受講生の一人であるニナは、アムステルダムの大学で文化人類学を専攻している大学院生です。「精神性と持続可能性がどのように関連し、日常の生活の中で実践されているのかを学び、その背後にある哲学への理解を深め、現代の消費社会に対する代替案を提示したい」との目的から3ヶ月間の予定で木の花ファミリーに滞在し、その一環として真学校を受講しています。「受講生の多くが自己改革を目的としている中、社会的な目的を持って参加している二ナの視点が加わることで全体に客観的な捉え方が生まれ、みんなにとってとてもいい刺激になっている」と同じく受講生のめぐちゃん。
ニナは真学校開講前から定期的にいさどんにインタビューをする時間を持っています。真学校も3分の1を過ぎた昨日は、ニナからのこんな質問で始まりました。
ニナ:
いさどんは60歳の時に生前葬をしたと聞きました。それがどのような意味を持つのかを聞きたいです。
いさどん:
それは、物理的にも霊的にもみかちゃんの方が詳しいですよ(笑)。
土星は太陽の周りを1周するのに30年をかけます。それは人の人生にとっても一つの節目となるサイクルを刻んでおり、自分が生まれてから土星が1周する30年の節目を「サターン・リターン」と言います。
僕は30歳の時にお釈迦様に出会い、この生き方に目覚めました。それを実践してきて、40歳からこの生活に入りました。50歳の時の記憶はあまりありませんが、ある程度木の花の基礎ができて、自然療法プログラムや様々な場所で講演などをするようになったのが50歳ごろのことだと思います。
僕の人生は、30歳までは自分のための野心で生きてきました。そして30歳からは、与えられた宿命を実現する人生に入りました。そして60歳になり、その与えられた役割を最も大切なものとして生きるということが、60歳からの使命だと思いました。
だからと言って60歳以降の生き方が変わったかと言うと、僕としては全然変わったとは感じていません。自らの人生の終わりに向かい、完結していこうという意志が働いているだけです。ただ、60歳から明らかに体質は変わり、僕の体は大きくなりました(笑)。そして安定して高止まりしています。霊的にも変化はあるのでしょうけどね。
葬儀をするということは、旅立つ人よりも、送る側の人たちにとって意味があります。ですから、葬儀委員長だったみかちゃんの方が詳しいと思いますよ。ですから、みかちゃんに聞いてみるといいですね。
ニナ:
そうします。送る側にとっての方が意味があるというのは、どうしてですか?
いさどん:
通常の葬儀では、亡くなった人というのは次のステージに向かうだけです。ですから亡くなった人にとっては、葬儀があろうとなかろうとどちらでもいいのですよ。もう新たな方へと向かっているのですから。もしも亡くなった人が自身の葬儀に対してクレームをつけるようなら、それは生きることに対して執着があり過ぎるということですから、霊的には問題な存在です。そう思いませんか?
ニナ:
そうかもしれませんね(笑)。
いさどん:
僕はいつの頃からか、何かの機会があるたびに、自分が死ぬ瞬間をシミュレーションするようになりました。例えば高速道路を走っている時に、交通事故に出会うことをシミュレーションします。大きな病気でもすればそれが原因で死ぬこともあるでしょうが、今のところ僕には病気がないので、現実的に死ぬ可能性のある瞬間を常にシミュレーションしているのです。
その時にいつも僕が大切にしているのは、いかに死を受け入れていくかということです。いかにその現実に抵抗せず、それを越えた先の世界へ積極的に進んでいくか。実際に死んでみなければわかりませんが、僕は、生きている人たちが死んだ僕に対して何をするのかということはほとんど気にすることなく、旅立っていくだろうと思うのです。
残された人たちに対する意識は、生きている間に伝えています。残された人たちともしも霊的に再会するとしたら、死んだ先の世界に、例えば熊が冬眠するような穴があって、そこで休憩しているから後から来る人はそこに集合しよう、と言うかもしれません。そこは銀河旅行の駅のようなものですが、そこで何人の人が一緒に乗れるのかはわかりません。
まあ、これも今そう言っているだけで、実際はどうでもいいことです(笑)。
ニナ:
では、今生きている中で大切なことは一体何ですか?
