8日目「人格を学ぶ講座2」

一昨日の「人格を学ぶ講座1」に続く第2弾!
カルマ読みや地球暦といった手法を通して、表面からはなかなかわからない、その人の本質を読み解いていきます。人はどうすると健全になるのか。いさどんが語ります!

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いさどん:
人間というのはとても個性的で一人ひとりオリジナルにできています。しかし、一般的な人間関係においては、そのことがわからずに、相手に対してとても雑に接しています。例えば表面的には弱いように見える人が、実は弱さを演出して自分を主張している場合もあり、それにごまかされていたりするのです。人間の本質を見抜くことは、実にやっかいで難しいものです。

そういった精神構造の実態がわかればわかるほど、人間とはとても扱いにくいものだとわかってきます。ですから、相手をよく理解していくことが大切です。僕は今までたくさんの人間と出会ってきましたが、素直な心で生きている人間とはあまり出会ったことがありません。そして、そのような人たちと付き合いながら人間というものを探求してきた結果、極めて人間不信となりました。

多くの人は、自分で自分の姿を観ることはできません。それは、自らの実態を直視しようとしないということでもあります。そこで他者からの客観的な視点が必要になるのですが、人から伝えてもらう時に最も大切なことは、素直になるということです。まず、素直に自分を表現する。それは正直であるということです。自分の本当の気持ちを出して、その結果起きることや、それに対する相手からの反応を素直に受け取っていく。そうすれば、どんな人でもすぐに健全になれます。

人は過去世において、どのように生きたかによって、個性のベースができあがります。その積み重ねが、人格の元となるカルマを形成しています。そしてそのカルマが今世でどのように表現されていくのかは、今世の生きる姿勢にかかっています。カルマは個性ですから、有効に表現することもできれば、有害なものとして表現することもできるのです。
カルマは、小さな子どもの頃から、個性として表れます。子どもは社会経験が少ない分だけ、人から伝えられた時に、素直に受け取っていくことができます。しかし、年齢を重ねるにしたがっていろいろな経験をしていく中で、その人の性質が自らのカルマをどの方向に向けていくかによって、濁りや歪みが積み重なり、受け取ることがだんだん難しくなっていくのです。
幼い頃から確実に表れてくる人それぞれの性質を客観的に観て、そこにある矛盾を冷静に捉え、寄り添っていくようにすると、その人本来の個性が素直に表現されるようになります。そうすると、その子はとても個性的で素直な子どもになります。しかしほとんどの子どもは、そうはなりません。なぜなら、周りの環境が人格の形成に大きく影響するからです。それは先天的にそういった道を歩む定めがあるとも言えますし、後天的な出会いがその人の人生に加味されているとも言えます。つまり、その人のカルマに相応しく経験するようになっているのです。

例えば、ある年齢まで普通の環境で育ってきて途中から木の花に入ってきた子どもは、3歳までなら素直になるのは早いのですが、それを超えると修正するのがだんだん大変になっていきます。素直になる環境に来ているのに、素直になることに自我が抵抗して、その環境が苦痛になるのです。それでも年齢が若ければ若いほど早く歪みは取れていきますが、20歳を超えると、素直になることが自分を否定することであるかのように感じるようになるのです。
そうすると、たとえ伝えられたことの意味を理解しても、それによって自分が否定されたと思ってしまうため、いじけたり、自分を守ろうとしてその状態を維持し続けることになります。それがさらに継続していくと、それが固定された状態になってしまうのです。
ですから、年を取れば取るほど、素直になるためには相当なパワーと自覚が要ります。そこにメスを入れずに歪んだ状態のままで生き続ければ、物理的な現象でも、対人関係でも様々な問題の発生源となり、そういった人生の繰り返しにつながるのです。しかし、生きている限り、手遅れではありません。生きている限りチャンスがあるのですから、命がなくなるまでそのチャンスを活かして、少しでも次の為の良い種を播きたいものです。

あわちゃん:
今の話はすごいポイントですね。木の花では「正直、素直、信じる」ということを大切にしていて、正直な気持ちを出したことに対して周りから率直なフィードバックが返ってくると「正直に出せと言ったから出したのに!」と不満を言う人がいるけど、正直に出したからこそ、率直なフィードバックをもらって自分を客観的に知ることができるわけだから、正直に出すことと素直に受け取ることはセットなんですよね。

