地球が回っていることを、感じていますか?

1ヶ月間の真学校・第9日目。
「人格を学ぶ講座  基礎編-2」は、いさどんのこんな話から始まりました。

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いさどん:
おはようございます。
皆さん、地球が回っていることを、感じていますか?

僕は朝目が覚めて、「ああ、今日も朝が来たな」と思いました。昨日も朝が来ましたね。一昨日も来ました。この調子で行くと、明日も朝が来ます。いさどんの思考はユニークですから、変化するのも単調ではなく、いろいろあってもいいじゃないか、と思うのです。そうすると、この世界で一番単調なのは、時が刻まれていくようすです。

人はそれぞれの意識を持って、毎日時と付き合っています。自分の興味だけに没頭して生きている人は、時を感じることを忘れています。「もう一日たっちゃった」「忙しい」「まだ他にもやることがある」と言って、時のことを忘れて、忙しい状態にいるのです。
「忙しい」という字は、「心」を「亡」くす、と書きます。「忘れる」という字も、「心」を「亡」くすと書きます。「忙しい」とは、忙しくて時の経つのを忘れた ──── つまり、天の法則を忘れたということです。そして「忘れる」とは、人の心を忘れるということです。

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個人的な話をします。
僕は朝目が覚めると、「朝が来たな」ということを感じます。朝が来たということは、一日時が動いたということです。ではなぜ時が動いたのかと考えると、僕は、地球が回転している動きを感じるのです。その時に、「天と共に生きている」ということを思い出すのです。
天の心を亡くす、つまり、天とのコミュニケーションをなくすと、忙しい、スケジュールいっぱいの状態になります。それで、ああ、時が動いているな、時と共にあるな、ということを、何かのタイミングで思い出すのです。「思い出す」ということは忘れていたということです。それが元に戻るのです。

皆さん、時々、時が動いているということを思い出してください。スケジュールがいっぱいで忙しい時ほど、時が動いているんだな、ということを思い出してください。私たちがどんなに忙しくても、時は同じリズムを刻んでいきます。カッ、カッ、カッ、カッ・・・これは地球が回る音です。そして明日が来るのです。
どんなに大変なことが起きたとしても、その先に必ず、次の世界がめぐってきます。ですから、忙しくてどうしようもないとか、何か大変なことが起きてもう先がないと思うのは、人間の心です。どんなに自分が認められないことが起きたとしても、必ずそれを取り込んだ先の世界がやってくるのです。

この世界の現象のすべての中心を貫く柱、それを天之御中主(アマノミナカヌシ)と言います。その柱は一方通行です。
過去から未来へ一方通行に進むトキ軸によって、この世界は支えられています。時という柱があり、その法則の下に宇宙全体が動いているのです。そして銀河、太陽系、地球、私たち一人ひとり、その一つひとつを、アマノミナカヌシの分身であるアメノミナカヌシが貫いています。
しかし、人間は忙しいと、そのアメノミナカヌシの存在を忘れています。それは、天の心を忘れ、人間の心も忘れている状態です。だからこそ、時々、地球の動きを感じてみることが大事なのです。地球の動きを感じて、私たちは天と共にあり、生きることをいただいているのだ、というところに立ち返るのです。

忙しい状態で生きていると、心を忘れているわけですから、その結果起きてくる現象も、どこか的が外れたものになります。何かが狂ってくるのです。確実にそうなります。
一方、時の変化を感じ、天の心と人の心が連動していれば、そこで生きていることがうまくかみ合うようになります。木の花ファミリーは、目的を実現しようと努力をしたり、企んだり、こうなってほしいという願望を持つことはあまりありません。ただ、今あるがままを生きているだけですが、出来事や人との出会い、モノやお金の流れなどが、とてもうまいことかみ合っていきます。天の動きと人の動き、アマノミナカヌシとアメノミナカヌシ、それが一致していると、自然とそうなるのです。それは、駆け引きの必要のない世界です。何かを成し遂げようとするための努力は要りません。ただ、心を美しくするための努力をすれば、ことは自ずと流れるようになります。
私たちは、この世界と連動しています。何かしら自分の思惑と違うことを与えられた時、そのことの奥にある意味に気付いたなら、生きることはずっと深くなるのです。

これまでの講座で、現代の世界情勢を観てきました。今、世界は混乱しています。なぜ混乱しているかというと、新たな価値観に変わらなければいけない時に来ているということです。それは時代の要請でもあるのです。
時代が混乱している原因は、もう一つあります。人間の自我です。私たちは一人ひとり自我を持っています。その自我の側に偏っていることによって、世界に混乱が起き、私たち自身が変わらなければいけない時が来ています。
しかし、では人間の自我が悪いのかというと、それもまた時代の要請でもあるのです。時代が要請するということは、私たち人間もその中に共にあるのですから、自我の使い方が混乱を生む方向から、自我の使い方が世界の混乱を収めるという方向に、自らを切り替える時が来ているのです。私たち人間の持つ自我は、とても個性的で、多様性に富んでいます。それは植物や動物のような、単純なものではありません。そして多様性に富むからこそ、そのたくさんの自我たちが連動していないと、世界に混乱をもたらすのです。

この「人格を学ぶ講座」では、人格を学ぶ、つまり自我の中身を理解するということで、まず自分の自我がどういう形になっているかということを学びます。そして、ではどんな自我があるのかという多様性を今、学んでいます。
これは、とても愉快な世界です。何という多様性の世界でしょう。しかしその多様性ゆえに、お互いを理解し合えないと、その多様性が混乱のもとにもなります。一人ひとりの人間が、自分に意識が行きすぎると、自我が強くなります。そうすると天とのコミュニケーションを忘れ、忙しい、忙しい、と生きることになります。そして人の心を忘れることになるのです。ですから、私たちはもっと心に余裕を持たなければいけません。

どうぞ皆さん、時々、この地球の動きを感じてください。朝が来た、でもいいですし、夜が来た、でもいいです。その、一日の動きを感じてください。そうすると、「忙しい」とか「忘れる」のサイクルではなく、人は天と共に生きるサイクルに戻れるのです。

 

 


たくさんの人に明るい人生を与えてください ~ 私たちが「人格」を学ぶ意味

1ヶ月間の真学校・第8日目。
いよいよ、1ヶ月間の中でももっとも多くの時間をかけて学ぶ「人格を学ぶ講座」が始まりました。以下、講座開始にあたってのいさどんのお話をお届けします。

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いさどん:
新しい週が始まりました。先週1週間は、現代の世界情勢を知り、宇宙をカタカムナで分析するということをやりました。私たちはどういった時代に生き、その中でどのような個性を持ち、どう生きているのか。その結果、自分自身がどのような状態になっているのか。多くの人は、そのことを詳しくはわかっていません。

人生の波があるとしますね。ある人は、その波の中を泳いでいます。ある人は、波にのまれて溺れています。泳いでいるのは、自分の意志がはっきりして、人生を歩んでいるという意識のある人です。一方、人生の海で溺れている人もいます。それはあまり印象の良い人生ではないですね。もうひとつ、サーファーのようにその波を楽しんでいる人もいます。しかしその楽しんでいることが、良いことなのか悪いことなのかは、理解できていません。

人間は、自らの感情的な欲求を満たしてやることが幸せだと、勘違いしているところがあります。それが幸せだと思っていても、実は社会や、自分自身に対してさえも、良くない事をしている場合もあるのです。不幸だと思っていることが、実は今の社会の仕組みや今の時代を表していることもあります。ですから私たちは、自分のしていることがどのようなことなのかを、もっと大きな視点から観る必要があるのです。特に、溺れている人にとってそれは大切なことです。元気に生きている人たちにとっても大切です。なぜなら、その元気で幸せな暮らしが、世の中に悪い影響を及ぼしている可能性もあるからです。

今日から、「人格を学ぶ講座」に入ります。人格とは、皆さん一人ひとりの性格です。人間はそれぞれの人格によって物事を判断し、そして行動します。その行動の結果を受けて、喜んだり、悲しんだりするのですが、その受け取り方もそれぞれの人格によって変わります。皆さん一人ひとりの人格が、人生のすべてにおいて影響しているのです。

私たちは人生の中で様々な出来事に出会いますが、同じ出来事に出会っても、それに対する反応は人それぞれに違います。ところが人生を雑に生きている人は、みんな一緒だと思っています。そして自分の考えを正しいと思っている人は、人にそれを押し付けます。親が子どもにとか、先生が弟子にとか、政治家が国民にというように、いろいろな形があります。優れているとか、正しいという立場に立っている人ほど、そういうことをするのです。

人格を学ぶと、人間は一人ひとり違うことがわかってきます。私たち一人ひとりは地球の細胞であり、各細胞はパラボラアンテナでもあるのです。一人ひとりがそれぞれの独自の視点からこの世界を感じ、得たものを情報として社会に共有すると、社会はその多様性ある反応を分析し、結果としてみんなが喜ぶ世界になります。私たちはアンテナを張り、情報を集め、それぞれに得た情報を共有して、地球が健全になっていくために活かしていけるのです。

人間の体は、ネットワークです。このネットワークは、様々な機能が連携し、互いに情報交換しながら、人体というひとつの生命体を成立させています。そこでは細胞の一つひとつに魂があり、意志があり、それぞれに独立した自分のポジションで得た情報を互いに交換しながら、人体全体の健康を保っています。その姿は、地球生態系とまったく同じです。地球生態系が健全であるためには、私たち人間が、それぞれに違ったポジションで得た情報を互いに交換しながら、その情報を地球全体が健全になるように活かしていくのです。

そのためには、皆さん一人ひとりの人格の個性を理解することです。いろいろな人たちの情報を得て、それを正しく活かすと、社会が健全になります。そして、なぜ自分はこんな出来事に出会うのだろうかとこれまで疑問に思っていたことの、発生の仕組みが理解できると、一人ひとりも明るく健康になります。人は、暗くて物が見えないと不安になるのです。しかし、その問題が解決しなくても、どうしてそうなったのかがわかるだけで楽になるのです。

そんなことについて、この講座では学んでいきます。皆さん一人ひとりの現在の状態を明るく軽くすると同時に、これをしっかりマスターして、たくさんの人に明るい人生を与えてください。

 

 


世界に新しい価値観をもたらすには まず自分を解放してあげなさい

今日の午前中は「人格を学ぶ講座・序章」の予定でしたが、まずは昨日終わることができなかった「カタカムナ2」のプレゼンテーションを終わらせ、それから「人格を学ぶ講座」に入ろうということになりました。ところが、話が深まる深まる。やっぱりカタカムナは終わらず、「人格を学ぶ講座」は次へと持ち越しになりました。その場の流れに沿いながら、行き先は天任せ。真学校のプログラムは常に流動的なのです。
さて、カタカムナの「ミノナライ」の解説中、「考える」ということについてこんな話がありました。

「ミノナライ」について語るいさどん
「ミノナライ」について語るいさどん

いさどん:
昨日、大人ミーティングでメンバーのじゅんぞうくんが僕に質問をしました。それに対して、僕は答えを言いませんでした。なぜなら、僕がすべてを答えてしまうと、じゅんぞうくんはその内容を覚え、それを手法として自分に取り入れようとするからです。そうすると、じゅんぞうくんはいさどんを先生にして、いさどんから正解をもらって、それをやっていればいいというだけの人になります。だから僕は彼の質問に答えませんでした。それによって彼には、考える機会が与えられました。考えることが大事なのです。

「カンガエル」をカタカムナでひも解いて観ましょう。
「カ」は宇宙の最極小微粒子。「ン」はそれを強める働きをします。そして「ガ」は「カ」に濁点が付いて濁ったもの ―――「我」です。「エ」は発生、「ル」は行為の継続を表します。つまり、「カンガエル」とは、新鮮な「カ」がどんどん湧き出してくることであり、それを「我」によって引き出そうとする力が発生するということです。
だからじゅんぞうくんに正解を与えてはいけないのです。彼が自分で考えて、引き出す。

なおやくん:
じゃあ、僕は昨日その後にじゅんぞうくんの質問に答えてしまったけど、あれではいけなかったんですね。

いさどん:
本当はよくないですが、答えを持っている人は言いたくなるものです。しかしその言いたくなる気持ちは、相手のためというより、「自分は答えを持っているぞ」ということが言いたいのです。相手のためなら、答えは言わないことです。そうすれば、彼は自分で道を切り開く人になります。
僕が皆さんに語ることは、「これが正しい」とか「これは間違っている」ということではありません。そういったものをすべて情報として提供し、それによって皆さん一人ひとりが自分の位置を知るということです。あなたは今、どこにいるのか。そして、その位置でいいのか。今の自分の位置が見えたなら、そこからどこを目指すのかは、あなた自身が考えるのです。僕がやっているのは、そういうことです。

人間は、自分の考えや経験を良いものにしたがります。それは、自分のやっていることは良いことであるとして自分の枠の中に収めることですから、それ以上成長しません。その枠を壊さなければ、人間は進歩しないのです。
「納得する」には2種類あります。一つは、自分の理解できる枠の中に収める納得。もうひとつは、「自分にわからないこともあるのだ」という、未知なるものを許容する納得。未知なるものを許していくと、自分は広がっていきます。しかし、枠の中にはめようとして収まらないから「納得できない」とするのは、その枠の中に自分を閉じ込めることになります。自分を広げようと思うなら、未知なるものに心を開いていくことです。

人間は考える生き物です。大切なのは、どちらの方向に考えるかということです。自分の考えに囚われる方向に考えるのか、自分の考えから自分を解放して、自由になる方向に考えるのか。

みかこ:
「カンガエル」とは、「ガ=我」「エ=発生」「ル=継続」ですから、「我」が発生し続けることであるとも言えます。「ガ」の濁点(=濁り)を取って「カンカエル」なら、濁りも歪みもない純粋なエネルギーである「カ」が発生し続けるということですから、これは美しい思考だとも言えますね。

しずかちゃん:
では先ほど言っていたのは、「カンガエル」ではなく「カンカエル」をしなさいということですか?

いさどん:
違います。それでは「ガ」が悪くて「カ」が良いという話になってしまいますが、私たちは我の世界に生きています。この世界は我の世界です。ですから、「ガ」が悪いということではなく、「カンガエル」の方向性が大事なのです。自分を高めて優れたものにしたり、汚れを取って美しくする方向へ考えるのか、それとも自分に囚われて損得勘定に走って、さらに自分を汚していくような方向に考えるのか。おなじ「カンガエル」でも方向が違います。そのことを知ることが大事なのです。
本当は、「カンカエル」であるべきです。しかしそうは言っても、私たちの思考は「カンガエル」なのです。なおやくんがなおやくんであるように、しずかちゃんがしずかちゃんであるように、誰もが自分という我を持っています。そこでその「ガ」が、どちらの方向に向いているか、ということなのです。

みかこ:
大事なのは、性質を知ることです。現象界から濁りを取ることはできない。そもそもの存在が、濁りや歪みから発生しているのだから。

イメージキャラクター「カンガエル」くん
イメージキャラクター「カンガエル」くん

いさどん:
今一度振り返って、皆さんにお話ししたいと思います。
真学校が始まったばかりの頃に、私たちは自我を持っています、ということをお話ししました。自我を持っている人は、自我の欲望を満たすことを幸せに感じます。そして自我の中には過去の経験や知識があり、それを正しいものとしたがります。そうすることで、人間は「これでいいのだ」という自信を持って生きていくことができるからです。それが人間を幸せに導いたり、正しいとされていた時代がありました。
しかし、それは自分という枠の中の価値観から観た満足の世界です。その状態では、その人は枠の中だけでしか思考していませんから、実はその枠の中に閉じ込められた不自由な状態です。矛盾しているでしょう?自分を不自由にすることが幸せだと思っているのです。

そこで、自分の考えを、たくさんある考えの中のひとつだとしておきましょう。ものごとの捉え方は人によって様々であり、自分の考えは全体の中の一つなのだと捉えた時に、自分の自我から離れた目線が持てるのです。それが客観性です。

簡単に言うと、自分を壊せということです。
もっと極端な言い方をすると、自分を否定しなさい、ということです。

自分を否定したら、何を元に考えればいいのでしょう?
今与えられた出来事や情報を、常に新鮮に自分の中に入れていきなさい。そうすると、常に新鮮な情報が自由に入ってきます。それを、過去や経験に囚われない今の自分の視点で観て、必要なものを選んでいきなさい。そうすると、現在の自分はそこに在りますが、それは常に変わり続ける自分です。これを自由と言います。

そう聞いても、人間にはそれぞれクセがあり、なかなか離れることができません。それは、これまでそういった考え方が主流となって世界が動いてきたからです。時代を観ても、国を見ても、政治や社会の在り方を観ても、すべてそうです。それが今、行き詰まりを迎えています。

私たちは、自分の自我を壊すことはなかなかできませんが、何か外の世界に疑問を感じて、今ここに集っています。新しい世界を観ようとしています。同時に、この社会に新しい価値観をもたらそうとしています。それができる人になるためには、まず、自分を解放してあげることです。

あなたが自分の中に「これが絶対に正しい」というものを持っていれば、それは他の人の「正しい」と対立することになります。あなたがどんなに優れていても、それが正しいと主張したら、自我に汚染されていることになります。それは、その「正しい」を理解できない自我を持っていると人との、対立を生むだけです。私たちは、自分の視点に囚われずに、情報として自分の視点を伝えあい、共有していく。そのことが大切なのです。

知意行一体の段階で、私たちにはもう一つコミュニケーションを取る場所があります。
私たちは、人間社会や自然と接し、感じて、いろいろなことを考えたり発信したりします。それは客観視点で捉えることができるものです。今までお話ししてきたのは、客観視点についてです。

そこでもう一つ、私たちにはどうすることもできない、見えない、捉えられない世界がありますね。宇宙です。宇宙が存在するから、この地球があって、人間社会があって、私たちがいるのです。そうすると、まず自分という主観があり、そしてこの世界や地球という客観があり、さらにその奥に、宇宙という「客観背後」があります。その客観背後の意志を感じ取るのです。

私たちは自分の人生を生きるものでもありますが、地球人でもあります。そして太陽系を構成するものでもあります。銀河を構成するものでもあれば、この全宇宙の意志と共に、宇宙を生きているものでもあります。

これまで人類は、20世紀までの時代を歩んできました。それは否定するものではありません。しかしそれは、私たちが歩んできた階段の、20世紀という段にしかすぎません。私たちは今、21世紀という段階に足をかけました。そしてこれからずっと先へと、その階段を昇っていくのです。もう、これまでの手法は変わらなければいけないのです。

 


「これ以上、皆さんを前に進めさせません」~ 2018年1ヶ月間の真学校 開講の挨拶

始まりました!1ヶ月間の真学校2018!

今回は、参加お申し込みが定員に達し受け付けを締め切った後にも「どうしても受講したい」というお申し込みがあり、最終的に16名が参加することになりました。16名中、日本人は4人。その他に、中国、台湾、香港、そしてタイと、アジア各地からの参加者がそろいました。21世紀は東洋の時代と言われますが、さて、どんな1ヶ月間となることでしょう!?

アジア各地から集った多彩な受講生たち
アジア各地から集った多彩な受講生たち

多彩な参加者に合わせ、プログラムも初の日・中・英3ヶ国語での提供となります。中国語の通訳は、中国人のしずかちゃんと、台湾人のなおやくんが、なんと1ヶ月間ボランティアで引き受けてくれることになりました。

「地球サポーター」を自認するしずかちゃん
「地球サポーター」を自認するしずかちゃん
ユーモアあふれる通訳で場を明るくしてくれるなおやくん
ユーモアあふれる通訳でみんなを和ませるなおやくん

真学校後半には、さらに二人のボランティア通訳さんが応援に駆けつけてくれます。その他にも、講座の資料などの膨大な量の翻訳を、国内外のたくさんの友人たちが引き受けてくれました。真学校で提供される世界観に共鳴するたくさんの人々のサポートによって、初めての3ヶ国語での講座提供が可能になったのでした。

受講生たちの参加理由は様々です。
「愛を学びたい」「新たな視点を得たい」「突破口を開きたい。一時的なものではなく、常に突破し続けるための動力源を得たい」「目覚めて、それをどう行動に現していくか」「良い生活とは何かを学び、調和のとれたコミュニティを築く」「心の重荷を手放したい」 ────
理由はそれぞれですが、現状を突破し、新しい世界に出会おうとしている意欲と探究心の強さは、不思議と一致しています。

中には、「いさどんの考えを知りたい」という受講生も。それを聞いたいさどんは、こう言いました。「僕の話していることは、僕の考えではありませんよ。僕は天のスピーカーです。そしてそこは、誰もがアクセスできるのです。」

以下、開講にあたってのいさどんの挨拶をご紹介します!

