午前:命と食について深める
毎日の生活を生き生きと活かして活性していくことを人生という。
そうした人生を送るには、俯瞰したものの捉え方が必要。
自分の能力を活性して生きていくとみんなが良い人生を生きることができる。
これがマスターできると、誰にも頼らずに自分で自分を幸せにできる。それが解明されないと、苦痛が来るようにわたしたちは作られている。
不調和であると不健康に、調和は健康になるように作られている。
自分に捉われて新陳代謝しないと苦しくなる。出すと入って来る。出したくないと言って、入ってこないと言っても、それは入って来ない。簡単なこと。
自分の中に不幸の響きがある。自分が発信源で、外に不幸の響きを響かせている。
噛む「カム」の意味は、食べ物をよくかんで味わい、身につけて命に顕していくことであり、即ち、「食べる」ことは、人生を生きるということである。
人生を生きる中で起こる出来事は、人生の食べ物である。即ち、出来事をよくかんで人生に取り入れると物事がよく理解できる。出来事が起こることによってその前の状態が認識できて感謝できる。
といった話だった。こんな話はお坊さんから出てきてもいい話だよね、といさどんは言っていたが、これらは、そのような捉え方で人生を生きていなければ出てこないような話である。けれども、このことは既にある話、宇宙の法であるのだから、どこから出てもおかしくない話であるともいさどんは言っていた。
「病気」とは、心の滞りで、肉体の中で生命の繋がりが切れて響き合わない状態である。「気」は簡単に変わるものなのになぜ変わらずに続けるかというと、そういう性質だからである。病気といってもニーズがあるから病気になるのだから、治してはいけない時もある。例えば子供の病気は親の学びや気付きの為にある。子供は幼いほど自我がないから鏡の役割をしている。20歳を過ぎ、30歳までになったら全て自分の責任で親の問題ではなくなる。30歳を過ぎても親の影響から抜けられないのは、現代の環境がよすぎるからである。
「健康」とは、元の気(響き)のつらなりの通りにあり、互いに響きあいながら連鎖し循環する姿である。循環するとは、自分に留めず執着しないということである。イメージとして力を抜いてまっすぐ立っている状態で、歪んだ姿勢でそれが当たり前になっていたらどこかがおかしくなるに決まっていると、いさどんは、ポーズをとって説明していた。
「食べる」時も、感謝しながら食べているかと考えてみる。自分が食べている姿をビデオにでも撮って客観的に観察したり、人に観てもらったりして晒すと美しくなる。
これらは「食べる」ということで話を進めているが、全て「生きる」ことに置き換えて考えることができる。
例えば、自分を正直に人前に出して晒すことで、人に客観的に観てもらい、そのフィードバックを素直に受け取ることで美しくなっていくという「心磨き」の捉え方になる。
いさどんは、人間は、間違っていても自分の見る目が正しいと思いがちで、これは謙虚さを忘れていることだと話した。
そして、人の不幸によって成り立っている職業は、世の中からなくなるといい世の中になると話した。例えば、人の不健康が飯の種になっている「医者」、人の不幸から依存を作り出す「お坊さん」、世の中の悪い出来事がないと成り立たない「弁護士」がそれらの例である。
私達は、自分がどのような姿で、世の中にどんな影響を与えているのかを俯瞰してみる必要がある。人間は万物の長であり、人間の健康は地球の健康であり、それが世界が平和になることに繋がる。これは社会運動であるといういさどんの話を聞いて私が思い出したのは、木の花にいろいろな形で関わる人たちの中には、「戦争反対」「原発反対」を声高に叫び、ボランティアなどをしないのかという質問を投げかける人達も多いが、その時にいつも、「私たちの心を綺麗にすることが平和運動です。」と答えていることである。意識の共有ができなければなかなかその真意は伝わらないが、確実にその心が多くの人に伝わる日が近づいてきていることを今日の講義からも感じた。
(文責:まりねぇ)
午後は食養生講座でした。
木の花ファミリーが菜食をしている7つの理由や、木の花ファミリーが取り入れている食養生についての説明がありました。
また講義が少し早目に終わったので、「人々がなぜ肉や魚を食べるのか?」というテーマで座談会をしました。
一番に解放される必要があるのは、自分からの解放。
自分の心の起伏があり悩んでいる。本来、その悩みは無いこと。起きているのは自分が何かに反応していること。実際は無いことで自分の心が作り出していること。
霜降りの肉も、それが食べ物でなければ食べない。人間は自分の姿を客観的に見えなくなっている。
自分の視点で見て、無いものをあるようにしているのだと思う。客観的に実態を見たら、バカなことをしている。自分のイメージが崩れて落ち込むよりも、もっとそれを客観的に観ると、あまりにバカバカしくて笑える。
そういう目線をもって、世の中を生きていくと、一人一人が世の中にとても良いものをもたらせる。「これは木の花原理主義!」(笑)
「そうだ、納豆菌爆弾で、世界中をネバネバさせよう!」
みんなで食べて幸せ♪
視点を変えたところから自分や社会を見ていく。
降りたところから上がっていく時代に来ている。
時代は宇宙の巡り会わせ。人間は宇宙の法の動きに合わせていくのが人間の役割。