、まわりにいる誰かが「それだったらわたしは二をできるわ」と言うようになっていき、それが「阿吽」の世界につながるのです。人の求める究極の世界は「阿吽」なのです。そうすると、その場では心の調整もいらなくなります。

この1ヶ月間の真学校を通して、そういった世界があるというところにまで僕はみんなをいざないたかったのです。そして今日、それに間に合ったと思ったときに、講座の後にトイレに入ってトイレから出たら、トオマスがようこちゃんをやっていたのです!以前僕がしたようこちゃんの話をトオマスは直観で感じ取り、タオルを僕に差し出していたのです。

トオマスは最初に十を語りましたが、それは正解なのです。それは、みんなが共通して北極星を持つことにつながるからです。しかし、トオマスはいつも北極星を先に語りますが、みんながまだそれを理解していないところで北極星の話をしても、それでは意味がありません。それで、トオマスが僕にタオルを差し出した後に話したのは、登山をして頂上に到達したものはそれだけの価値を知っているのだから、逆にこれから登山するものにその道を示すことができるのです。そうすると、頂上に到達した後、また降りてきて、一から行くものに寄り添っていくと、ヒフミヨイムナヤコトの道を他者にいざなうことができるのです。トオマスもこれからそのように生きていけるといいね、と伝えました。

それで今日は無理かなと思っていた話が、そこで完成したのです!僕がこの1ヶ月間、みなさんに伝えたかったことが最後の最後で語れました。僕はとても満足しています。

トオマス:
しゅうくんと僕が一緒に歩いたら、「ヒト」になりますね♪
※トオマスは、ヒール(かかと)とトゥ(つま先)を交互に「ヒ」「ト」「ヒ」「ト」と動かしました。(みんな、笑)

僕は今、いさどんのようですか(笑)?

いさどん:
(OKとジェスチャー♪)

トオマス:
僕は子どもの頃、取り扱い説明書を読むのが嫌だったので、「僕は何でも知っているよ」と思って、バイクを組み立てるときでも何でも、途中のプロセスを抜かしてきました。

いさどん:
だから、壊してきたのでしょう(笑)。

トオマス:
そのとおりです!それで最終的には自分自身に怒って、最初のステップに戻って適切なる方法でやり直さないといけなかったのです。だから今は、すべてのプロセスが大切なのだと本当に感じています(みんな、大拍手♪)

 

 


27日目午前「心豊かに生きる」~前編

1ヶ月間の真学校、最後の講座となる「心豊かに生きる」というプログラムの中で、受講生ひとりひとりがこの1ヶ月間を振り返る時間が持たれました。その中で、受講生のしゅうくんは以下のようにこの1ヶ月間を振り返りました。

しゅうくん
しゅうくん

しゅうくん:
僕は1ヶ月間の真学校を受ける前はここでヘルパー滞在をしていたのですが、この1ヶ月間はそのときとは違い、常に生活を共にしている仲間との間で自分の癖がたくさん出て、こんなにも僕はまわりをひどい状況にさせるのだと自分の影響力の大きさに気付かされました。こうやって僕は不調和を起こしていくのだと知ることができました。この1ヶ月間、日記で自分のことを振り返りながら、なんとなく自分のことはわかっていましたが、その状態がそもそも囚われていたことにやっと気付いたところです。わかっていたけれど、やってこなかったことが今、わかったところです。
これから自分がどのように生きていくのかをここ数日間考えていたのですが、自分としっかりと向き合っていくのだと感じています。自分の中では気になることがたくさんあって、自分が大きなことで悩んでいるのならまだいいのですが、自分自身が嫌だからとか、そういった狭い世界観の中で僕は悩んでいるのです。だから、そこから離れて世界観を広げていくことを、これから謙虚に素直に取り組んでいきます。僕は今まで本当に傲慢だったと思っています。今は素の自分を出していることで、少し楽になっています。

いさどん:
ひとつ質問があります。これまでは自分の癖をそのまま出してきて、それはある意味、素の自分を出してきたということですよね。

しゅうくん:
はい。

いさどん:
そこは反省しているのですよね。

しゅうくん:
はい。

いさどん:
反省した結果、今話していることは、ある意味これからも素の自分を出していくという結論に至ったのですよね。

しゅうくん:
素の自分を出していく・・・それは、自分自身で素の自分を認めて、それをコントロールしていくということです。

いさどん:
もう一度言いますね。結局、しゅうくんがやってきたことは自分の癖をよく理解せず、癖のままに表現してきて、素の自分を出したことがこんなにも全体に大きな影響を与えているのだと学んだのです。その結果、結論はやはり素の自分を出していくことなのだと言っていましたね。それは矛盾だと言っているのではありません。その最初の素の自分を出したことと、後で気が付いて素の自分を出そうという結論に至ったこととでは、一体何が違うのでしょうか。

問題の元となった素の自分と、学んだ後に素の自分を出すことによって「これで行こう!」と感じている素の自分との違いは、一体何なのでしょうか?

みかちゃん:
それはこの前一緒にご飯を食べていたときに話したよね。癖のままに出す素の自分と、客観目線も入れた上で出す素の自分の違いについて混乱している人が多いから、正直を出すことがいいことなのかどうなのか。正直を出したらそれでいいのか、という話をしたね。

しゅうくん:
そうそう!でも、それをどのように説明したらいいのか・・・。

いさどん:
どちらも同じ素の自分ですからね。これはとても重要なポイントなのですが、今の世の中もある意味みんな、素の自分を出しているのです。その結果、社会は今のような状況に至り、行き詰っているのです。しかし、自分らしく正直に生きることによって、これは解決できると思うのです。ですから、今までの正直に出していたことと、その後の正直の違いをわかる必要があるのです。「このように素の自分を出していけばいいのだ!」と理解できると、次のステージへ力強く進んでいくことができます。さあ、みなさん、考えてください!

よしやん:
そのふたつは同時にいるんじゃないかな?自分の好きな自分と自分の嫌いな自分の両方が混在している。

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いさどん:
混在しているのはわかりますが、自分の好きな自分というのもそれは自分基準になっている場合が多いのです。これはポイントですよ♪自分の心地良い自分を素に表現したときに、それがまわりにとって良いかどうかはわかりません。それこそが独りよがりですからね。

たえちゃん:
客観視点を持って自分を観て、まわりを把握して、自分を出していく。

いさどん:
それは最終目標ですね。自分を入れた大きな枠の中で自分を観て、全体を把握した状態で自分を表現することは最終目標です。今、ここで質問していることは、最初に素の自分を出したときに不調和をもたらしたしゅうくんがいました。その素の自分はある意味問題だったのです。しかし、そういったことも学んだ上で、最終的にしゅうくんはやはり素の自分を出していくことが大切なのだという結論に至ったのです。それは正解だと思います。以前の不調和をもたらした素の自分と「やはり素の自分を出していくべきなのだ!」というポジティブに解釈できる素の自分の違いは、一体何なのでしょうか?

たえちゃん:
最初の素の自分は感情が伴っていて、感情をコントロールしていない素の自分。

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いさどん:
それは全体に何をもたらしましたか?

のぶくん:
しゅうくんの感情の痛みだと思います。

いさどん:
いや、しゅうくんはまわりに何をもたらしましたか?

のぶくん:
まわりに不調和をもたらしたことで、しゅうくんが傷ついて、そこで学んだということではないでしょうか?

いさどん:
それはしゅうくんが学んだのですか?

のぶくん:
そうです。

いさどん:
そうすると、まわりはどうだったのですか?

のぶくん:
まわりも学んで、しゅうくんも学びました。

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いさどん:
ということは、しゅうくんが感情をコントロールしないで出した結果、まわりもしゅうくんも学んだとしたら、それは悪いことではありませんね?しかし、その状態だと学びは学びでも、良くない見本として、つまり教訓としての学びになりますね。その教訓を超えていくときに、やはり素の自分を出さないといけないとしゅうくんは言いましたね?僕もそうだと思うのです。そこで、振り返る前と後とでは何が違うのか?場を乱すような素の自分を出し続けることと、振り返った後の素の自分を出すこととは違いますよね?

しゅうくん:
感覚ではわかるのですが・・・

いさどん:
言葉にならないということですね。

しゅうくん:
はい。

いさどん:
あなたは以前の素の自分を出したときの体験と、その後に「やはり素の自分を出すべきだ」という体験の両方をしたのですよね。その感覚の違いを言葉にしてみたらどうですか?

