真学校は皆さんが欲しい情報を提供する場ではない

私たちが何かを学ぶ時、まずは「こういうことを知りたい」という自分の希望があり、その希望通りのことを学べると満足します。そのような傾向を現代の多くの人々が持つ中、ジイジはこんな話をしました。


おはようございます。ここに立つといつも、昨日から今日へ、私の意志とは関係なくここに来てしまったと思います。止められないのです。生きているということは、死に向かっていくことを止められません。この世界にいるということは、常に変化します。そしてその変化とは、ただ単に変化する方向性のないものではなく、経験を積み重ね、それを元に変化していくのですから、進化していくとも言えます。
私は、どこかでこの変化し続ける状態を、変わらずに留めておきたいという心があります。ですが、動くのです。昨日から今日、今日から明日へと、止まることはありません。それを「留めておきたい」と思うのは、自我があるからです。私たちは自我という自分自身を持っているために、「このまま留めておきたい」と思ったり、様々な出来事に出会うことで心が波打つのです。

いつのことでしょうか。最近、時々面白い景色が観えてきます。それは極めて・・・言葉では表現できません。皆さん、お母さんの子宮の中にいた時のことを思うことはありませんか?子宮の中に浮いているでしょう?そこには上下はないですね。その状態を思い浮かべた時に、心がどんな感覚になるかを聞きたいです。昔でも未来でもいいですが、お母さんの子宮の中にいる自分を想像することはありませんか?

えいちゃん:
安心できて、心地良い。自分のしたいことをするけれども、自分がその中で収まっている。その安心というのを認識しているかわからないけれど、守られている感じ。

ジイジ:
他にはいますか?

ペイペイ:
私は逆です。紐に引っ張られていて不自由な感じ。想像ですが、その紐がずっと自分の周りにあって、どこかに引っ張っていこうとする。暗い中でどこに行くかわからない状態は、不安定ではないかと。

カラ:
子宮の中は、色はちょっと暗い赤色。周りは水で、安心感があり、浮いている。心はきれいな状態。今も実際にプールで泳ぐ時にそういう感覚があります。どこからも支えられていて、何も考えなくても大丈夫。

ジイジ:
何も考えなくても大丈夫という感覚を言葉で表現すると、どのように表せますか?

カラ:
考えなくても全部わかっているから、世界と一体であるという感じ。

ジイジ:
私のイメージは、極めてリラックスした状態です。全てを明け渡して何も心配がない。ゆだねている。そういう中に、自分が浮いている。
今皆さんにお話ししたいことは、私たち人間が、「私」という自我を成立させ、肉体の中に入り、人生を歩み出しましたね。それは人生のスタートですが、人生は1回だけではありません。何度も生まれ、生き、死を迎えて肉体から離れ、しばらくするとまた肉体を持って生まれるということを繰り返しています。輪廻しているのです。カタカムナ的に言えばそれを7回繰り返し、魂の質的転換をして、あるところへ向かっています。僕は、その最終到達地点をイメージしていました。どういうところへ向かったら、私たちはその旅の終わりを迎えられるのか。そういう話をしたかったのです。

このプログラムは、皆さんが欲しい情報を提供する場所ではありません。同時に、皆さんが求めているプログラムでもあります。それは矛盾しますね。ですが、皆さんがすでにわかっていて求めていることを提供しても、仕方がないでしょう?
皆さん、わかっていることを提供されて、それは何のためになるのですか。今まで見たことのない視点や、考えたこともないような捉え方に出会い、人は初めて新しいところへ行くのです。
今朝ここに立った時、昨日もここに立ち、今日もここに立ったということは一日が経ったということですが、そのことに対して抵抗する自分がいるという話をしました。それは私に自我があるからです。昨日から今日、今日から明日へと向かう時に、自分の思うように進みたいと思う自我があるからです。ですが、残念ながらその自我は、毎日毎日、瞬間瞬間、一生無視され続けます。ですから私は、昨日から今日へと、自分の意志とは違う状況にいつも追いやられていることに抵抗しながら、その自分の意志が無視され続けていることが一体何であるのか、そこから何を提供されているのかを、考えるのです。
自分が無視され、一方的にそういった状況に追い込まれていると思えば、不愉快にもなります。それは、自分の考える通りにやりたいという心があるからです。しかしその自我を無視され続けることが、生きるということです。ということは、生きるということは、何かの罰でも受けているのでしょうか?

私は今、皆さんがこれまでの自らの魂の歴史の中で、おそらく考えたこともないような話をしています。それは、今まで皆さんの興味が届かなかったところの話です。そこに興味がなければ、そんな話は聞かなくてもいいでしょうか。自らの求める情報の中だけで存在すればいいでしょうか。そのような精神状態で、私たちはこの世界を生きていくのでしょうか。

この世界は、確かに私たちを包んでいます。あなたの器であるこの世界は、あなたの思うようにはならない世界です。では、なぜ皆さんはそんな場所に存在しているのでしょう。どうしてそんな所に生まれてきたのでしょう。その場は、心地いいですか?
もしも今、皆さんがこれまでに使ったことのない脳を使っているとしたら、それは新しい自分に出会うチャンスです。

今、私が語ろうとしていることは、円ではなく球です。ただ、それを話すには順序があります。つまり、いきなり球を描くことはできませんから、まずは球の端から話し始めていきます。(両腕で大きく輪を描きながら)このように輪を作って、(少し角度を変えてまた輪を描きながら)それをまたこう作って、(さらに少しずつ角度を変えながら)こう作ってこう作ってこう作って・・・と輪を描いていくと、いつの間にか全体が球になり、その中に私が入っています。その状態は、皆さん一人ひとりも同じ状態です。でも、今私が何を言っているのか、わからないですよね。そしてこの話の先にどこへ向かおうとしているのかも、わからないですよね。
そこで先ほど少しお話ししましたが、私はあることを皆さんに伝えたいのです。それは、皆さんがこの場所に来たことの目的です。私たちは赤ちゃんとして生まれ、人生を生き、死を迎えて一回の人生を終わります。その間、あなたは一度も自分の思う通りに生きてはいません。今だって、瞬間も、自分の思う通りには生きてはいません。それなのに私たちは、自分の思い通りにしようとする自我を持ち続け、生きているのです。

