22日目午前「災害に向かって生きる」

1ヶ月間の真学校第22日目の午前は、「災害に向かって生きる」というプログラムが提供されました。そのプログラムの冒頭でいさどんは次のように語りました。

いさどん

「災害」というのは、人間から見た解釈です。地震も津波も地球の生命活動であり、それは新陳代謝でもあるのです。わたしたちの体も同様に、毎日多くの細胞が死に、そして新たな細胞が生まれてきています。地球の中でも新陳代謝の激しいところと比較的安定しているところがあります。また、長い地球の歴史からすると、大きな変化が起きた時と長く安定していた時があります。それは、地球が生命であるということです。そしてその生命は宇宙そのものであり、宇宙は常に変化、変容、変態を繰り返しているのです。ですから、わたしたち人間が築き上げたものが壊れたといって区切って見る解釈は、きわめて人智的な捉え方なのです。それは、長い目で見たらものは必ず壊れるからです。生命自体は誕生、維持し、それが壊れ、空(くう)となって、また始まるという循環の中にあり続けるのです。

今日は3月6日です。あと5日で東日本大震災が発生してから5年が経ちます。東日本大震災で約2万人の人々が亡くなり、たくさんの物が壊れましたが、あの震災を振り返ってみると、あの地にはこれまでに何度も地震がありましたし、津波もあの地域を襲っていました。しかし、長い間に人々は古くからの言い伝えを忘れてしまい、人工的な防波堤を信頼し、危険な場所に住んでいたのです。昔、そうしたことを伝えていた道祖神など(波分け観音など)がありましたが、人間の欲が勝ってしまったがために人々はそうした伝統的な言い伝えを無視し、便利さのために危険な場所に住んでいたことが、5年前の震災があったときに明らかになりました。

しかし、そういったことを天然循環法で捉えると、直観で感じ取り、そのようなトコロに住まない、もしくはたとえ津波が間近に迫っている時でも、直観でそのような兆しを感受することができれば逃れられたはずなのです。危機的な状況の中で直観が働き、命が守られることは、生命感が優れている証です。しかし機械的な情報ばかりに頼ってしまい、人間の生命感が失われていると、災害に遭うことになるのです。例えば、ゴキブリやネズミは家が火事になる前に引っ越していくそうですが、人間はお酒を飲んで寝ていたりして亡くなることがあるのです。本来、わたしたち人間もそのような生命感を持っているはずなのですが、今の人々はそれを失っています。

災害を語る前に、何よりも認識しておかなければいけないことは、わたしたちは生命であり、生まれたら必ず死ぬということです。そうであるならば、むやみやたらに死ぬことを恐れる精神状態を考える必要があるのです。つまり、死は生きることの集大成なのですから、その生きる中身がどうであるかによって、死はいつ訪れても恐れるものではなくなるのです。なぜならば、死は必ず訪れるものであり、生きることの結果必ずついてまわるものだからです。ですから、もし死にたくなければ、生まれてこなければいいのです。ところが、不思議なことに人は生まれてくると、生きていることに対して一喜一憂するのです。大切なことは、わたしたちが生まれてきた意味や生きる意味、そして死んでいく意味をホリスティックに理解した上で、生命世界を生きていくことなのではないでしょうか。そのように捉えると、災害が少し違って見えてくると思います。

災難というと、何か嫌なことが訪れ、出来れば避けたいと思うものですが、地球の歴史を遡ってみれば、生命は何度も大量絶滅を繰り返してきました。少し不謹慎な話かもしれませんが、僕は津波のことを思い浮かべたときに、たらいの中に浮かべた板の上の蟻を想像したのです。たらいに浮かべた板の上に蟻を何匹か乗せて、水面に何かを落とすと、波が起きて板の上に水がかかります。蟻からしたら、その波は5メートルくらいの波でしょうか。この写真の津波も、5、6メートルくらいでしょうか。

