21世紀の死生観・番外編 ~ 死んだらまっしぐらに光の方へ向かいなさい

「21世紀の死生観」の講座が行われた夜、毎晩開催される「大人ミーティング」の場で、「木の花ファミリー通信2018年春分号」がシェアされました。テーマは「死ぬってどういうこと?」

ファミリー通信93-1

受講生やファミリーメンバーたちが死について思い思いに語らう中、受講生のエドの発言から、こんな話が生まれました。

大人ミーティングで語るエド
大人ミーティングで語るエド

エド:
人は、死ぬと肉体と魂が分かれます。死の瞬間に心の準備ができていなければ、人は死ぬことを恐ろしいと思うかもしれません。肉体と別れた魂は、本来魂の本住の地へと還っていくはずですが、恐怖や不安のような思いをたくさん抱えていると、それが重りとなって上へ上がることが難しくなります。
以前ある人から、「死ぬ瞬間には光が見える」という話を聞いたことがあります。人それぞれにカルマが違い、その人のカルマの状態によっては、光が見えたとしても一瞬で、またすぐにカルマに引っ張られてしまったり、家族などを残していくことが心残りで光の方を向かない人もいる。しかしそこに囚われていては、光の世界に還ることができなくなる。だから死の瞬間に光を見つけたら、一目散にその光に向かいなさい、とその人は言いました。例えば、死の瞬間に、自分のとても親しい人と、テロリストが見えたとします。その時に、親しい人には光がなく、テロリストの方に光が見えたとしたら、それがどんなに親しい人であったとしても、迷わずテロリストの方へ向かいなさい、と言うのです。
これは死ぬ時についての話ですが、生きている今も、よりよくその光が観えるようにトレーニングを積んでいくことができるのではないでしょうか。

いさどん:
人間の心というのは、汚れを持っています。そして汚れた人がこの世界を生きると、世界に矛盾を発生させます。今のように問題だらけの地球の現状があるのは、汚れた人がたくさんいるからです。人々の矛盾と汚れが、地球上に広がっているのです。
それは、私たちが輪廻をくり返す中で、生きることを通して学ばず、汚れを積み重ねてきたからそうなっていると言えます。そしてもうひとつ、僕の中にはこんな情景が浮かんでいます。

魂は、肉体が死を迎えると昇天します。「昇天」とは、「天に昇る」と書きます。死を迎え、肉体から魂が離れると、魂には肉体という質量がなくなりますから、自ずと天へ昇っていくのです。ところが、魂が地上のしがらみに囚われている場合があります。汚れた魂はたくさんの思いを抱え、その思いが重くて天へ昇ることができません。そして霧のように地上に漂うことになるのです。
漂ってはいるものの、実際に肉体はありませんから、徐々に上へ上がっていくことになります。ところが、その魂は物質世界に存在していますから、上へ上がったとしても物質世界に在り続けるのです。物質世界の上というと、大気圏の外あたりです。そのあたりに、天へ還れない魂たちが漂い、地球を覆っているのです。
地球は物理的には、青くて、白い雲が漂う、美しい星です。ところが霊的に地球を観ると、肉体を失いながら3次元世界を離れられない魂たちが周りを漂い、とてもダークな星になっています。そしてその囚われた魂たちの響きが、地球に降りてくるのです。それが、今の地球上の人間たちの目覚めを遅らせています。

いさどんは、車の運転中でも、仕事をしている時でも、何かちょっとした危ないことがあると、それが大事故になった場合を想定し、死ぬことのシミュレーションをよくします。高速道路を走っている時でも、いつ中央分離帯を越えて対向車が突っ込んでくるかわからない。今はとても危険な時代であり、生きていればいつでも死を迎えるような出来事は起こり得ますから、僕は時々シミュレーションをするのです。
中央分離帯を越えて対向車が自分の車に突っ込んできたとします。そこで正面からぶつかれば、命は助かりません。そのように、絶対に死ぬ状況をシミュレーションするのです。正面衝突し、肉体は生命として再生不可能な状態になりました。その時に魂は、肉体から抜け出し、少し上からその肉体を観ます。そこで自らの命に執着があると、その肉体を見続けることになります。つまり、下を見ているということです。
しかし、肉体がなくなったことを悟ったら、後は上を向き、光を探すのです。そうすると、自らの向かうべき方向に、必ず光が観えます。その時に、自らの人生や、残していくものについては、一切考えないことです。ただ真っ直ぐに光へ向かえば、魂は昇天します。

皆さん、明日死ぬかもしれませんから、このことをしっかり覚えておくといいですよ。死の瞬間にはまず、自分が死んだということを理解することです。そこで上を見上げれば、必ず光が観えます。そこがあなたの向かうべき方向です。そこに向かえば、昇天します。ですから、お坊さんのお経も何もいらないのです。犬や猫が道路で轢かれると、死骸がそのままになっていたりしますね。同じように人間もそのままそこに放っておかれたとしても、その心構えさえあれば、魂はきちんと昇天できるのです。ですからお葬式もいりません。ちゃんと逝けますから。このことをよく覚えておいてください。まだ生きているうちは救急救命処置をしますが、死んだら即座に救急昇天してください。(みんな:笑)

そこで今までの囚われがいろいろとあると、昇天することに躊躇することにもなります。もともと天から降りてきた魂が、地上の快楽の虜になって、上へ還りたがらないものもいるのです。僕が運転中などに事故のシミュレーションをするのは、事故を起こさないようにするためというよりも、死ぬことを想定し、死の瞬間に自らの魂がどのような死に対する姿勢を取るかということのためです。交通事故を起こさないことも大切ですが、それよりも、魂を汚さずに即昇天することの方がもっと大切です。そうすれば、地球を霊的に汚しません。

生きていると、いろいろと予定があるものです。僕ならそろそろ蜜蜂の点検をして、とか、講座のプレゼンチェックしなきゃ、とか、メンバーの誰々は最近成長してきたけどまだ不十分だからもう少し深く心のことを伝えよう、とか、いろいろと予定を立てるものですが、そうすると、死んだ時にそちらの方を見てしまうのです。そんな潔くないことでは、即昇天することはできません。

死んだ時には、必ず、自分は死んだんだ、ということが感じられます。その時には、下を見ずに、上へ行きなさい。行く方向がわからなかったとしても、必ず、上を見れば光があります。そこが向かうべきところです。

みんな、ちゃんと行くんだよ!

みんな:
はーーーい!!(≧▽≦)ノ

いさどん:
真学校では、食についてもお話ししました。現代人の食は、とても命を無駄にしています。
ライオンがシマウマを食べるのは命の循環です。シマウマの命はライオンに受け継がれ、魂には何の未練もなく昇天します。しかし、人間が自分たちの食料にするために家畜を飼い、屠殺する場では、動物たちの魂に大変な未練が残ります。世界中でどれほどの動物たちが、まだ命があるのに屠殺され、恐怖の響きを響かせながら肉になっていくことでしょう。その響きを、現代の人々は食料として自らの体の中に取り入れているのですから、恐ろしいことです。
肉体から離れた動物たちの魂は、怯えの響きを響かせながら、昇天できずに地上をさまよいます。それも物理的質量はありませんから、徐々に上へ上がり、大気圏の外側を霊的な雲のように覆っています。大気の層は、およそ100kmです。それは地球全体の大きさからすると、卵に対する卵の殻程度の厚さで、とても薄いものです。その薄い層の外側を漂う魂たちが、地球を暗くし、人間を目覚めさせない原因になっています。そしてそれは、地球のカルマになるのです。それも良いカルマではなく、汚れたカルマです。
ですから私たちは、自分自身も死後に地球上を漂うことがないよう潔く死を迎えることが大事ですが、同時に日々生きる中で、その動物たちのような不浄な魂を出さないことも大切なのです。私たちが肉食をしないことには様々な理由があり、物理的に環境を汚さないことも理由のひとつですが、もっとも重要なのは、霊的に地球を汚さないことです。霊的に地球が汚れると、大切なことに目覚めない人間が増えてしまうからです。
今は、そのような迷える魂たちの影響によって、人が目覚めることがとても難しい時代になっています。いろいろな意味で、この世界を変えていかなければなりません。世界の状態は、ここまで複雑になっているのですから。

みかこ:
死んだ魂の影響もありますが、生き霊の方がさらに恐ろしいと言いますね。

いさどん:
そうだね。生きている人間が発する、恨みつらみ。怒ってばかりいるとその怒りが生き霊となり、勝手に飛んでいくのです。例えば、ひとつの部屋の中で誰かが怒っているとするでしょう。そうすると、その部屋の中に怒りの響きが充満するのです。
僕は昔内装業をやっていた時に、仕事でいろいろな家に行きました。そして家の中に入ると、その家の人間関係の響きが感じられるので、「この家は荒れているな」ということがすぐわかるのです。そこで「息子の部屋を改装してほしい」と頼まれて部屋に行くと、そこに本人がいなくても怒りの響きが飛んでいます。その響きがさらに次に影響を与えていくのです。

まっちゃん:
僕たちが心を磨くのは、自分一人分地球を汚さない、というだけじゃないんだね。地球をきれいにするためにこの生き方をしているとしたら、自分一人分を超える働きをしないと、いつまで経っても地球はきれいにならない。

いさどん:
そこが、すぐに答えを自分の中に見つけようとする人間の浅はかなところです。真学校では、この世界には時代のサイクルがあり、それによって地球上の出来事が変わっていくということをお伝えしました。ですから、例えばまっちゃんが今の心を持って過去に行き、そこで戦争に反対したとしても、やはり社会は戦争をするのです。それどころか、まっちゃんがその時代に行ったら、きっと流されて、自分も戦争に行き、戦っているだろうと思うのです。

まっちゃん:
真っ先に死んでるかも(笑)。

いさどん:
そうかな。みんなが突撃していく時に臆病になり突撃できず、結局生き残ったりしてね(笑)。
つまり、その時代にはその時代にふさわしい魂が降りてくるのです。そしてその時代にふさわしい出来事を、役割として演じているのです。それを自分の力でどうにかしようと思っても、時代はふさわしい表現をしながら進んでいくのです。
今は、霊的には闇の時代です。人々は未だ目覚めていません。しかしその中で、ほんの一握りの人たちが目覚め始めたら、それは闇の中の光です。闇の中では、ほんの少しの光でもよく見えます。真っ暗闇の中へ入ってごらんなさい。そこにどこかひとつでも地上への穴が開いていれば、どんなに小さな穴でもパッと見つけられます。そこで電気を付けて明るくして、もう一度同じ穴を見つけようとしても、見つけられないでしょう。

ですから、今のようなまっちゃんの考え方は、時代のメッセージを受け取らず、人間の力で社会を良くしていこうという考えです。それは、現代の人々が、自ら汚した地球に対して、自らを振り返らず、環境保全活動をしているようなものです。
そういった真実の観えなくなった闇の時代には、ほんの少しの光であっても、とても目立ちます。そして多くの人がその光を見つけ、そこに向かってくるのです。だからこそ、今はまだ人々は気付いていませんが、まずあなたが始めることです。それはとても誇りある生き方ですよ。気付いた人から、行動を起こせばいいのです。それが、この時代に生まれ、今の時代にふさわしい役割を果たすということです。気付いて「これは大変だから早くやろう!」と思ったとしても、天体には天体の事情があります。時代はあちらの都合で動いていくのですから、「早くしなければ」というような人間的な欲は持たないことです。