私は今、何を言おうとしているのか。私たちは、自我を膨らませるために生きているのではない、ということです。そして、何かを得るために生きています。でもそうだとしたら、一体何を言っているの、という話でしょう?それは、私が今語っていることが、皆さんにはわからないからです。皆さんがわからない状態だということは、私が今語っていることは、皆さんの新しい世界を開くものなのか、それともまったく無意味なことを言っているのかの、どちらかだということです。

もしも私の言っていることが無意味だとしたら、皆さんは何のためにエネルギーを使い、1ヶ月間を過ごすためにここへ来たのか。かわいそうな話です。しかし私は今、それだけのエネルギーをかけてここへ来た皆さんにふさわしいものを提供しようと思い、この話をしています。それは私からしたら、表現のできないようなプレゼントです。しかしそれに興味がなければ、この1ヶ月間の旅は非常にもったいない旅になります。興味がないということは、あなたは自分の知っている景色だけを求めている人だということです。
昨日から今日へ向かってここまで来るのに、昨日の時点で今日の景色が想像できましたか?もしも明日はこうなるんだと決めつけていたら、それは自我です。未来など、何も保証されていません。それが生きるということです。しかし人間は、明日も同じ日が来ると思い、それを自らの自我の中に組み込みます。けれども組み込んだところで、では逆に明日が来るのを止めることができるかというと、私たちは止められないのです。

明日が来るということは新しい自分に出会うことであり、そして今の自分が強制的に明日に連れていかれる、つまり、自分を無視されたということでもあるのです。今日から明日、明日からその先へという動きがあるでしょう?それは時の動きです。時というものが動き、その時が、私たちの入れものとなる器をつくっています。私たちが渦を巻き、時という器の中を旅しているということは、そこに空間が発生し、その空間の中で時空の旅をしているということです。
そしてその時空という旅の場所を、宇宙と言います。宇宙はどこにあるのかというと、ここです。皆さんが中国に帰れば中国、台湾なら台湾、日本にいれば日本の場所というように、この世界のことです。そして昨日から今日、今日から明日へと、私たちは旅をしているのです。台湾や中国から飛行機に乗って日本に来て、予定を立ててスケジュールを消化しますね。それを旅行と言います。それと同じように、皆さんが毎日の普通の生活を今日から明日へと進んでいくことも、旅です。それがここにあるのです。
私たちはお母さんから分かれ、生まれました。そして、人生という旅をします。そして死にます。今は、今回の旅の途上であるだけです。今が今回の旅の途上のある地点だとして、未来には死にます。本当はその死の先があり、死の地点からふっとワープして生まれる地点へ来て、また人生という旅を始めます。そしてまた死の地点へ来たらふっとワープし生まれる地点へ行って、旅をします。それを、カタカムナ的に言えば7回繰り返し質的転換をすると、新しい景色が見えます。

この人は、何を考えてそのことを皆さんに伝えているのでしょう。今話している話では、皆さんは理解はできていません。何か大切なことを言っているなと感じている人もいれば、何だかわからないと思っている人もいれば、興味ないと思っている人もいるかもしれません。ですが、なぜこんなことを時間をかけてやっているのかというと、そもそもこのプログラムに参加したということは、皆さんが考えたこともないことを提供するためにこのプログラムはあるのであり、それが目的で皆さんはここに来ているはずなのです。そうでしょう?学校の勉強でも、人生の体験でも、わかっていることを学習していますか?もしもわかっていることを体験しようとするなら、それは無意味なことです。わからないことを体験し、そしてそれが何であるかを観るからこそ、あなたは体験する意味があり、学習する意味があり、新しい自分と出会えるのです。

人間は自分の予定を立て、目的のところへ行って予定通りのことをこなし、それで成功だと思っています。その考え方自体が、生きているということと違うということがわかったら、この1ヶ月間、時間をかけて、皆さんがエネルギーを使ったことは有効です。

 

 


大人がまずかわることを、お空にいのる ~ みのの日記

みのは、木の花ファミリーで生まれ育った14歳の女の子です。正直で独特の視点を持ち、大人たちにもしばしば鋭い投げかけをする彼女は、最近真学校の講師でもあるみかちゃんと交換日記を始めました。今日の講座でみんなが話し合う流れの中で、みかちゃんはみのが書いたある日の日記をシェアしてくれました。


 

みのの日記より

この世がいつか、1年以内には、大事なことに気づくことをねがいます。

今日、テレビで東日本大しんさいによって死んだ人のことをやっていました。生きていればみのりとかわらないくらいの年?かな。その子の生きたあかしと、母親が伝えられることは伝えていきたいと、言っていました。いったい何を伝えるのでしょう。

現実をみるようなことは、だれだって口に出せる。言葉だけ。人はいつ、本当の現実に目を向けるのでしょう。メチャクチャ近くにあるのに、目がふしあななのかな?

原因が自分たちのせいでもあることに気づいているのか、いないのか?かってに悲しんで、かってに言いたいこと言って、ほんとうにしないといけないことに気づけない。

今の社会に目を向け、向きあうべきなのは、まず今の大人でしょう。見本になろうと思うのか、こういう大人になりたくないと思われるのか。

大人がまずかわることを、お空にいのる。

みのはいろんなことを知って、そのあるべきことを理解し、かわっていけたらいいです。

*下線は本人が引いたものです。

 


この日記の内容を聞いたジイジは、以下のように語りました。


 
ジイジ:
14歳が、大人なのか、子どもなのか、微妙なところです。しかし、みのの中に、今までの社会を創ってきた人々と違うものが育っていることは感じます。こういった新しい世代が生まれてきているのですから、私たちは安心して未来を託せるとは思います。ただし、その人たちに託す時に、私たちが何を残してあげられるのかは私たちの責任です。その残すものの根本は、心です。美しい心を残していきたいものだと思います。次の時代を生きる人々が、美しい心を表現しやすいように。

 

 


私たちは枠の中で生かされている ~ 人格を学ぶ講座4・地球暦

「人格を学ぶ講座」では、カルマ読み、カタカムナと並び太陽系時空間地図「地球暦」を用いて、一人ひとりの人生地図を読み解きます。さて、地球暦を学ぶことに、どんな意味があるのでしょう?


