27日目午前「心豊かに生きる」~後編

前編より ~

「心豊かに生きる」の時間も残すところ30分あまり。さて、みんなは共に階段の間を埋めていくことができるのでしょうか?!

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たえちゃん:
しゅうくんが素の自分を出した最初の段階と後の段階を今考えてみると、後の段階ではしゅうくんは意見を出すたびに「それで大丈夫かな?」とか「いいかな?」とみんなに確認していました。

いさどん:
それは、しゅうくんがみんなに配慮していたということですね。

たえちゃん:
そうです。

みかちゃん:
進化していった。

いさどん:
それはどのように進化していたのですか?

みかちゃん:
最初は相手の気持ちを考えないで独りよがりだった。それが今度は独りよがりだとわかったから、みんなと確認を取っていくようになった。

しゅうくん:
最初の頃は、自分が正しいと思ってみんなに言っていました。

いさどん:
ということは、最初はある意味押し付けるような感じだったということですね。

しゅうくん:
はい。それで自分が学んだ後では、自分が感じたことを情報として出すようにしました。

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いさどん:
それは、ひとつの意見として出していたということですね。

しゅうくん:
そうです。

みかちゃん:
それはすごく違うよね。

いさどん:
大分階段がかかってきましたね♪

みかちゃん:
みんなもそういったしゅうくんの違いは感じていましたか?

やすこちゃん:
真学校の最後のほうでは、しゅうくんはそれほど感情を乗せずに発言しているような印象を受けました。

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いさどん:
そうすると、そこでのしゅうくんの正直な発言は調和につながる発言になりますね。しゅうくんもみんなも、そこに至るのに大分時間がかかりましたね。

さて、この時間がかかったことに対して、もっと早く、極端なことを言えば瞬間にできる方法はないのでしょうか?

エリちゃん:
何かの結論をみんなで出す前に、みんなが自分を表現できたと感じる場を持つことが大切なのかどうか、今考えています。

いさどん:
それは自分たちの気持ちを出す場を先に持つということですか。

エリちゃん:
もし、自分の意志がまわりと違うのであれば、自分の一部を全体の調和に足すために、それを出していくということです。

いさどん:
それは何でも言える場を最初に設けるということですか。

エリちゃん:
何でもかどうかはわかりませんが、もしその場に共鳴しないのであればそれを表現するということです。今、わたしがここで言いたいのはしゅうくん一人がこの場の混乱に責任があるのではなく、少なくともわたしは、いさどんがみんなで場を創っていると話したことを理解しようとしているのです。だからわたしは今、トオマスが話したこととのギャップを埋めようとしています。みんなの心はしゅうくんが出したものをそれぞれ解釈しているので、もしみんなが自分を正直に表現していったら、そこには調和の場がもたらされるかもしれないのです。しかし、しゅうくんだけが自分を表現すれば、まわりの人たちはしゅうくんが押し付けがましいとか、怖いと解釈し、不調和が生まれるのです。だから、ここで質問なのですが、もし誰かがみんなをエーッと驚かせるようなことを出しても、みんなもそこから自分を出していけば、それは調和になるモデルとなるのでしょうか。

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いさどん:
それをわかりやすく解説すると、しゅうくんはここの中のひとりとしてここが良い場であるべきだという善意のもとに、それはあくまでも彼の価値観で素の自分を出したのです。エリちゃんはそれをみんなでやったほうがいいのではと考え、そのことによって正直な場ができて、その結果ここが少し混乱するかもしれないけれど、みんながこの場を良い場にしようとする心が共通していれば、最終的には調和の場になっていくということですね。

エリちゃん:
それがわたしが言いたかったことです!これは小さな仕組みだけではなく、大きな仕組み、たとえば家庭、教室、政府機関といった組織でもそうなのですが、みんながコミュニケーションをとるために話したり、意見が聞かれることを許さない仕組みであれば、わたしたちは調和に到達することはできないのです。なぜならそれは一部の声を聞くだけだからです。

トオマス:
エリちゃんが言ったことを聞いて思ったのは、もし僕が明快に客観的に聞いていなければ、他者の意図を聞くことはできないということです。そこでは自分自身の価値で聞くことになるからです。そうすると僕は、「それは違うよ!合わないよ!」と言うことになってしまうのです。それで他者の話を自己流に判断してしまうのです。それでは僕たちは現実に調和的な仕組みや目的を得ることはできません。だから、僕たちは他者を聞くときには明快で客観的である必要があるのです。そしてそれは自らの価値観を変えることになるかもしれないのです。

いさどん:
それは対象と寄り添うということですよね。さて、階段はどのくらい埋まったでしょうか(笑)?

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一人ひとりにはそれぞれオリジナルな事情があるので、ここで一律の共通認識を持つ必要はないと思います。しかし、明らかに一人ひとりはこの1ヶ月間を経て、変化していることは確かです。ここで何か完璧なものを得て、これからの人生をスタートしていくのではなく、自分の本当に出会い、その位置をスタート地点にして次へ進んでいけばいいのです。

1ヶ月間の学びを通してみなさんにお伝えしたかったことは、広い世界観を持つことによって、自分のキャパを広げ、世界に多様性を観て、いろいろなあり方を認めましょう、ということです。それは外に向かっての取り組みです。逆に内に対しては、自分の真実を知りましょう。それはあなたにとって受け入れがたいことでもあるかもしれません。多くの人は自らの幻想を見ているのです。そして「こういうふうに見られたい」「こういう人でありたい」と思って生きているのです。それが自分に対する囚われた感情です。ですから、感情をオーバーラップしていたら、本当の自分は観えません。そして感情をオーバーラップしていたら、外の世界も常に自分の感情を通して見ることになりますから、本当の世界を観ることはできません。そういったあなたに対して、常にこの世界はあなたの心の状態を忠実に反映した出来事を返してくれるのです。それがこの世界に生きることであると同時に、神様の意志であり、宇宙の法則なのです。

そこで、まず大切なことは、自分にとって印象が良かろうが悪かろうが、真実の自分と向き合う勇気を持つことです。それには努力が要ります。その勇気と努力の上に広い世界観がないと、ありとあらゆる可能性・多様性の中で真実の自分をより分けて、観ることはできません。まず内を観て、本当の自分と向き合い、それを認める。そして外を観て、あなた以外の多様性を認める。その中であなたが生まれてきた意味を存分に発揮するためには、この世界に存在する自分に与えられたピースを見つけるということです。そこにはあなたにしかできない役割があって、自分自身が充実した人生を送りながらこの世界の役割を果たすこともできるのです。

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今日はこの階段を埋めていくという話をしました。途中でトオマスが最終結論の話をしてくれましたが、それはすでに完成された境地の場が用意されていて、この世界に存在しているということです。しかし、今はこの段階にいるのですから、そこにはいきなり到達できないのです。ですから、わたしたちはその過程を踏んでいきながら、そこへ行くための道である階段を一段ずつ登っていかないといけないのです。そこに思惑や感情が入れば、その過程を飛び越えたくもなるのです。そこで、冷静に自らの感情にも他者の感情にも寄り添っていく必要があるのです。

そういった歩みの過程では、遠回りをすることもあります。無駄な時間を使って、エネルギーを無駄にすることもあります。それはなぜかというと、自らの感情がオーバーラップすることにより、本当の自分自身も相手も観ていないからです。

先程のしゅうくんの話に戻ると、ここに集った人たちはこの場を良くしようという善意でここにいました。しかし、多くの人が自分との違いを先に見るのです。それは自我が優先しているからです。つまり、自分の基準が優先しているのです。

日本では、「一を聞いたら十を知る」という言葉があります。カタカムナでいうと、ヒフミヨイムナヤコト(一二三四五六七八九十)のプロセスを経て熟知したヒト(一+十=十)は、人の完成された悟りの姿です。それは一から十までの道とも言えますが、ヒトは一と十であり、その間がありませんね。道がわからないものは一から十まですべてを歩まないといけないとも言えるのですが、ひとたびその仕組みがわかったものは、現れている現象の奥にその本質をすべて観ることができるのです。

そのときに、今の話の中では本質をどこに観ればいいのでしょうか?まず、そこに登場する人たち全員に善意があったのです。そして、善意を最初のベースにおいて物事を観たときに、お互いの善意の違いを理解し合えば、あとはつなげるだけなのです。それが「一を聞いたら十を知る」ということです。実は、途中の学びはヒトが完成されるといらなくなるのです。

それを違う言葉で表現すると、「阿吽(あうん)」です。日本の言葉には48音があり、「あいうえお かきくけこ・・・ん」で終わります。そうすると、「あ」と聞いたら「ん」と答える。それですべてがわかって、そこに調和が生まれるのです。これが宇宙の最終の実相です。そして人間にとって可能な最終到達地点です。わたちたちが目指すべき到達地点はそこなのです。

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ということで、階段の間が抜けていたのを一気に埋めていきましたが(笑)、みなさんにそれぞれの個性があるように、それぞれの心にふさわしくどこかが抜けているのかもしれません。みなさん、ヒトという完成されたものの道があることを理解してください。そして、みなさん一人ひとりにふさわしく、その抜けている道をこれから自分で埋めていき、ぜひ「ヒト」として完成された人生を生きてもらいたいと思います。この仕組みがわかったものは「ヒト」となり、「一を聞いて十を知る」ことになり、そして「阿吽」の世界を生きることになるのです。

では、時間を少し過ぎましたが、これにて1ヶ月間の真学校のすべてのプログラムを終了します。みなさん、ありがとうございました(みんな、拍手)。

いさどんに抱き着くトーマス
いさどんに抱き着くトーマス

――

 
この日の夜の大人会議では、今日のプログラムの時間についてシェアする場が持たれました。その中でトオマスは次のようにみんなにシェアしました。

 
トオマス:
こんばんは!

みんな:
こんばんは!!

トオマス:
今日の講座が終わったとき、僕はトイレの外でひそかにいさどんを待っていました(笑)♪

いさどん:
(拍手!!!!)

トオマス:
というのも、今日僕は「ようこ」になろうとしたのです!

いさどん:
僕がトイレから出たら、トオマスによく似たようこがいてね(笑)、どちらだか区別できませんでした(みんな、爆笑)。

トオマス:
僕は今、もっと繊細であるよう取り組んでいるところです。それでトイレから出てくるいさどんにタオルを差し出したのです♪

いさどんがトイレから出てきたとき、「最後の最後ですべてを料理できましたね」と伝えました。「ヒト」の境地に到達するのは山登りのようです。山の頂上が「ト」です。しかし、いったん「ト」に到達したら、また下に降りてくる必要があるのです。そして、他者と共にまた登っていくことが大切なのです。

この1ヶ月間の真学校は僕たちにとって心と向き合う練習の場であり、それは道場のようなものです。そしてこの世界は僕たちが実践していく場です。そこで僕たちは共に歩んでいくのです。

もし僕たちがこうした学びすべてを1ヶ月間の真学校の初日に知っていたら、それでは真学校は成立しませんでしたね。常にもうひとつの山があるように、常にもうひとつの真学校があるのです。だから、僕はまた次回ここに戻ってくるのを楽しみにしています!