地球が汚れるのも、そしてそこに矛盾が発生するのも、人間の心の汚れが原因です。ですから、そこに気付いた人々は、まず心をきれいにすることです。今、東京でも大阪でも名古屋でも、都市はとてもきれいに整備されていますが、そこからどれほどの汚れが発生していることでしょう。物理的にも、その汚れは地球上のどこか見えないところに蓄積しています。そしてその原因は、人々の心の汚れです。しかし人々は表面だけをきれいに整え、それで良しとしています。きれいに見えるその奥に、とてつもない汚れを隠しているのです。どんなに外観をきれいに整え、アクセサリーを身に付けて美しく着飾っていたとしても、霊的な心の汚れをそのままにしておけば、優れた魂への道は遠ざかっていくばかりです。

ちなっぴー:
私は24年前の3月21日に、創立メンバーとしてここに来ました。それで、毎年この時期になると、その当時の思いを思い出します。今日は3月20日ですから、24年前の、あと数時間後にここに来たんですね。
今この場でも・・・(涙で言葉が詰まる)・・・いさどんは、昔と同じことを言っています。ここに来る前、いさどんは私にこう言いました。
「おじさんはね、これから富士の地に行って、みんなで仲良く助け合って暮らしていく。そして、本物の食べ物と、本物の生き方を追求して生きていこうと思うんだよ。」
その本物の食べ物というのは、今話していたことと同じです。話を聞きながら、タイムスリップしたような思いが湧いてきました。その頃「大霊界」という映画を観たんですけど、その中で一番印象に残っているシーンがあって、それがまさに、今のこの場と同じなんです。映画は死後の魂の世界で、みんな肉体を持っていない魂の状態です。その魂たちが集まって、中心で誰かが魂の仕組みのようなことを語っていて、みんながそれを学んでいて、そして地球に降りてくる。今、私たちは肉体を持っているけれど、あの映画のシーンと同じだと思いました。肉体を持ちながらこんなふうに学べるなんて、すごくありがたいことだと思います。

いさどん:
私たちは、物理的3次元世界を生きています。そして、3次元世界的なきれいさについつい目が行くのですが、3次元世界のきれいさとは、その奥にある霊的世界のきれいさなのです。私たちは3次元世界を生きていますが、元は霊的な存在です。実は、物質も霊的な存在なのですよ。それはカタカムナに出会い、初めて立証されました。物質も、思いや響きによってできているのです。
ですから私たちがするべきことは、まず「形」は放っておいていい。そして魂に注目し、そこに問題があればメスを入れて改善することです。その時に、人のことは放っておいていいから、まず自分がやるのです。そうすると、自ずとそうする人々のネットワークができていきます。今の世界の問題を解決しようと思ったら、大変でしょう?国と国がいくら話し合っても、それはできません。ところが、「ああ、これは私の責任なんだ」という目覚めが広がれば、みんなが自分一人分をやるようになります。
とても簡単なことだと僕には思えるのですが、現実はまだ、そうなってはいません。今の人々にとっては、汚れることが魅力的なのです。性の講座でもお話ししたように、みんな汚れた性に溺れているでしょう?しかし汚れ過ぎてしまうと取り返しがつかなくなりますから、時代はまた、美しくなっていくサイクルに入りました。だから、大丈夫なのですよ。時代は確実に進んでいるのですから。

それでも、みんなが「大丈夫なんだ」と言って何もやらなければ、ことは成っていきませんから、やはり時代の意志を受け、その役割に先に気付いた者から現象化をしていくことです。自分一人分、この世界をきれいにする。その動きが世界に広がり、それがハーモニーとなれば、世界はたちどころに美しくなるのです。同時に、あなたにとって一番大切なあなたも、霊的に高い魂となるのです。

 

 


21世紀の死生観・2 ~ 真学校でもっとも伝えたいこと

午前中の第1部に続く「21世紀の死生観」第2部では、生死の仕組みをひも解きます!


いさどん:
死生観は、私たちの存在にとって、もっとも大切なものです。それでは、さっそくプレゼンテーションに入りましょう。

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時代は21世紀になりました。人間は、長い時の中で様々な時代を紡ぎ、その中で数え切れないほどの人々が死に、数え切れないほどの人々が生まれてきました。それは地球の新陳代謝であり、自然界の成り立ちです。しかし、ではなぜこのように高度な文明を持つ人間に生まれ、そして死んでいくのかということの本当の意味が、まだ人間にはよく理解されていません。そして、生きることの真の目的を見失っているからこそ、今、混乱の時代を迎えています。
21世紀に入ったことにより、人々は、生まれてきたこと、生きること、そして必ず迎える死の本当の意味を知る時代に入りました。それにより、曖昧な人生を生きることから卒業できるのです。

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私たちが生きている状態というのは、肉体と魂が一体となり、生命世界において循環している状態です。循環しているということは、地球生命生態系と連動しているということであり、自らもその一員であるということです。ですから、人間だけが、その利害の上に単独で行動をすることは、慎まなければなりません。地球生態系の仕組みを壊さないように、そこと連動しながら、より地球生態系が豊かになっていくような働きをすることが、本来の人間の価値です。

私たちは、死を迎えると、肉体と魂が分離します。そこで魂はどこに行くのでしょうか。それは、それぞれの魂の意識のレベルにふさわしい次元の宇宙へと還っていくのです。この世界は、今現在私たちの生きる3次元世界だけではなく、1次元、2次元から、4次元、5次元、6次元、最終的には22次元まであると言われる多次元構造になっています。私たちは通常3次元世界にいますが、死ぬととりあえずは4次元の世界へ向かいます。4次元世界には、時間の区切りはありません。ですから、例えば亡くなったお父さんやお母さんと死後の世界で会うことができるのです。魂の縁が近いものたちは、そのように時を越えて出会うことができます。それが4次元世界です。
5次元世界へ行くと、魂のレベルによって分かれるようになります。ですから、肉体を持っている間にどんなに親しくしていても、意識レベルが違えば、5次元世界では共にはいられないということです。この5次元世界までが、通常の人間の輪廻の幅です。
6次元や7次元、8次元、9次元、10次元までになると、銀河を運営するレベルになります。魂たちは、肉体から離れた時にそのままの状態で役割を果たすものもいれば、最終的に悟りのレベルに到達し、この世界と完全に同化します。この世界と自分に区別がない、究極の悟りの状態です。

魂が昇天するとは、魂が微細になり、すべての始まりである宇宙最極小微粒子「カ」の状態に細分化され、潜象界へ還っていくことです。私たちの肉体は、「見える世界」に存在しています。その奥には魂や心などの「見えない世界」があり、その見えるものと見えないものがひとつになって、自然生態系を生きています。そして、通常の私たちの輪廻は、この「見える世界」と「見えない世界」の間を行き来することになります。一般的な宗教のレベルで言われる悟りとは、この「見える世界」と「見えない世界」の範囲の中にあるということです。この「見える世界」と「見えない世界」を、「カタの世界(現象界)」と言います。
一方、カタカムナで言う究極の悟りとは、「カタの世界」のさらに奥にある「カムの世界(潜象界)」を理解することです。「カタの世界」に存在するものが、「カムの世界」へ還っていく。それは、完全に宇宙の大本に同化するということです。

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こういった仕組みを理解するとは、「ヒフミヨイムナヤコト」の宇宙原理を理解することです。そうすると、人間からヒトとしての悟りが開かれ、最終的には、その存在は「カムの世界」へと還っていきます。

肉体は、魂と分離すると、3次元生命世界の循環の中で新しい生命の原料となり、輪廻します。魂も、肉体も、変化の旅をしているだけで、そこに死はないのです。この世界に死はない、とは、どこかで聞いたことがある言葉ですね。「あなたは死なないのですよ」と言う人もいますが、そんなことはありません。私たちは毎日の中で生と死をくり返し、変化し続けています。
ですから、昨日のいさどんは昨日で終わりました。今この瞬間のいさどんも、次の瞬間には過去のものです。常に生死をくり返しながら、生まれ変わっているのです。つまり、私たちが生きている限り、死は常にあるということです。
そして、もうひとつ大きな死が、魂が肉体から抜けるということです。死の理由として、肉体が壊れ、魂の拠りどころが無くなったから魂が抜けるという場合と、今回の生の寿命が来たから魂が抜けて肉体が自然に還るという場合があります。どちらも寿命ではありますが、その迎え方が違うということです。寿命を迎えると、魂はそれぞれに相応しい魂の世界へと還り、また地上に生きる縁によって帰ってきます。肉体は原子のレベルに分解され、次の形の構成物質となっていくわけですから、そういった意味では、私たちの存在にいずれつながり、この世界がひとつの循環の中にあることを表現していくのです。それが大宇宙の実相なのです。

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生きるとは、生命として、肉体と魂の縁を持つことで、地・水・火・風・空という自然の世界の中で、肉体は常に循環の中にあります。そして、常に循環し続ける肉体を束ねているのが、魂です。

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この縦の糸は、天然循環です。天から降りてくる潜象界の「カ」が、縦糸として降りてきて、地上世界の横の循環の原料となります。この横の糸が、自然循環です。これを性の役割分担で捉えれば、縦糸が男性性であり、横糸が女性性です。
ライオンがシマウマを食べるところだけを切り取って見れば、ライオンがシマウマを殺したことになります。しかし、真実はそうではありませんね。こういった自然界の姿は、生命循環の営みとして、食べられる側も食べる側も、それぞれが役割を担っているのです。そこには、善も悪も存在しないのです。

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中心に、今の自分がいます。自分は、両親がいることによって発生しました。両親は、さらにその両親がいることによって発生しました。その両親もさらにその上の両親がいることで発生しました。そのように、この図は延々と広がっていくのです。
面白いのは、自分を1代、両親を2代、その上を3代、4代とさかのぼっていくと、この図は延々と広がっていくでしょう?ではそれだけ膨大な数のご先祖様がいるのかというと、そうではありません。30代ほどさかのぼると、地球上に存在した人間の人口と合わなくなるのです。ですから、この図をずっとさかのぼっていけばある段階で逆転現象を起こし、ご先祖様の数は減っていくわけですが、そうすると最終的にどうなると思いますか?
学問的には、人類の始まりは、アフリカの1人の女性から始まったと言われています。しかし、1人の女性から始まったというのは変ですね。この図をずーっと辿っていくと、進化論的に言えば、猿になりますね。さらに辿っていくと、爬虫類になり、両生類になり、魚類になり、バクテリアのような原始生命にまで至ります。そしてアミノ酸になり、宇宙の生命の始まりに辿り着きます。その材料は、宇宙にあったのです。さらに辿っていけば、宇宙の始まりという、ひとつのところから発生したことになります。あなたのDNAには、その生命の始まりからの情報がすべて入っています。

さらに、あなたが誰かとカップルになり、子どもをもうけたとしましょう。その子どもが成長してまた誰かとカップルになり、子どもをもうけます。そのように、今度はこの図を下の方へずーっと辿っていくと、どこに行くと思いますか?上にさかのぼっていくと、宇宙の始まりに辿り着きましたね。では下は? ──── そう、宇宙の終わりです。ところがその終わりは、ぐるっと1周してらせんを描き、また次なる宇宙の始まりへとつながっているのです。
つまり、今のあなたは、宇宙の始まりと、宇宙の終わりにつながっています。その終わりでは、すべてが宇宙最極小微粒子のカとなり、宇宙全体が潜象界へと還っていくのです。そういった仕組みが、私たちのDNAの中に、情報として眠っているのです。人類はまだ、それを解析できていません。人間の脳の90%はまだ休んでいると言いますが、ではこの90%は何のためにあるのでしょう。そこに、これから宇宙的進化を遂げることになる21世紀から30世紀にかけての人類の脳の使い方が秘められています。それは、アインシュタインのような脳の使い方ではありません。アインシュタインは脳の15%を使っただけです。ということは、人類に、それほどの可能性が秘められているということです。