 

「これ以上、皆さんを前に進めさせません」
2018年1ヶ月間の真学校 開講の挨拶

私たちが毎日を生きると、いろいろな出来事に出会います。そして誰もが、一人ひとりオリジナルの人生を生きています。そしてその一人ひとりのオリジナルの人生は、この巨大な宇宙の中の出来事としてあるということが事実です。
毎日をどのような意識で生きるのか。それはそのまま、その人の人生に反映されます。それは宇宙の法則です。小さく、暗く、狭い意識の世界で生きることも、宇宙の現象のひとつです。広い視点を持ち、高く、明るく生きるのも、宇宙の中のひとつです。

人類が地球上に誕生してから、400万年が経ったと言います。その人類は今、地球上にこのような文明をつくっています。今の時代を良い時代と捉えるか、混乱して不幸な時代と捉えるかは、一人ひとりがこの世界をどう見ているかによって変わります。間違いないのは、今の社会をつくっている、その一人が自分だということです。
ある捉え方からすると、人間の営みは、この地球上の自然の仕組みを逸脱し、環境破壊などの様々な問題を引き起こしているとも言えます。しかし人間には、豊かで愛のあるとても素晴らしい世界を創る能力もあるのです。
皆さんは、いろいろな理由があってここに参加しました。そしてそのいろいろな理由が、今のこの地球上の社会をつくっています。そう捉えると、時代は私たちに、もうそろそろ生き方の方向を変えなさい、と言っているような気がしませんか。そして人間の生き方の方向が変わること ─────
それが、皆さん一人ひとりの人生が花開くことになるのです。

皆さんが幸せであることと、この世界に存在する人間以外の生き物が幸せであること、そして地球が健康であることは、一緒でなくてはなりません。さて、それではどう生きていったら、皆さんの心は晴れるのでしょう。一人ひとりがどう生きたかの結果が、地球の未来に現れてきます。
私たちは年齢も経歴も様々です。でもみんな一緒です。どういう意味かというと、「この時代を生きている」ということです。
皆さんは、この時代をどう生きて、どのように自らに価値をもたらすのか。一人ひとりがオリジナルですから、一人ひとり道は違いますが、この時代をどうするかということについては、私たちはひとつの答えを出すべきだと思うのです。

僕の目には、ある映像が浮かんでいます。ちょっと、今から小さな劇をしますね。

(そう言っていさどんは、後ろにあるドアの奥に隠れました。少し間をあけてドアから出てきたいさどんは、みんなの前に立ち、一人ひとりの顔を見渡した後、両手をガバッと大きく広げ、こう言いました。)

これ以上、行かせない。

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これ以上、皆さんを前に進めさせません。
これまでのような20世紀型の人間のわがままを、地球上にこれ以上広げない。

21世紀から30世紀にかけての人類の、優れた、尊い考えを持ち、地球上に生きていってもらいたい。そのように生きたならば、皆さん一人ひとりは尊い存在です。私たちはこの地球という星で、たくさんの生命と共に暮らしています。地球コミュニティとして、一緒に宇宙を旅しているのです。

すべてが家族です。宇宙には、天体という家族がいます。人類に、これ以上地球でわがままをすることを許しません!そうすれば、人間は地球のガン細胞ではなく、真に尊きものとして、共に宇宙を創造していく存在となることでしょう。

そんなことを、皆さんと一緒に1ヶ月間学んでいきたいと思います。

 

夜のウェルカムコンサートは大盛り上がり!新しい世界に出会う1ヶ月間の始まりです。
夜のウェルカムコンサートは大盛り上がり!新しい世界に出会う1ヶ月間の始まりです♪

 


25日目午前「死生観」~ 死と一体となって、生きる

1ヶ月間の真学校、全講座の集大成とも言える死生観の講座をお届けします。


いさどん:
皆さんは「1ヶ月間の真学校」でたくさんのプレゼンテーションに出会いましたが、最後のプレゼンテーションがこの「死生観」です。これで情報の洪水からやっと解放されるかと思うと、おめでとうございます(笑)。
ただ、私たちが日々を生きるということは、実は情報の洪水です。私たちが1日を生きる時、「どちらへ行くか」という選択を常にしています。人間は常に選択をする生き物です。一日におよそ3000回の選択の機会があると言われています。それが自らの意思であり、自動的にスムーズにいくタイプの人もいれば、どれも迷い、抱え込んで、悩みながらいく人もいます。ただ、どんなに迷っても、明日は来ます。タイムリミットが来れば、それは積み残していくことになるのです。たくさん積み残していく人もいれば、自動焦点のようにスムーズにものごとを選択していく人もいます。そしてどのような選択をしていったのかによって、人生の結果が訪れてくるのです。

積み残しをたくさん持っている人は、きっと重い人生を生きていることでしょう。逆に、自動焦点のようにスムーズに選択できる人は、よく味わっていない分、充実していないかもしれませんね。自らの人生をどのように表現していくかは、それぞれの持っている精神性によって変わってきます。そしてすべての人は、その人にふさわしい人生を送っていきます。その最終章が、「死ぬ」ということです。

生死ではなく、「死生観」ですから、死んで生きると書きます。宇宙の原理は、相似形であり、対向発生であり、すべてのものが陰陽で成り立っています。陰という奥にある見えないものから、陽である現象が現れてきます。私たちが生きている世界から生死を捉えると、生きていることが前提となり、その向こうに死があると捉えられますが、それを客観的に捉えたら、私たちの解釈で言う死の世界の方が、現象世界の元にあるのです。その世界に存在することを、死と言っていいのかどうか。それを、私たちが現象界の側から捉える先にある不毛なところと解釈してしまえば、死の世界とも捉えられるのでしょう。

死という字を分析すると、どのように捉えられるでしょう。
「タ」と「ヒ」。「タ」は分離独立、そして「ヒ」は秘かな始まり ──── つまり、秘かに分離独立して立つ=すべての始まりという意味でもあります。一人の人間が生きて、その終わりを死というとしたら、その生をリセットした次に来るすべての始まりということになります。どちらにしても、「死は始まり」というのが結論ですね。

さて、私たちはどこへ向かって進んでいるのか。カタカムナ的世界観、そして、木の花ファミリーはなぜこの生き方をしているのかについてお話ししたいと思います。

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いさどん:
「21世紀の死生観」とありますが、21世紀でなくとも、人は生き死にを繰り返しています。生きて死んで終わりではなく、また生まれて生きて死ぬ、そしてまた生まれて生きて死ぬを繰り返していくのです。私たちは、生を単純に捉えると、生きている時には「死にたくない」と思うものです。そこでは、死が恐怖になっているのです。しかし死が恐怖だとしても、私たちは常に死に向かって確実に近付いています。なぜだかわかりますか? ──── そう、明日が来るからです。
もしも僕が10日ほど時を止めたい、と思っても、世界はその思いをまったく聞いてくれません。それは、時が生き物だからです。そして私たちは、その生き物の一部として存在しているからです。時が生き物という解釈は、時が常に循環し、変化変容変態を繰り返す宇宙の基盤となるものであるからです。これは、私たち生命の共通した乗り物とも捉えられます。
この時という乗り物に乗らないものに、私たちはこの世界で出会うことはできません。この世界の中で、すべての存在は固有のサイクルを持ち、時と共にそれぞれのサイクルを刻み、連動し、ひとつの時の上に存在しています。そのサイクルとは、らせん運動です。

皆さんはこの1ヶ月間を通し、農、食、医、経済、環境、防災、そして性など、様々な切り口を通して世界観を学んできましたが、そのすべてが行きつくところが死生観です。

この講座のテーマは、広い世界観で生死を捉えることです。狭い世界観で生死を捉えると、死のイメージは常にブルーなもので、「死にたくない」という発想につながります。しかし、明日は必ずやって来ます。私たちが生を通して時を刻み、1日生きるごとに、確実に死は近付いてくるのです。ところが人は、「死にたくない」という想いに追われ、毎日を生きています。死を意識しないで生きていても、どんどん死は近付いてくる。
では、死が近付かないためにはどうしたらいいのでしょう。生きていると死が近付いてくるのですから ──── そう、生きなければいいのです。生きなければ、死は近付いてきません。しかし今現在生きているものが生きなくなるためには、やはり死が必要です。いずれにしても、私たちは死を避けることはできないのです。
そうであるならば、その絶対避けることのできない死を、私たちが生きていることの証として身近に捉え、仲良くしろとは言いませんが、死というものをよく理解することです。理解して生きるのです。理解して生きるということは、いつでも死を快く迎えられるということ ──── 私たちが生きるということは、死が対向発生の先にあり、常に死と隣り合わせであるのです。ですから、私たちは常に死と一体であるということを理解して生きることが肝要です。

死生観とは、死と生を共に捉えることです。生きることが大切で、希望であり、尊いものであるならば、死ぬこともまた大切なものであり、希望であって、尊いのです。現代の人々は、死と生を区別して捉えています。その捉え方は主観的な人間思考であり、客観性がありません。客観性の奥にはさらに、「客観背後」という視点があります。そこに行きつくには、世界観を広げることです。私たちは、生死というものの奥に、物理性と霊性の意味を絡めながら、さらにその奥(客観背後)にある世界の働きによって生かされていることを知るべきなのです。
「生死」という順で捉えると、まず先に、生まれてくることには、生きることの目的が託されていることになります。なぜ生まれてくるのか。生まれてきて、生きることにも目的があり、そしてその先の、死ぬことにも目的があることになります。死とは、この世界に生まれ出る前の、魂の本住の地へ還っていくことです。
毎日眠ることは、面倒ではありませんか?眠ることも、起きることも、まるで強制されているように感じませんか。僕は、現象世界のプールの中でその不自由さを嘆いています。生きるとは、そういった不自由さの中で生きる心の鍛錬の場です。そこからすると、魂の本住の地というのは安定した場です。そこへ行くと、現象世界に生きていた時の自分をじっくりと振り返って観ることができます。ああだったな、こうだったな、次はこうしよう、と、来世のプランを練っているかもしれないですね。そして「よーし、今度こそは!」と生まれてくるのです(笑)。

ようこ:
おもしろいのが、日本語だと「死生観」というように「死」が先に来るけれど、英語では「the view of life and death」というように「生」が先に来ます。

いさどん:
日本語でも「生死」という言葉がありますから、どこで区切って捉えるかということでしょうが、やはり東洋的捉え方だと「死生観」になるのでしょうし、西洋的捉え方だと「生死観」となるのかもしれないですね。

みかこ:
日本語でも、「生死の境をさまよっている」という時は、生きている側から死の方に向かうという捉え方だから「生死」になるね。でも「死生観」は死をどう捉えるかということ。

いさどん:
「死生観」は、死をどう捉えるかというよりも、生死を超えたところで、生きるとはどういうことか、死ぬとはどういうことかを、冷静に捉えるということでしょう。

めぐちゃん:
東洋は「陰陽」と言うように、まず陰が先にある。

みかこ:
連綿と続く命としての死生観が、自然と身に付いている。

いさどん:
生態系と同じで、私たちが命の循環をどこで区切るかによって、ある時はシマウマだったり、ある時はライオンだったり、ある時は草だったり、微生物だったりする。

エリちゃん:
アメリカのあるコミュニティで暮らしていた時に、初めて日本人の友人ができました。その人はカップルで暮らしていて、いつもケンカをしていたので、ケンカをやめるように伝えると、「私たちはもうずっとこれをやってきているんですよ」と言うのですが、彼らが言っているのは今世だけではなく過去世でもずっとそうやってきたという意味なんです。そういう捉え方があるのかとびっくりしました。

昨年の受講生であるエリちゃんも、1年ぶりにやってきて講座に参加
昨年の受講生であるエリちゃんも、1年ぶりにやってきて講座に参加

いさどん:
魂からケンカしているのでしょうね。出来事の詳細はどうでもよく、日々対立する相手がそこにいるということが生きがいになっている(笑)。けいごくんが理由もないのに不安を感じるというのも、魂から来るもののひとつですね。

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いさどん:
『「死生観」は多岐にわたる真学校のテーマの中でも、集大成となる根源的なテーマです。私たちが抱える問題の全てが生きていることから発生します。にもかかわらず 「人はなぜ生まれ、なぜ生きるのか、そしてなぜ死ぬのか」といった根本的なことに疑問を持たずに、あるいは曖昧にしたまま、私たちは生きています。』
曖昧にしたまま、問題ごとを抱えている。その問題ごとの原因が何であるかということを追求しない限り、問題ごとが発生し続ける人生になります。

『生命あるものは皆必ず死を迎えます。死について深めることは、生きることの意味を考えることであり、生も死も合わせた連綿と続くこの世界の仕組みを知ることなのです。
世界観を広げ、自らを壮大な宇宙の中の「ひとかけら」としてみていくならば、今まで見えなかった真実が浮かび上がってくるでしょう。』

すべての学びの集大成であり、根源的なテーマであるのが死生観です。我々はなぜ生まれ、なぜ生き、なぜ死ぬのか。一人ひとりにサイクルがあり、一人ひとりに存在する理由があります。誰か聖人が出てきて、生きるとはこうである、と、ざっくり決めることはできないのです。
僕は、ひとつの答えを皆さんに提示しようとしているのではありません。誰もが一人ひとりオリジナルな生き方をし、その中でお互いを活性化しあっていくのが、地球生態系そのものの姿です。人間は、その地球生態系の姿に倣っていくのが大切なのです。僕から観たら不十分と思える人も、一人ひとりの歩みのサイクルがあるのですから、そこを理解し、寄り添うようにしています。その先にある答えが何であるのかがわかっていて皆さんを誘導しているのでもなく、それは未来が教えてくれることです。答えを持って誘導するなどという傲慢なことはしません。
主役は、一人ひとりです。一人ひとりが個性的に、生き生きしながら、大切な死をどのように迎えるかということだと思います。

生きているものは、必ず死を迎えます。生の最終段階である死を深めることは、生きていることの意味を考えることです。例えば学校で勉強をするにしても、何のためにこの学校に入ったのかということが明確でなければ、勉強自体を楽しむことができないでしょう。つまり、生きていることの意味がわからなければ、生きることを楽しむことができないのです。そんな状態では、生きることにより、翻弄される人生になってしまいます。
生きていることの意味がわかるとは、答えがわかっているということとは違います。答えは、先に進んでみていただくものです。人生とは、何かの試験のように答えが決まっているのではなく、その時々で現れる答えをいただきながら、どのように生きていくかなのです。
この連綿と続く生命の仕組みを知ることは、生きながら死ぬことを学ぶこととも言えます。最終的には、この壮大な宇宙のひとかけらとして組み込まれ、私たちは宇宙を存続させている立場に立つのです。それを宇宙の側から観れば、宇宙を運営する立場に立つということになるのです。世界観が広がれば、神と共に、宇宙を運営する側にも立てるのです。

スライド3

いさどん:
私たちは、死を「出発(たびだち)」と呼んでいます。去年、木の花ファミリーの死生観を刺激してくれた出来事がありました。メンバーのきょうこちゃんの子宮頸がんが進行して、何度も危篤状態になりました

私たちはとても複雑な人生を生きていますから、死ぬためには心の掃除というか、整理整頓をする必要があります。次のスライドは、昨年木の花ファミリーで行ったアンケートの冒頭の文章です。皆さんも、アンケートに答えるつもりで聞いてください。

スライド4

スライド5

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いさどん:
有史以来約3000年間、「王の時代」という、権力が支配する時代がありました。その時代、人々の命は、社会の行く末を握っている権力者のもとにありました。社会を束ねる一部の人たちによって、主役の座が担われていたのです。
その後、宗教の時代が始まり、聖人が現れて、優れた考え方や生き方をモデルとして示すようになりました。それが尊い見本のように捉えられ、人々が生きることは既製品化されていきました。
今僕は、この出発アンケートの文章を読みながら、生きることには様々なかたちがあるということを思っていました。ここに『今の社会において、死生観という概念は一人ひとり違うものです』とありますが、人それぞれが持っている価値観によって、生きることも死ぬことも、受け取り方が違ってきます。それは人の数だけあり、それでいいのです。
ただし、たくさんありますが、それらはすべて、共通する器の中に存在しています。共通する器の中に存在しているのですから、それは個性的ではあっても、バラバラで無秩序なものではいけないのです。そこでは、何かモデルを示してもらわなくても、この世界を正しく認識できていれば、それぞれの個性が尊重され、皆が同じ目的を持って生きることは当然なことになるのです。つまり、そこでは何かに強制されたり、見本に倣うのではなく、そこにいる一つひとつの生命が、自らの気付きによって同じ目的へ協同していくという時代の流れのもとにあるのです。それが21世紀に人々が取るべき生き方につながるのです。

めぐちゃん:
人それぞれ価値観は違うけれど、根底には共通したものがあるということ。以前、よしこちゃんが、ユングの言葉に「元型」 ──── アーキタイプというものがあると教えてくれた。表面的には見えないけれど、根底には人類共通の秘められたパターンを有していると。

いさどん:
それは人類共通とも言えるけれど、さらに生命共通、宇宙共通とも言える。それは、末端の一つひとつによって成り立っている。

みかこ:
前から気になっていたのだけど、「精神」という文字には「神」が入っている。この「神」とは何を表しているのか。

よしこちゃん:
「精神」とは、神のエッセンスという意味なのではないかと思う。人間のような精神活動は、動物にはない。それ自体が神の働きを表している。

みかこ:
精神性の高い犬とか、精神病の猿とか、いないものね(笑)。ということは、「精神病」というのはやはり精神を病んでいるということだね。天と通じる心が分断されている。

いさどん:
それはとてもデリケートで精妙な部分にアクセスしている。そこへアクセスできないがためにそうなっているということは、逆に言うと、そこに戻るためのきっかけとも言える。

エリちゃん:
去年の6月に父が亡くなったのですが、この死生観のプレゼンテーションはとても興味深いです。私にとって、葬儀は喪に服すというよりも、祝福のイメージです。私はアフリカ系アメリカ人ですが、父の葬儀の時には、黒い服を着たい人はもちろん着てもいいのですが、私たちは伝統的なカラフルな衣装を着て歌ったり踊ったりして、誰かが「これはお父さんの卒業式だね」と言っていました。まさにこのプレゼンテーションと同じ感覚です。

いさどん:
木の花でも、出発(たびだち)は「マツリ」です。だから、きょうこちゃんが逝ってくれたらみんなで楽しめたのにね(笑)。

めぐちゃん:
「死」という文字の中には、すべての始まりを表す「ヒ」が入っている。始まりの「ヒ」と分離独立を表す「タ」が、横棒の下にあるということは、まだ表には現れない潜象界にあるということを表している。

いさどん:
めぐちゃんにはぜひ、論文を書いてもらいたいですね。
さて、次のスライドは、出発アンケートの内容です。

スライド7

いさどん:
これは遺書を書くのと同じようなものですね。若い人の場合、変わっていくこともあるでしょうから、折に触れてこのアンケートをとり、一番新しいものを採用するようにします。メンバー一人ひとりがどのような回答をしているのかを見ていくのも面白いですよ。木の花ファミリーとは、こんなことをやっている面白い場所です。

スライド8

いさどん:
死というものは、できればソフトランディングするように穏やかに迎えたいものですが、危惧する心や恐れなど、体中に囚われの鎖をつけてがんじがらめになっている人がたくさんいます。がんじがらめになりながら、それでも「死にたくない」と言うのですから、現代人の心は複雑になったものです。

よしこちゃん:
看護師として働く中で、本人は死にたくても家族がNOという場合があり、その方が不幸だと思っていました。本人は苦しくて「死なせてくれ」と言うのですが、家族は「何とかしてください」と頼み、その人の生死が自分を離れて家族のものになってしまうというパターンがとても多いのです。

いさどん:
僕の母が死ぬ時には、家族は「もう何もしなくていい」という意思だったのですが、その意思を受け取らない医師がいて、意思が合わなかったですね(チーン♪)。こちらがもういいですからと言っても、医師は「我々には立場がありますから」と言うんですよ。

みかこ:
医者の役割が、生かすことだけになってしまっているね。

いさどん:
病院の方針でもあるのでしょう。やればやるほど、病院の経営にとってはプラスになりますから。本人にはそのつもりはなく、医師の使命だというのですが、どことなくベースに、ここまでの治療をしてここまでの成果を上げて、という、患者一人当たりに対する売り上げの基準のようなものが感じられるのです。

みかこ:
きょうこちゃんの場合は、逆に医者の方が諦めていたね。

スライド9

いさどん:
受講申し込みのあった人たちの国の死因を表にしてみました。どこからデータを取るかによって順位は変わってきますので、あくまでも情報の一つです。

スライド10

いさどん:
死ぬ時にはあまり病院などでガタガタせずにサッと逝きたい、という人が多いようです。しかし実はこちらの方が往生際が悪いとも言えます。サッと逝きたいというのは、いろいろ考えてしまってそれが辛いからサッと逝きたいということでしょう。寝込んでもいいという人は、それを味わってもいいということですから、むしろ覚悟があるとも言えるのです。
【選んだ理由】として、1の人たちは「家族に迷惑をかけたくない」と答えていますが、そこが大きな勘違いで、そういう死に方をする人は、実は生きている間に既にたくさん迷惑をかけているのです。

みかこ:
一見、1の方が良さそうに見えるけれど、その回答の奥にある心を観ると、実は家族や自分自身と向き合いたくないからということが観えてくるね。

いさどん:
その下のアンケートからは、死後の世界について若い人の方が信じていることが伺えます。愛知県の学生だけがそうなのかはわかりませんが(笑)。戦後生まれの世代は物理的なことばかりを追いかけてきましたが、若い人たちは死に対してロマンを感じているのかもしれないですね。

『死に関して語り合うことは何となくタブー視されている。親やおばあちゃんがこういっていたからそう思っていたなど、確信の持てるものは何もない。死後の世界を信じていない人でも、形式的なお墓参りや、葬儀はするという結果が出ている。』
日本は仏教の国ですから、葬式やお墓参りをしますが、死後の世界がなければそんなことをする必要もなく、ただ送って終わりでいいはずです。東日本大震災から6年が経って、死んだ孫にランドセルを買っている人がいますが、死後の世界を信じていなければそんなこともしないはずです。現代の人々にとって、そこは極めて曖昧なままの状態になっているのです。それがこの世の中の曖昧さを創り出しているとも言えます。

めぐちゃん:
現代人が死を忌み嫌うのは、戦争で大量殺戮が生まれて、そこで大きく死に対する捉え方を変えられたということもあったのではないでしょうか。

いさどん:
戦争では銃を使いますが、確かに引き金ではありますね。では人間はなぜ戦争をするのかと捉えていくと、そこに人間の性質が観えてきます。なぜ戦争をするのかと言えば、自分の家族を守るためであったり、自分を守るためであったり、生きることが目的なのですが、それが自分に特化した都合の良い考えの下にあるものですから、結果的にそこに死が発生するわけです。

みかこ:
かつて「王の時代」には、王の一存で国が動き、民衆は言われた通りにするしかなかった。王の意識がそのまま世に反映するから、王が守りの姿勢なのか、民を大切にするのかによって、世の中も変わっていった。

いさどん:
「宗教の時代」も、例えばキリスト教の名のもとに十字軍が遠征したり、アフリカではキリスト教の名のもとに植民地化や奴隷制度が浸透していきましたね。現代でも、ジハードの名のもとに自爆テロが行われています。現代文明につながる発想が、6500年前に始まった「王の時代」から続いているのです。

みかこ:
太陽の一螺旋の光のピークの時と、現在の闇のピークでは死生観がガラリと変わっているけれど、その起点が6500年前の王の時代から始まっている。ネイティブアメリカンの死生観は「今日は死ぬのにいい日だ」と言って、自ら旅立つ日を感じ取ったりする。王の時代の前まではそういう死生観が息づいていた。王が恐怖に駆られたり自分の命を長らえたいと思えば、自分を守るために民を戦争に使うという世の中になるけれど、それ以前の時代は、みんなで生きていたんだよ。
アマゾンのある先住民族の、興味深い話がある。その民族は、女の子が平均14歳で妊娠して森の中で出産し、産んだ子を育てるか育てないかを精霊と対話して決め、育てない場合はバナナの葉に包んでシロアリの巣に入れて食べてもらう。生まれたばかりの子を人間ではなく、精霊と捉えている。

いさどん:

それは現代人からしたら残酷なように聞こえるかもしれないけど、聖なる生き方をしているということでもあるね。

めぐちゃん:
それはヤノマミ族ですね。自分たちのコミュニティを神に委ねているということでしょう。人が増えすぎてもコミュニティとしてのバランスが崩れるし、子どもを育てるかどうかの決定権が天にあって、全体を運営してもらっている。

いさどん:
生きることは自分達で所有せず、決定権が自然との対話のもとにある。逆に、人工の世界が進むと、生きることの決定権はすべて人間が握るようになりますね。

スライド11

いさどん:
『曖昧な死生観のままに生きています』
とありますが、私たち人類は、これまでに数え切れないほどの死に出会ってきています。にも拘らず、その死を定義することができず、その都度その都度、それぞれの人生観や人間性や社会的背景などの環境によって様々なことが語られながら、ずっと曖昧なままなのです。曖昧であるということは、多様性の世界で様々な死の捉え方があるということであり、それはそれでいいのですが、その奥に、私たちは生まれてきたら必ず死ぬものであり、その死への旅の途中で出会うものの積み重ねが、最終的に死へと旅立つ時の自らの精神状態を構成するものになっていくという基本だけは押さえておく必要があります。それがないまま、ただ迷い、グルグルと考えた末に生まれてきた意味も分からないまま旅立っていく人がいるから、次に生まれてくる人たちもまた曖昧な状態で生まれてくるのです。しかしよく考えてみると、時代がそういうことを要請していたとも言えますね。

よしこちゃん:
私もそう思います。以前、なぜ死がタブーになっているのかを集中的に考えていた時期がありました。現代は死というものが家から切り離され、病院や施設など人の目から離れた場所に委ねられるようになり、死というものを目にする機会がなくなってしまった。死とは何なのかをリアルに体験せずに、ただ病院から連絡を受けて駆け付けたらもう死んでいる状態で、間が見えないからこそ、死が恐怖になっていったのではないでしょうか。
自分も看護師として働く前は、それこそ死んだ後のおじいさん、おばあさんくらいしか見たことがなかったけれど、勤務した先が、お年寄りが多く、比較的自然に死を迎えるような対応をしている場所で、余計なことをしなければ、人間はとてもスムーズに旅立っていくのだということを目の当たりにしました。だんだん眠る時間が多くなっていき、仏さまの顔になっていくのです。そうすると「ああ、そろそろだな」ということがわかり、ソフトランディングしていく。それを見ていたら、死は怖くもないし、人間の終末の過程というのは余計なことをしなければこういうものなんだ、ということがわかりました。