いさどん:
今日の一番のメインイベントは、講座が終わった後に僕がトイレに入ってトイレから出てきたときの出来事です。以前、真学校の受講生には講座の中で話したことがあるのですが、僕はトイレに入るとき中にある手洗いを使わず、いつも流し台のところに行って手を洗います。流し台の前にはタオルがかけてあります。僕が手を洗って、そのタオルを取ろうとすると、すっとそのタオルが自動的に上がってくるのです!だから、僕はタオルを取るためにかがんで足を曲げる努力をしなくても、手をタオルのほうに向けただけで、タオルがちょうど良い高さに上がってくるのです。いつも「あれっ!」と思うと、そこにようこちゃんがいて、パッとタオルを上げてくれるのです。それはなぜかというと、たとえ足を曲げるにしろ、手を少し伸ばすにしろ、そのエネルギーをようこちゃんは僕に使わせないようにしているのです。僕のエネルギーを少しでも僕にしかできない役割に使ってもらうために、ようこちゃんはサポートしていると言うのです。この話はようこちゃんの心構えということで受講生のみんなにも以前話したことがあったのですが、今日トイレから出たら、タオルを胸の前で持ちながら両手で僕に差し出す人がいたのです!それで、「ようこだ!」と思ったのです(笑)。トオマスは流しのところではなく、トイレの入り口の前に立っていたのです。それから僕は流しへ行って手を洗い、トオマスが差し出してくれたタオルを使って手をふきました。そのときに話したのがさきほどトオマスが話してくれた話です。

しゅうくんの話は、彼が感情的だったときから、1ヶ月間の真学校を通して学んでいき、そこで自分のイメージが悪くなって振り返り、みんなに心を配るようになっていきました。しゅうくんは最初も素の自分を出してまわりを混乱させました。みんなも素の自分を出して、場を修正しようとしましたが、できませんでした。しかし結果として今日、最終的にしゅうくんが発言したことにより、みんなにもたらしたものはみんなの調和でした。

実は今日、僕は企んでいました。というのは、この1ヶ月を通してどうしてもここまでは語りたいということが自分の中にはあったのですが、全体の場がそこまで語る段階に至っていなかったのです。だから、実はとうとう語らずに終わりそうだと思っていました。そうしたら、今日の最終プログラムの中でしゅうくんが手を挙げ、自らの振り返りを語り始めました。そのとき、時間は1時間弱しか残っていませんでしたね。そして、みんなの考えを聞いていくうちに、僕はある映像を組み立てるイメージをしながらファシリテートしていました。途中でトオマスが一番上のトを語りました。最終到達地点を語ったのです。それはそのとおりなのですが、その間に階段がいるのです。階段がないのに、一番下の話から一番上までの話はつなげて理解できないからです。そうしたら、僕が誘導していくうちに、たえちゃんがその途中の階段をかけ、よしやんがかけたり、いろいろな人がその間を埋めていった結果、ヒからトまでの階段の十段が少しずつかかっていきました。

そのような中でエリちゃんから「みんなで自由に話せる場をつくったらいいのでは?」という話が出ました。それはそのとおりなのですが、みんなが自由に話せる場はなかなかできないのです。それはある意味仕上がった場所ですからね。それから、みんなが自由に話せる場所であっても、そこに共通した目的がないと、話がたくさん出て、時間がたくさんかかってしまうのです。コミュニケーションの学びの場では人が心を開いて何でも話せる場を創って対話していくことが大切だといわれるのですが、実はそこを超えた世界があることを、1ヶ月かけてみなさんに伝えたかったのです。

今日は講座の最終日だったのでそこまで到達したかったのです。途中では「今日はちょっと無理かな?」と思ったのですが、しゅうくんのシェアから最初の一が語られ、そのあとトオマスから十が語られ、途中が語られていく中で、いろいろな人がその間を埋めていきました。しかし実は、このように時間をかけて埋めていかなくても、たちどころに通じる心のあり方があるのです。

それが日本で言う「一を聞いて十を知る」です。最初、みんなの元にある心は善意でした。みんなが言葉の奥にある善意を互いに感じとれたら、自動的に互いの心がつながり、そこで信頼の場ができあがり、一から十の場ができるのです。そこに集ったということが一ですから、そしてみんなが善意だと確認できれば自動的に十になるのです。カタカムナで十は完成を示すのですから、みんなが善意であることが理解できれば、その場は心が完全にオープンで、駆け引きも何もない場になります。そこではみんなが正直に出していく場ですから、「あなたはどう?」「あなたは二段ね」「あなたは五段ね」「あなたは八段ね」とポンポンとはめていくと、たちどころに一から十が完成するのです。

しかし、今は一人ひとりの意志を聞いて、一段一段をはめる作業がいるのです。そこでは互いの善意が確認し合えていたら、細かい打ち合わせはいらなくなりますね。誰かが「あなたには一をやってもらいたいんだ」と言ったら、あなたは「これは最終的にはここにつながるんだね」と理解し、まわりにいる誰かが「それだったらわたしは二をできるわ」と言うようになっていき、それが「阿吽」の世界につながるのです。人の求める究極の世界は「阿吽」なのです。そうすると、その場では心の調整もいらなくなります。

この1ヶ月間の真学校を通して、そういった世界があるというところにまで僕はみんなをいざないたかったのです。そして今日、それに間に合ったと思ったときに、講座の後にトイレに入ってトイレから出たら、トオマスがようこちゃんをやっていたのです!以前僕がしたようこちゃんの話をトオマスは直観で感じ取り、タオルを僕に差し出していたのです。

トオマスは最初に十を語りましたが、それは正解なのです。それは、みんなが共通して北極星を持つことにつながるからです。しかし、トオマスはいつも北極星を先に語りますが、みんながまだそれを理解していないところで北極星の話をしても、それでは意味がありません。それで、トオマスが僕にタオルを差し出した後に話したのは、登山をして頂上に到達したものはそれだけの価値を知っているのだから、逆にこれから登山するものにその道を示すことができるのです。そうすると、頂上に到達した後、また降りてきて、一から行くものに寄り添っていくと、ヒフミヨイムナヤコトの道を他者にいざなうことができるのです。トオマスもこれからそのように生きていけるといいね、と伝えました。

それで今日は無理かなと思っていた話が、そこで完成したのです!僕がこの1ヶ月間、みなさんに伝えたかったことが最後の最後で語れました。僕はとても満足しています。

トオマス:
しゅうくんと僕が一緒に歩いたら、「ヒト」になりますね♪
※トオマスは、ヒール(かかと)とトゥ(つま先)を交互に「ヒ」「ト」「ヒ」「ト」と動かしました。(みんな、笑)

僕は今、いさどんのようですか(笑)?

いさどん:
(OKとジェスチャー♪)

トオマス:
僕は子どもの頃、取り扱い説明書を読むのが嫌だったので、「僕は何でも知っているよ」と思って、バイクを組み立てるときでも何でも、途中のプロセスを抜かしてきました。

いさどん:
だから、壊してきたのでしょう(笑)。

トオマス:
そのとおりです!それで最終的には自分自身に怒って、最初のステップに戻って適切なる方法でやり直さないといけなかったのです。だから今は、すべてのプロセスが大切なのだと本当に感じています(みんな、大拍手♪)

 

 


27日目午前「心豊かに生きる」~前編

1ヶ月間の真学校、最後の講座となる「心豊かに生きる」というプログラムの中で、受講生ひとりひとりがこの1ヶ月間を振り返る時間が持たれました。その中で、受講生のしゅうくんは以下のようにこの1ヶ月間を振り返りました。

しゅうくん
しゅうくん

しゅうくん:
僕は1ヶ月間の真学校を受ける前はここでヘルパー滞在をしていたのですが、この1ヶ月間はそのときとは違い、常に生活を共にしている仲間との間で自分の癖がたくさん出て、こんなにも僕はまわりをひどい状況にさせるのだと自分の影響力の大きさに気付かされました。こうやって僕は不調和を起こしていくのだと知ることができました。この1ヶ月間、日記で自分のことを振り返りながら、なんとなく自分のことはわかっていましたが、その状態がそもそも囚われていたことにやっと気付いたところです。わかっていたけれど、やってこなかったことが今、わかったところです。
これから自分がどのように生きていくのかをここ数日間考えていたのですが、自分としっかりと向き合っていくのだと感じています。自分の中では気になることがたくさんあって、自分が大きなことで悩んでいるのならまだいいのですが、自分自身が嫌だからとか、そういった狭い世界観の中で僕は悩んでいるのです。だから、そこから離れて世界観を広げていくことを、これから謙虚に素直に取り組んでいきます。僕は今まで本当に傲慢だったと思っています。今は素の自分を出していることで、少し楽になっています。

いさどん:
ひとつ質問があります。これまでは自分の癖をそのまま出してきて、それはある意味、素の自分を出してきたということですよね。

しゅうくん:
はい。

いさどん:
そこは反省しているのですよね。

しゅうくん:
はい。

いさどん:
反省した結果、今話していることは、ある意味これからも素の自分を出していくという結論に至ったのですよね。

しゅうくん:
素の自分を出していく・・・それは、自分自身で素の自分を認めて、それをコントロールしていくということです。

いさどん:
もう一度言いますね。結局、しゅうくんがやってきたことは自分の癖をよく理解せず、癖のままに表現してきて、素の自分を出したことがこんなにも全体に大きな影響を与えているのだと学んだのです。その結果、結論はやはり素の自分を出していくことなのだと言っていましたね。それは矛盾だと言っているのではありません。その最初の素の自分を出したことと、後で気が付いて素の自分を出そうという結論に至ったこととでは、一体何が違うのでしょうか。

問題の元となった素の自分と、学んだ後に素の自分を出すことによって「これで行こう!」と感じている素の自分との違いは、一体何なのでしょうか?

みかちゃん:
それはこの前一緒にご飯を食べていたときに話したよね。癖のままに出す素の自分と、客観目線も入れた上で出す素の自分の違いについて混乱している人が多いから、正直を出すことがいいことなのかどうなのか。正直を出したらそれでいいのか、という話をしたね。

しゅうくん:
そうそう!でも、それをどのように説明したらいいのか・・・。

いさどん:
どちらも同じ素の自分ですからね。これはとても重要なポイントなのですが、今の世の中もある意味みんな、素の自分を出しているのです。その結果、社会は今のような状況に至り、行き詰っているのです。しかし、自分らしく正直に生きることによって、これは解決できると思うのです。ですから、今までの正直に出していたことと、その後の正直の違いをわかる必要があるのです。「このように素の自分を出していけばいいのだ!」と理解できると、次のステージへ力強く進んでいくことができます。さあ、みなさん、考えてください!