カフェ&ショップ・ロータスランド

ジイジ:
ロータスランドに池を作って3年目になります。今年は初めて、池の鯉の産卵をさせようと思っています。ロータスランドの鯉は錦鯉と言って、人間が改良したものです。野生の鯉は、5月から6月頃に水温が18度以上になると産卵します。錦鯉は人間が改良したもので、なぜかそのまま池にいても産卵しません。それで、3月の中頃から、産卵させたいメスだけを別の水槽に入れて飼っておいて、5月にその温度になった時にオスを入れてやります。そうすると産卵します。そういう技術があることは知っていましたが、より詳しく調べてみると、鯉は大潮の時に産卵するそうです。人間も、大潮の時には出産が増えると言います。しかし人間の世界では、お医者さんが陣痛促進剤を打って、人間の都合で早く産ませたり、帝王切開をしたりするので、そのリズムから外れるのです。

今日も、地球暦を使って一人ひとりの人生地図を読み解きます。そのもとは、宇宙は数であるということです。カルマ読みでも、私たちの名前の文字の画数が表す法則性から読み解いていきますね。それは、数理という、宇宙の成り立ちを利用しているのです。
地球暦は、私たちが生まれた時の太陽と惑星の配置から、その人の人生地図を読み解いていきます。さらに、カタカムナの単音の思念からも、その人の性質を読み解きます。それは一見特別なことのように思えますが、鯉が大潮の日に産卵するのと同じように、宇宙と連動しているということを元にして、私たち人間のことも読み解いているのです。
昨日から今日になるのは、地球が自転しているからです。去年から今年になるのは、地球が公転しているからです。私たちは宇宙を旅しているのであり、それは、このような形で私たちの人生を分析することと何ら変わりません。私たちは、毎日の体の生理、リズム、思考、すべてが宇宙と連動して、人生を生きているのです。

去年亡くなったスティーブン・ホーキング博士という物理学者がいました。彼は亡くなる前に、「AIが私たち人間に代わって世界を支配することはあるのでしょうか」という質問に答えたことがあります。彼の答えはとてもわかりやすく、「もしもAIが自分たちで進化する様な能力を与えてしまったら、危険でしょう」と。私たち人間は常にAIをコントロールできる立場にいるべきだと。それに対して、番組のコメンテーターは、今や技術的能力や生産能力は、AIの方が私たちを超えてしまったと言いました。より精度のいいものを作ったり、大量生産するのに、彼らは疲れないのです。未だ超えていないのは、頭脳だけです。
そこで番組では、何となく不安になるのです。人間はどこかで、進化に対して制約があります。何かが制限している。ところがAIにそのプログラムをすると、どんどん進化していく可能性があるのです。
その番組を観ていて、私は思いました。人間の存在は枠の中に入っています。何の枠かというと、宇宙という枠です。そして生命としての人間は、地球生態系の枠の中に入っています。宇宙や地球生態系の生命としての循環の中にいるからこそ、人間というのは初めて成立するのです。しかし、人間が可能な限り進化する能力をAIに与えると、AIはその枠を超えていってしまうのです。

錦鯉が大潮の日に卵を産むことは、誰も教えていません。しかし、ちゃんとその時に卵を産みます。例えば私の体温は36.5度くらいが平熱ですが、今は35度台です。33度になると意識を失い、30度になると死ぬそうです。私たちは枠の中にいます。それは、生命という枠です。何か知らないルールの中に生きるように設定されているのです。
その設定しているものとは、一体何ものなのか。そして私たちとの関係は、どのような関係なのか。それを探求するのが、これからの人類の課題でしょう。人間は、そういった存在があることを今、忘れてしまっているのです。科学は、どんどん探求していくと、私たちがそういった枠の中に生かされていることを無視して、無限に探求しようとします。その先は、未来の人々が考えることでしょうが、ホーキング博士はこうも言っています。私たち人間は、宇宙を観て、健康で健全に生きていくことを考えるべきなのです、と。
彼は科学者ですが、科学者はこの世界をどんどん分析し、人間の可能性を広げてきました。その結果、現代のような宇宙の枠や自然の枠から外れて、彼らの思う豊かな世界をつくりました。ホーキング博士は現代で最も優秀とされる人々の一人だと言いますが、その人が死ぬ前に宇宙を観て、地球を健全に生きていくことを考えようと言ったのです。
アインシュタインは亡くなる前に、私は真実を探求したいのではなかった、私は神の意思を知りたかったのだ、と言いました。彼らが共通して言っているのは、私たちはある枠の中にいるから成立するのだということです。能力が高いからといってその枠を超えてまで探求してしまったら、私たちは存在しない。枠と共に生きなさいということです。

1ヶ月間の真学校では、その枠があることを知り、私たちがその枠のルールを意識して生きると、あなたも、人類も、地球も豊かで健康で生きられるということを伝えたいのです。
その枠とは何でしょうか。私たちの存在のもとである、命という枠でもあります。それを元々命でないもので発展させるのが、AIの存在です。それは技術革新や豊かさの表現のために出てきたものですから、有効に活かすことは誰も否定するものではありません。しかし私たちは常に、その宇宙の枠の中にいることを意識して生きるべきなのです。

AIの成長曲線を解説するいとちゅう

いとちゅう:
人間の進化をグラフで表すと、直線的に上昇していきます。だから人間は、AIも直線的に進化していくと無意識に思っています。しかしAIの進化は指数関数的で、ある地点を境に一気に上昇するのです。それをシンギュラリティと言います。人間がAIをペットのように思っていても、ある瞬間に一気に人間を超えてしまう。ですから、AIが人間の最後の発明だとも言われています。

ジイジ:
それは枠のない状態です。しかし人間には、ちゃんと枠がはまっています。
地球暦を読み解いても、完全な人はいません。逆に言うと、不完全な人ばかりです。しかし欠陥があるからこそ、人間は何かと連動しながら生きていくのです。現代の人類の進化を象徴している科学の世界では、科学者たちがどんどん無限に探求しようとします。そこでどうしたらいいかは未来の人々が決めるのでしょうが、私は人々に、神様と共に生きなさい、と言いたい。
神様を忘れた人間たちは、暴走します。神の存在を知っていたら、神と共に歩むから、絶対に暴走することはありません。神の定義はいろいろありますから判断もいろいろですが、宇宙の法則と共に生きなさいということです。
そこで今日は、この地球暦の講座を通し、私たちの人生に流れている宇宙法則について読み解きます。