その未だ使われていない90%の脳は、何かを学習し、知識を得て開くものではありません。それは、天体(宇宙)から降りてくる情報を受け取り、自らの内から湧き上がってくる魂の声を受け取る、縦の動きを司る脳です。今、僕は皆さんにたくさんのお話をしていますが、こういったことを学習したわけではありません。通常、本も読みません。湧いてくることと湧いてくることをつないでいき、そこでつなぎきれない間があった時に、今の新鮮な情報で埋めていくと、そこに法則性が観えてくるのです。
ですから学習をしなくても、皆さんの中にも情報を解析する能力は備わっているのですよ。学習をして暗記をするのは、知識だけを入れることであり、実用的ではないのです。そして知識は、10%の脳の中で使えるだけです。どんなに知識が豊富で学校の成績が優秀な人でも、それを何のために使うのかといったら、結局は自分自身の欲のためだったりするのです。そしてその結果、地球の環境を悪化させ、最終的には自らの価値も落とすのです。

例えば今のあなたが、お父さんやお母さんは大切だ、おじいちゃんやおばあちゃんがいたから自分がいるのだ、自分の一族がいたお陰で今の自分がある、と思ったとします。もっと言えば、自分の国があったから自分はいるのだ、と思ったとします。それは、この図でいうと縦のラインですね。
ところが魂の遍歴を観ていくと、前世、前々世というように、横のライン上にもさかのぼって自分はいます。前世では、今世で戦争をした相手の国に生きていたかもしれません。縦だけではなく、この横のラインにも、宇宙の始まりから終わりまでの情報があり、その中にあなたがいます。前々世では、アボリジニだったかもしれないし、ネイティブアメリカンだったかもしれません。今世では今のあなたの人生があるわけですが、来世でどこに生まれるのかは、今世の結果によります。いろんなことを経験してきた結果、今のあなたがあり、今の経験の結果が、未来のあなたをつくっていくのです。
そのように観ていくと、あなたはどこか特定の場所に所属しているわけではなく、「地球が我が家」ということになりませんか?

ですから、ご先祖様とは、過去に存在したすべての人々がご先祖様です。子孫とは、未来に存在するすべての人々が子孫です。もしくは、すべての生命のことです。先ほど、縦のライン上を受け継がれてきたDNAの話をしました。宇宙の始まりから宇宙の終わりまでの情報が、細胞一つひとつのDNAの中に入っています。同じように、この横のラインを左へずっと辿っていけば、宇宙の始まりにたどりつきます。右へずっとたどっていけば、宇宙の終わりにたどりつきます。「私」という今の自分が、魂の輪廻をくり返しながら、宇宙の始まりから終わりにまで関わっているのです。そして、その織物の糸をつなぐつなぎでもあるのです。
私たちの内にはさらに、目には見えない霊的なDNAが伝承されています。目には見えませんが、霊的なDNAの情報ボックスというものがあり、それを名付けて「宇宙図書館」と言います。そこには様々な情報が整理されており、未だ使われていない90%の脳を使ってそこにアクセスすると、すべての情報が出てくるのです。私たちは、そのような物理的、霊的複雑な仕組みのもとに存在しています。
肉体のDNAの解析と同時に、霊的なDNAにアクセスし、人類の営みを進化させるのが2000年から3000年にかけての人類の歩みです。その中で、物理的テクノロジーも進化していきます。そこに霊的なテクノロジーが重なっていきますから、3000年になるころには我々は今は想像もつかないような世界を見ることになるでしょう。

300年前の我々の先祖はどのように暮らしていたかと考えると、携帯電話など、思いもつかなかったでしょう。テレビの中で人が動くなどということも、考えられなかったでしょう。100年前でも、技術はあったかもしれませんが、現実的にはなっていませんでした。
今、2000年を越えて3000年へ向かう1000年記が始まりました。さて、3000年はどのような世界になっているでしょう。「それは私には関係ない。だって寿命は80年なのだから」と言ってしまったら、関係のないことになります。自分のやりたいことをやって、その後がどうなろうと関係ないということです。しかし、人間は輪廻をくり返します。あなたが今世でやりたいことをやって生きたツケは、来世のあなたに降りかかります。来世のあなたのツケは、来々世のあなたに降りかかります。今のあなたの行いが、ずっと先の未来までをつくっていくのですから、実はあなたのこととしてすべて関係があるのです。なぜなら、魂は消滅しないのですから。
最終的には、私たちは潜象界へと還っていきます。ところが、一切の濁りも歪みもない、すべての根源である宇宙最極小微粒子「カ」でさえ、DNAを持っているのです。過去にどんなものを構成してきたかという記憶が響きとしてインプットされていくのです。ですから、「カ」が潜象界から現象界へと現れる時に、例えば「カ」と「タ」と「チ」が、過去に共に何かをした記憶を持っていて、「カタチ」をつくるのです。
これは、とても壮大な宇宙ドラマです。神が創る宇宙ドラマです。その中で、私たち一人ひとりは、ドラマの出演者です。誰一人、「その他大勢」という人はいません。一人ひとり誰もがオリジナルな出演者として、その役を担っていくのです。

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この図は、1ヶ月間の真学校の中で何度も出てきましたが、おさらいです。
「ある世界」即ち「カタ」の世界と、「ない世界」即ち「カム」の世界を、質的転換(ナ)しながら行ったり来たりしている状態を「カタカムナ」と言います。この図の緑色の矢印で表されているように、現代の物理・化学は、「カタ」の世界の「見える世界」の中だけに意識がある人工の世界です。そしてこの水色の矢印が、宗教です。物理・化学よりは「見えない世界」に意識を向けた自然循環の状態ですが、いずれも「カタ」の世界の中だけで意識が巡っています。それが、カタカムナの世界観になると、「見えない世界」のさらに奥にある「カム」の世界にまで意識を向けた、天然循環になります。
私たちが今学んでいる世界観というのは、6500年前より始まった近代の人類の文明にはなかったものです。それを、西暦2000年を越えた今、学んでいます。そのことを認識してください。
天然循環の認識を持つようになると、人間は地球生態系を超えて、宇宙観という世界観を持つようになります。しかし事実、ずっと昔から現在まで、そして未来も、私たちは宇宙に存在しているのです。やっとその認識を人類は持つようになったということです。
そして、カタカムナ物理学というのは、未だ極められてはいません。今やっと、その探求が始まったばかりです。それは、まだ使われていない人類の脳の90%を目覚めさせていく21世紀以降の人々につないでいくものであり、私たちはその先駆けだということです。大変光栄なことですね。

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この世界に、死はありません。
トキ軸がこのように横向きに進んでいます。そのトキ軸に沿い、ある時点で私たちは生まれます。そして人生を生きます。そして必ず死を迎えます。そうすると、また次に生まれてくるまで「死んでいる期間」に入ります。
生きている間は、魂のレベルの高いものも低いものも、いろんな生命が一緒になって現象世界を生きます。しかしこの「死んでいる期間」に入ると、意識レベルの違いによって分類されます。自らの意識レベルにふさわしい魂のグループに分類されるのです。そしていくらかの期間の後、またある時点で現象世界へと生まれてきます。この図の生死を表している波線は、トコロ軸です。図は二次元ですので波線に見えますが、実際はトキ軸に沿い、らせんを描いています。らせんを描いてトキの上を進みながら、生死をくり返していくのです。

図に、「魂の集合体A」とありますね。これは、意識レベルが同じ状態の魂のグループということです。その中から個に分かれたものが現象世界へと生まれ、人生を生き、死を迎えるとまたふさわしい魂のグループへと還っていきます。
もうひとつ、「魂の集合体B」がありますね。意識が高くなると、輪廻のサイクルから離脱して、世界を運営する側に立ちます。そのような魂のグループがあるのです。このレベルになると、もう現象世界に生まれてくることはなくなります。意識が高くなれば、人間として修業をすることも役割を果たすことも必要がなくなり、天体の運行を司るようになるのです。
ちなみに、現代の人間の「生きている期間」は、日本だと平均80年ですね。中国や台湾も同じようなものでしょうか。アフリカなどの国によっては、もっと短くなりますね。では、「死んでいる期間」はどのくらいだと思いますか?死んでいる間も、トキ軸は進んでいるのですよ。(1万年、数百年など思い思いの数字を受講生たちが答える。)差はありますが、だいたい200年です。何の根拠もありませんが、僕が「何年ですか」と天に問いかけたら「200」と降りてきたから、そう言っています。

「この子は誰々が亡くなった日に生まれたから、その人の生まれ変わりだ」ということを信じていた人がいましたが、それはそのように思いたい人間の思い込みです。人間は思い込むと、勝手にそのように見たがるのです。これは人間のカルマの汚れです。そこは冷静に観ていかなければなりません。その人は亡くなりましたが、あまり良い亡くなり方ではありませんでした。そういったことにのめり込みすぎると、死後も魂の世界で迷い続けることになります。
輪廻をすることは、健康になる元です。元の世界へと還っていくことで汚れをリセットするのですが、囚われが強いと現象世界の中でさまよい続けることになります。そして生まれてくることもできなくなります。先ほどもお話ししたように、魂が軽ければ天へ昇りますが、重くて地上に留まれば、天からまた降りてくることもできずにそこに留まったままになるのです。そうやって何百年も浮遊霊として地上にい続けるものもいます。人間は、そのように愚かなものにもなるということです。
人間が愚かなものになるのはなぜかと言うと、自我が原因でそうなるのです。人間であるということは、必ず自我が伴います。その自我が執着となった時に様々な問題を引き起こし、極限の執着になれば輪廻不能となります。それが極端になると、最終的には魂の再生への道へ進み、地中のマグマの中へ入ります。そしてマグマのエネルギーとなるでしょう。そういった方向へ進む魂たちは、天へ昇るのではなく、地へ堕ちていくのです。

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現代の人は、生きることに対して大きな勘違いをしています。お金と暇があれば好きなことができる。それを自由だと思っています。それが豊かさだと勘違いしています。しかし、お金があって暇があって、好き勝手なことをすると何が起きるでしょう?自我が膨らむのです。そして膨らんだ自我は、さらに好き勝手なことをするようになります。つまり、自らの汚れをどんどん固めていくのです。それを「自分らしい」と思っています。
自分らしく生きて、自分の思う通りの人生を歩む。それがいいことだと思っている人がたくさんいます。しかし実はそれは、自我の中に閉じ込められている状態です。価値観は、必ず対向発生しています。善と悪、陰と陽など、両者は対等なものですが、選ぶ方向を間違えれば災いの元となります。ですから、自らの心を磨き、バランスの良い客観的な目線を持つことが、その判断を正しくしてくれます。そしてその判断のバランスを欠けば、必ず人生は行き詰まるように、天はこの世界を創り、人々にその仕組みを与えたのです。
昨日こうたろうさんが、天はもっとまともな世界を創れば良かったのに、どうしてこんなにひどい世界を創ったのでしょうと質問をしてきました。こんなにも不完全な人間を創らなくとも、最初からきちんと法則に則った判断のできるものを創ればよかったのではないですか、と。これについては、今は解説しません。なぜなら、これは宇宙の精神を表すものだからです。これを解説すると、神の偉大さが理解できるでしょう。