しゅうくん:
以前はとても苦しかったです!まわりに自分の感情をバーッと出したときにはみんなとの距離をとても感じました。それで自分もどんどん苦しくなっていって、孤独になりたかったし、そうするとまたどんどん自分が辛くなっていくと思って、「これではまずい!」と思って切り替えたのです。

いさどん:
そのときに、まわりを混乱させようと思って、やっていたわけではありませんね?

しゅうくん:
はい。

いさどん:
感情のままに出したとき、何が目的だったのですか?

しゅうくん:
・・・これといった目的はなかったのですが・・・。

いさどん:
ただ言いたいことを言っただけですか?僕はあなたのしていたことを把握していますよ。

たえちゃん:
しゅうくんが感情を出してコントロールしていないときにわたしが感じたことは、「俺はこんなに一生懸命やっているのに、なんでみんなわからないんだ!」というような空気を感じました。

いさどん:
すばらしい!しゅうくんの心はそれですよ♪その背景として、しゅうくんの想いには何があるのですか?

よしやん:
自己嫌悪?

いさどん:
そうですか??

よこなおちゃん:
認めてほしい心。

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いさどん:
そうですか???

たえちゃん:
「俺の言うとおりにしろよ」とか??

いさどん:
そこで、なぜみんなは言うとおりにする必要があるのですか?みんなが言うとおりにした結果から、しゅうくんは何を求めているのですか?

たえちゃん:
自分の成功??

いさどん:
ここでしゅうくんは自分の成功を望んでいますか?当事者であるしゅうくんはどうですか?少なくとも、正解はあなたの中にあるのですよ!これがあなたから出てこないとしたら、自分の感情に対してそれを認識せず、感情のままに出しているということです。しかし、その感情が湧き出てきた元にあなたの意志があるはずなのです。その意志がもう一度何だったのかを確認できるといいですね。

今すぐ出てこないようなので、僕が少し誘導しますが、しゅうくんは最初に力強く想いを出して、素の自分を出した結果、ここを混乱させたと自分で認識しているのですよね?

しゅうくん:
はい。

いさどん:
しかし、混乱させようと思って出しましたか?

のぶくん:
混乱させたいという気持ちもあったと思います。

いさどん:
しゅうくんに混乱させたいという気持ちがありましたか?それは彼の意志ですか?もしかしたら、自分の気持ちを重ねていませんか?

のぶくん:
もちろんそうです。自分視点でしかしゅうくんを捉えられないので、そう言っています。

いさどん:
本当はそこを卒業するといいのですよ。この場所はしゅうくんに寄り添ってみんなで考えることが大切なのです。そこを自分視点でしか捉えられないところに、のぶくんの課題があります。あなたの中には人が同じような共通点を持っていると安心する心があるのです。そこで、あなたの感情はより強く動きます。しかし、今はあなたの感情は抜きにして、しゅうくんの感情について振り返る必要があるのです。

のぶくん:
どうやって振り返るのですか?

いさどん:
そこは本人に聞くということです。自分から見て決め付けるのではなく、本人に聞くのが大切なのです。

のぶくん:
でも、本人でもわかっていない気持ちはありますよね?

いさどん:
それを誘導して紐解いていくのが人のために寄り添うということです。今この時間は、みんなでしゅうくんの気持ちに寄り添おうとしているのです。ですから、そこで自分の感情をオーバーラップさせては、真実は観えてきません。

さて、しゅうくんははじめに強い意志で素の自分を出しました。そうしたら、場が混乱しました。しゅうくんはその混乱を見て、自分が素を出すとまわりを混乱させるのだと気付き、それでは自分に対する印象がよくなかったので自分に対して落ち込んだのです。そのしゅうくんがはじめに自分の意向をよく考えないでそのままストレートに出した心の元は、この場に混乱をもたらそうと思ってやったかどうか?それはどういう心でやったのでしょうか?本当は本人に聞いているのですが、本人がその答えを出せないので、みんなで探っていきましょう。

りょうこちゃん:
みんなとつながりたいから。

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いさどん:
しゅうくんはみんなとつながりたいのですよね?

しゅうくん:
はい。

いさどん:
つながりたい目的は何ですか?

しゅうくん:
より良い世界を創りたい。

いさどん:
そうです!しゅうくんはより良い場を創りたかったのです。しゅうくんはこの場がまとまっていないと彼流に感じたので、この場を良い場所にして、みんなとつながっていきたいと思ったのです。そしてそれを実行したのです。それは悪いことですか?

しゅうくん:
悪くはないです。

いさどん:
しかし、悪い印象しか残っていませんね?

しゅうくん:
はい。まわりから、僕がいらいらしているとか怒っているというフィードバックをもらったので。

いさどん:
しゅうくんが全体に投げかけた意向は、善意ですよね。そのことについてみんながクレームを言ったのは、悪意ですか?

しゅうくん:
悪意ではなかったです。

いさどん:
しゅうくんは全体を良くするために投げかけたのですが、そのことによってこの場が乱れたので、みんなもこの場を良くするために自分の想いを出したのですよね?ここで少し僕がファシリテートしますが、しゅうくんも善意で出した。みんなもそのことによって善意で出した。しかし、当初ここには何が起きたのですか?不調和が起きましたね。みんなは善意で出しているのに、不調和が起きたのです。ということは、ここで何を観るべきなのでしょうか?何を観たら不調和ではない世界が観えてくるのでしょうか?

これはテストを受けているようですね(みんな、笑)。

かずえちゃん:
彼が出した奥の客観背後を観る。

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いさどん:
ハッハッハ。それはまたハイレベルなことを言いましたね(笑)。

かずえちゃん:
その奥にある真意を観たいと今思いました。

いさどん:
そうすると、その奥にあるしゅうくんの真意、みんなの真意を観たら、何が観えてきますか?

たえちゃん:
みんなと調和したい心。

いさどん:
そうです!そこにはみんなと調和したい善意の心しかありませんよね。そこだけを観ていけば、いつでも善意の場ができるのです。しかし、その奥にある善意を観るに至らないと、善意の場にならないし、調和にならないのだと僕は思うのです。

さて、一番重要なところへ来ましたね!しゅうくんが感情的だったことを何気なく振り返ったことから、今わたしたちはとても大切なところへ来ています。少なくとも、しゅうくんが出した不調和は彼の善意から出たこと、さらにその不調和が起きたことに対してみんなはそれを改善しようとして善意から投げかけたのです。しかし、結果としては不調和の場ができました。そこで、みんなの元の心を観たら、すべて善意でした。善意だけだったら、問題はないはずですよね?

よしやん:
その善意を押し付けがましく感じる?善意だけど、悪意の善意?ちゃうなあ(笑)。

いさどん:
えっ!悪意の善意があるのですか??

よしやん:
善意でいても相手がうっとくるということは、善意の押し付け的な感情を感じて、こちらも感情が出てしまう。

いさどん:
それは受ける側の理論ですね。被害的に受けていると、「あなたの善意は悪意が混じっている!」という話になってしまうのです。そうではなく、一番元の心が善意であるということは、善意でしかないのです。しかし、なぜそこで不調和が生まれるのか、考えてみましょう。

トオマス:
僕に思い浮かんだイメージを伝えますね。ここの場のように僕たちが輪になっているとします。それで僕たちはみんな、織物をつくるための糸を1本ずつ持っているとします。僕たちはそれぞれ意図を持っています。しかし、僕たちがその意図を解釈するときには、僕たちはその場に感情をもたらします。そして他の人もみんな互いの意図を解釈し始めます。だから、「これはそういう意図ではなかったから、変えてみよう」ということになるのです。そこで僕たちが自分自身の中でゆるぎないものとなって、確固たる意図を持ったときに初めて、それはその場に反映され始めるのです。だから、僕たちが自分自身の中でゆるぎないものとなると、僕たちは柱になるのです。僕たちは他者にとっての柱にもなれるのです。僕たちが揺れ動くことがなければ、僕たちは状況を変える必要はありません。僕たちは自分たちの意図に対してただ確固たる必要があるだけです。そして、僕たちはありのままの姿で紡がれた調和をその場に観ることができるのです。

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いさどん:
トオマスは最終結論を言ってくれました(笑)!今、トオマスは最終結論の十のところの話をしてくれたのですが、どうもこの場はまだ二か三にいて、これからその先に行くところです(笑)。大分間が抜けていますね。これからそこを埋める必要があります。

たえちゃん:
しゅうくんが感情とともに、善意で素の自分を出したときに、みんながそれをどのように感じるのかをしゅうくんは考えていなかった。

いさどん:
それを解説すると、しゅうくんの最初の素の心はこの場を良くしたいという心で出したのですが、その強い想いはみんなのことを考えないで、しゅうくんの自分の想いだけを出したのです。しかしそこで考えなければいけないことは、彼は善意でこの場のためにやっていたということです。そのときに、善意であっても、この場に不調和の種が蒔かれたということです。

かずえちゃん:
それはまわりへの配慮がなかったということですか?