 

 


プライバシー保護であなたは本当に守られている?~ 人格を学ぶ講座3

木の花ファミリーでは、毎晩大人メンバーが集い「大人ミーティング」を行います。そこでは、その日にあった出来事や自分の心の内を皆にシェアし、そこから感じたことを互いに伝えあいます。そして真学校受講生やゲストも、自由に参加することができます。
この大人ミーティングでファミリーメンバーの一人が自らの心の内をシェアし、皆で語り合った翌朝の講座で、ジイジは「プライバシー」について語りました


最近ラジオ体操のやり過ぎで筋肉痛のジイジです。体を活性させたり、その状態を意識するようにすると、自分自身の状態がよくわかるようになります。そうすると、怪我をしなくなります。しかし自分の体の状態を知らずにいると、注意せずに負荷をかけ続け、怪我の元となります。

木の花ファミリーでは、昨夜の大人ミーティングのように、個人的な問題ごとを全体のこととして、みんなの前でシェアします。その時に、個人に起きたことに対し、みんなから観える景色を伝えていきます。一般社会では、こういったことはプライバシーと言って、積極的に人の前では出さないものです。プライバシーが保護されるということは、ある意味その人が守られているという考え方が現代社会にはあるのです。しかし、私たちの生活ではその解釈を逆に捉えています。ここでは、個人のことをみんなのこととして、積極的に出すようにしています。同時に、出せる環境をつくっているのです。出せる環境と出す人、その両方を作るよう心掛けています。そういった場では、いつもみんなが何を考えているのかが、互いによくわかるようになります。それによって、全体に信頼関係が生まれます。

ここへ自然療法プログラムを受けに来る人は、いろいろなことで行き詰った結果、ここを訪れます。そしてここで滞在し、自らの状態を改善しようと決意しますが、その時に多くの人が心配することがあります。それは、大勢の人の中で暮らすことです。「私は大勢の中で生活するのが苦手です」「やったことがないので不安です」という人が多いのです。そこで私は、だいたいいつも決まったことを伝えています。あなたがたくさんの人と暮らしたり、たくさんの人があなたのことを見ているのが嫌だからこそ、そういったあなたの姿勢を改めるために、たくさんの人の中にこれから入るのですよ、と。それは、新しいあなたに出会うチャンスを提供するということです。

そう言われても、当然本人はその通り受け取る気持ちにはなれないものです。しかし、それまでの自分ではいけないと思っている人は、僕の提案を受け入れます。そこで、改善する意欲もなければ、僕の提案を受け入れないようなことでは、このプログラムの結果に良い答えは出ませんから、その場合は滞在をお断りする場合もあります。
滞在を始めると、ここに生活すること自体がいつもと違うリズムになりますから、まずはそれに慣れることから始めます。ですから最初は、症状の重い人は特に何もせずに、とりあえず毎日を過ごしてもらいます。少し慣れてきたら、日記を書いてもらいます。日記はだいたい決まった時間に提出してもらい、私と、サポーターがその日記を見ます。通常、日記は人に見せるものではありません。日記を人に見られるということは、一般的にはプライバシーの侵害です。心の病気をしているような人は、日記なんて書いたこともないという人が多いものです。ですから日記を書くこと自体が初めての経験であり、その日記を人に見せることで、自分の中にいつもあるけれども外には出さずにいたことを、オープンにするわけです。
オープンにすると、その人の人格的クセや、日頃出さずに内側に溜め込んでいたものが観えてきます。それに対して私がコメントを書きますが、コメントはその人のものの捉え方からは違った視点で書かれます。そうすると、日記を書いた人は、自分の考えとは違う視点をそこに見ることになります。始めの頃は、だいたいそのコメントを無視して日記は書かれていきますが、そのうちに、コメントに反応するようになります。どちらにしても、自分が本来閉じていたもの、プライバシーとして守られていたものが、だんだん外に出てきます。その外に出たものに対して、今度は私の方からの視点によってフィードバックされるのです。そうすると、それまでになかった新しい視点がその人の中に入ります。

始めに、毎日体を活性し、自分の体がどんな状態かを知っていくと、怪我をしないようになるということをお話ししました。
普通は、健康に毎日を暮らしていると、何も自分の内にあることをオープンにする必要は感じません。オープンにしないのは、プライバシーを保護されているということで、自分が守られているという認識になるのです。それで守られていると思っている人ほど、自分の考えの中でしか生きていません。それがだんだん強くなっていくと、それが自らの考えだという認識すらなくなり、自動思考になっていきます。簡単に言うと、よく考えないで、いつものように自動的に行動しているという状態になるのです。それでもそういう自分の状態を外にオープンにしないことを、守られていると思っています。
心の病気や問題ごとが起きて自然療法プログラムを受ける人は、そういった状態になることによって、症状が現れた人たちです。そしてそれは、健康な人であっても、同じことが言えるのです。ただ、健康な人は自らの問題を認識していませんから、それをやり続けられるだけなのです。

自然療法プログラムで、日記のコメントに反応をするようになった人は、その分だけ、私からの新しい提案を受け入れます。自分の考えよりもその提案の方が自らにとってより有効だということを理解したら、さらに、みんなの前でそれを発表することを提案されます。どんどんプライバシーがなくなっていきます。そのうちに、その人は自分からプライバシーを破っていくようになります。自分を守る心を、無しにしていくのです。そうすると、知らない間に、自らの考えや行動に対し、新たな考え方や行動の仕方が入ってくるようになります。それが活性するということです。そして自分のやることに対して周りから返ってくる反応やフィードバックを通して、自らの姿を知っていくようになります。つまり、客観的視点を持つようになるのです。