よしやん:
そのふたつは同時にいるんじゃないかな?自分の好きな自分と自分の嫌いな自分の両方が混在している。

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いさどん:
混在しているのはわかりますが、自分の好きな自分というのもそれは自分基準になっている場合が多いのです。これはポイントですよ♪自分の心地良い自分を素に表現したときに、それがまわりにとって良いかどうかはわかりません。それこそが独りよがりですからね。

たえちゃん:
客観視点を持って自分を観て、まわりを把握して、自分を出していく。

いさどん:
それは最終目標ですね。自分を入れた大きな枠の中で自分を観て、全体を把握した状態で自分を表現することは最終目標です。今、ここで質問していることは、最初に素の自分を出したときに不調和をもたらしたしゅうくんがいました。その素の自分はある意味問題だったのです。しかし、そういったことも学んだ上で、最終的にしゅうくんはやはり素の自分を出していくことが大切なのだという結論に至ったのです。それは正解だと思います。以前の不調和をもたらした素の自分と「やはり素の自分を出していくべきなのだ!」というポジティブに解釈できる素の自分の違いは、一体何なのでしょうか?

たえちゃん:
最初の素の自分は感情が伴っていて、感情をコントロールしていない素の自分。

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いさどん:
それは全体に何をもたらしましたか?

のぶくん:
しゅうくんの感情の痛みだと思います。

いさどん:
いや、しゅうくんはまわりに何をもたらしましたか?

のぶくん:
まわりに不調和をもたらしたことで、しゅうくんが傷ついて、そこで学んだということではないでしょうか?

いさどん:
それはしゅうくんが学んだのですか?

のぶくん:
そうです。

いさどん:
そうすると、まわりはどうだったのですか?

のぶくん:
まわりも学んで、しゅうくんも学びました。

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いさどん:
ということは、しゅうくんが感情をコントロールしないで出した結果、まわりもしゅうくんも学んだとしたら、それは悪いことではありませんね?しかし、その状態だと学びは学びでも、良くない見本として、つまり教訓としての学びになりますね。その教訓を超えていくときに、やはり素の自分を出さないといけないとしゅうくんは言いましたね?僕もそうだと思うのです。そこで、振り返る前と後とでは何が違うのか?場を乱すような素の自分を出し続けることと、振り返った後の素の自分を出すこととは違いますよね?

しゅうくん:
感覚ではわかるのですが・・・

いさどん:
言葉にならないということですね。

しゅうくん:
はい。

いさどん:
あなたは以前の素の自分を出したときの体験と、その後に「やはり素の自分を出すべきだ」という体験の両方をしたのですよね。その感覚の違いを言葉にしてみたらどうですか?

しゅうくん:
以前はとても苦しかったです!まわりに自分の感情をバーッと出したときにはみんなとの距離をとても感じました。それで自分もどんどん苦しくなっていって、孤独になりたかったし、そうするとまたどんどん自分が辛くなっていくと思って、「これではまずい!」と思って切り替えたのです。

いさどん:
そのときに、まわりを混乱させようと思って、やっていたわけではありませんね?

しゅうくん:
はい。

いさどん:
感情のままに出したとき、何が目的だったのですか?

しゅうくん:
・・・これといった目的はなかったのですが・・・。

いさどん:
ただ言いたいことを言っただけですか?僕はあなたのしていたことを把握していますよ。

たえちゃん:
しゅうくんが感情を出してコントロールしていないときにわたしが感じたことは、「俺はこんなに一生懸命やっているのに、なんでみんなわからないんだ!」というような空気を感じました。

いさどん:
すばらしい!しゅうくんの心はそれですよ♪その背景として、しゅうくんの想いには何があるのですか?

よしやん:
自己嫌悪?

いさどん:
そうですか??

よこなおちゃん:
認めてほしい心。

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いさどん:
そうですか???

たえちゃん:
「俺の言うとおりにしろよ」とか??

いさどん:
そこで、なぜみんなは言うとおりにする必要があるのですか?みんなが言うとおりにした結果から、しゅうくんは何を求めているのですか?

たえちゃん:
自分の成功??

いさどん:
ここでしゅうくんは自分の成功を望んでいますか?当事者であるしゅうくんはどうですか?少なくとも、正解はあなたの中にあるのですよ!これがあなたから出てこないとしたら、自分の感情に対してそれを認識せず、感情のままに出しているということです。しかし、その感情が湧き出てきた元にあなたの意志があるはずなのです。その意志がもう一度何だったのかを確認できるといいですね。

今すぐ出てこないようなので、僕が少し誘導しますが、しゅうくんは最初に力強く想いを出して、素の自分を出した結果、ここを混乱させたと自分で認識しているのですよね?

しゅうくん:
はい。

いさどん:
しかし、混乱させようと思って出しましたか?

のぶくん:
混乱させたいという気持ちもあったと思います。

いさどん:
しゅうくんに混乱させたいという気持ちがありましたか?それは彼の意志ですか?もしかしたら、自分の気持ちを重ねていませんか?

のぶくん:
もちろんそうです。自分視点でしかしゅうくんを捉えられないので、そう言っています。

いさどん:
本当はそこを卒業するといいのですよ。この場所はしゅうくんに寄り添ってみんなで考えることが大切なのです。そこを自分視点でしか捉えられないところに、のぶくんの課題があります。あなたの中には人が同じような共通点を持っていると安心する心があるのです。そこで、あなたの感情はより強く動きます。しかし、今はあなたの感情は抜きにして、しゅうくんの感情について振り返る必要があるのです。

のぶくん:
どうやって振り返るのですか?

いさどん:
そこは本人に聞くということです。自分から見て決め付けるのではなく、本人に聞くのが大切なのです。

のぶくん:
でも、本人でもわかっていない気持ちはありますよね?

いさどん:
それを誘導して紐解いていくのが人のために寄り添うということです。今この時間は、みんなでしゅうくんの気持ちに寄り添おうとしているのです。ですから、そこで自分の感情をオーバーラップさせては、真実は観えてきません。

さて、しゅうくんははじめに強い意志で素の自分を出しました。そうしたら、場が混乱しました。しゅうくんはその混乱を見て、自分が素を出すとまわりを混乱させるのだと気付き、それでは自分に対する印象がよくなかったので自分に対して落ち込んだのです。そのしゅうくんがはじめに自分の意向をよく考えないでそのままストレートに出した心の元は、この場に混乱をもたらそうと思ってやったかどうか?それはどういう心でやったのでしょうか?本当は本人に聞いているのですが、本人がその答えを出せないので、みんなで探っていきましょう。

りょうこちゃん:
みんなとつながりたいから。

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いさどん:
しゅうくんはみんなとつながりたいのですよね?

しゅうくん:
はい。

いさどん:
つながりたい目的は何ですか?

しゅうくん:
より良い世界を創りたい。

いさどん:
そうです!しゅうくんはより良い場を創りたかったのです。しゅうくんはこの場がまとまっていないと彼流に感じたので、この場を良い場所にして、みんなとつながっていきたいと思ったのです。そしてそれを実行したのです。それは悪いことですか?

しゅうくん:
悪くはないです。

いさどん:
しかし、悪い印象しか残っていませんね?

しゅうくん:
はい。まわりから、僕がいらいらしているとか怒っているというフィードバックをもらったので。

いさどん:
しゅうくんが全体に投げかけた意向は、善意ですよね。そのことについてみんながクレームを言ったのは、悪意ですか?

しゅうくん:
悪意ではなかったです。

いさどん:
しゅうくんは全体を良くするために投げかけたのですが、そのことによってこの場が乱れたので、みんなもこの場を良くするために自分の想いを出したのですよね?ここで少し僕がファシリテートしますが、しゅうくんも善意で出した。みんなもそのことによって善意で出した。しかし、当初ここには何が起きたのですか?不調和が起きましたね。みんなは善意で出しているのに、不調和が起きたのです。ということは、ここで何を観るべきなのでしょうか?何を観たら不調和ではない世界が観えてくるのでしょうか?

これはテストを受けているようですね(みんな、笑)。

かずえちゃん:
彼が出した奥の客観背後を観る。

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いさどん:
ハッハッハ。それはまたハイレベルなことを言いましたね(笑)。

かずえちゃん:
その奥にある真意を観たいと今思いました。

いさどん:
そうすると、その奥にあるしゅうくんの真意、みんなの真意を観たら、何が観えてきますか?

たえちゃん:
みんなと調和したい心。

いさどん:
そうです!そこにはみんなと調和したい善意の心しかありませんよね。そこだけを観ていけば、いつでも善意の場ができるのです。しかし、その奥にある善意を観るに至らないと、善意の場にならないし、調和にならないのだと僕は思うのです。

さて、一番重要なところへ来ましたね!しゅうくんが感情的だったことを何気なく振り返ったことから、今わたしたちはとても大切なところへ来ています。少なくとも、しゅうくんが出した不調和は彼の善意から出たこと、さらにその不調和が起きたことに対してみんなはそれを改善しようとして善意から投げかけたのです。しかし、結果としては不調和の場ができました。そこで、みんなの元の心を観たら、すべて善意でした。善意だけだったら、問題はないはずですよね?

よしやん:
その善意を押し付けがましく感じる?善意だけど、悪意の善意?ちゃうなあ(笑)。

いさどん:
えっ!悪意の善意があるのですか??

よしやん:
善意でいても相手がうっとくるということは、善意の押し付け的な感情を感じて、こちらも感情が出てしまう。

いさどん:
それは受ける側の理論ですね。被害的に受けていると、「あなたの善意は悪意が混じっている!」という話になってしまうのです。そうではなく、一番元の心が善意であるということは、善意でしかないのです。しかし、なぜそこで不調和が生まれるのか、考えてみましょう。

トオマス:
僕に思い浮かんだイメージを伝えますね。ここの場のように僕たちが輪になっているとします。それで僕たちはみんな、織物をつくるための糸を1本ずつ持っているとします。僕たちはそれぞれ意図を持っています。しかし、僕たちがその意図を解釈するときには、僕たちはその場に感情をもたらします。そして他の人もみんな互いの意図を解釈し始めます。だから、「これはそういう意図ではなかったから、変えてみよう」ということになるのです。そこで僕たちが自分自身の中でゆるぎないものとなって、確固たる意図を持ったときに初めて、それはその場に反映され始めるのです。だから、僕たちが自分自身の中でゆるぎないものとなると、僕たちは柱になるのです。僕たちは他者にとっての柱にもなれるのです。僕たちが揺れ動くことがなければ、僕たちは状況を変える必要はありません。僕たちは自分たちの意図に対してただ確固たる必要があるだけです。そして、僕たちはありのままの姿で紡がれた調和をその場に観ることができるのです。

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いさどん:
トオマスは最終結論を言ってくれました(笑)!今、トオマスは最終結論の十のところの話をしてくれたのですが、どうもこの場はまだ二か三にいて、これからその先に行くところです(笑)。大分間が抜けていますね。これからそこを埋める必要があります。

たえちゃん:
しゅうくんが感情とともに、善意で素の自分を出したときに、みんながそれをどのように感じるのかをしゅうくんは考えていなかった。

いさどん:
それを解説すると、しゅうくんの最初の素の心はこの場を良くしたいという心で出したのですが、その強い想いはみんなのことを考えないで、しゅうくんの自分の想いだけを出したのです。しかしそこで考えなければいけないことは、彼は善意でこの場のためにやっていたということです。そのときに、善意であっても、この場に不調和の種が蒔かれたということです。

かずえちゃん:
それはまわりへの配慮がなかったということですか?