さこちゃん:
今までの自分を捨てたくなくて、泣いたりしてきました。

いさどん:
そんなに今までの自分を捨てたくなくて悲しいなら、それをそのまま持っていればいいのに、持っているのは嫌だと言うのです。嫌なくせに、それを持ち続けて泣いている。そして自分でもそれが嫌なのに、人から「それを持つのをやめなよ」と言われたらそれもまた嫌だと言う。
なぜそういう状態になるのかと言ったら、心の枠が狭いからです。キャパも小さく視野も狭い。ですから、それを超える一つの方法として、世界観を広げましょうと伝えているのです。自分のことばかり考えて自らの興味にだけ意識を向けるのではなく、多角的な視点を持つための情報を取り入れ、視野を広げていくと、自らのこだわりに囚われなくなり柔軟な物事の捉え方が身に付き、嫌な自分を捨てやすくなります。そういった視点を持ち柔軟性が身に付いた人は、他者の為になる人です。それは社会にとっても大切な存在であり、今、そういった人たちが必要とされる時代が来たのです。

これまでの世の中は、経済が大きく広がり物理的に豊かになり、そういった価値観一辺倒の、質を問わない時代でした。物の質は問われてきましたが、心の質は問われなかったのです。しかし、心の質が雑であれば、世の中全体が雑になります。人間関係も雑なら、物の本質も雑なのです。そして物があふれればあふれるほど、世の中が雑になっていきました。そこで、その切り換え時にはどういった意味があるのかということを考える必要があるのです。

ここには、たくさんの人が訪れます。以前は僕も、一人ひとりの人をきっちりと治してやろうという気持ちがありました。僕も一生懸命だったのです。しかし、その人の問題なのに僕の方が一生懸命になっていて、本人は熱心ではないというケースもありました。その人を改善するために、僕の方が何とかしようよと言っている。中には、自分がそうできないことの怒りを相手にぶつけてくる人もいました。そこで僕も、嫌ならやめたらいいんだよ、とどんどんシビアになっていきました。本人が求めれば、どこまでも付き合います。しかし求めない相手に付き合っていてはエネルギーがもったいないですから、それならば好きにしなさいと言うようになりました。それで最近は自分の方からエネルギーが出ていかないので、このように体に蓄積されてふくらんでしまいました(笑)。

何が言いたいのかというと、自分が一生懸命になれば道は開かれるということです。反対に、駄目だ駄目だとか、誰か救ってくれないかなと言って努力しない人には、道は開かれないということです。
自分の人生は、自分で歩んで開いていくものです。だからこそ、自らの中にあるものを積極的に出す。正直に出す。そして結果を素直に受け取る。「正直」という言葉がありますが、これは「正しく直る」ということであり、表に見えている姿勢が実際の自分の姿を表しているということです。外と内が違っていてはいけないのです。かっこいいも悪いも関係なく、いつでも本当の自分を出す。それはなかなか勇気のいることです。「正直」とは、今の実体そのものになるということなのです。

そして「素直」とは、素のままの本質に戻るということです。とかく人は、こういうふうに見せたいとか、こういうふうに受け取ってほしいというような思惑を持つものですが、本当は人間は楽になりたいのです。楽になるとは、負荷がかからない状態になるということです。「素直」とは、負荷のかからないリラックスした状態のことであり、顔と心が一致しているということです。
そう考えると、のぶくんの場合、知らない間に緊張して、こう見られるのではないか、ああ見られるのではないかと、心も体もとても緊張している状態ですね。そうではなく、「素直」というのは、負荷をかけずに実体のままにあるということです。

「正直」「素直」というのは、正直でなければ素直になれないし、素直でなければ正直になれません。これは連動しているのです。そしてもう一つ、「信じる」があるのですが、信じるというのは難しいのです。何故かと言うと、ここでの信じるというのは、本当がわからない状態でありながら信じて行くということを意味するからです。
例えば何かを始める時に、これは自分にとっていいことだと考えて、それがわかってからやろうとする人は、信じたことにはなりません。ほとんどの人は、これは間違いないと自分で納得してからことを始めるのですが、「信じる」というのは、納得できなくても、わからなくても進んでいけるということであり、自分の安心を何かに託せるということなのです。
それは、自分自身を、自分ではない何かに託せるということです。とてもハイレベルなことですよ。信じる心に至るには、勇気が要るのです。そしてそこには、わからなくても「そうだ」という確信が要るのです。木の花には『信じる心』という歌があります。「わからないけれど生きていく」「信じる心で生きていく」という歌詞が言っているのは、そこなのです。