多くの人は、プライバシーが保護されることで自分を守っていると思っていますが、それは自分が自分の中に閉じこもっている状態です。自分の中で閉じこもっていると、そのうちにそれがパターン化し、思考もせずにただクセのままに行動しているという状態になります。健康であればそれをそのままやり続けていきますが、病気になったり引きこもってしまったりすると、そのこと自体が問題ですから、それを改善するために、こういったプライバシーのないところへ来て、最初は無理やりオープンにして、しまいには自分からオープンにするようになるのです。それが自由にできるようになると、もう病気ではありません。プログラムの卒業となるのです。
始めはなぜ自分が病気になったのかがわかりませんが、ここに滞在し、客観視点を身に付けていくうちに、自分の中に閉じこもっていた心が自分自身を病気にしたのだということがだんだんわかってきます。そこで自分の殻を破ってオープンにした時に、画期的な改善が見られ、新しい人生が始まるのです。その時に、面白い現象が起きます。その人の中に、感謝が生まれるのです。それまでそんな状態の自分に付き合ってきてくれた親や周りの人たちに感謝したり、木の花ファミリーのサポートに感謝したりするようになります。それどころか、私は病気になったからこのことに気付けた、と、病気にまで感謝するようになるのです。

病気は、知らぬ間に閉じこもっていた自分の殻を破ることを、気付かせてくれました。そのように人生を観ていくと、その人はやはり病気になるべきだったのです。そして病気になってありがたい、という段階へ行ったら、自然療法プログラムは卒業となるのです。そこで、その人の病気に対する認識がまったく変わるのです。
木の花ファミリーで暮らす人は、それがいかに大切で、自らに成長をもたらすものであるかを知っているからこそ、このようなプライバシーのないところに進んで生活しています。よくそんな所で暮らせると外の人は思うかもしれません。しかし、ここで暮らすことの大切を知っている人々は、それが喜びとなるのです。幸せや喜びに対する視点が違うということです。

宇宙は常に変化し続けます。私たちもその中に生きているのですから、常に変化、変容、変態を繰り返しています。それが宇宙の掟であり、自然の掟です。ですから、自分の中に閉じこもって活性していない状態は、宇宙の法則から外れているのです。
活性するとは、循環しているということです。循環するとは、一つ目から二つ目、二つ目から三つ目へと、自動的につながっていくことであり、そうしてすべてがつながることによって、宇宙全体が調和のもとに動いているのです。全体が動いている中に自らも存在するということは、個々のプライバシーはないということです。しかし、自らを主観で守っていると思っている人は、自らの情報を自分の中だけに抱え込み、それで守られていると思っているのです。しかしその認識は、自然や宇宙の法則からは外れていることになります。ですから、そういった場合、たとえ体が健康であっても、それは症状が出ていないだけで、この世界にとっては病気の状態なのです。

今日は、「人格を学ぶ講座」に入って3日目です。
自分を守っているということは、客観的な外からの視点が無いということです。客観的視点がなければ、自分がどんな考えをし、どんな行動をして周りにどんな影響をもたらしているかということが観えません。そうすると、自分のことがわかりませんから、人生の中でいずれ怪我や病気やトラブルに出会います。そこで客観的視点がなければ、その原因が自分にあるとは思いもせず、ましてや病気に感謝することなどまったくありません。
しかし私たちが病気や問題ごとに出会うのは、宇宙の法則です。簡単に言えば、神様が、私たちが法則から外れているから、その出来事を与え、元へ戻ることを教えてくれるのです。そのことに、病気や問題ごとに出会う前に気付いて、生きていると、毎日が変化の連続で活性します。そして常に心がオープンですから、周囲との絆も深まっていきます。そこに感謝できるようになると、人は優れた人生を生きることになるのです。そのような人のことを、覚醒者と呼びます。悟った人のことです。
現代には、そのような人はほとんどいなくなりました。ここは、そういった解釈を訪れた人々に提供する場所です。皆さんは、覚醒することを目指してここに来たのでしょう?しかし、ただ情報を得ているだけでは、覚醒者にはなれません。自らをオープンにして、自分と向き合うだけの勇気、意欲を持たないと、覚醒者にはなれません。つまり、自分を救うことはできないということです。そしてそれは他の誰のせいでもない、あなた自身の責任だということです。

私は、一人でも多くの人が目覚めていくことを望んでいます。なぜなら、地球がそれを求めているからです。そして地球が喜ぶからです。私たちのすべてである地球が喜ばない生き方を、私たち生命は絶対にしてはいけません。

 

 


世界に貢献できる人になるために ~ 人格を学ぶ講座2

真学校も第2週目に入り、「人格を学ぶ講座」も第2段階となった今日、なぜこの講座が大切なのかをジイジが語りました。


始めの1週間で私が皆さんに伝えたかったことは、まず私たちは、人間の特徴として、自我を持っているということです。自我は、誰もが同じものを持っているわけではありません。仕組みは同じですが、中身は違います。それぞれの心の形や性質は、個々にオリジナルな歴史のもとに創られてきたものです。私たちの顔や体つきが一人ひとり違うように、心も一人ひとりオリジナルなのです。
人間は自我を持つことにより、自分と他人を区別するようになりました。そして他の生きものと違うのは、自分から見える自分自身、そして自分から見える外のものを、自分にとって都合のいいように捉えるようになったことです。私たちは自分という枠の中にいて、そこから外の世界を見ています。そしてその枠の中から、周りにいる人々を「この人はこうだ」と主観で判断しています。しかし、自分の中から飛び出して、枠の外から自らを見てみると、自分が思う自分と外から見える自分が違うことがあります。

自分の中から外を見ることを「主観」と言います。それに対し、自分の外へ出て、外から自分自身や周りを見ることを「客観」と言います。人間は社会性がある生き物ですから、群れて生きています。群れるということは、他の様々な生命と一緒に生きているということです。その時に、自分の外の秩序を乱すような存在であっては、いい社会生活は送れません。できれば自分の存在や意思表示が、外の人たちに歓迎されるものであることが望ましいのです。
例えば私たちは、会社のようにお金や利益を得るところでは、自らの主張を制限したりします。それは、何かを得るためだからです。しかし、家族や恋人のように近い関係になると、自分を抑えて何かを得ようとするよりも、自分の願いを叶えようとする方が強くなりますから、自らの感情をコントロールすることを忘れてしまうこともあるのです。そのように自己主張が出ることを、わがままと言います。もしもそのわがままを、会社のようにお金や利益を得るための場所でやると、「あなたはうちの会社には要りません」とクビになることもあるでしょう。それは、現代社会を生きていく時に、よく出会うことです。
そのように、利益を得るために自らを抑えて、心の内に本当があるのに我慢して偽っている状態だと、心の中にストレスが溜まります。少しくらいのストレスであれば、休みの日に出かけてリフレッシュしたりして、解消することもできるでしょう。しかしストレスが溜まっていき強くなると、それでは解消しきれません。そうなると、今度は休みの日に出かけることもできずに、ぐったりと寝ているようなことにもなります。そういった状態を、自分が認識しないままにどんどん積み重ねていくと、そのうちに病気を発症するのです。