いさどん:
そうとも言えますし、逆に捉えると、まわりに配慮がなかったということはしゅうくんの姿勢はどうだったということですか?

たえちゃん:
自分よがりだった。

いさどん:
そうですね。

トオマス:
僕のしゅうくんとの体験をシェアすると、僕はしゅうくんの誠実さを感じてきました。僕たちがお誕生日会や修了パーティの練習をしているときや部屋にいるとき、またお風呂にいるときでも、しゅうくんは本当に何かポジティブなことをシェアしたいのだと感じていました。同時に、しゅうくんから不安定さも感じています。だから、しゅうくんは外に気持ちを出しても、それがどのように受け取られるのかわからず、みんながそれをどのように思うのかを知る前に修正してしまうようなところがあるのです。
それから、僕がただ「ありがとう!」と感じているときでも、しゅうくんは僕がそれをポジティブに感じていることを知らなかったこともあります。僕たちは同じ言語を話しませんが、僕は「それはいいね!」と伝えたいだけなのです。たとえばお風呂場での出来事でも、「僕はそれを知らなかったから、教えてくれてありがとう!」と伝えたかっただけなのです。しかし、しゅうくんはそのとき僕に対して感情的だったことを感じました。もしくは、しゅうくんはしゅうくん自身に対して動揺していたのかもしれません。だから、しゅうくんの最初の意図は人の役に立つものであったのに、そのように事は成らなかったということです。しかし、しゅうくんにはポジティブな意図があったことを僕はわかっていたので、僕たちが話し合えば、僕にはしゅうくんの意図していたことがわかるのです。そのようにして、僕たちは一緒にギャップを埋めることができました。

いさどん:
トオマスは大分上から降りてきて、僕たちがわかる言語のレベルになってきましたね(みんな、爆笑)。

トオマス:
はい!今は五まで来ましたか(笑)?

いさどん:
まだ大分間が空いていますから、このプログラムの時間が終わるまでにそれを埋める作業をしたいと思っています。もう一度話を整理すると、しゅうくんはこの場を良くしたいという強い意気込みで、正直な自分を出しました。その元の心は善意です。しかし、まわりの人たちは彼が独りよがりの方針を出したことによって、それを受け取れないがためにここに混乱が起きたのです。それに対してまわりの人たちは、その混乱を修正し全体の場を良くするために、善意でしゅうくんに投げかけたのです。しかし、そのときにまわりの人たちはしゅうくんを問題児として受け取っていたのかもしれませんね。問題児だと感じていたからこそ、しゅうくんも含めてこの場を健全にするために投げかけたのかもしれません。

そして今トオマスが、しゅうくんは誠実な人で、彼は善意のもとにいることをシェアしてくれました。しかし、実際にはここに混乱が起きたのです。だからその混乱を観て、しゅうくんは自分の起こしたこととして振り返って落ち込んでいたのです。それから事がいろいろと成っていった結果、彼はそれを学習し、「やはり素の正直な自分を出すべきだ!」という結論に至ったのです。

全体に混乱をもたらした最初の素の自分も善意であり、後からそれを学び修正して「やはり素の自分を出すべきだ!」というしゅうくんの結論も善意なのです。この違いを埋めていくと、この階段がすべて埋まると思うのですが、いかがでしょうか?

 

後編に続く~

 

 


社会という池に、あなたは何を流しますか

真学校の修了を4日後に控えたこの日、受講生希望者たちは木の花ファミリーメンバーと一緒に、長野県の皆神山へ富士浅間木の花祭りの舞や歌の奉納に出かけ、とても意味深い時間を過ごしました。そして夜の大人ミーティングで、いさどんは以下のように語りました。

皆神山にて、奉納を終えて ー
皆神山にて、奉納を終えたファミリーメンバーと受講生たち

 
いさどん:
僕の心にある絵が浮かんできました。

そこに池があります。
その池が汚れているかいないかは、その周りで生活している人の姿勢の現れなのです。自分の生活の仕方を振り返らない人々は、池が汚れていることの原因に気が付きません。

池の水は自分たちの命であり健康や幸せの元です。しかし自らの姿勢を見ないものにとっては、その池が汚れているのは、「世の中のせい、他者のせい」なのです。しかし池をきれいに保つためには、誰の心にも共通する姿勢がないとなりません。

「私たちは、その命の池をきれいにして、みんなで美しく保ち、そして健康に生きていきましょう。」

この池というのは、私たちの創っているこの社会のことです。
その社会に向けて自分がどんな響きや心を流しているのか。
その結果、今の社会というものをつくっているのです。
誰もが自分は健康でありたいと思い、池の水を飲むときに、健康な水をいただきたいものです。

しかし、その社会の池を作っているのは、あなたなのです。
そこで「あなたはきれいな水をいただいて健康に生きていくということをしたくありませんか」と言ったら、誰もが「そうしたい」というのです。そのためには、あなたが流す心の水をきれいにしないと、社会の水・池はきれいにならないのです。簡単なことですね。

それをするにはどうしたらいいのでしょうか。それは、心の目を開けて自らを観ることです。
自らが美しくなっていけば、同時に自らを取り囲む社会もきれいになってゆくのです。
そんな明快で当たり前の道を、今の時代を生きる人々は忘れているのです。
そんな当たり前のことですが、それをただひたすら真面目にまじめにやっていけばそれが世の中を美しくすることになり、それがこれからの見本となるのです。簡単なことでしょう。

それなのに、きれいになることを「損をする」ことのように思い、素直に受け取らず、ゆがんだ心で社会の池を汚して生きている人たちがいるのです。

あなたはあなた自身をどうしたいのか、生活の糧としてある大切な社会の池をどうしたいのか、そこに暮らす一人一人が自らに問うべきだと思うのです。

そんな映像が今浮かんできたのですが、これはとても明快な話なのです。しかし、世の中にはこのことを明快に理解して生きる人が、まだまだ少ないのです。せめて私たちは、この場をそういった明快な人たちの生活の場としての見本にしたいものです。

真学校に参加された皆さんも、自らがこのプログラムに参加する前にはどのような心だったのか、そして今どんな心をしているのか。
これから真学校が終わって次のステージに旅立っていくときに、どのような心で旅立ちたいのか、自らの価値としてあなたはどんな自分でありたいのか、正直に自らの心に向き合い、そして、真学校の終了を迎えてもらいたいと思います。

 

皆神山からの帰り道、富士山の前にて
皆神山からの帰り道、富士山の前にて

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お祈りの時に、何を思っているのですか?

木の花ファミリーでは、いつも食事の前にお祈りの時間を持っています。大人ミーティングの場で、受講生のかずえちゃんが、このお祈りの時にみんなはどんなことを思っているのですかと質問をしました。そこでファミリーの「祈りの言葉」が紹介され、いさどんがその意味を語りました。

 

 祈りの言葉 —    

あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

あなたはわたしなのですから
わたしはあなたなのですから

あなたの御心に全ての人々が目覚め
平和で安穏なる幸せな世が訪れんことを願って
努めて参ります

無限なるあなたに無限なる感謝を
永遠なるあなたに永遠なる感謝を

アーメン、合掌

 

いさどん:
一般的に「祈り」というのは、人間が自らの願いを叶えたいために、神仏に対して願掛けの心で想いを向けることだと解釈されるでしょう。もしくは対象なしで、ただ自らの中に巡る願望を成就しようと願うのが一般的な祈りの現状です。

それに対して、本来の祈りは想いを巡らせ、その想いの奥にある宇宙創造の物理エネルギーによってこの世界を創造すること。宇宙創造の物理性(波動)が世界を創っているのです。宇宙(生命)は循環し巡り巡って、変化・変容・変態を繰り返し、進化し続けるものなのです。それはわたしたち地球生命のあり方と同じです。それは宇宙自体が生命だからです。

生命というのは、「生きる命」と書くでしょう。「命」とは「みこと」、それは現象世界に顕れた神のことだから、生命とは生きる神ということなのです。この世界は、大本の神様の存在する陰(潜象世界)のひずみが、陽(現象世界)へ生み出されて動き出しました。それがこの世界の生命の成り立ちで、その成り立ちとなる物理性を理解した者が奏上することで、本来の祈りの意味を成し、その目的を達成することになります。たとえばカタカムナを奏上するのは、本来の祈りです。ですから、本来の祈りの姿勢としては、まず自らの意識を高め、思考を無にしてその場に臨むことが望ましいのです。