いさどん:
そうとも言えますし、逆に捉えると、まわりに配慮がなかったということはしゅうくんの姿勢はどうだったということですか?

たえちゃん:
自分よがりだった。

いさどん:
そうですね。

トオマス:
僕のしゅうくんとの体験をシェアすると、僕はしゅうくんの誠実さを感じてきました。僕たちがお誕生日会や修了パーティの練習をしているときや部屋にいるとき、またお風呂にいるときでも、しゅうくんは本当に何かポジティブなことをシェアしたいのだと感じていました。同時に、しゅうくんから不安定さも感じています。だから、しゅうくんは外に気持ちを出しても、それがどのように受け取られるのかわからず、みんながそれをどのように思うのかを知る前に修正してしまうようなところがあるのです。
それから、僕がただ「ありがとう!」と感じているときでも、しゅうくんは僕がそれをポジティブに感じていることを知らなかったこともあります。僕たちは同じ言語を話しませんが、僕は「それはいいね!」と伝えたいだけなのです。たとえばお風呂場での出来事でも、「僕はそれを知らなかったから、教えてくれてありがとう!」と伝えたかっただけなのです。しかし、しゅうくんはそのとき僕に対して感情的だったことを感じました。もしくは、しゅうくんはしゅうくん自身に対して動揺していたのかもしれません。だから、しゅうくんの最初の意図は人の役に立つものであったのに、そのように事は成らなかったということです。しかし、しゅうくんにはポジティブな意図があったことを僕はわかっていたので、僕たちが話し合えば、僕にはしゅうくんの意図していたことがわかるのです。そのようにして、僕たちは一緒にギャップを埋めることができました。

いさどん:
トオマスは大分上から降りてきて、僕たちがわかる言語のレベルになってきましたね(みんな、爆笑)。

トオマス:
はい!今は五まで来ましたか(笑)?

いさどん:
まだ大分間が空いていますから、このプログラムの時間が終わるまでにそれを埋める作業をしたいと思っています。もう一度話を整理すると、しゅうくんはこの場を良くしたいという強い意気込みで、正直な自分を出しました。その元の心は善意です。しかし、まわりの人たちは彼が独りよがりの方針を出したことによって、それを受け取れないがためにここに混乱が起きたのです。それに対してまわりの人たちは、その混乱を修正し全体の場を良くするために、善意でしゅうくんに投げかけたのです。しかし、そのときにまわりの人たちはしゅうくんを問題児として受け取っていたのかもしれませんね。問題児だと感じていたからこそ、しゅうくんも含めてこの場を健全にするために投げかけたのかもしれません。

そして今トオマスが、しゅうくんは誠実な人で、彼は善意のもとにいることをシェアしてくれました。しかし、実際にはここに混乱が起きたのです。だからその混乱を観て、しゅうくんは自分の起こしたこととして振り返って落ち込んでいたのです。それから事がいろいろと成っていった結果、彼はそれを学習し、「やはり素の正直な自分を出すべきだ!」という結論に至ったのです。

全体に混乱をもたらした最初の素の自分も善意であり、後からそれを学び修正して「やはり素の自分を出すべきだ!」というしゅうくんの結論も善意なのです。この違いを埋めていくと、この階段がすべて埋まると思うのですが、いかがでしょうか?

 

後編に続く~

 

 


23日目午後「愛とお米があればいい」

 この日は、いさどんとみかちゃんによる講座としては最後の、「愛とお米があればいい」でした。これは木の花楽団の歌のタイトルからとっていて、歌詞にも深い意味があります。

2016真学校「愛とお米があればいい」

その歌詞をもとにして話は進み、ここ木の花ファミリーで、最も大切にしている「心磨き」の話になりました。

2016真学校「愛とお米があればいい心磨き」
いさどん:
自我を表現することで痛みや学びをもらうということは、人は生きることによって出会う問題事や痛みを受けると、その苦痛から逃げようとすることが多いのですが、本当はその出会いこそが学習する機会となるのです。しかし、わざわざ痛みをもらってまで学ばなくても、自我の出所をよく理解し、その捉われをなくしていくことにより手放し、変化していけるものです。

のぶくん:
自我を表現するとはどういう意味ですか。

いさどん:
自分の心の在り様のままに生きていく、自分の思った通りに素直に生きていくということです。

のぶくん:
やりたいようにするということですか。

いさどん:
その通りですが、反対に、あなたの心の中の思いを、人からどう思われるかと考えて出さないことも、自我を表現していることになるのです。

のぶくん:
出さないこともですか。

いさどん:
そうです。出さないことはあなたらしい自我の表現ですからね。その場合、出すとわかりやすいからすぐに形になって答えが返ってきます。出せば早く痛みや問題を体験することができますが、隠して出さないでいるとその結果に行き着くまでに時間がかかります。その状態を長く続けていると不完全燃焼状態が続くということになりますが、それも自我の表現の結果の一つです。この世界にあって自分が生きているということは、全て自我を表現した結果との出会いです。その結果出会ったことは全て自らの自我の表現に対する答えをもらっていることになり、それをその都度素直に受け取っていけば、人間はどんどん変化し、成長していくのです。そしてそれは変化変容変態を繰り返す宇宙の実相と同じです。だからこの世界に生きることの本質は、率先して変化することを喜びとして生きることなのです。ですから、常に固定概念を持たないでどんどん手放していくことにより新たなものが次々と入ってきて成長していきます。しかし、その道理から離れると、今までの固定された自分が邪魔をして、自分の解釈で正しいとか間違いという基準を持つようになるのです。すでにそこで神様とのゲームに負けていることになるのです。

のぶくん:
自我を手放すとはどういうことですか。

いさどん:
自我を手放すとは、自らの性質やクセに捉われないで、物事を客観的に取り入れるとか、これが正しいという正邪の固定概念を抜きにして物事を判断することです。固定概念を強く持つ人は決めつけが激しく、他者の意見に耳を傾けないものですが、そのような人こそ自分以外の考えも取り入れてみることが必要で、それが自我を手放す人の判断です。この場合、自我を捨てるのではなく、視点をいくつも持つことで、どの視点も物事の捉え方としての判断をするのが客観視点であり、自我を手放すとは、自らの考えを優先せず、かつ固定しないことです。そのように考えると、あなたは今まで強い自我のもとに生きてきて、その結果がそのまま人生に現れていたのですから、これを神様の贈り物と捉えると、神様はあなたの捉われの姿を忠実に示してくれていたありがたい存在ということになります。ただその時に、どのような神様と縁があるかによって現れてくる現象が違ってくるのです。例えば、厄病神が来れば病気になるのだし、嫌われ神なら怒りが現れたり、祟り神なら祟られていろいろな災いに出会うなどということをいただくことになるのです。

今までは人間が困り事に出会い、それを多くの神々を対象にインスタントに救われようと人々が求めた結果、それに応える神々が甘い言葉とともにその欲の心の受け皿となってきました。その結果、お賽銭を投げれば願いが叶うとか、お払いをすれば物事の状況がよくなるというご利益の世界が生まれてきたのです。その他にも、安易にセミナーを受けてバーチャルな体験をし、救われた気持ちになったり、ロックコンサートに行ってストレスが発散され、心が楽になったからとそこに救いを求める等々、根本的な解決をしないで、表面的な手法で解決をもたらす誘惑がこの世界にはたくさん氾濫しています。そのような誘惑のもとに人間の気持ちを引き付けていくのも神の世界の末端にいて、霊的な世界は、そのような誘惑のもとに裾野を広げている実態があります。そしてそういったものが宗教などとなって人間世界にはびこっていましたが、一人ひとりが目覚めて、直接宇宙の実体の大元と繋がれば、これからはそのような人を惑わすものは必要ありません。それがこれからの時代です。

2016真学校「愛とお米があればいい大事なもの」宇宙の実相であり生命ネットワークのベースである「愛」と、生きていくための体のベースになる「お米」の二つがあれば、それ以外の余分なものは求めなくていいのです。ただこの世界はとても豊かになりましたので、その他の豊かさをプラスαとしていただけば、あるのが当然とか、かき集めてやろうとするのではなく、これほど十分に与えられているにもかかわらず、まださらに与えられているのかと思えば、「ありがとうございます」という謙虚な心に人はなります。そういったいただくことに感謝して生きると、もったいないから大切に活かそうという心も湧いてきます。

今の地球人はそのような心にはなっていませんが、これからはそういった謙虚な心になっていかないと、人間の営みの結果、地球のバランスがさらに崩れてしまいます。そしてそれは人間だけがもたらすことなのです。ですから、生活の中に余分なものを必要とする心があると、その分道から外れることになります。だから余計な思考や欲求を持たないことがシンプルに生きるということで、そういった姿勢を保つことを喜びとすることが大切です。人間は不必要なものを持つことを豊かさと勘違いして多くを求めますが、品物を山のように欲深く抱えると病気になると書いて「癌」という字になっているように、そのような欲望を優先してきた結果、今人間は、地球の癌のようになってしまいました。

本来、人は心を探求することが生きることの目的であり、人として、生命として生まれてきた目的なのです。

2016真学校「愛とお米があればいい癌」

さえちゃん:
自分なりに魂の使命が見えていたのですが、今はその真逆に自分がいるので、どうしたらいいのかわかりません。

いさどん:
自分の本当の姿が見えていないものをどうにかしようと思わなくてもいいのです。見えていないのがあなたの今の実体なのですから、その状態のあなたは今は何もしなくてもいいのです。何かが必要になったらその時に自然に見えてきますから、それまで待つこともいただいていくことです。その時に見えないからどうしようと考えること自体が自我なのです。

流れや出会いとその結果をいただきながら待っていればよいのですが、あなたは余分な思考をたくさん回しているのです。それはいただく心がないということです。いただくという姿勢は外のものを内に入れることで、自らが常に変化することなのです。目覚めるというのは自我の捉われを捨てることなのです。そもそも宇宙自体が現状(自我)をどんどん捨てることで変化変容変態を繰り返しているのです。自らをどんどん捨てていけばその繰り返しの新陳代謝により、内と外の区別がなくなり、この世界の実相に近付いていくことになり、逆に自らを保とうとすればするほど、自分と他を区別する方向に進むことになります。ですから、その自分と他者を隔てている区別の心を取り去れば、他者の話はどんどん入ってきます。自らを守ろうとする心があるほど、自分に危害が及ぶのではないかと、自分の考えを基準にして勝手に良い悪いという基準をつくることになるのです。真実は、この世界に良いも悪いもないのです。もしそれがあるとするならば、それは自らが作っている基準なのです。

内と外の区別がなくなってくると、この世界に愚かしいものはなくなって、すべての出来事は神様の愛の表現と受け取ることができるのです。闇に行けば行くほど光は強く見え、逆に光の方に行けば行くほど光そのものになります。このように、どこにいても真理を理解するための仕組みがこの世界にはあるのです。そこに気付けば自我を持つことは必要なくなり、人は悟りの境地に至るのです。人間が勘違いしやすいことは、自らの心が納得するところが良いことで、正しいところだと思っていることです。自分が納得するという状態は、自らの自我が満たされている状態です。その自我に、この世界の実体が中に入ってくるほど柔軟で無条件に変化していく状態になった時に、私たちはこの世界そのものになっていくのですから、その精神状態のことを悟りというのです。