私たちの精神と体の機能は、様々な仕組みが連鎖して成り立っています。ストレスを溜め込んだ時にそれがどこに現れるかというと、弱いところに現れるのです。体に弱いところがあれば、そこにストレスのエネルギーが集中し、病気となって現れます。心の中に弱いところがあって、そこにストレスのエネルギーが向かえば、うつになったり、逆に躁になったりします。親がそういった性質を持ち、遺伝的に子どもに伝承されることもあります。それは更に、子どもから孫へと受け継がれます。そのように代々受け継がれていくと、暗い家系とか、同じような問題が続く家系というように、その家の傾向ができていきます。自分が一人で引き起こしたことであれば、その原因も「ああ、自分があれをやったからこうなったんだ」とわかりやすいのですが、代々の家系の流れの中で、所々で心や体の弱い人にそれが現れると、なぜそうなったのかわからない場合もあります。
そこで、主観的に捉えようとするとわからないのですが、客観的に分析していくと、そこに問題の起きる傾向の元が観えてきます。これは人間の人生についての話ですが、実は、地球上の様々な時代も、その時代のもとにどんな社会が展開されていくのかも、同じ仕組みで表現されていくのです。そこに存在する社会の背景にどのような流れがあり、そこに生きる人々がどのような性質をしているかによって、それにふさわしい世界が当然のように現れてくるのです。

私たちは真学校を通して、健康で生きていくためにはどうしたら良いのかを学びます。同時に、自分が社会を生きた結果社会が良くなっていくような、社会に優れた貢献ができる人になることも目指すべきです。それが、人が本当に目指すべき生き方だと私は考えています。なぜなら、現代は人間のわがままがいっぱいにあふれてしまって、世の中にたくさんの矛盾が起きているからです。
現代の人々が思う「良い人生」を生きることが本当に良い人生なのかというと、現代人一人ひとりが出会う人生には、とても問題ごとが多くなっています。現代の世界情勢や環境を観ると、もうこれ以上放っておいてはいけないところまで来ていることを、これまでにお伝えしてきました。そして先週末から、「人格を学ぶ講座」に入りました。なぜ、この講座を学ぶのでしょう。
私たちは人生を生きていると、いろいろな出来事に出会います。それは、出来事の方が向こうからやって来るように思えますが、実は自分がどんな性質をしていて、どのような道をどの方向に進むのかによって、出会うべき出来事に自らが原因となってふさわしく出会っているのです。つまり、私たちが人生の中で出会う出来事はすべて、自分自身を知るための映し鏡なのです。自らの姿がそこに映り、現象として現れているのです。ですから、人生を生きるとは、自分自身を鏡で見ていることになるのです。

その仕組みがわかると、私たちは人生を生きることによって、出会う出来事を通して自分自身を学習していることがわかります。出来事に出会う時に、自分の外に問題がある場合もありますが、その問題に出会う自分がいることを忘れてはいけません。ですから、問題に出会った時、人生を学ぶ姿勢のある人は、なぜそれに自分が出会ったのかをわかるために、先に自らを振り返ります。その時に、外から自分を観る客観視点を持つことによって、初めてその出来事を正確に捉えることが可能となるのです。それを自らの内側からの主観だけで見ると、社会が悪い、相手が悪い、と言って、自らの外に原因があると思うのです。
その姿勢で生きていると、どんな出来事に出会っても、自分自身を学習することはできません。それでは、自分の状態を知ることはできないのです。ですから問題が起きて、一旦はそれを乗り越えたとしても、また同じような問題に出会うことになります。学習をしない人は、何度でも繰り返し同じ問題に出会うことになるのです。
そういったこの世の中の仕組みをつくっているのが神様だとしたら、それは神様が何度も何度も、私たちの問題点を改めなさいと投げかけてくれいる、愛の現われです。

私は社会で行き詰っているたくさんの人にアドバイスをしてきました。しかし、こうしたら良くなるよ、と良くなる方法を伝えても、その人自身が自らの問題点に気付けなければ、改善されることはありません。何か特殊な能力を使って改善したとしても、その時限りのことになってしまい、長続きすることはありません。それに対して、本人が自分自身を観て、「ああ、問題の発信源は自分だ」と自らの内にある原因に気付いて改めれば、同じような問題ごとのくり返しは、なくなっていくものです。そういった時に、私たちは奇跡のような出来事に出会うのです。
私たちは毎日を生きていて、自分でも気付かないまま矛盾を起こしています。その矛盾は体や心の中に溜まっていきます。自分が矛盾を起こしていることを知らずにいると、自分には何も問題がないと思ったまま、その矛盾を溜めていくことになります。そして、ある時その矛盾が弱いところから溢れ出し、問題となるのです。
そこで、矛盾の発生源を絶ち、自らの内に矛盾を溜めないことと、弱いところを強化していくことで、そういった問題は発生しなくなくなります。そういった条件が整うと、それまで病気だったのが、何も治療をしていないのに、勝手に症状が消えていくのです。治るのではなく、問題ごとが自然に消えていくのです。現代医療は、表に出てきた症状に対して治療をします。様々なテクノロジーを駆使し原因を解明しますが、わかるのは表に症状として現れてきたものだけであり、その奥にある気の滞りは、テクノロジーで測ることはできません。ですから、そのような手法では根本的な解決に至らないのです。
そうすると、そういった不完全な医療により、利益を得る人たちが出てきます。それは製薬会社であり、医療機関です。病気の根本原因を解消せず、症状だけを表面的に治し、いつも病気でいっぱいの社会をつくっておけば、お医者さんは仕事ができます。同じように、人々が争い、社会秩序が乱れると、そのことにより活躍する人たちがいます。弁護士や警察は、人々が争うことで自らの存在意義が保たれるのです。現代社会には、本来無い方が良い仕事で潤う人が、たくさんいるのです。