かずえちゃん:
それは直観ですか。

いさどん:
そうです。「正直」で「素直」な心があるから勇気が生まれて、「信じる」になるのです。

 
信じる心

わからないけれど 生きている
信じる力で 生きている
わからないけれど 生きている
信じる心で 生きている

みんなで共に生きていることの この貴さを知らせよう
ひとりだと思い込んで生きている魂たちよ
みんなでつながっていることを思い出そう

わからないけれど 生きている
信じる力で 生きている
わからないけれど 生きている
信じる心で 生きている

砂に埋もれた希望の星を今 みんなで掘り起こして
空では星が歌っている つながっていると歌っている

わからないけれど 生きている
信じる力で 生きている
わからないけれど 生きている
信じる心で 生きている

 
いさどん:
信じる心は、勇気と確信がなければ持つことができません。そして「正直」「素直」「信じる」の3つは順番ではなく、セットなのです。
人にはそれぞれ、いろいろな心の癖がありますね。それを道理で伝えられた時に素直に聞いていくと、この人の言うことは本当だ、この人は私より私のことを知っている、だからこの人に賭けよう、という確信が生まれてきます。そうしたら、どんなに難しい病気でもたちどころに良くなります。その勇気と確信が信じる心になる期間が、木の花ファミリーの自然療法プログラムで言う、治療期間です。

実はこれまでは、現代的な医療の概念に浸かっている一般社会の人々には、こういった話はなかなかできませんでした。なぜなら、人々は、今自分が抱えている問題ごとは自分で解決するものではなく、人に託して解決してもらうものだと思い込んでおり、自らがそれを創り出したものだという解釈がないからです。ですから、自分は病気で、分析不可能な混乱の中に入っていると思い込んでいたのです。
しかし今、時代はこういったことまで皆さんに伝えられる段階になってきました。そして、物理的な問題ごとを生み出す自らの性質が客観的に観えてくれば、自ずと病気にもかかる必要がなくなるのです。なぜなら病気は、物事の本質が観えずに矛盾を発生させる自らの性質に対しての警告、もしくは気付きを促す作用だからです。

我々がこの世界に生まれてきて、なぜ問題事が与えられるのかと言うと、自らの魂にふさわしく、気付くために与えられています。それをどんどん素直に受け取って気付いていく人は、早い段階で自らの課題をクリアしていくことになります。特に子どものうちにこのような環境で育つと、初期の段階でクリアするのでさわやかな人生を生きられるようになります。そしてある段階から、自分ごとではなく、人の為に生きられるようになるのです。
皆さんも、今まで自分のことばかり考えて生きてきたということを振り返ったなら、まだ手遅れではないですから、ここから切り替えて、自らを人の為に役立てる人生を生きてください。そうすれば、誰もが希望を持って生きていくことができるのですから。

 
kalma

 
☆さてそれでは、どのように個々の人格を紐解いていくのか。
 詳細は、「1ヶ月間の真学校2017」へどうぞお越しください(^v^)ゞ

 


6日目「人格を学ぶ講座1」序章の話

2016年度1ヶ月間の真学校では、最初の2週間で全8コマの「人格を学ぶ講座」を受講します。名前からその人の魂の陰陽や性質を読み解く「カルマ読み」、生まれた日の惑星配置から天命を知る「地球暦」、そして日本語の元となった48音の思念を通して生命の本質を解き明かす古代文明「カタカムナ」という3つの手法を通し、受講生一人ひとりが自らの人格を客観的に捉えた上で後半を迎え、さらに学びを深めます。
それまで知らずにいた自分自身の本質を知ることで、驚く人あり、深く納得する人あり、時には「そうだと思いたくない」と抵抗する人あり。しかしこれは、自分に都合の良い情報だけを取り上げて自己満足するための占いではないのです。

1ヶ月間の真学校の基盤とも言えるこの講座の冒頭に、「序章の序章の話」として、なぜこれをやることが大切なのか、その意味をいさどんが語りました。

まりちゃんが作った新しい服を着て
まりちゃんが作った新しい服を着て

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僕は、いろいろな情報を得るときに、自らの感情を入れないでその情報を捉えましょう、とよく言います。それは、情報に感情がオーバーラップしてしまうと、真実が観えなくなるからです。まずは自分の思考のクセをよく把握し、その上でそのクセを意識しながら情報を聞くと、ものごとを客観的に捉えることができます。