出典: geocities.yahoo.co.jp
出典: geocities.yahoo.co.jp

そうすると、たらいの中に何か物を落として、波が起こり、蟻の何倍かの高さの波が蟻の上を通っていったとき、それを地球の大きさに例えればほんの僅かな現象なのです。例えば、地球上には最も高いエベレストという山があります。それは9千メートル弱です。それから海の一番深いところが1万メートルくらいありますが、地球の直径は約1万2千キロメートル、また大気は約100キロメートルあります。地球にとって100キロメートルは卵に例えると、卵の殻の部分に匹敵します。そうすると、この地球は山の皺や海のへこみを含めても、とてもきれいな球だということです。そこに5メートル、10メートル、30メートルの津波が来ることは、ほとんど何も起きていないに等しいのです。ですから、わたしたちにとっては大変なことが起きたように思えたとしても、地球規模で言えば、それは何も起きていないに等しいのです。それに比べ、わたしたちがご飯を食べる前に手を洗うとき、それは手についている菌からすると、災害が起きているような大変なことになります。もしも、しっかり手を洗う人がいれば、手についている菌にとっては大災害に出遭い、大量絶滅したことにもなるのです。

今回の真学校では世界観を広げることがテーマでした。そして世界観のスケールが大きくなればなるほど、被害を受けたと感じる被害者意識がほとんどなくなっていきます。地震は地球の生命活動であり新陳代謝なのですから、宇宙から見たら地球はとても安定した星なのです。ですから、自然災害が起きて報道されるたびに、僕にはそのようなイメージが浮かんできて、「それほど大したことは起きていないのになぁ。これは定期的に起きている地球の新陳代謝であり、生きていることによって生まれたひずみが、地球をほんの少し変えているだけなのになぁ」と思うのです。そして、ほんのちょっとの水の波がこのような現象を引き起こすのですから、手を水で洗ったくらいではなかなか菌が取れないのと同じように、人間の営みも5年もすればまた元の状態に復活していくのです。

出典:http://workers-magazine.com/
出典:http://workers-magazine.com/

このように捉えると、ものの見方が変わっていきます。ものの本質を捉える時に、世界観が狭く囚われの心で見れば、それはとても悲惨なことであり、大切な人を無くしてしまった悲しく追悼すべきことになります。この震災で2万人くらいの人が亡くなりました。しかし、災害などがない時にも人はどんどん亡くなっていきます。僕は、人々が亡くなったことがどうでも良いと言っているのではなく、こうしていろいろな形で新陳代謝が繰り返されていることを理解する必要があると伝えているのです。ましてや災害対策を考えれば、生きているわたしたちにとって死は常に隣り合わせにあり、どのような形にしろ、わたしたちにはいずれ死が訪れます。宇宙において死ぬことは、正の方向であり流れです。ですから死を恐れるのではなく、どう生きるのかが大切であり、その死を満足のもとに受け入れていくことが重要なのです。さらに、死ぬことは宇宙の流れからすると、また生まれてくるということでもあるのですから、爽やかに生きて、気持ちよく旅立っていけば、また爽やかに生まれてくることになります。これはお金でも同じことです。気持ちよく使う人には、また気持ち良いお金が入ってきます。このように全てのものには、人の心の響きが乗ります。人生にも心の響きが乗りますから、生きることの心構えとして、いかに宇宙法則に乗せて気持ち良く流していくかが大切なのです。そのように解釈すると少し気分が変わりませんか?

「今日は防災訓練だ!」となると、火事になったときにどうしようといった話になって、とかく人は構えてしまいます。リラックスしていれば、全身の細胞がパラボラアンテナのようにセンサーになり、それが色々な変化を感受するので、上手に天の気を読むことができるようになるのです。しかし、「助かりたい!」という想いが強くなると、色々なものにぶつかってしまい、かえって動きが悪くなります。ですから、防災に対する捉え方も、人の心に起因するものだと僕は思います。こういった話をすると防災の話は不要になってしまいますが、資料が用意してありますので、今から一緒に見ていきましょう。

スライド4

この後、「災害はメッセージ」のプログラムのプレゼンに沿って、いさどんとみちよが話をしました。その後、ワークショップ形式で、参加者一人一人が自分たちが暮らす環境を振り返る時間が持たれました。

防災WS (3)

 

そして、最後のまとめとして、いさどんは以下のように語りました。

今日は、防災について学ぶと同時に、防災とは何かということをみんなで話し合いました。そこで至った結論は、わたしたちが生きると、色々な問題事に出会うということです。これは、真学校を通して一貫して皆さんにお話ししてきたことです。問題事に出会うことは、わたしたちが自我で生きていることに対して、この世界の法によって生かされていることをわたしたちに認識させるためのものです。わたしたち自身は、肉体と心により形成されています。それは自身の内から外に向かって観た視点です。同時にわたしたちは、外から内に向かってこの命が形成されるネットワークの中にいるのです。その双方の成り立ちを意識したバランスの取れた視点を持てば、宇宙が完璧に素晴らしい世界をわたしたちに提供してくれていることに気付くのです。