みかこ:
私の母は1年以上管をつながれて生きていたけれど、それがなければもっと短い期間でそのプロセスを経て、早く死んでいたかもしれないね。

よしこちゃん:
体は自然とそのようになっていきます。低体温になって、一種の冬眠状態のようになっていくんですよ。

いさどん:
きょうこちゃんの場合は、逆にみんなで押しかけていってダジャレを言って笑わせて、本人はソフトランディングしようとしていたのに甦らせちゃった(笑)。

めぐちゃん:
両方でしょうね。そういう関係性を持つことをきょうこちゃん自身が選んだわけでもあるから。

いさどん:
僕には思惑がありました。あなたはまだ使えるのにもったいないだろう、こちらはこちらで覚悟はしているが、逝くなら使い切ってから逝け、まだ死んでる場合じゃないぞ、と。

みかちゃん:
きょうこちゃんのことはいろんな角度から捉えることができる。私はきょうこちゃんはまだ寿命ではないと観ていたから、いさどんのように覚悟はしていなかった。だって精神の遍歴がまだ終わっていないから。

いさどん:
逝こうとするものを縛ってはいけない。その後の魂の旅路のことを考えたらね。

めぐちゃん:
その時点できょうこちゃんの人生はきょうこちゃんのものではなくなっていますね。

いさどん:
その人の人生が個人のものではないというのは、豊かなことですね。情にまみれていては醜いものになりますが。
僕はきょうこちゃんをもったいないから復活させるということと、逝った時にはどうするかということを同時に考えていました。だから棺桶も買ったし、骨壺もとしちゃんに焼いてもらいました(笑)。
この物語には続きがあって、きょうこちゃんは復活したら復活したで、もうあの時のことを忘れてしまって元のきょうこちゃんのクセが出てきています。だからもう、死相がまったくないんですよ。元のきょうこちゃんだから。昨日も「あなたはまた性格の悪いところが出てきたね」と伝えたところです。

スライド12

いさどん:
死とは、昨日から今日、今日から明日へと向かうのと同じことです。人生が充実していれば死も充実し、人生が曇り空かどしゃ降りのように生きていれば、死ぬこともそのようになります。すべて自分次第です。

スライド13

いさどん:
肉体と魂とは、見えるものと見えないものですね。魂は陰ですから、見えない世界につながり、さらにその奥の世界にもつながっています。肉体は生態系の構成要素として三次元宇宙にあり続けます。その両方をつなげているのが人間の体であると言えるでしょう。
人間は精神性を持っていますから、そちらの世界へつながっていますが、動物の場合はどうでしょうか。植物はまさに精霊と対話していますね。特徴は自我がないことです。
死を迎えると、魂はそれぞれに相応しい異次元宇宙へ還っていきますが、相応しい異次元宇宙というのは、地獄から、多次元構造の高次元宇宙まで幅広くあり、その幅広い中から様々な段階の魂が、ひとつの時間と空間の下にある現象界へ降りてきているのです。ですからこの世界で生きているということは、ものすごく多様なものを見ることができる、体験ツアーのようなものです。本当に狭い世界観で晩酌だけを楽しみに生きている人もいれば、宇宙を運営するくらいのスケールの意識で生きている人もいます。
死ぬと、肉体と魂は分離します。生きているということはそれが連動しているということであり、両方を感じて生きることができます。そこでどちらにより偏るかによって、バランスを欠くこともあります。

スライド14

いさどん:
この図の中心にある肉体は、現象界のものです。現象界のもとは、地水火風空です。それらは太陽がもとになって、循環しています。人は地とも、水とも、火とも、風とも、空とも循環して生きています。毎日酸素を取り込んでは、二酸化炭素や水蒸気を排出し、それらを取り込んで地に育まれた植物を食べ、水も飲んで排せつしたり蒸発したり、太陽からもエネルギーを取り入れて熱にして、その熱を排出しています。地球生態系を構成する五大要素「地水火風空」といういのちの循環の中で、肉体というのは3次元世界にあり、魂によって束ねられています。魂が抜けるとそれは一気に分解し、この世界へサーッと還っていくのです。その過程に腐敗があったり、発酵があるということですね。

スライド15

いさどん:
先ほどの地水火風空は、この図で言うと横糸です。これは少し意識したら感じられるものです。ところがこの縦糸が、今の人たちにはわかりません。これは霊的なものですから。現代の人たちはこの縦糸を見失っているものだから、よこしまに流れてしまうのです。
潜象界から常に湧き出してくる元の気=生命力が縦糸となり、横の循環が生まれます。横の循環とは、地水火風空とそこから発生する生命のネットワークです。食べることと排せつすることは、命を自らの中に取り込み、また次へと渡していくことであり、そこを小さく区切って捉えれば弱肉強食の世界にもなります。しかし全体をつなげて観れば、命のバトンタッチです。
このネットワークは、柱が立つことによって全体が正常な位置につきます。しかし柱がないと、バラバラにぐるぐると回って無秩序な状態になります。それぞれの生命に固有の寿命やサイクルがあるということは、それぞれに役割分担をするためにあるのですが、それがてんでバラバラでは連携しません。そして自然界が乱れていくのです。

依正不二(えしょうふに)という言葉があります。人間以外の存在を「依法(えほう)」といい、人間だけを「正法(しょうほう)」とするのは、人間だけがこの仕組みを体系化して理解し、その次元の意識を持ってこの世界に生きることができるからです。人間が高次の意識を持つことで、この世界の不具合を修理していくことができるのです。人間以外の存在は、ただ受け取ることしかできません。

みかこ:
動物は四足で、人間だけが二足歩行なのは、やはり人間は縦の軸を持っているから。動物は四つ足で自然の摂理のままに生きている。その横糸と、縦の糸を統合するのが人間の役割なのだけれど、今の人間にはそれができていない。

いさどん:
人間は縦と横の両方を併せ持っています。それが「ヒト」という存在です。

スライド16

いさどん:
先祖から受け継いできた縦の糸と、魂の輪廻である横の糸が紡がれて、今のあなたがいます。縦の糸を15代さかのぼると、すべての人の先祖はひとつになるそうです。それをさらにさかのぼっていくと生命の始まりになり、さらにさかのぼると宇宙の始まりになります。さらに子孫の方をずっと未来へとたどっていけば、生命の終わり、宇宙の終わりにまで行きつきます。つまり、今の自分というのは、過去の宇宙の始まりから、未来の宇宙の終わりまでを情報として持っているプロセスとしての存在だということです。
縦糸は物理的DNAの流れです。そして横糸は魂の変遷です。今の自分は、過去の自分の人生の結果として、相応しい惑星の配置のもとに降りてきています。そして今世の結果がまた、来世へと反映されていくのです。そしてそのすべての生に、先祖と子孫がいます。その先祖も子孫も最終的には宇宙の始まりと宇宙の終わりという共通に行きつきます。これらのすべてが、宇宙そのものなのです。
その中で私たちは、現在のポジションを、霊的にも、物理的にも共有しています。よく「先祖が大切だ」とか「我が子がかわいい」と言いますが、では前世での先祖はどうなるのか、来世での子はどうするのかと考えたら、身内は世界中どこにでもいるのです。そうすると、私たちはひとつの命であることがわかります。

それでは、カタカムナからこの世界の生死の仕組みを観てみましょう。

スライド17

いさどん:
カタカムナは、人間の智恵の中のひとつの捉え方というよりも、現象界も潜象界も含めたこの宇宙の壮大なドラマを物理的に解析してくれているものですから、人類、特にこれからの人類に対する大きな贈り物であると言えます。ただし、それを学問のように捉えてしまっては、たくさんある切り口の中の一つにしかなりません。
この図はこれまでに何度も見てきましたが、もう一度おさらいをします。私たちが生きるこの現象界は、「見える世界」と「見えない世界」から成っています。目に見える肉体や現象、そして目には見えない思いや心が組み合わさった、陰陽から成る「カタ」の世界です。現代の科学は、この見える世界の中だけで回っています。とても優れたものでありながら、見える世界の中だけに留まっているので、考え方や文化が偏っていき、対立を生んでいます。
その「人工」の世界から「自然循環」になると、見えない世界も含めて循環するようになりますから、現象の世界の奥には、この世界をひとつに貫く法則があり、豊かで美しい多様性ある世界を表現しています。多様性とは拡大して広がるものですが、その無限に拡大して広がっていくダイナミックなこの世界は、実はすべて、一番大本の世界から生まれてきているということを理解したのが「天然循環法」です。見えない世界と見える世界(「ある世界」)という陰陽の背後に、「ない世界」という陰があり、その三層構造によってこの世界が成り立っているのです。これは、カタカムナの世界観があるからこそひも解けたことです。

20世紀までの自然循環の考え方では、人間の行いによってこの世界はいくらでも歪められていきます。今の放射能の問題をどうするのか、今の固定された宗教の概念でイスラム教とキリスト教はいつ調和するのか、いつになったら人々は、すべてはこの宇宙というひとつの枠の中に存在するということを理解するのか。自然循環までの捉え方では、それは永遠に解決されない、とても難しいことでした。
では、この世界のふるさとは一体どこにあるのか。そこで、もうひとつ大きなくくりの「ない世界」までを含めた世界観がなければ、人類は次の時代へ行けないのです。12900年前の光のピークの時代から、太陽の一螺旋の半周を経て、闇のピークを越え、質的転換を起こす時に我々は来ています。だからこそ、今この世界観が必要であり、それが地上に降ろされたのです。
長い間封印されてきたカタカムナを、戦後に出会って最初にひも解いたのは楢崎皐月という人でした。そこから様々な流れがあり、木の花ファミリーはそれを生活に落とすということをしていますが、カタカムナは誰のものでもありません。そしてその奥深さは、これから先へ行くほど深まっていくのだとしたら、誰もがその探求に参加し、深め、表現していくものなのです。それは世界共通のものであり、人類すべてがその世界観の世界を生きていると捉えれば、カタカムナはこれからの人類の進化に生かされることになるでしょう。

その中で、今日は死生観について語っています。このような真理に出会うのも、苦痛を感じるのも喜びを感じるのも、生きていればこそです。何のためにそれを感じているのかというと、その先にはちゃんと死があり、それが終わるとはどういうことなのかというと、質的転換を迎えて次のステージに進むということなのです。
死とは「ある世界」から「ない世界」へと質的転換することですが、現代人は「見える世界」から「見えない世界」へと行くことを死と捉えています。

みかこ:
そこでは質的転換は起きません。

いさどん:
見えると見えないを行ったり来たりしているだけなのです。

スライド18

いさどん:
これは、生死の仕組みをみかちゃんが図に表したものです。

みかこ:
この図ではトキ軸が横向きに進んでいます。そのトキ軸に沿い、生きている期間と死んでいる期間を表すトコロ軸がらせんを描きながら進んでいます。見える、見えない、見える、見えない、或いは陰、陽、陰、陽と捉えてもいいですね。

めぐちゃん:
光は電磁波ですが、電磁波が伝搬していく時にもこういう波があります。それぞれの波長の長さがあり、それぞれの振幅という、云わば人生の幅がある。

みかこ:
例えばネズミのサイクル、象のサイクル、微生物のサイクルなど、それぞれに違う。

めぐちゃん:
その波長の長さによって色も変わり、そういうものがその人その人の個性になる。

みかこ:
この図は、誕生、維持、破壊、空を繰り返す宇宙の連なりを表していて、その形が蓮根のように見えることから「蓮根宇宙」とも言います。

いさどん:
蓮根宇宙は、満つれば欠けるこの世の仕組みそのものを表しています。そして蓮根にたくさんの穴があるように、大宇宙の中に無数の中宇宙や小宇宙が存在しています。宇宙が誕生し、拡大していって、意識が統合されていくと再び収縮していって、一点に集約される(蓮根と蓮根のつなぎ目の部分)のですが、そこが「無」であり、潜象界 ──── 即ち「ない世界」です。ここには時がないので、無限とも言えます。そしてそこがまた次の始まりでもあるのです。

スライド19

いさどん:
肉体は、自分のものではありません。宇宙の、地球の、生態系の循環の中で、自分という自我を持つ魂が呼び寄せた「縁」なのです。人生でいろいろなものに出会うということは、自身のニーズに周りが応えてくれているということであり、その縁によってすべてが紡がれていきます。この顔立ち、この性質、どこに生まれるのか、どのような家族を持つかということも、すべて自らの魂が引き寄せ、その魂のニーズに応える縁によって紡がれているのです。それはものすごく精妙な世界です。ですから愚痴っていることも、喜んでいることも、すべて縁から成っていくのです。

めぐちゃん:
蓮根も、切ると糸を引きますね。

いさどん:
蓮根が食べたくなったね(笑)。

『生まれてくる目的の一つは魂(霊性)を向上させるためにあります。』
ではなぜ向上させるのかといったら、宇宙は変化変容変態を遂げた結果、進化するために存在しているのであり、退化するという目的はないからです。
遥か昔、神様は光そのものであり、自分を認識することができませんでした。そこで神様は、自分から遠いところに闇を置き、そこから光の方へと戻ってくる道を創りました。光に近付けば近付くほど、それは希望となり、喜びとなります。逆に、遠ざかれば遠ざかるほど、苦しみを体験することになっていくのです。
今、人類は、その闇から光へと帰る過程にいます。そして完全に光へと帰ったら、今度はまた闇へと向かう道を歩み出すのです。その時には、みんなで積極的に苦しみましょう(笑)。そういう時もあるかもしれないということです。

『現象界(自然界)は個に独立したものの生命ネットワークです。従って、個々の生命は自らに偏っています。』
ですから、自然界では偏っていることはOKなのです。その偏りが個性となり、それがネットワークしていけばいいのです。ネットワークせずに独りよがりになると、独りよがりのものたちが作る現象が展開するようになります。そこに不調和が発生して行き詰まるようになっているということは、ネットワークすることが目的であり、そのネットワークを断ち切ると問題が発生するようになっているということです。
ですから、目には見えませんが、私たちには確実にそこに行けるような一方通行の道が用意されているということです。ですから、それを無視してそこに行かなければ、痛みが発生するようになっているのです。何という心憎い配慮でしょうか。

みかこ:
偏っていてくれないと、困るね。偏っているからこそ、光は光、水は水、空気は空気の働きができ、この世界が循環していく。そこで個々が個性を持ち、一度は分断したからこそ、つながる喜びが発生する。つながるとこんなにうまくいくのか、ということが体験できるようになっている。

いさどん:
そういったものの象徴的なものが原爆です。核融合という光の発信元は、我々三次元生命の元となる仕組みです。それを武器として使えばあのような究極の破壊の世界ができるのです。あの仕組みはすべての三次元生命の源であり、聖なるものの根源であるはずなのに、使い方を誤れば破壊の権化と化すのです。

人間の意識が狭い時には、ある村の中で一生を終えることもあります。自分の所属はその生まれた土地にある。それが、世界観がどんどん広がると、日本国、アジアと広がって、それが世界になり、地球になり、21世紀は人類の意識が宇宙にまで広がり、宇宙人として生きる時代がやって来ます。これから、人間が宇宙の運営をどうするかという時代が確実に来るということです。

スライド20

いさどん:
死ぬということは、寿命が尽きることです。人間の手の内にあるのは、その与えられた寿命をどう生きるのかということです。人生の中身については、個人の意思が尊重されています。
すべてはその人の裁量の中にありますが、裁量の中にあるにしては、けっこう方向付けがされてもいます。それが何かと言ったら、独りよがりで独善的に生きれば衝突が起き、不調和に生きれば苦痛が発生します。バランスを欠いていれば、必ずそのバランスに相応しく、問題ごとが発生するようになっています。つまり、バランスを整えなければいけないようにものごとが起きてくるのです。私たちの人生に自由を与えているという割には、神様は結構介入していますね。
実は、神様は完璧に介入しています。自由を与えているというのは、神様は自分から遠く離れたところに闇を置き、そこから人間が光の方へと戻ってくる時にどのような過程を経るのか、その振幅の幅については自由が与えられていますが、闇の側から光の方へと戻ってくる道については、完全に一方通行なのです。神様は自由を与えていると言いながら、ものすごく束縛しているでしょう?なぜだかわかりますか。

としみちゃん:
すべて神が創ったものだから。

いさどん:
そうです。この世界はすべて、神様のマスターベーションです。私たちも神様の心の中にあり、神様そのものなのです。神様がぶわーーっと膨らませた心の一部なのですよ。ですから、この世界のあらゆるところに「カ」が遍満し、神の息吹が満つっているのです。それがぐーっと収縮して統合すると、また神様一人の世界です。それをぶわーーっと膨らませたものが多様性に見えるだけで、膨らんだり、収縮したり、これは宇宙の呼吸であり、すべてが神の実体です。
ですから人間の自由というのは、お釈迦様の手のひらの上にいる孫悟空のようなものですね。それが神様と私たちの実体であり、私たちが神様に向かって「あなた」と呼びかけること自体がおかしいのです。私たち自身も、「あなた」の内にある一人だからです。

スライド21

いさどん:
この図は、宇宙の誕生から消滅までの神の一呼吸を表したものですが、まさしく目のように見えますね。目は英語で「アイ(eye)」ですね。

みかこ:
目もアイであるし、図の中心にいる自分自身も「アイ(I)」だね。

めぐちゃん:

自分という存在も、相手があればこそですよね。相手、つまり「アイ」の「テ」ということ。

いさどん:
私たちはこの宇宙にあって、自分という狭い枠に囚われていれば、その意識は見える世界の中だけを生きることになりますが、囚われを外せば、物理的には見ることのできないミクロ宇宙もマクロ宇宙も、心で感じられるようになります。

スライド22

いさどん:
これは宇宙の中の私たちの立ち位置です。高次の意識になれば、宇宙全体を観測しなくても、居ながらにして宇宙の構造を理解できます。

まったく新しい情報を得る時には、古い情報は自動的に整理されて、捨てられることになります。そうでなければ、新しい情報は入って来ません。その時に、中が整理されないまま新しい情報が入ると、副作用が起きます。薬でも、拒否反応が出たりしますよね。しかし、まったく未知の情報ではなく、ただ忘れていることであれば、思い出して元の自分に戻るだけですから、それまでに持っていたものを捨てることで、むしろ楽になるのです。「忘れる」という漢字は心を亡くすと書きます。損得勘定に走っていると、忘れていくのです。しかし思い出せば、「ああそうだった」と本来の立ち位置に戻れるのです。

スライド23

いさどん:

『人間以外の生物は、このつながりから逸脱できない』とありますが、実は人間も逸脱はできないのですよ。では人間はどこで逸脱するのでしょう。人間は、自我を優先することにより、全体がひとつの集合体であることを忘れ、自らの立ち位置を踏み外してしまうのです。
一方自我は、すべてがひとつの集合体であるということを、客観的に観て学習するために、わざわざそこから離れるとも言えます。客観的に観て、さらに客観背後までを認識して、この世界を観ることもできるのです。しかしまた、そこから逸脱するということは、ひとつの集合体であることを忘れてしまい、この世界の調和を乱すようなものにもなります。人間とは諸刃の剣で、悪にも善にもなるのです。
神様がすごいのは、その両方を人間に与えたことです。つまり、「そなたは私である」と言いながら、「そなたは私から限りなく遠いところにいる」という道を与えました。その遠いところから元の光へと戻ってくる道のりが神様の意思で、遠ざかっては元に戻り、また遠ざかっては元に戻るということをくり返しているのです。
そう考えると、「神」という文字は、旧字体で「示」に「申」と書きますが、この世界は神と人間のキャッチボールと言えます。

もう一度、宇宙の構造に戻りましょう。
なぜ、地球があるのか。これから先、人類が宇宙を探査していく時代に、水を発見したり、微生物に出会うことはあるかもしれませんが、この奇妙な「ヒト」という、「ヒ」から「ト」までの要素を持っているような生き物に出会うことができるのかどうか。想像する限り、それは難しいですね。つまりそれは、地球という星が、いかに宇宙の総意で創られた奇跡の星であるかということです。そして「ヒト」というものがいかに宇宙の総意によってこの立ち位置を得ているのかを考えた時、私たちが地球に存在していること、生命であること、ヒトであること、そして自分自身であるということがいかに貴重で尊いことなのかということが観えてきます。
人間は自らの人生を自滅させるような人もいれば、マザー・テレサやガンジーのような聖人としての生き方をする人もいます。自分のことしか考えず、お酒やタバコなどの依存症になっていく人もいれば、自殺する様な人もいるわけです。多様性の世界を表現するための役割だから大丈夫だよ、うつになって生きていてもいいんだよ、と褒めてあげたいような大らかな気持ちにもなりますね。
これから私たちがさらに宇宙を探査し、ある星に辿り着いたら、それは「うつ星」だった。みんなうつで、うつであることがステイタスで、「高次のうつ」なんてものがあったりしてね。そういうの、どう?(笑)
うつだけではなく、そういった多様性の世界をピンからキリまで体験できるのが、地球という星です。そう考えると、地球に生きるとはすごいことだと思いませんか?何があっても、どんなことに出会っても、楽しいという感じがしませんか。そういった捉え方をすれば、生きることと死ぬことは、まるっきり正反対のようなものですが、この星に生きることは、それを両方体験できるのです。皆さんは、その体験ツアーに来ているのですよ。

みかこ:
発生学のことを思い出した。人間は最初に肛門ができて、そこから内臓が順々にできて、頭ができて、最後に脳ができる。だから脳は二次的なものだというのだけれど、脳には松果体という、宇宙を感知するとても大切な部分がある。とても高度なものであるからこそ、先にその他の部分を受け皿として創り、最後に脳を創ったのだと今理解しました。それは、動物の中で人間が最後に創られたことと同じ。高度だからこそ、その最終章に登場した。

脳は潜象界の感受体であり、体は現象界そのものを現している。特に手足は、さらなる現象を生み出していく現象化の働きをする。潜象界から現象界に現れる時には、自動的に質的転換が起こる。それは、脳の右脳は左半身に、左脳は右半身に作用する仕組みと同じで、まさに潜象界と現象界を質的転換しながらIMG_0361行ったり来たりするのと同じ仕組みになっている。同じように、目から入ってきたものは目の奥で焦点を結んで反転し、脳に認識される。つまり、目というのは、潜象界から現れた現象界を感知するための器官なんだよ。脳に直結し、現象界で捉えた像を脳へと送っている。その情報を持って、脳は現象の奥にあるものまで感受できる能力を持っているのだけれど、目が曇っているというのは、まさにそういった真理を探究する心の目が曇っていると言える。目(芽)は、表に現れている部分は少ないけれど、その奥に広がりを持っているものが控えている。まさに氷山の一角だね。

いさどん:
それは依正不二という言葉にも表れています。この世界で人間は、脳の役割を果たし、動物たちは現象化するための役割であるとも捉えられます。人間の目が曇っていると、結果、この世界のすべてが混乱していくのです。

めぐちゃん:
今聞いていて思ったのが、脳の松果体で受けたものが喉で交差して体へといくわけだけれど、まさにその喉で声 ──── 響きを発していますね。

みかこ:
そこに意志が現れる。いさどんがいつも言うのは、語ると現象化するということ。だから声に出すことはとても大事。

いさどん:
「イ」「シ」とは、「示し」の「位置」。体へ行くだけではなく、外にも発せられます。

みかこ:
その中で、松果体で受けたものには、天の意志が示されているんだね。

いさどん:

でも今は上(霊性=潜象界)よりも下(体=現象界)が優先してしまっている。

みかこ:
松果体は宇宙を感受する場所。カタカムナはここの感受性を磨くことを伝えている。

いさどん:

今は思考の主体が損得勘定になっており、そういった思考は下から湧いてきます。しかし本来、生きるとは、「今日は天気がいいから何をしたらよいでしょうか」と、上にお伺いをたてて生きるものなのです。そしてその結果も、先に行ってみていただいていく「いただきます」の姿勢であるべきなのです。

みかこ:
現代人は脳の10%しか使っていないというのは、現象界しか見ていなければ当然のこと。

いさどん:

6500年前から、そういった時代が始まりました。しかし13000年前には松果体優先で生きる人々がいたわけですから、地球46億年の歴史からしたらそんなに遠い話でもないですね。それもサイクルを刻みながら先へ進んでいるのですから、今私たちが物質文明をこれだけ発展させたのも、それを体験して次のサイクルへ行くためのものなのです。ですから、そんなに深く考える必要もないのかもしれないですね。これを経験しなければ、次がないのですから。