『偏りから、つながることの大切さ(宿命)を学ぶようになっている』とあります。宿命というのは、私たちがつながるようにできています。単独で自らの都合だけで生きてはいけませんよ、という世界になっているのです。「自分勝手に生きてもいいじゃないか」と言っても、世の中があるからそういう我儘もできるわけです。空気が無しで生きていけるのか、太陽が無しで生きていけるのか。私たちが生きているということは、必ず他のものに生かされているということです。宇宙は常に対向発生です。他者と関わり、力を合わせることで宇宙が成り立っているのです。その物理性の根本が、愛なのです。
ところが地球上に、ヘンなものが現れました。そんなに歴史は古くありません。しかし、ものすごい勢いで繁殖し、この世界に大きな影響をもたらしています。それが人間の存在です。「自分が」「自分が」と言って、宇宙の仕組みを無視しているのです。
それでも長い宇宙の歴史から言えば、これもほんの一瞬のことです。今は、人間が自我の方向へ暴走したことにより、人間社会は行き詰まりをもらっています。しかし、天はそういった愚かしい人間の中から、賢い者たちを選抜し、次の時代への準備をしています。今、銀河の冬至を越え、冥王星の248年のサイクルが終焉を迎え、次の時代を担う人々が確実に生まれてきています。ということは、私たちは既に、希望ある時代へと足を踏み入れているのです。

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「死ぬことの大切さ」があります。私たちは、どのような形で死を迎えるのか。それは、どう生きたかの結果、与えられるものです。そして、生まれてきた真実の目的を達成したのかどうか。

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死ぬことの大切さがわかると、生きることの大切さがわかるようになります。生きることは、日々真剣勝負です。生きることが大切になるために、私たちは死ぬことの意味を理解するべきなのです。

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この図は、人間の目のように見えますね。図の左側に行くほどミクロの世界を表し、右側に行くほどマクロの世界を表します。私たち人間は中心にいて、そこから外れていくと、物理的には見えない世界になっていきます。そしてその両極に、宇宙最極小微粒子「カ」のミクロ宇宙と、大宇宙の成り立ちであるマクロ宇宙があります。どちらも肉眼では見えません。
しかし、人間が自らの囚われを外せば、物理的には見えないミクロ宇宙も、巨大なマクロ宇宙も、観ることができるようになります。自分という囚われを外せば、そこでは閃きが湧くようになります。そうなるために、肉の目から見えるものを客観的に捉え、その奥にある「客観背後」の視点を持つことが大切なのです。
私たちは生まれてから死ぬまで、人生をこの目によって確認します。しかし、生まれたところが始まりではありません。その前があったからこそ、生まれたのです。そして死を迎えた時に、そこが終わりでもありません。その先もずっと、物語は続いていくのです。そんな中、自我に囚われていては、肉の目に見えるものしか見えません。もしもその目に色がついていれば、フィルターがかかって見えてしまいます。だからこそ、正確にものを観るために、心磨きが大切なのです。

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この画面に出てくる段階はすべて、マクロの仕組みの中で生きています。私たちは、自らの中にミクロの世界を持ちながら、マクロの仕組みの中で生きているのです。

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「全て」とは、全宇宙です。霊的にもそうです。ですから人間が霊的に目覚めると、宇宙全体である大本の神様の存在を知ることになります。大本の神様を知ることは、実は懐かしいことなのですよ。なぜなら、そこが魂のふるさとなのですから。
宇宙にはもともと、何もなかったのです。八鏡文字で表されるように、すべてのエネルギーがかみ合っている世界では、飽和安定し、何も現象は起こらず、ただ響きがあっただけでした。その響きとは、神の響き(神の御心)です。神様は、何もなかった世界に闇をつくり、自身からもっとも遠いところへ投げました。その時に、この世界に時が生まれ、空間が生まれ、闇の中から遠くに見える光を目指して還っていく道の上に時空が生まれたのです。それがどんどん大きく膨らみ、試行錯誤の結果、現在のような現象世界となりました。そしてその膨らみがピークに達すると、今度は徐々に収縮が始まります。そして、いずれはまた、光だけの世界(何もない世界)へと収束するのです。
すべての生命は、この宇宙の仕組みの中にあります。ところが人間は、高い能力を持つが故に、「自分が」「自分が」と自己主張をして、自らの力だけで生きているのだと思っています。しかし、最終的にはすべてが光へと収束していくように、この世界の仕組みは本来、大本から多様性へと広がり、また大本へ還っていく一体なものなのですから、その仕組みの内で人間の能力を発達させていかなければ、矛盾が起きるのです。高い能力も使い方を間違えれば、今のような矛盾の多い世界をつくることになるのです。

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これは、仏教の法華経の教えです。法華というのは、蓮の花のことです。
「依」というのは人間以外の生命のことです。人間以外の生命は、宇宙の法から外れることはできません。「正」とは、ヒトのことです。能力の高さゆえに、宇宙の法から外れることができます。法から外れるということはエゴによって外れるわけですから、そのことを通して矛盾や痛みを体験し、正しい道を思い出すようになっています。この「依」と「正」は、不二一体で存在しています。私たち人間は、人間以外の生命世界と一体となって存在しているということです。そして、人間が正しいヒトとしての歩みをしなければ、人間以外の生命にも問題をもたらすことになるのです。
これはおよそ2000年前に成立した経典の教えです。その頃はまだ、今のように自然環境は破壊されてはいませんでした。それが近代になり、まさしくこの依正不二が問われる時が来ています。それは、人間が正しく生きれば、この世界が正しく運営されるという示しです。人間には、ヒトとしての、正しく生きる責任があるのです。

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講座の初めに語りましたが、このランキングのポイントは、「自分の心の位置は自分が一番知っている」ということです。
一口に地獄界といっても、その中にもさらにランキングがあります。人間界の中にもありますし、菩薩界の中にもあります。しかし最上階の仏界は、ひとつです。
自分は今どこにいるのか。いつも自分自身を観察できる目を持つことが大切です。感情や欲望に翻弄されるのではなく、いつも冷静な目で自分自身を観られる状態にするために、この図をいろいろなところに貼っておくといいですね。

仏界は天界とも言います。この「あってあるもの なきてなきもの」というのは、いさどん造語です。もしくは、神様造語です。なぜならあちらからそのように伝えられたからです。「あってあるもの なきてなきもの」とは、ひとつの魂のことです。「ある」存在でもり、「ない」存在でもある。神様がそのように言われたのです。私には名はないが、あえて私が何ものであるかを表すならば、私は「あってあるもの なきてなきもの」である。そう言われたのです。
(「あってあるもの なきてなきもの」との出会いについては、『木の花記~金神様の巻』をご覧ください。)

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これは、2000年前に成立した法華経に書かれている宇宙の仕組みです。宇宙は、誕生(成)、維持(住)、破壊(壊)、無(空)、そしてまた誕生、というプロセスを無限にくり返しており、その仕組みを「成住壊空(じょうじゅうえくう)」と言います。それをみかちゃんが図に表し、「蓮根宇宙」と名付けました。蓮根は見ての通り、いくつも連なっています。二次元で表すとこの図のようになりますが、実際はDNAと同じ、らせんです。陰陽がらせんを描きながら進んでいるのです。
蓮根でいうとつなぎめにあたるところが、「空」です。そしてこの「空」が潜象界です。図で見ればこの「空」は単なる点ですが、それは「ない世界」ですから、実は限りのない世界なのです。
私たちの銀河の歴史は、138億年です。銀河は、ある一点から、爆発して広がりました。それがビッグバンです。そして今も広がり続けています。「空」というある一点から、「有」が始まり、それが広がり、ピークを迎え、収縮していって再び「空」へと収まるのです。そして長い時を経て、また誕生します。
これは、私たちの人生も同じ仕組みです。誕生し、人生を生きていってピークを迎え、だんだん収束していき、死を迎えます。先ほど死の期間をおよそ200年とお伝えしましたが、200年が過ぎるとまた生まれてくるのです。ですから、宇宙の仕組みと同じですね。蓮の花は霊的にもとても大切な花ですが、泥の中にある蓮根もこんなことを表していたのですね。

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みかこ:
この矢印は、宇宙の根本に存在する大本の流れです。そこに、一定のリズムによって現象界を発生させるサイクルがあります。

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いさどん:
2000年に入ったということは、それまでの1000年記から価値観が大転換する新たな1000年記が始まるということを、これまで学んできました。これは地球上の歴史だけではなく、天体が示す大転換です。それが地球上の文明や時代の変化と一致しているということです。
中国の「天盤の巡り」では、もはや宗教の時代は終わりを迎えていることを伝えています。人々に悟りを与えないのが宗教です。代わりに御利益をうたうのです。21世紀からは、「白陽期」という庶民の目覚めの時代が始まります。それぞれが自らの内にある価値に目覚め、そして一人ひとりが悟りの道を歩む時代に入ったということです。これまでのように、何かに救済を求める必要はありません。救済を求めているようでは、自らの価値は高まりません。誰もが自我に翻弄されることなく、自らの価値を高め、自分自身を誇れる意識を持って生きる時代が始まったのです。
真学校でお伝えしていることは、皆さん一人ひとりが自分自身を価値あるものとして目覚め、自らの手で自分自身を育てていく人になるということです。その優れた情報が、あなたの肉体的DNAの中にも、霊的DNAの中にも入っています。それが、この真学校で皆さんに最も伝えたいことです。

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人間は、自我の願望を叶え、自我を膨らませていくことが自由で喜びのように思えますが、それが自らを汚し、不自由の中に自らを閉じ込めるのです。宗教のようなものに頼って救われようとすればするほど、自らの道を他者にゆだね、自分自身の価値を上げない者になるのです。これは、真理のカラクリで、宇宙の神様と人間のゲームのようなものです。
どうですか。お金があって物があって暇があり、好き勝手に生きられたらいいと思いますか?人はそのように自らの望みを安易に考えるものですが、それが本当に人として価値のあることであるかどうかを考えたら、それではいけないとわかるはずです。
物もお金も、必要な時に必要なだけあればいい。そして、与えられたものにふさわしい生き方をするべきです。タイのプミポン前国王は、そのことを「足るを知る経済」と表現しました。「足るを知る」とは、あれもこれもと無制限に求め続けるのではなく、ちょうど良い量に「ありがとう」と感謝して生きられる精神です。そして、経済的なことだけではなく、心も、自らの欲に翻弄されるのではなく、ちょうど良い欲の持ち方を身に付けて調整できる人になることです。

その「ちょうど良い」が理解できないと、「たくさんあればいい」という世界になります。そして、楽であることだけを良しとします。「楽」とは「楽しい」と書きます。楽しくなるには、そこに至るにふさわしい過程があり、その延長線上に「楽しい」がなければなりません。「ラク」をカタカムナでひも解くと、目には見えないエネルギーの存在の場(ラ)の自由(ク)となります。つまりそれは、思いの内容により、どこにでもあり、そしてどこにも見つからないものなのです。
ある時、「楽しい」を見つけたとします。そして毎日ずっとそれをやっていくとしましょう。今日は楽しい。今日も楽しい。今日も楽しい・・・のかな?いつの間にかいつもと一緒になり、「楽しい」が当たり前になって、楽しいものではなくなっていくのです。ですから、そこに至るプロセスの中に、「楽しい」がなければなりません。
私たちは、生きていく上で様々なものに出会いながら変化し、学習していきます。つまり、「楽しい」だけが目的ではないのです。その出来事との出会いのカラクリを、宇宙は、私たち一人ひとりにひも解くよう、与えてくれているのです。一方通行に楽になろうとすることは、自らを貶めることになるということに気付かなければなりません。