いさどん:
僕にとって大切なことは、何もありません。あえて言うならば、人類の目覚めです。今の愚かしい悪夢から人々が目覚めることです。ただ、これは神様があえて人間に悪夢を見るように仕組んでいるという可能性もあります。悪夢を見れば見るほど、目が覚めた時に感動があるでしょう?ですからこれは、神の人類に対するプレゼンとか、はたまたいたずらか、どちらかですね。
ニナ:
それはどちらでしょう?(笑)
いさどん:
う~ん、どっちかなあ(笑)。両方かもしれないですね。なぜなら、神さまは楽しむことが最優先だからです。僕はこの神の仕掛けたゲームに、対抗心を持って臨んでいます。「このゲームには負けないよ」と(笑)。ですからそれがプレゼントであろうといたずらであろうと、どちらでもいいのです。
ただし、そのゲームを真剣にやり過ぎると深刻になります。このカラクリがわからない人々は気の毒ですね。
ニナ:
木の花のメンバーたちはそのゲームに対して深刻になっていると思いますか?
いさどん:
深刻ですね(笑)。
ニナ:
確かに昨晩の大人ミーティングで、メンバーたちが深刻になっている感じを受けました。
いさどん:
深刻になるのはいいのですが、深刻になる目的は、それに踊らされるのではなく、そのカラクリを知って、余裕を持って豊かに生きるということです。みんなは固いですね。深刻になった時にこそパフォーマンスをやったり冗談を言って、場をやわらげることです。
ただしそれは、深刻の意味がわかった上でやらなければいけませんね。わからないのにやっては、ただの不真面目ですよ。まあもっとも、僕がいつもそうしているのと同じようにメンバー全員がやり始めたら、メンバーの数だけ僕がいるみたいですから、それはそれで問題ですね(笑)。
ニナ:
コミュニティ全員がいさどんになったところを想像しちゃいました(笑)。
いさどん:
ゾッとするね(笑)。
ニナ:
木の花のメンバーがゴールに向かっていくことについて、どのように考えていますか?
いさどん:
目的地に着くことが目的ではないと、僕は思っています。大切なのは、そのプロセスです。だから大変な道があってもいいのですよ。
今日、「人格を学ぶ講座」の中で、あなたの地球暦を読みましたね。それを読みながら僕は、新人類が現れたな、と思いました。もしくは、これからの人類の可能性に出会ったと思いました。僕が憧れているアメーバのようなね(笑)。
今日、日和(木の花で生まれ育った女の子)が日記を書いて持ってきました。以前彼女が落ち込んでいた時に、日記を書いては時々僕のところに持って来ていたのですが、いつの頃からかやらなくなり、2、3日前に部屋を片付けたら久しぶりにその日記が出てきたのだそうです。それで彼女は、久々に日記を書いてみようと思いました。そしてそれを僕のところに届けました。
それを読んで、僕はとても感動しました。彼女は勉強が苦手で、自分のことをバカだと言っていますが、あんなにもポジティブに人生をエンジョイできる人になったなんて、と。これなら勉強なんかしなくていいね、と思いました。素晴らしいです。(日和の日記については、木の花ファミリーブログをご覧ください。)
そう感じた時に、あなたのことを思い出しました。新人類が生まれてきたな、と。僕は日記の最後にこうコメントを書きました。「日和に出会えて幸せです。」あの日記は、ぜひあなたにも読んでもらいたい。素晴らしいよ。勉強はできなくてもいいんです。
ニナ:
その日記のどこを特に素晴らしいと感じましたか?