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いさどん:

人間が正しく生きるとこの世界が正しく運営されるということは、人間が「ヒ」から「ト」までを理解した「ヒト」になるということです。
人間は、この世界の法則から逸脱することができます。生命ですから、本来この世界の法則から逸脱することはできないはずなのに、できるとはどういうことかと言うと、意識の上で逸脱できるということです。そして、その逸脱の体験を学習することができるのです。
「依法」と「正法」は不二、つまり表裏一体です。依法と正法は、その双方が役割を果たすことによって、この世界を運営しているということです。それを忘れていてはいけません。

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いさどん:
この世界は「成住壊空」の仕組みで成り立っています。この拡大の始まる一点がビッグバンです。ここから世界が広がり、地球上では現象化が進んできました。生命も進化してきました。そしてピークを迎えると、「満つれば欠ける」というように、今度は崩壊に向かっていくのです。「成=誕生」「住=維持」「壊=破壊」と進んでひとつのサイクルが終わると、「空」即ち無になります。図で見ると、この「空」は一点で表されていますが、この点は天であり、無限なる宇宙でもあるのです。この点である瞬間が無限につながり、無限の世界を創っています。つまり、そこではトキも存在しないのです。それは限りなく長い世界であるとも言えるし、「ない世界」ですから一瞬で次の世界に切り替わるとも言えます。

『この世界は、「ある世界(現象界・陽)」と「ない世界(潜象会・陰)」を行ったり来たり(質的転換)しながら循環し、生死を繰り返している』
その天然循環の世界が神様の歩みであるとしたら、この図は神様の呼吸を表してもいます。私たち人類の文明も、同じように呼吸していますね。時代は、神様の呼吸で創られているのです。誕生し、死を迎え、誕生し、死を迎えるという陰陽のサイクルが無限に続いているのです。

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いさどん:
これは村山節さんという人が提唱した、文明周期説に基づいています。今私たちは西洋文明と東洋文明の盛衰が入れ替わる、転換期にいます。転換期だからこそ、こういったことに気付けるのです。そういった切り替え時だからこそ、今話しているようなことを理解し、語れるのであって、もっと前の時代にはそのような視点は持てませんでした。今、様々なターニングポイントが同時に地球上に訪れていますが、私たちがその大転換の時に生きているということはとても重要であり、めぐちゃんが言うように「過去にこんな時代があっただろうか」というくらい稀な時に私たちは集っているということです。
その中でも、こういった仕組みを理解できる場に集っているということはとても貴重なことです。世の中はまだ、銀河の冬至という闇のピークを越えたばかりで、季節で言えばこれから「小寒」「大寒」がやって来るのですから、もっと寒くなります。そういった事実を抜きにして、私たちは松果体を震わせて世界の全容を読み解ける立場にいるのですから、それは時代にとってとても重要な立場に立っているとも言えるのです。

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いさどん:
これからは、宗教のように何か他のものから価値を得ようとするのではなく、自分自身の中に眠っているものを目覚めさせる。そうすることによって、自らが尊きものとなり生きる時代がやってきたのです。

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いさどん:

どの宗教も同じですね。人々の「救われたい」という発想がベースになっているのです。

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いさどん:

この世界に生きるということは、自らが「無」となって宇宙の法の元にあるすべてのものごとをいただきながら、「有」である現象界を生きることです。私たちが生きるこの世界は、無と有が共存しているのです。

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いさどん:

お釈迦様が悟りを得た時、それはとても心地よい境地に至り、お釈迦様は一人でその境地にいつまでも浸っていたい気持ちになりました。しかし、尊き存在の立ち位置は、それではいけないのです。聖なる者として地上に降りたものは、迷える者たちを救わなければなりません。それが聖なる者の本分なのです。ですから神様は旅人に姿を変え、そのことを何度もお釈迦様に伝えました。

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いさどん:
その花とは、既製品ではなく、一人ひとりオリジナルな「個の花」です。

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いさどん:
なぜ「願ってやみません」と書かれているのかというと、そのことの大切さに気付いた者がどんなに高次の意識で投げかけたとしても、結局人間には自由が与えられており、自らがどのような意識で生きていくかは一人ひとりの選択なのです。
そのことの大切に気付き、ぜひその境地に行っていただきたい。この世界はあなたの目覚めにかかっているのですから。

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ニナからいさどんへのインタビュー ~ これからの人類の進化とは

受講生の一人であるニナは、アムステルダムの大学で文化人類学を専攻している大学院生です。「精神性と持続可能性がどのように関連し、日常の生活の中で実践されているのかを学び、その背後にある哲学への理解を深め、現代の消費社会に対する代替案を提示したい」との目的から3ヶ月間の予定で木の花ファミリーに滞在し、その一環として真学校を受講しています。「受講生の多くが自己改革を目的としている中、社会的な目的を持って参加している二ナの視点が加わることで全体に客観的な捉え方が生まれ、みんなにとってとてもいい刺激になっている」と同じく受講生のめぐちゃん。

ニナは真学校開講前から定期的にいさどんにインタビューをする時間を持っています。真学校も3分の1を過ぎた昨日は、ニナからのこんな質問で始まりました。


ニナ:
いさどんは60歳の時に生前葬をしたと聞きました。それがどのような意味を持つのかを聞きたいです。

いさどん:
それは、物理的にも霊的にもみかちゃんの方が詳しいですよ(笑)。
土星は太陽の周りを1周するのに30年をかけます。それは人の人生にとっても一つの節目となるサイクルを刻んでおり、自分が生まれてから土星が1周する30年の節目を「サターン・リターン」と言います。
僕は30歳の時にお釈迦様に出会い、この生き方に目覚めました。それを実践してきて、40歳からこの生活に入りました。50歳の時の記憶はあまりありませんが、ある程度木の花の基礎ができて、自然療法プログラムや様々な場所で講演などをするようになったのが50歳ごろのことだと思います。
僕の人生は、30歳までは自分のための野心で生きてきました。そして30歳からは、与えられた宿命を実現する人生に入りました。そして60歳になり、その与えられた役割を最も大切なものとして生きるということが、60歳からの使命だと思いました。
だからと言って60歳以降の生き方が変わったかと言うと、僕としては全然変わったとは感じていません。自らの人生の終わりに向かい、完結していこうという意志が働いているだけです。ただ、60歳から明らかに体質は変わり、僕の体は大きくなりました(笑)。そして安定して高止まりしています。霊的にも変化はあるのでしょうけどね。

葬儀をするということは、旅立つ人よりも、送る側の人たちにとって意味があります。ですから、葬儀委員長だったみかちゃんの方が詳しいと思いますよ。ですから、みかちゃんに聞いてみるといいですね。

ニナ:
そうします。送る側にとっての方が意味があるというのは、どうしてですか?

いさどん:
通常の葬儀では、亡くなった人というのは次のステージに向かうだけです。ですから亡くなった人にとっては、葬儀があろうとなかろうとどちらでもいいのですよ。もう新たな方へと向かっているのですから。もしも亡くなった人が自身の葬儀に対してクレームをつけるようなら、それは生きることに対して執着があり過ぎるということですから、霊的には問題な存在です。そう思いませんか?

ニナ:
そうかもしれませんね(笑)。

いさどん:
僕はいつの頃からか、何かの機会があるたびに、自分が死ぬ瞬間をシミュレーションするようになりました。例えば高速道路を走っている時に、交通事故に出会うことをシミュレーションします。大きな病気でもすればそれが原因で死ぬこともあるでしょうが、今のところ僕には病気がないので、現実的に死ぬ可能性のある瞬間を常にシミュレーションしているのです。
その時にいつも僕が大切にしているのは、いかに死を受け入れていくかということです。いかにその現実に抵抗せず、それを越えた先の世界へ積極的に進んでいくか。実際に死んでみなければわかりませんが、僕は、生きている人たちが死んだ僕に対して何をするのかということはほとんど気にすることなく、旅立っていくだろうと思うのです。
残された人たちに対する意識は、生きている間に伝えています。残された人たちともしも霊的に再会するとしたら、死んだ先の世界に、例えば熊が冬眠するような穴があって、そこで休憩しているから後から来る人はそこに集合しよう、と言うかもしれません。そこは銀河旅行の駅のようなものですが、そこで何人の人が一緒に乗れるのかはわかりません。
まあ、これも今そう言っているだけで、実際はどうでもいいことです(笑)。

ニナ:
では、今生きている中で大切なことは一体何ですか?

いさどん:
僕にとって大切なことは、何もありません。あえて言うならば、人類の目覚めです。今の愚かしい悪夢から人々が目覚めることです。ただ、これは神様があえて人間に悪夢を見るように仕組んでいるという可能性もあります。悪夢を見れば見るほど、目が覚めた時に感動があるでしょう?ですからこれは、神の人類に対するプレゼンとか、はたまたいたずらか、どちらかですね。

ニナ:
それはどちらでしょう?(笑)

いさどん:
う~ん、どっちかなあ(笑)。両方かもしれないですね。なぜなら、神さまは楽しむことが最優先だからです。僕はこの神の仕掛けたゲームに、対抗心を持って臨んでいます。「このゲームには負けないよ」と(笑)。ですからそれがプレゼントであろうといたずらであろうと、どちらでもいいのです。
ただし、そのゲームを真剣にやり過ぎると深刻になります。このカラクリがわからない人々は気の毒ですね。

ニナ:
木の花のメンバーたちはそのゲームに対して深刻になっていると思いますか?

いさどん:
深刻ですね(笑)。

ニナ:
確かに昨晩の大人ミーティングで、メンバーたちが深刻になっている感じを受けました。

いさどん:
深刻になるのはいいのですが、深刻になる目的は、それに踊らされるのではなく、そのカラクリを知って、余裕を持って豊かに生きるということです。みんなは固いですね。深刻になった時にこそパフォーマンスをやったり冗談を言って、場をやわらげることです。
ただしそれは、深刻の意味がわかった上でやらなければいけませんね。わからないのにやっては、ただの不真面目ですよ。まあもっとも、僕がいつもそうしているのと同じようにメンバー全員がやり始めたら、メンバーの数だけ僕がいるみたいですから、それはそれで問題ですね(笑)。

ニナ:
コミュニティ全員がいさどんになったところを想像しちゃいました(笑)。

いさどん:
ゾッとするね(笑)。

ニナ:
木の花のメンバーがゴールに向かっていくことについて、どのように考えていますか?

いさどん:
目的地に着くことが目的ではないと、僕は思っています。大切なのは、そのプロセスです。だから大変な道があってもいいのですよ。

今日、「人格を学ぶ講座」の中で、あなたの地球暦を読みましたね。それを読みながら僕は、新人類が現れたな、と思いました。もしくは、これからの人類の可能性に出会ったと思いました。僕が憧れているアメーバのようなね(笑)。

今日、日和(木の花で生まれ育った女の子)が日記を書いて持ってきました。以前彼女が落ち込んでいた時に、日記を書いては時々僕のところに持って来ていたのですが、いつの頃からかやらなくなり、2、3日前に部屋を片付けたら久しぶりにその日記が出てきたのだそうです。それで彼女は、久々に日記を書いてみようと思いました。そしてそれを僕のところに届けました。
それを読んで、僕はとても感動しました。彼女は勉強が苦手で、自分のことをバカだと言っていますが、あんなにもポジティブに人生をエンジョイできる人になったなんて、と。これなら勉強なんかしなくていいね、と思いました。素晴らしいです。(日和の日記については、木の花ファミリーブログをご覧ください。)
そう感じた時に、あなたのことを思い出しました。新人類が生まれてきたな、と。僕は日記の最後にこうコメントを書きました。「日和に出会えて幸せです。」あの日記は、ぜひあなたにも読んでもらいたい。素晴らしいよ。勉強はできなくてもいいんです。

ニナ:
その日記のどこを特に素晴らしいと感じましたか?

いさどん:
彼女は、子どものころからとても明るい子でした。明るいけれどちょっと暴走気味のところもあって、子どもたちの間ではうっとおしがられることもありました。それで他の男の子たちに何となくいじめられるので、僕はいつも日和の味方をしていたんですよ。だから彼女にとって、僕は大事な存在だったでしょうね。しかし彼女自身は、勉強も苦手だし、自分のことをあまり評価していなかったのです。
そして中学校を出て、高校には行かずに2年間を木の花で農作業やお菓子作りをしながら過ごしました。そして外にアルバイトに行くようになり、3ヶ月が経ちます。その中で、彼女がネガティブからポジティブに変化していくプロセスがとても面白いのです。これまでにあったいろいろなことが全部素晴らしいことだったというのですから。まだ若いからそんなにたくさんの物語があるわけではありませんが、何しろ素晴らしい。言葉ではどう表現してよいかわからないので、ぜひ日記を読んでください。
彼女の姿勢は、ここのもっと小さな子どもたちにとってもいい刺激になっています。そして彼女より年上の子たちにとっては、自分の姿勢を見直すいい機会になるだろうと思います。

ニナ:
木の花で育った他の子どもたちにも興味があります。他の子どもたちといさどんとの関係はどのようなものですか?

いさどん:
それは一人ひとり違います。それぞれが独特です。それは大人のメンバーと接するのも同じですよ。どういうことかというと、その人の人柄に応じて接しているということです。こちらの伝えることをサッと理解する人もいれば、時間のかかる人もいます。
僕は一人ひとりとの関係を、プロセスとして捉えています。ですから時に、相手が感じている印象とはギャップがあることがあります。どういうことかと言うと、僕は相手の今の状態を、その人が歩んでいく物語の一部として捉えており、今はこの人には厳しく接することが必要だな、とか、今は甘くしておこう、というようにつなげて観ているのですが、相手はただ厳しくされていると感じている人もいれば、好感を持っている人もいて、受け取り方は様々です。
ですから子どもとの関係がどうかということを、一律に語ることはできません。それは大人との関係も同じことです。いさどんは策略家なんですよ(笑)。

ニナ:
調整しているということですね。

いさどん:
そうですね。その人がいかに大切なものを築いていけるかということのために僕は生きていますから。その中で一人ひとりにはそれぞれのサイクルがありますから接し方もそれぞれに違いますが、相手を大切に思い、愛していることに違いはありません。

ニナ:
ここを離れたメンバーについても興味があります。ここを離れる人は、いい感情を持って離れるとは限らないですよね。

いさどん:
そこは難しいところですね。いい感情とは何なのか、ということです。
離れていく人も、ここのやっていることは大切だということは理解していたからこそ、メンバーになったのだと思います。ところがメンバーでなくなるということは、それを最優先にできなかったということです。
その中で、その人にとっての「旬」が来ていなかったから離れていく人と、旬でありながら離れていく人がいます。後者の方が業が深いです。そして業が深い人ほど自分を否定したくないので、感情としては悪いものを持って離れていきます。旬でなかった人は、感情がどうであるかは別として、また旬が来れば戻ってきます。
僕はどの人に対しても、この道に戻ることはいつでも容認しています。ただし、人によっては無条件に戻ることを許してはいけない場合もあります。その人の性質にふさわしい振り返りがなければなりません。どの人も、メンバーになってから離れるということは、この生き方の大切さをわかった上で離れるということですから、離れていく自分に対する評価は複雑でしょう。自分に対して否定的になることもあれば、木の花に対して否定の矛先を向け、自分自身を肯定しようとする人もいます。それはどちらも、相手の都合の問題です。

今、世の中には様々な人々の価値観があります。それは西暦1000年から2000年にかけた1000年間の拡大の時代の名残です。それが今、2000年を越えて3000年へと向かう1000年が始まり、これまでの拡大の時代から、余分なものをそぎ落として真実に目覚めていく時代に入りました。世界はそのようなサイクルに入ったのですから、この視点は重要です。
そろそろ、こういったメッセージを人類に向けて発信していく必要があります。今はまだ、人類に対する影響はそれほど大きくないかもしれませんが、時が経過していくにつれて、そのメッセージの重要性に人々は気付いていくはずです。そして新しい時代の真理を求める人々が目覚めていくきっかけとなることでしょう。
僕の中ではふっと、今朝そのスイッチが入りました。その証として、今日あなたの地球暦を読んだのだと思います。もともとあなたのような人々は世界にいたのかもしれませんが、僕は初めて出会いました。僕は瞬間的に、あなたのことを宇宙人だと思いました。そう思いながら、自分も宇宙人だった、と思いました(笑)。だから人のことを特別だと思ってはいけませんね。
日和のことは全然宇宙人だとは思っていませんでしたが、夕方に彼女の日記を見て、勉強ができなかったり飛び抜けて優れたところがなくても、人はこんなに美しくなれるということを感じて、感動しました。これからは、何でもないところからそういった美しい人がたくさん現れてくることでしょう。

ニナ:
今日はとても良い流れだったようですね。

いさどん:
こういった生き方を目指して集い、コミュニティを創った木の花の人たちも、一人ひとりはとても一生懸命ですが、もう少し羽目を外してもいいのかな、と思いますね。エンジョイしなくちゃ。彼らはエンジョイするのがヘタですね。僕はエンジョイしてるでしょ?

ニナ:
いさどんのやり方はいい方法ですね(笑)。
日和や私の世代についても考えていました。大きな都市に住む人々にとっては、まだ物質的なものが大切になっていますよね。物質至上主義的な価値観の人々に対して、どのように考えますか?

いさどん:
大都市か田舎かは関係なく、人々は欲望や自我にまみれています。そして欲望や自我にまみれている分だけ、人工的な生き方をしています。お金や物と関わっていても、欲望や自我に翻弄されずにある程度コントロールできている人というのは、自然に近いですね。こういった分類の方が、人々が今の時代の混乱を解決していく方向性をつかむのに適切だろうと思います。

ニナ:
若い世代の人たちにとっては、例えばiphoneは重要なものですよね。

いさどん:
彼らにとっては、iphoneを介したネットワークが脳に直結しているのでしょうね。そこに出てくるいろいろな情報と脳の中の情報が見えないもので連結していて、一種の人工頭脳のような状態になっています。それはある意味、人間の単独の思考回路を越えて、ローカリゼーションからグローバリゼーションになるように、思考がコンピュータの中に入ってたくさんの人々とつながるので、ある意味進化ですね。ところが彼らは、一種の中毒にもなっています。それは人間の人格否定とも言えて、自分らしいオリジナルな人格を否定することになるのではないかとも思います。
それはきっと何らかの形で害が出てくることでしょう。しかしあの中毒状態の人々にやめなさいと言ったところで、意味はありません。それはひとつの時代のプロセスとして、どうなっていくのか興味を持って観ていくことです。彼らは確実に未来の地球を担っていきますからね。

そしてひとつ、彼らの中に可能性を感じるのは、自我が重要だった20世紀までの人類の視点からすると、新しい精神世界を開く可能性があるということです。実際に、今回の真学校参加者の中で最年少であるオレンジくんは、聖者になって人類を導くのだと言っていますね。ただし、自分の価値観を優先して他者と通じ合わなければ聖者とは言えませんから、そこは意識する必要がありますが、いつかは変身するかもしれません。ニナも宇宙人ですが、オレンジくんも宇宙人です。

オレンジくん
オレンジくん

ニナ:
彼は素晴らしい聖者になる可能性がありますよね。ユニークな方が適しているでしょうから。

いさどん:
そうですね。今は変わり者でも、世の中がその方向に進めば「素晴らしい」に変わる可能性があります。

ニナ:
時代は変わるものですが、それはいつ、どのように変わっていくのでしょう?

いさどん:
「人格を学ぶ講座」で、地球暦の惑星配置の構造について学びましたよね。惑星同士が創る角度が個人の人生にどのように関わっているのかということをお話ししましたが、あれは我々の思考で解釈しやすいように、便宜上そうしているだけです。実際は、瞬間瞬間どの角度でも、星々は対話をしています。たくさんの楽器がそれぞれの音を出しながら、全体で交響曲を奏でているようなものです。その中でターニングポイントというものはありますが、時代がいつ、どう変わるのかというと、例えば1月1日になって新しい年を迎える時に、前の日から比べて元旦に何かが変わったかというと、何も変わりませんよね。つまり変化というのは、ゆっくりじわじわと進むものなのです。

ニナ:
講座の中で、時代は既に変わっているというお話が出てきますね。

いさどん:
そうですね。日本では、毎年だいたい12月21日に冬至を迎えます。冬至は1年で最も太陽のエネルギーの少ない時です。しかし気温が最も寒くなるのは、冬至からだいたい1ヶ月後の1月下旬から2月にかけてでしょう。太陽の光の量は増えていっても、空気や海などの都合で気温の変化は遅れて進むのです。夏も同じですね。太陽の光が最も多いのは6月21日の夏至ですが、暑くなるのは7月、8月ですね。
それと同じことが、宇宙の星々と地球上に起こる現象との関係にも言えます。星々はターニングポイントを過ぎたことを示していますが、それが地球上で実際に現象として現れるのはもう少し先なのです。例えば冥王星のサイクルから観ていくと、1913年は、冥王星が太陽を1周する248年のサイクルの中で闇のピークでした。しかし、その闇のピークに生まれた人々によって、実際に第二次世界大戦という闇が表現されたのは、その約30年後です。そのように、星の動きと実際の現象には時差があります。

スクリーンショット 2018-02-23 15.29.29

今、宇宙的にはターニングポイントを過ぎていますから、あとは我々は現象化される時を待つということです。

ニナ:
おもしろい!

いさどん:
こういった捉え方は、単なるスピリチュアル的思惑で編み出したものではなく、天文学的にも歴史的にも、それから先人たちが残したデータの中にも盛り込まれているものです。それを自分の都合のいいように受け取るのではなく、様々な角度から見てつなげて読み解いていくというという作業が重要です。
面白いのは、私たちは研究家ではありませんが、自然とこういったことが伝えられる生き方をしているということです。

ニナ:
先ほど、自我をコントロールできている人は自然と近いというお話がありましたね。そのことについてもう少し詳しく聞きたいです。

いさどん:
大都会というのは、人工の極みの世界です。それは自然の中に生まれた矛盾の世界と言えます。
しかし、大都会の中にも実は自然はあります。そこで生きている人々は当然空気を吸いますし、食べ物を食べるということは土を必要としているということです。気候が変わればその影響も受けるでしょう。ですから大都会の中にも自然はあるのですが、本来の循環からすると異常な自然をつくっているのです。そういった場を快適だと思う人は、大都会の波動に合っているということです。
一方、人間が創ったそのような疑似的自然に対して、違和感を感じる人たちがいます。そういった視点から区別した方が、人を分類する時に、単に大都会に住んでいるのか、田舎に住んでいるのかという分け方をするよりも、有効だということです。

ニナ:
人工的な自然をつくる人々に対して、どのように思いますか?

いさどん:
そういった人々は、その人個人にとってもそれが今重要なのだというプロセスを歩んでいるのでしょうし、同時に、そういったことが地球上で重要に思われているという時代的プロセスを歩んでいるとも言えます。その矛盾は様々な形で地球上に広がっています。元々私たちのベースである自然に対して、矛盾が増えているのです。そこで人間の叡智を使いながらどう自然と共生するのかというと、それにはまず、人間が自然を第一に考えることです。そして、その姿勢をベースとして人間の叡智を使っていくのが、これからの21世紀から30世紀までの人類の在り方だと思います。それは人類の地球上での進化の過程を考えた時に、もっとも無理のない在り方です。

ニナ:
その進化とはどういうものですか?