いさどんは、よく喋ります。では、ここでちょっと、仏像になってみましょうか。

(そう言っていさどんは仏像のまねをし、じっと黙りました。)

皆さん、仏像の表情を思い浮かべてください。仏像は、極めて冷静な表情の中に、喜怒哀楽を表しています。しかし、仏像はあまり親切ではありません。言葉を語るわけではありませんから。面白いのは、仏像が怒っているように見えたり、笑っているように見えたり、悲しく見えたりするのは、自らの心の現れです。自分の心が仏像を通して観えるのです。神社の鏡の示しと同じです。
いさどんは生身ですから、そういう意味では親切ですね。こうして皆さんに語りながら、ポイントの部分ではそれぞれ対象の人に「あなたに言っているんだよ」と伝えています。

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神様は僕に、「私の存在は、あってあるもの、なきてなきものである」と言われました。それはこの宇宙すべての仕組みのことです。まさしくここに書かれている物理性であり、精神性です。私たちはこのように、無限なる、とても豊かな世界に生きています。そして毎日その存在と、生きることを通して、対話しているのです。

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僕が今語っていることは、お釈迦様からいただいた智恵により、生まれてきています。お釈迦様は「ガンジスの河の砂のごとく、衆生はおる」と言われました。ガンジスの河の砂とは、数え切れないほどたくさんということです。それほどたくさんの人々が、この世界にはいるということです。そしてさらに、こう言われました。「そのすべてに、仏性あり」。仏性とは、仏になれるだけの性質を持っているということです。そしてここまでが、仏典に書かれているお釈迦様の言葉です。
お釈迦様は、僕にその続きの言葉を語られました。「ただし、その法のもとに生きた者だけに、仏性は現れる」。
経典には、すべての人々に仏性があると書かれ、その言葉通りに世の中の人々に教えが説かれてきました。しかし、未だに人々に仏性は現れていません。それどころか、仏教を説いているお坊さんたちにすら現れていません。お坊さんは戒律に縛られ、自由な宇宙の法のもとに生きることを忘れているのです。
すべての人々に仏性はありますが、それを悟り現象化した者にだけ仏性は現れるということを、お釈迦様は後で付け加えてくれました。そして皆さんは今、そのための学びをしているのです。

さらにお釈迦様は「仏の悟りは仏のためにあらず。仏の悟りは一切衆生のためにあり」と言われました。優れた者は、その優れた境地にいることが優れているのではありません。精神の高いものは、その高い精神を低い者に伝えることによって、価値が初めて立証されるのです。ですから、意識の高いものであればあるほど、世のため人のために、生涯が存在するのです。
多くの人々は、自分らしく、自分のために、好きなように生きることが大切だと思っています。そしてそうすることで得をしたように思っています。ところがそれはどんどん自我をふくらませることであり、人のためにならないどころか、自らの価値も下げているのです。これもカラクリですね。そこに引っかかってはいけません。神様はいつも、私たちにゲームを仕掛けています。「自らを手放し、私の意志のままに生きなさい」と神様はいつも私たちに示してくれています。そういった高い意識のもとに生きることが、私たちの存在が天と共にあり、神様の御心のままにあるということです。

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私たちが提供する学びのプログラムが「EDE(エコビレッジ・デザイン・エデュケーション)」から「1ヶ月間の真学校」へとリニューアルされ、こういったことを皆さんに提供していくことを始めたのは、今の時代には人々を導くための教えがたくさんありますが、そういったものが折り重なって、現状の行き詰った世界をつくっていることが事実だからです。人々は欲にまみれていますから、どこに行ったら自分が得をする教えがあるのだろう、どこに行ったら得をする人生が送れるのだろう、と、亡者のように損得勘定に翻弄されています。
いさどんは、今から37年前にこの生き方を始めました。それはとてもユニークな生き方ですが、一貫した道理が通っていました。その歩みの途中では、いったいこの道がどこに向かっているのかということは、わかりませんでした。そしてこれからも、現象としてはどのようなことが起きていくかはわかりません。
僕はかつて瞑想中に、自らの体を抜け出し、宇宙空間へ飛び出したことがあります。そして、地球の実態を宇宙から眺めました。その時に、人類が地球のガン細胞であることがわかり、人間の地上での在り様が間違っている、と気付きました。その時から、自分が地上で生きることのすべては、人類が地球のガン細胞でなくなり、人と地球が調和し、すべての生命に私たちが歓迎されるものになるためにある ──── そう思って生きてきました。
今、世の中は本当に先が見えない状態になっています。人々は教育を受け、賢い者にはなっています。しかしその賢さは、自らが得をするか損をするかという損得勘定に使われる賢さです。そしてその精神は、地球や宇宙に矛盾をもたらすのです。宇宙も、地球生態系も、損得勘定で動いてはいません。すべてがひとつらなりの命として、一体の世界を表現しているのです。それは、損得で表されるものではありません。優劣があるものでもありません。

皆さんには、この価値ある生き方に目覚め、一人ひとり自らを誇れる人生を生きてもらいたいと思います。あの、「仏界」から「無明界」までの心のランキングの図を見て、「この低い位置が自分だ」と思うのではなく、「今日はこんなに清らかな日を送れた」「これなら悔いなくいつでも旅立てる」と思える毎日を送る。それが、私たちがこの地球という学校に入学し、人生を通して学び、優秀な成績を取って卒業していくということです。
今日はちょうど、木の花の子どもたちの学校の卒業式です。皆さんも、いずれやって来る人生の卒業式に、「ありがとう!」と言って、希望を持って次の入学へ向かって旅立てるような日々を送ってください。

 

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21世紀の死生観・1~ 死は新たな旅の始まり

1ヶ月間の真学校の集大成とも言える講座「21世紀の死生観」。序章に続き、いよいよプレゼンテーションに入ります!

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いさどん:
『生まれてくることには目的があり、目的が終われば魂の本住の地へと還ってゆく』とあります。「還っていく」ということは、私たちの本来の住まいはそちらであるということです。
私たちは今、地上に生きています。それは、本来の地から、ある一定の期間だけ特別に降りてきているのです。何のためでしょう?それは、魂を磨き、優れたものとなるためです。しかしその磨き方を間違うと、中には汚れていくものもいます。汚れるとは、不要な思いがあるということです。そして、思いは、重い。ですから汚れるということは、重くなって、上へ上がれなくなるのです。あまりひどくなると、輪廻もできなくなります。

肉体を持ち、地上に降りると、たくさんの現象に出会います。その現象を通して、自分自身の心の垢が、たくさん見えてきます。性の講座で、性とは宇宙の根本原理であり、私たちの命を種としてつないでいく大切なものであるということを学びましたね。その性が、汚らしい、穢れた、おどろおどろしい世界にまで堕ちるのです。そういったことを、肉体を持つと、体験できるのです。
自らの魂の実態を知り、それを磨き、高めたいと思うものにとっては、肉体を持って様々な体験をすることのできる、この地球上での云わば体験ツアーは、とても大切なことです。そして誰もが、その目的のもとに生まれてきているのです。捉え方によっては、宇宙に無数にある星々を代表して、この地球という場所で魂を磨くための体験ツアーに参加していると言えるでしょう。
そうして一つひとつの魂が美しくなり、仕上がっていくと、いつか自らにふさわしいふるさとの星で、優れた魂として、その星を運営する側になる。そんな壮大なドラマも考えられるのです。

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私たちは生まれてくる時に、今までに成立させてきた過去の記憶を消されます。それは修行のためです。その理由がわかっていては、修行にならないからです。
私たちの本当のふるさとは、あちらにあります。簡単に言えば、私たちはもともと、宇宙の魂たちと同じ所属の存在であるということです。それが地球に降り立ち、人間として生きると、記憶を消されるのです。そして、生きることの本来の目的を見失い、迷いながら生きる者もいます。しかしいつかはその迷いを解いて、本住の地へと還っていくのです。
地球上の現実世界を見てみましょう。人間として生まれ、教育を受け、一生懸命勉強したとします。何のためにかというと、将来一流企業に勤めてお金をたくさん得るためです。そして土地を買い、家を買い、良い車に乗って、人生は大成功しました。物理的にやりたいことは何でもやれる。私の人生は満足だ ──── それが今の時代のステータスです。しかしそれを霊的な目で観れば、自我が膨らんだだけなのです。

我は、思いから湧いてきます。そして、重いものです。これは自分のもの、これも自分のもの、こんなにいっぱい大切なものがあると言って、たくさんの荷物を持っています。しかし、いずれ魂が自らのサイクルを終えて寿命を迎えれば、本住の地へ還らなければなりません。
死を迎えると、魂は肉体から離れ、質量がなくなります。ですから何も執着がなければ、スーッと上へ昇っていき、本住の地、天へと還るのです。ところが、思いというIMG_9708荷物を持っていると、重いですね。肉体を持っていると重くて上へは上がれないですね。ですから私たちは肉体を持って生きている限り、地上に居続けることになりますが、執着の強い思いを持っていると、肉体から離れても上へ上がることができないのです。
地上のことを、地の上と書きます。それは、地の国のことです。そしてそこで、思いが重く濁っていると、「地」の「国」に濁り(=濁点)が付いて「ヂゴク(=地獄)」になります。私たちは毎日を生きていく過程で、その体験をします。まだ寿命が来ておらず、結果も出ていないのに、すでに毎日地獄を生きている人もいるでしょう?
「クニ」をカタカムナでひも解くと、自由(ク)が定着したところ(ニ)という意味です。自由が定着したところというのは、現象をもらい、そこから学ぶことで、自我から解放されて、自由自在に変化できるということです。変化できるということは、囚われや執着がなく、常に人生の次へのステップを踏んでいく軽やかな生き方のことです。本当の「クニ」に生きるとは、地球の上でそのように生き、変化をくり返し、成長することです。そして、地球に生きる私たちの本当のふるさとは、天の国です。

「オモイ」をカタカムナで観てみましょう。
「オモイ」とは、モヤモヤと輪郭のはっきりしないもの(モ)が、六方向(前後・上下・左右)に拡大・収縮した(オ)位置(イ)、ということです。それが「オモイ」、つまり思いです。よくわからないものが拡大・収縮しながらそこに存在しているということです。どこか不安な感じですね。
それに対して「カルイ」という言葉があります。「オモイ」は重くなって沈んでいるという特別な状態を感じますが、「カルイ」をカタカムナでひも解くと、すべての現象化の根本エネルギーである宇宙最極小微粒子(カ)が継続をしている(ル)位置(イ)です。つまり、宇宙の一番元のエネルギーが、そのままの状態でい続けるということです。それは、もっとも純粋できれいな状態です。ですから、同じ「思い」でも、「オモイ」か「カルイ」かでまったく違うのです。
私たちは人生を歩む中で、それぞれの魂にふさわしい思いを持ちます。そしてその響きを発することで、それにふさわしい現象が起き、その現象が自らに返ってくることによって、自分自身が発した思いに出会うのです。ですから、人生が重いのか、軽いのかは、あなたの心次第です。