いさどん:
彼女は、子どものころからとても明るい子でした。明るいけれどちょっと暴走気味のところもあって、子どもたちの間ではうっとおしがられることもありました。それで他の男の子たちに何となくいじめられるので、僕はいつも日和の味方をしていたんですよ。だから彼女にとって、僕は大事な存在だったでしょうね。しかし彼女自身は、勉強も苦手だし、自分のことをあまり評価していなかったのです。
そして中学校を出て、高校には行かずに2年間を木の花で農作業やお菓子作りをしながら過ごしました。そして外にアルバイトに行くようになり、3ヶ月が経ちます。その中で、彼女がネガティブからポジティブに変化していくプロセスがとても面白いのです。これまでにあったいろいろなことが全部素晴らしいことだったというのですから。まだ若いからそんなにたくさんの物語があるわけではありませんが、何しろ素晴らしい。言葉ではどう表現してよいかわからないので、ぜひ日記を読んでください。
彼女の姿勢は、ここのもっと小さな子どもたちにとってもいい刺激になっています。そして彼女より年上の子たちにとっては、自分の姿勢を見直すいい機会になるだろうと思います。
ニナ:
木の花で育った他の子どもたちにも興味があります。他の子どもたちといさどんとの関係はどのようなものですか?
いさどん:
それは一人ひとり違います。それぞれが独特です。それは大人のメンバーと接するのも同じですよ。どういうことかというと、その人の人柄に応じて接しているということです。こちらの伝えることをサッと理解する人もいれば、時間のかかる人もいます。
僕は一人ひとりとの関係を、プロセスとして捉えています。ですから時に、相手が感じている印象とはギャップがあることがあります。どういうことかと言うと、僕は相手の今の状態を、その人が歩んでいく物語の一部として捉えており、今はこの人には厳しく接することが必要だな、とか、今は甘くしておこう、というようにつなげて観ているのですが、相手はただ厳しくされていると感じている人もいれば、好感を持っている人もいて、受け取り方は様々です。
ですから子どもとの関係がどうかということを、一律に語ることはできません。それは大人との関係も同じことです。いさどんは策略家なんですよ(笑)。
ニナ:
調整しているということですね。
いさどん:
そうですね。その人がいかに大切なものを築いていけるかということのために僕は生きていますから。その中で一人ひとりにはそれぞれのサイクルがありますから接し方もそれぞれに違いますが、相手を大切に思い、愛していることに違いはありません。
ニナ:
ここを離れたメンバーについても興味があります。ここを離れる人は、いい感情を持って離れるとは限らないですよね。
いさどん:
そこは難しいところですね。いい感情とは何なのか、ということです。
離れていく人も、ここのやっていることは大切だということは理解していたからこそ、メンバーになったのだと思います。ところがメンバーでなくなるということは、それを最優先にできなかったということです。
その中で、その人にとっての「旬」が来ていなかったから離れていく人と、旬でありながら離れていく人がいます。後者の方が業が深いです。そして業が深い人ほど自分を否定したくないので、感情としては悪いものを持って離れていきます。旬でなかった人は、感情がどうであるかは別として、また旬が来れば戻ってきます。
僕はどの人に対しても、この道に戻ることはいつでも容認しています。ただし、人によっては無条件に戻ることを許してはいけない場合もあります。その人の性質にふさわしい振り返りがなければなりません。どの人も、メンバーになってから離れるということは、この生き方の大切さをわかった上で離れるということですから、離れていく自分に対する評価は複雑でしょう。自分に対して否定的になることもあれば、木の花に対して否定の矛先を向け、自分自身を肯定しようとする人もいます。それはどちらも、相手の都合の問題です。
今、世の中には様々な人々の価値観があります。それは西暦1000年から2000年にかけた1000年間の拡大の時代の名残です。それが今、2000年を越えて3000年へと向かう1000年が始まり、これまでの拡大の時代から、余分なものをそぎ落として真実に目覚めていく時代に入りました。世界はそのようなサイクルに入ったのですから、この視点は重要です。
そろそろ、こういったメッセージを人類に向けて発信していく必要があります。今はまだ、人類に対する影響はそれほど大きくないかもしれませんが、時が経過していくにつれて、そのメッセージの重要性に人々は気付いていくはずです。そして新しい時代の真理を求める人々が目覚めていくきっかけとなることでしょう。
僕の中ではふっと、今朝そのスイッチが入りました。その証として、今日あなたの地球暦を読んだのだと思います。もともとあなたのような人々は世界にいたのかもしれませんが、僕は初めて出会いました。僕は瞬間的に、あなたのことを宇宙人だと思いました。そう思いながら、自分も宇宙人だった、と思いました(笑)。だから人のことを特別だと思ってはいけませんね。
日和のことは全然宇宙人だとは思っていませんでしたが、夕方に彼女の日記を見て、勉強ができなかったり飛び抜けて優れたところがなくても、人はこんなに美しくなれるということを感じて、感動しました。これからは、何でもないところからそういった美しい人がたくさん現れてくることでしょう。
ニナ:
今日はとても良い流れだったようですね。
いさどん:
こういった生き方を目指して集い、コミュニティを創った木の花の人たちも、一人ひとりはとても一生懸命ですが、もう少し羽目を外してもいいのかな、と思いますね。エンジョイしなくちゃ。彼らはエンジョイするのがヘタですね。僕はエンジョイしてるでしょ?