「まとめとしてのいさどんの話」

今回の真学校のスタートに当たって、それぞれの心の位置を、いろいろな情報を提供することにより、一人ひとりの真学校に参加した目的に沿って伝えてきましたが、その理解が進んでいくほど、もともとばらばらであった目的はシンプルになり、実は一つになっていくのです。その意識に至れば、どんな人間も個人の為に生きているという意識の者はいなくなるのです。それは生態系の中の一つの生命であり、生態系の中の人類としての一人の役割を担っているだけなのです。さらに、人類が社会を創造し時代を営んでいく時には、時代の変遷に沿って自分一人分の役割を担っているだけで、そのこと自体が、実は宇宙に生きているのだということに気付くと、その意識状態では自我というものは本来ないことになり、自我を意識している状態というのは、ある意味錯覚していることだとわかります。

例えば、生きるということをどれだけ自分の意志であると認識できますか。生まれてくることも死ぬことも、呼吸することも眠ることも年をとることも、心臓が動いたり血液が循環することも、ありとあらゆる生きるということに対して、私たちには何一つコントロールできることはないのです。もしできることがあるとしたら、自我を表現することで宇宙の法則から外れて病気になったり、辛い思いをしたりという自業自得の出来事をもらって自らを知る道があるだけです。そういった自我にまつわることが、生きる上で人間に与えられている自由なのです。そしてその自由は何の為に与えられているかというと、自我を表現することによって、本当の自らの実体、宇宙の法に沿ってこの地球生態系の中でどのようなポジションをいただきどんな役割を果たすかという、あなただけに与えられた自分というピースにはまることで、時代や世の中の人の為に生きるということに目覚めるという、とてもシンプルな話なのです。その精神に至った者のことを先人たちは悟った者と言ったのです。だから悟らない途上の者は、願望を巡らせ、自我を表現しては不平不満を言い、その結果自らの価値を下げるという人生を生きているのです。人の価値観によって、それでよければよいのですが、今時代は、人類がもうそういった意識の精神状態にいることを望んでいないのです。

その大事に気付く機会に出会えたみなさんは、そういった時代を担うに相応しい縁ある人たちなのです。これからは特別な能力を持たない普通の人たちが目覚めて、この世界に存在するすべての生命、それは微生物一つとっても全て大切な生命として活かされ、必要とされていく時代なのです。

真学校の初めに当たり、みなさんにばらばらの道を提供するとお話ししましたが、実は私たちが生命としてこの地球上で健全に生きていく道は最後には一つなのです。例えば、富士山のふもとから登り始めた時にはみんなの心は別々、それぞれ体力も登り口も別々ですが、最後の目的地である頂上は1か所です。そして富士山とは違ってこれは形のない無限な道です。これが今回の人生でもらった人生の一本道であり、私たちにはそのことを知った者として、力を合わせて歩んでいくことが求められているのです。

 

 


22日目午前「災害に向かって生きる」

1ヶ月間の真学校第22日目の午前は、「災害に向かって生きる」というプログラムが提供されました。そのプログラムの冒頭でいさどんは次のように語りました。

いさどん

「災害」というのは、人間から見た解釈です。地震も津波も地球の生命活動であり、それは新陳代謝でもあるのです。わたしたちの体も同様に、毎日多くの細胞が死に、そして新たな細胞が生まれてきています。地球の中でも新陳代謝の激しいところと比較的安定しているところがあります。また、長い地球の歴史からすると、大きな変化が起きた時と長く安定していた時があります。それは、地球が生命であるということです。そしてその生命は宇宙そのものであり、宇宙は常に変化、変容、変態を繰り返しているのです。ですから、わたしたち人間が築き上げたものが壊れたといって区切って見る解釈は、きわめて人智的な捉え方なのです。それは、長い目で見たらものは必ず壊れるからです。生命自体は誕生、維持し、それが壊れ、空(くう)となって、また始まるという循環の中にあり続けるのです。

今日は3月6日です。あと5日で東日本大震災が発生してから5年が経ちます。東日本大震災で約2万人の人々が亡くなり、たくさんの物が壊れましたが、あの震災を振り返ってみると、あの地にはこれまでに何度も地震がありましたし、津波もあの地域を襲っていました。しかし、長い間に人々は古くからの言い伝えを忘れてしまい、人工的な防波堤を信頼し、危険な場所に住んでいたのです。昔、そうしたことを伝えていた道祖神など(波分け観音など)がありましたが、人間の欲が勝ってしまったがために人々はそうした伝統的な言い伝えを無視し、便利さのために危険な場所に住んでいたことが、5年前の震災があったときに明らかになりました。

しかし、そういったことを天然循環法で捉えると、直観で感じ取り、そのようなトコロに住まない、もしくはたとえ津波が間近に迫っている時でも、直観でそのような兆しを感受することができれば逃れられたはずなのです。危機的な状況の中で直観が働き、命が守られることは、生命感が優れている証です。しかし機械的な情報ばかりに頼ってしまい、人間の生命感が失われていると、災害に遭うことになるのです。例えば、ゴキブリやネズミは家が火事になる前に引っ越していくそうですが、人間はお酒を飲んで寝ていたりして亡くなることがあるのです。本来、わたしたち人間もそのような生命感を持っているはずなのですが、今の人々はそれを失っています。

災害を語る前に、何よりも認識しておかなければいけないことは、わたしたちは生命であり、生まれたら必ず死ぬということです。そうであるならば、むやみやたらに死ぬことを恐れる精神状態を考える必要があるのです。つまり、死は生きることの集大成なのですから、その生きる中身がどうであるかによって、死はいつ訪れても恐れるものではなくなるのです。なぜならば、死は必ず訪れるものであり、生きることの結果必ずついてまわるものだからです。ですから、もし死にたくなければ、生まれてこなければいいのです。ところが、不思議なことに人は生まれてくると、生きていることに対して一喜一憂するのです。大切なことは、わたしたちが生まれてきた意味や生きる意味、そして死んでいく意味をホリスティックに理解した上で、生命世界を生きていくことなのではないでしょうか。そのように捉えると、災害が少し違って見えてくると思います。

災難というと、何か嫌なことが訪れ、出来れば避けたいと思うものですが、地球の歴史を遡ってみれば、生命は何度も大量絶滅を繰り返してきました。少し不謹慎な話かもしれませんが、僕は津波のことを思い浮かべたときに、たらいの中に浮かべた板の上の蟻を想像したのです。たらいに浮かべた板の上に蟻を何匹か乗せて、水面に何かを落とすと、波が起きて板の上に水がかかります。蟻からしたら、その波は5メートルくらいの波でしょうか。この写真の津波も、5、6メートルくらいでしょうか。

出典: geocities.yahoo.co.jp
出典: geocities.yahoo.co.jp

そうすると、たらいの中に何か物を落として、波が起こり、蟻の何倍かの高さの波が蟻の上を通っていったとき、それを地球の大きさに例えればほんの僅かな現象なのです。例えば、地球上には最も高いエベレストという山があります。それは9千メートル弱です。それから海の一番深いところが1万メートルくらいありますが、地球の直径は約1万2千キロメートル、また大気は約100キロメートルあります。地球にとって100キロメートルは卵に例えると、卵の殻の部分に匹敵します。そうすると、この地球は山の皺や海のへこみを含めても、とてもきれいな球だということです。そこに5メートル、10メートル、30メートルの津波が来ることは、ほとんど何も起きていないに等しいのです。ですから、わたしたちにとっては大変なことが起きたように思えたとしても、地球規模で言えば、それは何も起きていないに等しいのです。それに比べ、わたしたちがご飯を食べる前に手を洗うとき、それは手についている菌からすると、災害が起きているような大変なことになります。もしも、しっかり手を洗う人がいれば、手についている菌にとっては大災害に出遭い、大量絶滅したことにもなるのです。

今回の真学校では世界観を広げることがテーマでした。そして世界観のスケールが大きくなればなるほど、被害を受けたと感じる被害者意識がほとんどなくなっていきます。地震は地球の生命活動であり新陳代謝なのですから、宇宙から見たら地球はとても安定した星なのです。ですから、自然災害が起きて報道されるたびに、僕にはそのようなイメージが浮かんできて、「それほど大したことは起きていないのになぁ。これは定期的に起きている地球の新陳代謝であり、生きていることによって生まれたひずみが、地球をほんの少し変えているだけなのになぁ」と思うのです。そして、ほんのちょっとの水の波がこのような現象を引き起こすのですから、手を水で洗ったくらいではなかなか菌が取れないのと同じように、人間の営みも5年もすればまた元の状態に復活していくのです。

出典:http://workers-magazine.com/
出典:http://workers-magazine.com/

このように捉えると、ものの見方が変わっていきます。ものの本質を捉える時に、世界観が狭く囚われの心で見れば、それはとても悲惨なことであり、大切な人を無くしてしまった悲しく追悼すべきことになります。この震災で2万人くらいの人が亡くなりました。しかし、災害などがない時にも人はどんどん亡くなっていきます。僕は、人々が亡くなったことがどうでも良いと言っているのではなく、こうしていろいろな形で新陳代謝が繰り返されていることを理解する必要があると伝えているのです。ましてや災害対策を考えれば、生きているわたしたちにとって死は常に隣り合わせにあり、どのような形にしろ、わたしたちにはいずれ死が訪れます。宇宙において死ぬことは、正の方向であり流れです。ですから死を恐れるのではなく、どう生きるのかが大切であり、その死を満足のもとに受け入れていくことが重要なのです。さらに、死ぬことは宇宙の流れからすると、また生まれてくるということでもあるのですから、爽やかに生きて、気持ちよく旅立っていけば、また爽やかに生まれてくることになります。これはお金でも同じことです。気持ちよく使う人には、また気持ち良いお金が入ってきます。このように全てのものには、人の心の響きが乗ります。人生にも心の響きが乗りますから、生きることの心構えとして、いかに宇宙法則に乗せて気持ち良く流していくかが大切なのです。そのように解釈すると少し気分が変わりませんか?