それでは、次のスライドを見てみましょう。

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木の花ファミリーでは、死ぬことを「出発(たびだち)」と言います。そして亡くなった人のことを、「出発人(たびだちびと)」と言います。これは木の花でつくった言葉です。お葬式のことは、「出発式(たびだちしき)」と言います。
一昨年の年末(約1年4ヶ月前)、メンバーのきょうこちゃんがガンで生死の境をさまよったことをきっかけに、自分はどのような出発を迎えたいかということを、メンバー一人ひとりにアンケート調査をすることになりました。数年前にも一度やっていますが、メンバーたちは、きょうこちゃんのお陰で死を身近に考えるようになり、改めてその機会を持ちました。

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一般的なお葬式は別れを悲しむものですが、木の花の出発式は、出発つ人が人生を終えた卒業式のようなものですから、祝福をする場です。亡くなった人の肉体は自然世界の循環の中へと出発ち、魂は元の本住の地へと還っていきます。

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多くの人は、死ぬことを人生の終わりと捉えます。この世界だけを見ていればそうなりますが、生死を超えた世界観で捉えれば、一区切りの人生が終わるということは、次の人生の始まりだということなのです。
その時に、肉体と魂の出発は別々です。私たちは、肉体と魂の縁によってこの世界に生まれてきます。生きている限り、肉体と魂は常にセットになっています。肉体は、宇宙が存在する限り、永遠に自然の中で循環し続けるものです。ですから、肉体に死はありません。
その常に循環し続ける肉体を、ひとつの生命として束ね、つなぎ止めているのが魂です。肉体の中に魂が入っている限り、肉体は新たな原料を常にこの世界から受け取りながら、古くなったものを排出してこの世界へ還していくという、循環の中にあり続けます。肉体は、毎日入れ代わっています。ですから、瞬間瞬間、生死をくり返しているとも言えるのです。
やがて生命としてのサイクルが終わり、魂が抜けると、それまで肉体を構成していた原料はその束縛から解き放たれて、自然世界へと還っていきます。そこでは、何もなくなるものはありません。宇宙の法則のままに、変化変容変態をくり返していくのです。
地上世界を生きるための縁が切れた、つまり寿命を迎えた魂は、肉体から離れ、それぞれの魂にふさわしい次元へと還っていきます。その魂が純粋で、軽いものであれば、本住の地へ還るでしょう。しかし、いろいろな執着や思いを持っていれば、重くなって、地上に留まることになります。その魂は地の国で汚れて生きることになり、地獄を生きることになるのです。

そういった生死の仕組みを理解した木の花ファミリーの人々に、自らの出発式はどのようにしてほしいかというアンケートを取りました。とても豊かな時間をみんなで楽しみました。私たちの魂の歩み(人生)は、宇宙の法に基づいています。しかし今の社会を生きる人々は、自らの概念によって様々な形で死を捉えているため、それぞれの個性を尊重するという意味で、メンバーの意識を調査しました。その結果、統一するべきものは統一し、個々の意志を尊重するべきものは尊重するということで、このアンケートを取ったのです。

これが、アンケートの具体的な内容です。

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このアンケートは、遺書です。②については、日本では、基本的に火葬をすることが前提になっています。僕の昔の希望は、死んだらそのまま畑に埋めて、その上に作物を作ったり果物の木を植えてみんなで食べるというものでしたが、耕していたら足が出てきたなんてことになったらまずいですから(笑)、とりあえず火葬をしてもらいます。
③は、その後にどのように出発人を祀るかについてです。それから④は、遺産についてです。遺産と言っても、基本的には木の花ファミリーは「自分のものはみんなのもの」という意識ですが、個々の人間関係によっては特殊な事情のある人もいますので、その場合はここに書いてもらいました。⑤については、ファミリーは基本的に全員出発式に参加しますが、その他に、この人は必ず呼んでほしいという人がいたら書いてください、ということです。
その下の治療方法についての部分は、寿命があるうちは病気になっても治りますが、寿命が尽きる時になる病気もあります。それを感じた時に、その治療方法をどうするか。例えば少しでも寿命を延ばすのか、それとも治療をせずに死を待つのかといったことについては、本人と周りの人々で協議をしていくということです。それから日本では臓器移植や検体も募集されていますから、そういったことについても本人とファミリーで死ぬ前に協議し、どうするかを決めます。

いさどんの考えでは、臓器提供は基本的にしません。なぜなら、人は生まれてきたら、充実した人生を送り、その先に潔く死を迎え、未練を残さずにサッと逝く。臓器移植に頼って生きることにすがるようなことはしてほしくないので、臓器提供はしないという考えです。
きょうこちゃんは寿命があったので、血液をたくさん輸血しました。同時に、彼女自身が元々持っていた血は、ほとんど外へ出てしまいました。僕はそれを、きょうこちゃんのガンを作った心が、血液と共に外に出てきれいになったのだと思っています。輸血でまた別の悪いものが入ってくる可能性もありますが、少なくとも、きょうこちゃんの場合は輸血が良い結果をもたらしたと観ています。
臓器提供を受ける前と受けた後で、人格が変わるという話も聞くことがあります。

なおやくん:
5年前に、心臓移植を受けたアメリカの黒人の少年のドキュメンタリーを観たことがあります。彼は心臓病で、移植を受ける前は家で本を読んでいるようなおとなしい少年でベジタリアンでしたが、移植を受けた後は活発になって外で遊ぶようになり、しかも肉食になったそうです。

いさどん:
私たちは、自分の魂にふさわしい肉体のパーツを持っています。その魂の汚れが臓器に反映されていたり、逆に美しい魂であれば臓器もまたそのように作られます。ですから、臓器移植を受ける場合にも当たりはずれがあるということも言えますね。人格を変えたければ、大量に輸血をしたり臓器移植をすれば変わるかもしれませんが、当たりはずれがありますからやめておいた方がいいでしょう。

木の花ファミリーでは、このアンケートをもって遺書とします。ですから亡くなった時にも、ここに書かれた本人の意志を尊重します。こんなものを用意していると、何だか楽しくないですか?書いてみたくなりませんか?(笑)ファミリーのみんなも、とても楽しんでいましたよ。そしてこれは、ずっと同じままとも限りません。年月が経つにつれて意志が変わっていく場合もあります。ですから5年に1回ほどアンケートを書き直す予定です。

では、現代社会の死の現状を見てみましょう。

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日本人の死因の第一位は、ガンです。そして若い人たちの死因の一位は、自殺です。興味深いですね。時代が変化していく時のつなぎ役となる天秤座世代(1971~1983年生まれ)と蠍座世代(1984年~1994年生まれ)の人々に、それが多く現れています。自殺する前は、ニートや引きこもり、うつ病であった人が多いということも、時代を表しています。これは冥王星が示す時代の周期と連動しているのです。

先ほどきょうこちゃんの血が入れ替わったという話をしましたが、体質が変わると、心が変わります。逆の観方をすると、ネガティブな人は、体質が悪くなるようなものを食べたり、病気になるような生活を好んでいるということです。お酒をたくさん飲み、ジャンクフードをたくさん食べて、元気な人もいますね。それはエネルギーが強いということですから、エネルギーがあるうちはそれでいいのですが、エネルギーが衰えた時に、その反動が一気にやって来ます。一方、「あそこが悪い」「ここが痛い」と四六時中病を抱えている人は、エネルギーを少しずつ消費しますから、意外と長生きをしたりするのです。
いずれにしても、それはどちらも良い人生とは言えません。大切なのは、そういったことをよく理解し、自らの精神状態と、そこから来る食生活や習慣をコントロールできる人であるということです。そうすれば、人は常に健全な状態で生きられます。

かなちゃん:
「病は気から」ということについて聞きたいです。私は真学校に来てからずっと風邪を引いているんですけど・・・

いさどん:
あなたの質問は、病というものをネガティブに捉えていますから、悪いことが起きているというように考えていますね。これまでも学んできましたが、病気というのは浄化作用でもあり、それまで自らが生きてきた結果を形で示してくれているのですから、チャンスでもあるのです。真学校で学んでいる間に熱を出す人がいますが、大人でも、新しいものが自分の中に入ってくると、知恵熱のように、それに適応するための症状が出たりするのですよ。「病は気から」と言いますが、病気にもネガティブなものもあればポジティブなものもあるということです。

むらちゃん:
そうか!「病は気から」というのはマイナスのイメージでしたけど、気には、プラスの気もあれば、マイナスの気もあるのですね。

いさどん:
病気は、時には治療することも必要ですが、病気を悪いものと決めつけると治療にばかり走るようになります。病気になったことの意味を探る心を、自らの中に持つことです。病気は、私たちに意地悪をするために起きるのではありません。目的を達成すれば、去っていくのです。そういった認識のもとに、病気と付き合っていってください。

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過半数の人が「ある日突然、心筋梗塞などで死ぬ」を選択していますが、何も心筋梗塞にならなくてもいいと思いませんか?心筋梗塞になるということは、体に欠陥ができるまで気付かずに、生きているということです。現代の人々はこういったことが主な死因になっているから、その死に方を選択肢として選んでいるだけのことで、それは良い死に方とは言えません。
私たちは、充実した人生を生きた結果、完熟して死を迎えるということを学んでいます。木の花ではそれを「ピンピンコロリ」と呼んでいます。死の間際までピンピン生きて、コロリと逝くということです。この場合の「ピンピン」とは、いつまでも二十歳でいるという意味ではありません。その年齢にふさわしい状態でいるということです。年を取ると肉体的には不具合が起きることもありますから、この場合は常に心がピンピンしているということです。
このアンケートの結果では、約3割の人が、「病気で多少寝込んでもいいから、少しずつ死に向かっていく」を選択しています。これも病気でじわじわ死んでいくわけですから、イメージとしては良くはありませんね。できれば最期まで健康でいたいものです。

死後の世界については、4割の人々が「ない」と答えています。これについて、考えてみましょう。
私たちは地球生態系の循環の中にいます。循環とは、回っているということです。それを真ん中で区切り、上の世界を見える世界、下の世界を見えない世界とします。見える世界を生き、見えない世界へ行って、また見える世界に帰ってくると、それは循環していると言えます。
もうすぐ、お昼になります。そうすると皆さんは、昼食を取りに行きますね。そして食べ物を見ます。その目に見える食べ物を食べると、それは体の中に入って、見えなくなります。そしてその見えなくなった食べ物のエネルギーは、私たちが動くために使われます。目に見えていた食べ物が、体の中へ入って見えなくなると、今度は形を変えて、エネルギーとして私たちの体の動きとなって現れるのです。その動きは、熱となって放出され、自然界へ還っていきます。もしくは汗となって自然界へ還ります。或いはトイレへ行けば、排泄物を出しますね。そこでは、体の中に入って見えなくなったものが、再び見えてきます。それも自然に還れば、分解されて散らばっていき、形を変えて、見えなくなります。
つまり、すべてのものは、見える状態、見えない状態、見える状態、見えない状態というように、ひとつの円の中をぐるぐると回っているのです。その円運動の中心にトキ軸が立ち、そのトキ軸に沿って進んでいくということは、円運動はらせん運動であることがわかります。

今は食べ物を例にしてお話ししましたが、私たちの命の仕組みも同じようになっています。自然生態系自体も、この生命ネットワークの中で輪廻しているのです。宇宙の構造は、トキ軸を中心としたらせん運動です。それはすべてが輪廻しているということです。
今、日本人全体の中で輪廻を信じている人は全体の約3割です。ところがなぜか若い人たちの間では、輪廻を信じている人が増えていますね。これは、時代が変わってきたということでしょう。
木の花では、単に想像で輪廻があるという話をしているのではありません。宇宙の構造や、地球生態系の構造など、私たちの毎日の生死の仕組みを、マクロからミクロまで観ていくことで、この世界は輪廻していることが自ずと観えてくるのです。