ニナ:
いさどんのやり方はいい方法ですね(笑)。
日和や私の世代についても考えていました。大きな都市に住む人々にとっては、まだ物質的なものが大切になっていますよね。物質至上主義的な価値観の人々に対して、どのように考えますか?
いさどん:
大都市か田舎かは関係なく、人々は欲望や自我にまみれています。そして欲望や自我にまみれている分だけ、人工的な生き方をしています。お金や物と関わっていても、欲望や自我に翻弄されずにある程度コントロールできている人というのは、自然に近いですね。こういった分類の方が、人々が今の時代の混乱を解決していく方向性をつかむのに適切だろうと思います。
ニナ:
若い世代の人たちにとっては、例えばiphoneは重要なものですよね。
いさどん:
彼らにとっては、iphoneを介したネットワークが脳に直結しているのでしょうね。そこに出てくるいろいろな情報と脳の中の情報が見えないもので連結していて、一種の人工頭脳のような状態になっています。それはある意味、人間の単独の思考回路を越えて、ローカリゼーションからグローバリゼーションになるように、思考がコンピュータの中に入ってたくさんの人々とつながるので、ある意味進化ですね。ところが彼らは、一種の中毒にもなっています。それは人間の人格否定とも言えて、自分らしいオリジナルな人格を否定することになるのではないかとも思います。
それはきっと何らかの形で害が出てくることでしょう。しかしあの中毒状態の人々にやめなさいと言ったところで、意味はありません。それはひとつの時代のプロセスとして、どうなっていくのか興味を持って観ていくことです。彼らは確実に未来の地球を担っていきますからね。
そしてひとつ、彼らの中に可能性を感じるのは、自我が重要だった20世紀までの人類の視点からすると、新しい精神世界を開く可能性があるということです。実際に、今回の真学校参加者の中で最年少であるオレンジくんは、聖者になって人類を導くのだと言っていますね。ただし、自分の価値観を優先して他者と通じ合わなければ聖者とは言えませんから、そこは意識する必要がありますが、いつかは変身するかもしれません。ニナも宇宙人ですが、オレンジくんも宇宙人です。
ニナ:
彼は素晴らしい聖者になる可能性がありますよね。ユニークな方が適しているでしょうから。
いさどん:
そうですね。今は変わり者でも、世の中がその方向に進めば「素晴らしい」に変わる可能性があります。
ニナ:
時代は変わるものですが、それはいつ、どのように変わっていくのでしょう?