そういった中で、木の花ファミリーでは自然療法プログラムを提供しています。例えば仕事に行ってもそこでいい人間関係が作れないからすぐにやめてしまうとか、人とのコミュニケーションを上手く取れない人が、なぜそうなるのかという原因を落ち着いて客観的に探り、それを自らの内に観つけ、改めることにより、人間関係が良くなったり、物事がスムーズに進むようになります。その結果、病気も自然と消えてしまうのです。主観だけではなく、客観的な視点で自らを観て、自分自身を理解する。それによって、自分に起きる問題の原因をひも解いていく。それは、自らが出会う出来事の原因を悟るということです。
そうして、その問題はもともと自分が周りに対して発していたものが返ってきたのだということがわかったら、それを発することをやめればいい。発するものの種類を変えるのです。その発しているものは、一人ひとりの個性的な人格が元になっています。ここにいる皆さんは、病気でもなければ、深刻な問題ごとを抱えているわけでもありません。ですから自然療法プログラムを受けるのではなく、問題ごとが起きる仕組みを知り、自分自身の発しているものを理解し、悪いものはやめ、いいものを伸ばしていくということをすれば、少なくとも、今より皆さんの人生は良くなります。そして良くなった人生を皆さんが社会に発信すれば、周りの人たちも、そして社会全体も良くなっていくものです。自らの人格を学び、健康な日々につなげていくと、自分も周りも社会も良くなるという、こんないい話はありません。

これは1回学んだだけではなかなか身に付きませんので、自分自身がどのような性質をしているのかをいつも心の中に留めておいて、毎日の生活の中でそれを優先し、意識しながら表現していくと、だんだん身に付いてきます。なぜこの講座が重要なのかというと、物事をみる時に、自分のクセや傾向を知らないと、透明なものに自分の色のフィルターをかけて見てしまったり、真っ直ぐなものが歪んで見えたりするからです。まずそこを知らなければ、物事は正しく観えないということです。
私たちは常に、対象を見る前に、自らの濁りや歪みを先に正していくことが、人生を健康で豊かに生きることにつながります。そして、あなたが健康であるということは、あなた一人分世の中を健康に導くことにつながります。心掛けていきたいものです。

 

 


生きることは体に歴史を刻むこと ~ 人格を学ぶ講座

第1週から第2週にかけて、全8コマにわたって行われる真学校でもっとも大切な講座が「人格を学ぶ講座」です。この講座では、カルマ読み、己読み、カタカムナの単音の思念という3つの手法を用いて、個人の人格を総合的に読み解いていきます。講座は、ジイジのこんなお話から始まりました。


あっという間に1週間が経とうとしています。時々思うのですが、未来に向かって一方通行に流れていくこの時の流れを、なぜ止めることができないのでしょう。そんなことを思うことはありませんか?普通はそんなことは考えないかもしれません。でも僕は、何か強制されているような、制約されているような気がするのです。
なぜそんなことを考えるのかと思ったことがあります。もしかすると、自分が今のような時間の制限がないところにいたからではないか、と思ったこともあります。私たちは生まれてから・・・といよりも、お母さんの体の中で命として発生した時から、1日24時間、1年365日という、1秒1秒を規則的に刻んでいくサイクルの中に入りました。そこにかっちりとはまって、そのサイクルから抜けることはありません。このように、私たちがこの世界に存在するということは、たくさんの制約のもとにあります。

まず、人間として生まれたということは、私たちは鉱物のような存在ではありません。有機物ですね。有機物は、例えば水分を与えると腐ります。熱を加えて水分が抜けると、炭素になります。そして、ただ単に有機物であるだけならば、この世界の命の循環活動の中にはいても、それそのものが生命として活動はしません。私たちは、「自分」というものが成立する時点で、同時にそこに「自我」が成立するのです。
山に生えている木々や植物、動物たちも、皆同じです。しかし、例えば木だったら枯れる、動物だったら死ぬということになると、また単なる有機物になり、腐り、自然界へと還っていきます。単なる有機物であることと、自分というひとつの個体として生命として成立していることは、意味が違います。今私たちは、人間として、一人ひとり名前を持ち、戸籍があり、自分という特定の素性を持った存在です。

今年の1月に、メンバーのみかちゃんのお姉さんのよこちゃんが亡くなりました。よこちゃんはずっと病院に入院していて、ここでは暮らしていませんでしたが、木の花ファミリーのメンバーです。若い時に統合失調症を発症し、体も弱く、6年ほど前にお母さんが亡くなったことをきっかけに木の花ファミリーで引き取りましたが、なかなか一緒に生活をすることが難しく、この近くの病院に入院していました。そして1月末のある日、病院から「容態が急変したのですぐに来てください」と電話がありました。僕もみかちゃんと一緒に病院に行きましたが、病院に着いた時には既に亡くなっていました。お医者さんが言うには、夕方お医者さんが彼女を見た時にはいつもと変わらない様子だったらしく、看護師さんが夕方にお世話した時にも「ありがとう」と言って、ご飯も食べて、いつも通りに寝たそうです。そして夜9時半ごろに看護師さんが様子を見に行ったら、もう亡くなっていました。死因は心不全とのことでした。人間は、誰でも心臓が動かなくなれば死にます。人間にはいろいろな死因がありますが、死ぬということは心臓が機能しなくなるということですから、最終的には皆、心不全です。
それで病室に案内され、よこちゃんの遺体と対面しました。不思議なことに、ベッドに横たわっている彼女の姿から、生命力をまったく感じませんでした。それは確かによこちゃんですが、そこに生きている波動を感じないのです。それは単なる有機物で、抜け殻だと思いました。それまで入っていたものが抜けてしまった、という感じです。彼女は6年前に初めてここに来て、僕たちは、彼女がその体を使って自分というものの意志表示をする姿に出会っています。ですから、確かに中によこちゃんがいたのに、それが抜けて、病室のベッドの上にはセミの抜け殻のように空っぽのものが横たわっていました。
皆さんは死体を見たことがありますか?(全員が手を挙げる。)それは、生きている時と違いますよね。その人が、体の中にいないのです。ある程度の年数を生きれば、その体を使ってその人が人生を表現していたことは、私たちの中に記憶として残っています。その姿を知っていて、その人が無くなると、何かが抜けてしまったように見えるのです。