いさどん:
人間はこれからも進化していきますよ。世界観がもっと広くなっていきます。今、地球はグローバル化されて、人間の意識からしたら狭くなりました。これからもっと狭くなるでしょう。いずれは国境もなくなり、通貨も共通のものになる。物理的にどこまでということは語れませんが、思念はもっと宇宙的なものになります。
今のように科学やテクノロジーが発展しながら、人間の世界観が進化しなければ、確実により多くの矛盾が地球上にもたらされ、人類は他の生命と共存できなくなるどころか、地球と共存することができなくなるでしょう。そう言うと、人間と地球が対等のように聞こえるかもしれませんが、実際は地球から人類が排除されるということです。

ニナ:
私も同じように感じています。

いさどん:
地球としてはこの不良品のような人類をリセットして、新たな生命との共生を始めるだけです。地球の歴史を振り返ると、過去6億年の間に6回大量絶滅が起きています。人間は7回目の引き金を引くかどうか、というところです。
このサイクルを何億年という単位で俯瞰して観ると、人類が7回目の引き金を引いたとしても、地球にとっては新たなサイクルに入るだけのことであり、その後に現れる生命は人間よりもさらに進化しているのですから、地球からすれば歓迎すべきことでしょう。今の段階で人間が人間であることに囚われていると、それは自分たちの滅亡ということで大事のように思えるのでしょうが、地球の歴史から見れば何度も起きてきたことのひとつに過ぎないのです。
ですから、人類には二つのスタンスがありますね。ひとつは、世界観を大きく広げ、月が満つればかけていくように、人類の存在もいずれは終わりが来るのだという捉え方。それはネガティブなものではなく、さらに進化した次の生命へバトンタッチしていくといういうことです。
もう一つは、個人としてどう在るかということ。意識のスケールが大きくなり、人類のサイクルを超越した意識になれば、物語を観ているようなものでしょう。

ニナ:
木の花のメンバーにとって、自然や環境とは大切なものですか?

いさどん:
みんな環境意識は高いですよ。だからこの生活をしています。
僕は環境活動家とはちょっと違います。環境が悪くなるのも一種の学習であると捉えているからです。環境問題とは、自分たちの行いに対する明快な答えをもらって学習するチャンスなんですよ。人間はバカなことをやらないと、学習できないのです。
人間からヒトになると、愚かなことをやらなくても成長していくようになりますから、地球上に現れる現象は確実に穏やかになることでしょう。そうすると、僕の故郷である金星のような世界になりますね。人がみんな菩薩のようになってしまい、調和が当たり前になるのです。それはある意味、生命力がないとも言えるでしょう。地球は様々な問題が起きて実にダイナミックで、生命力にあふれています。ですから、何がいいのかはわからないですね。

ニナ:
地球と人間の関係というのが個人的な話にもつながって面白いです。

いさどん:
個人である自分を基準としたものの見方があると同時に、我々は人類であり、さらに視野を広げると、我々は神でもあるのです。だから面白いのですよ。人間が完璧に悟ってしまうと、神さまも、人間も退屈でしょう。何もない時が永遠に続くのですから。

ニナ:
それでは面白くないですね(笑)。

いさどん:
だから僕はある意味、金星では不良品でした。完璧な世界に退屈してしまったわけですから。それでも金星の味を覚えているので、地球に来ると「ひどい世界だ」と愚痴を言うことになりましたね(笑)。

ニナ:
金星の記憶というのはどのようなものですか?

いさどん:
太陽系は、太陽と九つの惑星が連携してできているでしょう。その中で極めて精密に太陽と連携しているのが金星です。金星の軌道はほぼ真円で、ブレがありません。太陽系は太陽を指揮者として素晴らしい生命の交響曲を奏でており、それを現象化する星が地球ですが、その中で金星の役割はメトロノームです。もっともオーケストラにはメトロノームはありませんから、何に例えたらいいのでしょうね。もっともベースとなるリズムを刻むものであり、すべての指針です。その星が女性性を表しているというのも、面白いですね。そして愛がベースになっている。そう観ていくと、宇宙を創造している神さまの心が感じられませんか?

僕が過去に金星にいた時の話は、以前にも少し話しましたね。地球の記憶ほどたくさんの物語を語ることはできませんが、印象は残っています。この富士山麓に移住してからのある夜、車でこの近くを走っていた時のことです。その時は、霧のような雨が降っていました。道路にはいろいろな高さの街灯が経っていて、そこにも霧がかかっていました。そうすると、霧の柱が立っているように見えるのです。のっぽもいれば太くて低いのもいて、それが虹のようにいろいろな色をしている。それを見た時に、僕は思い出しました。「この景色はどこかで見たことがあるぞ!」と。それが金星の風景です。
のっぽや低くて丸いのやいろいろな形があって、高いものだと地球の基準で言ったら3メートルから4メートルほどになるでしょうか。低いものでは1メートルくらいです。それは何かというと、魂なのです。今はそれを形で表しましたが、地球のような物理的三次元で表現されるものではありません。僕は人と話す時に、表に表れている形よりもその人の魂を見て話しますが、それと同じようなものです。形状の違いは、その人の心の性質を表しています。

地球上で人間を観ると、色がとても美しいものもいれば汚いものもあり、歪んでいたり濁っていたり、ずっと複雑です。しかし金星の風景はぼわーんとして、すべてが虹のように、いろんな色が入っています。全体はピンクがベースです。それに対して個々の魂は、虹の七色の中でもピンクが強いとかブルーが強いとかいうように個性があります。霧の中の風景を見ながら、それを思い出したのです。

金星人たちはどうやってコミュニケーションを取るのかというと、震えるのです。震えながら「ブウッ、ブウッ」と、背が高く細い魂なら高い音、低くて太い魂なら低い音というように、それぞれの音を出して会話しています。そしてすべては虹であり、光であり、何より友好的です。光は七色が調和して神様の光になっているのですから、どんな色をしていても調和的に決まっているのです。ですから会話の内容がどんなものであっても、すべてが愛であり、素晴らしい世界です。 ──── つまらないでしょう?(笑)

ニナ:
でもとても温かい雰囲気ですね。

いさどん:
そうですね。そこには苦痛がありません。だけど、苦痛のない不幸というのもあるんですよ(笑)。僕は霧の中の風景を見て、あれは自分の家族だと思いましたが、その家族のことがあまり好きになれなかったのでしょうね。だから地球に来たのです。
これはとても面白い話ですから、そのうちに木の花劇団の劇にするといいかもしれませんね。

ニナ:
その劇を見てみたいです(笑)。
先ほど金星は女性性を表すという話がありましたが、男性性と女性性ということについて興味深く感じています。一般社会の男性性と女性性とは違う意味で使われていますか?

いさどん:
そうですね。今の一般社会で言われている男性性と女性性というのは、物理的な面に偏っています。生殖のための男性性と女性性というのはありますが、それはさして重要ではないですね。それは機能的な役割分担のようなものです。
太陽系の惑星の軌道を見ると、金星は真円を描いて、安定した響きを発していますね。それは例えば家にお母さんがいて、いつでも帰って来られる癒しの場があるからこそ子どもたちは安心して外に冒険に出かけ、戻ってきてはお母さんのもとで癒される、というような感じです。男性は、女性が安定して住まいを守ってくれることによって、外で何かを勝ち取ってくることができます。男性性と女性性というのは、生きていくための役割分担であり、それぞれのポジションのようなものです。女性性とは、男性性がダイナミックに動けるためのベースとなるものとも言えます。揺らがない柱のようなものですね。

私たちのいる現象世界は、変化する世界です。それに対して絶対不動のものが神であり、それは目には見えない安定した柱です。そしてその絶対不動の柱があるからこそ、周囲はダイナミックに変化していくことができます。そうやって生命を躍動させていくのが男性性の役割です。それはパワーであり、変化です。元の部分が安定しているからこそ広がっていくことができるのですが、元がないまま広がっていってはバラバラになってしまいます。その元になるものとは、目には見えない、始まりの意志のようなものですね。カタカムナの講座でお伝えした通り、陰が主で陽が従とはそういうことです。

講座では、カタカムナの5首と6首には表の解説と裏の解説があるということをお話ししましたね。あなたはその解説が欲しいと言いました。日本人の受講生は誰も言いませんでしたから、それを欲しいと言うあなたはただ者ではないと思いました。重要なのは、裏の解説です。
裏の解説は、男女の性についてのものです。男女の役割分担にはどのような目的があるのか。その役割分担とは、男女の交わりのことです。カタカムナの裏は、ほとんどが性の解説になっています。この宇宙の法則はすべての生命のモデルであり、生命が現象化する時、それは雄と雌の交わりによって創られます。それは神が行うものですから、神聖なものです。その時に、正しい交わりの作法というものがあります。それが裏の解説です。

現代の人々はその神聖さを忘れてしまいましたが、男女の交わりとは「カムウツシ」であり「アマウツシ」です。「カムウツシ」とは、潜象界からの真理を降ろすことであり、男性の役割です。「アマウツシ」とは、現象化した宇宙の真理を人間界へと現すことであり、これは女性の役割です。ですから男性がカムウツシをし、それを女性がアマウツシします。物理的な構造で言うと、男性は男性器によって潜象界から現象界へ真理の柱を立て、女性はその種を子宮に受け、そこに回転が生まれます。するとそこにも陰陽が発生します。それが「カムミムスヒ」と「タカミムスヒ」です。そして現象化して生まれたのが、地球です。
銀河も太陽系も地球も、すべて同じ構造になっています。それを忠実に表現しているのが、男女の交わりなのです。それは「アマ」の精神と、さらにその奥にある「カム」の精神を再び人間に復活させるという目的があります。交わることは、それを人間に復活させるための儀式なのです。

ですから、単に子孫を残すための行為としてそれを行うことは、意識としては低いものですね。それはすべての動物や植物が行っているのと同じことでもあり、ある意味汚れのない美しいものですが、高いものではありません。
しかし交わることには、ヒトという高い存在のものが行う行為、もしくは人間がヒトになるための過程として宇宙の真理を降ろすための作法としての行いとしての意味があるのです。興味がありますか?

ニナ:
一般社会で言われていることとはまったく違うものですね。

いさどん:
そう、まったく異質なものです。例えばエクスタシーについても、一般社会では単に官能を楽しむものであり、欲求として求めるものになっていますが、それは日本で言う「マツリ」の精神と同じで、人間が自我を忘れ完全にトランス状態になると、そこに神が入るのです。それがカムウツシ、アマウツシのエクスタシーの状態であり、無我の境地です。
そうすると人は高い意識波動になり、さらに直観が働くようになります。そしてひとたびそこにアクセスできるようになると、毎回それを行わなくとも常にその精神状態を保てるようになります。ただし、通常の人間は低いところにいますから、その低い位置の欲求を振り払って振り払ってそこまで登ってきて、その意識に至ってアクセスすることがなかなか常人ではできないということです。そういったことが、カタカムナの解説には書かれています。
ではその解説を書いた人々が実際にその境地に至ったのかというと、挑戦したであろうことは確認されていますが、そこに至ったということはどこにも書かれていません。後にその解説書を研究して世に広めていった人たちの人間性を観ても、その境地には至っていないだろうと僕は思うのです。そこに至っていない人々が勉強会を開いてそれを世に広めたとしても、それは偽物の波動でしょう?ですから今現在カタカムナを広めている人たちも、裏の解説には触れていません。

僕は人に何かを語る時、相手の精神状態に合わせて語る内容が変わっていきます。人は自分のニーズに合わせて色を付けて物事を解釈するので、真実とまったく違った話になったりするのです。ですからこういった話をする場合でも、聞く側は無色でなければなりません。
ニナは5首と6首の解説の英訳が欲しいと言いましたね。それであなたの人柄を観ていて、僕は伝えてもいいと思いました。それは、一般の人々が思い描くのとはまったく別の世界です。あの裏解説は極めて説得力のあるものであり、今世の中でカタカムナを広めている人々に見せてあげたいと思っています。彼らは頭で学んでいるだけで、実際に経験していない世界を語っているのですから。それは、エコビレッジとはこういうものだと語りながら実際にはその生き方をしていない人々と同じです。すべては実体験のもとに立証されなければなりません。
あなたは裏解説の英訳を読んでどう思いましたか?

ニナ:
とても面白いものだと思いました。真学校では「性と宇宙」の講座もありますよね。

いさどん:
そうですね、そこでそのことについて語ります。実技指導はないですよ(笑)。
本当は、これはやたらと伝えてはいけないものです。なぜなら、未熟な人々はそれを自らの色を付けて解釈し、歪めて受け取るからです。そうすると、聖なる伝承が歪んでしまいます。ですから、こういったことは昔から、意識がその段階に至ったことを師匠が確認し、そして口伝で伝えてきたのです。
1ヶ月間の真学校では、そのことについて皆さんにお伝えしていきます。ですから皆さんにも、自らの色を付けることなく心をフリーにして学び、たとえ今はそこまでの段階に至らないとしても、実生活の中で高みを目指していってもらたらと思います。

 


21世紀は 時代に乗ってスイングバイ

真学校が始まってちょうど1週間が過ぎた2月26日、受講生のめぐちゃんはいさどんと面談の場を持ちました。「自分の活かし方をもっと主体的に考えたい」というめぐちゃんに様々なアドバイスが伝えられた後、最後にこんな話がありました。

「区切りをつけるために真学校に来ました」と語るめぐちゃん
区切りをつけるために真学校に来たというめぐちゃん ー 写真は講座「創造性と芸術」より

いさどん:
これから自らの未来に対して、どのようなビジョンを持っていますか?何かが観えるのか、観えないのか、観えているとしたらそれをどうするのか。

めぐちゃん:
観えていないと思います。

いさどん:
観えないとしたら、それはとても幸せなことだよ。観えないということは、未知だから怖いということでもあるよね。しかし逆に言うと、観えないからこそ何かに委ねることができる。今まで自分の考えで生きてきて、人生にあまりいい印象を持っていないとしたら、自分の考えを手放すことは新しい世界に出会うチャンスでもある。だけど怖がりな人は、見えないとどうなるかわからないから、未知なるものを恐怖に感じるんだよ。
人は生まれてきて、それぞれの人生を歩むけれど、最終的には必ず死を迎える。その人生の卒業の段階で自らを振り返った時に、その価値は物理的なもので決まるのではなく、どの意識レベルで生を全うしたかということが大切だよ。どのような意識レベルで自らの人生を誇り、有意義に感じて、未練なく旅立っていけるかということの方が、これからは特に重要になる。最終的には一人ひとりが自分で結論を出すことだけど、僕は誰しもそのように生きてほしいと思っているよ。
今回の真学校の受講は、あなたにとってとてもいい区切りになるね。

めぐちゃん:
区切りをつけるつもりで来ました。真学校が終わった時には、心境に何らかの変化があるだろうと思っています。その新しい心境で動き始めるしかないというところまで自分がきている、という意識でいます。

いさどん:
それならば、そのことも自らの中に入れながら真学校の受講を続けていくといいね。地球暦からあなたを読み解くと、緻密にものを観ることが欠けていたり、勉強はしても自らの意志で自分を切り替えていくことをしないということが読み取れる。それは、時期が来ないと動かないということでもあるね。もうひとつ、何が大切なのかと思考はするけれど、けじめをつけてピシッと行動しない。思いはあるけれど、けじめがつけられない。

めぐちゃん:
そうだと思ってました(笑)。

いさどん:
それはどうしたらいいのかというと、何かに乗ればいいんだよ。一番いいのは時代に乗ること。しかし誰もが時代を読めるわけではないから、たとえばこの真学校を受けるのはいいきっかけになるね。自らの意識を創っていくことになるから。今の時代を生きる人々は大きな時代の節目にいるのだから、それに乗っかって一緒に行けばいい。

たとえば、日本が小惑星の観測衛星を打ち上げたでしょう?アメリカが天体を探査する時にも、まずロケットを打ち上げて、地球の周回軌道に乗せるんだよ。そこから周回軌道を離れて目的の星に行く時に、ロケットの推進力だけではものすごく時間がかかる。では何を推進力にするのかというと、地球の重力を利用するんだよ。地球の重力を利用しながらその周りを回って推進力を上げ、あるタイミングで目的の方向に向かってピッと軌道修正してやると、地球の軌道を離れて目的地へ向かっていく。これをスイングバイと言うんだよ。ロケットだけではそこまでやれないから、地球の推進力を利用するんだ。

めぐちゃん:
『オデッセイ』という映画にその話が出てきました。

いさどん:
自分の能力で目的地に行けたら言うことはないけれど、プラスαという意味では、この真学校もスイングバイだね。そういうふうに使い方を考えればいい。なんでも自分でやらなければと思う必要はないんだよ。

もっと力強いスイングバイは、2012年12月21日の銀河の冬至から始まった、新しい時代の流れ。僕はこれだと思う。この時代の区切りのタイミングに乗って、今人類は、21世紀の新しい時代にスイングバイすればいいんだよ。
しかし多くの人は、それを利用したがらないね。新しいところへ行くことを怖がっていたり、未知なるものを理解できないから嫌だと言っているが、そんなことはどうでもいいんだよ。見えようが見えまいが、時代はそのように進んでいる。怖かろうがわからなかろうが、まずはドーンとそこへ乗っていくと、新しい景色が見えてきて「何だ、こういうことだったのか!」となるんだよ。そこに乗らなければ、賞味期限を迎えて終わっていく時代の流れに恐怖を感じることになる。

めぐちゃん:
今朝目が覚めた時にふっと湧いてきた言葉があって、それは「わからないものに寄り添っていく」ということでした。

いさどん:
それこそ天の声ですよ。あなたに向けた、神さまの声です。

めぐちゃん:
起きたばかりで忘れてしまうと思ったので、それだけすぐに日記に書き留めました。

いさどん:
そういった閃きから生まれた発想を僕はずっと語ってきました。講座でも子どもミーティングでも大人ミーティングでも語って来ましたが、僕はこのように人間の姿をしているものだから、人はそれを聞いてもなかなか天の声としては受け取らないね。しかしあなたが朝目覚めて、ふっとそれが湧いてきたのだとしたら、それこそが天の声です。それを活かしていくことです。自分で計算して幸せをつかもうとしているようでは、それこそ昨日観たNHKの『稼げる大人になる!?~加熱する受験競争』という番組に出てきた人々のように、亡者のように生きることになってしまう。もっとエンジョイしながら、時代の変遷を楽しんでいけるといいね。
人間は地球に対して責任があり、これからの時代の人々はその責任を果たした結果、未来の優れた時代を地球と共にエンジョイできるようになる。時代の要請を受け、本来求められるべき道を歩もうと思ったら、自分の意志を捨てること。自分の意志を捨て、天の意志に沿う。そうすると、最もあなたが活かされるようになるよ。
とにかく3月18日の真学校の修了までを過ごしてみましょう。その中でいろいろな心の変遷をたどりながら、観えてくるものがあるでしょう。そしてあなたが自分で自分に結論を出すことです。

めぐちゃん:
今まで仕事をしてきた中で、仕事自体は充実していたけれどだんだん孤独感が募っていました。

いさどん:
あなたがそう感じるのは、あなたに旬が来ている時に、周りの人々が相変わらず業績とかお金とかいうものに取り込まれて生きていたら浮くからでしょう。浮くと言うと悪いことのように聞こえるかもしれないが、それはもうそこには合わないのだから他のルートへ進みなさいというスイングバイでもあるんだよ。それは後押しであり、神さまのメッセージだね。たとえば、あるタイミングで病気になることも、それまでの生き方の結果として病気になったのだから、そこに気付いたらそろそろルートを変えなさいというメッセージでもあるんだよ。そうやって、活かしあっていけばいい。

ものすごく大きなエネルギーが使われて地球が動き、時代が動いている。それに比べたら我々一人ひとりのエネルギーなんてないにも等しいのだから、個人の願望がどれだけあろうと、時代の波に対してはどうしようもない。だから逆に、その大きなエネルギーを利用すればいいんだよ。人類はこれまで、個人的に生きることにエネルギーをかけ過ぎた。だからこそ、これからの人は群れて生きる必要がある。みんなのエネルギーを使いながら、みんながそれぞれを活かしあっていく。それもスイングバイだ。これが新しい時代の、極めて効率的な生き方だ。

 


 

<後日談>

それから2週間近くが過ぎた3月10日の夜、ファミリーメンバーと受講生が参加する「大人ミーティング」の場で、上記の文章がシェアされました。文章が読み上げられた後、いさどんはこう言いました。

「今改めてこの文章を聞いていたら、面談の時の感覚がリアルによみがえってきました。あの時のめぐちゃんからすると、今のめぐちゃんは別人だね。もうスイングバイした状態になってるよ。」

上記の面談以降、めぐちゃんはどんどん変化し、講義中もいさどんとの掛け合いの中で宇宙の本質をひも解く発想が次々と湧き出すようになり、今では独自の視点を積極的にシェアして全体の学びを深める役割を果たすようになりました。その言葉には力強さがあり、受講当初のめぐちゃんとは確かに違っています。

めぐちゃん
あふれだす発想をシェアして、場を活性化するめぐちゃん

「3月3日のお誕生日会の時に受講生で人形劇の出し物をしたけれど、あの日を境に自分の中で何かが切り替わった感覚がある」とめぐちゃん。(詳しくは、後日掲載予定のめぐちゃんの日記をご覧ください。)

一人の変化は、世界の変化の第一歩。
明らかに、未来へつながる新たな動きが始まっています。

 

餅つき大会で餅つきに挑戦するめぐちゃん。「とりゃ~~~!!」
餅つき大会で餅つきに挑戦。「とりゃ~~~!!」

 


4日目午前「カタカムナ1」 ~ 認識できない世界をひも解く

6時間では到底理解できない奥深い世界、カタカムナ。以下、講座の内容をご紹介します。あくまでもダイジェストであることをどうぞご了承ください。(カタカムナを学ぶにあたっての心がまえについては、本講座の冒頭に語られたお話をご覧ください。)

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いさどん:
ここに、カタカムナに80首あるウタヒの中の第5首、第6首の解説があります。表の物理性の解説と同時に、裏の性についての解説が載っています。
かつてここでカタカムナ勉強会の講師をやっていた人は全国各地で勉強会を開催していたのですが、カタカムナの勉強会を始めた頃、カタカムナの真実はこの裏の部分に秘められている、ということで、勉強会でその奥義を説き始めたら、まず女性が来なくなったそうです。そしてそのうちに人が減っていきました。女性が先に来なくなったということは、女性がいかに性に対してネガティブなイメージを持っているかということを表しています。それをひも解いていくと、男性がいかに雑なセックスをしているかということです。そして女性は受け身ですから、その間違った性が浸透していったのです。
その講師の人は、それ以来勉強会でも性について触れなくなりました。しかし僕は、そこに踏み込んでこそ、カタカムナの神髄だと思っています。もっとも、そうすると人が来なくなるのかもしれませんが。

人は自分の色をつけてものごとを見ています。性に対する認識がこれだけ歪んでいるのは、それだけ世の中が汚れているということです。そう言うと、自分のことは置いておいて「そうだ、世の中が汚れているから私は大変なんだ」と被害者になる人がいるのですが、あなた自身が汚れているのですよ。だからまず、あなたがきれいになることです。

それでは、スライドを見ていきましょう。

01

「カタカムナの世界観を現代に生かす」というのは、とても深いことです。

現代の人々は大脳思考です。そしてヨコシマ(邪)と言って、その思考は邪ですから、損得勘定の二元的思考をしています。しかし人間は地上を生きる生命として、本来は縦思考で、直観に従い、生きるべき生き物なのです。それは自らの都合で思考を回すのではなく、生きる上で必要な生命観は自ずと湧き出してくるものです。
縦というのは、天に通ずる、この世界の仕組みの柱となるものです。それを「トキ軸」と言います。それに対して、そのトキ軸に沿って回転し、この世界に現象を生み出すはたらきを「トコロ軸」と言います。

人間は、DNAの中に宇宙の始まりから今までの成り立ちを、情報としてすべて持っています。しかし現代の人々は、脳の10%程度しか使っていないため、そういった内に秘められた情報を活用することはほとんどありません。では残りの脳のはたらきは何なのかというと、宇宙を生きるためのアンテナとしての情報です。天から降りてくる様々な情報をキャッチしたり、自らの中から湧き出してくるものをつかむのです。
今、25800年ぶりの銀河の冬至を越えて、これまでのヨコシマな損得勘定から、縦思考と横思考のバランスを取る時代に入りました。一般のカタカムナの勉強会ではこのような話は出ません。これは、地球暦やこれまでの人類の歩みをここで独自にひも解いていく中で、観えてきたことです。