いさどん:
「人格を学ぶ講座」で、地球暦の惑星配置の構造について学びましたよね。惑星同士が創る角度が個人の人生にどのように関わっているのかということをお話ししましたが、あれは我々の思考で解釈しやすいように、便宜上そうしているだけです。実際は、瞬間瞬間どの角度でも、星々は対話をしています。たくさんの楽器がそれぞれの音を出しながら、全体で交響曲を奏でているようなものです。その中でターニングポイントというものはありますが、時代がいつ、どう変わるのかというと、例えば1月1日になって新しい年を迎える時に、前の日から比べて元旦に何かが変わったかというと、何も変わりませんよね。つまり変化というのは、ゆっくりじわじわと進むものなのです。
ニナ:
講座の中で、時代は既に変わっているというお話が出てきますね。
いさどん:
そうですね。日本では、毎年だいたい12月21日に冬至を迎えます。冬至は1年で最も太陽のエネルギーの少ない時です。しかし気温が最も寒くなるのは、冬至からだいたい1ヶ月後の1月下旬から2月にかけてでしょう。太陽の光の量は増えていっても、空気や海などの都合で気温の変化は遅れて進むのです。夏も同じですね。太陽の光が最も多いのは6月21日の夏至ですが、暑くなるのは7月、8月ですね。
それと同じことが、宇宙の星々と地球上に起こる現象との関係にも言えます。星々はターニングポイントを過ぎたことを示していますが、それが地球上で実際に現象として現れるのはもう少し先なのです。例えば冥王星のサイクルから観ていくと、1913年は、冥王星が太陽を1周する248年のサイクルの中で闇のピークでした。しかし、その闇のピークに生まれた人々によって、実際に第二次世界大戦という闇が表現されたのは、その約30年後です。そのように、星の動きと実際の現象には時差があります。
今、宇宙的にはターニングポイントを過ぎていますから、あとは我々は現象化される時を待つということです。
ニナ:
おもしろい!
いさどん:
こういった捉え方は、単なるスピリチュアル的思惑で編み出したものではなく、天文学的にも歴史的にも、それから先人たちが残したデータの中にも盛り込まれているものです。それを自分の都合のいいように受け取るのではなく、様々な角度から見てつなげて読み解いていくというという作業が重要です。
面白いのは、私たちは研究家ではありませんが、自然とこういったことが伝えられる生き方をしているということです。
ニナ:
先ほど、自我をコントロールできている人は自然と近いというお話がありましたね。そのことについてもう少し詳しく聞きたいです。
いさどん:
大都会というのは、人工の極みの世界です。それは自然の中に生まれた矛盾の世界と言えます。
しかし、大都会の中にも実は自然はあります。そこで生きている人々は当然空気を吸いますし、食べ物を食べるということは土を必要としているということです。気候が変わればその影響も受けるでしょう。ですから大都会の中にも自然はあるのですが、本来の循環からすると異常な自然をつくっているのです。そういった場を快適だと思う人は、大都会の波動に合っているということです。
一方、人間が創ったそのような疑似的自然に対して、違和感を感じる人たちがいます。そういった視点から区別した方が、人を分類する時に、単に大都会に住んでいるのか、田舎に住んでいるのかという分け方をするよりも、有効だということです。
ニナ:
人工的な自然をつくる人々に対して、どのように思いますか?
いさどん:
そういった人々は、その人個人にとってもそれが今重要なのだというプロセスを歩んでいるのでしょうし、同時に、そういったことが地球上で重要に思われているという時代的プロセスを歩んでいるとも言えます。その矛盾は様々な形で地球上に広がっています。元々私たちのベースである自然に対して、矛盾が増えているのです。そこで人間の叡智を使いながらどう自然と共生するのかというと、それにはまず、人間が自然を第一に考えることです。そして、その姿勢をベースとして人間の叡智を使っていくのが、これからの21世紀から30世紀までの人類の在り方だと思います。それは人類の地球上での進化の過程を考えた時に、もっとも無理のない在り方です。
ニナ:
その進化とはどういうものですか?