地上を生きるものとして世界観が狭ければ、物事を広い視点で捉え、そこにある流れや生きることの意味を理解することは難しいでしょう。しかし、わたしたちが地上を生きる役割は、もっと大きな宇宙の仕組みである調和や愛を地上に表現することです。そのことがわかれば、それらを地上に表現できるのです。それが天と地の和合であり、地上に天の法則を表現する役割を果たすことになります。それが本来、わたしたちが地球に生きることの意味です。それが宇宙の実相ですから、それを地球という特別に創られた奇跡の星で表現することが、わたしたち人間に与えられている大きな使命なのです。わたしたちは過去から未来に向かって時代を紡ぎ、その役割として地上に現れ、この宇宙物語を表現しているのです。

web of lights
出典: https://judithkusel.wordpress.com

災害やそれに対する防災を考えるとき、わたしたちの世界観が狭ければ、そこに起きることに対する対策をすぐにしたがるものです。そうした対策は大いにする必要があるのですが、それが目先だけに囚われた解釈になると、それは辛いことに対する対策で終わってしまいます。しかし、災害に出遭うことや災害に備えてその意味を考え、語り合うことは人々の霊性を高め、世界観を広め、最終的にはこの地上に理想の世界をもたらすきっかけとなるのです。ですから人々の意識が宇宙法則から外れるほど、天はわたしたちにそういった出来事を通して考えるチャンスを与えてくれるのです。そのような災害の捉え方をすれば、ただ辛いことに出会っただけではなく、災害もありがたいこととして受け止められるのです。生命として生きることはそのような高い意識を創る世界に存在することであり、そして自然の中に生きることは、ある意味自我を超える修行をしているようなものですから、厳しく感じられるようにできているのです。

そもそも、この世界は矛盾から生まれたのですから、その矛盾の現れである自然の中に生きることは、常に矛盾を埋め合わせて行くことになります。そのカラクリを知り、その中で翻弄されるのではなく、見事にそれをすり抜けて生きる術を見つけたならば、わたしたちはもっと大きな存在になれるのです。それは、宇宙を理解し、命を超越して宇宙を旅するコノハナ人になるということです。

真学校も終盤を迎え、この学びに出会うことの意味が皆さんに定着してきたと思います。当初は、皆さん一人一人の人生の課題に向き合うということでしたね。そろそろ、自らの存在がこの世界を担っているという高い意識に目覚めることが、真学校に出会った意味だと気づいていただければと思います。そして、人は必ず死にます。その時に悔いのない旅立ちをするために、皆さん一人ひとりが高い意識の元にこの世界の成り立ちを担っていることを意識しながら生きていくことを願っています。


防災デーについて

真学校2週間目の最後2月27日に、防災ワークショップが行われました。

人類が際限ない物質的な豊かさや経済成長を追い求めた結果、地球の46億年の歴史の中の、ほんの一瞬にしか過ぎない短期間に、地球環境を変化させ、自然災害が世界のあちらこちらで起こっています。

その災害をどう捉え、どのように防いでいくのかについてのワークショップを行いました。

受講生からは、「こうしたことは考えてもみなかったので、今後意識していくことができる」という感想が多く聞かれました。


ワークショップの最後に、いさどんから「防災について」以下の話がありました。

防災というと、人によっては恐怖をイメージするものですが、地球の歴史から観れば、たとえば生命の大量絶滅は過去に何回もありました。それは古いものを壊し、新しいものを生み出すきっかけになってきました。私たちは、人生を生きていく上で色々な出来事や困難に出会いますが、そういった困難は自分たちの今までの在り方を振り返って、新たな人生に出会うチャンスでもあるのです。ですから、地球規模で私たち生命の存在を捉えれば、それは決して悪いことばかりではないのです。

ただ、人間は今の自分に囚われ、今の状態を維持したいと常に思うわけです。維持したいと思うと、自らにとって恐怖に思う出来事が起きようとすれば、それを避けようと考えるものです。しかし、世界はこれまで一度も止まることがなく、変化・変容・変態を繰り返しています。そして、私たちも常に新しい世界を生きているのです。すべての生命が古い自分を捨て、新しい自分に出会い続けているのです。