「今日は防災訓練だ!」となると、火事になったときにどうしようといった話になって、とかく人は構えてしまいます。リラックスしていれば、全身の細胞がパラボラアンテナのようにセンサーになり、それが色々な変化を感受するので、上手に天の気を読むことができるようになるのです。しかし、「助かりたい!」という想いが強くなると、色々なものにぶつかってしまい、かえって動きが悪くなります。ですから、防災に対する捉え方も、人の心に起因するものだと僕は思います。こういった話をすると防災の話は不要になってしまいますが、資料が用意してありますので、今から一緒に見ていきましょう。

スライド4

この後、「災害はメッセージ」のプログラムのプレゼンに沿って、いさどんとみちよが話をしました。その後、ワークショップ形式で、参加者一人一人が自分たちが暮らす環境を振り返る時間が持たれました。

防災WS (3)

 

そして、最後のまとめとして、いさどんは以下のように語りました。

今日は、防災について学ぶと同時に、防災とは何かということをみんなで話し合いました。そこで至った結論は、わたしたちが生きると、色々な問題事に出会うということです。これは、真学校を通して一貫して皆さんにお話ししてきたことです。問題事に出会うことは、わたしたちが自我で生きていることに対して、この世界の法によって生かされていることをわたしたちに認識させるためのものです。わたしたち自身は、肉体と心により形成されています。それは自身の内から外に向かって観た視点です。同時にわたしたちは、外から内に向かってこの命が形成されるネットワークの中にいるのです。その双方の成り立ちを意識したバランスの取れた視点を持てば、宇宙が完璧に素晴らしい世界をわたしたちに提供してくれていることに気付くのです。

地上を生きるものとして世界観が狭ければ、物事を広い視点で捉え、そこにある流れや生きることの意味を理解することは難しいでしょう。しかし、わたしたちが地上を生きる役割は、もっと大きな宇宙の仕組みである調和や愛を地上に表現することです。そのことがわかれば、それらを地上に表現できるのです。それが天と地の和合であり、地上に天の法則を表現する役割を果たすことになります。それが本来、わたしたちが地球に生きることの意味です。それが宇宙の実相ですから、それを地球という特別に創られた奇跡の星で表現することが、わたしたち人間に与えられている大きな使命なのです。わたしたちは過去から未来に向かって時代を紡ぎ、その役割として地上に現れ、この宇宙物語を表現しているのです。

web of lights
出典: https://judithkusel.wordpress.com

災害やそれに対する防災を考えるとき、わたしたちの世界観が狭ければ、そこに起きることに対する対策をすぐにしたがるものです。そうした対策は大いにする必要があるのですが、それが目先だけに囚われた解釈になると、それは辛いことに対する対策で終わってしまいます。しかし、災害に出遭うことや災害に備えてその意味を考え、語り合うことは人々の霊性を高め、世界観を広め、最終的にはこの地上に理想の世界をもたらすきっかけとなるのです。ですから人々の意識が宇宙法則から外れるほど、天はわたしたちにそういった出来事を通して考えるチャンスを与えてくれるのです。そのような災害の捉え方をすれば、ただ辛いことに出会っただけではなく、災害もありがたいこととして受け止められるのです。生命として生きることはそのような高い意識を創る世界に存在することであり、そして自然の中に生きることは、ある意味自我を超える修行をしているようなものですから、厳しく感じられるようにできているのです。

そもそも、この世界は矛盾から生まれたのですから、その矛盾の現れである自然の中に生きることは、常に矛盾を埋め合わせて行くことになります。そのカラクリを知り、その中で翻弄されるのではなく、見事にそれをすり抜けて生きる術を見つけたならば、わたしたちはもっと大きな存在になれるのです。それは、宇宙を理解し、命を超越して宇宙を旅するコノハナ人になるということです。

真学校も終盤を迎え、この学びに出会うことの意味が皆さんに定着してきたと思います。当初は、皆さん一人一人の人生の課題に向き合うということでしたね。そろそろ、自らの存在がこの世界を担っているという高い意識に目覚めることが、真学校に出会った意味だと気づいていただければと思います。そして、人は必ず死にます。その時に悔いのない旅立ちをするために、皆さん一人ひとりが高い意識の元にこの世界の成り立ちを担っていることを意識しながら生きていくことを願っています。


17日目午前「性と宇宙2」

すべての生命の源である性についての認識を根底から覆す講座「性と宇宙」。この世界の成り立ちの根本原理を学ぶ第一部を経て、第二部でいさどんは以下のように語り始めました。

160301-112715

 
いさどん:
真学校も残るところ半分ほどとなりました。ここまで来ると、みなさんもそろそろ、ただ情報を得ると言うよりも、自分自身と対面する段階に入ります。感情やクセのままに生きていると、自分自身の課題から逃げずに向き合うことはなかなかしないものですが、こういった学びの機会を得ることによって、今まで向き合ってこなかった自分自身と対面することになるのです。

真学校は、情報を得ることが最優先なのではありません。ここでたくさんの情報を得ても、実際に自分の中に残るものは、きっと僅かなものでしょう。しかしその情報は、これまで見過ごしてきた自らの課題と向き合うきっかけとなります。そして自分の力でそれを超えることが、今後皆さんが人生を歩んでいく時の大きな力になるのです。そして共に学ぶ仲間がいれば、一人ひとり課題が違うわけですから、それぞれの経験や課題の違いから互いに学び合って、自分自身に活かしていくことができるのです。
そうやって自らと向き合い、これまで曖昧にしてきたことに対する答えを出すことが、1ヶ月間の真学校の一番の目的ではないかと考えます。それはこれまで人々がなかなかできずにきたことですが、今、みなさんはそのチャンスの時にいるのですから、ぜひ活かしていただきたいと思います。

 
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第一部では、性というものが宇宙の仕組みやこの世界の成り立ちの延長線上にあるということをお話ししました。それは考え方によっては当然のことです。構造としては、この世界を成り立たせている法則の中で私たちが生まれてきて、そしてその法則のもとに維持されてこの世界ができているわけです。つまり、この世界は相似形であり、大きいものも小さいものもすべて同じ構造でできているのです。

*第一部プレゼンテーションより


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私たちは性を通して生まれてきて、性を通して次の代に命をつなげています。私たちの原点が性にあるわけですから、それがこの世界と同じ仕組みになっていることは、よく考えてみれば当たり前のことなのです。
残念ながら、現代の人々は、私たちの世界において性がそのように重要かつ大きな存在だとは捉えていません。それどころか、性は私たちの存在の根源でありながら、秘め事として隠されてきたのです。そして秘め事として隠されることによって歪められ、隠し事どころか忌まわしいことのようにさえ捉えられているのです。
僕は、性に関することを堂々と行おうと言っているのではありません。そういった行為を正しく捉えることが大事だと言っているのです。なぜならそれは、私たちの未来を繋いでいく子どもたちにつながることだからです。今の世の中は、性が逆転現象を起こしていると言えるのです。

昨夜の大人ミーティングで、日本の労働の現状とアメリカの大統領選挙についてのビデオ(クローズアップ現代「広がる労働崩壊~公共サービスの担い手に何が」「大統領選挙に異変あり~アメリカ社会に渦巻く不満」)を観ました。どちらの社会にも課題がたくさんあって、今はある意味、これまで作ってきた価値観を切り替えなければいけない時を迎えています。
多くの人々は、表面的な改革でそれを乗り越えていけばいいように考えています。しかし皆さんは、真学校を通して根本的な物事の捉え方を学んできたことによって、今の社会が根本的な切り替え時に来ていることに気付いていると思います。ですから、この学びを皆さんの人生の切り替えに役立てていただくと同時に、ぜひそれを社会の改革に役立てていただきたいと思います。
今日は、今の社会の性の現状について少し触れながら、最終的には性の本質と、これから私たちがそれをどう捉えて、次の世代にどうつないでいくかというところに、学びをつなげていきたいと思います。簡単に言えば、今の世の中は逆転現象を起こしているということです。実は性に限らず、どんなことでもそうなのです。それに対して、単に社会を批判するのではなく、いろいろな情報に出会った時に、その情報の奥にある本質を観抜く力を身に付けるということに、皆さんは今取り組んでいます。

それでは情報に入ります。

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過去に人がハングリーだった頃には、どちらかと言うとセックスに対しての欲求が強い時代がありました。動物でも植物でもそうですが、危機が迫ってくると、次の子孫につなげなければいけないので、そういった欲求は強くなります。逆に、環境が豊かになってくると、自然界ではそういった欲求は減っていくのですが、人間の世界では、今の経済的先進国の現状を見るとそうとばかりは言えません。むしろそういった所では、歪んだ性が横行しているように見えます。私たちの存在の根幹である性が歪んでいるが故に、人間の物事に対する価値観の歪みが発生しているのです。

真学校で性について取り上げているのは、本来性というのは、私たちが生命として誕生し、世界を維持し、時代をつなげていくために欠かすことができない、根本的な柱だからです。そして性の仕組みは、宇宙の仕組みそのものであり、地球上の生態系システムの根源であるにもかかわらず、現代はその解釈が歪められています。そこを根本的に切り替えない限り、健全な社会に行き着くことはあり得ないのです。

日本の性の現状を観ると、人々の日々の暮らしの在り様が狂っていることがわかります。異常にセックスに興味を持つ者も持たない者も、正常に戻していくということが必要なのですが、今は何を基準にして正常と言うのかがわからない状態になっているのです。

これは真学校の学びの中でずっと話してきたことですが、宇宙には一つの揺るぎない原理原則である「アメノミナカヌシ」という柱があります。そしてこの世界は全て相似形で成り立っていますから、宇宙を構成している一つである私たち一人ひとりの中にも、アメノミナカヌシという柱が働いているのです。ところが今の人々には、その大本となる宇宙の柱も、それを構成する個々の人々の中にあるはずの柱の存在も忘れられてしまい、何を指針とすればよいのかわからない状態になっています。

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そういった構造的な問題を理解して取り組まない限り、昨日のアメリカ大統領選の話でも、日本の労働の問題でも、この性の問題でも、ただ表面的な対策に追われ、対策をすればするほど難しい問題になったり手間がかかったりするだけで、結局根本的な解決にはつながらないのです。問題ごとにはそれぞれにたくさんの理由があり、その一つ一つが大きな勘違いから生まれてきているのですが、その勘違いを根本的に解決するというよりも、対症療法に追われているのが今の社会の現状です。そういったことを今、全てにおいて逆転させなければならない時が来ているのです。

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このような、人類にとって大きな問題について今ここで語っているということは、今はまだ小さな動きですが、皆さん、見ていてください。世界中が必ず、この根本的なことに取り組まないと成り立たなくなる時が来ます。皆さんはその時に先駆けてこういったことに出会っているということは、今、奇跡の出会いをしているということなのですよ。

僕の中には、時代を超えたビジョンがあります。僕は30歳の時に、こういった新しい時代に向けての取り組みをメッセージとして受け取るようになりました。それをいただきながら、実際に自分の歩みが世の中に対してどんな役割を果たすのだろうと考えていた時に、あるビジョンが湧きました。
それは、生まれ故郷の岐阜県の山の中で、将来新しい生き方をする、というものでした。人間によって変えられてしまった二次林の山を自然の山に還し、動物たちと人間が共に生きていけるような環境を整備し、そこに人々が助け合って暮らすコミュニティを創ろう、そしてそのコミュニティの名前を菩薩の里としよう。そこは、今の一般的な価値観が通用しない、ある意味治外法権のような、特異な生活で成り立つ場所です。老若男女が助け合い、誰もが他者の為に生きる、ユートピア ――― そんな場所をイメージしていたのです。
そして、そういった場所を創る目的がどこにあるのかと考えました。いつかそこを訪ねてくる人々がいる。それはこの国を司る人たちです。その人たちがこう問いかけるのです。「私たちはこれまでいろいろな手法を使って、この国がより良い豊かな国になるよう努力をしてきました。けれども、どの手法をとっても、良い国を創ることができません。そして困って考えあぐねていた時に、この地に理想の生活をしている人々がいるということを耳にしました。そこで、より豊かで人々が幸せになる国を創るために、その智恵をいただきに来たのです。」
その時に、僕はこう答えます。「それは手法ではありません。ここにいる人々や自然を観てください。ここの人々の心や調和の姿こそが、真に国を豊かにし、より良い社会を築くものだということがわかるでしょう。」
それが、木の花ファミリーの生活を始め、こういった生き方につながった元になっているのです。