いさどん:
人間はこれからも進化していきますよ。世界観がもっと広くなっていきます。今、地球はグローバル化されて、人間の意識からしたら狭くなりました。これからもっと狭くなるでしょう。いずれは国境もなくなり、通貨も共通のものになる。物理的にどこまでということは語れませんが、思念はもっと宇宙的なものになります。
今のように科学やテクノロジーが発展しながら、人間の世界観が進化しなければ、確実により多くの矛盾が地球上にもたらされ、人類は他の生命と共存できなくなるどころか、地球と共存することができなくなるでしょう。そう言うと、人間と地球が対等のように聞こえるかもしれませんが、実際は地球から人類が排除されるということです。
ニナ:
私も同じように感じています。
いさどん:
地球としてはこの不良品のような人類をリセットして、新たな生命との共生を始めるだけです。地球の歴史を振り返ると、過去6億年の間に6回大量絶滅が起きています。人間は7回目の引き金を引くかどうか、というところです。
このサイクルを何億年という単位で俯瞰して観ると、人類が7回目の引き金を引いたとしても、地球にとっては新たなサイクルに入るだけのことであり、その後に現れる生命は人間よりもさらに進化しているのですから、地球からすれば歓迎すべきことでしょう。今の段階で人間が人間であることに囚われていると、それは自分たちの滅亡ということで大事のように思えるのでしょうが、地球の歴史から見れば何度も起きてきたことのひとつに過ぎないのです。
ですから、人類には二つのスタンスがありますね。ひとつは、世界観を大きく広げ、月が満つればかけていくように、人類の存在もいずれは終わりが来るのだという捉え方。それはネガティブなものではなく、さらに進化した次の生命へバトンタッチしていくといういうことです。
もう一つは、個人としてどう在るかということ。意識のスケールが大きくなり、人類のサイクルを超越した意識になれば、物語を観ているようなものでしょう。
ニナ:
木の花のメンバーにとって、自然や環境とは大切なものですか?
いさどん:
みんな環境意識は高いですよ。だからこの生活をしています。
僕は環境活動家とはちょっと違います。環境が悪くなるのも一種の学習であると捉えているからです。環境問題とは、自分たちの行いに対する明快な答えをもらって学習するチャンスなんですよ。人間はバカなことをやらないと、学習できないのです。
人間からヒトになると、愚かなことをやらなくても成長していくようになりますから、地球上に現れる現象は確実に穏やかになることでしょう。そうすると、僕の故郷である金星のような世界になりますね。人がみんな菩薩のようになってしまい、調和が当たり前になるのです。それはある意味、生命力がないとも言えるでしょう。地球は様々な問題が起きて実にダイナミックで、生命力にあふれています。ですから、何がいいのかはわからないですね。
ニナ:
地球と人間の関係というのが個人的な話にもつながって面白いです。
いさどん:
個人である自分を基準としたものの見方があると同時に、我々は人類であり、さらに視野を広げると、我々は神でもあるのです。だから面白いのですよ。人間が完璧に悟ってしまうと、神さまも、人間も退屈でしょう。何もない時が永遠に続くのですから。
ニナ:
それでは面白くないですね(笑)。
いさどん:
だから僕はある意味、金星では不良品でした。完璧な世界に退屈してしまったわけですから。それでも金星の味を覚えているので、地球に来ると「ひどい世界だ」と愚痴を言うことになりましたね(笑)。
ニナ:
金星の記憶というのはどのようなものですか?
いさどん:
太陽系は、太陽と九つの惑星が連携してできているでしょう。その中で極めて精密に太陽と連携しているのが金星です。金星の軌道はほぼ真円で、ブレがありません。太陽系は太陽を指揮者として素晴らしい生命の交響曲を奏でており、それを現象化する星が地球ですが、その中で金星の役割はメトロノームです。もっともオーケストラにはメトロノームはありませんから、何に例えたらいいのでしょうね。もっともベースとなるリズムを刻むものであり、すべての指針です。その星が女性性を表しているというのも、面白いですね。そして愛がベースになっている。そう観ていくと、宇宙を創造している神さまの心が感じられませんか?