その結果として、祈る者の心が美しく磨かれていきます。その人の内なる鏡がきれいになった時に、外にある宇宙創造の仕組みが内なる鏡に映り、内なる想いと宇宙創造の想いとが共鳴し矛盾がなくなっていく。そして、その美しい想いがこの世界に実現されていく。それが祈るということなのです。

美しくなった者は、この世界、つまり神の物理性を内なる鏡に映し出し、そしてそのまま生きていくと、今度はその神の物理性が内から外に発せられて、この世界が美しくなっていく。つまり、自分の内なる鏡に映るということは、外と内が合わせ鏡になっていて共に共鳴し響き合うということなのです。

 
祈りの言葉を解説すると −−−−

 
あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

「あなた」というのは、自らを取り囲むこの世界の物理性(神)のことです。それは大宇宙の法でもあり、エネルギーと解釈してもいいし、法則と解釈してもいいし、神と解釈してもいいのです。わたしたちの外にあって全てに遍満し、宇宙全てに響き渡り、この世界を運営しているそのものなのです。その仕組みのままに「わたしはあります」ということです。この宇宙創造の仕組みのままに、神様のままにわたしはある(有・あってあるもの)、ということを宣言しています。

それと同時に、「ない(無・なきてなきもの)」ということも宣言しています。つまり、宇宙創造のままにわたしはある、ということは、宇宙創造のそのままの姿がわたしの内なる鏡に映っていて、その中にわたし自身という我はありません、ということです。つまり「あります」ということは、あなたのままにあって、わたしはありません、ということを言っているのです。ですからここでは、宇宙の本質である「あってあるもの、なきてなきもの」を表現しています。

一つのことを三回唱えるのは、「ミ」ということで、満ち満ちていることを表しています。つまり、絶対で揺るぎがありませんということです。あなたの御心のままに、宇宙創造の響きのままに、神様のままに、わたしは写し鏡としてそのままの姿であります。だからこそ、わたし自身のエゴや我というものは一切ありません。そしてそれは、わたしの中に満ち満ちて絶対です。それを三回唱え、揺るぎない意志を表しています。

三回唱えることを三度繰り返すということは、絶対の絶対の絶対の意志を表しています。「絶対」を三回繰り返して、くどく言っているのです。「ク」は「九」だから、「九」の絶対の境地に到達すれば、その次にカミ(命・食)をいただき、強い意志を持って「十(統合)」につながるのです。

 
あなたはわたしなのですから
わたしはあなたなのですから

「あなた」という宇宙創造のエネルギー(あなた=神)はわたしなのですから。わたしは宇宙であり、あなたなのですから、区別することはできません。なぜなら、わたし(自我)はない(無)のですから。それが、あなたはわたしなのですから、わたしはあなたなのですから、ということです。

 
あなたの御心に全ての人々が目覚め
平和で安穏なる幸せな世が訪れんことを願って
努めて参ります

「あなたの御心」、つまり宇宙創造のエネルギーに、全ての人間が目覚める。目覚めて、あなたの世界と人間が創る世界が一体となる。「平和で、安穏なる幸せな世」というのは、地上天国、ユートピアのことです。そして神人和合の世界のことを示しているのです。

そしてわたしは、平和で幸せな世(みろくの世)が訪れんことを願って、生きるということをいたします。努めて参ります。つまり、努力します。それがわたしの意志です。世の為人の為に生きます、という決意と行動(知意行一体)のことです。

 
無限なるあなたに無限なる感謝を
永遠なるあなたに永遠なる感謝を

アーメン、合掌

「無限なるあなた」とは、無限なる宇宙(神)。「永遠なるあなた」とは、永遠なる宇宙(神)。
「感謝」というのは、その目覚めに到達した自らの喜び、ありがとうございますということです。
最後の「アーメン、合掌」は、宗教などの特定した思想信条を問わないことを示しています。

無限なる感謝、無限なるありがとうございます。永遠なる感謝、永遠なるありがとうございます。有難いことに気づいたならば、有難い宇宙の神秘が世界に紐解かれ、有難いが現れる(有ることが難しい宇宙の神秘が現れて御座います)。有難宇御在益(ありがとうございます。)

そして、アーメン、合掌。人の歩むべき道は一つ、心は一つということ。

宇宙創造の物理性がこの世界を創り、人々がそのことに気付いて美しきものとなり、それをこの世界に表現するものとなっていく。その結果人々の境がなくなり、そして、天と地の境もなくなり一つとなって、地上に理想郷を創っていく。それが祈りの言葉に込められた意志なのです。

 

 


受講生といさどんとの対話・エリちゃんのメッセージ編

受講生のエリちゃんは、カタカムナ講座を受けた日の日記にこう書いていました。

――

今日は本当に書くことがたくさんあります。今日講座の中で伝えられたことすべてに共鳴し、深く同感します。私の魂が今日の講座はとても重要なものだとわたしに伝えるのです。

ここ数年における私のビジョンだけではなく、夜に見るいくつもの夢が、いさどんによって今日ここにつながりました。わたしは今ここでわたしの運命を生きていますし、カタカムナはそのことに大いに関係しています。

今までたくさんのメッセージがわたしのもとに来て、わたしはそれをどうしたらいいのかわからなかったので、書き留めてきたのですが、それをシェアする場所がありません。わたしは特にいさどんやようこにシェアできることを知っています。あなたたちの波動はとても銀河系的なので、特にふたりの近くにいるとありがたいのです。

――

そこで、ようこ通訳のもと、エリちゃんがいさどんと話す場が持たれました。まず、いさどんは次のように語り始めました。

「創造性と芸術」の講座で“COMPOST YOUR EGO!(エゴを堆肥にしよう!)”という絵を描いたエリちゃん
「創造性と芸術」の講座で“COMPOST YOUR EGO!(エゴを堆肥にしよう!)”という絵を描いたエリちゃん。すると土が「おいしいおいしい!」と言って食べてくれるのだそうです。

 
いさどん:
わたしはなぜ今日この時間を持とうと思ったのか、よくわかりませんでした。ある意味、これは天の意向ですからね。わたしは意味がわからずに、何かの行動を取ることがあるのです。それは、人生を自分のものだと捉えていないからです。

あなたに聞きたいことがあります。本来、人間は霊的な存在です。ですから、自らの本質に目覚めると、今の人間たちのように物質的なことに追われて生きるようなことはおかしいと思うようになるのです。ただ、人間たちがこのような進化を経験するために、今のような時代を迎え、それが今、収束を迎えています。あなたはアメリカという極めてその象徴的な国に生まれ、象徴的な国の出来事として迫害された人種の血も引いているので、今の時代を余計に不自然に感じられるのです。そしてそれは、新しい時代を切り開いていくために重要な霊性だと思うのです。

天の命によって始まった木の花ファミリーには、時代を動かす宇宙的な意志がたくさん直結しています。最初、わたしはそのことがよくわからなかったのですが、だんだんその重要性を理解するようになり、今はそのことだけを一番の目的としてここで活動しています。霊的な差はありますが、ここにいるメンバーはどの人も新しい時代を切り開くモデルになることを自覚してここにいるのです。そこに差があるのは、皆で力を合わせ調和していくという意味では、差がある場所でこそそれが実現されるべきだからだと思うのです。

特にこの2016年は、ここにとっては新しいメッセージを世界に向けて発信する年でもあるのです。これは、地球規模のことですから、宇宙的な話なのです。わたしたちにとっては、地上的な生き方をするよりも、時代を意識して生きることのほうが重要なのです。そういったことも踏まえて、あなたがわたしにシェアしたいと日記に書いていたメッセージについてやいろいろな想いを聞かせてもらえればと思います。

エリちゃん:
わたしが日本に来てからたくさんのメッセージがわたしの元にやってきました。あなたがそれをどのように感じるのかを聞いてみたいと思います。なぜなら、今あなたが話したこととそれらのメッセージは似ていると感じるからです。ここ1年半の間、わたしの体は「腹(ハラ)でわたしの声を聞きなさい。腹にあなたの意識を収めなさい」と伝えてきました。

数ヶ月前、地球の中心がわたしに話しかけてきて、「あなたの意識を地球の中心につなげなさい」と伝えてきました。その地球の中心というのは、わたしの腹とつながっている感覚があるのです。それはへその緒でお母さんと胎児がつながっているような感覚です。