「因果応報」というのは、今ここにあなたが存在していることの仕組みです。何かが発生したり存在するということは、必ずそこに至る原因があります。そしてその結果がまた次の原因となって新たな現象を引き起こし、延々とつながっていくのです。そして振り返った時に、その軌跡があなたの人生です。
原因に対して相応しい結果が現れる。それが因果応報です。原因、結果、原因、結果という連鎖を延々とくり返し、それをすべてつなげて観ると、そのひとつらなりの流れの奥に物語が観えてきます。そして、誰もが一人ひとり独自の物語を持っています。宇宙にも、誕生からずっと続いている物語があります。宇宙は誕生、維持、破壊、空、そしてまた誕生というサイクルをくり返していますから、その物語には終わりがないとも言えるでしょう。その物語が観えた時、因果応報の奥にある天の意志が観えてきます。
それを観るためには、自らに囚われているようでは観ることはできません。自らの視点からちょっと離れて、いったい自分はどういう歩みをしているのだろうかと客観的に捉えることが必要です。自らのクセというのはなかなか見えないものですが、ちょっと離れてみることでそれが観えてくるのです。

「一度止まる」と書いて、「正」という字になります。今自分がどのような歩みをしているのかを、いったん止まって、離れて観る。それが客観視点です。

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私たちは現象世界にいて、その奥にはすべての源である潜象界があります。そこまでの構造を理解すると、客観背後と言って、すべての現象の背後にあるこの世界の意志が観えてくるのです。それは意志を持っていますが、持っていないとも言えます。それは何も私たちに意志表示をしない、この世界が成立するための存在です。それを神と呼ぼうが法則と呼ぼうが物理性の元と呼ぼうが、何でもいいのですが、それが観えてくるのです。

02

人生は不可思議です。主観が強い人は、他の人も自分と同じように考えて生きていると思っています。では主観に囚われずに生きている人がどれだけいるかというと、ほとんどいません。誰もがオリジナルです。それを、さも普通であるかのような顔をしてごまかしていますが、「人格を学ぶ講座」ではその一人ひとりの独自性をひも解いていきます。

人間というのは、嘘つきです。僕はたくさんの人の人生相談を受けてきましたが、まずみんな、口から出てくる言葉と奥に持っている心が違います。ですから僕は、その奥の心を観ます。相手の言葉をそのまま受け取ったりはしません。それが客観です。
その時に僕を上手にだましたとしても、それは正確なアドバイスがもらえないということですから、その分損をしていることになります。一番は、とにかく正直になることです。「こんな恥ずかしい事は言えない」と思っても、僕は今まで1万件以上の相談を受けてきて恥ずかしい話なんて山ほど聞いていますから、全然珍しくないのです。
人間は嘘つきです。ペットは人間に近いから嘘をつくかもしれませんが、自然のものは絶対に嘘をつきません。人間が嘘をつくのは、それだけ高度の生き物だということでもあります。だから曲がりくねったでこぼこの道を歩んでいくのです。先日北朝鮮の金正男氏が暗殺されたというニュースがありましたが、報道されていることはどこまでが真実でしょうか。世界は嘘でできています。そこから真実を観抜く力を持つ。それには、自分の心を磨かなければ観えません。

でこぼこ道の奥に、この世界を存在させている大いなる意志があります。こんなにひどい世界を創って、いったいその意志は何をしようとしているのでしょうか。僕は不満に思い、それを神様に問いかけたことがあります。するとこんな答えが返ってきました。

「この世界を私の実体とみて、不満を言うならば、
その意志を見分けられるおまえになれ。」

おまえが不満を持って疑っている限り、真実は観えないだろう。周りがどうであろうとも、正直でありなさい。常に正しくものを観ることを心掛けなさい ──── そう伝えられました。

03

自分がもやもやとした雲を創っていては、見えてくるものももやもやでしかありません。そしてもやもやの人ほど、それを絶対だと思っています。そして何か新しいものに出会うと「これが真実だ」と飛びつき、また別の何かに出会えば「これこそ真実だ」というように、ころころ変わっていくのです。
それが人生だとも言えます。ですから、もやもやの中にいてもいいのですよ。それがもやもやだとわかっていればいいのです。しかし、もやもやだとわかっていない人は、そのもやもやにごまかされていきます。

04

正確に言うと、循環する前に振動し、自転し、公転し、歳差運動をして、そして循環しています。その身近にある代表例が地球です。そしてそれと相似形をなしているのが、我々の体です。細胞です。原子です。素粒子です。
カタカムナでは、素粒子よりさらに小さな存在である宇宙最極小微粒子を「カ」と呼びます。素粒子は観測できますが、カは観測することはできません。それはこの世界のすべての現象が発生する前の素材です。ですから、「ない」のです。「ない」ところに「ある」微粒子 ――― それが「カ」です。

めぐちゃん:
それはダークマターのことですか?

いさどん:
「カ」は、アマハヤミと言って、光の速さの10の64乗倍の速さで宇宙空間を飛び回り、そしてある時、現象を創りたいという想いが宇宙に湧いたとしますね。そうすると、その縁を元に「カ」はヒフミヨイと数理の道順に従い、「密かに」「震え出して二つになり」「満つって」「横に広がり」というプロセスを踏んで、「位置」が決まり、そこに「マ」という空間ができ、「ワ」という球体になります。「ワ」(=球体)ができるとは、その中に空間ができるということですが、ここには実は何もないのです。

宇宙はすべて、その空間のへりにできます。我々の銀河もそこにあります。するとこの空間は、とてつもなく広い、何もない世界です。それをダークマターと名付けてもいいですが、それが何であるのかは解明できていません。ホワイトホールやブラックホールという捉え方もありますが、それもまだ不確かなものであり、今わかっているのはここまで、としておいた方がいいでしょう。

ブラックホールがすべてを吸い込むとしたら、その行き先はどこなのか。ホワイトホールから噴き出してくるとしたら、それはどこから噴き出すのか。それをどう認識するのかと言ったら、我々が認識できない世界があるということです。それが、現象界、即ち「ある世界」の源である、潜象界、即ち「ない世界」です。

「ない」のですから、私たちには認識できません。ところが、その「ない世界」を理解しないと、この「ある世界」のことを本当に理解することはできないのです。ダークマターというのは認識しているということですが、本来はそれをダークマターとも言えません。認識できない世界にあるということです。

05

世界には様々なことが起きています。戦争があり、災害があり、病気があり、貧困があり、経済の破たんもあれば、トランプさんが出てきて何をするかわからないという状況もあります。これは、悪いことでしょうか?それを体験して「痛い」と思えば、嫌だと思うかもしれません。しかし、それを体験するということは、この世界の表現の可能性を知るということです。

この世界はすべて、陰と陽の対向発生によって成り立っています。そうすると、この世界を理解するためには、陰と陽の関係から離れて全体を観る必要があるのです。もしくは、こちら側にいるものは、向こう側に行き、こちら側を見ることによって初めて自らを知ることになるのです。
現代物理学は、現象世界を解析してきました。しかしどんなにこの現象世界だけを解析したとしても、現象世界が陰陽のどちらか一方であるとするならば、必ずそれを成立させるもう一方の存在があるはずであり、そこを理解した目でこちらの世界を観ることにより、初めてこの世界の構造がわかるのです。
人類が物理的にこの世界を理解するためには、今いる現象世界と対であるもう一方の世界へ行ってこちら側を見るか、もっと確かな情報を得るには、両方の世界を離れて全体を観ることです。ではそうするためには何に乗っていけばいいのでしょうか。今確認できている宇宙のスケールは数百億光年とも言われていますから、光の速さの乗り物に乗ったとしても宇宙から離れるには数百億年かかるということです。そんなことは物理的に不可能でしょう?ですから、現代物理学でこの世界をひも解くには限界があるのです。

そこで僕は、カタカムナが現代に復活したのだと思いました。その昔、カタカムナ人は、この「ある世界(現象界)」の奥に、それを成立させている「ない世界(潜象界)」があるということを、13000年前に理解していました。そして「ない世界」の働きが「ある世界」を表しているということを知っていました。この捉え方が現代物理学に反映されれば、物理はさらに発展することでしょう。そこから先は、人間の思考が大脳思考ではなく松果体思考、つまり直観思考になると、動き出します。
ところが今の多くの科学者はそういったことを認めませんから、そのままでは行き詰りますね。特に西洋科学を絶対視する人たちはそうです。脳の構造を変えなければこの先はありません。物理学とは何の関係もないこのような場所でそんなことが語られているのも、面白いですね。
物理学を始めとする近代科学は現代社会の発展に寄与しましたが、では人間の日常生活にどれだけの豊かさをもたらしたのかというと、今ではむしろ害をもたらしています。これは近代科学を否定しているのではなく、一方に偏ったものに、もう一方にあるものを合わせていくと、次の世界のステージが観えてくるということです。この世界を運営している存在は、一体全体何のためにこの世界を創ったのか、そしてそれを受けて人間はどうしたらよいのかということが、今ようやく語られ始めたということです。

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これは月の満ち欠けです。それが地球の海の満ち引きをつくり、生命が発生しました。生命の起源は光だと言いますが、光だけでは駄目なのです。つまり、光(陽)に対して闇の働き(陰)が必要です。ちょうど良い距離に太陽があり、ちょうど良い距離に月が生まれ、双方の働きが陰陽となって地球に生命が誕生しました。

陰は女性性を現します。女性の生理は生きることの基本であり、それは月と連動しています。男性の生理は精子の生産ですが、これは毎日行われています。それは太陽のリズムです。肉体的には男性が陽であり、女性が陰です。それを善悪や損得のような二元論で捉えると、男は陽だから表にいて、女は陰だから陰にいて従う存在だというような封建的な捉え方にもなります。近年、世界中がそうでしたね。
しかし、それは違うのですよ。本当は、この「ある世界」と「ない世界」の関係も、すべては陰が元になっているのです。生命もすべて女性から始まっています。ですから、「霊主体従」という言葉が表すように、陰が主であり、陽が従なのです。
長い間、権力やお金、物理的な優秀さなど、そういった陽的なものが主となり、心を従とする時代が続いてきました。今、時代はその切り替え時を迎えています。文明的にも、これまで世界をリードしてきた、物事を細分化して科学的に捉える西洋型文明から、世界を統合的に捉えその奥を観る東洋型文明に切り替わる時が来ています。例えば病気になれば、西洋文明ではその症状を物理的に治すことに専念しますが、東洋文明ではその病気の要因となる奥の気や心を観るのです。

あるものが現れて栄えていくと、それは月の満ち欠けと同じように必ず頂点を迎え、やがて欠けていきます。その時に、それと対向発生し、潜んで奥で支えていたもう一方の存在が、入れ替わりに現れてくるのです。

それでは、カタカムナの世界を具体的に観てきましょう。

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いさどん:
この図は、この世界の仕組みを二元に落とし込んで表現したものです。とてもわかりやすいですが、実際はこの世界は二元ではありません。

みかこ:
この図では左側が潜象界で右側が現象界というように分かれていますが、実際はこんな風に単純に区切られているわけではなく、潜象界はこの世界に重なってあるものです。

いさどん:
僕はある時、この現象世界の空間にふっと切れ目が入って、そこからふわーっと何かが出てくるのを感じました。何とは言えませんが、何かが来る。そして、それが「カ」なのだと思いました。これが供給されることによってこの世界が創られ続けているのだということを感じたのです。
なぜそれが観えるようになったのかというと、この世界の物理性を理解してきたからです。「カ」は宇宙最小の微粒子であり、すべての現象の元となるものです。そういった仕組みを人間は、宇宙の発生、維持、破壊、消滅までの仕組みを理解すると、意識的にその原動力である「カ」を潜象界から引き出すことができるようになります。人工によって汚染されていない純粋なエネルギーを引き出すことで、この世界に「イヤシロチ」(汚れのない生命力にあふれた場)を創り出し、美しくしていくことができる。そこまでの域に人間は達することができるのだと気付いたのです。
逆に、この仕組みを理解していないと人工の世界の中だけでぐるぐると意識を回し、人工的な歪みを増幅させてどんどんこの世界を汚していく(ケガレチ)ことになります。潜象界はこの世界のあらゆるところに重なって存在していますから、人間がその意識になれば、どこからでも「カ」は供給されるのです。例えば畑に行って「人間の欲で汚れているな」と感じたら、欲のない美しい心で作物に語りかけます。するとその空間から新しい純粋なエネルギーが作物や土に供給されて、美しく濁りのない作物が育つのです。

この図を見てください。私たちが通常認識している世界は、現象界=カタの世界です。「カ」は宇宙最極小微粒子であり、それが「タ」即ち分離独立したものが「カタ」であり、それが持続する(=チ)と「カタチ」となります。カタの世界は「見える世界」です。
その奥に、「見えない世界」があります。例えば心は見えませんね。見えませんが、カタチである顔の表情を見ていると、その奥にある心が観えてくるでしょう。ところが人間はそれを隠しますね。カタチで隠すのです。その隠れて見えないものが、この図にある「思い」「幽」「心」「言霊」といったものです。この見えないものが見えるものと重なり合って、人間が形成されます。人間だけでなく、あらゆるものがその仕組みで成り立っています。そしてすべての存在は、固有のサイクルを持っており、人間なら80年、ネズミなら数ヵ月、星なら数百億年というように、それぞれのサイクルがあって生命が維持されています。それがカタの世界です。宗教で言う霊とは、一般的にこのカタの世界の中の「見えない世界」の存在を言います。そして「見える世界」と「見えない世界」を、因果がぐるぐると回っているのです。

この現象界に対し、対向発生をしている潜象界の存在をひも解いているのがカタカムナ宇宙物理学です。その潜象界には何があるのかというと、すべての音のふるさとの響きです。響きはすべての源です。宇宙空間も実は響きなのです。
潜象界では、48の音は単独で存在しています。それが現象界へやってくると、縁が発生して他の音とつながり、意味を成すようになります。潜象界では「ア」と「イ」というように単独で存在していたものが、現象界へやってくると、それが縁により結ばれ「アイ」になるのです。
潜象界は、濁りや歪みのない世界です。それは極めて美しい状態です。ですからそれを理解するためには自らを無垢の状態にしなければなりません。先入観があっては、それをわかることはできないのです。

潜象界から現象界へ生まれ出てくると、様々な形状を持つようになります。それが自然の命の多様性です。そしてそこには「差」があります。形状の差、役割の差。そしてそれがネットワークしていくのです。
潜象界には差はありません。ネットワークもありません。それが現象界へやってくると歪みが発生して差が生まれ、ネットワークする。それが命の世界です。その歪みとは美しい歪みであり、そこでは一つひとつの差は個性なのです。
ところがそこから人工の世界へ進むと、カルマや人間の思惑による人工の歪みが発生します。それによって今、自然が汚染されているのです。それに対して、人々がどう解決しようとしているのかと言うと「自然保護」だと言うのですが、それは違います。人間の心が汚れているから、自然も汚染されているのです。

それを美しくするには、現象界の奥にある潜象界までを含めたこの世界の構造を理解し、人間が自主的に自分自身を美しくすることです。そうすると、人工で汚染されたものは潜象界へと還り、そこからまた新しい新鮮なエネルギーが供給されるという循環が生まれ、自然は自ずと美しくなっていきます。
「自然保護」というのは傲慢な言葉です。自分たちが汚染の根源であるのに、自然を「保護」しようと言うのですから。そんなことを言う前に、自らの心を改めることです。

まずは、あなたから。あなたがきれいになると、それが世界に広がって、必ず世界は美しくなるでしょう。

 

 


4日目午前「カタカムナ1」導入 ~ もっとも“わからない”講座

第4日目は、この世界をひも解く神髄とも言えるカタカムナの講座です。まずは冒頭のいさどんのお話から ──── 。

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いさどん:
今日は、カタカムナの世界観を学びます。ただし、これはカタカムナ宇宙観の入り口です。

13000年前の宇宙物理文明

カタカムナの世界は、とても深いものです。真学校では2コマ6時間をカタカムナに充てていますが、それだけでマスターすることはできません。6時間で学べることはほんの概要であり、深い世界を粗く見て「ああ、そういう感じなのか」ということをつかむためのものです。
真学校の初日に、皆さんにわからないことを伝えていきます、とお話ししました。それをわからないからと言って切り捨ててしまうと、新たな世界観を認識することはできません。このカタカムナの講座が、まさしくそれです。なるべく皆さんが理解できるようには進めていきますが、それで皆さんが本当にその神髄をつかめるかどうかはわかりません。

実は、今カタカムナの世界観をマスターしている人はこの世界にいないだろうと思います。
カタカムナは、およそ13000年前に東アジアに栄えていた宇宙物理文明であり、とても深い世界観を持っていましたが、やがて時代が進んで物質的文明が台頭してくるに従って衰退し、長い間封印されていました。そして1949年、楢崎皐月という明治生まれの物理学者が、兵庫県の六甲山系の金鳥山というところにあるカタカムナ神 ──── 正式には保久良神社というそうですが ──── そこで平十字という老人と出会い、神社の御神体として伝えられているという記号のようなもので書かれた巻物を見せられ、それをひも解き始めたことから、再び世に現れ出したのです。それは第二次世界大戦が終わってから4年後のことです。
楢崎皐月という方はとても優秀で集中力のある方だったのでしょう。それから5年間をかけて、巻物に書かれていた文字を解析し、48音の意味をひも解いていきました。この文字が、カタカムナの「八鏡文字」です。そして、カタカムナをひも解けばひも解くほど、彼一人の力ではそれを解析できないということがわかってきました。そして後に、宇野多美恵さんという女性と、その妹に出会います。そして3人で力を合わせてカタカムナ文献をひも解いていったのです。

これが八鏡文字です。

カタカムナ第5首・第6首
カタカムナ第5首・第6首

この文字が、カタカナの元になっていると言われています。
「マワリテメクル」というのは、地球の自転と公転のような物理性を表しています。そしてもうひとつ、この世界は「対向発生」と言って、陰と陽のように相反する二つのものが同時に存在することによって成り立っていることも表しています。
カタカムナには、この48音を組み合わせた80首の「ウタヒ」があり、一説によると120種以上あるとも言われています。それはこの世界の命の仕組みを表したものです。48音の一つひとつにそれぞれの意味があり、それをつなげることによって命の仕組みである物理性を表しているのですが、それをひも解いていくのはとても難解なことです。最初に発見された文献には、この図のようにフリガナが打ってあったわけではありません。それをひも解いたのですから、楢崎さんという方は素晴らしい頭脳と創造力の持ち主だったのでしょう。
80首のウタヒをひも解いていくと、「表」のカタカムナの解説があり、表を陽とするならばそれと対になる陰、即ち「裏」の解説があります。表は宇宙の物理性を説いています。裏は、性についての解説です。男女が交わることの意味や、それによって何が得られるのかということが示されています。

最も小さなコミュニティ、男女の出会い

人は生きていく上で、群れて社会を創ります。その時にできる最も小さな単位のコミュニティとは、男女の出会いです。それが対向発生です。1+1は通常2ですが、男女が出会えば子どもが生まれて3になります。それが家族というコミュニティの始まりです。家族というコミュニティが集まって一族ができ、そして村ができ、町ができ、社会ができていくわけですから、家族というコミュニティが健全であることが世の中の健全につながります。
昔から、多くの人が理想郷を築くことを目指してきました。しかしほとんどの場合、実際に理想のコミュニティを目指し、立ち上げても、長続きはしませんでした。歴史の中でユートピア運動というのは世界中にあり、日本でも多くのコミュニティが立ち上げられてきましたが、今も存在しているところがどれだけあるでしょうか。密度高く安定している場としては、木の花は代表的な事例です。
多くのコミュニティが長く続かない原因は、お金と性の問題です。これをクリアすると、コミュニティは安定します。性の話というのは多くの人にとって秘め事であり、みんな表に出そうとはしません。しかし、「性」とは「聖」と同じなのですよ。

「セイ」をカタカムナの単音でひも解くと、「セ」とは「せまい」とか「エネルギーが集中している」ことを表します。「イ」とは「位置」であり、「ヒフミヨイ」の「イ」ですから、これから現象化する用意が整ったことを表しています。つまり、「セイ」とは狭い位置に密度が集中しているということですから、「性」であれば女性器に男性器が結合していることを表しています。「聖」ならば道を究めていって高く狭い位置に到達し、そこで安定している状態を表しています。下の方の世界では価値観が様々にあってバラバラの状態ですが、そこから極めていって確固たる高次の精神の位置に到達したということです。「清」も「セイ」と読みますね。いろいろと汚れている世の中で、余分なものをそぎ落とし、美しく清らかな状態になったということです。

カタカムナの80首とも120首とも云われるウタヒをひも解いていくと、その7割から8割は、性についての本義が示されています。表は宇宙の物理性の解説ですが、裏には、性から紐解かれる命の解説が明快に示されています。聖なる男女が交わることによってどのような境地に至るかということが綴られているのです。
それは、現代のアダルト産業が描くような性の世界とは、まったく違った世界です。しかし現代の多くの人々は、そのような聖なる描写に出会っても誤解をします。なぜ誤解するのかというと、その人自身が、性に対して誤解をするようなレベルの認識しか持っていないからです。

「怪しい」は自分の中にある

僕がいかに真剣に、熱意を持って、その人のために、世の中のために真実を語ったとしても、人はどこかに自分の常識というものを持っており、そこから外れたことを聞くと「それは怪しい」と判断します。では何が怪しいのかというと、その人自身の中に怪しいものの基準があるのです。

本来、性とは聖なるものであり、神聖なものですよ、その聖なる精神性に則って交わることは、それにふさわしい神聖な魂を天から降ろし、優れた精神の人が世に現れ、世の中を良くしていくのですよ、と語ると、「その通りだ」と思う人もいれば、自らの性に対するイメージを重ねて「あんなことを言うなんて怪しい」と思う人もいます。現代の一般的な性の認識しか持っていない人は、性と聞くとすべて自分の中のイメージにつなげて、それは欲情をそそるものでよこしまなものだと決めつけます。女性の場合、性の出会いが不幸で嫌悪感を持っている人も少なくありません。みんな自分の中のイメージで「性とはこういうものだ」と決めつけているのです。

僕の話を聞いて「怪しい」と言う人は、実際にそのものを認識しているわけではありません。それ自体を客観的に捉えるのではなく、自分の中にある認識をそこに投影して見て、想像しているのです。
人間は恐ろしいことに、ものごとの真実を確認せずに、自らの中にあるイメージを重ねて事実とは違う幻想を創り上げ、それを独り歩きさせていきます。それは間違いを独り歩きさせているようなものです。その結果、真実と間違いのギャップが生じ、そのギャップを生きることになります。それは人生に間違いの種を播き続けることになりますから、必ず未来に間違いの芽が出ます。
その時に、本人には自分が間違いの種を播いてきたのだという認識がありません。ですから間違いの芽を見て、いったい誰がこれを播いたのだろう、なぜ私がこんなものに出会わなければいけないのだろう、と思うのです。すべて人のせいになるのです。そうすると、その人の人生にはさらに間違いが起きるようになります。

理解を超えるものを受け取る

昨日、「世界観を広げよう」という講座をやりました。その中に、心を磨くことの大切さが出てきます。なぜ世界観を広げることが必要なのかというと、視野が狭いと自分がどこにいるのかが観えないからです。広い視野の中で様々な認識に触れると、その中で自らがどのような位置にいるのかがわかり、自分の思考がどのようなものであるのかを客観的に捉えることができます。
ところが、狭い枠の中で自分の見える範囲のものだけを見て生きていると、それが世界の全てだと思うようになります。中には、自分の今の状態は他者や世の中のせいだと言って被害妄想になっている人もいます。そのように自らの視点だけで生きていては、世の中に間違いの認識を広めていくようなものです。だから世界観を広げることが必要なのです。