僕が過去に金星にいた時の話は、以前にも少し話しましたね。地球の記憶ほどたくさんの物語を語ることはできませんが、印象は残っています。この富士山麓に移住してからのある夜、車でこの近くを走っていた時のことです。その時は、霧のような雨が降っていました。道路にはいろいろな高さの街灯が経っていて、そこにも霧がかかっていました。そうすると、霧の柱が立っているように見えるのです。のっぽもいれば太くて低いのもいて、それが虹のようにいろいろな色をしている。それを見た時に、僕は思い出しました。「この景色はどこかで見たことがあるぞ!」と。それが金星の風景です。
のっぽや低くて丸いのやいろいろな形があって、高いものだと地球の基準で言ったら3メートルから4メートルほどになるでしょうか。低いものでは1メートルくらいです。それは何かというと、魂なのです。今はそれを形で表しましたが、地球のような物理的三次元で表現されるものではありません。僕は人と話す時に、表に表れている形よりもその人の魂を見て話しますが、それと同じようなものです。形状の違いは、その人の心の性質を表しています。
地球上で人間を観ると、色がとても美しいものもいれば汚いものもあり、歪んでいたり濁っていたり、ずっと複雑です。しかし金星の風景はぼわーんとして、すべてが虹のように、いろんな色が入っています。全体はピンクがベースです。それに対して個々の魂は、虹の七色の中でもピンクが強いとかブルーが強いとかいうように個性があります。霧の中の風景を見ながら、それを思い出したのです。
金星人たちはどうやってコミュニケーションを取るのかというと、震えるのです。震えながら「ブウッ、ブウッ」と、背が高く細い魂なら高い音、低くて太い魂なら低い音というように、それぞれの音を出して会話しています。そしてすべては虹であり、光であり、何より友好的です。光は七色が調和して神様の光になっているのですから、どんな色をしていても調和的に決まっているのです。ですから会話の内容がどんなものであっても、すべてが愛であり、素晴らしい世界です。 ──── つまらないでしょう?(笑)
ニナ:
でもとても温かい雰囲気ですね。
いさどん:
そうですね。そこには苦痛がありません。だけど、苦痛のない不幸というのもあるんですよ(笑)。僕は霧の中の風景を見て、あれは自分の家族だと思いましたが、その家族のことがあまり好きになれなかったのでしょうね。だから地球に来たのです。
これはとても面白い話ですから、そのうちに木の花劇団の劇にするといいかもしれませんね。
ニナ:
その劇を見てみたいです(笑)。
先ほど金星は女性性を表すという話がありましたが、男性性と女性性ということについて興味深く感じています。一般社会の男性性と女性性とは違う意味で使われていますか?
いさどん:
そうですね。今の一般社会で言われている男性性と女性性というのは、物理的な面に偏っています。生殖のための男性性と女性性というのはありますが、それはさして重要ではないですね。それは機能的な役割分担のようなものです。
太陽系の惑星の軌道を見ると、金星は真円を描いて、安定した響きを発していますね。それは例えば家にお母さんがいて、いつでも帰って来られる癒しの場があるからこそ子どもたちは安心して外に冒険に出かけ、戻ってきてはお母さんのもとで癒される、というような感じです。男性は、女性が安定して住まいを守ってくれることによって、外で何かを勝ち取ってくることができます。男性性と女性性というのは、生きていくための役割分担であり、それぞれのポジションのようなものです。女性性とは、男性性がダイナミックに動けるためのベースとなるものとも言えます。揺らがない柱のようなものですね。
私たちのいる現象世界は、変化する世界です。それに対して絶対不動のものが神であり、それは目には見えない安定した柱です。そしてその絶対不動の柱があるからこそ、周囲はダイナミックに変化していくことができます。そうやって生命を躍動させていくのが男性性の役割です。それはパワーであり、変化です。元の部分が安定しているからこそ広がっていくことができるのですが、元がないまま広がっていってはバラバラになってしまいます。その元になるものとは、目には見えない、始まりの意志のようなものですね。カタカムナの講座でお伝えした通り、陰が主で陽が従とはそういうことです。
講座では、カタカムナの5首と6首には表の解説と裏の解説があるということをお話ししましたね。あなたはその解説が欲しいと言いました。日本人の受講生は誰も言いませんでしたから、それを欲しいと言うあなたはただ者ではないと思いました。重要なのは、裏の解説です。
裏の解説は、男女の性についてのものです。男女の役割分担にはどのような目的があるのか。その役割分担とは、男女の交わりのことです。カタカムナの裏は、ほとんどが性の解説になっています。この宇宙の法則はすべての生命のモデルであり、生命が現象化する時、それは雄と雌の交わりによって創られます。それは神が行うものですから、神聖なものです。その時に、正しい交わりの作法というものがあります。それが裏の解説です。
現代の人々はその神聖さを忘れてしまいましたが、男女の交わりとは「カムウツシ」であり「アマウツシ」です。「カムウツシ」とは、潜象界からの真理を降ろすことであり、男性の役割です。「アマウツシ」とは、現象化した宇宙の真理を人間界へと現すことであり、これは女性の役割です。ですから男性がカムウツシをし、それを女性がアマウツシします。物理的な構造で言うと、男性は男性器によって潜象界から現象界へ真理の柱を立て、女性はその種を子宮に受け、そこに回転が生まれます。するとそこにも陰陽が発生します。それが「カムミムスヒ」と「タカミムスヒ」です。そして現象化して生まれたのが、地球です。
銀河も太陽系も地球も、すべて同じ構造になっています。それを忠実に表現しているのが、男女の交わりなのです。それは「アマ」の精神と、さらにその奥にある「カム」の精神を再び人間に復活させるという目的があります。交わることは、それを人間に復活させるための儀式なのです。
ですから、単に子孫を残すための行為としてそれを行うことは、意識としては低いものですね。それはすべての動物や植物が行っているのと同じことでもあり、ある意味汚れのない美しいものですが、高いものではありません。
しかし交わることには、ヒトという高い存在のものが行う行為、もしくは人間がヒトになるための過程として宇宙の真理を降ろすための作法としての行いとしての意味があるのです。興味がありますか?