いさどん:
それは正しい捉え方ですね。

エリちゃん:
そうですね。そして、わたしの意識を地球の中心につなげたとたんに、わたしはとても安心したのです!それから、地球の中心はわたしの意識が宇宙につながるように伝えてきました。その宇宙とは父なる宇宙です。地球の中心は、ただ楽しむためにつながりなさいと伝えてきました。それは恋人同士の関係のように、宇宙の愛を表現するたくさんの方法のひとつなのです。それは、人間の目的であり、運命でもあるのです。人間の心が開かれていくと、宇宙との交わりが可能になるのです。

日本に来るのは今回2度目なのですが、日本に来てから地球の中心がわたしに向かって「一緒に時間を過ごしましょう」と誘ってきました。それはとても簡単でシンプルなことです。お母さんが子どもに「一緒にいましょう」と言うように、ただ一緒にいましょうというメッセージでした。

わたしは1ヶ月間の真学校を受ける前に東京にいたのですが、そのとき地球はわたしに「もし、もっと多くの人間が地球と一緒に時間を過ごすとしたら、地震などの地球の変化を人間たちに知らせることでしょう」と伝えてきました。このメッセージはわたしにとって大切なものでした。ですから、いさどんに伝えたいと思いました。しかし、こういったメッセージを、たとえば地震を防ぐために使おうとは思っていません。

次に、わたしが愛知県の伊良湖にいたときにやってきたメッセージについてお話しします。

いさどん:
わたしは伊良湖のことはよく知っていますよ。伊良湖の近くに名古屋がありますね。わたしは富士山麓に移住してくる前に名古屋に長い間住んでいました。

エリちゃん:
まあ、知らなかったわ!そもそも、今回わたしが日本にいるのも、地球からここに来なさいと呼ばれて来たようなものなのです。それで日本に来てからたくさんのメッセージがわたしのもとに降りてきて、その意味が今わかり始めてきたのです。伊良湖では、ある山がわたしに向かって、「あなたの目的は地球の声をいろいろな場所で聞き続けることです」と伝えてきました。そしてそれは祝福を意味しており、常に地球と共にあり、意識を向けていなさいというメッセージだったのです。

その後、山がわたしに伝えてきたこととして、これはシェアすることが少し恥ずかしいのですが(笑)、なぜなら性に関することだからです。ただ、いさどんはこのようなメッセージを知りたいと思っている人を知っているかもしれないので、お伝えしますね!

いさどん:
ハッハッハ。性に関することについては、1ヶ月間の真学校の中で講座がありますからね。

エリちゃん:
ハッハッハ。そのとおりですね!

いさどん:
たとえば、先程あなたは宇宙と交わるという話をしましたね。

エリちゃん:
はい、しました!

いさどん:
宇宙の成り立ちは人の交わりと同じです。ただ、人々は人の交わりが宇宙の成り立ちと同じであることを知らないだけなのです。本来、人の交わりはとても神聖なものなのです。そして、人間の意識を高めてくれるものでもあるのです。そこまでのことを外の人々に伝えるのは、今回の講座が初めてです。

エリちゃん:
その講座を受けることはとても楽しみだわ!実は、伊良湖の山からは、とても特定したメッセージももらっているのです。そのメッセージはこの性に関する講座を受けると、より深く解釈することができると思っています。そのメッセージとは、わたしが4つの異なる大陸の4つの異なるコミュニティで4人の異なる男性とそれぞれ4人の子どもをもうけ、季節毎に1人の子どもと過ごすというものです。それは地球の自転とともに生きるという意味でもあります。

いさどん:
子どもをもうけるときに重要なのは、当事者である男女の意識がこの宇宙の法のどのレベルにアクセスしているのか、ということです。たとえば低い意識のものが子どもをもうけるとしたら、宇宙の法の低い意識にアクセスしていることになります。その低い意識でもうけた子どもと高い意識でもうけた子どもとでは意識の質が違うのです。今までの時代は、賢くても意識の低い子どもたちがたくさん生まれていました。そのような人たちが世の中を支配してきたので、企みの中で優秀さが優先される社会をつくってきたのです。しかし、意識が高く、かつ優れたものが子どもをもうければ、意識の高い子どもが生まれてきて、調和的で豊かな世界が自ずと現れてくるのです。

あなたが受けたメッセージは、今までの人間の価値観からすると常識から外れたことのように捉えられるため、あなたは少し恥ずかしそうに話していましたね。しかし、これは新しい時代にとってとても重要なことだと受け取りました。あなたは簡単に4つの大陸といいましたが、それは国境を越えるということで民族や人種の垣根を超えることを意味するのです。これからの時代はそのような魂が生まれてくる必要がありますし、実際にそこでいのちを育む物理的な現象としては人間の男女の交わりかもしれませんが、その精神はもっと意識の高い存在である、たとえば宇宙と地球、大陸同士という意識が交わっているようなものなのでしょう。

本来、わたしたちは宇宙や地球の自然ネットワークの中で生かされているはずなのに、人間たちの日常の意識はそういったことを忘れてしまっています。それどころか、いのちの仕組みすら忘れ、近代の人間たちの活動はいのちの仕組みをどんどん破壊していくようなことさえしているのです。ですから今、この矛盾した世界があるのです。そのことに対する答えとして、矛盾や痛みが今この世界に現れているのです。それを正しく捉えれば、その反対のところに解決策があることは明快です。

ですから、あなたのような人は、今までの社会的価値観で言えば、変な人だったのです。その極めつけがいさどんです(笑)♪

エリちゃん:
ハッハッハ!そのとおりですね!だから、わたしはあなたに何でも話せるのです!

いさどん:
今ここへ来て、わたしはこの生き方に確信を持っています。それは、新たな時代を迎えるにあたって、非常に重要な役割をしているということです。ところが社会を見渡せば、社会の中には様々な矛盾が発生し、問題が起きているにも関わらず、ほとんどの人々が今時代のターニングポイントを迎えていることに気付いていません。だからこそ、人々の中にその気付きの兆しがなくとも、この生き方を続けていくことが重要であり、極めて狭い道を奇跡のように探しあてた、あなたとのような出会いが来るのです。

エリちゃん:
ありがとうございます!

いさどん:
この生き方の大切さを思えば思うほど、そして世の中に矛盾を感じれば感じるほど、確信はますます強くなっていくのです。

そういった中で、性に関する話はこれまで世の中に出せませんでした。それは人々の物事の捉え方が逆転していたからなのですが、特に性に関することについてはその本質から全くかけ離れた解釈がされていたからです。ですから、それがいかに神聖なものであるのかを理解した上で、行うことが大切です。神聖なものとしての性の行為は、全人類のみならず地球や宇宙、それから時代の進化を請け負う行為でもあるのです。性を通してこの世界はいのちを紡ぎ、時代を紡いでいるのですから。新たな時代を迎える今、性を汚れたものや秘め事として解釈するマインドコントロールから、人々は解放されなければいけないのです。

ですから、あなたが山から受けたメッセージについても、あなたがメッセージの意味を理解するためにここに来たとも感じています。なぜなら、カタカムナは男女の交わりの真の意味を解き明かしているのです。そして、ちょうどわたしたちも今、その中で最も重要なところを解き明かしている段階にいるのです。

今回、性の講座の中でそういった智慧をみなさんに伝えることができます。ただ、これは極めて秘伝なのですから、人の意識が高くなければ、その優れた智慧を興味本位に受け取り正しく活かすことができません。今まで人類はそのような間違いをたくさん犯してきました。ですから、そういった高い意識の状態になったものでなければ、正しく宇宙の法を降ろすための交わりにはならず、宇宙や地球、大陸の代理としての行為にはならないのです。つまり、性に伴う行為はシャーマニズムと同じことなのです。宇宙意識を降ろすための受け皿としての人をつくることが先にあり、それが最も大切なことなのです。

そういったことは講座の中で情報として伝えますが、本来はその経験を持って、高い意識レベルに到達するための積み重ねが必要です。これはとてもハイレベルで重要なことなのですが、同時に危険なものでもあるのです。ある意味、性は今の人類を没落させた原因でもあります。人類は20世紀までの1000年間の霊的な没落の時代を経て、これから2000年から3000年に向かって、霊的な花が咲く時代に移行しているのです。

今、時代は大いなるターニングポイントを迎え、新たなサイクルに入ったのですから、わたしたちもそういったことを伝える準備を始めていますし、だからこそ、そういった智慧を求めてくるあなたのような人がその証として、ここに訪れるのです。

地上的解釈に囚われ、宇宙を生きていることを認識できないような人々にとっては、ここで提供される情報は一体何のことを言っているのか、想像もつかないような話なのです。しかし、わたしたちが生きているということは、明らかに宇宙的・霊的な無限なる連鎖の中に存在しているのです。ですから、人類は目覚めれば、極めて非合理的なこれまでの生き方をたちどころに変容させることができます。そのためには、わたしたち一人ひとりの意識改革がこれから必要とされています。21世紀は一人ひとりの目覚めの世紀なのです。

あなたが少し恥ずかしそうに冗談っぽく言っている話を、もっと堂々と語り、そして明快にその意味を知るべきだと思うのです。

エリちゃん:
そのとおりですね。わたしが完全にオープンであるときには、わたしは自分自身の運命について知っています。

いさどん:
そうですね。だから相手次第であなたは完全にオープンになれるということですね。わたしは30年以上前にこの道を歩み始めたときには、どこを歩いていて、なぜこの道を歩んでいるのか、全くわかりませんでした。しかし、わからない自分に対して、わかることが大事なのではなく、このわからない道を歩んでいくことが大事だと言い聞かせてきました。今は、道がはっきりと観え、明快に歩んでいます。

エリちゃん:
わたしにもそれが必要ですね!