その時に、自分の理解できることだけを受け取っているようでは、世界観は広がりません。多くの人は狭い枠の中にいて、自分の理解できないことは間違いだとしています。しかし、カタカムナを生きるということは、今の世の中の人々が認識していない、新たな道を歩み出すということなのです。
僕は昔、この道に出会った時に、最初は自分が精神分裂病になったのかと思いました。自分の中に言葉が降りてくるのです。そういうことが、人間にはある。どうやら自分は、そういう人になってしまったようだ。そう思いました。

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しかしこれは実際に怪しい話です。一歩間違えば魑魅魍魎(ちみもうりょう)の不確かな世界にも通じるからです。よくテレビにも霊能力者と言われるような人々が出てきますが、そういった世界にも通じるもので、人々を惑わせることにもなる危険なものなのです。ですから僕自身も、そのような状態の自らを疑いながら歩んできました。しかし、疑いながらも、そうなってしまったものはなってしまったのですから、仕方がありません。「これはどういうことなのだろう」と歩みを止めることなくそれに付き合ってきました。そうして、ここまで歩んできたのです。

真実はひとつ

自分が出会ったものは何なのかということを突き詰めていくと、その人の精神構造のレベルの位置に到達します。皆さんも、いろんな本などを通してスピリチュアルな世界に出会っていると思いますが、それを教科書のように崇めていては、それを発信している人の精神レベルを超えることはできません。何かを経典とした時点で、その先の道は閉ざされるのです。

しかし、この世界は広大なものであり、情報は無限にあります。自分自身を空っぽにして、自身の中に定着したものだけが、得たものです。そして世界は無限ですから、探求は永遠に続きます。
これは、真学校を1ヶ月間どのように過ごすのかという姿勢の話です。あなたの中に新しい情報をどれだけ入れるのか。そしてそれをどれだけこなせるか。有害なものはひとつもありません。しかしそこで自分の中に入れるものを自分で選別するようでは、大事なものがすっぽりと抜けた骨抜きの情報の寄せ集めになるかもしれません。1ヶ月後にどれだけのものをあなたが得ているのかは、皆さん自身にかかっているのです。
そして、その得たものを元にそれから先の人生を生きていくことになります。それをくり返しながら人生が完成されていくのです。新たに得る情報というのは、自分が知らないものですね。ですから、わからないことでもまず取り入れてみることです。その全てをマスターすることはできなくても、まずは取り入れてみて、そして残るものを自分のものとしていけばいいのです。

その時に、これを取り入れたらいいことがあるのだと御利益を求めるようなことでは、何かのセミナーを受けて良い人生になりますようにと願うのと同じで、まやかしです。何を持って良い人生とするかは、人によって違います。今僕は、生きるということ、そしてその中で出来事に出会う時の基本の姿勢についてお話ししていますが、それは一人ひとりみんな違います。皆さんはこれまで、一人ひとり違う人生を歩んできました。これからも違うことでしょう。そこで最も気を付けなければいけないのは、自分は先入観を持っていて、その色眼鏡でものごとを見てはいないかということです。
もしもそうであるなら、あなたはあなたの色を付けてものごとを見ていることになり、真実を自分の中に取り込むことはできません。逆に言うと、その先入観で彩られた認識が、あなたにとっての真実になります。ですから、真実は人の数だけあることになります。しかし先入観を外してその情報に出会えるならば、今あなたが必要とする情報があなたにもっともふさわしい形であなたの内に残ることでしょう。そして内に残ったものこそが、誰にとっても共通するこの世界の真実なのです。

カタカムナを生きる

カタカムナの世界観を学ぶにあたり、まずは冒頭のお話をしました。これから3時間の講座が始まりますが、人によってはさっぱりわからない時間を過ごすことになります。最初は頭が痛くなることもあるでしょう。それでも付き合っていくと、何かが感じられるようになるかもしれません。それが大事なのです。
現代人は前頭葉で思考を回し、いわゆる大脳思考でものごとを解釈しますが、カタカムナ人は脳の中心にある松果体という部分を震わせて、この世界の真実を直観で受け取っていたと言われています。その時に、思考は回しません。会話も、今のように文章にするのではなく、単音に近い形でやり取りをしていました。そして群れて、直観のセンサーを働かせながら、生き残ってきたのです。ですから、生命観がとても強い。豊かに生きるにはどうしたらいいかなどと、大学の講義のように考えることはなかったのです。
これから八鏡文字について学んでいきますが、これは楢崎皐月さんが解析したもので、カタカムナ人は誰もこんな講義を受けて学んだりはしていませんでした。現代人はそれを教科書にして勉強会を開催したりしていますが、それでは結局、現代人の思考回路で知識的に学んでいるに過ぎません。

みかこ:
この文字の成立自体が、カタカムナ文明が栄えていた13000年前からずっと後の約8000年前だろうと言われています。後の世の人々が体系化したんですね。

いさどん:
木の花ファミリーでも、カタカムナに出会ってから2年間は毎月勉強会を開催していましたが、僕はある時、もうこれ以上は必要ないと思いました。間違いの方向に進み出したと思ったからです。カタカムナ人は勉強をするのではなく、毎日の生活の中でそれを表現していました。いくら知識としての勉強を重ねても、人間性を高め、その知識が人生に反映されることにはならないのです。
僕がその2年間で気付いたことは、「カタカムナを学ぶ」のではなく「カタカムナを生きる」ということでした。そしてカタカムナを探求すればするほど、私たちが今までコミュニティとして目指し表してきたここの生活が、カタカムナを表現しているのだと思いました。ですから私たちは勉強会を開催するのではなく、それを生きて、そして生活の中で表現することでもっとわかりやすく皆さんに伝えていくことができると思ったのです。カタカムナは宗教のように御利益を求めるものでも、学問のように知識として学ぶものでもなく、実際にそれを生きることで、自らの人間性に反映させていくものなのです。

それは理想論ですか?

いさどん:
人間は、まず自分自身の個性という認識の色がついています。そしてその色を通してものごとを解釈しています。そこでちょっと自分の外に出てみましょう。そして自分はどんな色を持っているのか、どんな心のクセを持っているのかを客観的に見てみましょう。そうでなければ、いつまでも自分の色やクセを通して世界を見ることになります。

としみちゃん:
聞いていて、胸に突き刺さります。さっき、男女が聖なる交わりをすることで素晴らしい子どもが生まれると言いましたよね。私は小さなころから性に対して嫌悪感があるんですけど・・・

いさどん:
今、「小さなころから」と言いましたけど、それはいつのことですか?小さな子どもの時から性的なことに関わってきたということですか?

としみちゃん:
小さいと言っても中学生くらいの時です。

いさどん:
それは正確に言わなければいけませんよ。「小さな」というと2、3歳の子どものようですが、中学生となれば、多くは自身の体験が元となってイメージを持つようになっています。中には何も体験していないのにネガティブなイメージを持つ人もいますが、それはもともと自らの中にネガティブな種があるということです。それがその人の色ですね。

としみちゃん:
その、聖なる行為で素晴らしい子どもが生まれてくるというのが、そうなったらいいなとは思うけれど、きれいごとというか、理想論に聞こえてしまうんですけど・・・

いさどん:
その「理想論に聞こえる」というのは、あなたの考えではないですか?そのあなたの考えで、「これは理想論なのだ」と断定しますか?あなたは今までも、そうやって自分の考えでものごとを断定しながら生きてきましたね。
「素晴らしい人」というのはどこから生まれてくるのでしょう。お釈迦様もキリストも、性の営みから生まれてきたのですよ。
人は自然を見て、美しいと言いますね。その自然も、性の営みによって生まれています。植物にも雄しべと雌しべがあり、それが交わることによって次の世代につながるのです。それはきれいごとでしょうか。

としみちゃん:
うーん・・・人はそういう考えでは行為をしていないんじゃないかなって思うんです。それは自分の考えですけど。

いさどん:
実際そうですよ。では、みんなに聞いてみましょう。交わることを神聖な行為として受け止めている人はいますか?
(2名が手を挙げる。)
では、実際に自分はそれを神聖なものとして行っている、という人はいますか?
(誰も手を上げない。)

「世界観を広げよう」の講座で、この世界は間違いから生まれているということを伝えましたね。そして、今の時代は混乱のピークにあることをお話ししました。その混乱の一番の原因は、性の間違いから来ています。性の間違いが正されると、この世界はすべてが美しくなります。
カタカムナは、表では宇宙物理を説いています。表は陽の世界です。しかしその元は、陽を支える陰の世界にあります。陰とは、霊です。見えない世界です。その見えない世界が先にあり、それが元となり、この世界が表現されているのです。「健全なる肉体に健全なる精神が宿る」と言いますが、真実は「健全なる精神に健全なる肉体が宿る」のです。
性の話も同じです。健全なるセックスに、健全なる子が宿ります。それでもあなたは疑いますか?

としみちゃん:
言葉ではわかるんですけど、心の中は「う~ん」という感じです。

正直に自分の想いを出すことで皆に学びを提供しているとしみちゃん
正直に自分の想いを出すことで皆に学びを提供しているとしみちゃん

いさどん:
あなたのその状態に付き合っていると時間はかかるし、面倒ですね。結局は、あなたがあなたの色をどうするかです。1ヶ月間どんなに勉強したとしても、自分の中の固定概念をとらない限り、あなたはいつまでも同じ位置にいることになります。そこを超えて、自らをフリーにして受け取ろうという姿勢になった時に、あなたは新たな世界を生きることになるのです。そこでいつまでも「う~ん」と疑っていると、相変わらず同じ人生を生きることになります。その決断をどうするのかは僕の範疇ではありません。それはあなたの意志の範疇であり、皆さん一人ひとりの意志の範疇です。

地球は円ではなく、球

いさどん:
自分の中に「これが絶対だ」というものを持っている人は進歩しません。宇宙は常に瞬間瞬間変化変容をくり返しながら、常に先へ先へと、未知なる未来へ進み続けているのですよ。

みかこ:
カタカムナはこの世界の成り立ちを表すもので、それはとてつもなく広いものです。例えば地球をいろんな側面から立体的に見たら球だけど、一カ所だけから見たら円に見えるよね。その時に、いくら地球は球なんですよと説明をしても、「私からは円にしか見えないからそれはおかしい」というようでは、そこで話は終わってしまう。そこで地球が円にしか見えないのは、自分の立ち位置が固定されていて、そこからしか見ていないからなんだよ。

いさどん:
地球は球ですが、それを紙という二次元の上で表せば円になります。現代の私たちの思考は、二元的発想に囚われています。八鏡文字は宇宙の成り立ちを二元で表していますが、これは実際は、球なんです。

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このボールは、ここで作ったものです。これは宇宙の成り立ちの仕組みを立体で表していますが、これを二元で表現すると八鏡文字のような図になります。それが間違いの始まりです。立体のものを二元に置き換えて、伝わるわけがないのです。
もっとも、このボールも単なる球体の模型です。最終的には、「この世界はこうなっているんだ」ということを自分自身の中で描ける人にならなければ、いくら僕が語ったところで「でも私から見ると円だ」と言い続けることになるのです。
それでは進化しません。宇宙を生きるとは、常に無の状態で新たな認識へと自らをいざなっていくことです。少しでもカタカムナが理解できると、それを糸口として、だんだんその意味がわかってきます。

めぐちゃん:
昨日、カタカムナの講座を受けるにあたり、自分自身の認識について考えていました。さっき、現代人は大脳思考という話がありましたけど、大脳思考の人間が発している言葉というのは音の一音一音が粒子的で、いろんな種類の粒子の組み合わせでひとつの意味を持っている。でもこの宇宙の物質には粒子性と波動性の両方があり、カタカムナ的解釈のできる人々は、粒子性と同時に波動性を認識する能力を持っている。この世界にはいろんな波動の発生源があって、その波が互いに相互作用して波模様として表現されているけれど、そういった波動的なものが現代人にはなかなか認識できないんじゃないかと思うんです。でも木の花ファミリーでは各メンバーの人たちがそれぞれ個性的な波動の発生源になっていて、そこから発される波模様が干渉しあって調和的な波紋をつくり、発生源の位置や強さによって波模様が常に変化している。昔、直観を主体として生きていたカタカムナの人々は、そういった感覚を持っていたのかな、と思いました。

元光学エンジニアならではの見地から解析をするめぐちゃん
物理畑出身ならではの見地から解析をするめぐちゃん

いさどん:
そうです。今めぐちゃんが話したことというのは、日常話される会話からするとちんぷんかんぷんでしょう?通常、今のような会話は生活の中ではあまり語られない話です。彼女は物理学を勉強してきたから、その切り口から話をしていました。それが人それぞれのこの世界を測る尺度なんです。
僕はカタカムナを学んできたから彼女の言うことはわかりますが、物理学を学ばずにカタカムナに出会った人は、そのような切り口から解釈することはできません。同時に、物理学の切り口からカタカムナを見るとある段階までは理解できますが、その切り口からだけでは限界があるのです。ですからそこに囚われると、その解釈では行き詰まることとなります。
めぐちゃんは物理学の切り口から世界の成り立ちを解析し、成り立ちの関係性を解析し、それが人と人との関係の中にもあるのだということを語りましたね。

めぐちゃん:
私も大脳的思考じゃなく、松果体的思考の大切さを感じています。

いさどん:
だからあなたはここに出会い、共鳴したのでしょう。生きるとはそういったことの連続です。僕は初めてカタカムナに出会った時に、これは今まで我々が生きてきた生き方を物理的に立証するものだということを直観で感じました。
直観の大切さを、我々はカタカムナから学んだわけではありません。もともとここにあった生き方の中でそのことを理解してきて、そしてカタカムナに出会い、同じことを言っているね、となっただけなのです。それは何かを学んで解釈したものをやってきた結果ではなく、まったく無色の状態で未知の道を歩んできた結果出会い、今の状態に至ったのです。そういった人の解釈を超えたところでの出会いは、とても大事なものです。
これを切り口として新たな時代の可能性は広がっていきますから、これが絶対だというわけではありません。今はまだ2000年代が始まったばかりで、3000年に向かってこれから1000年をかけてこの流れが仕上がっていくのですから、今はまだ始まったばかりです。

さて、それでは休憩に入りましょう。その前に何か質問はありますか?あっこちゃんはどう?

あっこちゃん:
まだよくわからないです。

いさどん:
大丈夫だよ。ずっとわからないから。(みんな:笑)。

あっこちゃん:
具体的にはならないんですか?

いさどん:
具体的になりますよ。ただ、なるまで我慢できるかどうかです(笑)。

あっこちゃん:
じゃあ我慢します。(みんな:笑)

我慢して聞き続けてみよう
我慢して聞き続けてみよう

いさどん:
今日の6時間で理解できるかどうかは、皆さん次第です。これまで積み重ねてきた心のクセが多ければ多いほど、難しいかもしれません。

 

 


4日目午前「天然循環法 – 農 概論」〜美しい世界をつくるために

なぜ木の花ファミリーという暮らしを始めたのかというと、
美しい世界を創りたかったからです ────

講座の冒頭に、そう語ったいさどん。
今日は、そんな暮らしの中から生まれた「天然循環法」について学びます!


01

このプレゼンテーションは、「農業革命」と銘打っています。「革命」というのは、それまでの意識からガラリと変わり、新たな手法を取り入れるということでもあります。今までの農業のあり方を振り返ると、社会が観えてきます。その社会も含めて革命が起きるということを、農業を通して観ていきましょう。

画面に「生命力を曲げる『農』から『天然循環法』へ」とありますね。日本語の文字に表れている「農」の意味や、近年行われている慣行農法、有機農法、自然農法、そして我々が今現在到達している天然循環法について、説明したいと思います。

02

私たちの住んでいる地球は、広大な世界です。それは私たちの尺度からするととても大きなものですが、その地球を存在させている宇宙は、それよりもはるかに大きなものです。宇宙からすれば、地球はとても微細な存在です。宇宙の中に私たちが存在しているということは、この巨大な宇宙雲の中にあるということです。そのことをまず最初に考えなければ、私たち個人個人も、人間社会も、この世界に対して傲慢な姿勢を取ることになります。そういった近年の人類の姿勢の結果、現在の人間は環境を破壊し、多くの生命に様々な問題をもたらし、それどころか人類の行く末にも影響を与えかねない状況を生み出しています。

そのような捉え方をすることによって初めて、私たちは命の元である農について正しく語ることができるようになるのではないかと考えます。

03

地球生態系には、多様な命が無限に連鎖しながら存在しています。地球上の生命は280万種とも言われるほど、確認することができないくらいたくさんの種類と無限の生命がそこに存在しており、それが地球生態系というひとつの命のネットワークとして存在しています。
もともと地球は、三次元生命のネットワークである生態系の中に、その存在の意味があり、それが地球の特徴でもあります。そこに存在する一つひとつの生命はとても個性的で、多様性に満ちており、そのすべてがつながり、大きな地球という命を形成しています。
それは私たちの体も同じです。そして、宇宙も同じ構造なのです。私たちの体は「小宇宙」と言われているように、そういったつながりの中で存在しています。

現在の農の現場や人間のあり方を観ると、対立や競争の中で生命力を弱めており、場合によっては他の生命の存続を脅かすような存在にもなっています。近年の栄養学的な見地から健康というものを捉えると、例えば残留農薬の値が何ppm以下なら問題ないというような考え方がありますが、それはあくまでも、目に見えて現れる明らかな毒素としての影響だけを捉えた場合の話です。本来、生命の根源は響きです。それは、私たちの細胞を形成する情報であるDNAには十分な影響を与えるのです。たとえ目に見えないとしても、そういったごく微量の毒素が放つ響きは、どんなに微細なものであったとしても、生命の健全を脅かすのです。
例えば、これを生命の設計図として捉えてみましょう。何かを作るには、その前に設計図が必要になりますね。その設計の段階で毒素が入っていれば、実際に形になる時にその毒素の情報は確実に表現されるわけです。何ppm以下ならいいだろうという考え方は、その設計図に毒の情報を組み込んでいるようなものなのです。

「私たちは遠い昔から自然の恵みを享受し、命をつないでいく循環の中で生かされてきました。」

しかし現在の人々は、生きることを、競争することで勝ち取るものであるかのように捉えています。本来、すべてが循環して無駄がないのがこの世界の仕組みです。ところが、人間が競争して勝ち取り、独占していくことで、そこに無駄が発生するのです。
その無駄が矛盾の元となり、地球生態系にも、そして最終的には人間自身にも影響を及ぼしていくのです。そういったことを、現代の人々は考える必要があります。

04

私たち個人、家族、国、人類、地球生態系、地球、太陽系、銀河、大宇宙というように捉えていくと、それは私たちの器の連鎖です。小さなものが集まって多様性ある生命のネットワークを作り、それが循環することでもう一つ大きな生命を構成しているのがこの世界の仕組みです。近年は、人間個人が自らに都合のいい世界を表現しようとする考え方が当然のようになっていますが、もともと人間は自然の仕組みの中で生かされてきたのです。人間の横暴がまかり通るようになったのは、歴史的にはごく最近のことですね。
現代の人間たちは、地球上で傲慢な姿勢を取っています。その姿勢がなぜ傲慢だと言えるのかというと、人間は自然の中で生かされてきたからです。本来、生命は自然の循環の中で役割を果たすことによって存在するものなのです。現代人は、そういった意味では大きな勘違いをしていることになります。
農業革命の革命とは、何に対する革命なのかというと、農、食、そして命に対する人類の意識を変換するということです。

05

これは、近年の農の現場で行われていることですね。

「大量の作物を得るために、大量の化学肥料、農薬や除草剤等を使用し、それが土壌や地下水・河川を汚染し、自然界はバランスを崩している。」

生命は自然界から与えられるものを食べ物としていただき、自らの命にしています。そうすると、自然界だけではなく、自らの命もバランスが崩れていくのは当然のことです。

「生命バランスを失った作物は、病害虫に弱くなり、農薬を必要とするため、さらに化学物質が自然界に投入され悪循環になっている。」

人間には智恵がありますから、自然に反するようなものを使っても、なんとかそれをやり繰りして、表面的には問題がないかのように見せています。ところが、その自然に反したものは、響きとなって環境や私たち自身の体の中に情報として反映されていきます。そして、自然が非自然の状態となり、それが矛盾となって何らかの形でこの世界に表現されていくのです。

もっとも懸念されるのは、人間の精神性にそれが反映されているだろうということです。では、本来の精神性は何を拠りどころとするべきかというと、「生かされている」「いただいて生きている」という、私たちが生きる上で与えられているこの世界の仕組みを理解することです。ところが今は、「自分は自分の力で生きている」というように、「いただいている」のではなく「獲得している」かのように錯覚しています。近代になり、人間が自然を顧みなくなったことによって、その傾向はさらに強まっています。

「効率を求めるために、作物を単一化し、畑から多様性が消え、生態系が狂い始めた。」

自然の植物には、肥料は与えられません。当然、そこには農薬の存在もありません。しかしその世界はバランスがとれており、それによって健全に成り立っています。その代わり、大量生産はできません。人間に都合のいいものもできません。自然の中の生態系のバランスに則ったものしか、得ることはできないのです。それを人間の智恵によって、いかにより多く、より優れたものを得るかということは、人間が生きていく上で必要なことでもあります。しかし現代は、自然界にない形で成り立つ化学物質を投入してまでも、多くを得ようとするのです。
その背景にある精神は、「良いものをつくろう」という心ではないですね。何かといったら、お金にしようということです。そういった欲による汚染が、世の中に蔓延しています。

「不健康な食べ物が人間の体を蝕み、体のみならず精神にも異常をきたしている。」

これが、私たちが伝えたいことです。

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現代は、人間のエゴを優先した結果、本来食べるべきものではないものを餌として牛に与え、その牛を人間が食べています。アメリカの五大湖では、冬場に魚を獲っては牛に食べさせていたと言います。それは牛のあるべき姿でしょうか。牛を生き物ではなく、食料として見ているのです。私たちは、ただ食べられればいいのでしょうか。自然の法則に則り、本来のあるべき姿で存在している命が自然な流れで食べ物として私たちの元へやってくるのか、それとも自然から外れた不自然な状態のものを食べ物として取り入れ、それを自らの命としていくのか。残留農薬が何ppm以下なら問題ないと言いますが、では長い期間にそれがどのようにDNAに情報として刻まれていくのかを考えると、とても問題のあることだと思うのです。

「石油開発やトウモロコシ栽培のための熱帯雨林の伐採で、ジャングルは大きく枯れ始めている。」

地球の酸素の供給源であるアマゾンの森が枯れていくのですから、地球にとって大変な問題です。それは、人間だからこその行いですね。

「砂漠地帯での大規模灌漑農業では 地下水を大量に使用し、2020年には地下水が枯渇するといわれている。」

砂漠の地下水は古代水といって、これを汲み上げてしまうともう供給されません。ずっと昔からあった地球の遺産のようなものですが、それがあたかも無限にあるかのように消耗し続けるということが、今行われています。

「農や食の現状は生命から程遠いものになってしまった」

けれども、今の世の中はそれで回っています。そうするとそこには何も問題がないかのように思えますが、本当にそうなのかどうかということを、今こそ考えなければなりません。

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世界の穀物を一部の企業が握り、価格調整などのコントロールをしています。それは一部の企業だけの話ではなく、いろいろなところで、お金儲けのために農業が行われ、食料が利用されています。日本にはアメリカとの安全保障条約がありますが、それよりも私たちにとってもっと重要なのは、食料安保です。自国で食料を自給できないようなことでは、今後の気候変動に伴う世界的な食料難の時に、その国はとても弱い立場になることでしょう。本来、日本はそういったことを最優先に考えていかなければならない国ですが、現在は自動車や電化製品を売ることの方が優先されています。