そして、僕は天からもう一つメッセージをもらっています。それは、「お前が肉の体を持って地上を生きている間は、世の中が本当にその事の大切さに目覚めることはないであろう」ということでした。つまり、僕は次の新たな社会の土台を創る役割を担う者であるということです。生きている間にその成果を観ることのできない役割ですが、それでもやる気があるか、と問われたのです。僕はそれに対して、「あります。土台であろうが何であろうが引き受けます。」と答えました。

もうすぐ僕は65歳になります。僕の人生の契約は80歳までなので、あと15年ほどです。15年を過ぎると、今ここにいる皆さんの中でも若い世代の人たちが、最も活躍する時代が来ます。そしてその先の15年を思ってみると、アメリカや日本の混乱がそろそろ落ち着いて、次の時代の人たちが社会を引き継ぎ、そしてさらにこれから生まれてくる子どもたちにつないでいくためのベースができる時代になる、とイメージしています。

時代は私たちが生きている間だけ紡がれているわけではありません。宇宙の誕生、維持、消滅が延々と繰り返されていくように、その動きが途切れることはないのです。その中で、私たち生命は、その途切れることのないもののつなぎ役なのです。さらに、肉体はこの数十年で途切れますが、魂はずっと時代をつないでいくのです。ですから、遠い過去のことも、遠い未来のことも、すべて私たちのことです。世界観が広がれば、そのことが理解できるようになります。

みかこ:
時代は常に進化し続け、いつの時代もその時代に相応しい魂が肉体を持って地上に現れ、役割を果たし、次の時代へとつないでいます。ということは、新しい魂が生まれてこなければ時代が先へ進まないことになりますね。進化し続ける時代の意志を受け取って表現する者がいないのですから。古い魂ばかりでは、時代を進化させることはできません。

いさどん:
だからこそ、魂を降ろす行為をまじめにやらなければならないのです。性行為がただ子孫を生むためだけの行為になってしまったら、それは宇宙的には高次の意識とは言えません。動物がそうでしょう。動物たちは子孫を残すために本能として、性交を行います。しかし人間は、宇宙の法則を司る側から、その意識を共有するものとして地上に降りてきているのですから、高次の意識を持ってそれをつなぐことを託されているのです。

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人間は、このように高次の存在であるからこそ、本来の役割に目覚めることが大切です。

そして皆さん、実は、人間が生き物なのではないのですよ。時代が生き物であり、人間はそれを請け負い、つなぎ、表現するために生まれてくるのです。
例えば土手の草は、意志を持っていません。刈られて畑に入れられれば土に還って作物になるし、その場に置かれればまた土手の草になるし、刈られなければそのまま土手の草であり続けます。作物になって人間に食べられれば人間になるし、虫に食べられれば虫にもなります。それは変幻自在に変化していく、自我を持たないものなのです。
それに対して人間は、一人ひとりが自我を持っています。草はいろんな種類や個性はあっても、霊的な違いというのはありません。草の一つひとつに魂の違いはなく、ただ縁の違いがあるだけです。しかし人間は草ほど多様な種類はないのに、一人ひとりの魂は実に多様で、オリジナルな自我を表現しています。そこに、時代の意志を託せるものと託せないものとの違いがあるのです。そうでしょう?平安時代のペンペン草と今のペンペン草のどこが違いますか (笑)。環境的な違いはあるかもしれませんが、霊的な違いはないですね。

現代社会の性の実態を観ていくと、我々人間は、大きな勘違いの時代を生きていることがわかります。自然界を見てください。そこでは人間の社会のように法律やルールはありませんが、レイプのような愚かしい無秩序もありません。しかしこの高度な生き物であるはずの人間の世界だけに、そういった歪んだ性が横行しているのです。
人間が価値あるものとしての尊厳を保つために、性こそ一番に本来の姿に戻さなければいけないものなのです。ですから、皆さんは世界からすればほんの一握りの人たちですが、こういったことを語り合い、真実が発信される場にいることを大切にしていっていただきたいと思っています。

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今、僕はここの皆さんに語るというよりも、ここを通して地球人類に語っていました。体は限定されたものですし、我々は特定された場所にしか生きることはできませんが、魂や意識が大きく広がれば、時代に語りかけ、人々を目覚めさせ、地球にそのことを広めることができるのです。これは事実です。あなた一人の小さな気付きから、時代は動いていくのです。

みかこ:
いさどんが性の現状の話の中で急にモードが変わって世界観を語り出した時、とても大切なことを語り出したと感じました。その時、この場が受け皿となって、いさどんに何かが降りてきたのです。それは受け皿が多ければ多いほど、世界に力強く広がっていきます。いくら真理を語ろうとも、それを受け取る人々がいなければ、その真理が世界に広がることはないのです。降ろす人と受け皿となる人がいて、初めて真理はこの世界に広がっていきます。それは「アマウツシ」とも言えるものであり、この『性と宇宙』の講座の中でもとても大切なところです。

いさどん:
アマウツシとは、天と地、男と女など、相対するものが対向発生することであると同時に、アマウツシという言葉の如く、天を地上に映すことでもあり、天という宇宙法則が地上に表現されることです。それは高次の意識があって初めて成る、人間像と言えます。
カタカムナで言うアマウツシとは、カムウツシ状態の意識レベルにある男性が、潜象界から湧き出る高次の響きを受けて真理の湧き出し口となり、それを感電状態となった女性が受け取って、高次の意識の響きを有する人格が表現する場が形成されていくことです。それは交わることをきっかけとしてもたらされ、ひとたびその意識状態に到達した者は、常にその意識で日常を生き、ものごとに関わることによって、他の人々を導く者になります。

みかこ:
物理的な交わりを通さなくても、降ろす人と受け取る人がいることで真理は広まっていくけれど、カタカムナで言うアマウツシとは、それをさらに交わることを通して高次の意識を降ろすことであり、とても深いものです。

いさどん:
性を通して高次の意識となり、その高次の意識の状態で人々と共に生きることにより、その高次の意識から発するものごとの捉え方が人々に伝わっていくのです。
それは、行為によって鍛錬されていくものではありません。意識レベルが上がっていくことによって、それが可能になるのです。そして真理が降りてくることによってそれを語る者となり、意識を上げていくからこそさらに真理が降りてきます。それは天と地の対向発生です。男性は意識して直観を降ろし、女性は高次の感電状態となり、そこには、通常の人間意識を超えた世界があるのです。

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コミュニティでアマウツシが起こるということは、特定の個人としての男女にそれがあるのではなく、全体の中でその部分の役割を担っている者にそれが起き、全体に還元されていくということです。
ですから、今のこの場も同じですね。皆さんが、私が発したことの受け皿となることで、それが世界へ還元されていくのです。コミュニティは地球のひな型であり、そもそも地球全体がひとつのコミュニティなのですよ。そして今、こういった意識の受け皿があるからこそ、真理が降ろされて解き放たれているのです。

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そしてそれは響きとなり世界に広がり、少しずつ少しずつ、その響きが人々の気付きとなっていくはずです。
対向発生は男女の間だけではなく、コミュニティでも、この真学校の場でも、地球全体でも起こります。その意識に目覚めた人々が増えていくことで、世界中に広がっていくのです。
そのためには、皆さんの中に、そのことを強く信じる心が起きることが必要になります。そして、それが発信源となっていくのです。

アマウツシとは、宇宙の実相が湧き出る受け皿となる人間の意識レベルの、最高の位置に属する境地です。ですから、言葉で聞いたり文章で読むだけで理解できるものではなく、人間に与えられているすべての能力、経験を駆使して、初めて到達できるものなのです。ということは、私たち人間には、その境地に到達できる可能性が秘められているということです。そしてそれを可能にする能力があるということは、私たちが宇宙に存在する意味は、それを現象化することを宇宙から託されているという、希望ある存在であるということです。

 
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16日目午後「性と宇宙1」

「性と宇宙」

そんなタイトルを見て、皆さんはどんなことを思い浮かべますか??

ここで語られている「性」とは、宇宙の創造、そして人が生きることそのものです。

「性」という文字は「心」と「生」という文字が組み合わさって出来ています。私たちの毎日の生活での出来事すべては、私たちの「心」から生まれることであり、それはやがて宇宙の創造にまで影響力を及ぼせるほど壮大なことでもあります。

今まで私たちが捉えている「性」という概念をはるかに超越しつつも、とても地に足のついた道理の通った話になんだか心が安らぐような心地よい想いが湧いてきました。明日は「性と宇宙2」です。どんな内容になるのか楽しみです。


12日目「人格を学ぶ講座4」

さぁ、「人格を学ぶ講座」最終回は、今まで学んだ「カルマ読み」「地球暦」(+カタカムナ)を駆使して受講生全員の人格や天命を読んでいきます。

この講座は既存の占いのようにただ「あなたはいい運勢だ、悪い運勢だ」と言って与えられるものではなく、現状の自分自身を知り本来の役割に自ら目覚めていけるような的確な情報を得るためのものです。

情報を得たら、後は実践あるのみ!

「人格を学ぶ講座1」のレポートではなぜこれを学ぶことが大切なのか、「人格を学ぶ講座2」のレポートでは人はどうすると健全になるのかが語られています。ぜひご覧ください!


10日目「人格を学ぶ講座3」

今回は、「地球暦」について内容の理解と実際に自らの地球暦を作成するワークショップを行いました。

みんな初めての情報ばかりで随分脳を使ったようで、最後は寝転びながら講義を聞く受講生たちもいました。^^


9日目午前「創造性と芸術 いのちを讃えよう」

「創造性と芸術」の講座は、日の出を見に行きそこから得たインスピレーションを文章や絵にしてみんなでシェアしあう講座。

今回も、それぞれの個性が花開き始めるとても良い時間となりました。

その時の様子は以下のスライドショーをご覧ください♪


8日目「人格を学ぶ講座2」

一昨日の「人格を学ぶ講座1」に続く第2弾!
カルマ読みや地球暦といった手法を通して、表面からはなかなかわからない、その人の本質を読み解いていきます。人はどうすると健全になるのか。いさどんが語ります!