人は自我に目覚める以前より、育てられる環境に反応し、適応することによって、内に秘められた人格が湧き出てきます。そして人間形成が進んでいくのです。
人格の成り立ちを緻密に振り返ってみると、様々な洞察が湧き出し、その人格がどのように形成されてきたのかという流れを観ることができます。その流れの中で築かれてきた人格が、私という存在です。
ある程度年齢を重ねていくと人間関係が広がり、他者との違いを通して自らがオリジナルな存在であることに気付いていきます。人によっては、そのオリジナルな目覚めが他者と違うからと言って辛い思いをすることもあれば、多くの人と同じであることに安心感を覚える人もいます。また、他者との違いから優越感に浸る人もいます。そこで優越感に浸るのか劣等感を持つのか、はたまた安心するのかは、その人の性質によって異なります。あるいは、それまでに育った環境がその反応を引き起こしている場合もあります。
そのようにして、もともと持っていた人格と、後天的な環境などから引き出された人格が折り重なり、その人の自我が創り上げられていきます。その時に、被害者のようになって人生を生きる人もいれば、加害者として生きていく人もいます。また中には、自らの人生をマイペースに生きて他者のことにはあまり干渉しない人もいます。人それぞれで、いろいろな人がいるものです。

このように細かく自らの人格形成の成り立ちを認識していく人は、ほとんどいません。ですから、多くの人は無自覚のうちに形成された人格をクセのように身に付け、そのクセのままに思考し行動していることに気付いていないのです。ですから同じことを繰り返し、「またやっちゃった」と反省したり、人から指摘されて「そういえば前にも同じことを言われてたね」「あなたらしいね」ということになります。自分の中から日々湧き出てくる感情を観察し、自己コントロールしている人というのは非常に少ないのです。

ただ、そのようにノーチェックでクセを出すことで、この世界に波紋を広げていることは事実です。この世界は鏡ですから、自らが世界に波紋を広げれば、それはいずれ必ず自らに返ってきます。因果応報という言葉の通り、この世界は原因と結果の連鎖によって成り立っていますから、何かの形で結果が返ってきたということは、必ずどこかで自分がその原因を発しているということです。その構造がわかったら、原因はどこにあるのだろうと振り返ることができます。それを発したことによって喜べない結果が返ってきたとしたら、今後はそれを発することをやめれば、同様の結果は発生しないことになるのです。

日々自らの中に湧き出してくる感情も、その瞬間にそれがどのようなものなのかを客観的に捉えることができれば、その感情をコントロールすることができます。例えばそれが相手に対して突き刺さるようなものであれば、少し緩めたりして表現すればいいのです。相手に強く突き刺されば刺さるほど、それは自らに強く返ってきます。それは相手が強く発したとも言えますが、強く返ってくるには返ってくるだけの、何かの理由があるのです。

この世界は、目に見える世界と目に見えない世界からなる「現象界(ある世界)」と、それらすべての源となる「潜象界(ない世界)」によって成り立っているということを、カタカムナの世界観から学びましたね。現象界では、光は真っ直ぐに進みます。そして物に当たりながら進むので、速度も遅くなります。しかし、私たちの想いは光よりもはるかに高速です。人がこの世界全体の構造を理解する時、その心から発せられる想いは「アマハヤミ」で宇宙を駆け抜けます。それは一切の抵抗なく人の心すらも通り抜け、瞬間的にいい人間関係作ることができるのです。
ただし、作るといっても、自分の都合の良いように作るわけにはいきません。相手には相手の都合と、精神的な歩みの段階があります。ですから、少なくとも自分からは相手が不愉快に思うような種を蒔かないことです。しかし、時と場合によっては相手が不愉快と思うようなことも、相手の状態を理解しながらあえて発しなければいけないこともあることを、忘れてはいけません。それが他者を想うことであり、自らの気付きを生かすということです。そのように自由自在にトキとトコロをかぎ分け、自らの精神を使い分けることができる人が、自己コントロールして生きる人なのです。

そのように分析しながら毎日を生きている人はほとんどいませんが、そういった構造を体得すると、自らをコントロールすることができるようになります。しかし知らなければ、無自覚に自分の感情を他者にぶつけ続けることになります。その思考回路は、ただ思いついたことを出し、また何かが浮かんだら出すという条件反射的で感情をノーチェックの状態です。そして精神が幼いと、ノーチェックで出した自らの想いが叶うのがいいことであり、叶わないと辛いことになるのです。
けれども、カタカムナの講座でも触れたように、すべての存在はそもそも「間違い」からこの世界に生まれてきています。そして物事が滞ることを通して、人は「正しい」とはどういうことなのかを知るのです。ですから、神様はわざわざ滞りを私たちに与えました。このことを理解できない人は、滞りが起きると「神様はいじわるだ!」と思うかもしれません。けれども、神様も含めたもう一つ大きな世界から観れば、そうではないことがわかります。そのスケールでものごとを解釈できた時に、人は初めて自らのスケールを広げ、大人としての人格を持つことができるのです。