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世界の種の現状はこのようになっています。
ここで一番に考えなければならないのは、遺伝子組み換え作物が年々増加してきているということです。GM作物が問題かどうかというのは、科学的な分析からすると、よくわからないようです。ただ、遺伝子組み換えによって、作物を栽培する時に除草剤をまいても大丈夫なようになっています。雑草には除草剤が効くけれど自分たちが欲しい作物には効かないというのですから、この技術は素晴らしいですね。人間の叡智の賜物です。それはとても便利なことですが、自然からすると異常な状態です。そういったことを、科学的なデータだけを見て何も問題がないとするのではなく、もっと深い意味で観ていくことが大切なのです。

このような、近代の人々の精神性も含めた農の現状があります。そこでここからは、生命の「響き」という側面からのお話をします。

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「この世界(現象界)は生命も物質も響きで出来ている」

私たちの存在する世界は、響きという情報によって、形が形成されています。

「『響き』は生命力の源であり、元の気が出るところ。すなわち音の故郷(潜象界)から生まれ出る」

人が誰かと出会った時に、その人から明るい印象を感じたり、暗い印象を感じたりしますね。「この人に会うと元気になる」とか、「あの人に出会うと気分が悪くなる」ということがあるのは、何かを感じているからです。それが響きです。人間はそれを感じるセンサーを持っており、かつ自らも発信しています。その響きによってご機嫌な人生を送ったり、ご機嫌な社会が創られていくのです。

自然界では、個々がそれぞれに個性的です。種が違えばその個性はさらに個性的かつ多様になりますが、同じ種の中でも一つひとつが個性的なのです。今、人間は70億人以上がいますが、一人として同じ人はいないですね。

ところが、その個性がつながらずに対立や競争、区別をすることになると、争いの元となり、ゴミが発生し、無駄が生じることになります。しかし個性とは、他者にないものを持っているということであり、本来それは他者につなぎ、循環に活かし、全体の可能性を広げるためにあるのです。自らの個性を社会に還元すれば、同じように社会が自らにないものを与えてくれます。その循環が地球生態系の仕組みであり、宇宙の仕組みでもあるのです。我々の体も同じ構造です。すべては循環の響きによって成り立っています。

響きには、循環だけではなく対立の響きもあります。循環を止めてしまうのです。ものごとが滞り、淀んで腐敗していく響きもあります。しかし自然界は、腐敗してもそれが美しくよみがえり、他の生命に吸収されていく仕組みになっています。すべての生命が他の生命を生かしているということは、生命とは善意によって成り立っているということです。その善意をつなげていくのが、響きなのです。

「生命を壊すメカニズムを知り美しい響きのままの状態を保つために、私たちはどのようにすればよいのでしょうか」

現代は、競争や「自分さえよければいい」という我先の心によって、美しい響きが循環していくことを妨げ、生命を壊すメカニズムが蔓延しています。本来、農とは命をつなげていくものです。ところがそのつなぐためのものが、逆につながりを断ち切るようなものになっているのです。

それでは、命を育む農について考えてみましょう。

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これは農に限らず、宇宙の根本的な構造を、13000年前に東アジアで発展したカタカムナ文明の宇宙物理学の見地から表したものです。

私たちの存在する世界は、この図の右側のブルーの部分です。ここを「現象界」と言います。現象界は、目で見たり手で触れたりして形を五感で感じることのできる「見える世界」と、心や魂や縁など、形の世界を巡回してつないでいく「見えない世界」から成っています。「見える世界」が陽であるのに対し、「見えない世界」は陰です。この陰陽から成り立っているのが現象界です。それは「形の世界」です。そこでは命が循環して、地球生態系を表現しています。

見える世界の中で近年著しい発展を遂げたのが、右端の濃いブルーの「人工」の世界です。人工とは、人間の手によって自然の仕組みから逸脱した世界です。この人工の歪みはカルマとも言います。人間の持つ欲などの自我の心が発生源となって広がる世界です。現代人はそれを表現して対立し、競争し、戦争まで起こしています。

「人間は長い歴史の中で世界観が狭くなり、天然循環の法則を忘れ、己の利益のみを求め、他に害を与える存在になってしまった。」

ものごとを唯物論的に捉える人々は、「見える世界」の中だけでものごとを解釈しています。スピリチュアル的な捉え方をする人々は、「見える世界」の奥に「見えない世界」があることを意識していますが、カタカムナではさらにその奥を観ます。「見える世界」と「見えない世界」から成る現象界は、現象が現れているのですから、形の世界とします。それを陽と捉えると、それに対してもう一方の陰の働きをする世界があることになります。この世界をカタカムナでは「潜象界」と言います。ここが、私たちの存在する現象界の源であり、響きの故郷なのです。

カタカムナでは、この世界の響きは48の音からできていると説いています。この48音は、すべての言語の元です。この世界は音でできており、どんな国の言葉であっても、音からその意味を探っていくと同じような意味を示しています。

この現象界で汚れたものは、自然が改善してくれます。ところが今は自然の改善能力のキャパを超えてしまい、改善しきれないのです。例えば、バクテリアは水を浄化しますね。ところがバクテリアの力では浄化しきれないほどの汚染を生み出した時には、汚染はどんどん広がっていきます。

しかし実際は、自然の力以上に、その汚染を改善する力がこの世界にはあるのです。それがこの図に表れています。現象界と潜象界の間にあるこのひし形のゾーンを見てください。現象界は潜象界の側にはみ出し、潜象界は現象界の側にはみ出しています。この中間地点を通り、現象界では改善されないものも潜象界へと戻って、すべての現象は、その源である響きだけの状態へと還り、リセットされていくのです。そこには、物質は一切ありません。音の種があるだけです。

「人間が破壊し続けても、源の世界は生命エネルギーを全生命に与え続けている。」

これは、現象界で歪んだものが、潜象界へ還って、歪みのない元の状態になるということです。原子が合体して分子になる時、その組み合わせによっては毒の働きをするものがありますね。ところが、その分子の構造をバラバラにして原子の状態に戻せば、無害になるでしょう。それと同じような仕組みです。潜象界は響きだけであり、一切の濁りもゆがみもない世界なのです。

現象界は「ある世界」であり、潜象界は「ない世界」です。「ない世界」とは、人間には認識のできない世界です。しかし、この世界は常にその認識のできない世界から、美しい歪みのない生命エネルギーが供給されており、それによってこの世界は健全に成り立っているのです。

そのことを理解し、天然循環法というものを学ぶことの何が重要なのかというと、人間がその物理的構造を理解し、濁りのない美しい響きを自らの精神性に乗せて響かせた時に、そこにはイヤシロチという濁りも歪みもない世界ができるのです。逆に、人間が欲をかいて精神がどんどん汚れていくと、自然が破壊されて人工に汚染された大都市のような場所ができます。それをケガレチと言います。人間にはその両方を創る能力があり、人間の能力は両刃の剣のようなものです。低い意識で自我にまみれれば、自らの人生や世界を汚染する原因にもなります。しかし高い意識となり潜象界までの仕組みを理解し、その法則に則った精神状態を有して生きる者は、その者が響かせる響きによってこの世界を美しいイヤシロチへと変えることができるのです。

その精神を有したものが自然に接することにより、より健全な作物を育むことができます。それが天然循環法の農の基本です。ここを抑えなければ、天然循環法とは何であるかを理解することはできないでしょう。

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さて、日本語の文字に「命」という字があります。

「命という字を見てみると『祝詞をあげて天の命を受ける』『人が集まって神託を受ける』の意があります。」

私たちは、自らの命をつないでいくために、自然の恵みをいただいています。自然に感謝をし、祀りごとを行います。祀る対象は天であり、命(みこと)であり、神です。日本では、神のことを「みこと(命)」と言います。私たちは、この世界に遍満している神の命の現れの一部なのです。つまり、私たち自身も「みこと」だということです。

では、「命」という漢字の成り立ちを見てみましょう。

「『口』には『命令する』『言いつける』『授ける』『名前を付ける』等の意味がある。形としては、のりとを載せる台」

この台には、天からいただいた作物を供物として乗せます。

「儀礼用の深い帽子をかぶりひざまずいて神のお告げを受ける人の形」

天に感謝を伝えたり、その恵みをいただいていく自らの姿勢について天にお伺いをたてています。こういった人のあるべき姿が、「命」という文字に表れているのです。

私たちが毎日を生きるということは、命をつないでいるということです。その時に、農の現場を通して食べ物を生産します。食べ物の生産は命をつなぐことであり、それは宇宙の根本原理と同じことなのです。私たちは、すべてが循環し巡り巡って命がつながっていく宇宙の仕組みを、形を持って現象界に表現している「みこと」なのです。

「命とは天(潜象界)から地(現象界)に向かって降ろされる神の響き(神託=命)。すなわち現象界に生み出された神(=命)のことである。その仕組みは、生命ネットワークであり、常に循環し、巡り巡って変化し続けるもの。」

変化し続けるということは、例えば何か富を得た時に、欲の心でその富をずっと持ち続けようとするのではなく、常に与えられる状況をいただいて感謝し、それを手放し、また次の状況をいただいて感謝するということのくり返しです。この世界は常に変化し続けているのですから、何かを保ち続けようとすることは宇宙の仕組みから外れることであり、そこには必ず矛盾が発生するのです。

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「農」という文字は、二つに分けることができます。

上の部分は、「曲げる」という意味を現しています。下の部分の「辰」は、星や北極星を表し、日本では、動植物がぶるぶると奮い立つことから十二支の5番目(5月)にも充てられ、生命力を意味しています。つまり、農とは生命力、即ち天の法則を曲げたものだということが、この文字に表れているのです。

「自然」という言葉があります。それは、生命本来の生命力が、生態系の仕組みの中であるようにあるということです。そこには自然の厳しさもあり、状況は様々ですが、それらはすべて天の仕組みによって成り立つものです。その中で人間は、よりたくさん採れるようにとか、もっと食べやすいものがいいというような条件を付けて、自分たちに都合のいいように環境を変え、自然の姿を変えてきました。それが農です。

「現代の農業の発想は、人間の歪んだ思いによって『天の法則』や『生命力』を弱めることから発しているので、宇宙の原理から見たら根本的に逆さまであり、本来の自然の姿ではない。」

本来、食べ物をいただくということは、祝詞をあげて天にお伺いを立て、命をいただくというということです。その姿勢は、自然に対して「ありがとうございます」と心から感謝して、謙虚であるべきことなのです。そこからすると、現代の農はまったく違う世界になってしまっています。

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「農業」というと、「農」という自然の仕組みを曲げたものに、さらに人間の「業(ごう=カルマ)」が付いています。人間の欲の延長線上に行われるのが農業です。そこには「命をいただく」という姿勢はありません。農業を行う人々は、作付の計画を立てる時にも、これだけ作ればいくら稼げるかと考えており、常にお金と農が結びついています。その欲の心の象徴として、遺伝子組み換えや種の操作、農薬、化学肥料、除草剤などが世界中に蔓延しています。それは、人間の歪んだ心が創り上げた矛盾です。

その矛盾の世界から、私たちは、どのように次に進んでいけばよいのでしょうか。

「百姓」という日本語があります。「百」とは、単なる99+1の数字の100ではなく、無限という意味です。日本語には「八百万(やおよろず)の神々」という表現がありますが、それはこの世界には命(みこと=神)が無限にいて、その連鎖によって成り立っているということです。

「百姓」の「姓」の文字には「女」という字が入っています。この世界は陰陽から成り立っており、男性が陽であるのに対して、女性は陰です。

「『姓』の中の『女』とは陰のこと。形に現れていない奥にある大切なもの。『女性性』は天からいただいた種をはらみ、生命を生み出し、ネットワークする役割。自然の奥に潜んでいる天の理『男性性』を受け取り、命を生み出し、地に表現する『女性性』の特性が『百姓』に通じる」

「奥にあるもの」とは、現象界でいうと、例えば私たちの肉体の奥にある精神性や心です。心が健全だと、形も健全になります。しかし、形がいくら健全に見えても、その奥にある心が悪ければ、結局はすべてが不健全なものとなるのです。ですから、女性性とはとても大切なものですね。本来、この世界では見えないものが先にあり、それを元にして形を形成していくことが大切なのです。

百姓とは「作物を通して天の仕組み・生命の仕組みを学び表現する生き方」です。これはとても大切なことです。百姓として食べ物を作るのは、本来お金を儲けるためではありません。それは、自然から命をいただき、生きることの意味を学び、自らの精神を高めていくもっとも大切な生き方なのです。自らの精神性を高め、世の中を健全にしていく。そういった意味が百姓にはあります。あらゆる職業の中で最も尊く、優れている生き方が、百姓という生き方なのです。そういったことを、皆さんにもご理解いただければと思います。

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これが、天然循環法の原点です。ですから、人間の精神が美しくなることが前提です。それだけの高い精神性を有した者が、この世界を美しくしていく力を持っているということです。
そこで、「自分には高い精神性がないからダメだ」ということではありませんよ。だからこそ自らの精神性を磨いていくのです。それが私たちが生きることの真の意味です。

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自然は、それぞれの存在に個性があります。それが循環していく中で、格差が生まれます。人間の世界でも、個々の間には差があり、それが格差を生んでいきます。人工の世界では、その差がエゴによって極端に大きくなっていくのです。その差を取って、あなたも私も同じものであり、みんなでつながって助け合って生きることを「差取り=悟り」と言います。「差」を「取る」のです。

それは個性をなくすのではなく、それぞれの個性を活かしながらつながって、もう一つ大きな命を創るという宇宙根本の仕組みの姿です。その意識の者が創る世界では、個々の間の差は自然となくなります。あなたも私も大きな命の中でそれぞれの役割を果たしているということが理解できた時、その人は悟りを有した者となるのです。それが優れた人間です。

もともと、私たちはみんな同じところから来ているのです。同じ故郷から、それぞれに個性を与えられて現象界へ生まれたのです。その個性的な者たちが再びつながり、循環し、ひとつの命を創る。それが差を取るということです。天然循環の仕組みがわかれば、そのことが理解できます。

「現代人は食べる事で不健全な体や精神を創っています。食べる事で健康になっていく食べ物、薬になる食べ物があることを知っていますか。」

これは当たり前のことですね。ところが今は、食べることによって不健康になり、病気になっていくことがたくさんあります。本来、健全な食べ物というのは、病気になったものを治す力があるのですよ。私たちは、そういったものを生産していくことが大切であり、それは単に環境にいい資材を使えばいいのだというようなことではありません。それを生産する人間の精神性がもっとも大切なのです。人間の波動はいろいろなものに影響を与え、汚れた世界を創ることもできれば、それがネットワークし、美しい世界にしていくこともできます。だからこそ人間が率先して美しい世界を創る精神性になることが肝要なのです。

あらゆる農法には、農という文字が入っていますが、天然循環法には入っていません。もともと農は生命力(=宇宙の法則)を曲げたものであり、人間の思惑の上に発展してきたものだからです。天然循環法とは、農という食料生産の現場だけではなく、この世界の仕組みそのものを表しており、本来、生きることのすべてが天然循環法なのです。

慣行農法から有機農法、自然農法までは、農業の手法でした。そこからすると、天然循環法とはとても深いところを突いています。これは優劣をつけているのではなく、宇宙の法である天理の話です。このことを理解すると、これを広めていくことの大切さを改めて理解できます。

自然農法とは、 現象界(自然界)の好循環を意識して作物を作る農法だが、人知で作物をとってやろうという「欲」の心に陥りやすい。天意に沿い、いただく精神に欠ける。」
自然農法や有機農法にも、環境を良くするというような側面はありますが、そこにはやはり作物をたくさんとってお金を得ようとする心があります。そこで人間が心を磨くことにより意識が変わっていくと、天然循環法の世界が観えてきます。

そこでは「生まれたての元の響き=無垢な気=元の気(元気)に戻すことによって、美しく濁り汚れのない、生命力あふれる作物が育つ。手がける人の心がその仕組みを理解、体得しその響きを響かせることによって、曲げられた作物に元の気が復活する。天の法によって生かされていることを表現する営み。」ということです。それは農法を超えた生き方にもつながります。

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天然循環法は、直感栽培とも言います。
人間が「どうしたらもっと得するか」と頭の中でああでもないこうでもないと思考を回すことを、人智と言います。それに対して直観を有することは、「心の状態が安定し、自らに囚われず天地と一体の精神を有するものは、ものの実態を一瞬でつかみ取る直感を有し、天の法則に則った響きを場に響かせることができる。そのものの存在がイヤシロチとなる。」

つまり、その人がいるだけでなぜかいい空気になったり、場が明るくなっていくのです。反対に、場を暗くしていく人もいますね。

「そしてその生活の場もイヤシロチとなり、全てが好循環(天然循環)していく。そこで営まれる生活が天然循環法=直感栽培」

直感とは、頭の中で思考を巡らせて企むものではなく、パッと感じてサッと判断することです。それは天の気を感じることです。それには、自らの精神状態を美しくすることが必要です。自我にまみれて損得勘定をしているようなことでは、天から降りてくる直感を受け取ることはできないのです。

今の世の中では、お金をたくさん稼いだ人が成功者だと見られていますが、それは霊的には、汚れた人生を生きていることになります。21世紀を迎えた今、人類はそこに目覚めなければ、本当の意味で地球に生きる役割を果たすことはできません。

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この図は、この世界の仕組みを表しています。中心に「質的転換」をする出入口がありますね。潜象界では響きだけの存在だったものが、質的転換をして、現象界に命となって現れます。命として生まれ、個性を持ちます。その個性が人工的な歪みを発生させ、自然から遠のいていくのです。

現象界の「人工の歪みの世界」の中だけで行われるのが慣行農法です。それに対して、資材はいいものを使っているのが有機農法です。そして自然の法則を取り入れたのが自然農法です。さらに、潜象界までを含めたこの世界の仕組みを理解した精神状態の者が行うのが、天然循環法です。

慣行農法は、「アメリカによる戦後の農業大改革から始まった、農薬・化学肥料を主体とする農法。遺伝子組み換え、種の操作も行われている。環境汚染の原因NO.1。支配するものと、支配されるものの関係で成り立っている。どちらも、目先の利益のみに囚われ、世界観が狭く、そのような自分自身も観えない状態」ということで、これが現代の農業の大部分を占めています。

有機農法は、「慣行農法では環境に良くない、という意識から生まれた農法だが、規定が多すぎて、現実的ではない。製品のニーズが少なく、消費者の奪い合いが起こる。お金や、規定の縛りの中にあり、天然の理より、自分の都合が優先している状態」というもので、そこではやはりお金を稼いで生活を成り立たせることが目的になっています。

自然農法は、「自然の仕組みに沿う精神性をベースに生まれた農法だが、科学的探究に偏り、精神性が忘れられている。理論と実際の精神性にギャップがある」というものです。自然農法を行う人々は、自分たちが世の中から理解されたいがために科学的な分析をして裏付けを取り、世間の支持を得ようとしています。しかし、そういった様々な農法は、現代の科学万能主義の社会にゴマをするようなことになってしまっています。地球の歴史を振り返ってみれば、現代の農法が地球上に表れたのはごくごく最近のほんの一瞬のことであり、それは本来の生命のあり方から大きく外れてきています。生命とは何であるのかという世界観をもとにして考えたならば、社会に媚びを売るのではなく、むしろ今の世の中のあり方に警鐘を鳴らすような立場を取るべきでしょう。

それに対し天然循環法とは、「自分優先の生き方から、天の心をいただく生き方」です。天の心とは法則ですね。天体の動きや時代の流れを感じながら生きていく生き方です。広い世界観をもとにした精神状態の者が天と対話し、自然と対話しながら、人間の欲によって歪んだ世界を美しくしていくのです。その上で、天から与えられた食べ物をいただいていく。そういった姿勢で日々を生きていく。その人生そのものの表現が天然循環法です。

「天然とは自然界の奥にあって、生命の元になる世界であり、そのもとの美しい響き「天のしかるべき状態」を生活全般に表現することを天然循環法という。その中に「農」もある。全ては豊かな循環の中にあり争う必要のない世界の表現。」

それが天然循環法であり、生きることの大革命なのです。

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現代人の発想は、損得勘定の二元論です。

「見えるもののみを大切にし、物事の奥にある意味や本質を観ない。宇宙の仕組みを無視し、国や個人の利益に重点を置く生き方。結果、自然生態系や宇宙の調和を乱し、世界に害をもたらす。」

程度の差はありますが、慣行農法も有機農法も自然農法も、こういった発想の中にあります。それは人間の頭で考えた人智の世界なのです。そこでは生きることも、自分の力で生きていると捉えています。
そこから世界観が広がって視点が大転換すると、「自己中心視点」から「宇宙視点」になります。宇宙視点とは、「目覚めの時代のヒトの発想」です。

「自分優先の生き方から、天の法をいただく生き方へ。生命の無限の連鎖の中で、ヒトとしての役割を与えられ生きる。」

ヒトというのは、宇宙の誕生、維持、破壊、空というプロセスを数理で表すと「ヒフミヨイムナヤコト」となりますが、その始まりである「ヒ」から終わりの「ト」までを理解し、宇宙のすべての原理をマスターした存在を言います。「人間」は「人」の「間」と書きますので、まだヒトには至らない途上の者ということです。ヒトとしての役割というのは、天の法の中にあり、簡単に言うとこの世界のために生きるということです。

「結果、欲望の延長に獲得しなくても不足しているものが自然と補われていく。」

この世界には、本来不足しているものはありません。欲望から獲得しようとしなくても、道理に沿えば、必要なものは自然と補われていくのです。

「天然とは、天の然るべき状態。人間によって歪められていない純粋な元の響きの状態」ということです。

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つまりこの生き方は、天の意志を受け取り地上に表現する、地上天国創りなのです。これからの時代を生きる人々には、そういったことが求められていきます。そういったことが忘れられている現代の社会は、地球生態系からすれば異常なことなのです。

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人間には、目には見えない生命の響きを嗅ぎ分けられる能力があるのです。

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大切なのは、これだけ大事な役割を果たしている微生物は非常に繊細なものだということです。人間の心が歪んだり濁ったりしていると、微生物の生育を阻害したり破壊することにもなります。人間が傲慢な心で接すれば、良い資材ができないどころか、腐敗していくこともあるのです。微生物は地球にとっての人間のような存在ですね。有効なものとして働くのか、それとも腐敗菌となるのかは、私たち人間次第なのです。

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木の花ファミリーでは、このように様々な微生物を活用しています。

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これはクリノゼオライトです。私たちは自らの精神を高めると同時に、こういった資材の力も借りて農を行っています。

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これは21世紀最大の人類への贈り物と言われる、ニームです。木の花ファミリーでは、これをタイから輸入して使用しています。

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このニームとクリノゼオライトとサンカルシウムを組み合わせることによって、農薬を使うことなく病害虫に負けない作物を育てることを実践しています。

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人間が心を磨いて美しくなると、作物も美しいものができます。健全な作物は土と作物のバランスがとれており、虫に喰われることもなく美しい姿をしています。

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作物のできには、環境や、そこに関わる人間の性質がそのまま現れます。だから作物と対話していくことが本当に大切です。ものを言わぬ作物が何を訴えているのかを、瞬間瞬間感じ取る。そのセンサーを働かせるには、精神が純粋でなくてはなりません。では純粋でないとはどういうことかというと、自我による思い込みや囚われがあり、自分に都合のいいようにものごとを考えたり、怠けている状態です。そういったクセ性分が、畑にも、人生にも反映されていきます。そこをいかに自らと向き合い、美しくしていくか。それが天然循環法の醍醐味であり、原点です。心磨きなくして天然循環法はあり得ないのです。

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地・水・火・風・空という自然の五原則が、人間の心、体、社会と一体となり、天然の響きを響かせることが大切です。現代の社会では、人間の心、体、社会が発する響きは天然ではなく、人工の響きであり、それが地・水・火・風・空を汚染しています。しかし本来人間は、美しい世界を築いていく原動力にならなければいけないのです。

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さて、皆さん、これからどのように行動しますか?

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