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いさどん:
人間というのはとても個性的で一人ひとりオリジナルにできています。しかし、一般的な人間関係においては、そのことがわからずに、相手に対してとても雑に接しています。例えば表面的には弱いように見える人が、実は弱さを演出して自分を主張している場合もあり、それにごまかされていたりするのです。人間の本質を見抜くことは、実にやっかいで難しいものです。

そういった精神構造の実態がわかればわかるほど、人間とはとても扱いにくいものだとわかってきます。ですから、相手をよく理解していくことが大切です。僕は今までたくさんの人間と出会ってきましたが、素直な心で生きている人間とはあまり出会ったことがありません。そして、そのような人たちと付き合いながら人間というものを探求してきた結果、極めて人間不信となりました。

多くの人は、自分で自分の姿を観ることはできません。それは、自らの実態を直視しようとしないということでもあります。そこで他者からの客観的な視点が必要になるのですが、人から伝えてもらう時に最も大切なことは、素直になるということです。まず、素直に自分を表現する。それは正直であるということです。自分の本当の気持ちを出して、その結果起きることや、それに対する相手からの反応を素直に受け取っていく。そうすれば、どんな人でもすぐに健全になれます。

人は過去世において、どのように生きたかによって、個性のベースができあがります。その積み重ねが、人格の元となるカルマを形成しています。そしてそのカルマが今世でどのように表現されていくのかは、今世の生きる姿勢にかかっています。カルマは個性ですから、有効に表現することもできれば、有害なものとして表現することもできるのです。
カルマは、小さな子どもの頃から、個性として表れます。子どもは社会経験が少ない分だけ、人から伝えられた時に、素直に受け取っていくことができます。しかし、年齢を重ねるにしたがっていろいろな経験をしていく中で、その人の性質が自らのカルマをどの方向に向けていくかによって、濁りや歪みが積み重なり、受け取ることがだんだん難しくなっていくのです。
幼い頃から確実に表れてくる人それぞれの性質を客観的に観て、そこにある矛盾を冷静に捉え、寄り添っていくようにすると、その人本来の個性が素直に表現されるようになります。そうすると、その子はとても個性的で素直な子どもになります。しかしほとんどの子どもは、そうはなりません。なぜなら、周りの環境が人格の形成に大きく影響するからです。それは先天的にそういった道を歩む定めがあるとも言えますし、後天的な出会いがその人の人生に加味されているとも言えます。つまり、その人のカルマに相応しく経験するようになっているのです。

例えば、ある年齢まで普通の環境で育ってきて途中から木の花に入ってきた子どもは、3歳までなら素直になるのは早いのですが、それを超えると修正するのがだんだん大変になっていきます。素直になる環境に来ているのに、素直になることに自我が抵抗して、その環境が苦痛になるのです。それでも年齢が若ければ若いほど早く歪みは取れていきますが、20歳を超えると、素直になることが自分を否定することであるかのように感じるようになるのです。
そうすると、たとえ伝えられたことの意味を理解しても、それによって自分が否定されたと思ってしまうため、いじけたり、自分を守ろうとしてその状態を維持し続けることになります。それがさらに継続していくと、それが固定された状態になってしまうのです。
ですから、年を取れば取るほど、素直になるためには相当なパワーと自覚が要ります。そこにメスを入れずに歪んだ状態のままで生き続ければ、物理的な現象でも、対人関係でも様々な問題の発生源となり、そういった人生の繰り返しにつながるのです。しかし、生きている限り、手遅れではありません。生きている限りチャンスがあるのですから、命がなくなるまでそのチャンスを活かして、少しでも次の為の良い種を播きたいものです。

あわちゃん:
今の話はすごいポイントですね。木の花では「正直、素直、信じる」ということを大切にしていて、正直な気持ちを出したことに対して周りから率直なフィードバックが返ってくると「正直に出せと言ったから出したのに!」と不満を言う人がいるけど、正直に出したからこそ、率直なフィードバックをもらって自分を客観的に知ることができるわけだから、正直に出すことと素直に受け取ることはセットなんですよね。

さこちゃん:
今までの自分を捨てたくなくて、泣いたりしてきました。

いさどん:
そんなに今までの自分を捨てたくなくて悲しいなら、それをそのまま持っていればいいのに、持っているのは嫌だと言うのです。嫌なくせに、それを持ち続けて泣いている。そして自分でもそれが嫌なのに、人から「それを持つのをやめなよ」と言われたらそれもまた嫌だと言う。
なぜそういう状態になるのかと言ったら、心の枠が狭いからです。キャパも小さく視野も狭い。ですから、それを超える一つの方法として、世界観を広げましょうと伝えているのです。自分のことばかり考えて自らの興味にだけ意識を向けるのではなく、多角的な視点を持つための情報を取り入れ、視野を広げていくと、自らのこだわりに囚われなくなり柔軟な物事の捉え方が身に付き、嫌な自分を捨てやすくなります。そういった視点を持ち柔軟性が身に付いた人は、他者の為になる人です。それは社会にとっても大切な存在であり、今、そういった人たちが必要とされる時代が来たのです。

これまでの世の中は、経済が大きく広がり物理的に豊かになり、そういった価値観一辺倒の、質を問わない時代でした。物の質は問われてきましたが、心の質は問われなかったのです。しかし、心の質が雑であれば、世の中全体が雑になります。人間関係も雑なら、物の本質も雑なのです。そして物があふれればあふれるほど、世の中が雑になっていきました。そこで、その切り換え時にはどういった意味があるのかということを考える必要があるのです。

ここには、たくさんの人が訪れます。以前は僕も、一人ひとりの人をきっちりと治してやろうという気持ちがありました。僕も一生懸命だったのです。しかし、その人の問題なのに僕の方が一生懸命になっていて、本人は熱心ではないというケースもありました。その人を改善するために、僕の方が何とかしようよと言っている。中には、自分がそうできないことの怒りを相手にぶつけてくる人もいました。そこで僕も、嫌ならやめたらいいんだよ、とどんどんシビアになっていきました。本人が求めれば、どこまでも付き合います。しかし求めない相手に付き合っていてはエネルギーがもったいないですから、それならば好きにしなさいと言うようになりました。それで最近は自分の方からエネルギーが出ていかないので、このように体に蓄積されてふくらんでしまいました(笑)。

何が言いたいのかというと、自分が一生懸命になれば道は開かれるということです。反対に、駄目だ駄目だとか、誰か救ってくれないかなと言って努力しない人には、道は開かれないということです。
自分の人生は、自分で歩んで開いていくものです。だからこそ、自らの中にあるものを積極的に出す。正直に出す。そして結果を素直に受け取る。「正直」という言葉がありますが、これは「正しく直る」ということであり、表に見えている姿勢が実際の自分の姿を表しているということです。外と内が違っていてはいけないのです。かっこいいも悪いも関係なく、いつでも本当の自分を出す。それはなかなか勇気のいることです。「正直」とは、今の実体そのものになるということなのです。

そして「素直」とは、素のままの本質に戻るということです。とかく人は、こういうふうに見せたいとか、こういうふうに受け取ってほしいというような思惑を持つものですが、本当は人間は楽になりたいのです。楽になるとは、負荷がかからない状態になるということです。「素直」とは、負荷のかからないリラックスした状態のことであり、顔と心が一致しているということです。
そう考えると、のぶくんの場合、知らない間に緊張して、こう見られるのではないか、ああ見られるのではないかと、心も体もとても緊張している状態ですね。そうではなく、「素直」というのは、負荷をかけずに実体のままにあるということです。

「正直」「素直」というのは、正直でなければ素直になれないし、素直でなければ正直になれません。これは連動しているのです。そしてもう一つ、「信じる」があるのですが、信じるというのは難しいのです。何故かと言うと、ここでの信じるというのは、本当がわからない状態でありながら信じて行くということを意味するからです。
例えば何かを始める時に、これは自分にとっていいことだと考えて、それがわかってからやろうとする人は、信じたことにはなりません。ほとんどの人は、これは間違いないと自分で納得してからことを始めるのですが、「信じる」というのは、納得できなくても、わからなくても進んでいけるということであり、自分の安心を何かに託せるということなのです。
それは、自分自身を、自分ではない何かに託せるということです。とてもハイレベルなことですよ。信じる心に至るには、勇気が要るのです。そしてそこには、わからなくても「そうだ」という確信が要るのです。木の花には『信じる心』という歌があります。「わからないけれど生きていく」「信じる心で生きていく」という歌詞が言っているのは、そこなのです。

かずえちゃん:
それは直観ですか。

いさどん:
そうです。「正直」で「素直」な心があるから勇気が生まれて、「信じる」になるのです。

 
信じる心

わからないけれど 生きている
信じる力で 生きている
わからないけれど 生きている
信じる心で 生きている

みんなで共に生きていることの この貴さを知らせよう
ひとりだと思い込んで生きている魂たちよ
みんなでつながっていることを思い出そう

わからないけれど 生きている
信じる力で 生きている
わからないけれど 生きている
信じる心で 生きている

砂に埋もれた希望の星を今 みんなで掘り起こして
空では星が歌っている つながっていると歌っている

わからないけれど 生きている
信じる力で 生きている
わからないけれど 生きている
信じる心で 生きている

 
いさどん:
信じる心は、勇気と確信がなければ持つことができません。そして「正直」「素直」「信じる」の3つは順番ではなく、セットなのです。
人にはそれぞれ、いろいろな心の癖がありますね。それを道理で伝えられた時に素直に聞いていくと、この人の言うことは本当だ、この人は私より私のことを知っている、だからこの人に賭けよう、という確信が生まれてきます。そうしたら、どんなに難しい病気でもたちどころに良くなります。その勇気と確信が信じる心になる期間が、木の花ファミリーの自然療法プログラムで言う、治療期間です。

実はこれまでは、現代的な医療の概念に浸かっている一般社会の人々には、こういった話はなかなかできませんでした。なぜなら、人々は、今自分が抱えている問題ごとは自分で解決するものではなく、人に託して解決してもらうものだと思い込んでおり、自らがそれを創り出したものだという解釈がないからです。ですから、自分は病気で、分析不可能な混乱の中に入っていると思い込んでいたのです。
しかし今、時代はこういったことまで皆さんに伝えられる段階になってきました。そして、物理的な問題ごとを生み出す自らの性質が客観的に観えてくれば、自ずと病気にもかかる必要がなくなるのです。なぜなら病気は、物事の本質が観えずに矛盾を発生させる自らの性質に対しての警告、もしくは気付きを促す作用だからです。

我々がこの世界に生まれてきて、なぜ問題事が与えられるのかと言うと、自らの魂にふさわしく、気付くために与えられています。それをどんどん素直に受け取って気付いていく人は、早い段階で自らの課題をクリアしていくことになります。特に子どものうちにこのような環境で育つと、初期の段階でクリアするのでさわやかな人生を生きられるようになります。そしてある段階から、自分ごとではなく、人の為に生きられるようになるのです。
皆さんも、今まで自分のことばかり考えて生きてきたということを振り返ったなら、まだ手遅れではないですから、ここから切り替えて、自らを人の為に役立てる人生を生きてください。そうすれば、誰もが希望を持って生きていくことができるのですから。

 
kalma

 
☆さてそれでは、どのように個々の人格を紐解いていくのか。
 詳細は、「1ヶ月間の真学校2017」へどうぞお越しください(^v^)ゞ