もう一つ、最近死に出会いました。よこちゃんが亡くなった時は「亡くなったんだな」と思いましたが、最近出会った死は、それとは違います。
木の花のメンバーの一人が、妊娠していました。妊娠11週でしたが、1週間ほど前に病院に行ったら、心音が聞こえませんと言われました。それで別の病院に検査に行くことになっていましたが、その日の朝、トイレに行ったらその赤ちゃんが出てきたそうです。それで、彼女は同じ家にいたみかちゃんに、その既に心臓の止まっている赤ちゃんを見せました。そして元々病院に行くことになっていたので、赤ちゃんと一緒に病院に向かいました。その途中で、子宮に残っていた最後の胎盤も出て、病院に着いた時には子宮の中は空っぽになっていたそうです。だから病院では何も処置する必要がありませんでした。彼女は赤ちゃんの写真を撮って、大人ミーティングでみんなにシェアしました。赤ちゃんは手のひらに乗る大きさで、指も爪もあり、口は開いていて笑っていました。
なぜ亡くなったのか、原因はわかりません。生まれてくる縁がなかったということでしょう。僕はその写真を見て、こう感じました。よこちゃんは、今までずっと入っていたものが抜けたな、という感じがしたけれど、この人は脱け殻ではない。まだ一度も使われていない、人間の形をした肉の塊。つまり未使用です。よこちゃんは人生を経験した、言わば使用後の脱け殻ですが、赤ちゃんの方はまったくカルマが使われていない未使用の状態です。そこにとても大きな違いを感じました。
もう一つ感じたのは、よこちゃんは人間です。でも赤ちゃんは、宇宙人です。僕は赤ちゃんの写真を見て、直感でそう感じました。そして、生きるとは、私たちの体の中に、生きた歴史を刻み込むこと、喜んだり悲しんだり、そういったことのすべてを刻み込んでいくことなのだと、この二つの体の違いを観て気付いたのです。

僕はよこちゃんに病院で出会った時、彼女の体は脱け殻でしたが、その場に彼女の魂がいるのを感じました。彼女は僕に、いろいろありがとうございました、と言いました。とても明るい声でした。そして翌日に遺体を引き取りに行き、木の花でお葬式をしました。木の花では葬式とは言わず、「出発(たびだち)式」と言います。死は、次のステージへと出発するのですから、みんなで卒業をお祝いし、次のステージへと送り出すのです。出発式の前夜には、ちょうど富士浅間木の花祭りの新しい演目である「このはな八重の舞」のお披露目会が予定されていました。かつてよこちゃんがここに暮らしていた時に、この祭りの舞の稽古を見て自分も一緒に踊って楽しんでいたこともあり、お披露目会ではよこちゃんの棺を神座の前に置いて、その前でみんなで舞い踊りました。その時に僕は、よこちゃんの魂が子どものように楽しそうに、一緒に舞い踊っているのを感じました。

出発式の前夜の「このはな八重の舞」

よこちゃんは体が不自由で、体型も小さく、ある時から心を病んでずっと精神病院に入院していました。子どものころはとても明るい子だったそうですが、19歳の頃から性格が変わり、お医者さんにも「性格は薬では治らない」と言われるほどでした。でも病院で僕に「ありがとうございました」と言った時も、このはな八重の舞を踊っていた時も、小学生のように幼く、明るい、素直な人でした。
日本の仏教では、人間の魂は死を迎えてから四十九日はまだこちらの世界にいて、死後の世界への準備をしていると言われています。3月15日はよこちゃんの四十九日です。その日、真学校では死生観の講座をやります。そしてその夜、2年前にガンで実際に死にかけて復活したきょうこちゃんの物語を、木の花劇団が劇として演じます。
なぜ四十九日かというと、七×七だからです。七は質的転換、つまり切り替えです。七を七回繰り返し、納得して旅立っていくのです。よこちゃんの魂は未練の残る死に方ではなかったので、魂は乱れていませんでした。それでも時々、まだこの辺りにいるのを感じます。でも四十九日を過ぎたら、もう感じなくなるでしょう。人生を生きて亡くなると、生きた記憶が体に刻み込まれているから脱け殻になる。そして亡くなった後も、魂の世界へ旅立っていく準備をする、そういう過程がいるのです。しかし赤ちゃんの方は、まったく人生を生きていない。だから何の未練も経歴もなく、その遺体は病院にどうぞと預けて、終わりです。出発式も四十九日もありません。それはある意味、美しい状態です。

3月15日の劇は、死ぬはずだったのに蘇ってきたきょうこちゃんの物語です。実際に生のきょうこちゃんがいますから、話もできますよ。よこちゃん、赤ちゃん、きょうこちゃんの物語をこうやって一度に皆さんに紹介できるのも、まるで真学校のために準備をされていたかのようです。今年の真学校に対しては、見えないところから特別なメニューが用意されているのかもしれません。

なぜこの話をしたのかというと、私たちは命をつないで人生を生きており、そこではいろいろなことに出会います。その出会う出来事をどのように受け取っていくのかは、皆さん一人ひとりの人格の問題です。一人ひとりの人格に応じて様々な体験をし、いい人生を送ることも悪い人生を送ることもありますが、それはすべて、自分自身の魂を学習するためのものだということです。
これから「人格を学ぶ講座」に入ります。この講座では、自分のカルマはどのようなものであるのか、そして自分は宇宙から何を託され、それを受けてどのような人格をしているのか、さらに、自分がどのような響きを発して人生を表現しているのか。この3つの側面から、皆さんを分析していきます。
自分自身のことが理解できると、問題がある場合は、それを改善できるチャンスです。順調な人はそのままでいいですが、難しいのは、自分はこうだと思い込んでいる人です。自分が自分の枠の中にいて、本当の自分を知らない人は、自分自身に対して間違った認識をしています。ですから問題ごとに出会うと、相手が悪いとか、運が悪いとか、自分の外に原因があると思うのです。しかしこの世界は因果応報ですから、自分に起きていることはすべて、自分が発したことが返ってきているのです。それがわからないと、人生を生きている間に起きることはすべて人のせいになり、自分自身の状態が悪くても、良くすることはできません。自分自身を客観的に正しく見て、問題点を自己コントロールし、正せる人。それが悟りであり、いい人生を生きられる人です。これからいろいろな情報を提供しますが、自らを正しく捉える術を学ぶこの「人格を学ぶ講座」は、1ヶ月間の真学校で最も大切な講座です。