いさどん:
少しずつそうなっていけるといいですね。いずれにしても、意識がどこにあるかによって、出来事は全く別のものに解釈できるのです。ですから、心の位置が変われば、景色は変わって観えてくるものです。時代は完全に価値観を逆転するときを迎えています。時代が切り替え時を迎えているときには、今までの価値観が過去のものとなり、新たな常識が生まれてくるのです。ですから、今までの時代であれば語れなかったことも、これからは堂々と確信を持って示し、それが社会に通用する時が来ているのです。わたしたちの出会いは、今日のこの時間も、宇宙の流れや天の意志であるように明快です。これからもきっとわたしたちは時代の先端の立場を担っていくものとして、連携していくことでしょう。

エリちゃん:
わたしもそう思います!

いさどん:
わたしたちは今地球上にいるので違う言語を話しますが、宇宙意識になれば言語はひとつしかないのです。わたしたちが違う言語を話しても、通訳を通して心が通じ合えるように、わたしたちの奥にある意志を共通にすれば、その目的はひとつなのです。これから人々の意識が上がれば、言語に多くを頼らなくても心が通じるようになるでしょう。

宇宙意識に連動して地球上の役割を果たすものは、意識が高く、これからの時代には重要な存在です。時代が変わろうとしているときには、天は地上にいるものたちに連携を図ることを求めるのです。そして、地上のものもそれを受けて天に意識を向けるのです。それは、地上的な快楽に浸っているものの意識とは全く価値観が異なるものです。その大いなるものにつながる意識のレベルでは、時代を運営するために自らの存在があるのです。そういった広く高い意識を持つためには、地上的エゴや欲望に翻弄されていてはいけません。やはりそこでは自らをしっかりと観て、その役割にふさわしく精神性を磨く必要があるのです。

ですから、宇宙や地球、山と通じると感じるものは、普通の人たちと同じレベルで心が一喜一憂しているようなことではいけないのです。さて、あなたにその自覚を持てるかどうかが問われているのです。

エリちゃん:
はい、その自覚を持てます!これから精神性を高めていくよう努めていきます。今日はどうもありがとうございました!

いさどん:
また時間を持ちましょう。

――

 
面談後のエリちゃんの日記には、「いさどん、ようこ、そして飛躍的に精神性を進歩させるこのような場を創り維持するみなさんのネットワークすべてに感謝します。わたしは進歩し続けることに全力を注ぎます。何という旅でしょう!共に楽しむためのこの宇宙船を見つけたことを嬉しく思います。永遠なる感謝を」と書いてありました。

確実に一人ひとりの心に変化が現れ始めている1ヶ月間の真学校。エリちゃんのみならず、受講生全体から新たな息吹が感じられる今日この頃です。

同じく受講生のたえちゃんとエリちゃん。1ヶ月間の真学校もいよいよ折り返し地点です!
同じく受講生のたえちゃんとエリちゃん。1ヶ月間の真学校もいよいよ折り返し地点です!

 

 

 


「2週間の心の変化」

今日は、地球暦で金星と海王星の結びが共通しているキタジュン&みどりーぬの最近の日記を紹介します。

 《2月25日・キタジュンの日記》

今日のフリープログラムでは残り3人の地球暦の詳しい説明が進んでいき、時間がなくなるのではと気にしていました。その後すぐ、いさどんから形式にとらわれず、地球暦をみんなが明確に理解できるよう話が脱線してでも進めていくと聞き、それは納得しました。ただ、わたる君の解説の時、後半ほとんどみどりーぬさんの質問ばかりで、もう少し周囲に配慮してほしいなと思いました。僕はつい全体のバランスを考えてしまうので、一人に偏るのはおかしいんじゃないかと感じました。

昼食の時、みどりーぬさんをつかまえて、僕が感じたことをそのまま伝えました。みどりーぬさんには「それはキタジュンの基準で考えているだけでしょ。私は私の基準でアドバイスするし、キタジュンも自分の意見を抱え込まずもっと出してほしい」と言われました。そして、みどりーぬさんがどれほど強い思いでこの真学校にかけているかを話してくれました。だから、みどりーぬさんは真剣に講義を聞いて、分からないことはとことん質問するようにしていることが分かりました。直接話してみて良かったです。勝手に誤解せずに済みました。また、みどりーぬさんの考え方や行動力は僕にはないもので、話を聞いてみてとても勉強になりました。前からみどりーぬさんは僕と対照的な人だと感じていて、普通の生活を送っていたら、まず関わりを持たないタイプの人です。自分と全く違うタイプの人と関わることで、自分の価値観が広がることを感じました。

キタジュン
キタジュン

~いさどんからのコメント~

良い出会いです。そして、その出会いを生かしています。

また、みどりーぬさんが別れ際に、眼の調子のことを尋ねてくれて、「何か見たくないものがあったんだろうね」と言ってくれました。自分にとって見たくないもの。ああ、そうだったんだ。僕は「努力しても報われない現実」、そして「人と比べて価値を感じられない自分」を見たくなかったことに気付きました。目の前の現実と自分を見たくなかったから、今日まで眼を傷つけてしまったんだ。考えてみれば、僕は鏡を見るたびに濁っている眼を見て、「どうして全然治らないんだ。どうしてなんだ」といつも怒りの気持ちを眼にぶつけてきました。そして、疲れや痛みといった眼からのサインをすべて無視して、無理矢理使い続けてきました。

ここまで気付いて、僕はようやく自分で傷つけ続けた眼に対して深く謝りました。「今までずっと傷つけてごめん。これからは一番大切にします。」そして、怒りの気持ちではなく、優しい気持ちを眼に向けていきたいと思いました。今まで怒りや失望に満ちていた眼だったので、もっと笑いや喜びに満ちた眼に変えていきます。

~いさどんからのコメント~

素晴らしい振り返りです。

《2月25日・みどりーぬの日記》

今日、キタジュンから「みどりーぬさん、一緒にお昼を食べて下さい」と誘われた。このタイミングで彼としっかりコアなシェアができてよかった。やっぱり私はマンツーマンで話すのが好き。私がどのような過去を体験し、今の私になったのかも理解してもらえたと思う。キタジュンは自分の感情を溜め込み、外に出せない。出したくても我慢してしまう。人とつながるのが大の苦手。その事についても二人で深く掘り下げる作業をしてみた。目が痛くなる原因となる想念にもたどりついた。そこに向き合い消化できれば、胸の苦しさ、目の痛みも改善に向かっていくだろう。彼が勇気を振り絞って声をかけてくれたことがとても嬉しかった。彼からつながりたいという意思表示をしてくれたことが嬉しかった。

朝のシェア会で、よこなおちゃんから「今までやったことのないことをしてみたいので、協力してほしい」という嬉しいシェアがあった。全力で彼女が楽しみながらチャレンジできるよう協力しよう。小さな成功を積み重ね、少しずつで良いので自信をつけ、今までと違う世界を楽しめたら良いなあと思った。ジャガ芋定植中、となりにいたよこなおちゃんが「なぜか分からないけど、みどりーぬと話していると涙が出てくる」と話してくれた。新たなる行動によって、今まで見たことがない「新世界」への扉を開く覚悟をした祝いの涙なんだろうなあと思った。表情にも力強さが出てきている。あとは進むのみ。