キリスト教では輪廻はないと言われています。しかし原始キリスト教では、輪廻思想があったのだそうです。ではなぜ輪廻思想がなくなったかというと、ローマカトリック教会が免罪符を発行するようになったからです。免罪符とは、どんな行いをしても、それを教会から購入すれば罰を免れるというものです。人々は何か悪いことをすると、そのことに対して神の前で懺悔します。その罪を免除するための札を作ったのが、免罪符の始まりです。それによって教会は莫大な資金を得るようになりました。宗教のもっとも罪の部分です。そしてその結果、輪廻思想との矛盾が生じました。悪いことをして魂を汚しても、お金を出して免罪符を買えば、きれいになれるというのです。免罪符とは、云わば天国への偽りの切符です。
しかし輪廻の仕組みの中では、人間が生きた結果、汚れていれば重くなり、天へは昇れません。きれいになれば軽くなって、自ずと元の場所(天界)へ還っていきますが、汚れが付いていればまた戻ってきて、もう一度きれいにしなければなりません。そのようにこの世界の実体は、どこを切り口に捉えても循環(輪廻)しているのです。
この仕組みは、大元の宇宙の法に基づいています。そしてその法則は、すべての事象に遍満し、現象化されているのです。ですから、私たちが常に日々出会う出来事を通して、生きること、死ぬことには、その法則がしっかりと反映されているのです。

免罪符によってカトリック教会は大変な財産を得て、輪廻という捉え方を抹消しました。そのようなひどい教えになったことで、後に宗教改革が起こります。そしてプロテスタントが誕生しました。
こういった、宗教がこれまでに行ってきたことを観ていくと、宗教がいかに人々を縛り、そして差別を生み出してきたかということが観えてきます。宗教は、優れた教祖がいて、そこに信者たちが群がるという関係をつくりました。聖人と呼ばれる人々は、その仕組みを利用して、支配の側にい続けるのです。それが組織となれば、階級が生まれます。そして信者たちは、免罪符を買ったり、教えに縛られていくのです。
宇宙の法が正しくこの地上に降ろされるようになれば、宗教はなくなることでしょう。しかし今は、そうではありません。宗教は、これを買えば幸せになりますよ、名前を変えれば幸せになりますよ、と言いますが、それで幸せになってはいけないのです。幸せを勝ちとるためには、幸せになるような人でなければならないのです。そして、幸せになるのにふさわしい生き方をした結果、幸せにならなければいけないのです。そうであればこそ、人々の人生に矛盾は発生しないのです。
この世界はすべて、その法則のもとにあります。ということは、それはどこででも実践できるということです。逆に言うと、ここでダメだったからと言ってどこか他の場所へ行けば良くなるのかと言ったら、そんなことはありません。その人の人間性が現象となって現れるのですから、不調和な自分自身を変えない限り、どこへ行っても不調和な人生を生き続けることになるのです。
宗教は、私のところが最高ですから、私のところへ来たらいい人生を生きられますよ、と言います。どの宗教もそうです。ここへ来たら救われますよと言いながら、互いに争っているのです。

誰も、一度死んでまた同じ世界に戻ってきた人はいません。テレビのリポーターのように、向こうの世界はこうでしたよ、と教えてくれる人はいないのです。
そこで、世界観を大きく広げてみましょう。私たちは生まれて、生きて、死にます。死ぬことによって、また生まれてきます。時は一方通行に流れており、そのトキ軸に沿って私たちは生まれ、後から生まれてくるものたちを迎えます。そして私たちが死んでいく時には、後から生まれてきたものたちが次を担います。それが宇宙の構造であり、私たちの体の仕組みもまた、同じなのです。

チェンフェイ:
霊と魂は、どう違いますか?

いさどん:
魂は、私たちを構成する一番の元にあります。これは、全体の種です。そしてその種をもとに、全体の設計図ができます。これが霊です。さらに、その設計図をもとに、ここまでが肉体の範囲だということを示す、見えない外枠ができます。これを幽体と言います。そしてその幽体に沿って物質的に表現されたのが、肉体です。

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肉体は幽体という輪郭に基づいて、現象化されています。ですから、例えば片腕を切り落としてなくしたとしても、元の輪郭である幽体は残って形成されています。そして、肉体がなくなって見えなくなり、幽体と霊体だけの状態で存在しているものを、幽霊と言います。
肉体は幽体に基づき、幽体の中に霊体があり、霊体の中に魂があります。ですから、チェンフェイの質問の「霊と魂はどう違うのか」ということについては、霊の中に魂が入っているのですから同じであるとも言えますが、種と設計図という捉え方をすれば、別物です。

この、種である魂と、設計図である霊体は、光でできています。光でできているのですから、それはもっとも理想的で、完璧な設計図です。ところが、この霊体と幽体の間に、カルマ(=業)が付くのです。それは太陽系で言えばちょうど、内惑星である火星と、外惑星である木星の間に、小惑星帯があるようなものです。そこにカルマが漂うのです。そしてそのカルマが、あなたらしさを表現するのです。
魂だけの状態になれば、本来誰もが美しいものです。では、自分を磨くとはどういうことでしょうか。それは、カルマを取り除くというよりも、カルマそのものを美しくしていくということです。例えばカルマを、石だとしましょう。その石の一つひとつは、とがっていたり、汚れていたりします。そこで、人生という洗濯機の中で、肉体までを含めた魂の入れものをガラガラと回してあげましょう。そうすると、カルマ同士がぶつかり合い、丸くなって、汚れがとれていきます。私たちはカルマを持って生まれ、人生という洗濯機の中でそれを洗い、自らを美しくしていくのです。人生は洗濯機、出来事は界面活性剤です。それで魂を磨くのです。

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ここは、とても大切な部分です。これまでの宗教は、人の心を安定させるためのものでした。それは、婚姻制度が地上に降ろされたのと同じようなものです。人々の欲望を放っておくと暴走してしまうので、その欲望を枠の中に収めるために、それが必要とされた時代があったのです。

しかし今、21世紀に入り、私たちは新たな時代への扉を開きました。これから求められるのは、人々を目覚めさせるものです。その目覚めとは、一人ひとりが個々の魂にふさわしく、オリジナルな役割を持っていることに目覚めるということです。それは、これまでの宗教のように、信者を既製品のようにして統率し、組織を運営するようなものとは違います。私たち一人ひとりがオリジナルに目覚め、自らがこの世界を担っているのだという意識のもとに、社会が健全に循環していくための役割を果たしていくということです。

それは、多種多様なものがそれぞれの役割を果たしながら、全体が調和しているという姿です。それがこの大宇宙の姿であり、銀河の姿であり、太陽系の姿であり、地球の姿なのです。その末端を担っている我々人間は、その仕組みを理解し、一人ひとりがその法則に則って目覚める時が来たということです。

 

「21世紀の死生観・2」へ続く〉

 


21世紀の死生観・序章 ~ 魂のランキング

1ヶ月間の真学校・第24日目。講座はいよいよ、この1ヶ月間の集大成とも言える「死生観」に入ります!

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いさどん:
おはようございます。皆さん、昨日と今日で、皆さんの中に変化を感じていますか?変化・変容・変態をくり返す宇宙を生きるとは、瞬間瞬間変化の連続を体験することです。そして、その変化の果てに訪れるのが、死ぬということです。
さて、今日のテーマは、死生観です。1ヶ月間の真学校には様々な講座がありますが、この死生観をもって、最終章です。

私たちは生まれて、生きて、死にます。「生まれる」ということに対して、私たちは選ぶことができません。気が付いたら生まれていました。では、生まれる前はどうだったのでしょう?ちょっと、生まれる前へ心を飛ばしてみましょう。

生まれるということは、生まれる理由があるはずです。私たちが生まれる目的は何なのか。そして、私たちが生まれてくる受け皿となる、この世界の意志はどうなのか。私たちが生まれる目的と、受け皿となるこの世界の意志が一致して、私たちは生まれてきているはずなのです。

さて、そのようにして、私たちはこの世界に生まれました。そこで、赤ちゃんは無垢なものであり、みんな同じように平等に生まれてくると言われますが、実際はそうではありません。生まれた国が違います。人種が違います。親が違います。親が違えば、その親の性格や家族構成も違いますし、お金持ちなのか貧乏なのかも違います。さらに、自分自身が持って生まれた魂の形が違います。お母さんの体から離れ、単独でこの世界を生き始めた瞬間の太陽系の惑星配置がそれぞれの人生を示している、ということも、この1ヶ月間を通して学んできました。
そうすると、赤ちゃんはみんな真っ白なキャンバスのような状態で生まれてきて平等に人生をスタートする、というわけではないですね。生まれてきたその瞬間から、自分だけのオリジナルな人生がスタートするのです。

生きるとは、自らの魂が生み出す「思い」を表現することです。思いは、それぞれの響きを持っています。私たちが生きて、思いを表現すると、その思いの響きがこの世界の何かしらに当たり、ふさわしい現象となって自らに返ってきます。自分がどのような響きを発するかによって、世界はその響きに正しく応え、ふさわしい出来事を与えてくれるのです。そうすると、人生で出会うすべての出来事は、自分自身を観ていると言えます。つまり、この世界は鏡なのです。

日本の神社には、神を祀る神殿があります。その中に、御神体があります。御神体とは「神の体」と書きます。御神体にはいろいろなものがありますが、多くは、鏡です。きれいに磨かれた鏡が、御神体として祀られています。
人々は神殿に赴き、神と対面します。その時に、鏡の中に、何が見えると思いますか? ──── そう、自分自身が見えますね。では、それをどう解釈しますか?
神殿へ行き、神と対面した。その御神体は、鏡だった。鏡に映っているのは、自分自身だった。ということは ──── 「ええっ!!神様って、自分なの!?」

受講生たち:
Yes!!