そういったことから考えると、防災という考え方は現状を守りたい心で成り立っているとも思えます。しかし、時代は変わり続けていくのですから、何かが壊れていくということは、新たな時代の幕開けにつながるということです。今の世界情勢を観ると、地球上での人間の営みが飽和状態になってきているので、危険信号とも取れる様々な自然災害が起きようとしています。そういった災害は、これからも現実に私たちの身近なこととして起こり続けるのです。

まず、地球温暖化から来る気候の変化は、確実に今後食糧難を引き起こします。人々の考え方や生き方を変えていかないと、それは極めて身近な現実となります。しかし、今考え方を変えても、すでに今までのツケがこれから現象として現れてきますので、ある意味手遅れでもあるのです。

そうすると、それに対して私たちはどのように考えたらいいのでしょうか。
今から全てを変えてそれに対処することはできません。しかし、その必要はありません。つまり、その都度私たちはどのようにしていけばいいのかを考えていけばいいわけですし、そのような対応しかできないのです。

その時に、自分さえよければいいという「我先の心」は、奪い合い殺し合う世界を創ります。本来の日本の大和の精神は「和」の心です。「大和」とは、「大いなる調和」を意味します。その和の心があるからこそ、日本で災害が起きると、人々はつながり助け合うようになり、世界からもそういった精神を非常に評価されています。それとは逆に、海外では災害が起きるとここぞとばかりに奪い合う事件が起こっています。
ですから、大和の精神はこういった時にこそとても重要なものであり、私たちが日本人でいることの意味があると思うのです。これから、地球上で災害が頻発する時代に、そういった心を私たち大和民族は発揮する時が来ていると思います。

それと同時に、人間はこれまで物理的な豊かさを求め過ぎてきたがために、対立の世界を創ってきました。そういった世界が災害によって壊れるということは、新たな世界を創りなさいという人類に対してのメッセージでもあるのですから、広い世界観があればむやみに恐れる必要はないのです。
これまで蓄積されてきた地球上のプラスのエネルギー(破壊のエネルギー)は、いずれ現実に私たちの前に現れてくることでしょう。ただ、その恐怖を煽って、どこかに誘導しようとは思いませんし、そのように考えてもいけません。やはり、一人ひとりがそのメッセージの意味をよく捉えることが大切です。

私たちは一人ひとり生きています。蜜蜂の世界では、一匹の蜂が生きるということは、何万匹の蜂の生命をつないでいくことです。それは私たち人類も同じであり、生きるということは、自分が生きると同時に、人類という生命を次の世代へつないでいくことなのです。そこで自らを主張したところで、46億年という地球の歴史からすると、それはとても微細なことです。

そこで私たちが問われるのは、自分自身が今まで生きてきた結果、次へ何を伝えたのかということです。生きてきた結果、死を迎える時に、充実した人生だったと思うのか、それとも結局自分本位に生きて自らの価値を下げたのかが、問われると思うのです。

これまでの人類の在り方のように、ただ、物理的に生きて、物理的な喜びのもとに存在しているようでは、これから来るであろう困難は恐怖にしかすぎません。しかし、本来生きることはそうではないはずです。物理的なことを超えて、私たちがこの世界を創る一部であり、歴史の一部分を紡ぐ者であることに気付く時がいよいよ来ているのです。
私たちの実態は魂であり、そこに肉体が形成され、その器の中に魂が生きています。肉体は終わっても、魂は残ります。それがまた何かの縁により、この世界に生きるとしたら、今の時代を生きることは自分の未来を創っていることにもなります。

このように世界観を広げていけば、今をどのように生きるのかによって、未来の自分に何を与えるのかが観えてきます。そして、それはこの三次元の世界でも、今をどのように生きるのかが、自分の子供や孫だけではなく、全てのいのちに影響を与えているのです。そのような捉え方をしたら、人間の生き方自体が変わってくるはずです。その時に、私たちは新たな時代を観るのでしょう。今をどのように生きるのかが今、一人ひとりに問われる時代が訪れています。

防災デーにあたり、ただ危険が来るからそれを避けて通るという表面的な狭い視点ではなく、ぜひ広い世界観を持つきっかけにしてもらえればと思います。

そして、それは死生観にもつながります。死は必ず訪れるものなのですから、気持ち良く生きて潔く旅立っていくことができるのです。
ただ災害を防ぐだけが防災ではありません。防災を考えたときに、やはり日々の生き方の姿勢を自らに問い、そして時代と共に問うていくことが大切だと思います。