今日はキタジュン&よこなおちゃんからエネルギーをいただきました。ごちそうさまでした。

みどりーぬ
みどりーぬ

~いさどんからのコメント~

人の為になる生き方(愛の表現)ができています。

《2月28日・キタジュンの日記》

 この2週間を振り返ってみると、過去のことを日記に書いたり、大人ミーティングでシェアする度に、自分の心と体が軽くなっていく実感があります。具体的な効果を挙げてみます。

 相互理解が深まった

僕が人間関係で悩んだこと、いじめや暴力を受けたこと、ストレスから体調を崩したことなどを話すと、「実は自分も同じ経験をしたことがあるんだ」と打ち明けてくれる人が何人かいて、お互いの心の距離が縮まったと感じます。中には、自分と全く共通点がないと思っていた人でもそういう人がいて、話してみないと分からないものだと思いました。

~いさどんからのコメント~

良い出会いでしたね。

 体調(眼の痛み・冷え・腹痛)が改善しました。

~いさどんからのコメント~

それは何よりです。

真学校が始まる前は、眼の痛みはもちろん、体の冷えや腹痛があり、睡眠不足と食欲不振が続いていました。でも、日が経つにつれ冷えが改善され、湯たんぽなしでも手足が温かくなり、熟睡できるようになりました。熟睡できるようになると、多少寝るのが遅くても眼の回復が早くなり、疲れや痛みがずいぶん軽くなりました。食欲も最近になって出ているので、良い循環が続いています。今までどれだけのマイナス感情を心の中に溜め込んでいたのかと思うとゾッとします。

  •  周囲への配慮ができるようになった

1週目は自分のことばかりを振り返って、他の人のことを考える余裕がありませんでしたが、2週目は自分のことも理解が進んだので、他の人の意見もよく聞いてコメントを返す余裕が出てきました。他の人のことを理解しようとすれば、同時に自分への理解もさらに深まり、相乗効果が生まれると思います。

  • ギターの上達が早くなった

真学校期間中はせいぜい1日30分~60分くらいしかギターを弾けていませんが、学生の頃よりも上達が早くなったと思います。理由は2つあって、1つはたくさんの人に聞いてもらえるため、常に高いモチベーションがあることです。2つ目は、冷えが改善されたおかげで、指が柔らかくなめらかに動くようになったからだと思います。

残り2週間ですが、自分の壁をさらに乗り越えていくために、「自分壊し」に挑戦し、今まで以上にみんなと関わって成長していきたいと思います。

~いさどんからのコメント~

とても良い振り返りです。こちらもワクワクして幸せを感じます。

追伸:真学校が終了したら、体験集を書いてくれませんか。よろしく!

みんなの成長を喜ぶいさどん
みんなの成長を喜ぶいさどん

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受講生一人一人の心の変化がまわりに連鎖し、喜びや幸せの輪がどんどん広がっていく今日この頃です。さあ、1ヶ月間の真学校も後半戦に入り、これからどのような心の化学反応が起きていくのでしょうか♪


第11日目:己読みに於いて

今日の午前中のフリープログラムでは、昨日に引き続き受講生の地球暦をいさどんが紐解いていきました。プログラムの冒頭で、いさどんは次のように語りました。

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今まで僕は沢山の人たちのカルマや地球暦を観てきましたが、人はとかくそれを自らにとって都合の良いように思いたいものです。しかし、事実は他者からの目です。さらに事実は、生きてきた人生そのものです。そこを紐解くためには、自らの主観から来る思惑で見ていては絶対に観えてきません。ですから、カルマ読みや地球暦の己読みは、自らの主観を手放し、客観と主観を折り合わせながら観ていくことが大切です。そのためにはとても優れたツールです。ただし、こういったものを本当に活かすためには、自らを正しく観る覚悟がいるのです。

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よしてるくんの地球暦を観ると、よしてるくんは直観人間でありながら、それと同時に思考も沢山まわすタイプだということが分析できます。そんなよしてるくんの地球暦を見ながら、あわちゃんはいさどんに、「地球暦では直観の惑星である水星が大事だと以前いさどんが言っていたと思うのですが、それについてもう少し詳しく教えて下さい」と質問しました。それに対し、いさどんは次のように答えました。

いさどんの話に聞き入るよしてるくん
いさどんの話に聞き入るよしてるくん

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直観は、思考をしないで湧いてくるものです。そして直観には2種類あり、自らの内(本質・潜在意識)から湧いてくる直観と天から降りてくる直観があります。カタカムナ的には天から降りてくる直観を受け取り活かしましょうと言いますが、人には内から直観が湧いてくる仕組みもあるのです。「あの人は嫌だ」とか「この人は信用できる」という直観は、自らのカルマが反応している直観ですが、これは正直な心につながります。つまり、直観が働いている人は正直だということです。ですから、どのような時でも直観で受け取ったことを素直に表現すれば、まずは正直者であることになります。

ところが、正直にも種類があるのです。そうすると、正直の種類をチェックできる直観は、天から降りてくるのです。広い世界観から降りてきた直観は、自らの正直の中身を吟味できます。しかし、自己中心的な人によくあるのは、内から湧いてくる直観を「これは直観だからいいのだ」と考えるのです。それは正直ではあるのですが、正直でも自らの癖から生まれたものは振り返らなければいけない場合があるのです。

よしてるくんの場合、直観人間なので良いこと(正しい判断)に気付くのですが、自分がやれていないのに人にはそれを伝える傾向があります。そこで、「あなたは人にはそのようなことを言いますが、自分を観ていますか?」という直観が天から降りてくるようになり、それを受け取ったら、バランスの良い人になれるのです。

僕は人生に行き詰まっている人たちに対して、「はじめは何でもいいですから、自分らしく正直になりましょう」と伝えます。その後にそういった人たちは、「解放されて良かったです!良い出会いでした!」と言うのですが、そのままでいたら単なるわがままな人になってしまいます。そこからどのように自らをコントロールしていくのか、という次の段階があるのです。しかし、現代のプラス型社会の楽になればいいという世界ではそういったことを緻密に吟味していきませんから、それで終わってしまいます。

いずれにしても、「あの人は嫌だ」という想いであっても、正直であれば真実なのです。それをまず正直に出して、まわりの人から「それはあなたの独りよがりだろう」という話になって返ってきたとしても、それは良いことなのです。そこで自らの独りよがりに気付けるのですから。そこで正直を出さないでいると、自らの独りよがりの心をチェックできません。ですから、まずは素直に正直を出すことが大切なのです。それをまわりの環境は手助けしてくれているのです。

そして、心を磨いて広い世界観が身についた時に、自らの内から湧いてくる正直な想いを天から降りてくる直観から自分でチェックできるようになります。それは天と地がつながっている境地です。

ところが、その段階まで至っていない人は、宇宙の法則に基づいて自らの心を正していくためには、まずは勇気を持って正直を出すことが大切です。出すことによって、まわりの皆(全ての環境)もある意味天の存在なのですから、皆からチェックしてもらいながら正すことができるのです。その時に、自らの世界観が狭いと、皆が伝えてくれたことを受け取れません。ですから、広い世界観のもとに、皆の意見も受け入れられる広い素直な心を持つことが大切なのです。そのように主観と客観の整合性を取っていけば、人は無限に成長していくことができるのです。


第10日目:カタカムナ&人格を学ぶ講座(実践編)

午前:カタカムナ2日目

午前中は、昨日に続いて”はがにぃ”こと芳賀俊一さんによるカタカムナの講座でした。今日は主に松果体についてのお話でした。

午後:人格を学ぶ講座(実践編) 

午後は、人格を学ぶ講座の第5回目。前回に引き続き、受講生一人一人の地球暦をカルマと合わせながらいさどんが丁寧に紐解いていきました。

前回はブンちゃんといぶちゃんの地球暦が紐解かれ、皆で大いに盛り上がったのですが、今日のトップバッターはみへちゃん。いさどんから、「地球暦が車で、魂の形(カルマ)がドライバーだとしたら、みへちゃんの場合車の性能は良いのに、ドライバーとしてのあなたが変わり者のためまわりから理解されにくく、さらに独りよがりなため、良い車を生かしきれていませんね。自らの善意が伝わらないことから人間不信になっていたはずです」と伝えられました。みへちゃんは、「その通りです。それは私自身が原因なのだと思いますが、どうしたら私の車をうまく運転できるようになるのですか?」と質問し、それに対していさどんは次のように答えました。「真学校が始まって今日で10日目になりますが、いぶちゃんものりこちゃんも顔がどんどん変わってきましたね。それと同じように、みへちゃんの顔もどんどん変化してきます。それがどうするかの答えです。知らない間に、目から鱗の体験をしていたり、魂に触れることをやっていれば変わっていくことが、一番自然なのです。あなたのように自分が強い人は、まずは知らない間に身についていくようなことが良いと思いますよ。」