ニナ:
一般社会で言われていることとはまったく違うものですね。
いさどん:
そう、まったく異質なものです。例えばエクスタシーについても、一般社会では単に官能を楽しむものであり、欲求として求めるものになっていますが、それは日本で言う「マツリ」の精神と同じで、人間が自我を忘れ完全にトランス状態になると、そこに神が入るのです。それがカムウツシ、アマウツシのエクスタシーの状態であり、無我の境地です。
そうすると人は高い意識波動になり、さらに直観が働くようになります。そしてひとたびそこにアクセスできるようになると、毎回それを行わなくとも常にその精神状態を保てるようになります。ただし、通常の人間は低いところにいますから、その低い位置の欲求を振り払って振り払ってそこまで登ってきて、その意識に至ってアクセスすることがなかなか常人ではできないということです。そういったことが、カタカムナの解説には書かれています。
ではその解説を書いた人々が実際にその境地に至ったのかというと、挑戦したであろうことは確認されていますが、そこに至ったということはどこにも書かれていません。後にその解説書を研究して世に広めていった人たちの人間性を観ても、その境地には至っていないだろうと僕は思うのです。そこに至っていない人々が勉強会を開いてそれを世に広めたとしても、それは偽物の波動でしょう?ですから今現在カタカムナを広めている人たちも、裏の解説には触れていません。
僕は人に何かを語る時、相手の精神状態に合わせて語る内容が変わっていきます。人は自分のニーズに合わせて色を付けて物事を解釈するので、真実とまったく違った話になったりするのです。ですからこういった話をする場合でも、聞く側は無色でなければなりません。
ニナは5首と6首の解説の英訳が欲しいと言いましたね。それであなたの人柄を観ていて、僕は伝えてもいいと思いました。それは、一般の人々が思い描くのとはまったく別の世界です。あの裏解説は極めて説得力のあるものであり、今世の中でカタカムナを広めている人々に見せてあげたいと思っています。彼らは頭で学んでいるだけで、実際に経験していない世界を語っているのですから。それは、エコビレッジとはこういうものだと語りながら実際にはその生き方をしていない人々と同じです。すべては実体験のもとに立証されなければなりません。
あなたは裏解説の英訳を読んでどう思いましたか?
ニナ:
とても面白いものだと思いました。真学校では「性と宇宙」の講座もありますよね。
いさどん:
そうですね、そこでそのことについて語ります。実技指導はないですよ(笑)。
本当は、これはやたらと伝えてはいけないものです。なぜなら、未熟な人々はそれを自らの色を付けて解釈し、歪めて受け取るからです。そうすると、聖なる伝承が歪んでしまいます。ですから、こういったことは昔から、意識がその段階に至ったことを師匠が確認し、そして口伝で伝えてきたのです。
1ヶ月間の真学校では、そのことについて皆さんにお伝えしていきます。ですから皆さんにも、自らの色を付けることなく心をフリーにして学び、たとえ今はそこまでの段階に至らないとしても、実生活の中で高みを目指していってもらたらと思います。