「人格を学ぶ講座」では、まず自らの人格の実態を知っていきます。3つの手法(カルマ読み、地球暦、カタカムナ)を通して、心の形を客観的に捉え、それが現在の自分にどのように表現されているのか、今までの人生を振り返ってどのように表現されてきたか、またその結果を受けてどのように反応してきたかということを紐解いていきます。そして、自分は今世どのような心の性質を持って生まれてきて、それをどれだけ認識して生きているかということを観ていきます。
ほとんどの人はそのようなことに無自覚なのですが、幸せなことに、たくさん問題ごとに出会う人ほど、少しずつそれを伝えられる環境をもらっていることになります。それは神様の愛です。そして、それが自らの中で愛として捉えられているかどうかが、とても重要なのです。

今私たちが生きている時代や環境、民族、国、親兄弟やその他の近しい人々まで、そういったものはすべて、学びとして自らが選んで生まれてきているのです。しかし多くの人は、何か問題が起きると周りのせいにします。周りが間違っているから自分は辛いのだと不満を言うのか、それとも、その問題のおかげで自らの学びを深めることができてありがたいと思うのか、そこには大きな違いがあります。そしてそれは何か特定のものに感謝するということではなく、この仕組み自体が私たちが生まれてきた意味そのものなのです。誰しもそこから離れて生きられる人はいないのです。

僕自身のことを振り返ってみると、なぜ自分のもとにこういった道が与えられたのか、その意味が分かってきました。それはこの時代の人々に、新しい意識を提供するためです。
そう言うと、救いの手を差し伸べられたかのように受け取る人がいるかもしれません。一時はそのように捉えてもいいのですよ。しかし、ぜひその先に行ってもらいたいと思っています。これから学ぶ手法を通して自らを紐解き、それを生かして、世の中に生きることの本当の意味を知ることを広めてもらいたいのです。
生きることの本当の意味を知ったら、人は無駄なことはしません。無駄なことをしないからエネルギーも無駄にならないし、競争をしないから争いも生まれません。生きる意味を知ることは、人の心を穏やかにするのです。それが真の平和運動であり、それこそが、この1ヶ月間の真学校のテーマである「目覚め」の目的なのです。

人は自分を知るために人生を生きていると言えます。自らを知らずにいると、どこにいるのかもわからないままやみくもに生きることになります。世界にたった一つしかない自分物語を、自らが主役となって生きるからこそ、人生を振り返り、一人ひとりオリジナルに与えられた役割を果たすことができるのです。

これまでは、世の中にも、人々の間にも差がありました。そして政治の世界でも経済の世界でも、社会を構成するほとんどの人はリーダーシップをとる側ではなく、ついていく側にいたのです。
しかし今、みんなで創る時代が始まりました。一人ひとりが主役となり、みんなで創っていく。それは本当にやり甲斐のある、希望の持てることなのです。

(いさどん)

――
こんなふうに一人ひとりが思えるかが、時代の大きなターニングポイントを迎えるに当たり本当に大切なことなのです。

日常の出来事を受け、小さな心の動きから、それを緻密に観て分析していくことで、自分を知り、他者を知り、世界、宇宙の仕組みを知っていく。そして逆に宇宙、世界、他者の視点から自分を観る。それが循環しながら、一瞬一瞬、自分が意識しようがしまいが波動となってこの世界に表現されていく。自らのカルマを超え、もとの美しいヒビキを持つものになった時、宇宙からのメッセージを受け、それをそのまま表現できるものになる。そこに表されたものは、一人ひとりオリジナルで、しかもそれらの一つ一つは不完全だからこそ繋がりあい、美しいハーモニーを奏でる。その為に不完全さがあるのだから、その仕組みを知り、調和の方へと自らをコントロールしていければ、その不完全さが個性となって輝く。

そんなイメージを日々持ち、自分の人生を大切に生きていれば、愛あふれた調和の世界が遠からず実現できます。大きな構想ですが、それも小さな一人ひとりの意識の一歩から創られていくのです。

(まりねえ)