 

表情がどんどん美しくなっていくいぶちゃんとのりちゃん
表情がどんどん美しくなっていくいぶちゃんとのりちゃん

 

続いて、最近どんどん顔の表情が優しくなってきて、まわりに穏やかな空気をもたしているのりこちゃん。それほど立派とは言えない地球暦を持ち、受け身な心ののりこちゃんを、いさどんは次のように分析しました。「のりこちゃんは受け身なため、これまでの人生では被害妄想的にまわりに怒りを向けて生きてきました。しかし、それは環境が創ったのではなく、自分がこういう人生を選んできたと認識することが大切です。そして、のりこちゃんはここに滞在していくうちにそのことが観えてきたので、どんどん自分にもまわりの人にも優しい人になってきたのです。これは運命の出会いですね。本当ののりこへようこそ!」

そして、よこなおちゃんは1ヶ月間の真学校が始まる前に何度かいさどんの面談を受けてきましたが、面談の度に「けど」「でも」を繰り返し、なかなか自らを改めることができませんでした。そんなよこなおちゃんの地球暦には、まさに自分が強いということが表れていました。気持ちはあってもなかなか自己改革ができないよこなおちゃんに対して、いさどんは次のように語りました。

「人生は己を知る旅です。内を観ないで、自らの問題事を被害妄想的に外のせいにしていると、人生は生き辛くなります。だから、自らと対話することが大切なのです。僕は時々『世のため人のために生きるには何をしたらいいですか?』という質問を受けるのですが、その際にはこう答えます。『それは簡単です。まずは自分を健全にして、そしてあなたのまわりにそれを反映させていき、それが広がっていけば、世の中は平和になるのです。つまり、世のため人のためとは、自らと向き合って自分を健康にすることなのです。』そして、本当に自分が求めているものを知り、それを生きていくことが本来の人生の目的なのです。『けど』『でも』という言葉が出ないようになるためには、世界観を広げることです。地球暦は宇宙空間に出て自らを観るようなものなのですよ。」

 

いつも心のこもった話をするいさどん
いつも心のこもった話をするいさどん

いさどんが、「皆から何か質問やコメントはありますか?」と投げかけたその時、今日27歳のお誕生日を迎えたいぶちゃんは、「頭の中では今日のおやつが気になって・・・」とにこにこ笑いながら正直な想いを出しました♪そこでいさどんも、「実はいつ頃おやつにしようかと思っていたんだよ」と笑顔で返しました。そんないぶちゃんの地球暦はとてもバランスが良いものです。いさどんは「だから、さっきのようなひらめきが湧いてくるのです。いぶちゃんもここと出会って、どんどん心が開かれていき、本当の自分が現れてきたのですね」とコメントし、皆が楽しみにしていたおやつの時間になりました♪

今日のおやつをおいしそうにほうばるいぶちゃん(今日お誕生日です!)
今日のおやつをおいしそうにほうばるいぶちゃん(今日お誕生日です!)

正直・素直・信じる by いさどん

真学校も第2週目に入りました。

真学校前に1か月間のケア滞在をしていたよしてるくんは、日々緻密に自分の心を見つめて、それを日記にしたためてきました。ある日の子どもミーティングを観察していて、子どもたちが大人に心を開いていることで、堂々とした発言ができるようになると感じたという。

そして、心を開いていくにはどうしたらよいかということを考えたときに、正直・素直・信じることをしたらいいのではないか?と思ったそうだ。

以下、よしてるくんに日記をちょっと抜粋させてもらう。

「ふっと思ったこと。正直・素直・信じるということは、誰に、何をという所が大きく関わってくるという説明がありました。自分で自分の心を見る場合、緻密に見たとしても自分の枠の中で見てしまい、自己完結して本当を捉えきれないかもしれません。正直でありさえすれば、緻密に見ることは必要のないことなのかとも思いました。そういうことを考えていたら、昨日のいさどんのコメントを思い出しました。「求める心。」それがキーワードのような気がしました。求める心があれば、信じて間違いないものに出会うのかなと思いました。そうであれば、先程の私の考えるようなことは考える必要のないことなのかもと思いました。そもそも信じる心があれば、そのようなことは考える必要はないですね。」

いさどんからは、「とても良い投げかけです。みんなで共有するとよい話なので、ミーティングで質問して下さい。」とコメントがありました。

ミーティングで、いさどんがこれについて説明をしてくれました。

「正直・素直・信じる」の正直は、まず自分のありのままを表現することです。正直は一つしかありません。ですから、正直を言うのであればいつも簡単なことです。正直が複雑にある時には「複雑にあります」と言えばいいだけですし、正直がいくつかある場合には「いくつかあって、これとこれとこれです」と言えばいいので、結局正直は一つだけなのです。ところが、ウソをつくとその中身は沢山あるのです。まず一つウソをつくと、それがバレそうになったら次のウソをつき、また次のウソをつく・・・とずっとウソをついて生涯ウソをついていくことになります。その場合は頭をすごく使うことになるので大変です。ウソつきほど頭を沢山使っていますし、詐欺師はある意味大変能力が高い人たちです。その能力をまっとうなことに使えばよっぽど世の中の為にも自分の為にも良いのです。それにひきかえ正直はただありのままを言えばいいのですから、全く頭を使わなくてもいいのです。

そこで、正直を言う時に、もう一つセットで必要なものがあります。それは素直な心がないと、正直は出てこないのです。素直は素に直る。素は元という意味です。その元はどこにあるのかというと、この世界の元です。この世界の元は宇宙原理ということにもなりますが、自分の中にある良心のことでもあるのです。それは自分を創っている一番元の心です。それに直るということが素直ということで、素直に合ったこと、つまり内にある駆け引きや思惑のない言葉を伝えることは、仏様の心を持っていることになります。人は、このような心を表現する人を憎みませんし、攻撃もしません。仮にその人が間違っていても、代わりにまわりの人がかばってくれるのです。こういう人を徳のある人と呼びます。

ところが、普通の人が正直に素直に生きようと思っても、それはなかなかできません。「この人はこういう人だ」と思っても、「そんなことを言ったら、逆に叱られてしまうのではないか、自分が損をするのではないか」と余分なことを考えてしまうのです。そうやって自分の損得を考え、相手の想いを勝手に膨らませて、正直を伝えずウソをつくのです。そうすると、本当に正直になるには勇気がいるのです。勇気がいるということは、やはり信じていなくてはいけません。その信じる時に、ほとんどの人は条件付きで信じようとするのです。「これをしたら自分が良い思いをする」とか、神社に行って「ご利益をもらえるのなら信じる」と思っているのです。しかし、信じるということは、わかったらやるとか、約束をしてくれたらやるということではないのです。わからないけれどやる、というのが信じることなのです。木の花のメンバーも、一体全体自分たちがどこへ向かっていくのかわからなくても、大事だと思うからこれまで歩んできたというのは、信じる心があるからです。つまり、信じることは、素に戻る、常に変わらない自分の大元に自分が直ることです。そうすると、正解がどうなのか、行く先が良いのか悪いのかはわからなくても、ただ正直に素直に生きていくことが、信じる心のベースにあるのです。信じる心ができると、勇気が湧いてきます。そうすると、とてもたくましく生きていくことができます。それは覚悟ができていることでもあるのです。

 そうすると、知意行の元の心である決意ができて、それで人は道が開かれていくのです。カタカムナでは「知意行一体」といって、知は知ること、意は決意すること、そして行は行うことです。その三つが一体でないといけないのです。そうすると、最初に知ることが必要になり、その知る内容によって決意するレベルも変わってきます。そこで、まずは何を知るか、次に知ったことに対してこれは大切なのだから行じていこうと決意し、行いになるのです。そうすると、人は言行一致の人になります。言行一致の人は言ったことを行うのですから、これを正直な人生というのです。言ったことをやらなかったり、思ってもいても出さないというのは不正直であり、知意行一体にならないのです。この知意行全てをマスターした段階に至った人は、ものをグルグルと考えなくても、直観で物事を判断できるのです。ですから、知意行一体の後に初めて直観が湧いてきて、考えるよりも鋭い真理が湧き出してくる人になるのです。

同じように、正直・素直・信じるは三位一体なのです。一つずつではダメなのです。正直と素直と信じるがセットになって初めて意味があるのです。