いさどん:
なるほど。自分が神である。それはひとつの理論として、正しいですね。私たちは、この世界の奥にある潜象界から、この世界を現象化するために質的転換をして生まれてきた宇宙最極小微粒子「カ」によってつくられています。潜象界から現象界へ、常に新鮮な「カ」が質的転換をしながら現れているのですよ。そして現象界へ現れた「カ」は、私たちすべての生命の魂の種となります。それは、命の種です。この種の段階を「命(ミコト)」と言います。ミコトとは種の状態ですから、肉体を持っていません。この状態を、神と言います。例えば、木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)、邇邇芸命(ニニギノミコト)などと神様のことを呼びますね。これは、肉体のない生命の状態です。それが、肉体という目に見える形を持つようになると、命の種だったものが芽吹き、育ち、命になります。その状態が今の私たちです。

やがてその命のサイクルが終わり、寿命が来ると、死を迎えます。その時に、魂は肉体を離れます。そうすると、それまで魂によってつなぎ止められていた肉体の構成物質は、その肉体の生命ネットワークから解き放たれ、現象世界の循環の中へと還っていきます。そして魂は、それぞれの意識レベルにふさわしい異次元宇宙へと還っていきます。異次元宇宙とは、地獄から天界まで幅広くあり、その中の自らに相応しい場所へと還るのです。

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生きている間に、自らの魂がどのレベルにいるのか。人間界にいるのか、菩薩界にいるのか、はたまた地獄を生きているのか。それによって、還っていく場所が変わります。その魂のレベルによっては、神と同一であるということが言えます。では、地獄のレベルにいるものを、神と言えるでしょうか。その魂の位置から言えば、神の域には達していません。私たちは、魂にはランキングがあるということを知るべきなのです。

生まれてきて、生きることは、命の仕組みです。それは宇宙の法則の中にあります。人生を生きるといろいろなことに出会いますが、その出会いは、自らの魂が何を発したかによって、それにふさわしい出来事が返ってきたということです。返ってきたものを見て、私たちは自分自身を知るのです。
その時に、返ってきたものを見て、これは私のものじゃない、誰か他の人のせいだ、世の中のせいだ、運が悪かったんだ、という人がいます。それでは、自分に都合の良いものが返ってくるように、お金で買いますか?そんなことはできませんね。それは、返ってきたものを自分のものとして受け取らないということです。

神社へ行くと、御神体として、鏡があります。鏡には、自分の姿が映ります。しかしそれは、神の姿ではありません。それは自分が映ったのです。
人生という旅の中では、常に、自らが発したものが自らに返ってくるようになっています。自らが注文したものが、あなたに届けられるのです。神社へ行って御神体と対面しても、そこで自分自身を見ることになります。鏡に映った自分自身の顔を見てください。どんな顔をしていますか?しかめっ面でしょうか。ニコニコしているでしょうか。そこに映った姿から、いろいろなものを感じるでしょう?私たちにとって人生とは、この世界という鏡に自らの姿を映し、それを観て、自らを悟るということなのです。

鏡に、自分の姿が映ります。その自分の姿に、汚れているところがあります。さて、どこでしょうか。

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「カガミ」の中心に、「ガ」がありますね。人生とは、世界という鏡に自らの姿を映し、返ってきたものの中に自分自身の「我」を見て、それを取っていくことです。ですから、神社には鏡が置いてあるのです。つまり、神殿に行って御神体と対面するということは、人生を生きることの意味を悟るということです。

ここでもうひとつ、お話ししたいことがあります。女性は、自らの体の中にもうひとつ、神殿を持っています。それは子宮です。子宮とは、「子の宮」と書きます。そこに魂が宿り、御神体として、産道(=参道)を通り、鳥居をくぐって、生まれてくるのです。それはとても美しい、神聖な物語です。
ところが現代の人々は、間違った認識の性により、その神殿を汚しています。神殿とは、人生そのものを表現する場です。そこにどのようなものを迎え入れて、何を育んでこの世界へ送り出すのか。それによってこの世界が創られていくのです。
性の交わりは、私たちが神社へ行ってお参りをするのと同じ、神聖なるものです。愚かな精神によって営まれる行いは、その神殿へ、汚物を迎え入れることにもなります。子宮という、命を生み出す神殿へ、どのようなものを迎え入れるのか。その神殿の管理人は、女性たち一人ひとりです。ですから女性は、とても重要な役割を担っているのです。

IMG_9797その神殿に宿った命は、十月十日(280日)の細胞分裂を経て、人として社会に生まれ出てきます。始めの細胞は、単細胞です。そこから複雑な細胞へと分裂し、やがて海に生息する魚類に進化します。ですから子宮の羊水は、古代海水と成分が同じと言われています。やがて魚類から陸へ上がって両生類となり、爬虫類へと進化します。爬虫類は鳥類と哺乳類へ分かれ、哺乳類の進化は猿へとつながっていきます。そして猿は猿人へ進化し、人類の祖先であるホモサピエンスとなっていくのです。
この受精から猿へ、猿から人へと変化していく過程は、約30億年の生命の進化の上に成り立っています。子宮の中でその進化の過程をたどり、人となった私たちは、最初に通った産道(=参道)を通り、鳥居をくぐって、人間社会へと旅立っていくのです。そして人生という世界の鏡を通して、自分自身を悟りながら、学び、成長していく旅が始まるのです。

「カガミ」の中に見える汚れは、自分自身の「ガ」です。では、その「ガ」を取り除くとどうなるでしょうか。そうすると、「カミ」とも言えますが、同時に「ガ」の濁点(=濁り)を取り除いて「カカミ」とも言えます。「カカミ」をカタカムナでひも解くと、宇宙最極小微粒子の「カ」が満つっている(ミ)状態だということです。この世界のすべての原料となるエネルギーは、「カ」です。「カ」がいたるところに遍満し、それがそれぞれにふさわしく満つり、多様性の世界が表現されているのです。魂のように目には見えないものも、肉体のように形があって見えるものも、すべて「カ」が満つったものです。
「カガミ」に映し出される姿は、その「カ」に濁りが付いて「ガ」となり、現象界に現れた自らの姿です。ですから、私たちすべての生命には、我があるということです。この世界の元である潜象界に存在する「カ」は、濁りも歪みもない、美しいこの世界の原料であり、エネルギーです。それが現象界に現れ、個性を持ち、様々なものとして現象化されたのが、この世界です。その世界の中で、時と共に、私たちは人生を歩んでいます。

私たちは人生をスタートした時点で、寿命を与えられています。人間としての平均的な寿命はありますが、実際は、今回の人生に対する契約がどれだけの長さであるかは一人ひとり違います。そしてその契約については、記憶を消されています。誰も、自分の寿命を知って生きている人はいません。先に答えを知ってしまっては、その手前の人生が狂ってしまうからです。狂うとは、先にものごとの結果を固定して、生を生きることになるということです。
現象界で生きるとは、時と共に旅をしているということです。そして時が進んだ分だけ、現象をいただくようになっています。つまり現象界を生きるとは、「今」との出会いの連続を生きているということです。今を生きることの連続が、生きているということなのです。
ところが、今を生きていない人々がいます。過去を振り返って悔やんでいる人もいれば、未来を考えて、まだ来てもいないのに物事を決めつけている人もいます。未来を自分の都合のいいように思うことも、やたらと不安に思うことも、まだ実際に起きていないことを決めつけて捉えているという意味で同じなのです。

人間以外の生き物は、今だけを生きています。しかし人間は、今を生きるのではなく、過去や未来に囚われて、現在を地獄として生きています。けれども、生きるということは、時と共に、瞬間瞬間を移動しているということです。アナログで表現すれば、カッ、カッ、カッ、カッ・・・・。デジタルで表現すれば、ピ────────・・・・。そのように、決して留まることなく、常に移動し、変化し続けているのです。そしてそれはどこかで必ず、終末点を迎えます。それは、出発点で約束してきた「寿命」というものに出会うということです。
寿命は、生まれる前に組んできたプログラムの中に入っています。時と共に生きる者には、それは知らされません。それを先に知らされたら、未来に囚われたり、過去に囚われたり、時を越えて思考してしまうようになり、生きる意味がなくなってしまうからです。
生きる意味とは、その瞬間、瞬間の「今」を生き、その瞬間に出会う出来事から、自らが発したものが何であるかを知って、学び、自らを変化変容させていくことです。そして寿命が来た時に、その寿命の終わりを悟り、生きている間にどれだけ学び、得られたかという結果と共に、次の次元へと向かうのです。そしてそこで、今世での学びの結果をもとに、次のサイクルへ入るためのプログラムを組みます。その時に、一人ひとり固有の寿命がプログラムされます。固有ですから、標準的な寿命の人もいれば、短い人も、長い人もいます。個々に存在する理由があるのですから、寿命の長さがそれぞれに違うのは当然のことです。そこで問われるのは、その寿命の間に展開される中身についてです。

生まれてくるということは、約束のもとにあります。生まれてから死ぬまでの間に私たちは様々なプロセスを通っていきますが、その中の3割ほどは、前もっての約束のもとにあります。まず、生まれますね。生まれたら、生の旅が始まります。やがて必ず、私たちは死にますね。これが人生の骨格です。これを避けて通ることは、誰もできません。
次に、生まれてくる時にどこを受け皿にするのか。日本に生まれるのか、中国に生まれるのか。そしてどの時代に生まれてくるのか。そういった人生の骨格の部分は、生まれた時点で決まっていますから、変えることはできません。
そのような条件の中で、いろいろな現象に出会いながら、自らの性質がどのように反応していくのか。その現象を通して学び、魂のレベルを上げていくものもいれば、まったく学ばずに生まれた時と同じ状態でい続けるものもいます。中には、下がっていくものもいます。上下するものもいます。そこについては、それぞれの魂の歩みに任されています。それが、私たちが生まれてから死ぬまでの間に与えられている自由です。

もう一度、カガミの話に戻りましょう。生きる本来の目的は、自らの我を取ることです。我を取っていくと、どんどん軽くなりますから、意識が高いところへと昇っていきます。そして、約束の寿命に到達します。その時に、生まれて生きて死ぬまでの、人生の結果が出ます。
人生とは、学校に入ったようなものです。死という卒業の時に、生きている時にどれだけ学んだかという成績表が出るのです。そして成績が良かろうが、悪かろうが、みんな卒業していくのです。その時に、たくさん学んでいい人生だったなと思うのか、まったく学ばず成長しなかったと思うのか、ひどい人生でさらに悪くなったと思うのか。それを採点するのは、誰か先生がいてやってくれるわけではありません。
皆さんは、心のランキングの図を見た時に、自分がどの位置にいるかということがすぐわかったでしょう?つまり、あなたは知っているのです。ですから私たちは、自らの死を迎えた時に、自己採点をするのです。

自己採点をすることは、とても重要です。もしも何か他のものに採点をしてもらったら、人間は「あの採点はおかしい」と言って、それを受け入れないかもしれません。人間は、ずるいものですね。しかし、自分で自分のことはよく知っています。自己採点をするからこそ、自らの人生を体験し、すべてを知っている自分自身には、ごまかすことはできないのです。
自己採点をし、今世を終わり、魂はふさわしい場所へと還っていきます。そしてまた、次の人生のプログラムを組みます。この世界と協議し、人生の様々な設定をして、寿命の契約をし、相応しい星の配置になるタイミングを狙って、3・・・2・・・1・・・オギャー!!と生まれてくる。そして、また新たなサイクルがスタートするのです。

今日のプレゼンテーションの表紙には、『目から鱗・21世紀の死生観』とあります。

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20世紀ではなく、21世紀です。21世紀に入り、30世紀に向けての1000年記の価値観がスタートしました。20世紀の延長線上に、21世紀があるのではありません。20世紀までの物質優先かつ男性主導の社会から、21世紀の扉を開け、30世紀に向けての新たな歩みが始まったということです。その世界では、物理性ではなく、精神性が優先され、男女が宇宙の原理にふさわしい対等の生き方をしていくための扉が開いたということです。それが、この1ヶ月間の真学校で学ぶ、最も重要なものです。
ですから、死生観も21世紀型でなくてはなりません。今の社会の現状を観ると、20世紀型の古い価値観は、どこでも行き詰っていることがわかります。それは、新しい時代の扉が開いたからです。しかし人々は、物質的豊かさの魅力に憑りつかれて、自らの欲望によって翻弄されています。まだまだ人間の世界では、精神性優先の価値観が本来のこの世界の大本であるということに気付けないのです。

しかし今、ここに集っている皆さんは、その古い20世紀型の価値観を越え、新たな価値観を求めているからこそ、縁が紡がれ、集いました。そして1ヶ月間の真学校を通して、世界観を広げ、宇宙の構造を学んできました。この死生観の講座では、生まれてくる前、そして死んでいった先の世界までに視野を広げ、私たちはなぜ生まれ、なぜ生き、なぜ死ぬのかを探求していきます。これは、この1ヶ月間の学びの、最終章です。

 

「21世紀の死生観・1」へ続く〉